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陪餐者への質問

NO. 2268

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1892年8月7日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1890年6月1日、主日夜


「この儀式はどういう意味ですか」。――出12:26


 霊的な宗教においては、あらゆることが理解されなくてはならない。霊的でない、儀式主義的でしかないことなら、外的な形で満足する。ユダヤ教の経綸の下には、そうした方向への非常に強力な傾向があった。だが、それには、ある程度の歯止めがかけられていた。キリスト教信仰の下で、この傾向は全く許容されてはならない。私たちは、自分の行なうことの意味を知らなくてはならない。さもないと、益を受けられない。私たちは、あなたは何を信じていますかと尋ねられて、次のように答えた人の信仰を正しいものとは思わない。彼は教会が信じていることを信じていると云った。「ですが、教会は何を信じていますか?」 「教会はわしの信じてることを信じていまさあ」。「よろしい。ですが、あなたと教会は何を信じているのですか?」 「わしらは両方とも同じことを信じているんでさあ」。彼は、それ以上決して自分の考えを明らかにすることができなかった。私たちは、こうした云い回しを無知による空論とみなし、信仰の言葉とはみなさない。信仰は、自分の信じているものを知っており、自分のうちにある希望について、優しく、慎み恐れながら説明することができるのである[Iペテ3:23]。

 《過越》について、ユダヤ人の間の年少者たちは、両親にこう質問するよう励まされていた。「この儀式はどういう意味ですか?」 子どもたちは、今もこうした恵みに満ちた質問をするよう励まされるべきである。残念ながら彼らは、清教徒の時代ほどには、そうするよう促されていないのではないかと思う。清教徒たちは、説教の後で帰宅したときには、子どもたちに教理問答を教える時間を持つのが常であった。そして、どんな父親も話をよく聞いていなくてはならなかった。なぜなら、夕方には、自分の男の子や女の子に午前中に何を聞いたか質問しなくてはならなかったからである。また、その頃の子どもたちは今よりずっと話をよく聞いていた。なぜなら、彼らは彼らで両親の質問に答える用意をしていなくてはならなかったからである。あなたがたも、私たちの聖なる信仰に関わるあらゆることを理解したいという願いを子どもたちの中に涵養するがいい。

 私が本日の聖句を抜き出したこの章では、両親がいかに自分の子どもたちに答えるかが教えられている。無知な親にとって、子どもの発する質問は厄介なものである。自分の無知がさらけ出され、ことによると、自分の正体を突きつける無邪気な手段となった子どもが癪に障るかもしれない。では、福音の儀式が何を意味するか、あなたの子どもたちに教える用意をしておくがいい。バプテスマの意味を彼らに説明し、主の晩餐の意味を彼らに説明するがいい。そして何にもまして、福音の意味を説明するがいい。そして、言葉で平明にできる限り、彼らに知らせてやるがいい。いかにして私たちが救われ、罪を赦され、神の子どもたちとされるに至ったかという、この大いなる神秘を。

 私が思ったのは、もし神がそうする力を私に与えてくださるとしたら、利発な若者から発されると思われる、この質問に手短に答えるとすれば有益であろう、ということであった。「この儀式はどういう意味ですか?」――この儀式は、ある人々によっては「聖餐」と呼ばれ、時には「聖体祭儀」と呼ばれ、私たちの間では「主の晩餐」、あるいは、「パン裂き」と呼ばれている。これは何を意味するだろうか? 

 これは数多くのことを意味する。だが、手短に五つのことについて、ここでは語りたいと思う。

 この晩餐は、まず第一に、《1つの記念》である。

 もしもあなたが、代々の世代を通じて、何か1つのことに留意させたければ、多くのしかたでそれを試みることができよう。青銅の柱を建てても良いし、教会内にかけた真鍮の銘板にそのことを記録しても良い。だが、その柱は屑鉄屋に払い下げられるかもしれないし、真鍮の銘板は教会から盗み出されるかもしれない。すると、その記念物は消失するであろう。そうしたければ、大理石にそれを書き記しても良いが、この国の気候では、いずれにせよ、その碑文は消えてしまう見込みが非常に高い。他の石の場合、長持ちはするが、しばらくすると、何世紀にもわたるニネベやエジプトの財宝のように物を云わなくなるかもしれない。こうした記念碑は記録は保存するが、砂の下に隠されるか、町々の廃墟の下に埋もれてしまったのである。たといそれらがいま舌を持っていて、力強く口を利いているとしても、それらに託されたことは、それらが砂や、砂漠や、クユンジュクの王城跡の瓦礫の下に横たわっている限り、忘れられたままであろう。記念物を保存するしかたは他にもある。例えば、書物を書くことである。だが、書物は失われることがありえる。古代文明人の多くの貴重な著作は完全に消失し、何の写本も見つからない。旧約聖書の中で言及されたいくつかの書物は、霊感されてはいないものの、今の私たちが大いに尊ぶであろうものである。だが、それらは全くなくなってしまった。

 総じて、ある事実を覚えておく最上のしかたの1つは、それに関連した何らかの儀式を持つことであると分かる。しばしば執り行なわれて、その事実を記憶にとどめることになる儀式である。アブシャロムは決して忘れられることがないと思う。彼は、王の谷に自分のために一本の柱を立てた[IIサム18:18]。彼は自分自身の不名誉な人生を知っており、それが忘れられるのではないかと思った。誰もそれを覚えてなどいたがらなかったであろう。それで、彼は自分のために1つの記念碑を建てた。そして、そこにそれは立っている。あるいは、その記念碑だと評されているものが今日もそこにあり、その場所を通り過ぎるあらゆるアラブ人は、それに石を投げつけるのである。アブシャロムは、大理石に刻まれたいかなる記録よりも、彼の墓に石を投げつけるという儀式によって覚えられていることであろう。

 あなたの思いを無限に気高いものに向けると、キリストの死を思いにとどめるべき方法として、何にもまして確実かつ健全なのは、私たちが今晩行なうように、ある集会を開き、主の死を記念してパンを裂き、葡萄の果汁を注ぎ出すことだと思う。他の事実は忘れられることがあろうとも、この事実は決して忘れられることがありえない。今晩、そして毎週最初の日に、一万もの礼拝所で信仰者たちがともに集い、キリストの十字架と受難、その尊い死と埋葬を記念してパンを裂くのである。この大いなる事実は、決して思いから消え去らることがありえない。イエスは弟子たちに、「わたしを覚えてこれを行ないなさい」[ルカ22:19]、と云われた。主の命令に従って、あなたは、あなたの主を記念し続けるために最も効果的なことを行なっているのである。私は今晩、説教していく中で、私自身の言葉には、これっぽっちの頼りも置いていない。私が語り続ける中で願うのは、あなたがそれを実践することである。そして、次のように語った婦人のようになることである。彼女は、軽い重りと足りない枡についての説教を聞いたとき、家に帰ったときには説教者が何と云ったかは忘れてしまったと思った。彼女が思い起こしたのは、自分の枡を焼くことであった。それは、容量が足りなかったのである。そのように、もしあなたが、この説教を聞いてそれを実践することができさえすれば、それで良い。

 それから、思い起こすがいい。あなたが今晩この卓子のもとにやって来るのは、ひとりの不在の《友》を思い出すためであることを。イエスは出かけておられる。他の誰にもまして私たちを愛したお方は、しばらくの間、私たちのもとを離れておられる。時として私たちは、友人たちから別れの贈り物を受け取る。そして、彼らは私たちにこう云う。――

   「これを見るとき
    われを覚えよ」。

おそらく、この場にいるあらゆる人々は、色々な時に、何らかの思い出のよすがを手にしたことがあるであろう。海を越えたはるか彼方にいる、愛する誰かのことを思い出せる品々である。彼らは見えない所にはいるが、失念されてはいない。ならば、あなたが聖餐卓のもとに来るのは、あなたの不在の《友》を思い出すためである。

 また、あなたがここに来るのは、大きなこととして主の大いなる愛の行為を思い出すためでもある。この晩餐は、イエスが地上におられたときに、あなたのために行なわれたことの記念式である。「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」[ヨハ15:13]。主はあなたのために、そのいのちを捨ててくださった。それを今晩思い出すがいい。「主は私を愛し私のためにご自身をお捨てになった」*[ガラ2:20]。この事実をじっくり考えるがいい。次のような言葉を、あなたの心の中でこだまさせるがいい。「ゲツセマネ!」 「ガバタ!」[ヨハ19:13] 「ゴルゴタ!」 あなたは、そこでイエスがあなたのために苦しまれた一切のことを忘れられるだろうか? もしあなたが、こうした事がらを、僅かでもあなたの心の情愛から滑り落ちさせていたとしたら、来て、もう一度それらを銘記するがいい。この卓子のもとに来て、そこで主の愛と、傷と、苦悶と、あなたのための死との記念式を祝うがいい。

   「救いのきみの 愛を覚えて
    われら祝わん、神聖(きよ)き祭を。
    卑(ひく)く悔いたる 心(さが)の者みな
    迎(い)れらる客と なりぬべし。

   「信仰により いのちのパン受け、
    われらが魂(たま)は 養わるらん。
    また杯は 主の血 記念(おぼ)えん、
    罪人のため 流れし血をば」。

 またあなたは、愛する《友》を思い出すことも求められている。この《お方》は、離れて行きはしたが、あなたの仕事に取り組んでおられるのである。主は、もしや地上にとどまった場合にできたであろう以上の善を、今いる所であなたに施しておられる。今晩、あなたのために切々と懇願しておられる。主がおられなければ、あなたの仕事は失敗するであろう。だが、主をあなたから隠している幕の内側で、主はあなたのために嘆願しておられる。主の権威、主の威光、主の功績はみな、ふんだんに、あなたのために用いられている。主はあなたの魂を益するために嘆願しておられる。その主をあなたは忘れることができるだろうか? 忘れようというのだろうか? あなたは今、他のすべてのことを忘れて、あなたの誠実な《愛する者》、あなたの愛しい《夫》の甘やかな記憶にふけろうとしないだろうか? この《お方》は、永遠の結婚の契りによって、あなたと夫婦になっているのである。さあ、私は切に願う。この愛しい《友》の記念式を祝うがいい。

 またあなたは、じきに戻って来るであろう《友》を思い出すことをしなくてはならない。主は、ご自分が戻って来るまでの間だけ、このことを行なうよう告げておられる。主は私たちのもとに戻って来られる。主ご自身のおことばはこうである。「見よ。わたしはすぐに来る!」[黙22:7] これは、主が云われた通りの意味ではない。正確には、「見よ。わたしはすぐに来つつある!」、である。主は、こちらに向かいつつある。主の戦車は私たちのもとに急行しつつあり、その車軸はその疾走により真っ赤に焼けている。主は、可能な限り早く来つつある。神の寛容によって主は遅らされている。罪人たちが導き入れられるまで、また、神の選民たちの数が満たされるまで、遅らされている。だが、主が遅くなっているのではない。主が愚図愚図しているのではない。一部の人々がたるんでいると思うように、たるんでいるのではない。主はすぐに来つつある。あなたは主を思い出そうとしないのだろうか? じきに主の御手は扉にかかるであろう。いずれにせよ、あなたのために、主はこう叫ばれるかもしれない。「わが愛する者、美しいひとよ。さあ、立って、出ておいで」[雅2:13]。そして、すぐに主は地上の私たちの間においでになり、そのとき私たちは主とともに永久永遠に統治することになる。

 私は、私自身の心に、私の愛しい主を今晩、思い出すように命ずる。そして、私は切に願う。兄弟姉妹。主を思い出させようとする私の努力がいかに弱々しいものであっても、だからといって、自分の主キリストについて大いに考えるという幸いを、いま失わないようにしてほしい。静かに座って、他の一切の思念を去らせるがいい。そして、あなたを愛し、あなたのために死なれたお方のことだけを考えるがいい。あなたの思いをカルバリへ立ち戻らせるがいい。悲しみに沈んだ口調でこう歌いながら。――

   「おゝ、傷つきし みかしらよ、
    嘆き、痛みに うなだれて
    いかな蔑み もて巻かれん、
    ただ茨をぞ 王冠(かむり)とて!
    いかに青ざめ 苦悶(くるし)むや、
    いたき虐待(いた)ぶり 蔑(あざ)みにて!
    御顔(かんばせ)の華 いかに失せん、
    暁のごと 照りたるに!」

おゝ、涙に満ちた御目よ! おゝ、かつて血みどろの鞭で打たれた御肩よ! おゝ、かつて冷酷な木に釘づけられた御手よ! おゝ、かつてむごたらしい十字架に固く留められた御足よ! すぐに私たちはこの、私たちを愛し、私たちのために死なれたキリストを見るはずである。それゆえ、主を覚えてこの聖なる祭を祝おうではないか。

 しかし、私の第二の点についてはずっと手短に語らなくてはならない。主の晩餐の第二の意味は、《1つの展示》である。「あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです」[Iコリ11:26]。この晩餐によって供される象徴、表象、比喩によって私たちは、それを思い出すのを助けられる。いかにしてか? この晩餐の中に、何かキリストの死に似たものがあるのだろうか? 答えよう。大いに似たものがある、と。

 そこには主の裂かれたからだが、裂かれた、また、用いられるべきものとされたパンによって象徴されている。主のみからだは裂かれ、傷つけられ、痛めつけられ、死の手に渡され、墓所に横たえられ、亜麻布で巻かれ、その敵どもの考えによれば二度とよみがえることがないはずであった。その裂かれたパン――信仰を有する子どもたちでさえ一口で食べられるように裂かれたパン――のうちに、あなたは御民のために渡されたキリストのからだを見てとるのである。

 しかし、そこに杯が立っている。それは、葡萄の赤い果汁で満ちている。これは何を意味しているだろうか? 主ご自身が説明しておられるはずである。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です」[ルカ22:20]。さて、血を流すことは死の大いなるしるしである。何かを殺す話には、血を流すことがつきものである。事実、流血とは、普通、非業の死を遂げることを意味する。そして、そのように主は死なれた。人々は主の御手と御足を刺し貫いた。かの兵士は、その槍を主の御脇に突き刺し、そこから血と水が出て来た[ヨハ19:34]。その血の流れは、主が本当に死んだしるしであった。主はその血管から、ご自分の贖われた者を買い取るための、その尊いいのちを注ぎ出された。裂かれたパンと、杯の中に圧搾され、血のように赤い果汁のほか何も残さなかった葡萄の房との2つは、キリストの死を象徴しているのである。

 しかし、何にもまして、これは2つの異なる物事、パンと杯を展示するものである。話に聞くある人々は、このパンと葡萄酒を混ぜ合わせるという。それは主の晩餐ではない。他の人々は、彼らのいわゆる聖餅にはあずかるが、杯は放っておくという。これは主の晩餐を受けることではない。そこには2つとも、なくてはならない。ここにパンが、そこに葡萄酒の杯がなくてはならない。なぜなら、肉体と血が分離されていることこそ、最も確実な死のしるしだからである。「血は、そのいのちそのものである」*[レビ17:14]。そして、血が流れてなくなれば、そこにあるのは死である。それゆえ、血は杯によって象徴され、肉はパンによって象徴される。この2つの分離されたものは、キリストの死の大いなるしるしであり表象である。

 このようなしかたで私たちは、この卓子において私たちの主の死を示し、表わし、展示し、象徴する。私たちは、どちらの象徴にもあずかる。そのパンを食べ、その杯から飲むこと、私たちのいのちを維持するための務めを果たすことすべてである。この卓子において私たちは、あなたがた、キリストを知らない人たちすべてに云う。キリストの死は私たちのいのちであり、キリストの死を覚えることは私たちのいのちの食物である、と。もしあなたがたの中の誰かがこの儀式の傍観者であるとしたら、これが私たちの、実演による小説教の意味である。キリストは死なれた。キリストの死は私たちの私たちの信仰の支えであり、私たちの魂の食物である。そのしるしとして、私たちはこのパンとこの杯にあずかり、食べて、飲むのである。それで、この晩餐は、キリストの死の告知なのである。この場にいるどのくらい多くの人々が、キリストの死は自分のいのちであると云えるだろうか? あなたがたの中のどのくらい多くの者が、自分はキリストを養いとしていると云えるだろうか? 愛する方々。そう云えない限りこの卓子のもとに来てはならない。だが、そう云えるとしたら、来て、迎(い)れられるがいい。そして、もし云えないとしたら、おゝ! 願わくは主があなたにこの、ぜひとも必要な教訓を、この、ひとたび学びとったならば、ことのほかほむべき教訓を教えてくださるように。すなわち、十字架の上のキリストこそ、永遠の栄光に至る唯一の希望なのである。

 次に主の晩餐は、《1つの交わり》である。

 私たちはこのことを顕著なしかたで引き出さなくてはならない。さもなければ、非常に大きなものを失うであろう。私たちは、主の食卓に着いている。主のパンを食べ、主の杯から飲む。これは友情を示している。東方では、ある人があるアラブ人の塩を食べたとき、それ以後は彼の庇護の下に入る。そして、キリストのパンを霊的に食べた者は、キリストの守りの下に入る。キリストがその人を配慮してくださる。いかなる確執もやんでいる。両者の間には永遠の平和が打ち立てられている。ナタンが語ったのは心暖まるたとえ話であった。そこに出てくる人には、一頭の小さな雌の子羊があった。それは彼と同じ食物を食べ、同じ杯から飲み、彼のふところで休むのだった[IIサム12:3]。これこそ、あなたの特権である。キリストのふところで休み、キリストの杯から飲み、キリストのパンを食べる。これは非常に甘やかな交わりである。今晩それを心ゆくまで楽しむがいい。

 そこから先に進もう。というのも、私たちは単に主のパンを食べるだけでなく、象徴的に主を食べて大いに喜ぶからである。主の肉はまことの食物、主の血はまことの飲み物である[ヨハ6:55]。私は本当にキリストを食べることができるだろうか? 真実の意味では、しかり。肉的には、否である。主の肉を肉的に食べ、主の血を飲むなどということはない。それは、身の毛もよだつことである。それは人を食人族とすることである。だが、《受肉した神》を霊的に食べること、これが私たちの意味することである。主は私たちが食べるようにとご自分の肉を与えておられ、そのようにして私たちは最も強烈かつ神秘的な種類の交わりに入る。単に主とともに食べるのではなく、主を食べる。単に主から受けるのではなく、主ご自身を私たちの心のいのちとして受ける。願わくはあなたが今晩この点に到達するように! 私はキリストの現存を信じている。ローマカトリック教徒の云う肉的な臨在が正しいとは思わない。私は信仰者の現存を信じている。だが、その現実は、それが霊的なものであるにもかかわらず本物である。そして、霊的な人々だけがそれを識別できるのである。

 さて、愛する方々。もし私たちが本当に正しい霊でこの卓子に着くとしたら、私たちがこのパンを食べたとき、それは私たちの一部となる。葡萄酒が一口飲まれたとき、その葡萄の果汁は私たちの体質の中に入る。私たちはそれを自分から分離できない。そのようなものが、私たちのキリストとの交わりである。主は私たちと1つであり、私たちは主と1つである。「Quis separabit?」 「私たちを神の愛から引き離すのはだれですか」*[ロマ8:35]。私たちはキリストと1つである。キリストの共同経営者である。主がお持ちのものはみな私たちのものである。私たちの有するものはみな主のものである。主はご自分を私たちに与えておられる。私たちは自分を主に明け渡している。それはキリスト商会である。ただ、この小さな「商会」という文字が取り落とされて、すべてのすべてなる主の中に呑み込まれているのである。そこに、このパンと杯の意味がある。私たちはキリストを自分の内側に取り込む。それは、主が、より大きなご自分の中に私たちを取り込んでおられるのと同じである。

 しかし、交わりとは、私たちが互いに1つであることをも意味する。あなたにこの考えをつかんでほしいと思う。残念ながら、この場にいる一部の教会員たちは、自分と残りの教会員全員との結び合いを決して悟ったことがないのではないかと思う。「大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです」[ロマ12:5]。私たちの《主人》はただひとり、キリストしかなく、私たちは兄弟である[マタ23:8、10]。そこには親密な交わりの感情があるべきである。いつでも喜んで助け合い、愛し合おうとするものがあるべきである。喜ぶ者と一緒に喜び、泣く者と一緒に泣くがいい[ロマ12:15]。

 聖徒たちとキリストとの交わりと同じく、聖徒たち同士の交わり。私は、これこそ主の晩餐の非常に大きな意味をなすことだという考えを振り払うことができない。願わくは私たちが今晩それを享受できるように! 私としては、この卓子に着くときに、こう感じることを嬉しく思う。すなわち、私は単にこの教会と――いかに大きな教会ではあっても――だけ交わりを持つのでもなく、また、単に一教派の会員たちと交わりを持つのでもなく(私は、教派など何もないと良いと思う)、また、単にある1つの団体のキリスト者たちと交わりを持つのでもなく、――世界中にキリスト者たちの団体がたった1つしかなかったとしたら、どんなに良いことか!――むしろ、目に見える教会の何らかの部分に属しているあらゆる人を、はばかりなく招いているのである。私は、今晩この卓子において米国にいる兄弟たち、あらゆる名前、種類、年齢、身分の兄弟たちと交わりを持つことになると思って嬉しく感じる。キリストには2つの教会などありえない。1つの《教会》、1つの《かしら》、1つのからだしかない。主の家族には、何人か非常に腕白な子どもたちがいるが、彼らもこの晩餐から締め出されてはならない。彼らを懲らしめるには、何か別のしかたがある。そして、あるキリスト者と別のキリスト者との間に真の生きた交わりがあり、ここでしるされているものの実体を神が与えておられるとしたら、私はしるしを差し止めることなどしない。もし神が彼らにキリストとの交わりを持たせておられるとしたら、私は何者なのでこう云うのだろうか? 「あなたは私と交わりを持ってはならない」、と。そのようなことなど云えない。

 では、この晩餐の意味は、交わりである。

 しかし、主の晩餐の第四の意味は、《契約を固めること》である。私たちの主は弟子たちに云われた。「この杯は、わたしの血による新しい契約です」[Iコリ11:25]。私たちがこう歌うのも当然である。――

   「わがため裂かる 汝がからだ
    天(あま)より下る わがパンぞ。
    契約(ちかい)の杯 われは取り、
    かくて汝れをば 覚ゆべし」。

主の卓子のもとに行くとき、私たちは注意しなくてはならない。私たちはそこで、キリストを、契約における私たちの神として受け取る。私たちは、唯一の生ける神を永久永遠に受け取る。神はご自分を私たちにお与えになり、私たちは神を受けて、こう宣言する。「この方こそまさしく神。世々限りなくわれらの神であられる。神は私たちをとこしえに導かれる」[詩48:14]。あなたがたはひとり残らず、この契約の関係を理解しているだろうか? この一片のパンを取って食べ、この杯を取って、そこから飲むとき、何をすることになるか分かっているだろうか? もしあなたが真にキリストを信ずる信仰者だとしたら、神はキリストのからだと血とを通して、あなたとの契約の中におられ、あなたはそのほむべき真理を悟り、神をあなたの神とするのである。

 さて、その契約はこのように記されている。「彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる」[エレ24:7]。それゆえ、私たちがこの契約を固める卓子に着くとき、私たちは自分たちが主の民となることに同意するのである。これ以後は、悪魔のものでも、この世のものでも、私たち自身のものでもなく、主のものとなるのだ、と。主の民が懲らしめられるとき、私たちは彼らとともに懲らしめられることを覚悟する。主の民が迫害されるとき、私たちは彼らとともに迫害されることを覚悟する。私たちは、いかなることがあろうと彼らを自分のものとしていだき、死そのものさえ私たちを主の民から引き離すことがあってはならない。それが、このことを覚えてこの卓子に着くという意味である。あなたと神との間には、決して破られることのない協約、萬具(よろず)備りて鞏固なる契約[IIサム23:5]があるのであり、それによって神はあなたのものとなり、あなたは神のものとなるのである。そしてあなたは永遠に、全く神に属している人々のひとりとなるのである。

 ここ、聖餐台において、神は、契約の神は、私たちに対するご自分の愛に証印を押しておられる。「ここに来るがいい。わが子よ」、と主は仰せられる。「わたしはあなたを愛しており、わたしはあなたのために自分を捨てた。そのしるしとして、このパンをあなたの口に入れるがいい。いかにわたしがあなたのために自分を捨てたか思い出すために。わたしはあなたを愛している。それは、あなたがわたしのものとなるためである。わたしは、わたしの名をもってあなたを呼んだ。そのしるしとして、わたしはあなたに、わたしがわたしの尊いちによってあなたを買い取ったことを思い出させよう。それゆえ、その葡萄の果汁を一口あなたのからだの中に飲み下し、思い起こすがいい。多くの人のために流された、わたしの尊い血によって、わたしはあなたを、底知れぬ所へと下っていくことから贖い出したのだ」。その卓子の上には証印がある。その契約の新しい証印、新しいしるし、主からの新しい愛の贈り物がある。主があなたのために何をしてくださったかを、あなたに思い出させるためである。

 そして、あなたが今晩ここに来るべきなのは、神に対するあなたの愛を改めて証しするためである。ここであなたは云う。「私の《主人》よ。あなたとともに食事をさせてください」。もしあなたがたの中の誰かが初めの愛[黙2:4]を失い、霊的に冷たくなってしまっているとしたら、《救い主》は戸の外に立って叩き、「戸をあけておくれ」[雅5:2]、と仰せになる。そして、こうも云われる。もし私たちが戸をあけるなら、主はお入りになり、私たちとともに食事をし、私たちも主とともに食事をする、と[黙3:20]。主がそう云われたのは、あのラオデキヤの教会に対してであった。あの、冷たくもなく熱くもないために、御口から吐き出されると脅かされた教会である。もしあなたが、キリストの胸を悪くするしかない者であったとしても、もしあなたが主に対して戸を開けるなら、主はやって来て、今晩あなたとともに祝宴に列し、あなたには何の問題もなくなるであろう。主は、あなたに対するご自分の愛を証ししておられる。来て、主に対するあなたの愛を今晩証しするがいい。これが、このパンとこの杯の意味である。死とのあなたの契約は破られている。地獄とのあなたの協約は完全に取り消されている。そして今や、あなたは神との契約関係にあり、神はあなたとの契約関係にある。それは、決して破られることのない、永遠の契約にほかならない。

 最後に、そしてごく手短に、この晩餐は、《1つの感謝》を示している。これは、難解な言葉を愛する友人たちによって、しばしば「聖体祭儀」と呼ばれる。ある友人たちは、常に金の鉛筆を持ち歩き、誰も理解できないような言葉を残らず書き留めることにしている。それを次の日曜の自分たちの説教で使えるようにするためである。そうした人々は、主の晩餐を「聖体祭儀」と呼ぶ。これは、「感謝をささげること」を意味する。これは、神の《教会》の感謝礼拝なのである。これは毎主日に祝われるべきである。あらゆる安息日は感謝の日曜たるべきである。というのも、イエスは週の初めの日に死者の中からよみがえられたからである。そして私たちは主の復活を祝うたびに感謝をささげるべきである。確かに私たちは主の死を祝うときにそうすべきである。感謝という点で、今晩私たちは何をすることになるだろうか?

 よろしい。私たちは、葬礼にではなく、祭礼に来ようとしている。ユダヤ教信仰のえり抜きの祭礼は《過越》であった。主の晩餐は、いや高い喜びをもって、その代わりとなっている。私たちがこの饗宴にやって来るのは、キリストにある私たちの喜びを証しするためである。卓子の上にはパンがあるが、葡萄酒もある。これは、それが喜びと楽しみのための祭であることを示すためであり、あなたが何にもましてキリストを賛美し、キリストに感謝をささげたければ、キリストにあって喜ばなくてはならない。あなたの感謝に満ちた喜びによって主を賛美するがいい。私たちは、常に深い畏敬の念をもって主の卓子に着くべきだと思う。だが、その畏敬は決して奴隷の念に傾くべきではない。私たちは、あなたがここに震えおののきながらやって来ることを望まない。奴隷が、鞭で打たれるのを恐れながら、自分の主人のパンを一口食べに来るようにしてやって来てほしくはない。否、否。来るがいい。あなたがた、子どもたち。来るがいい。あなたがた、主に愛されている人たち! 来るがいい。あなたがた、キリストと同じ釜の飯を食する人たち。主が用意された祭礼の席に着き、あなたの喜びを感謝で満ちあふれさせるがいい!

 次に、私たちがこの卓子に着くのは、実際、キリストを私たちに与えてくださったことについて主を賛美するためである。私たちの主がパンを裂いたとき、主は感謝をささげられた。私たちも今晩そうすべきである。来るがいい。あなたがた、愛する方々。キリストという賜物ゆえに、感謝をもって御父を賛美するがいい。そして、このパンをあなたの口に持っていくときには、心の中で、「主はほむべきかな!」、と云うがいい。また、この杯から飲むときには、あなたの霊の中で、「主の聖なる御名はほむべきかな!」、と云うがいい。御父は、私たちに対するその永遠の愛ゆえにほむべきかな。イエスは、その愛ゆえにほむべきかな。その愛が私たちを救い、こうした一切の尊い事がらを知らせてくれたのである!

 私たちがキリストに対する自分たちの感謝を示す1つのしかたは、主の死の表象を感謝とともに受け取ることである。私たちともに聖餐を受けるあらゆる人は、このパンを受け、それを食べ、この杯を取り、それを飲む。私たちはそれを捧げ持ったり、仰ぎ見たりはしない。膝まずいたり、敬意を表したりはしない。ただ受け取る。私たちは、この長年の間そうしてきた。私たちがこの聖なる祭を始めてからどのくらいになるだろうか? よろしい。私たちの中のある者らの場合、最初の聖餐式以来四十年以上にもなるが、これ以上の食物を私たちは欲していない。私たちは同じキリストを記憶に留めたいと願い、同じ受肉と贖罪の犠牲との教理に養われたいと願っている。そして、もし私たちがもう四十年の寿命を許されるとしたら、愛する方々。それはまずありそうもないことではあるが、私たちは、いま有しているよりもさらに甘やかにキリストを好むことであろう。主は私たちにとって、今晩そうあられるよりも、いやまして愛しく、いやまして尊く、いやまして喜ばしくなられるであろう。それで私たちは、何度も何度もこの卓子に着いて受け取ることによって、私たちの感謝を示すのである。

 この聖餐式が終わって、あなたがこの卓子を離れるとき、あなたの耳にこう囁かせてほしい。「愛する方々。どうかあなたの主であり《主人》であられる《お方》がしたのと同じ霊をもって、この場を離れるがいい。主は、晩餐の席から立ち上がると、園に出て行かれた。そこで神との孤独な交わりという甘やかな時を持つためではなく、そこで血のしずくのような汗を血に落とすためであった。主がそこに行かれたのは逮捕され、アンナスの法廷に、またカヤパや、ピラトや、ヘロデや、その他の者のもとへとせき立てられるためであった。主がそこに行かれたのは、事実、死ぬためであった。だが、主は歌いながら出て行かれた」。そのように、あなたは、この聖餐式から神への賛美を歌いながら出て行ってほしい。私の愛する兄弟が祈りの中で云ったように、あなたにはあなたのゲツセマネ、あなたのゴルゴタがあるに違いない。だが、私はあなたがこの卓子から歌いながら席を立ってほしい。何が来ようと、高かろうが低かろうが、明るかろうが暗かろうが、天国が来ようが、もう一時代この暗い荒野で過ごすことになろうが、兄弟たち。歌おうではないか。私たちは、「祈ろうではないか」、としばしば云うが、今晩、この卓子において、私は云おう。「歌おうではないか」。主に向かって歌おうではないか、私たちの対するその大いなる賜物ゆえに。私たちが今晩、思い起こし、明らかに示し、交わりを持ち、契約を固めた賜物ゆえに。私たちの生きる限り、主に向かって歌おうではないか。というのも、私たちは決して、主が私たちのためになさったすべてのことについて、十分に主を賛美することができないからである。

   「われらは称えん よみがえし主を
    御足のもとに われらの伏すまも
    主の嘆きこそ 神聖(きよ)きみうたぞ、
    妙なる調べに ふさわしき」。

このようにして私は、主の晩餐についてすべてを説き明かしてきた。あなたは、それについて何かを知っているだろうか? あなたがたの中のある人々は帰って行く。あなたがたは帰って行く! しかり。だが、いずれ来たるべき日に、あなたはどこへも帰るべき所がなくなるであろう! かの大いなる婚宴が広げられ、恵みを受けた者たちの饗宴が催され、全宇宙が集められるとき、おゝ! あなたはどこへ帰ることになるのか? あなたは、戸の外に愚図愚図していることを許されず、家に帰り、その祭礼から他の人々が戻ってくるのを待つこともないであろう。あなたは、キリストに対する信仰によって、その大いなる祭にやって来ない限り、神の御前から追い出されなくてはならない。御使いの守備隊が燃える剣を鞘から抜き放ち、永遠の暗黒の闇の中を通ってあなたを追い立て、無限の絶望へと突き落とすであろう! 主が今晩あなたをあわれんでくださるように。かの日にあなたがあわれみを受けられるように。イエスのゆえに! アーメン。

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陪餐者への質問[了]

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