HOME | TOP | 目次

デカポリスにおけるキリストの牧師補

NO. 2262

----

----

1892年6月26日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1890年4月27日、主日夜


「すると、彼らはイエスに、この地方から離れてくださるよう願った。それでイエスが舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人が、お供をしたいとイエスに願った。しかし、お許しにならないで、彼にこう言われた。『あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。』」。――マコ5:17-19


 これは、人の名前としては衝撃的なものである。「悪霊につかれていた人」。これは、生きてある限り彼につきまとい、彼が行く所どこにおいても、永続的な説教となったことであろう。彼は、かつていかなる者であったか、また、いかにしてこの変化が生じたかを物語るようせがまれることになったであろう。それはいかなる物語であったことか! 彼が悪霊憑きであった間の生活について語ることは、誰にも不可能であろう。――墓場の間の真夜中の光景、石で自分を傷つけること、その吠え声、そのそばを通るあらゆる旅人たちの心胆を寒からしめ、鎖でつながれては、その束縛を打ち破り、その枷を打ち砕いたことといった非常な詳細は、自分の親しい友人たちにこの物語を告げる際の彼だけが語れることであった。いかなる哀感をこめて彼は告げることであろう。いかにイエスがその道をやって来られたか、また、いかに悪霊が自分を強いてイエスに直面させたかを! 彼は云うであろう。「それは私に起こりえたことの中で最高のことでした。私の性根の中に野営し、私の魂をその兵舎にしていた、あの絶望的な悪霊どもの軍団の《主人》のもとに連れて行かれたのです」。彼は告げるであろう。いかに一瞬にしてその全軍団がキリストの言葉によって出て行ったかを。

 ある人々は、この男とごく似た物語を告げることができるであろう。サタンへの隷属と、キリストの力による解放の物語である。もしあなたがそうした物語を告げることができるとしたら、それを自分ひとりの胸におさめておいてはならない。もしイエスがあなたに大きなことをしてくださったとしたら、いつでも常にそのことについて語れるようにしておき、キリストに何がおできになるかをあらゆる人に知らせるがいい。救いを受けた大罪人たちは、この良い知らせを――神の恵みの福音を――公に広めるよう特別に召されていると思う。もしあなたが真理に逆らう勇士だったとしたら、真理のための勇士になるがいい。もしあなたがサタンに仕えていた際になまぬるくなかったとしたら、キリストに仕えるようになっている今、なまぬるくあってはならない。この場にいる私たちの中のある者らは、「盲目に生まれついた者」だの、「癒されたらい病人」だの、「罪人であった女」だのといった名を負っているかもしれない。そして私の望むのは、私たちがみな、キリストの栄光を現わすことになる名前や称号を、喜んで身に帯びることである。自分のことが「悪霊につかれていた人」と記されたからといって、この男がマルコを名誉毀損だと責め立てたなどとはどこにも書かれていない。おゝ、否! 彼は、自分がかつては悪霊に憑かれていたことを認めていた。そして、主イエスによって解放されたことで神に栄光を帰していた。

 私はこれから、本日の主題聖句として選んだ箇所についていくつかの所見を云い表わそうと思う。そして、第一の所見はこうである。《人々の願いがいかに異なっているかを見るがいい》。17節にはこう書かれている。「彼らはイエスに、この地方から離れてくださるよう願った」。18節では、「悪霊につかれていた人が、お供をしたいとイエスに願った」。人々はキリストが彼らのもとから去ることを欲した。主から治された男は主が行く所どこにでも行きたいと欲した。愛する方々。あなたはどちらの種別に属しているだろうか?

 私はあなたが前者の種別、すなわち、自分たちのもとから離れてくださるようイエスに願った多くの人々には属していないことを望む。なぜ彼らは主が立ち去ることを欲したのだろうか?

 それは、まず最初のこととして、彼らが静かでいること、安楽に暮らすことを愛していたからだと思う。すでに起こったことは、大災厄であった。豚が湖の中へ駆け込んでしまったのである。彼らはそのような災厄をもはや欲さなかったし、明らかに彼らの間にやって来ていた《お方》は異常な力の持ち主であった。彼はあの悪霊憑きを癒さなかっただろうか? よろしい。彼らは彼にいてほしくなかった。異常なことは何もかも御免だった。彼らは、のんびりした性格の人々であり、自分たちの単調な日々のあり方を続けて行きたかった。それで彼らは主に、申し訳ないがここから立ち去ってもらえまいかと頼んだのである。こうした種類の人々は今も生きている。彼らは云う。「私たちは、この地では信仰復興を欲しません。私たちには、それだけの品の良さがあります。私たちは、この地では人心をかき立てるような説教を欲しません。私たちは非常に心地よくしています。私たちの平和を乱さないでください」。そうした人々は、神がある場所で働いておられると考えるとき、なかばどこかよそへ行きたい気分になる。静かにしていたいのである。彼らの座右の銘は、「何をおいても静かな暮らし」である。「私たちをかまわないでください。昔ながらの生き方をさせてください」、がこうした愚かな人々の叫びである。それは、モーセに向かってこう云ったときのイスラエル人の叫びと変わらない。「私たちのことはかまわないで、私たちをエジプトに仕えさせてください」[出14:12]。

 もしかすると、この人々が《救い主》に立ち去ってもらいたがったのは、彼らが商売に目を向けていたからかもしれない。豚を飼うことは、良くない仕事だった。ユダヤ人としては、彼らはそれと何の関係もなかった。彼らはこう云ったであろう。私たちはそれを自分で食べるのではない、それを飼っているのは他の人々に食べさせるためだけだ、と。そして今、彼らは群れ全体を失ってしまっていた。この豚たちすべてが、その所有者たちに何をもたらしただろうかと私は思う。彼らは、自分たちがどれほどのものを失ったかを計算し始めたとき、これ以上何も失わないうちに、《救い主》を自分たちの地方から離れて行かせようと決心した。人々が、例えば酒を売っているとき、あるいは、自分の同胞を傷つけずには金を稼げないような商売に携わっているとき、キリストがそうしたしかたでやって来るのを彼らが欲さないとしても何の不思議もないと思う。ことによると、あなたがたの中のある人々は、自分があのあわれな女たちに襯衣の仕立賃を払っているのをキリストに見られたくないと思っているかもしれない。残念ながら、もしイエス・キリストが巡り来て、ある人々の職場にやって来ることになるとしたら、夫は細君にこう云うのではないかと思う。「おい、俺が賃金をつけとく帳簿を下ろして、どっかに隠しとけ。主には見せたくねえからな」、と。

 おゝ、愛する方々。もし何かそうした、キリストをあなたの所にやって来させたくないような理由があるとしたら、私は聖霊があなたにこう確信させてくださるように祈る。実はあなたには、主にやって来ていただくべき理由があるのだ、と。キリストに対して最も大きく反対している人こそ、キリストを最も必要としている人なのである。このことを確信するがいい。もしあなたが回心したくないと願っているとしたら、もしあなたが新しく生まれたくないと願っているとしたら、あなたこそは、他の誰にもまして回心させられ、新しく生まれる必要がある当の人なのである。豚のために、キリストと袂を分かつことを願うなど、最も愚かな決意ではないだろうか? 「人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう」[マコ8:36]。彼は新聞の片隅に、何千ポンドの資産家、何某氏死去という記事が載るであろう。だがそれは真実ではない。彼自身には一ペニーの価値もないからである。今や死んでしまった彼に、誰が一ペニーでも与えるだろうか? 彼を葬るには金がかかるであろうが、彼がその金を持って行くことはできない。彼には何の価値もない。彼は自分の金を利己的な目的のために使った。そして、決して神の栄光のためには使わなかった。おゝ、不敬虔な富者の何たる貧しさよ!

 この、自分のことしか、また、この世のことしか見えなくなっている人々が、キリストに、「この地方から離れてくださるよう」願ったのも不思議はない。ならば彼らは、キリストの話を聞くつもりはなくとも、キリストがその地方のどこかに滞在することは許しただろうか? 否。人々は、キリスト教信仰に反対して激するとき、それを自分たちのただ中から徹底的に追い出そうとする。多くの貧しい人は、ちょっとした祈祷会を開いていたあばら屋を失ってしまった。なぜなら、その家主は、意地悪のひねくれ者のように、自分自身がキリストを欲さないばかりでなく、キリストを欲する他の人々がキリストを自分のものにすることも許そうとしなかったからである。あなたがたの中に誰か、そのような状態の人はいないだろうか?

 この場には、それとは違った種類の、このあわれな、お供をしたいとイエスに願った男のような人々が何人かいることを私は望む。なぜ彼はイエスのお供をしたかったのだろうか? 思うに、彼が主の供をしたかったのは、自分の感謝を示すためであった。もしもキリストに仕え、キリストの靴の紐を解き、キリストの足を洗い、あるいは、キリストの食事を整えることができるとしたら、彼は地上で最も幸福な男だと感じたであろう。一軍団の悪霊を自分から追い出してくれた《お方》のためとあらば、何をすることであれ彼には無上の喜びであった。

 次に彼は、自分の感謝を示すためにお供をしたいと願っただけでなく、キリストからより多くを学べる弟子となることを願ったのである。キリストについて彼が知ったことはあまりにも尊かった。彼は個人的にあまりにも恵み深い主の力を経験した。それで、この愛しい口から発される片言隻句からも、このほむべき御手からなされる何事からも、常に何かを学んでいたかったのである。彼は、主から教えられたいと願い、弟子として主のお供をしたいと願った。

 また彼は、同志として主のお供をしたいと欲した。というのも彼は、今やキリストが立ち去らざるをえず、デカポリスから追放されなくてはならないというのなら、自分がそこに留まる理由も全くないと感じたと思われるからである。「主よ。もしあなたがこのゲラサ人たちのもとを去らざるをえないのであれば、私をもゲラサ人たちから去らせてください! おゝ、《羊飼い》よ。あなたは行かれるのですか? ならば、私をもお連れください。あなたが湖を渡り、ここにおられなくなるなら、私はどうして良いか分からなくなるではないでしょうか? 私は、牢であろうと死であろうと、ご一緒に参ります」。彼は、キリストとともにいることをことのほか好ましく感じたために、そのお供をしたいと願ったのである。

 彼の願いの背後には、この理由、恐れという理由もあったと思う。ことによると、あの悪霊どもの軍団の一匹が再びやって来るかもしれない。だが、もしキリストとともにい続けることができたとしたら、キリストがその悪霊を再び追い払ってくださるであろう。彼が身震いを感じ、この、あれほど嘆かわしい悪から自分を癒してくださった偉大な《医者》の目の届かない所に行くことに耐えられない状態になったのも無理はない。私はこの場にいるすべての人に云いたい。私たちは、キリストとともにいない限り決して安全ではない、と。もしあなたが、キリストとともにいられなくなるような所に行くよう誘惑されるとしたら、行ってはならない。あなたは一度も聞いたことがないだろうか? 悪魔が、劇場にいたひとりの青年を連れて逃げていったという物語を。ジョン・ニュートンは悪魔に伝言を送ってこう云ったという。「その青年は私の教会の会員なのだぞ」。「ああん?」、と悪魔は答えた。「こいつがどこの会員だろうと知ったことか。俺様は、こいつを俺様の屋敷の中で見つけたのだ。俺様には、こいつをつかまえとく権利があるってわけよ」。そして、これには説教者もぐうの音も出なかった。もしあなたが悪魔の屋敷に行き、悪魔があなたを連れ去るとしたら、私はそれに反対して何も云えない。キリストをあなたとともに連れて行けないような場所には決して行ってはならない。この、キリストの行く所どこにでも行きたいと願った男のようであるがいい。

 さて、第二に、《キリストのお取り扱いがいかに異なっているかを見るがいい》。また、その取扱いが、いかに異常なものであったかを。ここには、1つのよこしまな願いがある。「この地方から離れてください」。主はそれを聞き届けられた。ここには、1つの敬虔な願いがある。「主よ。あなたのお供をさせてください」。「しかし、お許しにならなかった」*。これが主のなさり方だろうか? ご自分の敵たちの願いを聞き届け、ご自分の友たちの嘆願を拒むことが? しかり。時としてそうである。

 前者の場合、彼らが主に離れるよう願ったとき、主は立ち去られた。おゝ、愛する方々。もしキリストがあなたの近くにおいでになることがあるとしたら、また、自分の良心に少しでも触れるものがあり、霊的いのちに似た動悸を何か感じるとしたら、主が離れ去ることを願ってはならない。というのも、もし主が去ってしまい、あなたを放置して、二度とお戻りにならないとしたら、あなたの破滅は定まってしまうからである! あなたの唯一の望みは、主のご臨在にある。そして、もしあなたが自分の唯一の望みに逆らいたがるなら、あなたは自殺者である。自分自身の魂を殺す罪を犯すのである。

 イエスがこの人々のもとから立ち去られたのは、とどまっても無駄だったからである。もし彼らが立ち去ってもらいたがっているとしたら、いかなる益を彼らに施せただろうか? 主がお語りになっても、彼らは耳を貸さなかったであろう。主の指針を耳にしても、彼らはそれに気を留めなかったであろう。人々の心がキリストに逆らっているとき、彼らから離れること以外の何をすべきだろうか?

 主はご自分の時間をどこかよそで、より有効に費やすことがおできになった。たといあなたが私の主を自分のものとすることを望まなくとも、誰か他の人は望むであろう。たといあなたが自分の高慢の中にあぐらをかき、「私には《救い主》などいらない」、と云っているとしても、その桟敷席の中には、《救い主》を切望しているあわれな魂が1つあり、「おゝ、主を私の《救い主》として見いだせたなら!」、と叫んでいるのである。キリストは知っておられた。たといこのゲラサ人たちが主を拒んだとしても、湖の対岸にいる人々は、主のお戻りを喜び迎えるだろうことを。

 立ち去ることによって、主は彼らをさらに大きな罪から救うことさえなさった。もし主が去られなかったとしたら、彼らは主を湖に突き落とそうとしたかもしれない。人々がキリストに、その地方から離れるよう願い始めたとき、彼らは何をしてもおかしくないほど気を高ぶらせていた。主のほむべきみからだに手をかけることが続いたかもしれなかった。それで主は彼らのもとから立ち去られたのである。これは、すさまじいことではないだろうか? 福音の伝道活動によってあなたが救われない場合、それはあなたを罪に定める助けとなるのである。私たちは、神の御前では常にかぐわしい香りである。だが、ある人たちにおいては、死から出て死に至らせる香りであり、ある人たちにおいては、いのちから出ていのちに至らせる香りである[IIコリ2:15-16]。おゝ、話をお聞きの方々。もしあなたがキリストのもとに行かなければ、あなたが占めている座席は横領されているのである! そこに別の人が座る場合、福音は非常に尊いものとなりえるかもしれない。そして、私たちがそれを宣べ伝える機会は、決して多くはない。私たちは、自分の力を岩地の上で浪費したくない。種をはじきかえすような固い岩石の上でそうしたくはない。岩よ、岩よ、岩よ。お前は決して割れようとしないのだろうか。何の収穫も得られないのに、お前に種を蒔き続けなくてはならないのだろうか? 岩よ。神があなたを変えて、良い地にしてくださるように! これからお前の上で真理が育つようになるために。それで、このよこしまな願いは聞き届けられたのである。

 善良な願いはかなえられなかった。それはなぜだろうか? 主たる理由は、この男が郷里で役に立てるからであった。彼は、ゲラサ人たちの間、また、自分の家族の間を行き巡り、神が自分のために何をしてくださったかを告げる方が、キリストにいかなる気を配るよりも、ずっと大きく神の栄光を現わすことができた。注目すべきことに、キリストはその公生涯の間、ご自分の身の回りの世話をするいかなる従僕も近習もお用いにならなかった。主が来られたのは、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであった[マコ10:45]。主は、この男がご自分のそばにいて、ご自分を快適にするようになることを望まれなかった。主は彼に命じて、自分の家族のもとに行き、イエス・キリストの力を知らせ、彼らを神のものにかちとろうとなさった。

 また、ことによると、彼の願いがかなえられなかったのは、そのことによって、彼の恐れが是認されないようにするためだったかもしれない。もし彼が、悪霊たちが戻ってくることを恐れていたとしたら、――そして、彼が恐れていたことはほぼ間違いないと思うが、――もちろん、彼はキリストとともにいたいと願った。しかし、キリストはその恐れを彼から取り去り、ほぼこのようなことを云っておられる。「あなたは、わたしの近くにいる必要はないのだ。わたしは、あなたが二度と再び病むことがないように癒したのだ」、と。ある患者は、自分の医師にこう云うかもしれない。「私はあまりにも重病でした。ですから、確かに先生の腕で健康を回復したとはいえ、先生の近くにいたいのです。病がぶり返すようなことがあっても、すぐに先生の所に来られますから」、と。だが、もしその医師がこう云うとしたらどうであろう。「あなたは、お望みならスイスにでも、オーストラリアにでも行ってかまいませんよ」。それは、この医師が彼について何の恐れも有していない最高の証拠となるであろう。そして、彼の疑いにとどめを刺すであろう。

 それで、ここに見られるのは、いかにキリストが、異なる人々を異なるしかたで取り扱われるかということである。私はある人々を知ってはいないだろうか? 罪の中にとどまり続けながら、商売は繁盛し、富を山ほど積み上げ、心の願える一切のものを所有している人々を。また、私は別の人々を知ってはいないだろうか? 悔い改めて、神に立ち返ったその日から、以前にまさる苦難に襲われ、異様なほど難儀な暮らしをするようになった人々を。しかり。私はそうした人々も見たことがある。だが私は、悪人の安楽な生き方を羨んだこともなければ、義人の難儀な生き方について何か非常に異様なものを感じたこともない。というのも、結局において、何もまして重要なことは、道の途中ではなく、道の結末だからである。そして私は、たといやすやすと旅をして破滅に至ることができるとしても、そうすることを選びはしないであろう。また、もし永遠のいのちへの道が険しいものだとしても、その一切の険しさとともにそれを取るものである。《難儀が丘》の麓で、バニヤンは自分の巡礼にこう歌わせている。――

   「この丘は高いが、ぜひとも登りたい。
    困難のためつまずくことはない。
    私は知る、命の道はここにある」*1

 私の第三の点はこのことである。《イエスとともにいることが、いかに良いことであるかを見るがいい》。この男は、主のお供をさせてほしいと懇願した。

 もしあなたが最近救われたとしたら、あなたの心には、常にキリストとともにいたいという切望があるはずである。そうした切望が、多くの場合どのような形をとるか、あなたに告げたいと思う。あなたはあまりにも幸福で、あまりにも喜ばしく、それはあまりにもほむべき集会であったため、自分に向かってこう云うほどであった。「これが終わってしまうとは何と残念なことか。この集会が一晩中続いていたら良かったであろうに。そして、翌日も続き、決して終わらなければ良いのに」、と。しかり。あなたは、あのペテロのような心境であった。かの聖なる山の上に幕屋を3つ造り、残りの一生の間そこにいられるようにしたがったときのペテロと同じ心境であった[マタ17:4]。だが、あなたがそうすることはできないし、それを願っても何にもならない。あなたは、飲んだくれのご亭主や、ガミガミ叱りつける細君や、不敬虔な父上や、不親切な母上のいる家へ帰らなくてはならない。あなたがその集会にいつまでもとどまっていることはできない。

 ことによると、あなたは、キリストとともにいることについて別の考えを持っているかもしれない。あなたは、ひとりきりになって自分の聖書を読み、瞑想し、祈ることができるときに、あまりにも幸福になるため、こう云うのである。「主よ。私はいつもこのようであれたらと思います。私は常に階上のこの部屋の中にいて、聖書を調べ、神と交わりを持っていたいものです」、と。しかり、しかり、しかり。だが、そうすることはできない。そこには繕わなくてはならない子どもたちの靴下があり、ご亭主の襯衣につけなくてはならない釦があり、行なわなくてはならない、ありとあらゆる雑用があり、その1つたりともないがしろにはできないのである。家庭内のいかなる義務が負わされようと、それに身を入れるがいい。あなたは、明日町へ出かける用事などなければ良いのにと思う。徹夜の祈祷会があり、一日中聖書を調べていられれば、それは甘やかなことではないだろうか? 疑いもなくそうであろう。だが、主はそのようには取り計らっておられない。あなたは仕事に行かなくてはならない。だから、あなたの普段着を着るがいい。そして、いささかの劣りもなく自分を幸せ者と考えるがいい。あなたは、自分の日常生活の中で自分のキリスト教信仰を示さなくてはならないからである。

 「あゝ、よろしい!」、とある人は云うであろう。そして、私はごく頻繁にこう聞かされる。「私は、もしもきれいさっぱり仕事から足を洗い、主の奉仕へと身をささげることができれば、常にキリストとともにいることになると思います」。特に教役者になったとしたら、あなたはそうなると思うだろうか? よろしい。私は福音に仕える務めに何も反対するものではない。もし主があなたをそうさせようとお召しになるとしたら、その召しに従うがいい。そして感謝するがいい。主があなたを忠実な者とみなし、あなたを教役者職につけようとしておられることに。だが、もしあなたが、単に教役者の職につくだけでキリストに近づけると考えているとしたら、それはとんでもない間違いである。あえて云うが、きょう午前中の説教を終えた後の私のもとには、ほとんどの人にとって一箇月は十分なほど多くの、他の人々の苦労が持ち込まれてきたのである。私たちは、あらゆる人の苦難と、あらゆる人の疑いと、あらゆる人の慰めや助言の必要とを背負わなくてはならない。あなたは、主への奉仕においてさえ、多くの仕事に悩まされることに気づくであろう。そして、《主人》の働きの中で《主人》を見失うことはごく容易である。私たちは、この陰険な誘惑が、私たちの牧会活動の中でさえ私たちを打ち負かさないように、多くの恵みを必要とする。あなたはキリストとともに歩みながら、食料雑貨品を売ることもできる。キリストとともに歩みながら、煙突掃除人であることもできる。いささかのためらいもなしに云うが、神の恵みがあれば、キリストとともに歩むことは、いかなる職業についていようと、それが正しいものである限り可能である。もし自分が市中宣教師や、聖書配布婦人や、信仰書籍行商人や、救世軍の大尉や、他の形の、あなたに願える何らかの聖なる奉仕者になりさえすれば、よりキリストとともにいることになるだろうという考えの下で仕事を辞めるとしたら、それは全くの間違いとなるかもしれない。自分の仕事を続けるがいい。もしあなたが上手に靴を磨けるとしたら、それを行なうがいい。下手な説教しかできないのであれば、やめるがいい。

 「あゝ!」、とある人は云うであろう。「私は自分がいかにキリストとともにいたいか分かっています」。しかり、しかり。私もそれは分かっている。あなたは天国にいたいのであろう。おゝ、しかり。そして、キリストとともにいたいと願うこと、それは天晴れな願いである。というのも、それは地上にいるよりも、はるかにまさっているからである![ピリ1:23] しかし、よく聞くがいい。それは利己的な願いでありえるし、突きつめるならば、罪深い願いとなりえる。ひとりの聖なる神の人が、あるとき、キリストに仕えるしもべ仲間からこう尋ねられた。「何某兄弟。あなたは故郷に行きたくはありませんか?」 彼は云った。「その問いには、別の問いでお答えしましょう。もしあなたがある男を雇っているとして、水曜日にその男が、『きょうが土曜なら良いのになあ』、と云ったとしたら、あなたはその男を雇い続けますかな?」 相手は、よほど堪忍袋の緒が太い人でない限り、そうはできないと思った。何と、あなたもそうではないだろうか? あなたは土曜日が来る前に喜んでその男をお払い箱にするであろう。というのも、彼は仕事のためにならないだろうからである。では、私は、地上であなたに対して何の善も施せないとしたら、天国に行きたいと欲する何の権利があるだろうか? もしあなたが天国の中よりも外において、より大きな働きを神のために行なうことができるとしたら、天国の中よりも外にいる方が、ずっと天国となるではないだろうか? 主がお望みになるときには世を去ろうと切望するがいい。だが、もし肉体のうちにとどまることが教会とこの世のためにずっと益になり、ずっと神の栄光のためになるとしたら、自分の望みは差し控えるがいい。おそばにいさせてくださいと願った後でも、あなたについて、この男について記されたのと同じことが記されなくてはならない場合、あなたの《主人》に腹を立ててはならない。「しかし、お許しにならなかった」*。

 それでも、イエスとともにいることは非常に喜ばしいことである。

 しかし今、第四のこととして、《このことよりも、さらにすぐれたことがありえることを見るがいい》。私がいま言及した意味において、キリストとともにいることにすら、まさることがある。

 キリストとともにいることにまさることとは何だろうか? 何と、キリストのために働くことである! イエスはこの男に云われた。「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい」。

 これは、ずっと名誉なことである。イエスの足元に座ることは非常に喜ばしいことだが、もし戦場で最も名誉な部署が危険な場所だとしたら、また、もし国家の中で最も名誉なことが国王によって割り当てられた任務に就くことだとしたら、キリスト者にとって最も名誉なことは、座り込んで、歌を歌い、愉快に過ごすことではなく、立ち上がって、イエス・キリストのために評判も、いのちも、何もかも危険にさらすことである。愛する方々。私たちの主に仕えることを熱望するがいい。それは、主とともにいることにもまして名誉あることである。

 それはまた、人々にとってより良いことである。キリストは、ゲラサ人たちのもとから立ち去ろうとしておられる。彼らが去るように願ったので、主は去ろうとしておられる。だが、主はこの男にこう云っておられると思われる。「わたしは、彼らが願うので去ろうとしている。わたしが彼らから離れるのは、わたしを拒絶したゆえの審きのように見えるであろう。だがしかし、わたしは完全に立ち去ろうというのではない。わたしは、あなたによってとどまろう。わたしは、わたしの御霊をあなたの上に置き、そのようにして、あなたがたとともにい続けるであろう。彼らは、わたしの話は聞こうとしなくとも、あなたの話は聞こうとするであろう」。いわばキリストは、ご自分はその地域の牧師職を辞任するが、別の者を代理につけてくださるのである。ご自分ほど有能ではないが、人々がずっと好ましく思うような者を。ご自分ほど力強くも、用いられもしないが、彼らにとってはずっと適した者を。キリストが去られたとき、この男はそこにいるであろう。そして人々は彼のもとに来ては、あの豚たちのことや、いかにしてそれが湖の中へと駆け入ったかという話を聞きたがるであろう。また、たとい彼らが彼のもとにやって来なかったとしても、彼が行って、彼らにその一部始終を告げたであろう。このようにして、この偉大な《主教》が去ってしまった後にも、そこには常任の牧師補が残されて、この神聖な伝道活動を果たすことになったであろう。私はこうした考え方を好ましく思う。キリストは天に行ってしまっておられる。主はそこで求められているからである。そして、それで主はあなたを、愛する兄弟たち。あなたを地上に残して、主のみわざを継続させようとしておられるのである。あなたはいかなる点においても主と等しくはない。だがしかし、主がご自分の弟子たちに何と云われたか思い出すがいい。「わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです」[ヨハ14:12]。こういうわけで、キリストは、あなたが今現在はご自分とともにいることをお許しにならないのである。あなたは、あなたの暮らしている回りの人々のためにとどまっていなくてはならない。この「悪霊につかれていた人」がゲラサ人たちのためにとどまり、彼らにキリストについて証ししなくてはならなかったのと同じように。

 彼がとどまることは、また、彼の家族のためにずっと良いことでもあった。また、あなたはしばしば、そう思わないだろうか? 神の人が天国に入らされずにいるのは、その家族のためである、と。父親よ。あなたはまだ行ってはならない。この男の子たちは、まだあなたの模範と、あなたの影響を必要としているのである。キリスト者である母親よ。あなたはまだ行ってはならない。私の知る通り、あなたの子どもたちは成人し、あなたを非常にいたく嘆かせている。だが、なおも何か1つ彼らの歯止めとなるものがあるとしたら、それは彼らのあわれな、年老いた母親であり、あなたは祈りによって彼らを神に至らせるまで、とどまらなくてはならない。そして、これからあなたはそうすることになるであろう。勇気を出すがいい! 私の信ずるところ、この場にいる多くの人々は、すでに天国にいても良いはずだが、神は彼らによって、ある人々を導こうとしておられるのである。それで彼らは、もうしばし地上にとどまらなくてはならないのである。からだにおいては弱く、神経においては損なわれ、しばしば激しい苦痛に苛まれ、ことによると、命取りの病にかかっていて、世を去ることを願っているあなたではあるが、あなたのわざが完了するまで、行ってはならない。

 「しかし、お許しにならないで」。この悪霊憑きは家に帰り、自分の妻子に向かって、主が自分にどんなに大きなことをしてくださったかを告げなくてはならなかった。多くの卓越した説教者が、彼の帰宅の光景を描き出してきた。それで私もそうしてみることにしよう。あなたも、それが自分のことだとしたらいかなる次第であったを、間違いなく思い描くことができよう。あなたは精神病院に閉じ込められていたか、ほとんどそれすら無理なほど悪い状態にあった。あなたが連れ去られたとき、あなたの家族の者たちはいかに喜んだことであろう。そして、その後で、あなたが完璧に良くなって戻ってきたのを見て、いかにいやまして喜んだことであろう! 私は、この男の妻が彼の声を聞いて窓越しに眺めた様子を想像できる。狂気の発作を起こして戻ってきたのだろうか? いかに子どもたちは、父親の声を聞いて恐怖に満たされたことであろう、彼が本当に一変したことを確信するまで! あゝ、あわれな罪人よ。あなたは今晩ここに来た! ことによると、あなたは忘れているかもしれない。自分の子どもたちがしばしば、父親が帰宅するとき寝床の中にもぐり込まなくてはならないことを。私は世の中にそういう者たちがいることを知っているし、彼らがこのタバナクルに入ってくることさえある。願わくは主が、その酔いどれをあわれみ、その杯を伏させ、新しい人へと造り変えてくださるように! そのとき、彼が家へ戻り、代価(かた)なき恵みと死に給う愛について、また、神が自分の中に作り出してくださった素晴らしい変化について告げるとき、彼は自分の家族にとって、また、周囲のすべての人々にとって祝福となるであろう。愛する方々。もしかすると、あなたは、ここで立ち止まり、まずは、若い頃に犯したあれこれの害悪を元通りにしなくてはならないかもしれない。あなたは、自分が誘惑し、道を迷わせ、滅びへ至るのを助けた者たちの何人かを神のもとに連れて来なくてはならない。

 それで、愛する方々。見ての通り、キリストのお供をすることにさえまさるものがあるのである。それは、キリストとともに働くことである。

 しかし、最後に、《何にもまさる最善の場合がまだあることを考察するがいい》。私たちは常に3つの程度の比較をしなくてはならない。すべての中で何が最高の状態だろうか? キリストとともにいることは良い。キリストによって聖なる用向きに遣わされることは、さらに良い。だが、ここには何にもまさる最善のことがある。すなわち、キリストのために働くと同時に、キリストとともにあることである。私は、あらゆるキリスト者にこの立場を熱望してほしい思う。マリヤとともに《主人》の足元に座りながら、マルタのように走り回り、食事の支度をすることが可能だろうか? 可能である。そして、そのようにするなら、そのときのマルタは決して色々ともてなしのために気が落ち着かなくなることも[ルカ10:40]、妹マリヤをとがめだてすることもないであろう。「しかし、先生。私たちは座るのと、活動するのを同時にはできませんよ」。確かに、あなたのからだについてはそうである。だが、魂についてはそうできる。あなたはイエスの足元に座るか、その御胸にもたれかかるかしながら、それでも主の戦いを戦い、主のみわざを行なっていることができる。

 このことをするためには、外的な生き方と同じように内的な生き方を涵養するがいい。キリストのために大いに行なうことだけでなく、キリストとともに大いにいること、また全くキリストにより頼んで生きることを励むがいい。例えば、私の知っているある人々がしているように、安息日に三回、日曜学校に行き、他の人々を教えてはならない。むしろ、一度はここにやって来て、《主人》の使信を聞き、魂を養われるがいい。そして、午前中に霊的なごちそうを得た後で、その日の残りを聖なる奉仕にささげるがいい。2つのことを混ぜ合わせるがいい。常に食べるばかりで全く働かなければ飽食と霊的消化不良がもたらされるであろう。だが、常に働くばかりで決して食べなければ、――よろしい。残念ながらあなたは、四十日の断食後に昨日ようやく初めての食事をした紳士と同じ程度にしかその試練に耐えられないのではないかと思う。そうした人を見習ってはならない。そうすることは正しいことでも、賢いことでもない。むしろ、非常に危険なことである。霊的な働きを行なうのと同じくらい、霊的な食物を得るがいい。

 さらにあなたに云わせてほしいが、あなたとキリストの間に少しでも雲がかかるとしたら、非常に深く悲しむがいい。それが11月の霧ほど濃密になるまで待っていてはならない。それがちっぽけな、ふわふわした雲のようでしかなくとも、悲しみに満たされるがいい。ジョージ・ミュラーのこの所見は非常に賢明なものである。「朝、自分の私室を出るときには、あなたと神との間の一切のことが正しくあるようにしておくがいい」。イエスとの不断の交わりの中にとどまるがいい。そして、このようにすることで、あなたは主とともにいながら、同時に主に仕えていられるのである。

 そして、このことに気を遣うがいい。キリストの奉仕を始める前には、常にその臨在と助けを求めるがいい。まず、《王》の御顔の麗しさを見てからでなければ、主のためのいかなる働きにも着手してはならない。また、その働きの最中には、しばしば、あなたが行なっていることからあなたの思いを引き離し、それをどなたのために行なっているか、また、どなたの助けによって行なっているかを想起するがいい。また、その働きが完了したときには、あなたの帽子を放り上げて、「よくやったぞ、自分!」、と云ってはならない。もしあなたがそれだけのことをしているとしたら、そのうちに他の人々が「よくやった」とあなたに云うであろう。その人の言葉を取り上げてはならない。自賛は推薦にはならない。ソロモンはこう云った。「自分の口でではなく、ほかの者にあなたをほめさせよ。自分のくちびるでではなく、よその人によって」[箴27:2]。すべてをしてしまったときも、私たちは役に立たないしもべである。なすべきことをしただけである[ルカ17:10]。それで、もしあなたが、活動的であるのと同じくらい謙遜であるとしたら、また、精力的であるのと同じくらいへりくだっているとしたら、あなたはキリストとともにとどまりながら、しかし地の果てまでキリストの用向きを行なっていくことができよう。そして、私はこのことを、私たちの中の誰にとっても、かの真珠の門のこちら側で達することのできる最も幸いな経験とみなすものである。願わくは主が、あなたを祝福し、あなたをそこへと至らせてくださるように。キリストのゆえに! アーメン。

----


(訳注)

*1 ジョン・バニヤン、『天路歴程』、p.93、(池谷敏雄訳)、新教出版社、1976。[本文に戻る]

 

デカポリスにおけるキリストの牧師補[了]

-
----

HOME | TOP | 目次