無知な罪人たちのためのキリストの嘆願
NO. 2263
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「そのとき、イエスはこう言われた。『父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです』」。――ルカ23:34
ここには、いかなる優しさがあることであろう。いかなる無私無欲さ、いかなる全能の愛があることであろう! イエスは、ご自分を十字架につけた者たちに向かって、「下がりおれ!」、とは仰せにならなかった。そのような一言があれば、彼らはみな逃げ散ったに違いない。彼らは、あの園に主を捕えに来たとき、主がほんの短い言葉を語っただけで、後ずさりし、そして地に倒れた[ヨハ18:6]。そして、主が十字架にかかっておられる今も、ただ一語で、全集団は地に倒れるか、肝を潰して逃げ去ったことであろう。
イエスはご自分を守るためには一言も仰せにならなかった。御父に祈ったとき、主は正しくもこう仰せになれたであろう。「父よ。彼らがあなたの愛する子に何をしているか目をとめてください。彼らが、彼らを愛し、彼らのためにできる限りのことを行なった者に対して加えた不正のゆえに、彼らを審いてください」、と。しかし、イエスが発されたことばの中に、彼らを非難するような祈りは全くなかった。古に預言者イザヤはこう記していた。「彼は……そむいた人たちのためにとりなしをする」[イザ53:12]。そして、ここでそれが成就しているのである。主はご自分を殺そうとしている者らのために嘆願しておられる。「父よ。彼らをお赦しください」。
主は、叱責のことばを一言も発しておられない。こうは仰せになっていない。「あなたがたはなぜこのようなことをするのか? なぜあなたを養った手を刺し貫くのか? なぜ、あわれみによってあなたの後を追った足を釘づけるのか? なぜあなたを愛して祝福した《人》を嘲るのか?」 しかり。そこには、穏やかな叱責のことばすらなく、ましてや呪詛のようなものは何1つない。「父よ。彼らをお赦しください」。注意すると、イエスは、「わたしは彼らを赦します」、とは云っておられない。だが、それは行間に読みとることができよう。主は、それをことばにしていないがために、いやが上にもそう云っておられるのである。しかし、主はご自分の威光をすでに脇に置いており、今は十字架につけられている。それゆえ、赦す権威を持つ者としてのいや高い立場よりは、むしろ、一嘆願者という謙遜な立場を取られたのである。人々が、「あなたを赦してあげましょう」、と云うとき、いかにしばしば、そこには一種の利己的なものがまつわりついていることか! いずれにせよ、赦すという行為そのものによって、自我が主張されているのである。イエスは懇願者の立場をお取りになる。ご自分の殺害を犯しつつあった者らのための懇願者である。主の御名はほむべきかな!
この十字架上のことばを今晩は用いて、そこから何か教えられるものが汲みとれないか見てみたいと思う。というのも、確かに私たちはその場にいたわけでなはく、現実にイエスを殺したわけではないが、実際、私たちはその死の原因となった者であり、私たちもまた栄光の主を十字架につけた[Iコリ2:8]からである。そして、私たちのために主がこう祈られたからである。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」。
私はこの聖句を、講解によってよりも、経験によって扱いたいと思う。私の信ずるところ、この場にいる多くの人々にとつて、この言葉は非常に適切なものであろう。次のような筋道で考えていきたい。第一に、私たちは、ある程度まで無知であった。第二に、私たちは、この無知が何の弁解にもならないことを告白する。第三に、私たちは、私たちのために嘆願しておられるがゆえに私たちの主をほめたたえる。そして第四に、私たちは今、私たちが得ている赦罪を喜んでいる。願わくは聖霊が、この瞑想において私たちを恵み深く助けてくださるように!
私たちの過去の経験を振り返るとき、まず第一に云いたいのは、《私たちは、ある程度まで無知であった》ということである。私たち、赦されている者たち――私たち、《小羊》の血で洗われた者たち――その私たちは、かつては大いに無知によって罪を犯していた。イエスは云われる。「彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」。さて、私はあなたがたに訴えよう。兄弟姉妹。あなたがサタンの支配の下で生きており、自分と罪に仕えていたとき、そこには、ある程度の無知がなかっただろうか? あなたは真実にこう云えるではないだろうか? たった今、私たちが歌った賛美歌の中でこう云ったことを。――
「あゝ! われ知らざりき、わが為(な)せしことを」。
最初に、確かに私たちは罪のすさまじい意味について無知であった。私たちは子どもの頃から罪を犯し始めた。それが良くないことだとは知っていた。だが、罪が意味するすべてのことを知ってはいなかった。私たちは青年として罪を犯し続けた。ひょっとすると、大きな邪悪さの中に没入したかもしれない。それが良くないことだとは知っていた。だが、それを一から十までを見通してはいなかった。それは私たちには、神に対する反逆には見えなかった。私たちは、自分が増上慢にも神に公然と反抗し、神の知恵を無視し、神の力に挑戦し、神の愛を蔑み、神の聖さをはねつけているとは思っていなかった。だが、私たちはそうしたことをしていたのである。罪には奈落の深淵がある。その底を見ることはできない。私たちは、甘露のような罪に舌鼓を打っていたとき、その致命的な甘苦さの中に化合されていた恐ろしい成分のすべては知っていなかった。私たちは、あえて神に反逆する生き方をしていたとき、自分の犯していた途方もない犯罪について、ある程度まで無知であった。ここまでは、あなたも私について来ることができると思う。
その頃の私たちは、自分に対する神の大いなる愛を知らなかった。私は、神が世の基の置かれる前から私を選んでおられたこと[エペ1:4]を知らなかった。夢にも思ったことがなかった。私は、キリストが私の《身代わり》として私の代理となり、私を人々の中から贖われた[黙14:4]ことを知らなかった。そのときは、キリストの愛を知らず、理解してもいなかった。あなたは、自分が永遠の愛に背き、無限のいつくしみに背き、永遠からあなたの上に神が据えておられたような、分け隔てする愛に背いて罪を犯していたことを知らなかった。ここまでは、私たちは自分のしていたことを知らなかった。
また、やはり私たちは、キリストを拒絶し、キリストを悲しませることによって自分が何を行なっていたか、そのすべては知っていなかったと思う。主は幼少の頃の私たちのもとに来られた。そして、ある説教によって感銘を受けて私たちは震え、その御顔を求め始めた。だが、私たちは再びこの世におびき寄せられ、キリストを拒絶した。私たちの母の涙や、父の祈りや、教師の勧告は、しばしば私たちを感動させた。だが私たちは非常に強情で、キリストを拒絶した。私たちは、その拒絶において、実質的にキリストを殺し、十字架につけていることを知らなかった。私たちは、キリストの《神格》を否定していた。さもなければ、キリストを礼拝していたはずである。私たちは、キリストの愛を否定していた。さもなければ、キリストに屈していたはずである。私たちは実質的に、あらゆる罪の行為において、槌と釘を手に取ってはキリストを十字架につけていたのに、それを知らなかった。ことによると、もしも知っていたとしたら、栄光の主を十字架につけはしなかった[Iコリ2:8]かもしれない。私たちは、自分が良くないことをしていると知っていた。だが、自分がしていることがいかに良くないかを余さず知ってはいなかった。
また、私たちは完全には私たちの愚図つきの意味を知らなかった。私たちはためらった。回心の瀬戸際まで行った。引き返しては、自分の昔ながらの愚行へと舞い戻った。私たちはかたくなで、なおもキリストを持たず、祈りもないままだった。そして私たちひとりひとりはこう云った。「おゝ、私はちょっと待っているだけにすぎない。今の約束を果たすまで、もう少し年を取るまで、もう少し世間を見るまで!」 実を云えば、私たちはキリストを拒絶し、キリストの代わりに罪の快楽を選んでいたのである。そして、そのように引き延ばす一刻一刻は、キリストを十字架につけ、その御霊を悲しませ、麗しくも永遠にほむべきキリストに代えてこの世という淫婦を選んでいる一刻一刻であった。私たちはそれを知らなかった。
私は、もう1つのことをつけ足せると思う。私たちは、自分が自分を義としようとする意味を知らなかった。私たちの中のある者らは、常々、自分にはそれなりの義があると思っていた。私たちは、教会や集会所が開いているときには、きちんとそこに通っていた。洗礼を授けられ、堅信礼を受けていた。あるいは、ひょっとすると、そうした事がらを一度も受けたことがないことを喜んでいたかもしれない。このようにして、私たちは種々の儀式に、あるいは、そうした儀式を受けなかったことに自分の信頼を置いていた。私たちは毎日祈りを唱えていた。朝晩一章ずつ聖書を読んでいた。それから――おゝ、私には、私たちが行なっていなかったことを思いつけない! しかし、そこに私たちは安んじていた。私たちは自分で自分を義と評価していた。私たちには、特にあらたまって告白すべき罪もなければ、神の威光の御座の前でちりの中に伏すべき何の理由もなかった。私たちは、ほぼ自分にできる限り善良であった。そして、私たちは、自分が、その時でさえキリストに最高の侮辱を加えていることを知らなかった。というのも、もし私たちが罪人でなかったとしたら、なぜキリストは死んだのだろうか? また、もし私たちに十分に善良な自分自身の義があったとしたら、なぜキリストは地上に来て、私たちのための義を作り出されたのだろうか? 私たちは、キリストの贖罪のいけにえにより頼まなくとも、十分に善良であると考えることによって、キリストを余計なおまけのようにしてしまった。あゝ、私たちは自分がそのようなことをしているとは思っていなかった! 私たちは、自分の義によって、自分の外的な業績によって、自分の教会内での正しさによって、神を喜ばせていると思っていた。だが、その間ずっと私たちは、キリストに代わって反キリストを打ち立てていたのである。私たちは、キリストをお呼びでないとしていた。キリストからその職務と栄光を奪っていた! 悲しいかな! キリストは、こうしたすべての点で、私たちについてこう仰せになるであろう。「彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」、と。私は、あなたに静かに反省してほしいと思う。あなたが罪に仕えていた過去の時のことを。そして、はっきり見てとってほしいと思う。果たしてあなたの思いに暗闇がかぶさり、あなたの霊に盲目さがあって、あなたが何をしているか分からないことはなかったかどうかを。
さて今、第二に、《私たちは、こうした無知が何の弁解にもならないことを告白する》。私たちの主は、これを1つの嘆願として申し立てて良いであろう。だが、私たちは決してそれを口実として申し立てることができないであろう。私たちは自分のしていたことを知らなかった。それで、最大限に咎があったわけではなかった。だが、十分に咎があった。それゆえ、それを認めようではないか。
というのも、まず最初に思い出すべきは、律法は決してこれを口実とすることを許さないということである。私たち自身の国法においては、人は法がいかなるものかを知っているものと想定されている。それを破るなら、法を知らなかったと申し立てても何の弁解にもならない。それは、裁判官によって何らかの情状酌量とみなされるであろう。だが、律法はそうした種類のことを決して許さない。神は私たちに律法を与えておられ、私たちはそれを守る義務があるのである。もし私が律法を知らずに過ちを犯したとしても、それでもそれは罪であった。モーセ律法の下には、いくつかの無知の罪があり、そのための特別のいけにえがあった。無知はその罪を拭い去りはしなかった。それは本日の聖句において明白である。というのも、もし無知による行動がもはや罪深いものでなくなるとしたら、なぜキリストは、「父よ。彼らをお赦しください」、と云われたのだろうか? しかし主はそう云われた。罪であることのために、あわれみを求められた。その犯罪性が無知によってある程度まで軽減されると思われようとも、関係なかった。
しかし、愛する方々。私たちは知ることもできたかもしれなかった。たとい知らなかったとしても、それは私たちが知ろうとしなかったからであった。みことばは宣べ伝えられていた。だが、私たちは聞きたいと思わなかった。このほむべき《書》もあった。だが私たちは読みたいと思わなかった。もしあなたや私が腰を下ろして、聖書に照らして自分のふるまいを眺めていたとしたら、私たちは罪の悪について、またキリストの愛について、キリストを拒絶し、キリストのもとに行こうとしないことにおいて起こりえる忘恩について、はるかに多くのことを知ることができたかもしれなかった。
それに加えて、私たちは考えることをしなかった。「おゝ、ですが」、とあなたは云うであろう。「若者は決して考えないものですよ!」 しかし若者は考えるべきである。もし考えることが必要ない者が誰かひとりいるとしたら、それは、寿命が尽きかかっている老人である。たとい実際に考えるとしても、その人が活用すべき時間はごく僅かしかない。だが、若者には、その全人生が行く手に広がっている。もし私が大工で、ある箱を作らなくてはならないとしたら、その箱を作った後で、その箱について考えるべきではない。自分の材木を切り始める前に、それがいかなる種類の箱になるかを考えるべきである。あらゆる行動において、人は始める前に考える。さもなければ馬鹿である。若者は、他の誰よりも考えるべきである。というのも、彼は今いわば自分の箱を作りつつあるからである。彼は自分の人生設計を始めつつある。いかなる人にもまして最も考え深くあるべきである。今やキリストの民となっている私たちの中の多くの者らは、もしも年若い頃にもっと注意深くキリストについて考察していたとしたら、私たちの主についてずっと多くのことを知っていたことであろう。人は妻を迎えることについては考察しようとする。商売を始めることについては考察しようとする。馬や牛を飼うことについては考察しようとする。だが、キリストの数々の主張については、また、《いと高き神》の数々の主張については考察しようとしない。そして、これにより彼の無知は故意のものとなり、云い逃れのできないものとなる。
それに、愛する方々。確かに私たちは無知を告白したが、数多くの罪において、私たちは多くのことを知っていた。さあ、あなたの記憶を私によみがえらさせてほしい。ある時々には、あなたは、これこれの行動が良くないと知っており、そこから退いたことがあった。だが、そこから得られる利益を眺めたとき、あなたはその代価のために自分の魂を売り渡し、良くないと百も承知していることを意図的に行なった。この場にいる、キリストによって救われた人々の中にも、自分の良心に背いたことがあると告白せざるをえない人たちがいるではないだろうか? 彼らは神の御霊を蔑み、天の光を消し、御霊を自分のもとから追い払い、自分が何をしつつあるかを明確に知っていた。私たちは、自分の心の沈黙の中で神の前にひれ伏し、こうしたすべてのことを認めようではないか。私たちは《主人》がこう仰せになるのを聞く。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」。私たち自身の涙を添えてこう云おう。「そして、私たちをお赦しください。私たちは、ある事がらにおいては実は知っていたからです。あらゆる事がらにおいて、私たちは知ることもできたはずでした。ですが、考えなしのために無知でした。そのように考えることは、私たちが神にささげなくてはならない厳粛な義務であったというのに」。
さらに私がこの項目において云いたいことが1つある。ある人が無知であり、自分のすべきことを知らないとき、その人は何をすべきだろうか? よろしい。知るまでは何もすべきではない。しかし、ここにその害悪がある。私たちは、知らなかったときに、それでも良くないことを選んだ。知らなかったとしたら、なぜ私たちは正しいことを選ばなかったのだろうか? 暗闇の中にあるとき、私たちは決して右の正しい方向には向かわない。むしろ常に左に曲がり、罪から罪へとつまづき歩いていく。これは私たちの心がいかに堕落しているかを私たちに示さないだろうか? 私たちは正しくあろうと求めてはいるものの、ひとりきりで放置されると、自分から悪に走るのである。ある子どもをひとりきりにしてみるがいい。ある大人をひとりきりにしてみるがいい。ある部族を教えも指図もなしに放っておくがいい。何が起こるだろうか? 何と、ある原っぱを放置しておくときと同じである。それは決して、万が一にも、小麦や大麦を生じさせはしない。それを放っておけば、雑草、茨、おどろが生い茂り、自然のままの土壌がいかに無価値なものを生じさせるようになるかを明らかにする。おゝ、愛する方々。あなたの生活の悪と同じように、あなたの心の先天的な悪を告白するがいい。なぜなら、あなたは、知らなかったときにも、邪悪な本能を有しているがために、悪を選び、善を拒絶したからである。そして、キリストについて十分知らず、キリストを受け入れるべきか否か分からないほどキリストについて考えていなかったとき、あなたは、いのちを得るためにキリストのもとに来ようとはしなかった[ヨハ5:40]。あなたには光が必要だった。だが、太陽に対して自分の目を閉ざした。あなたは渇いていた。だが生ける泉から飲もうとはしなかった。それであなたの無知は、確かにそこにあったが、犯罪的な無知だったのである。それをあなたは主の前で告白しなくてはならない。おゝ、十字架のもとに来るがいい。あなたがた、以前にそこに行き、自分の重荷をそこで失った人たち! そこで、もう一度あなたの咎を告白するがいい。そしてその十字架をあらためて抱きしめ、その上で血を流されたお方を仰ぎ見、その尊い御名を賛美するがいい。このお方はかつて、あなたのためにこう祈ってくださったのだから。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」。
さて私はもう一歩先に進むであろう。私たちは、ある程度まで無知であった。だが、私たちはその無視できないほどの無知が何の弁解にもならないと告白する。
だが第三に、《私たちは、私たちのために嘆願しておられるがゆえに私たちの主をほめたたえる》。
あなたは、イエスがいつ嘆願されたかに注意しているだろうか? それは、彼らが主を十字架につけている間であった。彼らはその釘を打ちつけただけでなく、その十字架を持ち上げ、その軸受にぶちこんだ。そして主の骨々すべてを外れさせ、主がこう云えるまでとした。「私は、水のように注ぎ出され、私の骨々はみな、はずれました」[詩22:14]。あゝ、愛する方々。まさにそのときこそ、叫びや呻きの代わりに、この愛しい神の御子はこう云われたのである。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」。彼らが自分のために赦しを求めたのではない。イエスが彼らのために赦しを求めておられるのである。彼らの手は主の血に染まっていた。だが、そのときこそ、まさにそのときにこそ、主は彼らのために祈られた。この大いなる愛について考えようではないか。私たちがまだ罪人であった間も、私たちが罪に溺れていたときも、水を飲む雄牛さながらに罪を飲み込んでいたときも、主は私たちを愛されたのである。そのときでさえ、主は私たちのために祈られた。「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました」[ロマ5:6]。主の御名を今晩ほめたたえよ。主は、あなたが自分のために祈らなかったときに、あなたのために祈ってくださった。あなたが主を十字架につけつつあるときに、あなたのために祈ってくださったのである。
それから主の嘆願について考えるがいい。主はご自分が御子であることを申し立てておられる。「父よ。彼らをお赦しください」。主は神の御子であられた。そして、ご自分が天来の御子であられることを、私たちの利益になるように秤に入れてくださった。あたかも、こう云っておられるかのようである。「父よ。わたしはあなたの子なのですから、この願いをかなえてください。そして、この反逆者たちを赦免してください。父よ。彼らをお赦しください」。キリストの、子としての権利は非常に大きかった。主は《いと高き方》の子[ルカ1:32]であった。「光よりの光、まことの神よりのまことの神」[ニカイア信条]であり、《神聖な三位一体》の第二《位格》であられた。そして主は、その御子たることを、ここで神の前に置いて仰せになるのである。「父よ。父よ。彼らをお赦しください」、と。おゝ、この御子のことばの何という力であろう。それを口から発する御子は傷ついているのである。苦悶しているのである。死につつあるのである! 主は云われる。「父よ。父よ。私のたった1つの求めをかなえてください。おゝ、父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのですから」。そして、大いなる御父は、その畏怖すべき頭を垂れて、その請願が認められたしるしとされるのである。
それから注目するがいい。イエスがここで無言のうちに、だが真実に、ご自分の苦しみを訴えておられることを。この祈りをささげたときのキリストの姿勢は非常に著しいものである。その両手は横木の上に引き延ばされており、その足は直立した木に固定されており、そこで主は嘆願されたのである。無言のうちに主の御手と御足は嘆願していた。また、主の苦悶するからだは、その腱と筋肉そのものから神に嘆願していた。主のいけにえは完全に差し出されていた。そのようにして、主の十字架こそ、この嘆願、「父よ。彼らをお赦しください」、を高く上げていたのである。おゝ、ほむべきキリストよ! このようにしてこそ私たちは赦されたのである。というのも、主が御子であられることと主の十字架とが、神に嘆願し、私たちのために神を説き伏せたからである。
私がこの祈りを愛するのは、その大まかさのためでもある。それは、「父よ。彼らをお赦しください」、であった。主は、こうは云っておられない。「父よ。わたしをここに釘づけた兵士たちをお赦しください」。主は彼らを含めておられる。主はこうも仰せになっていない。「父よ。来たるべき時代に、わたしに対して罪を犯すだろう罪人たちをお赦しください」。しかし、主は彼らを意味しておられる。イエスは彼らを決して責めるような名前では言及していない。「父よ。私の敵どもをお赦しください。父よ。私を殺す者どもをお赦しください」。否。この愛しい唇からは、いかなる非難のことばも発されていない。「父よ。彼らをお赦しください」。さて、この「彼ら」という代名詞の中に、私は自分ももぐり込めるのを感じる。あなたはそこに入れるだろうか? おゝ、へりくだった信仰により、キリストの十字架を信頼することによって、十字架を自分のものとするがいい。そして、入り込むがいい。この大きな小さな一言「彼ら」の中に! それは、地上に下ってきた、あわれみの戦車のように思われる。その中に人は乗り込んで良く、それが彼を天国に運び上げるのである。「父よ。彼らをお赦しください」。
また、イエスが何を願い求めているかに注意するがいい。それを省けば、主の祈りの真髄を無視することになるであろう。主は、ご自分の敵たちのための完全な赦罪を願い求められた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らを罰さないでください。彼らをお赦しください。彼らの罪を覚えていないでください。それを赦してください。拭い去ってください。海の深みに投げ込んでください。それを覚えていないでください。わたしの父よ。二度と永遠に、それを口にして彼らを責めないでください。父よ。彼らをお赦しください」。おゝ、ほむべき祈りよ。というのも、神の赦しは広く深いからである! 人が赦すとき、その人は不正の記憶を後に残しておく。だが神が赦罪を与えるときには、こう仰せになる。「わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さない」[エレ31:34]。これこそキリストが、あなたや私が何らかの悔い改めや信仰を持つようになる、はるか前から、私たちのために願い求められたことである。そして、この祈りに答えて、私たちは自分たちの罪を感じさせられ、それを告白させられ、主を信じさせられるのである。そして今、主の御名に栄光あれ、私たちは主をほめたたえることができる。私たちのために懇願し、私たちのあらゆる罪の赦しを獲得してくださったことゆえに。
ここで私は、私が最後に指摘したい点に達した。それはこのことである。《私たちは今、私たちが得ている赦罪を喜んでいる》。
あなたは赦罪を得ているだろうか? これがあなたの歌だろうか?
「うれしや、わが罪 いま赦されぬ、
われ信ずべく、いま信じたり」。私のかくしには、一通の手紙が入っている。差出人は教育も地位もある人で、かつては不可知論者であった。彼によると、以前の彼は皮肉な不可知論者だったというが、今は神をほめたたえる手紙を書いている。そして、《救い主》の足元に自分を導いたがゆえに、私たちの頭の上にあらゆる祝福を祈り求めている。彼は云う。「私は現世には何の幸福もなく、来世には何の希望もありませんでした」。これは多くの不信者について真実な描写だと思う。キリストの十字架を抜きにして、来たるべき世に何の希望があるだろうか? そのような人がいだく希望は、せいぜいみじめな死に方をし、一巻の終わりとなることである。ローマカトリック教徒が死に臨むとき、何がその希望となるだろうか? 私は多くの信心深く熱心な友たちについて気の毒に思う。というのも、私は彼らに何の希望があるか分からないからである。いずれにせよ、彼らはまだ天国に行くことを望めない。まず何らかの煉獄の苦痛を耐え忍ばなくてはならない。あゝ、これは、死の際に頼りとするには、あわれな、あわれな信仰である。そこにある希望は、今際の思いを悩ますようなものでしかない。私の知る限り、キリスト・イエスの信仰のほか、いかなるものも、私たちに罪が赦免され、絶対的に赦されたと告げはしない。さて、聞くがいい。私たちの教えは決して、死に臨んだあなたに向かって、もしかするとあなたも万事問題ないことになるかもしれませんよ、と云うようなものではない。むしろ、こうである。「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです」[Iヨハ3:2]。「御子を信じる者は永遠のいのちを持つ」[ヨハ3:36]。その人は今それを持っており、それを知っており、それを喜んでいる。それで私は、この講話の最後の項目に戻ってくる。私たちは、キリストが私たちのために獲得された赦罪を喜んでいる。私たちは罪赦されている。私は、この聴衆の大部分がこう云えることを望む。「神の恵みによって、私たちは《小羊》の血で洗われたことを知っています」、と。
赦罪は、キリストの嘆願によって私たちのもとにやって来た。私たちの希望は、キリストの嘆願に存しており、特に主の死に存している。もしイエスが私の負債を払ってくださったとしたら、また、もし私が主を信ずるとしたら、主はそうしてくださったのであり、私には負債がないのである。もしイエスが私の罪の刑罰を負われたとしたら、また、もし私が主を信ずるならば、主はそうされたのであり、私が支払うべき罰は何もないのである。というのも、私たちは主に向かってこう云えるからである。――
「完全(また)き贖罪(あがない) 主は遂げて、
払いたまえり 一銭(きわみ)まで、
御民のいかな 負債(おいめ)をも。
神の瞋恚(いかり)も 我れ受けじ、
汝が義にわれは かくまわれ
汝が血この身に 降りければ。「汝れわが免責(ゆるし)を 獲得(と)り給い
代価(かた)なくすべて 身代わりに
天(あま)つ怒りを 忍ぶれば、
刑罰(むくい)を神は 再請求(もと)めえじ。
まず我が流血(ちなが)す 保証人(みうけ)より、
さらに再び わが手より。」。もしキリストが私の罰をお受けになったとしたら、私がそれを受けることは決してない。おゝ、このほむべき確証に何という喜びがあることか! あなたが罪赦されたとの希望はここに、イエスが死なれたことに存している。主のこの愛しい傷口はあなたのために血を流しているのである。
私たちが、自分たちの赦罪ゆえに主を賛美するのは、今や私たちは、自分が何をしたかを知っているからである。おゝ、兄弟たち。私は、私たちがいかに深くキリストを愛するべきか分からない。なぜなら、私たちはキリストに対してはなはだしく重い罪を犯したからである。今や私たちは、罪が「極度に罪深い」[ロマ7:13]ことを知っている。今や私たちは、罪がキリストを十字架につけたことを知っている。今や私たちは、自分が私たちの天的な《愛するお方》の心臓を刺したことを知っている。私たちは、恥辱の死によって、私たちの最上にして最愛の《友》また《恩人》を打ち殺してしまった。私たちはそれを今や知っている。そして、私たちがしたような仕打ちをその方にしてしまったことを考えると、ほとんど血涙を流せるであろう。しかし、それはみな赦され、みな消え去っている。おゝ、この愛しい神の御子をほめたたえよう。私たちの犯したような罪さえ取り去られたこのお方を! 今の私たちは以前よりもずっとその罪を痛感している。それらが赦されていることは知っている。それで私たちの嘆きは、私たちの赦しを買い取るために私たちの《救い主》が支払われた痛みのためである。私たちが、自分のもろもろの罪の正体を知るには、血の汗を流している主を見なくてはならなかった。私たちが自分のもろもろの罪の真紅の色合いを知るには、主の尊い血という真紅の線で私たちの恩赦状が記されているのを見るしかなかった。いま、私たちは自分の罪を見てとっているが、しかしそれをどこにも見ていない。というのも、神がそれを赦し、拭い去り、ご自分の後ろに永遠に投げやってくださったからである。
これ以後、私たちが述べてきたような無知は、私たちにとって憎むべきものとなる。キリストおよび永遠の事がらについての無知は、私たちにとって憎むべきものとなる。もし無知によって私たちが罪を犯してきたとしたら、私たちはそうした無知との関係を絶つであろう。私たちは主のみことばを学ぶ者となるであろう。私たちは、この、あらゆる科学の精髄たる、十字架につけられたキリストの知識を学ぶであろう。私たちは、罪を生み出す無知を私たちからはるか彼方に追い払ってくださるよう、聖霊に願うであろう。願わくは私たちがもはや無知の罪に陥ることなく、こう云えるようになるように。「私は、自分の信じて来た方をよく知っており、これ以後私はより多くの知識を求めます。私がすべての聖徒とともに、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人知をはるかに越えた神の愛を知ることができようになるまで!」[IIテモ1:12; エペ3:18-19参照]
私はここで実際的な一言を云い表わそう。もしあなたが、自分の赦されたことを喜んでいるとしたら、あなたの感謝を示すために、キリストにならうがいい。このような嘆願は、いまだかつて1つもなかった。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」。他の人々のために、これと同じように嘆願するがいい。誰かがあなたを傷つけてきただろうか? あなたを中傷している人々がいるだろうか? 今晩こう祈るがいい。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」。私たちは常に悪に報いるに善を、呪いに報いるに祝福をもってしようではないか。そして、他の人々の悪行によって苦しむよう召されるときには、こう信じよう。彼らも、その無知さえなければ、このように行なうことはないだろう、と。彼らのため祈ろうではないか。そして、彼らの無知そのものを、彼らが赦されるための根拠としよう。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」。
私は、今現在のロンドンの何百万もの人々について、あなたに考えてほしい。この何哩もの町通りが、今晩もその子らを吐き出しているのを見るがいい。だが、群衆がぞろぞろと出入りしている、あの数々の居酒屋を見るがいい。この町の街路を月光で照らし出すがいい。私がほとんど頬を染めずには語れないようなものを見るがいい。また、自分の家々へと帰っていく男女たちについて行くがいい。そして、こう祈るがいい。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」。かの銀の鈴よ。――常に鳴り続けるがいい。私は何と云っただろうか? かの銀の鐘? 否、それは金の鈴である。祭司たちの衣についていた金の鈴である[出28:33]。それをあなたの衣につけるがいい。あなたがた、神の祭司たち。そして、それに常にこの黄金の調べを鳴り響かせるがいい。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」。もし私が神の聖徒たち全員に、このような祈りによってキリストにならわせることができるとしたら、私の語ってきたことも無駄にはならないであろう。
兄弟たち。私は、私たちを取り巻いている無知そのもののうちにある希望の理由を見てとっている。私は、私たちのこのあわれな町のための希望、このあわれな国のための希望、そして、アフリカ、支那、印度のための希望を見てとっている。「彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」。ここには、彼らにとって有利な強い議論がある。というのも、彼らはかつての私たちよりもずっと無知だからである。彼らは私たちよりも罪の悪を知ることが少なく、永遠のいのちの希望を知ることが少ない。あなたがた、神の民よ。この請願を立ち上らせるがいい! あなたがたの祈りを山と積み上げ、その累積した力によって、この燃える祈りの矢軸を、神の心臓めがけて真っ直ぐに射放つがいい。その間、イエスはご自分の御座からその力あるとりなしを添えてくださる。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」。
もしこの場に誰かまだ回心していない人がいるとしたら、そして、私もそうした人が何人かいると知っているが、私たちは、公の集会の中においてと同じように、個人の静思の時にもそうした人々について言及するであろう。そして、このような言葉で彼らのために祈るであろう。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」。願わくは神が、あなたがた全員を祝福し給わんことを。イエス・キリストのゆえに! アーメン。
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無知な罪人たちのためのキリストの嘆願[了]
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