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祝福ゆえの讃美

NO. 2266

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1892年7月24日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1890年10月26日、主日夜


「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました」。――エペ1:3、4


 神は私たちを祝福してくださる。私たちは神をほめたたえよう。私は切に願う。この場にいるあらゆる心が、この賛美の奉仕において自らの分を果たすようになることを。

   「わが魂(たま)、主なる 神をたたえよ、
    わがうちにある すべてのものよ、
    かき立てられて 聖なる御名を
    あがめ たたえよ!」

あなたの座席に座りながら、この説教の最初の一言から最後の一言まで、神をほめたたえ続けるがいい。そして、生涯最後の時まで神をほめたたえ続け、天に入り、永遠の栄光に入るときも、なおも神をほめたたえているがいい。私たちに私たちのいのちを与えてくださったお方をほめたたえることこそ、私たちのいのちであるべきである。そのように、この聖句は語っており、そのように私たちは行なおうではないか。「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように」。

 今このとき、私たちが最初になすべきことは、《神をほめたたえる》という務めである。しかし、いかにして私たちに神をほめることなどできるだろうか? 疑いもなく、劣った者が《より偉大な者》からほめられ、祝福されるのである。《より偉大な者》が、劣った者からほめられ、祝福されることなどありえるだろうか? しかり。だが、それは1つの修正された意味によってでなくてはならない。神は、すべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださる。だが、私たちは神をほめて祝福するようなものを何1つ与えることができない。神は私たちの手から何も必要としておられない。たとい必要としておられるとしても、私たちはそれを与えることができない。「わたしはたとい飢えても」、と主は云われる。「あなたに告げない。世界とそれに満ちるものはわたしのものだから」[詩50:12]。神はご自分の内側ですべてに満ち足りており、ご自分の被造物たちに依存しているとか、受ける必要のあるものをご自分の被造物たちから受けているなどとは決して考えることができない。神はすでに無限に祝福されており、私たちは神の至福に何もつけ足すことができない。神が私たちを祝福なさるとき、神は私たちに、私たちが決して以前は有していなかった幸いをお与えになる。だが、私たちが神をほめるとき、私たちは神の絶対的な無限の完璧さを寸毫も増し加えることはできない。ダビデは主にこう云った。「私の幸いは、あなたには及びません」[詩16:2 <英欽定訳>]。あたかも、こう云ったかのようである。たとい私が、自分に可能な限り聖くなり、敬虔になり、熱心になったとしても、私はあなたのためには何も行なえません。あなたはあまりにも高く、あまりにも聖く、あまりにも偉大であられるため、実は私は、あなたが私を祝福してくださるような意味ではあなたを祝福することができません。

 ならば、いかにして私たちは神を祝福できるのだろうか? よろしい。まず最初に私はこう云うべきである。この言葉遣いは、感謝を表現している、と。私たちはダビデとともに云う。「わがたましいよ。主をほめたたえよ」[詩103:1]。また、パウロとともに云う。「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように」。私たちは神を賛美し、神を賞揚し、一切の栄誉を神に与えたいと願い、一切の善を神に帰し、その聖なる御名をあがめ、称賛することによって、神をほめることができる。よろしい。私たちはそうしよう。そうしたければ、じっと座り、あなたの心を神に対して静めるがいい。いかなる言葉遣いも、キリスト・イエスにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださったお方に対して私たちが感じているはずの感謝を表現することは決してできないからである。また、あなたの語る言葉によっても神を賛美するがいい。沈黙を破り、神の栄光について語るがいい。他の人々を、あなたとともに叫ぶよう招くがいい。「ハレルヤ!」、あるいは、「ヤハにハレル!」、「エホバに賛美を!」、と。私たちの神に偉大さを帰すがいい。おゝ、すべての肉なる者が私たちとともに主をあがめるようになれば、どんなに良いことか!

 この言葉遣いは、主に帰されている一切の素晴らしさに対して同意する発言でもある。主がいかに偉大なお方か、いかに栄光に富むお方か、いかに幸いなお方かを聞いた後で、私たちはこう云うことによって主をほめたたえるのである。「アーメン! その通りであるように! 私たちはそれを望みます! 私たちにとって主はすべてにまさって偉大であられ、すべてにわたってほむべきお方です。主があらゆる慮りを越えて偉大で、栄光に富む、ほむべきお方であられますように」。私たちが神をほめたたえるのは、私たちがそのご性格のすべてについてこう云うときだと思う。「アーメン。この神が、永久永遠に私たちの神です」。神を、聖書がそう語る通りのお方であるとするがいい。私たちは神をそのようなお方として受け入れる。神は厳正に正しく、咎ある者を赦そうとはされない。アーメン。その御名はほむべきかな! 神は無限に恵み深く、赦しに富んでおられる。アーメン。そのようであらせよ! 神はあらゆる所に臨在し、常に全知であられる。アーメン。やはりそのようであることを私たちは願う! 神は永遠に同じで、その真理と、約束と、ご性質において変わることがない。やはり私たちはそのことを喜ぶと云い、神をほめたたえる。神は私たちが愛する、まさにその通りの神であられる。神は私たちにとってまさに神であられる。なぜなら、神は本当に神であり、私たちは神がそのようなお方であられることを見てとることができ、神に帰されているあらゆる属性は、エホバが主であることを、私たちに対して清新に証明しているからである。このようにして、私たちは賞賛によって神をほめる。

 また、私たちが神をほめたたえるのは、その御国を広めることにおいてである。私たちは、神の力ある恵みの祝福を受けつつ奉仕することによって、人々の心を神のものにかちとることができる。私たちは悪に対して戦うことができる。真理のための基準を打ち立てることができる。御名のために悪評をこうむることその他のしかたで苦しみを甘受することができる。神の恵みによってこうしたすべてを行なうことができる。そのようにして、私たちは神をほめたたえている。確かに、愛する方々。もし罪人たちが悔い改めることが神の御目において喜ばしいことであるとしたら、また、もし人々が悔い改めることが天国を一層楽しませ、御使いたちの前で喜びを作り出すとしたら、私たちは人々を、キリスト・イエスに対する信仰を通して悔い改めに導こうと労苦するとき、最上の、また、最も実際的なしかたで神を祝福するのである。

 もう1つ神をほめたたえるしかたがある。それは、私たち全員が実践するよう努めるべきことだと思う。すなわち、神の子どもたちに善を施すことによってである。彼らが病むときには、彼らを訪問するがいい。彼らが打ちひしがれているときには、彼らを慰めるがいい。彼らが貧しいときには、救済するがいい。彼らが外的な敵たちによって厳しく追いつめられているときには、彼らの傍らに立ち、彼らを助けてやるがいい。《かしら》を祝福したければ、足を祝福するのでなくてはならない。そして、足を元気にしてやったとき、あなたは《かしら》を元気づけたのである。この方は云うであろう。「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」[マタ25:40]。彼らが裸なら、着る物を与えるがいい。病気をしているなら、見舞うがいい。空腹であるなら、食べる物を与えるがいい。あなたはこの点で神を祝福する。ダビデは単に、「あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたには及びません」[詩16:2 <英欽定訳>]、と云っただけでなく、こう云い足していた。「しかし、地にある、聖徒たちに、また私のすべての喜びがある威厳ある人々に対しては及びます」[詩16:3 <英欽定訳>]。あなたは彼らに対していつくしみ深くあることができ、その点において、神に対する祝福となりえる。神は私たちに多くのことをしてくださったため、私たちは喜んで神のために何かを行ないたいと思う。そして、自分の限界に達したときも、それ以上に行ないたいと願う。私たちは、自分がささげるとのできる、より多くの金銭を持っていたいと願う。用いることのできる、より多くの才質、御国の進展のためにささげることのできる、より多くの時間を持っていたいと願う。より大きな心と頭脳を願う。時として私たちは、より多くの舌を持っていたいと願い、こう歌う。

   「おゝ、千の舌にて 歌わばや、
    わが大いなる 贖罪主(きみ)を称えて!」

この「ほめたたえ」という言葉は、私たちの能力の狭い範囲を打ち破ろうとする試みである。神の御足元に、自らには見いだすことのできない栄光の冠を置こうとする、燃える心の熱心な努力である。「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように」。

 しかし今、第二に、私たちは少々の時間を費やして、パウロが私たちの前で示している光に照らして《神を眺める》ことをしてみたい。「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように」。

 私たちは自然の神をほめたたえる。いかなる美を神は私たちの回りに撒き散らしておられることか! 私たちは摂理の神をほめたたえる。いかに惜しみなく神は私たちに収穫と実りの季節を送ってくださることか! 私たちは、私たちを贖い、ご自分の子としてくださった恵みの神をほめたたえる。しかし、ここにあるのは、神の独特の面であり、それこそ私たちの最高の賛美を呼び起こすべきことである。というのも、神はこう呼ばれているからである。「私たちの主イエス・キリストの父なる神」、と。

 私たちは、神をキリストとの関連において見てとるとき、キリストを通して神を見てとる。キリストのうちに神を見てとるとき、私たちの心は全く燃え上がり、この歓声をほとばしらせる。「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように」。キリストを抜きにした神、――それは偉大な、栄光に富む主題である。だが、人間の精神はそれを把握しきれない。無限のエホバを誰が思い描けよう? 「私たちの神は焼き尽くす火です」[ヘブ12:29]。誰がこのお方に近づけようか? しかし、この《仲保者》において、この《人》において、この、人間的な同情と天来の栄光とが混ぜ合わされているのを私たちが見いだすお方において、私たちは神に近づくことができる。そこにおいてこそ、私たちは、自分の手を黄金の立琴の弦にかけ、あらゆる弦でキリスト・イエスにある神への賛美を打ち鳴らそうと決意するのである。

 しかし、よくよく注意すると、神はここで私たちの主イエス・キリストの神と述べられている。イエスが膝まずいて祈ったときには、私たちの神に祈られた。イエスが信仰によって数々の約束によりかかったときには、ご自分を救い出してくださるだろう神に信頼された。私たちの《救い主》が過越の夜に賛美をお歌いになったとき、その歌は神に対するものだった。ゲツセマネで、血の汗を流しながら祈られたとき、その祈りは私たちの神に対するものであった。イエスは墓所でマリヤにこう云われた。「わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。』と告げなさい」[ヨハ20:17]。私たちは、神が私たちの《贖い主》がほめたたえておられる神であられることを思うとき、いかに神をほめたたえるべきであろう! これこそキリストについてこう云われた神であられる。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」[マタ3:17]。何と喜ばしい思いであろう! 私がエホバに近づくとき、私は私たちの主イエス・キリストの神に近づいているのである。確かに私は、自分の前の地面に主の血に染まった足跡を見てとるとき、その場所が聖なる地であるがゆえに、自分の足の靴を脱ぐとはいえ、それでも私は確信をもって私の《友》、私の《救い主》、私の《夫》、私の《かしら》が私に先立って行かれた所へとついて行く。そして私は、私たちの主イエス・キリストの神を礼拝する際に喜ぶのである。

 神はまた、私たちの主イエス・キリストの父とも呼ばれている。これは大いなる神秘である。自分がこの、ほむべき《三位一体》の第一と第二の《位格》同士、すなわち、御父と御子との高次の関係を理解できるなどと考えてはならない。私たちは「永遠に子であられること」について語るが、この用語は、大した意味を何も伝えはしない。それは単に私たちの無知を糊塗するものでしかない。いかに神が、神としての私たちの主イエス・キリストの御父であられるのか、私たちには分からない。そして、ことによると、この途方もない神秘を眺めたいと願うのは、太陽を認めて、その輝きで自ら盲目になるのと同じくらい大きな愚行かもしれない。しかり。これで十分とすべきである。父なる神は、その天来のご性質についてのイエス・キリストの御父であられる。「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ」[ヘブ1:5]。神は、主のご性質の人間的な面についても主の御父であられる。主は聖霊によってお生まれになった。主のからだ、あの人間としてのいのちは、神から出た。ヨセフからでも、人間からでもない。ひとりの女から生まれるように、神はその御子を遣わされた。だが、そのときも、それはご自分の御子であられた。ベツレヘムで生まれたのは、神の子であられた。ガブリエルは《処女》マリヤにこう云った。「生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます」[ルカ1:35]。さて、主イエス・キリストというご人格において、驚嘆すべきしかたで融合している、この2つのご性質を取り上げてみるがいい。あなたは、いかにこの偉大な神が、私たちの主イエスの父にして神であられるかを見てとるであろう。だが、甘やかな思いよ。この方は私の御父でもあられる。私の御父はキリストの御父なのである。イエス・キリストの御父は私たちの御父であり、主は私たち全員に、こう神を呼ぶよう教えておられる。「天にいます私たちの父よ」[マタ6:9]。しばしば、祈りの中で主は、「父よ」、と云われた。そして、私たちにも同じように云うよう命じ、その前に複数代名詞をつけて、「私たちの父よ」、としておられる。さて、あなたは私たちの主イエスの神にして父なる主をほめたたえたいと思うではないだろうか? イエス・キリストを通してあなたが導き入れられている、この近しく、愛しい関係について思うとき、あなたは自分の心が赤々と燃えるのを感じないだろうか? イエス・キリストの神、イエス・キリストの御父が私の神、私の御父でもあられるのである。ほむべきかな、ほむべきかな、ほむべきかな、永遠にほむべきかな、その愛しい御名は!

 今このとき、私たちが第三になすべきことは、《その大いなるあわれみの数々を数え直す》という務めである。第三節の後半を読み上げよう。「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました」。

 このあわれみの要約は、完全な確信をもって記されている。そしてあなたは、ある程度までそれと同じ経験をしない限り、神をほめたたえないであろう。パウロは、「神が私たちを祝福してくださっただろうと私たちは希望し、当てにしています」、とは云っていない。むしろ、「神は私たちを祝福してくださいました」、と記している。あゝ、愛する方々。もしあなたが、神はキリストにおいてあなたを祝福してくださったと、また、今や神の微笑みがあなたの上にとどまっており、契約の祝福すべてがあなたのために蓄えられていると完全に確信しているとしたら、あなたはこう云わずにはいられないと思う。「ほむべきかな、ほむべきかな。《いと高き方》の御名は!」、と。あの疑い、あのおののきを、これは――私たちの受けている祝福の、骨からの髄は――空っぽにしてしまう。もしあなたがこの尊い《書》の真実さについて疑念をいだいているとしたら、もしあなたが恵みの諸教理の真実さについて疑問を感じているとしたら、もしあなたがそうした事がらの恩恵にあずかっているかどうか疑っているとしたら、あなたが神を賛美しないとしても不思議ではない。というのも、自分のものかどうかあやふやな祝福について感謝する人も、ひょっとするといるかもしれないが、感謝しない人もいるだろうからである。しかし、もし私が、自分の信じて来た方をよく知っているとしたら[IIテモ1:12]、また、もし霊的な種々のあわれみを堅くつかんでいるとしたら、また、もしあらゆる天的な事がらが私たちの主キリストにあって自分のものであるとしたら、私はこう歌えるであろう。「私のたましいよ。目をさませ。十弦の琴よ。立琴よ、目をさませ。私は暁を呼びさましたい」[詩57:8]。「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました」。

 この完全な確信とともにやって来るのは、強烈な喜びである。「私たちを祝福してくださいました」。神は私たちを祝福してくださった。さあ、兄弟たち。神は私たちのために何か些細なことをなさったのではない。無視して良いようなことをされたのではない。単に、何か絶対に必要な、私たちが生きるために不可欠な賜物を下さったというだけでもない。むしろ、神は恵みにおいて、はるかに豊かに私たちを扱ってくださった。神は、救貧院の給食などを越えた、聖徒たちや王侯たちに連なる饗宴に私たちを着かせてくださった。神は私たちに、ただの野暮ったい衣を与えたのではなく、美と栄光の衣を、すなわち、神ご自身のしみなき義を着せてくださった。神は私たちを祝福された。私たちは祝福されている。祝福されているのを感じている。信仰者ひとりひとりはこう云うことができる。――

   「われ常に 歌わまほし、
    わが涙 拭われたれば。
    イェスきみは わが《友》なれば、
    われは主を 日ごと讃えん。
    主を讃えん! 主を讃えん! 主を讃えん、常に!」

私たちは決してここに座って、呻いたり、泣いたり、苛立ったり、悩んだり、自分の救いについて疑いを感じたりしてはいない。神は私たちを祝福してくださった。それゆえ、私たちは神をほめたたえる。もしあなたが、自分のために神が何をしてくださったかほとんど考えていないとしたら、あなたは神のためにほとんど何も行なわないであろう。だが、もしあなたに対する神の大いなるあわれみについて大きな考えを有しているとしたら、あなたは、あなたの恵み深い神に対して大いに感謝するであろう。

 次に、やはり指摘させてほしいのは、確信と喜びが神への賛美に至るのと同じく、神の種々のあわれみを正しく理解することも神への賛美に至るということである。あなたの理解を助けるために、パウロが何と云っているか注意するがいい。「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました」。光を受けている人は、現世的な種々の祝福について神に恩を感じる。だが、その人は霊的な祝福について、いやまして恩を感じる。というのも、現世的な祝福は長続きせず、すぐに消え失せるからである。現世的な祝福は、天来の恩顧を明確に示すものではない。神はそれを、義人たちに与えるのと同じく、不敬虔な者や悪人にも与えておられるからである。麦や、葡萄酒や、油は、あの金持ちのためのものであり、ラザロは彼の分け前をも下回るものしか得ていない。私たちは、あらゆる現世的な祝福について当然神に感謝をささげるべきである。それは私たちが値する以上のものである。しかし、霊的な祝福については、雷鳴のようなハレルヤをもって神に感謝すべきである。新しい心は、新しい外套にまさる。キリストを養いとすることは、地上の最上の食物を受けることにまさる。神の相続人となることは、最高の貴族の相続人になることにまさる。神を私たちの割り当て地とすることは、広大な地所の所有者となることよりも大きな、無限に大きな祝福である。神は私たちを霊的な祝福をもって祝福してくださった。それは、あらゆる祝福の中で、最もまれで、最も豊かで、最も永続的なものである。それらは値もつけられない価値を有している。こういうわけで、あなたに願わさせてほしい。あなたに霊的な祝福をもって祝福してくださった、私たちの主イエス・キリストの父なる神に賛美をささげることにおいて、私たちに加わるがいい。

 しかし、あなたは「すべての」という言葉に注意しただろうか? 私はその意味を明確に引き出さなくてはならない。それを顕微鏡にかけなくてはならない。「すべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました」。確かにパウロが意味しているのは、私たちが、神のお与えにならなかった霊的祝福を有していないということに違いない。私たちが自力でかちとった祝福は1つもない。私たちが作り出すことのできた祝福は1つもない。すべての霊的祝福は御父から出ている。実際、御父は私たちにすべての霊的祝福を与えておられる。「私はそれらを受け取っていません」、とある人は云うであろう。それは、あなたのせいである。神はキリストにおいて、すべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださった。新しい心、鋭敏な良心、従順な意志、信仰、希望、愛、忍耐、こうしたすべてを私たちはキリストのうちに有している。新生、義認、子とされること、聖化、完全は、みなキリストのうちにある。もし私たちがそれらを取り出さないとしたら、それは私たちの手が麻痺しているせいである。その手に、それらをつかむだけの力がないためである。だが神は私たちに、キリストにおいてすべての霊的祝福を与えておられる。あなたが自分の聖書を読んで、何か大いなる約束を見てとるとしたら、それを自分のものとして要求することをためらってはならない。神はキリストにおいて、私たちにすべての霊的祝福を与えておられるからである。「私は心配なのです」、とある人は云うであろう。「そうした約束の何かを自分のものとするなど増上慢ではないかと」。神はキリストにおいて、私たちにすべての霊的祝福を与えておられる。あなたは、あなたの御父の家の中にいるのである。あなたが盗みを働くことはありえない。あなたの御父はこう云っておられるからである。「好きなものは何でも取るがいい」、と。神は、信仰を有する、ご自分のあらゆる子どもに対して、霊的な富という地所全体を譲り渡しておられる。それゆえ、遠慮せずに取るがいい。そして、そうすることによって、あなたは神の栄光を現わすであろう。神はキリストにおいて、すべての霊的祝福をもって私たちを祝福しておられる。

 このことを、神は「天に」おいて行なわれた。これはどういう意味だろうか? 「天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました」。それは、神が、ご自分の住んでいる天から出たすべての霊的祝福を、私たちに働かせておられる、ということではないだろうか? さもなければ、それ以上の意味だろうか? 神がこうしたすべての霊的祝福を私たちに送っておられるのは、私たちをご自分の住んでいる天に連れて来て、そこに私たちを住まわせるためだということだろうか?

 私はあなたの心をかき立てるために、もう1つのことを思い起こさせたい。すなわち、私たちの受け取るすべての霊的祝福が、いやまして豊かなもの、まれなものである理由は、それらが私たちに「キリストにおいて」与えられるからである。ここに種々の祝福がある。そしてキリストは、それらすべてをおさめている黄金の箱なのである。ロンドン市中がある人をその町の自由市民とするとき、その人にその自由を賦与すると記された文書は、普通、黄金の箱に入れて贈呈される。キリストはその黄金の箱であり、その中に私たちは、自分の永遠の自由の捺印証書を見いだすのである。神はキリストにおいて、すべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださった。もしそれらが、それ以外のしかたで私たちのもとに来たとしたら、私たちはそれらを失うかもしれない。あるいは、それらが純粋なものか確信できないかもしれない。だが、それらがキリストにおいて私たちのもとに来るとき、それらは永続的なものとなり、私たちはそれらが本物だと分かる。もしキリストが私のものなら、天にあるすべての霊的祝福は私のものである。

 私は、喜びと歓喜の海の中を自由に泳ぎ回るべき事がらを、非常に無味乾燥なしかたで語っているような気がする。愛する方々。私の弱々しい言葉に、私たちの主から、その栄光の何がしかを奪わせてはならない。主はあなたのためにこれほど大きな事がらをなしてくださったのである。その御名をほめたたえるがいい。私たちは、立ち上がって、主への賛美を鳴り響かせる楽器を要求するわけにはいかない。だが、じっと座って、それぞれがこう云うことはできる。「主の御名はほむべきかな! これはみな真実である。主は私を祝福しておられる。私はそれを知っている。主は、気前の良い御手で、すべての霊的祝福をもって私を祝福してくださった。私がまさに祝福を必要としている所で、また、私が霊的な事がらにおいて最も貧しかった所で、私を祝福してくださった。私は、仕事においてなら努力して前進することができただろうが、恵みにおいては努力で先に進むことはできなかった。それで神は、すべての霊的祝福をもって私を祝福してくださった。そして主は、そうした衣のすべてを、それをかける衣装箪笥のゆえに一層愛しいものとしてくださった。主は私に、こうした王家の品々をキリストにおいて賜ったのである。そして、私は、私の愛しい主を仰ぎ見て、主のうちに何が私のために蓄えられているかを見てとるとき、そうした1つ1つが主のうちにあるがゆえに一層尊ぶのである。さあ、聖霊よ。私たちの心を神に対する賛美と賞賛で燃え立たせてほしい。神が私たちのためになさった、あらゆる大いなる事がらのゆえに!」

 しめくくりに私は、この第四のことを語りたいと思う。私たちは神を、《その賜物の与えられ方を見つめつつ》ほめたたえようではないか。それは、第4節で述べられている。「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました」。

 さて、兄弟たち。私たちが神を賛美すべきなのは、すべての霊的祝福が私たちのもとにやって来たあり方が、私たちの選びがやって来たあり方と同じく、「世界の基の置かれる前から」だからである。それは、いかにしてやって来たのだろうか? よろしい。それは神の、無代価の、主権的な恵みからやって来た。神が私たちを愛したのは、私たちを愛そうとされたからである。神が私たちを選んだのは、私たちを選ばれたからである。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選んだのです」*[ヨハ15:16]。もしいま私たちに何らかの美徳があり、何らかの称賛すべき点があるとしたら、それは神がそこに入れてくださったからである。神ご自身の無限のいつくしみ深さという、底知れぬ深淵に、私たちは神の恵みの選びの由来を尋ねなくてはならない。よろしい。さて、あらゆる祝福は、それと同じしかたで私たちのもとにやって来る。神があなたを祝福し、あなたが用いられるようにしてくださったのは、私の兄弟。あなたがそれに値していたからではない。むしろ、神の恵みのゆえである。神があなたを贖ったのは、あるいは、あなたを新生させたのは、あるいは、あなたを聖めたのは、あるいは、あなたを引き上げられたのは、あなたのうちにある何かのためではない。何度も何度も、預言者エゼキエルによって主は、ご自分の古の民にこう思い起こさせておられる。神が彼らにお授けになった祝福は、みな神の恵みの賜物であった、と。「それゆえ、イスラエルの家に言え。神である主はこう仰せられる。イスラエルの家よ。わたしが事を行なうのは、あなたがたのためではなく、……わたしの聖なる名のためである」[エゼ36:22]。また、「わたしが事を行なうのは、あなたがたのためではない。――神である主の御告げ。――イスラエルの家よ。あなたがたは知らなければならない。恥じよ。あなたがたの行ないによってはずかしめを受けよ」[エゼ36:32]。あらゆる祝福は、主権的な恵みという折紙つきで私たちのもとにやって来る。主は、その恵みの賜物を配当する際に、こう云われる。「自分のものを自分の思うようにしていけないことがあろうか」[マタ20:15参照]。主はそうなさる。そして私たちは、この神の主権の恵みをほめたたえ、賛美し、あがめる。その恵みが私たちを選んだのであり、キリストにおいて神が私たちを選ばれたように、私たちを祝福し続けるのである。

 次に、私たちが神をほめたたえなくてはならないのは、そのすべての賜物がキリストにおいて私たちにやって来るからである。パウロの言葉に注意するがいい。「私たちを……キリストのうちに選び」。神は私たちをキリストにおいて召された。キリストにおいて義と認められた。キリストにおいて聖められた。キリストにおいて完全な者としてくださるであろう。キリストにおいて栄化してくださるであろう。私たちはあらゆることをキリストにおいて有しており、キリストから離れては何も有していない。主の御名を賛美し、ほめたたえようではないか。その恵みのこの神聖な経路は、恵みそのものと同じくらい栄光に富んでいる。私たちを救うキリストの賜物の中には、私たちのためにキリストが成し遂げられた救いの中にあるのと同じくらい恵みがある。「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように」。

 また、私たちのすべての祝福は、天来の目的からやって来る。聞くがいい。「天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを……キリストのうちに選ぼう……とされました」*。いかなる霊的祝福も、たまたま誰かのもとにやって来たりはしない。いかなる人も、「運良く」神の恩恵を得ることはない。それはみな、神の永遠の目的、大地の始まりから神が有しておられた目的に沿ってやって来る。

   「太古(いやはて)の日の 煌めく光
    闇の影をば 放逐(ち)らす遼前(まえ)より
    御民は神の 聖き胸にて
    愛されおりぬ、永遠(とわ)の愛もて」。

この聖句は云う。「世界の基の置かれる前から」、神の御心の中には1つの計画があった。そして、その計画によって私たちは選ばれたし、それと同じ計画によって神は私たちを祝福し続けておられるのである。見るがいい。愛する方々。神はご自分の民に、いかなる賜物をも恵みをも、ご自分の目的なしには決してお与えにはならない。神はあなたに、明晰で、聡明で、広大な頭脳を与えておられるだろうか? 神のために思考するがいい。神はあなたに、流暢で、雄弁な舌を与えておられるだろうか? 神のために語るがいい。神はあなたに、目的もなくこうした賜物を与えてはおられない。神はあなたに、あなたの同胞の人々の間における影響力を与えておられるだろうか? 神のためにそれを用いるがいい。あなたの選びは、神のご計画に従ってやって来た。あなたのあらゆる賜物も、――また、それをはるかに越えて――あなたのあらゆる恵みも、それと同じである。あなたには、強靭で溌剌とした信仰があるだろうか? 燃えるような熱心があるだろうか? 熱烈な愛があるだろうか? こうした契約の賜物のいずれかを有しているだろうか? それらを、ある目的のために用いるがいい。神はそれらをある目的のために与えておられる。その目的を見いだし、それによって神の栄光を現わすがいい。

 最後に、この聖句が私たちに告げるところ、神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福しておられる。それは、神が私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、「御前で聖く、傷のない者にしようと」するためであった。神が私たちを選ばれたのは、私たちが聖かったためではなく、私たちを聖くするためであった。そして、神の目的は、私たちが聖くされない限り成就しないであろう。ある人々は、救いについて語るとき、それは地獄から逃れて、天国に間一髪ですべりこむことを意味するのだという。私たちは決してそのようなことを意味しはしない。私たちの意味する救いは、悪からの救出、罪からの救出である。彼らは、飼い葉桶の上に座り込んだ意地悪な犬のように、自分がそのまぐさを食べることもできないのに、それを食べることのできる者には唸り声を上げるのである。もしあなたが罪から安全になることを願うなら、その大いなる祝福を神に求めるがいい。そうすれば、神はそれをあなたに与えてくださるであろう。だが、もしあなたがそれを欲さないなら、神がこう仰せになっても文句を云ってはならない。「わたしはそれを、これこれの人に与えよう。そして、それを求めようともしないお前の方は、それなしでいさせよう」。もしあなたが聖くなりたくなければ、あなたは聖くならない。もしあなたが、それを欲し、それを願うなら、あなたはそれを得られる。神は、ご自分の御手にそれを求めるいかなる者にもそれを拒まれないからである。しかし、もしあなたがそれを願いも、尊びもしないとしたら、なぜあなたは自分のちゃちな拳を天の神に向かって振り上げるのか。神が愛をもって他の人々を選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされたからといってなぜ怒るのか。

 私たちの選びの目的は、私たちが聖くなることであり、あらゆる霊的祝福の目的は、私たちが聖くなることである。神は私たちが聖くなることを目当てとしておられる。あなたはそれを喜んでいないだろうか? 私はこう云って良いではないだろうか? 「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。あらゆる賜物における神の目当ては、私たちを聖くすることだからです」、と。兄弟姉妹。私たちは、もし完璧に聖くなれるとしたら、自分の有する一切のものを犠牲にし、それを何の犠牲ともみなさないではないだろうか? 私は、この教会に加入しようとしてやって来たある少女にこう云った。「メアリー。あなたは完全ですか?」 彼女は私を見て云った。「いいえ、先生」。私は云った。「完全になりたいと思いますか?」 「おゝ、なりたいですとも! なりたくてたまりませんわ。それこそ、私が慕い求めていることです」。確かに、完全になることを私たちに切望させてくださる神は、すでに私たちの中で大いなるわざを作り出しておられるに違いない。そして、もし私たちがそう云えるとしたら、完全になることは、私たちにとって天国であろう。ならば、私たちはすでに天国への道を歩んでいるのであり、神は私たちの中でその永遠のご計画を働かせておられるのである。「私たちを……聖く」することを。

 さらに、もう1つのことがある。「私たちを……御前で聖く、愛において傷のない者にしようとされました」<英欽定訳>。これは、私たちが愛する者、愛に満ちた者、その点で傷のない者になることを意味しているだろうか? よろしい。残念ながら、大多数のキリスト者たちは、愛という点にかけては傷のない者でないのではないかと思う。私の知っているある人は、知的には堂々たる人物であり、いくつかの点では霊的にも立派な人である。彼は、壮大な古のカルヴァン主義的信仰のためなら、火刑柱に縛られて死ぬことも厭わないだろうと思う。だが、彼は鉄のように無情である。人は、いかなる種類の愛も彼に対して感じることができない。というのも、彼は他の誰に対しても、いかなる種類の愛も感じていないからである。その人は、愛において神の御前で傷のない者ではない。私は他の人々をも知っている。素晴らしいキリスト者に彼らは見えるし、続けて一週間も祈っていられるであろう。だが、貧しい人がいて、ほんの少し助けを彼らに求めても、一切は無駄である。私は、彼らが愛において神の御前で傷のない者ではないと思う。おゝ、兄弟たち。神が私たちを選んだのは、私たちを愛ある者とするためであり、神は私たちを愛ある者となるよう定めておられるのである。そして、神が私たちに与えておられる無数の祝福すべては、神が私たちを、愛する霊として獲得するために送っておられるのである。それは、その点で私たちが傷のない者となるためである。私たちの愛する友、ウィリアム・オルニー氏のことは、今なおこの教会で覚えられているし、決して忘れることができないが、彼はこの愛という点にかけて傷のない人であったと思う。時として私は、彼がその愛を注ぎ出すのを常としていた人々には、厳しい一言をかけた方がずっと良いのではないかと思うことがあった。彼らは人を欺く者らだったからである。だが、オルニー氏は、誰かが人を欺く者になりえるなどとはどうしても考えることができなかった。そしで、もしある人が助けを求めているときには、いかに当人の不行跡から貧窮に至った場合であっても、彼の手はそのかくしに突っ込まれ、たちまち彼らに対する助けを差し出すのだった。彼は決して愛に欠けることがなかった。そして私は祈るものである。あなたや私が、思慮と知恵を混ぜ合わせつつも、愛という点で神の御前に傷のない者となれるようにと。あなたの同信のキリスト者たちを愛するがいい。あわれな罪人たちを愛してキリストへと導くがいい。あなたを意地悪く扱う々を愛するがいい。あなたの回りにいる、神の愛とは無縁の人々を愛するがいい。彼らが、あなたの愛のうちに、神の愛をかすかに映し出すものを見てとることもあるかもしれない。あたかも一滴の水の中に、時として太陽と天空が映っていることがあるように。願わくは神が、私たちを神の愛の反映としてくださるように! 神の目的は、私たちが聖く、愛において御前で傷のない者となることである。

 さて、私はあなたの前に、最高の宝物を示してきた。この宝物はあなたのものだろうか? 話をお聞きの愛する方々。キリストはあなたのものだろうか? あなたはキリストに信頼しているだろうか? そうでないとしたら、あなたのものは何1つない。キリストから離れているなら、あなたには何もできず、あなたは何物でもなく、あなたには何もない。今のあなたのままキリストのもとに来て、あなたの信頼をキリストにかけるがいい。そうすれば、すべてはあなたのものとなる。もしキリストがあなたのものであるなら、愛する方々。私はあなたに命ずる。主をほめたたえるがいい。左様。主を何度も何度もほめたたえるがいい。というのも、あなたが主をしかるべく十分にほめたたえることは決してないであろうからである。この礼拝は、今朝の礼拝を閉じたように、頌栄を歌うことによってしめくくることにしよう。――

   「たたえよ 恵みのもといなる神を」。

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祝福ゆえの讃美[了]

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