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死からいのちへ

NO. 2267

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1892年7月31日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1890年3月13日、木曜日夜


「神が生かしてくださったあなたがたは、自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって」。――エペ2:1 <英欽定訳>


 見ての通り、英欽定訳の翻訳者たちは、「神が生かしてくださった」、という語句を挿入している。なぜなら、パウロが少し先の所でそうした意味の言葉を差し挟んでいるからであり、読者がその意味をとらえきれないこともありえたからである。彼らは単に、4節、5節の言明を見越して語っているにすぎない。「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし……てくださいました」。

 ここに肝心な点がある。神は、私たちを生かしてくださった。罪過と罪との中に死んでいた私たち、霊的に死んでいた私たちを。私たちは、律法とは、あるいは、神の聖さとは、まるで反するあらゆる事がらに向かう気力が横溢していた。この世の流れに従って歩んでいた[エペ2:2]。だが、霊的なことについて云えば、単にいささか能力に欠けていたとか、いささか虚弱だったというのではなく、現実に、絶対的に死んでいた。私たちには、霊的な物事を把握するいかなる感覚もなかった。見ることのできる目も、聞くことのできる耳も、感じとることのできる力もなかった。

 私たちはみな、ひとり残らず死んでいた。だがしかし、みなが同じ様子をしていたわけではない。たとい死が一定数のからだに行き渡っていても、個々のからだは非常に異なって見えることがありえる。戦場に横たわっている死人は、犬や鳶によってかきむしられ、野ざらしのまま腐り果て、朽ち果て、いかに身の毛もよだつ姿をしていることか! そちらの死体は、まだ生きているかのように見える。だが、棺桶に収められた、あなたの愛する者は、戦場で叩き潰されている死体と同じくらい死んでいる。腐敗はまだ進行しておらず、心尽くしの処置により、そのからだは、やがて確実に来るべきものからまだ守られてはいる。だが、そのどちらの場合にも同じように死がある。確実な、完全な死がある。

 そのように、私たちの知る多くの人々は愛らしく、愛すべき、道徳的に立派な様子をしている。《救い主》がご覧になって、いつくしまれた青年のようである[マコ10:21]。だが、結局のところ彼らは死んでいる。私たちの知る他の人々は酔いどれで、俗悪で、猥褻である。彼らは死んでいる。他の人々以上に死んでいるわけではないが、彼らの死はそのすさまじい爪痕を、よりあからさまに示している。罪は死を生み出し、死は腐敗を生み出す。私たちが腐っていたかいないかという問題を、ここで持ち出す必要はない。いかなる人も、腐れ具合は自分で判断するがいい。しかし私たちが死んでいたことは何よりも確実である。たとい敬虔な両親にしつけられ、福音の基本的理解を教えられ、満ち満ちた敬神の念で取り巻かれていたとしても、私たちは死んでいた。町通りの遊女と同じくらい死んでいた。牢屋に入っている盗人と同じくらい死んでいた。

 さて、この聖句が私たちに告げるところ、私たちは死んでいたが、キリストが来てくださり、その御霊によって私たちを墓の中からよみがえらせてくださったのである。この聖句は、私たちに復活祭の訪れをもたらす。復活について歌う。私たちの耳に新しいいのちの喇叭を鳴り響かせ、私たちを喜びと楽しみの世界へと導き入れてくれる。私たちは死んでいた。だが神の御霊によって生かされた。ここでしばし私は立ち止まり、話をお聞きの愛する方々。あなたが生かされたかどうかを確かめずにはいられない。また、こう祈らずにはいられない。私がこれから語ることが、一種のふるいとして働き、本当に生きている者と、自分が生きていると信じているだけの者とを切り離すようにと。それは、もしあなたが生かされておらず、単に「着飾りし 天性(ただ)の子」でしかなく、霊的には生きていない場合、あなたがそれを自覚するようになるためである。もしあなたが生かされているとしたら、たといあなたのいのちは微弱でも、あなたは生ける神に、「アバ。父」、と叫んで良い。その叫びは、聖霊によって触れられ、生かされた唇からしか出てこない。

 第一に少しばかり語りたいのは、《私たちが生かされること》についてである。あなたがた、すでに生かされている人たちは、私の云うことを理解できるであろう。そうでない人たちにとって、たぶんこれは、たわごとのように思われるであろう。

 よろしい。愛する方々。もし私たちが生かされているとしたら、私たちは上から生かされた。「《神が》生かしてくださったあなたがたは」。神ご自身が、私たちを扱われた。神が私たちを死者の中からよみがえらされた。神は最初に私たちを造られた。そして私たちを新しく造られた。神は私たちが生まれたときにいのちを与えてくださった。だが、今や、いや高いいのちを私たちに与えておられる。他のどこにも見いだせなかったいのちである。いかなる場合も、それを与えるのは神でなくてはならない。いかなる人も自分で自分を生かすことはできない。いかなる説教者も、いかに熱心であっても、聴衆をひとりも生かすことはできない。いかなる親も、いかに祈り深くとも、また、いかなる教師も、いかなる涙をもってしても、子どもをひとりも神に対して生きた者とすることはできない。「《神が》生かしてくださったあなたがたは」、は、生かされている者すべてに当てはまる。それは天来の火花、大いなる中天の光の《太陽》、かの偉大な光を造られた父[ヤコ1:17]から出た光である。私たちはそうだろうか? 私たちには、天来の感触、超自然的な精力、人間のいかなる学識や、いかなる知恵や、いかなる敬虔さも決して私たちの中に作り出せない何かがあるだろうか? 私たちは上から生かされているだろうか? そうだとしたら、たぶん私たちは、その何がしかを覚えているであろう。それを描写することはできない。いかなる人も自分の最初の誕生を描写できない。それは神秘のままである。また、人は自分の新しい誕生をも描写できない。それは、一層大きな神秘である。というのも、それは聖霊の隠れた内的なみわざであり、それについて私たちは、その効果は感じても、いかにそれがなされたかを告げることはできないからである。

 普通、天来のいのちがやって来るとき、私たちが生かされたのを最初に意識するのは、ある痛みの感覚によってだと思う。聞くところ、人が溺れて、死の力の下に置かれている間、その人はほとんど、あるいは、全く何も感じず、ことによると、心地よい夢すら見ているかもしれないという。だが、その人を蘇生させようとする過程で、人々がその人のからだをこすり、血液を巡り出させ、いのちを少し回復させると、その人は刺すような、激しい痛みを意識する。いのちがその人に戻ってくる徴候の1つは、その人が快い眠りの中から目覚めて、痛みを感じることである。溺れかけてから息を吹き返した人がみなそうなるかどうか、私は知らない。だが、罪という川で溺れてから蘇生させられたあらゆる人について、これは同じだと思う。いのちがその人にやって来始めるとき、その人は、以前には一度も感じたことがないように感じる。快かった罪が、その人にとってはぞっとするような恐怖となる。安楽だったものが、茨の寝床となる。もしあなたが生きた激痛を感ずるとしたら、話をお聞きの愛する方々。神に感謝すべきかな。良心が麻痺し、地獄の業火で硬化されて鋼鉄のようになるのは、すさまじいことである。意識があるということは、非常なあわれみである。たといそれが、痛ましい意識でしかなくとも関係ない。たとい内なるいのちのあらゆる動きが、あなたの魂を切り刻むように思われてもそうである。この天来のいのちは、通常は痛みとともに始まる。

 それから、あらゆることがあなたを驚かせる。もしもある人がそれまで決して生きていたことがなく、いきなり成人として人生を始めるとしたら、何もかもが、幼児にとってそうであるように異様に思えるであろう。そして、霊的な領域に新しく生まれた人にとっては、その領域内のあらゆることが異様であろう。その人は百度もぎょっとさせられる。罪は、罪として見える。その人にはそれが理解できない。以前も罪を眺めたことはあったが、決してそれを罪として見てとったことはなかった。そして今やキリストは、その人にとって非常に栄光に富むお方に見える。以前もキリストについて聞いたことはあったし、ある程度はキリストについて理解してはいたが、今やその人は、かつては見とれるような姿も、輝きもない[イザ53:2]と云っていた《お方》が、結局、圧倒的に麗しいことを見いだして驚倒する。新しく生まれた魂にとって、あらゆるものは驚きである。いつまでたっても、まごつくばかりである。その人は多くの思い違いをする。あらゆることが新奇だからである。御座に着いておられる方は仰せになる。「見よ。わたしは、すべてを新しくする」[黙21:5]。そして、その更新された人は云う。「わが主よ。まさにその通りです」。教会に加入しようというある人が、私にこう云った。「私が新しく造られたか、さもなければ、世界が以前とは完全に様変わりしたかのどちらかです。何かが変化してしまったのです」。そして、その変化とは、死からいのちへの変化、暗闇から神の驚くべき光への変化である。

 さて、いのちが、このように異様な驚きとともに、また痛みと混ぜ合わされてやって来るのと同じく、愛する方々。それはしばしば、多くの疑問とともにやって来る。子どもには、尋ねるべきことが一千もある。子どもは、あらゆることを学ばなくてはならない。子どもたちがその目を使えるようになる前にすら、いかに幾多の試みを経なくてはならないか、私たちはほとんど考えもしない。彼らは、物が遠くにあることが分からない。何度も眺めることによって、その事実を学ばなくてはならない。物体が網膜に映ずる限りそうである。その子は、それが遠くにあるのか、近くの物体か、少し経つまでは意識しない。あなたや私が生まれたときから分かっていると思っていることも、実はそのように分かっていたのではない。私たちはそれを学ばなくてはならなかったのである。そして、ある人が神の国に生まれるとき、その人はあらゆることを学ばなくてはならない。その結果、もし賢い人であれば、その人は年長の、より賢い信仰者たちにあれこれと質問する。私は切に願う。あなたがた、すでに教えを受けており、父たちとなっている人々は、恵みにおける幼子たちがあなたに、どれほど馬鹿げた質問をしても決して笑わないでほしい。彼らが質問するのを励まし、彼らの腑に落ちない点を云い表わさせてほしい。あなたがたは、神の恵みによって成人している。この小さな者は、生まれたばかりの幼子にすぎない。その人が云うことを聞くがいい。あなたがた、母たちは、あなたの小さな子どもたちに対してそうしている。あなたは、彼らが云うことに興味を持ち、嬉しがり、面白がる。そのように、教えを受けた聖徒たちも、新しく生かされたばかりの人たちを扱うべきである。彼らは私たちのもとにやって来ては尋ねる。「これは何ですか? あれは何ですか? もう1つのことは何ですか?」 それは質問する時期、問いかけの時期なのである。それはまた、イエスの足元に座る時期でもあれば良いと思う。というのも、生まれたばかりの信仰者にとって何にもまして安全な場所は、イエスの足元だからである。もしその人が誰か他の人の足元に至るとしたら、あらゆることによって判断力がゆがめられ、この上もなく印象を受けやすい時期に、多くの誤った教えを受けることになる。また、もしその人が他の人々の間違いを模倣するとしたら、自分の犯した間違いをそう簡単には忘れられなくなる。このようにして、天来のいのちが魂の中にやって来るとき、何が起こるか分かるであろう。それは私たちのもとに痛みとともにやって来る。私たちに多くの驚きをもたらす。そして、数多くの疑問を思い浮かばせる。

 それから私たちは、以前は決して行なおうとしなかった事がらを数多く行なおうと試みるようになる。神から新しく生まれた子どもは、ある意味で、人間の新生児に非常によく似ている。そして、しばらくすると、その子どもは歩き始める。否、そうではない。腹這いで進み始める。最初から歩きはしない。這って行く。そてし、少しでも前に進むと喜ぶ。そして、それがその小さな足で立つようになると、ある椅子から別の椅子へと伝い、一歩一歩ゆらゆら揺れたかと思うと、尻餅をつく。しかし、もう一度立ち上がり、そのようにして歩くことを学んでいく。あなたは、新しいいのちが自分にやって来たときのことを覚えているだろうか? 私は覚えている。私は、その新しいいのちの最初の一週間を覚えており、また、次の安息日、いかに自分の魂の救いとなった福音を聞いた場所へと出かけたかを覚えている。私はそこに定期的に集うつもりだった。しかし、その週の間、私は非常に多くのことを試してみては、何度となく転がり落ちていた。説教者は、その日、この主題聖句を取り上げた。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」[ロマ7:24]。私は思った。「そうだ。こうしたことはみな知っている。これは私のことだ」。だが説教者が、パウロはこの言葉を書いたときキリスト者ではなかったのだと云ったとき、私は天来の事がらについて七日間分の経験しか積んでいなかったが、それよりは物を知っていた。それで、それ以後二度とそこには行かなかった。私は知っていたのである。キリスト者以外の何者も、あれほど痛ましい呻きとともに罪に対して叫び声を上げることはできないし、そうしようとも思わないはずだということを。また、もし神の恵みがその人の中になかったとしたら、彼は満足して安んじ、満ち足りているだろうし、もし罪がぞっとするほど恐ろしいものだと感じており、それゆえ自分がみじめな人間で、そこから救い出されなくてはならないと感じているとしたら、確かにその人は神の子どもであるに違いないことを。特に、その人がこう云い足せたとしたら、そうである。「私たちの主イエス・キリストのゆえに、私たちに勝利を与えてくださった神に感謝します」[ロマ7:25 <英欽定訳>]。

 愛する方々。私たちは多くの間違いを犯すし、これからもそうし続けるはずである。それと同時に、私たちは自分の経験によって学ぶ。あなたも、自分が祈り始めたときのことを覚えているであろう。あなたは、自分の最初の祈りを印刷されたいだろうか? 私の信ずるところ、神は多くの集祷文よりも、それの方をお好みになるであろう。だが、あなたはそれをそれほど好まないかもしれない。それは印刷されれば、それほど良くは見えないであろう。また、あなたは、自分が最初に友人に対してキリストを告白し始めたときのことを覚えている。おゝ、あなたは口ごもり、どもりながらそうした! そこには言葉よりも涙の方が多くあった。それは、無味「乾燥」な告白ではなかった。あなたは、それを嘆きと悩みの涙でよく湿らせた。それは、この新しいいのちが、まだ自分でも得ていないものに、大いに力を込めようとしていたのである。そして、私の信ずるところ、神の子どもたちのある者らが有している種々の力は、彼らがそれを用いてみようとするとき初めて見つかるのである。私は、あなたがた、祈祷会で祈ろうとしない一部の若い人々が、祈ることを始めてみてほしいと思う。また、あなたがた、それよりも年取った人々の中のある人々は、ことによると、まだ一度も説教したことがないかもしれない。だが、試してみれば、あなたにもできるかもしれない。そうしてみてほしい。「私はガタガタになってしまうでしょう」、とある人は云うであろう。そうなってほしい。説教者をガタガタにするような破壊的な説教は、人々をもガタガタにするかもしれない。そうした種類の講話には、多くの利点がありえる。

 では、こうしたことがこの新しいいのち、霊的ないのちが私たちの中にやって来るしかたであった。私たちは、それがやって来たとき、それが何であるか分からなかった。そのように感じたことは一度もなかった。私たちが本当に死からいのちへ移ったとは思えなかった。だがしかし、振り返って見ると私たちは確信するものである。あの内側の激痛、心の苦悶、切望、そして嘆願、格闘、叫びは、決して死んだ心の中にはなく、神が私たちを生かしてくださったという、また、私たちが新しいいのちに移ったという確かなしるしだったのだ、と。

 さて、第二に、《私たちの現在のいのち》について考えよう。よろしい。では、私たちには新しいいのちがある。このいのちは私たちにいかなる影響を及ぼすだろうか? 恵みによって生かされた者がどうなるかを私はあなたに語るであろう。

 よろしい。最初に私たちは、今や神を直覚するようになっている。未回心の人は、神の世界の中で生き、神の数々のみわざを見、神のことばを聞き、神の日に神の家に通いながら、しかし何らかの神がいるのかどうか分からない。ことによると、いると信じているかもしれない。そう信じるよう育てられたからである。だが、神を認識してはいない。神はその人の中に入っておられない。その人は神と接触したことがない。キリストにある愛する兄弟姉妹。あなたや私はこう云えると思う。私たちにとって世界中で最も確かな事実は、神がおられるということである、と。神がいない? 私は神の中で生きているのである。海の中の魚に、水などないと告げてみるがいい。神がいない? 息をしている人に空気などないと告げてみるがいい。神がいない? 私は神に語りかけることなしに朝、食堂に降りてこようともしないのである。神がいない? 私は夜、床で目を閉じる前に、聖霊によって私の心に注がれている神の愛をいくばくか感じないことなど思いもしないのである。「おゝ!」、とある人は云うであろう。「私は五十年生きてきましたが、全く神など感じたことがありませんよ」。それは、五十年間死んでいたと云うべきである。その方が真実に近い。しかし、もしあなたが聖霊によって生かされたとしたら、五十分もしないうちに何にもまして明らかになる第一の事実は、神がおり、神は私の御父であられ、私は神の子どもだということであろう。今やあなたは神の渋面や、神の微笑み、神の脅し、神の約束を直覚するようになっている。あなたは神を感じる。神の臨在はあなたの霊に鮮明に焼きついている。あなたの心そのものが神を畏怖して震え、あなたはヤコブとともに云う。「まことに神はこの所におられる」[創28:16参照]。これが霊的いのちの1つの結果である。

 さて、あなたはまた、他の人々のうちにある同類のいのちに共鳴するようにもなっている。あなたがたには大きな広がりがある。というのも、神のいのち、神の新しく生まれた子どもにある神のいのちは、あらゆるキリスト者のうちにあるのと同じいのちだからである。生まれたばかりの信仰者のうちにあるいのちは、神の御座の前に立っている、彼方の輝かしい霊たちのうちにあるものと同種のものである。キリストのいのち、神のいのちは、私たちが、罪のうちにある私たちの死から生かされた瞬間に、私たちの中に吹き込まれる。神と共鳴する者となるとは、何と素晴らしいことであろう! 神が願われることを私たちも願う。神はその御子を愛されるし、私たちも神の御子を愛する。私たちは神の御国が来るのを神と同じように見たいと願い、神のみこころが天においてと同じく地上でもなるようにと祈る。私たちは死がとどまらないことを欲する。古い性質は私たちの邪魔をするが、新しいいのちが本当に私たちのうちにある度合に正比例して、私たちは今や神と平行している。神がお喜びになる聖さを私たちは憧れ求める。等しい歩幅ではないが、よちよち歩きで私たちは、神がご自分のために選ばれたのと同一の通り道をついて行く。「私の魂はあなたに付き従い、あなたは右の御手で私を支えてくださいます」[詩63:8 <英欽定訳>]。

 私たちを神と、また、聖なる御使いたちと、また、聖なる人々と、また、上から来るあらゆることと共鳴させた新しいいのちは、私たちが大きな楽しみを持てるようにもする。いのちは普通、楽しみを持てるものだが、新しいいのちは、思い描ける限り最高の楽しみを持つことができる。いかなる不敬虔な人も、信仰者の霊をしばしば満たす喜びについては、全く思い描けないに違いない。もし世俗の人々が、神のそば近く生きること、また、その御顔の光に浴することの至福について知ることができさえしたら、彼らは自分たちの富を海に投げ捨てるであろう。また、自分たちには決して買うことができず、ただ、愛する御子に信頼するすべての者に神が与えてくださるこの喜びを一目垣間見さえするなら、その一万倍もの富さえ放り出すであろう。私たちは常に同じようではない。悲しいかな! 私たちは非常に変わりやすい。だが、神が私たちとともにおられるとき、また、日々が霊的に輝かしく長くなるとき、また、自分の天的な至福の真夏に入ったとき、私たちは御使いとも入れ替わりたいとは思わないであろう。次第に自分たちが、彼ら以上に御座に近づくことを知っているからである。また、彼らが、神の名誉あるしもべたちではあっても、私たちのように愛されている子どもたちではないからである。おゝ、時として私たちの霊を駆け抜ける、胸躍るような喜びよ! 私たちは、ほとんど歓喜のあまり死んでも良いほどになることがあった。そのときの私たちは、神を愛する者のために、神の備えておられる栄光に富む事がらを悟っていたのである。この喜びは、私たちが新しいいのちを受けるまで決して知ることがなかった。

 しかし、私はこうつけ加えなくてはならない。私たちは、かつては全く無縁であった鋭い痛みを覚えることがあるようにもなっている。神は私たちの良心を、瞳のように敏感なものとされた。私たちの魂を、生傷のように繊細なものとされた。それで、信仰者の心に罪の影でも落ちかかると、それは激しい痛みを引き起こす。そして、それが現実の罪へと進むと、信仰者は、ダビデのように、自分の骨々が砕かれたと語り[詩51:8]、それは、罪が犯され、神が悲しまされるとき信仰者の心に押し寄せる悲しみの比喩としては決して誇張ではない。そのときには、心そのものが砕かれ、一万もの傷口から出血する。それでも、これは、私たちが新しいいのちを有している結果の1つなのである。そして私は云いたいが、霊的いのちのいかに激しい苦痛でさえ、肉的ないのちの最高の喜びよりもましである。信仰者が最悪の状態にあるとき、その人は最高の状態にある不信者よりもましである。信仰者が幸いを覚える理由は、常に、世俗の人々が知ることのできる、いかなる喜びのための理由をも超越して高いものなのである。

 さて、愛する方々。もし私たちが霊的いのちを受けているとしたら、あなたは私たちがいかなる広がりの存在か、いかに私たちが第七の天まで上ることも、深淵の中に沈み込むこともできるかを見てとるであろう。この新しいいのちによって私たちは、神とともに歩くことができるようになる。それは、壮大なことである。私たちは、神とともに歩んでいるエノクについて語り、彼の生涯の聖さを眺める[創5:24]。だが、誰か彼の生涯の荘厳さについて考えたことのある人はいるだろうか? いかにして神はお歩きになるのだろうか? 神の歩みについて思い描くには、ミルトン並みの詩人でなくてはならない。だが、天来のいのちを持つ人は、神とともに歩くのである。そして、時としてその人は高山から高山へ、大洋から海原へと踏み歩くように思われ、助けを受けなければ決して試みようともしなかったであろうことを成し遂げて行く。天来のいのちを持つ人は無限の領域に高く掲げられる。その人は、聞くことができないものを聞くようになり、見ることができないものを見るようになる。というのも、「『目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。』神はこれを」、私たちに新しいいのちをお与えになったとき、「御霊によって私たちに啓示されたのです」[Iコリ2:9-10]。

 この天来のいのちの1つの効果は、私たちの行なう一切のことにいのちをこめることである。人々は私に、「信条など死んでいます」、と云う。しかり、しかり! 正直な告白を聞くのは嬉しいことである。信条は、死んだ人にとっては死んでいるのである。私は、棚の上に置きっ放しにしておけるような、いかなるものをも真理として奉じはしない。私の信条は私の存在の一部である。私はそれを真実であると信じている。そして、それを真実であると信じつつ、その生きた力が日々私の性質に及ぼされているのを感じている。ある人があなたに、自分の信条は死んだものだと告げるとき、一瞬たりともそれを否定してはならない。そこには疑いもなく事実がある。その人は、自分のことをあなたよりも良く知っているのである。おゝ、愛する方々。私たちは決して死んだ信条を持たないようにしよう! あなたは、自分が信じていることを、とことん信じ抜かなくてはならない。それを生き生きと信ずるがいい。真実に信ずるがいい。文字面だけでしか信じられておらず、その力が感じとられないようなものは、まるで信じられてはいないからである。

 もしあなたが神の御霊によって生かされているとしたら、あなたの祈りは生きた祈りである。おゝ、何と多くの死んだ祈りが寝床の傍らで聞かれることか。何と多くの善良な言葉が駆け足で口走られることか! 神に対して生きている人は、自分の欲することを願い求め、それがかなえられると信じ、それを手に入れる。それが生きた祈りである。死んだ祈りに用心するがいい。それは《いと高き方》を馬鹿にすることである。私は、生きた人が常に時計仕掛けで、これこれの時間、また、これこれの時間に祈ることがありえるとは思わない。それは、教役者が前もって「仕込んでおいた」説教のようなものであろう。「ここで泣く」とか、「ここで感情の高まりを見せる」とかいう卜書きが余白に記されている説教である。もちろん、そうしたものはみな、屑である。そうしたことは、お膳立て通りにできるものではない。あなたは、「1時には大いに呻き、3時には涙する」などと決心することはできない。いのちはそのように縛られるものではない。私は祈りのために定められた時を有することを愛しているし、祈りのための時間を持たないという人は災いなるかな! しかし、それと同時に、私たちの生きた祈りは、所定の時間より何時間も前にほとばしるか、時には、その時間に出てこないことがあるであろう。あなたは別の時を待たなくてはならず、そのときには、あなたの魂は解き放たれた雌鹿のようになる。何と、私たちは祈って、力を振るい、勝利者となれることもあるが、ただ御座の前にひれ伏し、こう呻き声を上げるしかないこともある。「主よ。お助けください。私には祈れません。泉はことごとく封じられているように思われます」。それが、いのちの結果である。生き物は変化する。聖ポール大寺院の中には何人かの偉人たちがいる。最近の私は、彼らとはとんとご無沙汰しているが、以前には会ったことがある。田舎に住んでいた頃の私は、上京しては聖ポール大寺院の名士たちのお目にかかりに行ったものである。私は、彼らがこの何百年もの間、一度も頭痛を覚えたことがなく、リウマチも痛まず、通風に悩まされることもなかったと聞いた。その理由は、彼らが大理石に刻まれており、死んでいるからである。だが、生きている人は霧や風を感じる。吹いているのが東風か西風か分かる。朝、起き出す前から、自分が元気溌剌か、どこか具合が悪いか感じ始める。その人には自分が理解できない。浮き立った気分で賛美歌を歌える時もあれば、これといって理由もないのに、吐息をついて泣くことしかできない時もある。しかり。いのちは奇妙なものである。そして、もしあなたが神のいのちをあなたの魂の中に有しているとしたら、あなたは多くの変化を経るであろうし、常に自分がありたいと思う通りのものではないであろう。

 もし私たちが神に対して生きているとしたら、私たちの礼拝のあらゆる部分は生きたものとなるべきである。世には、何とたくさんの死んだ礼拝があることか! もし私たちが私たちの礼拝を規則正しい機械的なしかたで行ない続けるとしたら、私たちの友人たちの大多数は、目を覚ましていることが困難になる。残念ながら、ある人々が礼拝の場所に行くのは、そこが他のどこよりも安眠できるからではないかと思う。こう述べたホッジがしていたようなことに存しているようなものは、礼拝ではない。「私は日曜日が好きだ。その日には教会に行き、この足を高々とあげて、全く何も考えずにいられるからだ」。これが、おびただしい数の人々がせいぜい神にささげている礼拝なのである。ただ礼拝所に行き、そこにじっと座り、全く何も考えない。しかし、もしあなたが神の生きた子どもだとしたら、そのようなことはできない。たとい、時として、肉の弱さにより、まどろみの状態に陥るとしても、あなたはそのために自分を厭わしく思い、むしろ、自分の目を覚まさせて、こう云う。「私は私の神を礼拝しなくてはならない。歌わなくてはならない。神を賛美しなくてはならない。祈りによって神に近づかなくてはならない」。

 私は、私の第三の点に目を向けなくてはならない。手持ちの時間が飛び去りつつあるからである。注意してほしいのは、もし神が私たちを生かしてくださったとしたら、《私たちの現在の立場》はいかなるものか、ということである。

 私たちの現在の立場は、こうである。最初に、私たちは死者の中からよみがえらされている。「神は……私たちをキリストとともに生かし、……ともによみがえらせ……てくださいました」[エペ2:4-6]。私たちは、かつて生きていた所で生きることはできない。かつて着ていたものを着ることはできない。この場にいる人々は誰ひとり墓場に行って、そこに住みたいとは思わないであろう。もしあなたが、ノーウッド墓地に埋葬された後で、死者の中からよみがえらされたとしたら、間違いなく、今晩そこに行って眠りたいとは思わないであろう。それと同じく、いったん聖霊の生かす力によってよみがえらされた人は、死人のもとから離れる。彼のかつての仲間たちは、彼にはそぐわない。もしあなたが死者の中からよみがえらされ、自分の墓から出て来ているとしたら、あなたは自分の屍衣をまとったままロンドンの町通りを歩き回りたくはないであろう。あなたは生きた人なのである。いかにして私の見いだすある人々は、自分を神の民だと云いながら、むしろ自分たちの死装束を着ることを好むのだろうか? つまり、彼らはこの世の娯楽を好むということである。彼らは、自分の屍衣を特別な楽しみのために身につけることがある。おゝ、そのようにしてはならない! もし神があなたを生かしてくださったのだとしたら、死者たちのもとを去るがいい。彼らの習慣や、風習や、流儀から離れるがいい。いのちは、死に何の魅力も感じない。神の生きた子どもは、かつて自分を縛っていた死から、できるだけ遠ざかることを好む。「彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる」[IIコリ6:17-18]。これが、私たちの立場の最初の部分である。私たちは、今や1つの分離した生き方をするようになっており、以前歩いていた通り道から立ち退いているのである。

 それに続いて、私たちは、キリストと1つになっている。神は、「私たちをキリストとともに生かし、……ともによみがえらせ……てくださいました」。今しがた私が告げたように、私たちが新しく生まれるときに聖霊が私たちにお与えになるいのちは、神のいのちである。私たちは、神のご性質にあずかるものとされている。もちろん、それは1つの限定された意味においてではあるが、それでも真の意味においてそうである。永遠のいのち、決して死に絶えることがありえないいのちが、そのとき私たちの中に入れられたのである。キリストがこう云われた通りに。「わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」[ヨハ4:14]。信仰者のいのちは、信仰者のうちにあるキリストのいのちである。「わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです」[ヨハ14:19]。信仰者とその主との間には、いかに神秘的な結び合いがあることか! それを悟るがいい。信ずるがいい。喜ぶがいい。勝ち誇るがいい。キリストとあなたは、今や1つであり、あなたはキリストとともに生きる者とされているのである。願わくは神があなたに、この状態の喜びを知らせてくださるように!

 もう一言、私たちにはこう告げられている。「神は……この私たちを……ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」。これは非常に素晴らしいことである。私たちは、単に死者たちを離れ、キリストに結び合わされただけでなく、キリストとともに天国に座らされているのである。人は、その頭がある所にいるではないだろうか。そして、あらゆる信仰者は、自分の《かしら》がおられる所にいる。そして、もし私たちがキリストのからだの部分であるとしたら[エペ5:30]、私たちは天にいるのである。地上を歩みながら、天国を仰ぎ見ることができるのは、非常にほむべき経験である。だが、それよりも一層高い経験は、天国で生き、地上を見下ろすことである。そして、これこそ信仰者が行なえることである。《その人》は天の所に座ることができる。キリストがそこに、その人の《代表者》としておられる。信仰者は、自分の《代表者》が自分に代わってつかんでいるものを所有することができる。おゝ、天国に住み、そこに宿り、心がこの貧しい生から上にある生活へととらえ上げられるとしたら、どんなに良いことか! これこそ、私たちがいるべき所である。天来のいのちによって生かされているとしたら、私たちがいて良い所である。

 もう1つのことだけ語って、しめくくろう。私たちの今の立場は、神が私たちの中で、この天来のいのちを通して働き、私たちを、ご自分がこれまで形作られた中でも最も素晴らしいし、ご自分の恵みの反映にしようとしておられる、というものである。神が私たちを、キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださったのは、「あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした」[エペ2:7]。後に来る世々は、神の生かされた子どもたちを見て驚嘆することになる。神が世界を造られたとき、それは1つの驚異であり、御使いたちが遠くからやって来ては、神の手のわざに見入った。しかし、キリストが新しい創造を行なわれるとき、彼らはもはや、神が天と地を造られたとは云わず、一層感きわまった調子でこう云うであろう。「神は、この新しく生まれた人々を造られた。神は彼らのために、また、彼らのうちに、新しい天と新しい地とを造られた」、と。

 あゝ! 愛する方々。「後の状態はまだ明らかにされていません」[Iヨハ3:2]。神が私たちに与えておられるいのちは、王室所蔵の金剛石コイヌールよりも尊いもの、太陽や月をもはるかに越えて永続するいのちである。いま存在している万物が、太古の海の波浪の上に浮かんだかと思うと、割れて永遠に消え去ってしまう泡ぶくのようになるときも、私たちはキリストにあって、キリストとともに生き、永遠に栄化されるのである。月が毛の荒布[黙6:12]のように黒くなるときも、私たちの内側にあるいのちは、神が最初にそれを私たちにお与えになったときと同じように明るく輝いているであろう。あなたは、あなたの朝露のような若さ[詩110:3 <英欽定訳>]を有している。おゝ、神の子どもたち。そして、あなたは、さらにそれを多く有し、あなたの主のようになるであろう。主があなたから、あらゆる死の痕跡を、また、このあわれな世界の腐敗した雰囲気を取り除き、あなたが生ける神とともに、生者の国で永久永遠に住むようになるときには!

 こうしたすべての事がらの実際的な結果はこうである。あなたがたの中のある人々は、このことについて全く何も知っていない。もしそうだとしたら、その事実に心を打たれるがいい。もし天来のいのちとあなたが全く無縁だとしたら、あなたはそれとどれだけ長く無縁でいようというのだろうか? もし霊的な死というものがあり、あなたが死んでいるとしたら、愕然とするがいい。というのも、ほんの少しのうちに、神はこう仰せになるからである。「わたしのところから移して、死んだ者を葬れ」[創23:4参照]。そして、神が、「離れよ、離れよ、離れよ、離れよ」、と仰せになるとき、また、あなたと残りの死者たちが、魂の墓場へ、決して消えることのない火へ連れ去られるとき、あなたに何が起こるだろうか? 「神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です」[マタ22:32]。そして、私たちが神に対して生きた者とされていない限り、現世においても来世においても、神が私たちの神となることはありえない。主がこの厳粛な真理を、ご自分の御霊によって、あなたがた全員の心に銘記させてくださるように。イエス・キリストのゆえに! アーメン。

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死からいのちへ[了]

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