HOME | TOP | 目次

風の中で種を蒔き、雲の下で刈り入れる

NO. 2264

----

----

1892年7月10日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1890年7月3日、主日夜


「風を警戒している人は種を蒔かない。雲を見ている者は刈り入れをしない」。――伝11:4


 時が来たら種を蒔くがいい。いかなる風が吹いていようと関係ない。時が来たら刈り入れるがいい。いかなる雲が空にあろうと関係ない。しかしながら、この言葉の意味を限定するような別の箴言もあるため、私たちは、それらを織り込んだ行動を取るべきである。働く時を選ぶ際に、思慮を放り捨ててはならない。「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある」[伝3:1]。好天のときに種を蒔くのは良いことである。「鉄は熱いうちに打つ」のが賢いことである。穀草は、干せる見込みのある時に刈り取るべきである。

 しかし、ソロモンはここで、事の別の面を強調している。彼は、思慮が怠惰となるのを見てきた。ある人々が、決して来もしない好機を待ち受けているのを目にしてきた。怠け者たちが、愚につかない云い訳をあれこれこねるのを観察してきた。それで彼は、ぶっきらぼうな言葉で、真理をより強力なものとするために、ばっさり云い切っている。規則に対する例外についての心配などせず、こう一刀両断している。「風だの雲だのには何の注意も払ってはならない。何が起ころうと、自分の仕事を進めて行くがいい。『風を警戒している人は種を蒔かない。雲を見ている者は刈り入れをしない』」、と。

 この言葉によって示唆されている第一の考えは、このことである。《自然の種々の困難は、過度に考慮されすぎることがありえる》。人はあまりにもはなはだしく風を警戒し、雲を見ているがゆえに、種を蒔くことも、刈り入れることもしないでしまうことがありえる。

 最初に注意すべきことは、いかなる働きにおいても、このことは人の妨げとなるということである。私たちが手をつけるいかなる仕事においても、種々の困難を気に留めすぎると、その仕事は妨げられるはずである。あなたの職業の困難さを知っておくのは非常に賢明なことである。それにいかなる悲しみが伴い、そこからいかなる試練が生じ、そこにいかなる誘惑が結びついているかを知るのは賢明なことである。だが、こうした事がらについて考えすぎると、いかなる職業であれ全く成功を収めることはできないであろう。あわれな農夫たち。彼らは乾草用の青草が山ほどあるのに、それを取り入れることができない。彼らは、そうしたければ、死ぬほど気を揉むであろう。そして、七年間、気を揉み続けても、決して一銭も稼げないのである! 農業には、絶えざる悩みがまといついていると云われる。収穫を取り込もうとしているとき、一瞬にしてすべてを失うことがありえる。種は、最初に蒔かれたとき、土塊の下で腐るかもしれない。それは葉枯れ病や、白渋病や、鳥や、虫や、その他の有象無象で駄目になるかもしれない。それから、最後に農夫がその収穫を刈り入れようとするとき、鎌が刈る前になくなってしまうかもしれない。船乗りの場合を考えてみるがいい。もし彼が風や雲を見ているとしたら、出帆することなどあるだろうか? あなたは彼に、その航海という航海が順調なものになるとか、何の嵐にも遭わずに願う港に着けるだろうなどと約束できるだろうか? 風や雲を警戒する人は出航しないであろう。また、雲を見る人は決して大海原を渡りはすまい。農夫や船乗りから、商人へと目を移せば、競争だの、自分の商売の種々の困難だのを四六時中気に病んでいるような商売人が、事を行なうことなどあるだろうか? その商売は、それで生計など立てられないほど寸断されているのである。私はこうしたことをあらゆる商売について聞いたことがあると思う。だがしかし、私たちの友人たちは暮らしを続けているし、その何人かは、毎年金銭を失っていると思われているのに、金持ちになるのである! 物価の騰落を見ては小心になり、市場の変化のために何の取引もしようとしない者は、刈り入れをしないであろう。労働者に目を向けても、いま私が言及したばかりの人々と同じである。いかなる職業や仕事であれ、あれやこれやの困難に取り巻かれていないものはないからである。事実、私が友人たちから聞かされたことに基づいて立てた意見はこうである。あらゆる商売は全く最悪の商売である。というのも、考え方次第では、このことを、それなりにはっきりと証明する人がいるからである。私も、自分がこの件について聞くことを盲目的に信じているとは云えない。それでも、もしそう信じていたとしたら、これが私の達する結論となるであろう。すなわち、いかなる商売あるいは職業においてであれ、種々の状況を警戒する人は決して全くそれに携わろうとしないものだ、と。その人は決して種を蒔こうとしない。決して刈り入れをしようとしない。思うにその人は寝床に赴き、二十四時間中眠っていたいのであろう。そして、しばらくすると、残念ながら、それすらできなくなることに気づき、あの、戸が蝶番で回転するように寝台の上で転がる怠け者[箴26:14]とともに転がることも、結局は文句なしの快楽ではないことを悟るのではないかと思う。

 さて今、愛する方々。もし地上の職業や商売に結びついてこうした種々の困難があるとしたら、天的な事がらにそうした種類のことが何もないとあなたは期待するだろうか? あなたは想像するだろうか? 御国の良い種[マタ13:24]を蒔くことや、束を倉に納める[マタ3:12]ことには、何の困難も失望もないと。あなたは夢見ているだろうか? 天国へ向かって航海する際には、その間中、順風満帆であると。あなたは考えるのだろうか? あなたの天的な取引では、地上的な仕事にしか携わっていない商人よりも試練が少ないと。だとしたら、それはとんでもない間違いである。少しでも天的な職業に乗り出したければ、それを取り巻く種々の困難のことを過度に考える以外のことを行なわなくてはならないであろう。

 しかし、次に、施しの働きにおいて、このことは私たちを阻止するであろう。これが、この箇所におけるソロモンの主題である。「あなたのパンを水の上に投げよ」。「あなたの受ける分を七人か八人に分けておけ」、云々[伝11:1-2]。彼が本日の聖句で意味していることはこうである。もし誰かが、施しに結びついた種々の困難で自分の思いを過度に一杯にしてしまうと、その人はその線では何も行なわないであろう。「風を警戒している人は種を蒔かない。雲を見ている者は刈り入れをしない」。ある人は云うであろう。「私が金を与えようとしている人間が、本当にそれに値しているか、どうすれば分かるというのか? それで彼が何をするか知れたものではないではないか? 私が怠惰や物乞いを助長していないとなぜ分かるだろうか? あの男に施すことで、私は本当はためにならないことをするのかもしれない」。ことによると、あなたに依頼されているのは、ある個人に施しをすることではなく、何らかの大きな働きのための献金かもしれない。そのとき、もしあなたが雲を見ているとしたら、あなたはこう云い始めるであろう。「この働きが成功すると、なぜ分かるのか? ヒンドゥー人のように教養ある人々のもとに宣教師たちを遣わしても、彼らが回心する見込みなどあるだろうか?」 そうしたことを云うなら、あなたは種を蒔かないであろうし、刈り入れをしないであろう。だが、数多くの人々は、まさにそうしたしかたで語るのである。何らかの事業を開始するとき、それに反対する者が出なかった試しはない。また、キリストご自身が行なわれた最善の働きでさえ、批判の余地ないものであったとは私は思わない。一部の人々は、決まってそれにけちをつけた。「しかし」、と別の人は云うであろう。「私の聞いたところ、その本部の運営方法はあまり感心しないものだといいますよ。あまりにも多額の資金が業務管理に費やされており、この方面やあの方面で大きな無駄があると思います」。よろしい。愛する方々。云うまでもなく、あなたが物事の運営に当たるなら、それ歯完璧に運営されるのであろう。だが、知っての通り、あなたが何もかも行なうことはできない。それゆえ、あなたは誰かを信頼しなくてはならない。種々の協会や、機関や、働きや、ありとあらゆる種類の伝道団体について、私にはただこうとしか云えない。「風を警戒している人は種を蒔かない。雲を見ている者は刈り入れをしない」。もしこれが、あなたのしていることだとしたら、――不完全さや困難を見つけ出しているとしたら――、とどのつまり、あなたは何事も行なわずに終わるであろう。

 もう少し先に進むと、このことは、一般の職業や施しの働きについて真実であるが、それと同じように、特に神に仕える働きにおいて真実である。さて、もし私が自分の精神の中で、人間の生来の堕落しか考えるべきでないとしたら、私は二度と説教することはないはずである。福音を罪人たちに説教することは、死人にその墓から起き上がれと命ずるのと同じくらい愚かなことである。私が説教する理由は、神がみこころによって、「宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められた」[Iコリ1:21]からにほかならない。私は、神からの離反や、人間の心のかたくなさを見つめるとき、古きアダムが私には手強すぎるのを見いだす。そして、もし私が堕落という一片の雲、また、原罪、また、人間の生来の堕落を見ているとしたら、私としては、種を蒔くことも、刈り入れをすることもしないはずである。しかしながら、残念なことに、こうしたことが数多く起こっているのではないかと思う。多くの説教者たちは人間の崩壊ぶりを凝視しては、それを明確に見てとりすぎて、あえてこう云おうとはしないのである。「主は仰せられる。干からびた骨よ。生きよ」、と[エゼ37:4参照]。彼らはこう叫ぶことができない。「愛する《主人》よ。私たちを通して語ってください。仰せになってください。『ラザロよ。出て来なさい!』、と」。ある人々はこう云っているかに思われる。「行って見てきなさい。ラザロが、墓の中にいる自分の状態について何らかの種類の感覚を持っているかどうかを。もしそうなら、私は彼を呼び出しましょう。それなら、彼は出て来れると思いますから」。このようにして、あらゆる重荷をラザロに投げかけ、ラザロに頼り切るのである。しかし、私たちは云う。「たとい彼が死んで四日になり、すでに腐り出しているとしても、それは私たちと何の関係もない。もし私たちの《主人》が私たちに、彼を墓から呼び出すようお命じになるとしたら、私たちは彼を呼び出せるし、彼は出て来るであろう。彼自身の力で出て来ることができるからではなく、神が彼を出て来させることがおできになるからである。というのも、今は、墓の中にいる者が神の御声を聞き[ヨハ5:28]、聞く者たちは生きる時だからである」、と。

 しかし、愛する方々。私たちは、もし風や雲を見ているとしたら、ある種の人々のところには決して行って彼らの救いを求めようとはしないはずである。というのも、彼らはことのほか悪い人々だからである。あなたも観察して知っている通り、ある人々は他の人々よりも格段に悪人である。彼らは、親切にも、他のいかなる人間らしい扱いにも素直に従わない。律法によって恐れさせられも、愛によって感動させられもしないように見受けられる。私たちの知っているある人々は、時々すさまじい激怒に駆られ、私たちが彼らにかけていた一切の望みを、秋風の前の枯れ葉のように吹き飛ばしてしまう。あなたはそうした人々を知っており、彼らを「敬遠する」。一部の少年たち、また、一部の少女たちは、全くの性悪で、軽薄さに満ち、悪意と敵意で一杯になっている。それで、あなたは自分に向かって云う。「あれらには手のつけようがない。何をしても役に立たない」、と。全くその通り。あなたは風を警戒し、雲を見ているのである。あなたは、イザヤがこう云っているような人々のひとりにはならない。「ああ、幸いなことよ。すべての水のほとりに種を蒔くあなたがたは」*[イザ32:20]。

 ある人はこう云うかもしれない。「私は人々の道徳的状態は気になりません。ですが、問題は彼らの環境なのです。ある人を救おうとしても、彼が今しているように、あのようにぞっとするような通りで、一部屋の中に暮らしている間は、それが何になりましょう? これこれの婦人を引き起こそうと努めても、今の彼女のように、あのような模範に取り囲まれている間は、それが何になりましょう? 大気そのものが汚れていると思われるのですよ」。まさにその通り。愛する方々。あなたが風を警戒し、雲を見ている間、あなたは種を蒔かず、刈り入れをしないであろう。あなたは、その働きを試みようとせず、もちろん、始めもしないことを完了することはできない。

 見ての通り、そのようにしてあなたは、ある種の人々に対して何もしないでいるありとあらゆる種類の云い訳を作り出し続けることができる。彼らが、神が祝福する見込みのある人々ではないと感じるか、思うかしているためである。私は、こうしたことがよくある事例であることを知っている。非常に真面目で、真剣な、キリストのための働き人たちの間でさえそうである。あなたがたの間ではそうではないようにするがいい。愛する方々。むしろ、この詩人の言葉に従う人々のひとりとなるがいい。――

   「あらゆる水辺に 種を蒔き、
    大路にあぜを 蓄えよ、
    茨、おどろの 中に投げ、
    岩地の上に ふりまけよ」。

 しかしながら、この原則をさらにもう少し進めさせてほしい。あなたは、あなた自身の永遠のいのちの用向きに関する種々の環境を過度に考えすぎることがありえる。あなたは、その件で風を警戒して決して種を蒔かず、雲を見ていて決して刈り入れをしないことがありえる。ある人は云う。「私は、決して救われることができないのではないかという気がします。私のような罪人は今までいませんでした。私のもろもろの罪は、ことのほかどす黒いのです」。しかり。そして、もしあなたがそれらを見続け、《救い主》をも、その無限の救いの力をも思い出さないとしたら、あなたは祈りと信仰において種を蒔かないであろう。「あゝ、先生。ですが、あなたは、私の脳裡をよぎる身の毛もよだつような思いを、あの暗黒の前兆をご存知ないのです」。それは分かっている。愛する方々。私はそれを知らない。私は自分が感じていることは知っており、あなたの感じていることも、私自身が感じていることと非常に似ていると思う。だが、それがいかなるものであれ、もしキリストを仰ぎ見る代わりに、あなたが常にあなた自身の状態、あなた自身のしなびた希望の数々、あなた自身の破られた決意の数々を観察しているとしたら、あなたは今いるところにずっととどまり続け、種を蒔くことも、刈り入れをすることもないであろう。

 愛するキリスト者たち。あなたがた、長年の間、信仰者であった人たち。もしあなたが自分の心持ちや感情によって生き始めるとしたら、あなたも同じ状態に陥るであろう。「私は祈りたい気分がしません」、とある人は云う。ならば、それはあなたが最も祈るべき時である。というのも、明らかにあなたには最も必要があるからである。だが、もしあなたが、果たして自分が祈るべき適当な心持ちにあるかないかを観察してばかりいるなら、あなたが祈ることはないであろう。「私は、約束をつかむことができないのです」、と別の人は云う。「私は神を喜び、そのみことばを堅く信じたいのです。ですが、私の内側には、私の慰めの助けとなるようなものを何1つ見てとれないのです」。かりにそうだとしよう。では結局あなたは、自分を土台にして建て上げられようというのだろうか? あなたは、自分の慰藉の根拠を自分自身の心の中に見いだそうとしているのだろうか? だとしたら、あなたは方針を誤っている。私たちの希望は自己のうちにではなく、キリストのうちにある。行って、それを蒔こうではないか。私たちの希望は、キリストの完成したみわざにある。行って、それを刈り入れようではないか。というのも、もし私たちが風や雲を見続けるとしたら、私たちは種を蒔くことも、刈り入れをすることもないからである。あなたが低調なときも、好調なときと同じようにキリストを信じ、キリストの完成した救いを信ずること、これは霊的な事がらにおいて学ぶべき大きな教訓だと思う。というのも、山頂におけるキリストは、谷底におけるキリストにまさってキリストになるわけではなく、真夜中の嵐の中におけるキリストは、日中の陽光の中におけるキリストよりも劣ったキリストになるわけではないからである。あなたの慰めによってあなたの安全を測り始めてはならない。むしろ、永遠のみことばによって測るがいい。あなたが信じてきた、また、真実であると知っており、より頼んでいるみことばによって。というのも、ここでもやはり、私たちの胸という小さな世界の内側でも、「風を警戒している人は種を蒔かず、雲を見ている者は刈り入れをしない」*からである。私たちは、そうした考え方を完全に捨て去らなくてはならない。

 私は、私の第一の所見、すなわち、自然の種々の困難は過度に考察されすぎることがある、の真実さを十分に証明するだけのことを語った。

 私の第二の所見はこうである。《そうした考察は、私たちをいくつかの罪に巻き込む》

 もし私たちが、神に信頼する代わりに、種々の状況を観察し続けているとしたら、私たちは不従順のそしりを免れないであろう。神は私に種を蒔くよう命じておられる。だが私は蒔かない。風が私の種のいくつかを吹き飛ばすかもしれないからである。神は私に刈り入れるよう命じておられる。だが私は刈り入れない。そこに一片の黒雲があり、私が収穫を収容し終える前に、その一部が駄目になってしまうかもしれないからである。何とでも好きなことを云えよう。だが、私は不従順のそしりを免れない。自分に命じられたことを行なわなかったのである。私は天候を云い訳にした。だが、不従順だったのである。愛する方々。あなたは、天空が落っこちて来ようが来まいが、神があなたに行なえとお命じになったことを行なうべきである。たといあなたが天空が落っこちて来ると知っていたとして、また、不従順になればそのつっかい棒をすることができたとしても、あなたには、そのようにする何の権利もない。私たちが正しく行なうことによって何が生ずるかは、私たちの関知するところではない。私たちは正しいことを行ない、その結果を朗らかに甘受すべきである。あなたは、従順が常に一匙の砂糖で報われることを欲するのだろうか? あなたは、すぐに何か小さな玩具が与えられない限り何も行なえないような赤子なのだろうか? キリスト・イエスにある人は正しいことをするものである。たといそれが幾多の損失や十字架、中傷や叱責、しかり、殉教そのものをさえ伴うことになるとしても関係ない。願わくは神があなたを助けてそうさせてくださるように! 自分の種を水の上に投げよと命じられているときに、風を警戒して、種を蒔かない者は不従順のそしりを免れない。

 次に、もし私たちはが風のために種を蒔けなければ、不信仰のそしりをも免れない。風を御しているのはどなただろうか? あなたは東西南北の主であられるお方を信用していないのである。もしあなたが雲のため刈り入れをしなければ、あなたは雲を作るお方、雲をその足でかき立てる砂ほこりとしておられるお方[ナホ1:3]を疑っているのである。あなたの信仰はどこにあるのか? あなたの信仰はどこにあるのか? 「あゝ!」、とある人は云う。「私が神に仕えることができるのは、私が助けを得たとき、感動させられたとき、成功の望みを見てとれるときです」。これは貧しい仕え方である。信仰の欠けた仕え方である。それについて、こう云っても良いではないだろうか? 「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません」[ヘブ11:6]。私たちの行なう事がらは、その中にある信仰の量に完全に応じ、それに比例して、神に受け入れられるものとなるであろう。風と雲を警戒するのは不信仰である。私たちはそれを思慮と呼ぶかもしれない。だが、不信仰こそ、その真の名である。

 次の罪は、事実、反逆である。ではあなたは、神があなた好みの風を吹かせることをお選びにならない限り、種を蒔こうとしないのだろうか。また、神が雲を追いやってくださらない限り、刈り入れをしようとしないのだろうか? 私は、それを反抗、反逆と呼ぶ。律儀な家臣は、いかなる天候の下にあっても王を愛する。真のしもべは、自分の主人がいかに好き勝手なことをしても、主人に仕える。おゝ、愛する方々。私たちはあまりにもしばしば神の御座を狙っている! 私たちはそこに上っては、物事を牛耳りたいのである。――

   「秤と杖とを 御手より奪い、
    自ら裁きをやり直し――神の神にならんとす」。

おゝ、もし神が私の種々の状況を変えてくださりさえするなら! これは、人々が荒野でしたように神を試みること、神が行なっておられること以外のことを行なうよう願うことでなくて何だろうか? これは神に不正を行なうよう願うこうである。というのも、神が行なわれることは常に正しいからである。だが私たちは、神がなさることに不平を云うことによって逆らったり、神の聖なる御霊を痛ませたり[イザ63:10]してはならない。あなたは見てとらないだろうか? これは私たちの短所の責めを主になすりつけることであると。「もし私たちが種を蒔かないとしても、私たちを責めてはならない。神が正しい風を送らなかったのだ。もし私たちが刈り入れをしないとしても、どうか私たちをとがめないでくれ。空に雲があるというのに、なぜ私たちは刈り入れをするものと思われなくてはならないのか?」 これは、自分自身の怠慢と悪行について神を責め、《天来の摂理》を、自分のもろもろの罪を積み上げる荷馬にしようとする努力でなくて何であろう? 願わくは神が私たちを、そうした反逆から救ってくださるように!

 私たちが常に自分の種々の状況を眺めているとき、そしりを免れないもう1つの罪は、愚かしい恐れ、これである。私たちは、そこに何の罪もないと考えるかもしれないが、愚かしい恐れの中には大きな罪がある。神はご自分の民に恐れるなと命令された。ならば、私たちは神に従うべきである。そこに雲がある。なぜあなたはそれを恐れるのか? それは、すぐになくなるであろう。雨粒一滴もそこから降ってこないかもしれない。あなたは風を心配している。なぜそれを恐れるのか? それは決して来ないかもしれない。たといそれが近づきつつある破壊的な風だったとしても、それは方角を変えて、あなたに近づかないかもしれない。私たちはしばしば決して起こらないことを恐れる。私たちは、恐れている者が自分の中で一千回も死ぬのを感じる。多くの人々は、決して起こらないだろうことを恐れてきた。あなたがたが想像上の鞭で自らをむち打つのは非常に痛ましいことである。苦難がやって来るまで待つがいい。さもなければ、これまでしばしば繰り返したことのある話を聞かせよう。ある母親の子どもが、わあわあ泣いていた。泣くなと云っても、泣き続けた。そこで彼女は云った。「ああそうかい。どうしても泣くっていうなら、ほんとに泣かなきゃいけないもんをくれてやるよ」。もしあなたが理由もなしに恐れようというなら、おそらくあなたは本当に恐れなくてはならないものを受けとるであろう。神はご自分の民が愚か者になることを愛されないからである。

 ある人々は、吝嗇の罪に陥る。よく見るがいい。ソロモンがここで施しについて語っていることを。雲と風を警戒する者はこう考えるのである。「それは、助けるべき対象としては、よろしくない」。そして、もし自分がここに寄付すれば、あるいは、あそこに寄付すれば、害になると考える。それは結局こういうことであろう。あわれなしみったれよ。あなたは、自分の金を取っておきたいのである! おゝ、私たちは、自分のかくしの安全を確保するための釦を、何と次々と作り続けることか! ある人々には、常時準備の整った釦工場がある。彼らは常に、自分に提示されたものに寄付すべきでない理由、あるいは、自分の助けを求める貧しい人に施すべきでない理由を有している。私は切に願うが、この場にいる神の子どもたちはみな、この罪を避けてほしい。「あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい」[マタ10:8]。あなたは気前の良い《主人》の管理者なのである。ならば、主という主の中でも最も物惜しみしない主が、最もけちくさいしもべたちを有しているなどということが決して云われないようにするがいい。

 別の罪は、しばしば怠惰と呼ばれる。風ゆえに種を蒔かない者は、普通は怠け者すぎて種を蒔かないのである。また、雲ゆえに刈り入れをしない者は、もう少しだけ眠りたい、もう少しだけまどろみたい、もう少しだけ手をこまねいて眠っていたいのである。私たちが神に仕えたくない場合、いかに多くの理由を見つけだせるかは驚異的なほどである。ソロモンによると、怠け者はちまたに獅子がいると云った。「道に獅子がいる」、と彼は云った。「町通りに雄獅子がいる」[箴26:13 <英欽定訳>]。何たる嘘であろう。というのも、獅子たちは、人が砂漠を恐れるのと同じくらい町通りを恐れるからである! 獅子は町通りに来るものではない。獅子がそこにいると云ったのは怠慢さだったのである。あなたは先日の晩、説教するように頼まれたし、説教することもできた。だが、あなたは、いいえ、説教できません、と云った。しかしながら、あなたは、ある政治集会に出席したではないだろうか。また、普通説教するよりも二倍も長く語ったではないだろうか。別の友人は、《日曜学校》で教えるように頼まれて、「私には教える賜物がありません」、と云った。別の人が後であなたについて、彼には教える賜物がないのだと口にした。するとあなたは非常に怒り、何の権利があって自分についてそのようなことを云うのかと詰問したのである。私の聞いたことのある一部の人々は、キリスト教の働きへと招かれたときには、自分で自分の価値を下げるようなことをしておきながら、その後で誰かから、「それは本当だね。君には何もできないよね」、と云われると、そう語った人を殴り倒したいような顔をするのである。おゝ、しかり、しかり、しかり。私たちは常にこうした風や雲について云い訳をしているが、内実そのようなものは何もないのである。それはみな、私たちの麦の種を取っておき、それを蒔く面倒をせずにすむためのものなのである。

 見ての通り、私は、このように風や雲に対する警戒という中にくるみこまれている罪また罪を長々と列挙してきたではないだろうか。もしあなたが、これらのいずれかの罪を犯してきたとしたら、あなたの不正を悔い改めるがいい。そして、それを繰り返してはならない。

 私はこの主題のこの部分については、あなたを長々と引き留めないであろう。これからは第三のことを、ごく手短に言及したい。《私たちは、自分がこの悪に陥っていないことを証明しよう》。いかにしてそれを証明できるだろうか?

 それを証明すべき最初のしかたは、最も見込みがない所に種を蒔くことによってである。ソロモンは何と云っているだろうか? 「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう」[伝11:1]。行くがいい。私の兄弟姉妹たち。そして、最も見込みのない人々を見いだし、彼らを相手に神のための働きを始めるがいい。今、もしできるものなら、あなたの近隣の最悪の町通りを取り上げるようにし、家から家へと訪問し、もしもそこに、人並み以上に見放された男あるいは女がいるとしたら、その人をあなたの祈りと、聖なる努力との対象とするがいい。あなたのパンを水の上に投げるがいい。そのとき、あなたが神に信頼していること、土壌に信頼しているのでも種に信頼しているのでもないことかが見てとられるであろう。

 次にそれを証明すべきしかたは、非常に多くの人々に善を施すことによってである。「あなたの受ける分を七人か八人に分けておけ」[伝11:2]。あなたの出会うあらゆる人にキリストのことを語るがいい。もし神がある人に対してあなたを祝福してくださらないとしても、別の人に試してみるがいい。そして、もし神がひとりの人においてあなたを祝福してくださったとしたら、もう二人の別の人に試すがいい。そして、もし神が二人の別の人に対してあなたを祝福してくださったとしたら、四人の別の人々に試すがいい。そして、あなたに収穫がもたらされるにつれて、あなたの苗床を拡張し続けるがいい。もしあなたが多くのことを行なっているとしたら、あなたが風や雲を見ているのでないことが示されるであろう。

 さらに、あなたが風や雲を見ていないことを示すには、ここで教えているように思える教訓とは別の教訓を雲から賢く学ぶがいい。その教訓とはこうである。「雲が雨で満ちると、それは地上に降り注ぐ」[伝11:3]。そして、自分に向かってこう云うがいい。「もし神が私を恵みで満たしてくださったとしたら、私たちは云って、それを他の人々に注ぎ出そう。私は救われている喜びを知っており、もし私が主との交わりを有してきたとしたら、私は今まで以上に精勤するように努めよう。なぜなら、神は私に対して常ならぬほど恵み深くあられたからだ。私が満たされていることは、他の人々にとって助けになるだろう。私は他の人々の益のために自分を空にするであろう。雲が地上に雨を注ぎ出すのと全く同じように」。

 それから、愛する方々。それをなおも証明するには、いかに神がお働きになるかを知りたがろうとしないことである。誕生には大きな神秘がある。人間の魂がいかにして子どものからだに宿るようになるか、また、いかにして子どもが形作られるのか。あなたはそれについて何も知らないし、知ることもできない。それゆえ、自分が理解できないことを見てとろうとして近くを捜し回ったり、あなたから隠されていることを詮索したりしてはならない。行って働くがいい。出て行って宣べ伝えるがいい。出て行って、他の人々を指導するがいい。出て行って、魂をかちとろうと求めるがいい。このようにして、あなたは、実際、自分が環境や状況に依存していないことを証明することになるのである。

 さらに、愛する方々。このことを絶えざる勤勉によって証明するがいい。「朝のうちにあなたの種を蒔け。夕方も手を放してはいけない」[伝11:6]。「時が良くても悪くてもしっかりやりなさい」[IIテモ4:2]。私のひとりの友人は、次の聖書箇所に1つの格別な意味を持たせることを学びとっている。「右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい」[マタ6:3]。彼は、最善のしかたは、両方のかくしに金銭を入れておくことだと考えた。片手ずつをそれぞれのかくしに突っ込んでは、両手を献金皿の上に出すのである。さて、キリストに仕える道とは、あなたにできる限りのすべてを行ない、それから、それ以上のことを行なうことである。「否」、とある人は云うであろう。「そんなことはありえません」。私は、なぜそんなことがありえないか分からない。私の見いだしたところ、私がこれまで行なった中で最善のことは、私には行なえなかったことであった。私が自分でうまく行なえたことは、私自身のものであった。だが、私には行なえなかったのに、それでも《永遠のエホバ》の御名と力によって行なったことは、私が行なった中で最高のことであった。愛する方々。朝のうちに種を蒔くがいい。夕方にも、夜にも、そして一日中、種を蒔くがいい。というのも、あなたは神が何を祝福してくださるか決して分からないからである。むしろ、この絶えざる種蒔きによって、このことを決定的に証明するがいい。あなたが風を警戒しても、雲を見てもいないということを。

 さて、次に目を向けたいのは、私のしめくくりの所見である。《この悪を、私たちのわざからと同様、私たちの心から外に出しておくがいい》

 まず最初に、いま私たちの回りの至る所にある教理の風や雲には、何も留意しないようにしよう。吹くがいい、吹くがいい。お前たち、荒れ狂う風たち。だが、お前には私を動かせまい。種々の偽善やでっち上げの雲たちを、いくらでも伴ってやって来るがいい。空が暗くなるまでそうするがいい。だが、私はお前を恐れないであろう。そのような雲は以前も来たが消え去ったし、今後も消え去るであろう。もしあなたが座り込んで、人間のでっち上げた過誤について、また、彼らの新奇な諸教理について、また、いかに諸教会がそれに迷わされてしまっているかを考えれば、あなたは、種を蒔くことも、刈り入れをすることもしないような状態の心に陥るであろう。そうしたものを、あっさり忘れるがいい。何の風も何の雲もないかのように、聖なる奉仕に打ち込むがいい。そうすれば、神はあなたの魂に大きな慰めを与えてくださり、あなたは神の御前で喜び、その真理に確信を持つことであろう。

 それから、次にまた、種々の疑いや誘惑ゆえに、希望を失わないようにしよう。雲や風があなたの心の中に入るとき、また、あなたがかつて感じていたような感情を覚えないとき、また、あなたがかつて有したような霊の喜びや快活さを有しておらず、あなたのあなたの信仰さえも、多少ためらい始めるときには、常に神のもとに行くがいい。神に信頼するがいい。

   「信仰の目が よし霞むとも
    なおもつかめよ、主に、すべてかけ、
    なおも御足の もとにひれ伏せ。
    イスラエルの神 汝が力ならん」。

晴雨計の水銀柱のように上下してはならない。むしろ、あなたが知っていることを知り、あなたが信じていることを信じるがいい。それにしがみつくがいい。そうすれば神は、あなたが心変わりすることなく、何者にも翻されないようにしてくださる[ヨブ23:13 <英欽定訳>]。というのも、もしそうでないとしたら、もしあなたがこうした事がらを注目し始めるとしたら、あなたは種を蒔くことも、刈り入れをすることもないだろうからである。

 最後に、何が起ころうと、主のみこころに従おうではないか。一言で云うと、あなたの顔を火打石のようにし[イザ50:7]、神に仕えるがいい。あなたの聖なる生き方によって、また、あなたのキリスト者としての人格の香りによってそうするがいい。そして、それがなされているなら、地上をも地獄をも、ものともしてはならない。あなたとキリストとの間に、悪霊どもの群れがいるとしたら、聖なる信仰によって彼らを蹴散らして進むがいい。彼らは、あなたの前から逃げ散るであろう。もしあなたに、前進するだけの勇気さえあれば、彼らがあなたを止めることはできない。あなたは、何軍団もの悪霊を鎧袖一触して進むであろう。ただ強く、雄々しくあるがいい[ヨシ1:18]。そして、地獄から出た雲や、よみの穴から吹き出した猛風をさえ見てはならない。むしろ、正し通り道を真っ直ぐに進むがいい。そうすれば、神があなたとともにおられる限り、あなたは種を蒔き、刈り入れをすることによって、神の永遠のご栄光を現わすであろう。

 今晩ここにいる、あわれな罪人は、のるかそるかキリストに信頼してみようとは思わないだろうか? 来るがいい。たとい今晩のあなたが、これまでになく、そうしたい気分に欠けているとしても来るがいい。今でさえ望みをいだくがいい。望みえないときに望みをいだくがいい。信じえないときに信じるがいい[ロマ4:18]。キリストに自分をゆだねるがいい。たとい主が抜き身の剣を手にして立ち、それをあなたに突き刺そうとしているように思われるかもしれなくとも関係ない。怒っているキリストをさえ信頼するがいい。あたいあなたのもろもろの罪が主を痛ませてきたとしても、行って主に信頼するがいい。風が吹くからといって、あるいは、雲が突如現われたからといって、止まってはならない。ただ、ありのままのあなたで、自分の回りには何1つ善の痕跡もないまま、行ってキリストをあなたの《救い主》として信頼するがいい。そうすれば、あなたは救われる。願わくは神が、あなたにそうする恵みを与えてくださるように。イエスのゆえに! アーメン。

----

 

風の中で種を蒔き、雲の下で刈り入れる[了]

-

HOME | TOP | 目次