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主は、どこにおられるのか?

NO. 2258

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1892年5月29日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1890年9月4日、木曜日夜


「そのとき、主の民は、いにしえのモーセの日を思い出した。『羊の群れの牧者たちとともに、彼らを海から上らせた方は、どこにおられるのか。その中に主の聖なる御霊を置かれた方は、どこにおられるのか。その輝かしい御腕をモーセの右に進ませ、彼らの前で水を分け、永遠の名を成し、荒野の中を行く馬のように、つまずくことなく彼らに深みの底を歩ませた方は、どこにおられるのか。家畜が谷に下るように、主の御霊が彼らをいこわせた。』このようにして、あなたは、あなたの民を導き、あなたの輝かしい御名をあげられたのです」。――イザ63:11-14


 先の聖書朗読で告げたように、イスラエルには黄金時代があった。神と大いに親しんでいた時期、エホバが、苦しみの中にあった御民と非常に間近にあり、彼らが苦しむときにはご自分も苦まれた[イザ63:9]時期、そして、彼らの行なったあらゆることにおいて彼らをお助けになり、ご自身の使いが彼らを救った時期である。しかし、彼らのために主がなされた一切のことの後で、冷たい時期がやって来た。民は唯一の生けるまことの神のもとから迷い出た。黄金の子牛という儀式主義に陥った。何か目に見えるもの、何か見て礼拝できるものがなくてはならなかった。約束の地に導き入れられ、主が数々の大いなる驚異を彼らのために行なわれた後でさえ、彼らは道をそれて偽りの神々に走り、神でもない異なる神々を拝み、エホバのねたみを引き起こすまでとなった。「彼らは逆らい、主の聖なる御霊を痛ませたので、主は彼らの敵となり、みずから彼らと戦われた」[イザ63:10]。神は、ご自分の選民を愛するのをやめたわけではないが、義でなくてはならず、罪をかばうことがおできにならなかった。それで神は彼らに敵を送って彼らを攻められ、彼らは手ひどく打たれ、はなはだしく衰微した。まさにそのとき、彼らは古の日々を思い出し、それまでひどい扱いをしてきたお方を恋しがり、互いに云い合った。「『羊の群れの牧者たちとともに、彼らを海から上らせた方は、どこにおられるのか。その中に主の聖なる御霊を置かれた方は、どこにおられるのか。その輝かしい御腕をモーセの右に進ませ、彼らの前で水を分け、永遠の名を成し、荒野の中を行く馬のように、つまずくことなく彼らに深みの底を歩ませた方は、どこにおられるのか。家畜が谷に下るように、主の御霊が彼らをいこわせた。』このようにして、あなたは、あなたの民を導き、あなたの輝かしい御名をあげられたのです」、と。

 しかし、私があなたに注意してほしいのは、第一に、この聖句には1つの神聖な、愛に満ちた記憶が含まれているということである。それは、古の時代に神が何を行なわれたかを非常に詳しく述べている。神が御民と親しまれ、彼らが御顔の光の中を歩んでいた時のことである。その後で、私があなたの注意を引きたいのは、この聖句の中で明瞭に輝いている目的である。それは二重に示されている。12節にはこう書かれている。「永遠の名を成し」。14節はこうである。「あなたの輝かしい御名をあげられた」。この2つのことについて語った後で、さらに時間をかけて詳しく語りたいのは、1つの切なる問いかけである。それは、ここで二度云い表わされている。その方は「どこにおられるのか?」 11節では、このように繰り返し問われている。「どこにおられるのか。どこにおられるのか」、と。

 それでまず最初に、私たちは、ご自分の民に対する――そして私たちに対する――神の取扱いに立ち戻ろう。そして、ここには《1つの神聖な、愛に満ちた記憶》がある。この民は、神が自分たちのために行なわれたことを思い出した。それは何だっただろうか?

 ここに述べられている通り、まず最初に神は、彼らに指導者たちを与えられた。「羊の群れの牧者たちとともに、彼らを海から上らせた方は、どこにおられるのか」。モーセとアロン、そして彼らとともにいた一団の敬虔な人々が、海を抜けるときも荒野を行くときも、民の指導者であった。兄弟たち。私たちは、自分の指導者たちをあまりにも軽んじがちである。最初、私たちは彼らをあまりにも重んじる。その後、彼らをあまりにも軽んじる。私たちは、この2つの極端の間を振り子のように揺れているように思われる。一部の人々は、ひとりの人をすべてでもあるかのようにみなし、神を無としてしまう。だが、不当に人間を持ち上げるのでない限り、私たちはこう云って良い。神がその民を導く資格のある人々を起こされるとき、それは教会にとって真に大きな祝福である、と。イスラエルは、烏合の衆のようにエジプトから出て来たのではなかった。その集団ごとに[出6:26]連れ出されたのである。彼らは、蜘蛛の子を散らすように、わらわらと葦の海に飛び込んだのではなかった。モーセがその高く掲げた杖を持ってそこに立ち、その忘れられぬ日、彼らを先へ進ませていたのである。私たちもまた、栄光に富む古の日々をも恋しがって良い。神がその民に、ご自分のみことばを力強く語る説教者たちをお与えになった時期のことである。歴史上のある時期は、キリスト教会の偉大な指導者たちを多数生み出した。ルターがその喨々たる喇叭の音を吹き鳴らすや否や、神は津々浦々に波紋を送ったかに思われた。そしてカルヴァンが、ファレルが、メランヒトンが、ツヴィングリが、そして、今はいちいち名を上げようとも思わない、それ以外の数多くの者たちが、ローマ教会という淫婦に対する彼の勇敢な抗議に加わった。「主はみことばを賜わる。良いおとずれを告げる者たちは大きな群れをなしている」[詩68:11 <英欽定訳>]。教会は、こうした幸いな日々を覚えており、その再来を切実に望んでいる。彼らはその当時の巨人たちであった。名のある勇士たち[創6:4]であり、主によって、御民を導くにふさわしい者とされていた。

 次に告げられているのは、神が彼らの牧者たちの中にご自分の霊を入れてくださった、ということである。それがなければ、彼らは無であったであろう。彼らの内側に主の聖なる御霊を置かれた方は、どこにおられるのか? 神の聖霊を内に宿している人、その価値を誰が見積もれようか? 神は人間をオフィルの金よりも貴くすると仰せになるが[イザ13:12]、紅玉や金剛石の宝庫も、神の御霊に満ちた人とはくらべものにならない。ペンテコステの日に、あの十一使徒が、神の御霊を授けられて出て行ったとき、そこには力があった。彼らの踏みつける世界が、その足の下で震えわななくほどの力が。願わくは神が私たちに、再びそのしもべたちを数多く送ってくださるように。神の御霊を卓越した、また、目立ったしかたでうちに宿すしもべたちを。そのとき私たちは、実に輝かしい日々を目にするであろう! そうした人々に対する命令は今なおこうである。「あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、とどまっていなさい」*[ルカ24:49]。

 それから、教会にとって幸いな思い出である次のこととして、天来の御力の偉大な現われがあった。「その輝かしい御腕をモーセの右手で進ませ、彼らの前で水を分け、永遠の名を成し」<英欽定訳>。「モーセの右手」そのものは、あなたや私の右手以上のものでは全くなかった。だが、神の輝かしい御腕が、モーセの右手によって働いたとき、海は2つに分かれ、イスラエル全軍の渡るべき道ができた。詩篇作者が歌うように、「神は海を分けて彼らを通らせ、せきのように水を立てられた」[詩78:13]。モーセの右手にはその奇蹟を行なえなかったが、主の輝かしい御腕がそれを行なった。私たちに今日必要なのは、兄弟たち。天来の御力の現われである。私たちの中のある者らは、それを求めて日夜祈っている。私たちはそれを期待してきた。今も期待している。飽くなき飢え渇きとともに切望している。おゝ、いつエホバはその右の御手をふところ[詩74:11]から出してくださるのだろうか? 渾身の力をふりしぼって仕事にかかる者のように、いつその御腕を現わして[イザ52:10]くださるのだろうか? おゝ、あなたがた、神のしもべたち。御霊に満たされた指導者たちが、また、自らとともに働く神の御力を伴った指導者たちが与えられたならばどんなに良いことか! それによって大群衆がキリストに回心し、罪の海が御国の前進によって干上がるならばどんなに良いことか!

 それから、神の民のもとにやって来たのは、1つの非常に驚嘆すべき救出であった。「荒野の中を行く馬のように、つまずくことなく彼らに深みの底を歩ませた」。この「荒野」という言葉とは、広大な草原という意味である。野草や草本の茂る場所、それがこの意味だからである。そして、馬がそうした、かつ平坦な場所に導かれればつまずかないように、葦の海を通り抜けるイスラエルの全軍も、そのように導かれた。海底は石や砂利だらけであるか、ぬかるみか泥だらけかもしれない。おそらく、流れの真中には幾多の巨岩が突き立っているであろう。ある岩の層から別の層に至る間は急落しているかもしれない。そして、海から向こう岸に上るのは、このイスラエル人たちのように重い荷物をかかえてよろめいていた者たちにとっては、難儀なことであったろう。彼らは武装し[出13:18 <口語訳>]、荷物を積んでエジプトから離れ、そのこね鉢を着物に包み、肩にかついでいた[出12:34]からである。しかし神は、その倹素な海底を、馬が花咲く牧草地を行くときのように、難なく移動できるようにしてくださった。愛する方々。神はあらゆる時代で、ご自分の教会をそのようにしてくださった。その困難の海は彼らにとって何の困難にもならなかった。神が、その御力の栄光[IIテサ1:9]すべてをもって来られ、道を設けて、贖われた人々を通らせてくださった[イザ51:10]。私の兄弟たち。あなたにとってもそうではなかっただろうか?

 そして、彼らの数々の試練に対するほむべき終幕として、神は彼らを憩いの場所へと導き入れられた。「家畜が谷に下るように、主の御霊が彼らをいこわせた。』このようにして、あなたは、あなたの民を導き」。砂漠で彼らは大いに休息を取ったが、カナンでは完全に休息した。平原に草が生い茂るようになると、山羊や羊は、それまでその食物を獲得していた山々から下りてきて、満腹しては横たわって休む。そのように神はご自分の民を扱い、彼らをその苦難のあらゆる山々から連れ出しては、甘やかな低地へと導き入れられた。乳と蜜が流れる国、彼らが休める土地である。これが過去の覚え書きであり、素描である。

 私は最初にこれを、文字通りイスラエルの歴史の素描として読むものである。次に、教会史の素描として読みたいと思う。教会が経てきた時代の中には、ペンテコステや、宗教改革のように、それまでの教会がさまよっていたにもかかわらず、神が戻って来ては、その御腕を現わし、牧者たちを起こし、ご自分の御霊を彼らの上に置き、それからあらゆる困難のただ中で御民をまっすぐに導き、彼らに安息を与えられたことがあった。あなたがたの中のほとんどの人々は、ルター以前の時期の歴史をよく知っている。そのときには、福音が北欧州の全域で宣べ伝えられるようになる見込みなどないように思われた。だがそれは実現し、神は、第一世代の宗教改革者たちのいのちが非常に貴重だったときに、それを異様なしかたで保たれた。ツヴィングリは戦死したが、彼は戦うべきではなかった。そうすれば、彼は自然死を遂げていたかもしれない。しかし、カルヴァンや、ルター、その他の者らの大多数は、自分の働きが終わるまで存命し、それから静かに世を去った。この地でもそうであったし、国境を越えたスコットランドの姉妹教会においてもそうであった。同教会は、あの盟約の血を、また、《イエス王》の《王権》を支持する者たちが殺されたことを忘れることができない。だが最終的には、その安息の時を得た。神がその契約の教会にお与えになった牧者たちひとりひとりの名を私はいくらでも語っていけるであろう。死んでも、そのわざによって私たちに語っている勇士たち、また、生きている間は、スコットランドにおける神の教会を、その主の臨在により、栄光に富むものとした勇士たちのことを。

 よろしい。さて、同じことは個々人としての私たちにも起こってきた。私たちには、曇りの日も暗い日もあったが、神は私たちを助けに現われてくださった。あなたがたの中のある人々は告げることができるであろう。いかに神が深い淵の中を平原ででもあるかのようにあなたを導かれたかを。あなたは、それまで一度も知らなかった道、新しい道、干上がったばかりの海底ででもあるかのような未踏の通り道を進んだ。だが主は、厩番が馬を引くようにあなたを導かれ、あなたはつまずくことがなかった。そして、まもなくするとあなたは、深い淵の中からかすり傷1つ負わずに上ってきた。モーセやイスラエル人とともに、あなたは、輝かしくも勝利を収められた[出15:1]主の賛美を歌った。そして、それからあなたは別の歌を学び始めた。それほど戦さめいてはいないが、非常に甘やかな歌である。「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます」[詩23:1]。イスラエルの神のため、また、その永遠の真理のための争闘において、私たちの中のある者らは町通りの汚泥のようにみなされてきた。だが、そのことを私たちは喜んでいるし、今からも喜ぶであろう。というのも、エホバは生きておられ、ご自分の民をバシャンから連れ帰るからである。彼らを海の底から連れ帰り[詩68:22]、イスラエルの真中には再び安息があるであろう。もし人々が神に忠実であり、その真理に忠実でありさえしたら、そうである。

 ここまでが、過去の神聖な思い出についてである。

 しかし今、第二のこととして、私があなたに注意してほしいのは、明けの明星のように《明瞭に輝いている1つの目的》である。私が、この聖句を通じて見てとるのは、神の偉大な動機が、ご自分の民のためのこうした数々の驚異を働かせている姿である。神こそ、そのすべてを行なわれたお方であった。本日の聖句には神が満ちている。神が彼らを海から上らせた。神が彼らの中にその聖なる御霊を置かれた。神がその輝かしい御腕で彼らを導かれた。神が彼らに深みを歩ませた。神が彼らをいこわせた。神がそのすべてをなされた。教会の歴史が書かれるとき、その頁には神のほか何もないであろう。教会の罪が記されていることは承知している。だが、神はそれを拭い去っておられる。そして最後には、神がなされたことのほか何も残っていないであろう。あなたや私の人生が、栄光の立琴のただ中で1つの詩篇のように鳴り響くとき、それはただ、こうなるであろう。「私たちを愛して、私たちを解き放ったお方に栄光と力とが、とこしえにあるように」[黙1:5-6参照]。「Non nobis, Domine[われらにではなく、主よ]」。「私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください」*[詩115:1]。そのように、主の贖われた民である私たちはみな、大きな患難の中から抜け出て来て、自分の《小羊》の血で洗って白くしたとき[黙7:14]歌うであろう。

 しかしそれでは、なぜ神はこうしたすべてを行なわれたのだろうか? 神がそうされたのは、ご自分の民の功績や、人数や、才能のためだろうか? 神は何度となく彼らに告げておられる。「わたしが事を行なうのは、あなたがたのためではない。――神である主の御告げ。――イスラエルの家よ。あなたがたは知らなければならない。恥じよ。あなたがたの行ないによってはずかしめを受けよ」[エゼ36:32]。神は、何の功績もない人々を祝福する動機を、ご自身のうちに見いだされる。もし神が私たちの中に何らかの動機を探すとしたら、何も見いだされないであろう。私たちの中には、私たちを罪に定める理由を数多くご覧になるであろう。だが、ご自分のうちにのみ神は、その比類なきあわれみのための動機を発見することがおできになるのである。

 神が、その大いなる恵みの驚異の数々をお働かせになるのは、1つの高貴な動機のためである。すなわち、ご自分の被造物たちに、ご自分の栄光を知らせるため、ご自分がいかなるお方で、何をなさるお方であるかを現わし、彼らがご自分を礼拝できるようにするためである。神はこの聖句で私たちにこう告げておられる。神は「その輝かしい御腕をモーセの右に進ませ、彼らの前で水を分け、永遠の名を成し」た、と。そのように神は行なわれた。というのも、今日に至るまで、私たちの知る限り最も気高い賛美の調べは、イスラエルのエジプトからの救出を告げるものであり、この世界が燃え尽きたとき、天で神に立ち上るだろう歌は、神のしもべモーセの歌と《小羊》の歌[黙15:3]となるからである。それでも、神が御民のあらゆる敵に対してお収めになる究極的勝利の例証と前味を私たちが欲しているとしたら、私たちはこの葦の海に引き返し、ミリアムの軽やかに踊る足を見てとり、彼女が指先でタンバリンを鳴らしながら、こう叫ぶのを聞かなくてはならない。「主に向かって歌え。主は輝かしくも勝利を収められ、馬と乗り手とを海の中に投げ込まれた」[出15:21]。神がそうされたのは永遠の名を成すためであり、神はその目的を達された。

 イザヤはさらに云う。主がその民を導き、彼らを憩わせたのは、その「輝かしい御名」を上げるためであった、と。神はイスラエルの歴史において輝かしいお方であられる。神はその教会の歴史において輝かしいお方であられる。神は、あらゆる信仰者の歴史において輝かしいお方であられる。真の信仰者の生涯は輝かしい生涯である。自分について、信仰者は何の誉れも要求しないが、その聖い生涯によって、大きな栄光を神に帰す。恵みによって救われた、あらゆる貧しい男女の内側では、また、《贖い主》の血で洗われた名もないひとりの人の内側では、無代価の恵みも死に給う愛も全く知らない智天使や熾天使たちの歌声すべての中にあるよりも大きな栄光が神にささげられているのである。それで、愛する方々。あなたは神が行なわれた一切のことのうちに、神の動機を見てとるのである。そして、私はこのことを詳しく語るであろう。手短にではあっても、大きく力を込めてそうするであろう。なぜなら、これは決して変わることのありえない動機だからである。もしも今日の教会が途方もなく凋落し、真理がその岸辺から退いて行くように思われる一方で、現代にでっち上げられた陰惨な泥濘が延々と広がり、神の鼻腔に悪臭を立ち上らせるとしたらどうなるだろうか? それでも、これほどの驚異を行なって、名を上げたお方は、なおも同じ目的を有しておられる。この方は輝かしいお方となるであろう。人々に、ご自分が神であること、他にはいないことをお知らせになるであろう。そう主なる神は仰せになる。「すべての者が、わたしが主、あなたの救い主、あなたの贖い主、ヤコブの力強き者であることを知る」[イザ49:26]。「主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たす」[イザ11:9]。おゝ、兄弟たち。神は今なお、ねたむ神であられる。そして、キリストの尊い血が侮辱されるときには、それを聞き、お忘れにはならない。この聖なる《書》の霊感が否定されるとき、聖霊はそれを聞き、悲しまされ、なおも奮起してご自分の真理を弁護なさるであろう。私たちの愛する真理、私たちの神から出た最も愛しく最も神聖な啓示が、俗悪としか云えないつまらないしかたで扱われるのを聞くとき、もし私たちが憤りを覚えるとしたら、聖霊もそれと同じである。そして、神は、選民のために、裁きをつけないでおかれることがあるだろうか?[ルカ18:7] 夜昼ご自分を呼び求めている彼らのために。あなたがたに云うが、神は、すみやかに彼らのために正しい裁きをしてくださる。神の動機はご自分の栄光である。神はそれを守るであろうし、これから、その裁きをおつけになるであろう。そして、神と、神の真理に敵対する者どもとの間の衝突の究極的結果について、私たちは何の疑いも、恐れの影すらいだく必要はない。蝋燭めがけて突進する蛾は、その炎の中で死ぬではないだろうか? 一日で消え失せる被造物が、いかにして焼き尽くす火であられる私たちの神[ヘブ12:29]に反抗して立つべきだろうか? ならば、ここにに神の民の望みはあるのである。人々の目にご自分を輝かしい者としようという、神の、不断にして不屈の、変わらざる動機がそれである。

 私の第三の点は、《1つの切なる問いかけ》である。それを私は二度、本日の聖句の中に見いだす。神がすでになさったことを信じ、神の動機が今なお同じままであることを信じて私たちは、こう叫び始める。「羊の群れの牧者たちとともに、彼らを海から上らせた方は、どこにおられるのか。その中に主の聖なる御霊を置かれた方は、どこにおられるのか」、と。

 この問いからすると、ここには幾分かは信仰が残っていることが分かる。「どこにおられるのか」。この方はどこかにおられる。ならば、この方は生きておられるのである。愛する方々。万物の支配者である、われらの神である主は生きており、王であられる[黙19:6]。多くの簒奪者たちが、神をその御座から追い払おうとしてきた。だが神はなおもその上に座しておられ、栄光はその長老たちの間で輝いている[イザ24:23]。昔いまし、常にいまし、後に来られる、《万物の支配者》であられる[黙4:8]。「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです」[ヘブ13:8]。

 このお方は、おられる。だが、どこにおられるのか? この問いからすると、一部の者らはこの方を求め始めていたことが分かる。かの勇壮な日々に、神はこの地上におられた。スコットランドの原野や山々に、あるいは、スミスフィールドの火刑柱の回りに、あるいは、ランベス宮の牢獄におられた。そのとき、処女であるシオンの娘は、ローマの淫婦の後ろで頭を振り、これをさげすみ、あざけった[イザ37:22]。彼女は、その《王》のふところに横たわり、彼の愛を喜んだからである。おゝ、愛する方々。私たちは主を再び慕い始めているだろうか? そうであってほしいと思う。多くの忠義な心の叫びは、こうであるはずだと思う。「お戻りください、王なるイエスよ! あなたがご不在の間、すべての物事は衰えます。《人霊》の町通りを再び騎乗で闊歩してください。おゝ、インマヌエルの君よ! そのときには、この町は聖なる歌で鳴り響き、あらゆる家は、美々しく麗しいすべてのもので飾り立てられるでしょう。ただ、お戻りください!」 もし《王》がご自分のものをもう一度お持ちになりさえすれば、私はかの古のシメオンの歌を歌うことで満足するであろう。「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます!」[ルカ2:29] 教会は《王》の来ますを切望している。《王》はどこにおられるのか? どこにおられるのか?

 さて、ここからすると、愛する方々。教会が主の不在について嘆き始めたことが分かる。私は、この繰り返された言葉、「どこにおられるのか? どこにおられるのか?」、を好ましく思う。これは決して、「モーセはどこにいるのか? 指導者たちはどこにいるのか? 父祖たちは、彼らはどこにいるのか?」、ではない。彼らには、その地位を占めさせておくがいい。しかし、父祖たちを作られたお方はどこにおられるのか? モーセとアロンを私たちに遣わされたお方はどこにおられるのか? 海を2つに分け、ご自分の民を無事に導かれたお方はどこにおられるのか? このお方はどこにおられるのか? おゝ、これこそ、私があなたがた全員の心に対して発する問いである! おゝ、もしこのお方がここにおられたとしたら! その輝かしい御腕が一時間でも現われたとしたら、また、その全能の働きがほんの一日でもなされたとしたら、私たちが何を見ないことがあろうか? 私たちは炎の舌をも、激しい風が吹くこと[使2:2]をも求めない。この場に来てくださるなら、いかようであっても良い。だが、もし来られさえするなら、攻撃して来る者は城門で追い返され、その贖いの日が来たのである。私たちは、このお方の現われを慕い求める。

 ならば、この聖句が尋ねる通り、このお方はどこにおられるのか? よろしい。このお方は、私たちのもろもろの罪ゆえに隠されている。教会は、このお方の真理を改竄してきた。神のことばを批評学者の手に引き渡し、その小刀で切り刻ませてきた。ここの部分が引き裂かれ、あの部分がむしり取られるにまかせてきた。この世といちゃついてきた。自らの目標のための金銭を得ようとして、この上もなく下卑た手段を用いてきた。そのしわざにおいて、淫行を行なってきた。というのも、いかに下卑た、いかに愚劣な娯楽をも平気で行なってきたからである。その牧師たちでさえ、最近は劇場に押し寄せ、そこに座り、役者たちの努力を拍手喝采してねぎらっている! この通り道へと私たちは、ついに来てしまった、私たちが以前は一度も来たことがない道――しかり、ローマカトリック時代の暗黒の時でさえ来たことがない道に至ってしまった。そして、もしもあなたがた、神のしもべと告白する者たちが、そのことに憤らない程度のキリストへの愛しか有していないとしたら、主があなたがたをあわれんでくださるように! 主なるエホバに対して大きな叫びを上げるべき時は確かにすでに来ている。その御腕を再び現わし給え、と。というのも、私たちはこう云って良いからである。「神はどこにおられるのか? どこにおられるのか?」、と。

 あなたの慰めのために、本日の聖句の次の節は、このお方がどこにいるか告げている。この方は天におられる。彼らは、この方をその御座から追い出すことができない。「しかし、わたしは、わたしの王を立てた。わたしの聖なる山、シオンに」[詩2:6]。この現代の時代に彼らは、でっち上げというでっち上げを浴びせかけることによって、キリストをその教会から追放しようとしてきた。キリスト抜き、血潮抜きの福音が多くの講壇を汚しており、このようにしてキリストはお怒りになっている。だが、それでも このお方は天になおもおられる。神の右の座に着いておられる。そして、このことを主に対する私たちの絶えざる祈りとしよう。「おゝ、主よ。どうか、天から見おろしてください! あなたの衰えかけた、ぐらついている、移り気な教会に目をとめてください。天から見下ろしてください」、と。

 「この方は、どこにおられるのか?」 よろしい。この方は、ご自分で問うておられる。というのも、一部の人々の読み方によると、この箇所全体は、神ご自身がお語りになっておられるからである。神は古の日々、モーセやご自分の民のことを思い出しておられる。そして、ご自分を隠し、憤ってみわざを行なおうとしなかったとき、それでも神はご自分に向かってこう仰せになった。「羊の群れの牧者たちとともに、彼らを海から上らせた者は、どこにいるのか?」 神ご自身が、すなわち、この地上では常に異国人であられる神ご自身が、――というのも、私たちは、父祖たちのように、神とともに異国人であり寄留している者[I歴29:15]ではないだろうか?――、ご自分はどこにいるのかと問いかけ、今よりも幸いだった時代を惜しみ始めるとき、そこから何かが起こることであろう。「主を呼び求める者たちよ。――主に覚えられている者たちよ。――黙りこんではならない。黙っていてはならない。――息をついてはならない。主に息をつかせてはならない。――主がエルサレムを堅く立て、この地でエルサレムを栄誉とされるまで」[イザ62:6-7参照]。「あの小さな雲は」、とひとりの古人は、背教者ユリアヌスがキリスト教を今にも根絶しようとしていたときに云った。「あの小さな雲は、じきに過ぎ去るであろう」。私が今日、暗黒について見ているすべてのものは、煙のうねりでしかない。見よ。主なる神ご自身が、それを強い西風[出10:19]によって追い払わせる。神がその風を一吹きするだけで、その雲は消失する。そして、今日私たちの前に立っているものは、無いもののようになる[イザ41:11]。

 私は今晩この場に来る際にこう思った。石炭荷車を運転する人は、未来をどうみなすべきかという、1つの教訓を与えてくれる、と。彼が、例えばクラパムから発車するとする。もし彼が、クラパムとエレファント、またカースル間のすべてを見通し、荷車だの、荷馬車だのといった、自分の行く道にまさに立ちはだかっている他の車の往来について見通すことができ、かつ、こうした障害物の一切をつけ足すことになるとしたら、彼は愚かにもこう云うことがあるかもしれない。「これでは、今晩中に行き着くことなどできない」、と。だが、見ての通り、彼は発車し、もし何かが線路の上にあると、それは立ち去る。そして、もしかして、何らかののろのろとした、山のように荷を積んだ石炭専用車がゆっくりとしか動かない場合には、彼は警笛を口に当てて、一吹きか二吹きする。と見よ、それはいなくなるのである! そのように、教会が神に仕える際に、預言を通じて、自分には理解できない――また、今後も理解しないであろう――はるか先を眺め始めると、自分の旅路の終わりには決して達するまいと考えるであろう。しかし、そうではない。神がその路線を敷いておられるからである。私たちは線路の上にあり、その線路は旅路の終わりに達するまで終わることはない。そして私たちは、進んでいくにつれて、途上にあるあらゆるものが自分の前でよけるのを見いだすはずである。もしよけようとしなければ、私たちは少々祈るであろう。私たちの警笛を鳴らすであろう。すると悪魔そのひとでさえよけなくてはならないであろう。彼の黒馬全頭が醸造業者の大荷車を引いていようが、その他、彼に属する何を引いていようが関係ない。確かに主が生きておられるのと同じくらい確実に、彼は、私たちの軌道からよけなくてはならないであろう。というのも、もしエホバが私たちをご自分の使いに出しておられるとしたら、私たちがしくじることはありえないからである。古代ローマ人たちは、大神ユーピテルを雷電を投げつけるものとして描き出している。時として神はご自分のしもべたちを雷電とし、神が彼らを投げつけるとき、彼らはその的に当たるまで、一切のものを破壊して行く。それゆえ、一瞬たりとも落胆してはならない。むしろ、神に信頼し、恐れの影なしに喜ぶがいい。

 もしもこの場にいる誰かが決して神に信頼したことがなく、一度も神を自分の《友》としたことも、その御子の死によって神と和解させられたこともないとしたら、私はその人たちに切に願う。自分の今の状態を考えてほしい。神に反対しているのである! あなたは、急行列車の行く手に立ちつくしている。あなたは、その道からよけるように促されている。だのに、そうしようとしないのである! あなたは、その列車を転覆させてやろうと云う。あわれな愚か者。私はこの両腕であなたの首をかかえて、無理にでもあなたをこの鉄の道から引きずり出してやりたい。というのも確かに、もしあなたがそこにとどまっているとしたら、そこから生ずるのはあなたの永遠の破滅しかないからである。それゆえ、逃れよ、逃れよ。私は切に願う。必ず来る御怒りから逃れよ。天来の審きという列車は、今しもこの鉄路を轟然と突進しつつある。それは地を轟かせている。目覚めよ! 起きよ! 逃げ出せ! 神があなたを助けてそうさせてくださるように! 見よ。《救い主》は両腕を広げてあなたの隠れ場になろうと立っておられる。この方のもとに逃れ、この方に信頼し、永遠に生きるがいい! アーメン。

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主は、どこにおられるのか?[了]

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