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私たちの期待

NO. 2186

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説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「彼は、その子孫を見ることができる」。――イザ53:10 <英欽定訳>


 この聖句によってまず示唆される思想は、イエスが今も生きておられる、ということである。何かを見るのは、生きた者の行為だからである。私たちの主イエスは死なれた。私たちは、主が死なれたことを知っている。喜ばしいことに、圧倒的な証拠は、主が見かけだけでなく、事実死なれたことを示している。主の脇腹は刺し貫かれた。主はローマ当局によって埋葬のために引き渡された。帝国当局は主の死を確信していた。あの兵士は、主の脇腹を刺し貫くことによって、その確信を二重に確かなものとした。主の弟子たちは主を葬った。彼らが主を洞穴の中に放置した以上、主の死については何の疑いもいだいていなかったのであろう。彼らは安息日の後、嘆きながら主に香料を塗布しようとしてやって来た。彼らはみな主が本当に死んだものと確信していた。死せるキリストはほむべきかな! ここに私たちの生ける望みはその土台を置くのである。もし主が死ななかったとしたら、私たちは永遠に死んでいたに違いない。私たちは、主の死について確信すればするほど、主にあるすべての者のいのちについて確信を感じる。

 しかし、私の兄弟たち。主は今は死んでいない。何年か前に、ある者が、私たちの聖なる信仰を嘲ろうとして、あるちらしを印刷し、それを至る所に貼り付けた。――「死人を信頼することなどできようか?」

 私たちはこのように答えたであろう。「否。誰も死んでいる人を信頼することなどできない」。しかし、そのちらしを発行した者たちも知っていた通り、彼らは私たちの信仰に云いがかりをつけていたのである。イエスはもはや死んではいない。三日目によみがえられた。私たちには、その確実で無謬の証拠がいくつもある。主は本当に墓からよみがえられた。これは歴史的事実である。歴史的であるとして通常受け入れられている、ほぼいかなる事実にもまして確実に証明された事実である。主はよみがえって二度と死ぬことがなかった。主は涙と死の国から出て行かれた。

 主は不死の領域に入られた。父なる神の右の座に着き、永遠にそこで統治しておられる。私たちは死なれた主を愛しているが、死なれた主が今は死んでいないこと、むしろ、いつも生きていて、私たちのために、とりなしをしておられること[ヘブ7:25]を喜んでいる。

 愛する神の子どもたち。キリストが死なれたからといって、そのみわざが頓挫するのではないかと恐れてはならない。主は生きていて、そのみわざを続けておられる。主がその死によって私たちのために買い取ったものを、主は生きていて、そのいのちによって私たちのために確保しておられる。あなたの信仰を、死人を扱う、一種の死んだ信仰にしてはならない。むしろ、それをいのちで一杯になったもの、その血管に暖かい血潮がみなぎっているものとするがいい。あなた自身のキリストのもとに行くがいい。あなたの生けるキリストのもとに。主をあなたの親しい《友》とし、あなたの孤独が分かる《知友》とし、あなたの巡礼路の《同伴者》とするがいい。生者であるあなたと主との間に、大きな淵があるなどと考えてはならない。死の影はあなたと主とを分かってはいない。主は生きておられる。思いやっておられる。同情しておられる。見守っておられる。いつでも助けようとしておられる。今しもあなたを助けてくださる。あなたが入ってきた場所は、祈りが常日頃ささげられている場所である。重荷と悩みにあえぐあなたは、助けを求めている。あなたの主が生きた《友》であることを思って、あなたの重荷から解かれるがいい。主は今なおいつでもあなたの強き《助け手》になり、あなたのためにも、この地上に滞在していた時代、困窮する者たちのために行なったことをいつでも行なおうとしておられる。私は、あなたがた、主を知らない人たちさえも、主が生きておられることを覚えてほしいと思う。今晩、あなたが主を求めるようになるためである。――もう一度日が上る前に、あなたが主を見いだし、主を見いだすことにおいて、あなた自身が見いだされて、救われるようになるためである。生ける、愛に満ちた、罪人たちの《友》なしに生きようとしてはならない。主の癒しの御手を求めるがいい。そして、主の同情を乞い求めるがいい。それを得るがいい。保つがいい。そうすれば、あなたは、それによって地上の生活が天上の生活のようになることに気づくであろう。生けるキリストとともに生きるとき、あなたは本当に生きることであろう。主には光があり、その光は人のいのちなのである[ヨハ1:4]。

 さて今、手短にこの聖句そのものを取り上げよう。私がそれについて注目したいのは、第一に、キリストの死が子孫を生み出した、ということである。「あなたが、彼のいのちを罪過のためのいけにえとするとき、彼は、その子孫を見ることができる」<英欽定訳>。明らかにキリストの死は、多くの子孫を主にもたらした。第二に、その子孫は途絶えない、ということである。私たちの主イエス・キリストは今日、虚空を眺めてはおられない。主はご自分の家族の者に死なれてはおらず、今なおご自分の子孫を見ておられる。そして第三に、また、最後に、その子孫は、いついかなる時にも、主からじかに見守られている。というのも、「彼は、その子孫を見ることができる」からである。

 I. よろしい。まず第一に、《子孫を生み出したものとしての、キリストの死》についてである。

 ここには、主イエスに従う者たちがいるとは記されていない。それは真実であろう。だが、この聖句は、主には子孫がいると云う方を好んでいる。先ほどの聖書朗読で、主イエスには弟子たちがいると記されていた。それは、まぎれもなく真実であろう。だが、この聖句にそうは記されていない。それは、「彼は、その子孫を見ることができる」、と云う。なぜ主の子孫なのだろうか? 何と、それは、キリストに真に従う者、キリストの真の弟子たる者はみな、新生によって主から、弟子たる立場へと生まれたからである。

 新生によらずにキリストを知ることはありえない。私たちは、生まれながらに売られて罪の下にあり[ロマ7:14]、霊的な真のキリストをわきまえたければ、新生によって私たちの内側に1つの霊が創造されるしかない。そのことについて主は、「あなたがたは新しく生まれなければならない」[ヨハ3:7]、と云われた。これが、弟子になるための入口の門なのである。

 いかなる者も、キリストに従う者の名簿に記入されたければ、神の家族の登記簿にも、こう書き記されるしかない。――「これこれの者、ここに生まれる」、と。他の人々は、普通の手段によって自分の弟子たちを集めることができよう。だが、キリストの弟子たちはみな奇蹟によって生み出される。彼らはみな、新しく創造されることによって弟子とされる。イエスは、彼ら全員をご覧になる際に、こう云うことがおできになる。「見よ。わたしは、すべてを新しくする」[黙21:5]、と。彼らはみな、主を《王》とする世界にやって来る。そこに生み落とされることによってやって来る。誕生によるしか、最初の世界に入る道はない。そして、正義の住む[IIペテ3:13]第二の世界に入るにも、誕生によるしか道はない。そして、その誕生は、《救い主》の受難の激痛と緊密に結びついている。「あなたが、彼のいのちを罪過のためのいけにえとするとき、彼は、その子孫を見ることができる」。ならば、見るがいい。私たちがここに尋常ならざる表現――「その子孫」――を有している理由を。

 ここから学びとってほしいのは、キリストに真に従い、キリストによって救われているすべての者は、自分のうちに主のいのちを有している、ということである。親のいのちは子どもの中にある。親からそのいのちは受けたのである。キリストのいのちこそ、あらゆる真の信仰者のうちにあるものである。――「あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます」[コロ3:3-4]。私たちには、私たちの天性のいのちがあり、それが私たちを人としている。私たちには、私たちの霊的ないのちがあり、それが私たちをキリストとしているのである。

 私たちは自分の両親からいのちを受け、このことによって最初のアダムとつながっている。私たちはキリストからいのちを受け、このことによって第二のアダムにつながっている。誤解しないでほしい。神の右の座に着いているキリストのうちに宿っているいのちは、その信頼を主にかけるあらゆる者たちに主が授けておられるのと同一の永遠のいのちである。あの、永遠のいのちへの水がわき出る水[ヨハ4:14]を主は私たちにお与えになった。主はそれを、私たちの内側で水がわき出る泉とされた。その生ける泉の最初の一滴も、その泉から発するすべてのものも、その泉のものも、主から出たのである。

 話をお聞きの愛する方々。あなたに対して、それをこう云い表わさせてほしい。あなたは、この新しい誕生について何か知っているだろうか? この天来のいのちについて何か知っているだろうか? 世にはおびただしい数の信心深い人々、非常に信心深い人々がいる。だが彼らは、鋲釘なみに死んでいる。多くの信心深い人々は、蝋人形のようなもので、よく釣り合いが取れているため、蝋燭の明かりでは生きた人間と取り違えられかねない。だが、神の光によれば、たちまちそこには強烈な違いがあることが分かるであろう。というのも、人間の技術の粋を尽くして作られたものも、本物の生き物の貧弱な模造でしかないからである。話をお聞きのあなたがた、家族の宗教という衣をまとい、道徳的美徳という宝石に飾られた人たちは、「着飾りし 天性(ただ)の子なれど 生ける子ならじ」でしかないことがありえる。神の生きた子どもたちは、あまり見栄えがせず、あなたのように魅力的な装いをしていないかもしれない。また、彼ら自身の評価においても、あなたとお付き合いするような価値はない者かもしれない。だが、生きた子と死んだ子の間には、厳粛な違いがある。あなたが、いかにそれを押し隠そうとしても関係ない。義人たちは自分が罪人であることを知っている。罪人たちは自分を義人だと信じている。前者の恐れの中にある真実は、後者の信仰の中にありえるいかなる真実よりも大きい。後者の信仰は偽りに基づいているからである。愛する方々。もう一度云うが、私たちがキリストに従う者となるには、キリストのいのちにあずかるしかなく、そのいのちが私たちのうちにない限り、キリストについて私たちが何と云おうと、また、キリストに従うことについて何と告白していようと、私たちは奥義を会得していないのである。全く霊的な世界の外部にいるのである。――主が《かしら》であり、《創造主》であり、主であられる世界の外部に。この「子孫」という言葉が用いられている理由が分かるであろう。私たちは、誕生によって主のもとに行く。私たちは主のいのちにあずかっている者なのである。

 さらに、私たちの主を信ずる人々がその子孫と云われているのは、彼らが主に似ているからである。望むらくは、このことを、あまり限定つきでなく語ることができれば良いのにと思う。だが、イエスを本当に信じており、天来のいのちが内側で強く、強力に働いている人は、イエスに似ており、特にこのことにおいてイエスに似ているものである。――すなわち、キリストが神の奉仕とご栄光のために全くご自分を聖別されたのと同じように、この信仰者も自分を聖別している。また、キリストがご自分のみわざのための数々の成功の基を死と埋葬、また、栄誉や慰安やいのちそのものの放棄に置かれたのと同じように、真の信仰者は自分の生涯の目的を成し遂げ、神に栄光を帰すためとあらば、いかなるものをも何であれ喜んであきらめるのである。「私たちもこの世にあってキリストと同じような者である」[Iヨハ4:17]。――すなわち、私たちは神のご栄光のために熱心で、人々への愛に満たされ、彼らの救いを切望する。それによって神の栄光が現わされるためである。兄弟姉妹。果たしてそう云えるかどうかは、あなたが一番良く知っているはずである。だが、もし私たちにキリストの御霊がなければ、私たちは全くキリストのものではない。もし私たちがキリストに似ていないとしたら、私たちが主の子孫であることはありえない。というのも、子は親に似るものだからである。確かに子どもたちはその父に似ている。――全員が同じ程度まで似てはいないが、それでも、彼らが子であることは、自分たちを生んだ者に似ていることがその証拠である。私たちの主の真の民は主に似ている。さもなければ、彼らが「その子孫」と称されることはできなかったであろう。悲しいかな、古い性質は、そうした似ている部分を汚して、ぼやけさせてしまう! 最初のアダムは完全に取り除かれたわけではない。だが、それは次第にかすかになっていくべきである。その一方で、天来の肖像の描線は次第にくっきりとした明瞭なものとなっていくべきである。これは、キリストにある私たちのいのちが経験していることだろうか? 私はそうであるように祈るものである。もし自分のうちに、私たちの主に日増しに似ていくものがないとしたら、私たちは心を大いに探るべきである。

 主の子孫と呼ばれる者たちのためには、このことも云っておくべきである。――すなわち、彼らは同じ目的を遂行し、同じ報酬を受け取ろうと期待している。私たちはキリストにとって、その子孫であり、こういうわけで、キリストの有する一切のものの相続人である。――地上における主の仕事を受け継ぐ者、天における主の財産を受け継ぐ者である。私たちは、イエスにある真理[エペ4:21]に対する証人となり、主が行なわれたように巡り歩いて良いわざ[使10:38]を行ない、主にならって失われた者を捜して救う[ルカ19:10]べきである。このことを私たちは、息子が父親の仕事の後を継ぐように、受け継がなくてはならない。人が自分の所有物を子孫に引き渡すように、キリスト・イエスはご自分の民に、ご自分のあり方すべて、また、ご自分の持つものすべて、また、ご自分がそうなるはずのあり方すべてを譲り渡しておられる。それは、彼らがご自分と一緒にいて、ご自分の栄光を見るようになるため[ヨハ17:24]、また、ご自分とともに世々限りなく星のように輝くためである。私たちはこの点で主の子孫である。――主は私たちをご自分の家族の中に入れ、私たちに家伝の財産を与え、私たちをご自分のうちにある一切のものにあずからせてくださった。

 さて、愛する方々。これはみな主の死によることである。私たちが主の子孫にされたのは、主の死によってである。なぜ主の死が大本となるのだろうか? 何と、私たちのために主が死なれたからこそ、御父は私たちを扱いにやって来ることがおできになり、御霊は私たちの上に吹いて、私たちを新しく創造することがおできになったからである。正義の神が私たちをお取扱いになるためには、贖罪の《犠牲》がその道をふさいでいた石を転がしてどけなくてはならなかった。すなわち、罪が罰される必要があった。キリストが私たちに代わって死なれたので、私たちは正義に対して別の関係に立つことになった。そして、私たちが新生させられること、神の家族の中に入れられることが可能となった。愛する方々。あなたも自分の経験から知っているとは思うが、主の死こそ、あなたの回心という件において、最も真の働きをあなたに及ぼしたものなのである。私は、キリストの模範が不敬虔な人々に大きな効果があるとさんざん聞かされている。だが、私はそれを信じないし、確かに一度もそうした例を目にしたことがない。それが大きな効果をもたらすのは、人々が新しく生まれ、やがて来る御怒りから救われ、それゆえに感謝に満たされるときである。だが、そうしたことが起こらない限り、私たちの知っているある人々は、キリストのふるまいを称賛し、そのご人格の美しさについて本さえ著していながらも、その一方で、主の《神格》を否定するのである。このようにして彼らは、主の本質的な性格において主を拒絶しており、主のご生涯に対する彼らの冷たい称賛によっては、彼らのふるまいの上に何の効果も生み出されない。しかし、ある人が、イエスの死によって罪赦され、救われたことを見てとるようになるとき、その人は感動し、感謝し、愛するようになる。「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです」[Iヨハ4:19]。主がその死において明らかに示してくださった愛は、私たちの存在の主ぜんまいに触れ、以前は全く無縁であったものへと情熱をもって私たちを動かす。そして、このことゆえに、私たちはかつては甘やかであったもろもろの罪を憎み、心を尽くして、かつては不快であったことに服従するようになるのである。

 キリストの血を信じる信仰には、他のいかなることをも越えて、人間の性格を変える効果がある。ひとたび十字架が見てとられるや、罪は十字架につけられる。《主人》の受難がひとたび私たちのために忍ばれたものであると理解されるや、そのとき私たちは、自分がもはや自分自身のものではなく、代価を払って買い取られた[Iコリ6:19-20]と感じる。この、主イエスの死における贖いの愛を悟ることによって、徹底的な違いが生ずる。これにより私たちは、それまで知っていたいかなる生き方よりも高潔で善良な生き方へと備えさせられる。主の死こそ、それを行なうものなのである。

 さて今、愛する方々。もしも主の死によって私たちがその子孫になっているとしたら(そして、私がこのとき語りかけている多くの人々は、真実に、自分はそうなっていると希望していると云えるものと思うが)、その場合、この事実をしばし考察しようではないか。私たちは主の子孫である。人々は王家の子孫について語る。キリストの子孫について、私たちは何と云えば良いだろうか?

 信仰者たち。あなたは貧乏人で、辺鄙な裏路地に住んでいるかもしれない。だが、あなたは帝王家に属しているのである。

 あなたは無学で目に一丁字もないかもしれない。また、あなたの名前は決して科学史の上で燦然と輝くようなものにはならないであろう。だが、天来の《知恵》なるお方は、あなたをご自分の子孫のひとりとして認めておられるのである。あなたは病人かもしれない。今しもあなたの頭は痛んでおり、あなたの心臓は弱っている。今にも死にそうな気がしている。あゝ、よろしい! だが、あなたは、死んで、よみがえって、栄光に入られたお方の子孫に属している。「ただひとり死のない方」[Iテモ6:16]の子孫に属している。あなたがた、国王たち、帝王たち。あなたは自分の王冠を捨て去ってかまわない。――鎚で打った土塊、黄色の土塊を、別の、きらきらした地面の切れ端で飾り立てたもの――そんなものはみな、全く価値の劣るものとして捨て去ってかまわない! 私たちの有する冠は、無限に大きな価値があり、私たちはあなたがたの誰よりも桁外れに栄光に富む王家に属しているのである。

 しかし、そこから必然的に云えることとして、もし私たちがこのように子孫であるとしたら、私たちは互いに結び合い、いやまさって愛し合うべきである。キリスト者である人たち。あなたは同族意識を持っているべきである! 「おゝ」、とある人は云うであろう。「つまり、バプテスト派は団結すべきだということですね!」 そうした類のことを私は全く意味していない。私が云いたいのは、キリストの子孫は心を1つにしているべきだということである。そして、イエスのいのちと愛が見いだされる所ならどこであれ、私たちの愛が表わされることを認めるべきである。降誕祭の時期、あるいは、ことによると一年の中の他の時期が、非常に喜ばしいのは、家族全員が集まるからである。そして、たといあなたの名前が、「鈴木」だの「田中」だのだったとしても、それでも、あなたは、自分の氏族が一堂に会するときには、自分の名前に何か重要なものがあると感じるのである。それは、何の変哲もない名前、あるいは、まるで世に知られていない名前かもしれない。だが、なぜかあなたは、家族全員が集まって、合同で祝いの時を持つその日には、全く偉大に感じるのである。互いに対するあなたがたの愛は暖かなものとなる。赤く燃える炭が寄り集まるときと同じである。あなたの心の中も、キリストに属するすべての人々に対して同じようであるように! あなたは天の王族に属している。あなたは、ゲルフ家[英国王室]の者でもホーエンツォレルン家[ドイツ帝国王家]の者でもない。だが、あなたはキリスト者であり、それはすべてにまさる偉大な名なのである。このお方には子孫がある。――私たちが、見てはいないが、今晩あがめているこのお方には、子孫がある。私の内奥の魂は、私の氏族の《かしら》を誇りとしている。――その御手は刺し貫かれ、その御足は釘づけられ、その王子たるを示す星として有しているのは脇腹の槍の傷跡である! 私たちは、その言葉に尽くせない愛の無限の威光によりこの方をあがめる。私たちはこの方の子孫に属しており、それで、この方の近親なのである。私が馴れ馴れしすぎると考えてはならない。私はこの言葉が許す限度を越えてはいない。否、その限度の端にまでもほとんど達していない。私たちは真実にイエスの子孫に属している。ユダヤ人がイスラエルの子孫に属しているのと全く同じである。――肉によって生まれたのではない。主には、そのようなしかたで生まれた子孫はひとりもいないからである。だが、御霊によって生まれたのであり、その点で主の子孫は空の星[創22:17]のようなのである。私たちは、この聖句を読む際には歓喜とともに喜ぶ。「彼は、その子孫を見ることができる」。

 ここまでが、本日の第一の点である。

 II. さて、私の第二の点は、《主の子孫たちは途絶えない》、ということである。私たちの主は常に子孫を有される。このことは、この聖句に何の限定もないことから明らかであると思われる。ここでは、主がその子孫をこれこれの長さの間だけ見るが、それ以後は見なくなるとは云われていない。むしろ、これは成就された預言として、また、常に成就しつつある預言として、また、常に成就されることになる預言としてある。――「彼は、その子孫を見ることができる」。キリストには、常に見るべき子孫がいるであろう。ということは、主の教会は世界が立ち続ける限り決してすたれないであろう。そして、永遠を通じて、その子孫はなおも果てしない状態の中で存在するに違いない。というのも、代々限りなく私たちの主イエスは、その子孫を見ることができるからである。

 私が注目するのは、この言葉が複数形であることである。――主はその「子孫たち」を見ることができる。あたかも、ある者たちは真に主の子孫だが、しかし、少なくとも一時的には、残りの者たちとは異なっているかのようにである。私たちの主は、まだ回心していない者たちについてこう云われた。「わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません」[ヨハ10:16]。また、「わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします」[ヨハ17:20]。キリストは、こうした、ご自分の血によって贖われた人々を代々引き続いてご覧になるであろう。ご自分の家族に生まれ、ご自分をほめたたえることになる人々である。息子らが父祖に代わり、主は彼らを全地の君主に任ずるのである[詩45:16]。七十人訳には、こう記されている。「彼は、長命の子孫を見ることができる」。私はその訳が正しいとは思わないが、それでも、この節によって、メシヤが永続的な子孫を有することになると考えられ、信じられていたことが分かる。愛する方々。もし地上で神の教会を滅ぼすことが可能だったとしたら、それはとうの昔に滅びていたことであろう。地獄の悪意は、あらん限りの手を尽くしてキリストの子孫――その死から生じた子孫――を滅ぼそうとしてきた。古代ローマの円形演技場に立ったとき、私は、この巨大な罪の建物の遺跡を見回しながら、神を賛美せずにはいられなかった。この円形演技場は朽ち果てていても、神の教会は存在しているのである。そこに立って、キリスト者たちの苦しみをほくそ笑んで見ていた何千何万もの人々は誰もがこう云ったことであろう。「キリスト教は滅び去るだろう。だが、このように堅固に建造された円形演技場は時の終わりまで立ち続けるであろう」、と。だが、見よ。その円形演技場は朽ち果てており、神の教会はいまだかつてないほどに堅固で、強固で、栄光に富んでいる! 古のネロやディオクレティアヌスの治下における数々の迫害の物語を読んでみさえすれば、あなたはキリスト教がその残虐な打撃を生き延びたことに驚くであろう。悪鬼どもの発明できるあらゆる形の責め苦がキリスト者の男女に加えられた。そこここにおいてではない。至る所で彼らは狩り立てられ迫害された。読めば恐怖に身の毛もよだつことに、女たちは雄牛の角めがけて投げつけられ、灼熱した鉄の椅子に座らされた。また、男たちには蜂蜜が塗りたくられ、雀蜂に刺されて死に至らされるか、荒馬の踵にくくりつけられて引きずられるか、闘技場で種々の野獣に立ち向かわされた。しかし、このことについてはもう何も云うまい。教会という勇壮な船は、真紅の海の赤い波を切って走り、その舳先には血糊がべったりとついていた。だが、この船そのものは、そのように洗われたためにかえって性能が上がり、荒れ狂う風ゆえに一層勇壮に航海していった。私たち自身の国について云えば、この地における数々の迫害の物語を読むがいい。フォックスの『殉教者伝』を読むだけで十分であろう。私は、一家に一冊は、大活字本の『殉教者伝』が常備されていてほしいと思う。今でも良く覚えているが、子どもの頃の私が、いかに何時間も、何日も、『殉教者伝』の昔風の挿し絵を眺めながら、神の人たちがいかにして彼らがしたように勇敢に苦しみを忍んだのか不思議がることで過ごしていたことか。思えば私は、あのブレントフォードの少年の頁をよく開いたものであった。彼は、最初に鞭で打たれ、その後で火刑柱に縛りつけられ、キリストのために朗らかに焼き殺されたのである。それが私の精神に及ぼした効果を思うとき、私は、ロンドン市中にある、1つの古い教会について云われていたことが思い起こされる。それは非常に激しく迫害された教会である。何年も何年も前に、一団の人々がある早朝にスミスフィールドへと向かう姿が見られた。そこで誰かが云った。「あんたたちは、どこへ行くんだね?」 「スミスフィールドです」。「何しにさ?」 「私たちの牧師が焼かれるのを見るためです」。「よろしい。だが、一体全体、何でまた、その人が焼かれるのを見ようっちゅうんだね? それで何の得があるっちゅうんだね?」 彼らは答えた。「私たちが彼の焼かれるのを見に行くのは、その道を学ぶためです」。おゝ、だが、それは勇壮なことであった! 「その道を学ぶため!」 そのとき、イエスに従う一般庶民たちは、教会の指導者たちが模範を示した際に、苦しみを受け、死ぬ道を学んだのである。だが、英国における教会は迫害によって滅びることはなく、その敵どもの反抗ゆえに、かつてないほど強大になった。

 それ以来、キリストの教会をしゃにむに滅ぼそうという試みは、過誤によってなされてきた。百年かそこら前には、わが国の非国教徒のほとんどの諸教会にわたって、ユニテリアン信仰が勝利を得ていた。福音の根幹に関わる諸教理は省略され、その核心は取り除かれ、その精髄はえぐり取られていた。英国国教会も眠っていた。至る所に、一種の正統的な異端があるかに思われた。特に何も信じず、人の生死をかけるに値する教理があるなどとは思わず、むしろ、一切の宗教的教えはどうにでもなるもの、好き勝手に形成してかまわないものとする立場である。まるで、神の生ける教会は全く途絶するかに見えた。だが、そうはならなかった。というのも、神が床を踏み鳴らすや、全国の津々浦々からウェスレー氏やホイットフィールド氏のような人々が頭角を現わし、他の何百人もの強大な勇士たちが異様な力をもって福音を宣べ伝え始めたからである。そして、蝙蝠や梟たちは彼らのしかるべき住みかへすごすごと引き返して行った。同じ有害な試みが今も試みられつつあるが、同じ結果となるであろう。というのも、生けるキリストは今なお前面に立っておられるからである。《王》はまだ地を離れてはおられない。この戦闘は、《王》の軍隊によって勝利されるであろう。エホバはその定めを宣言しておられる。「しかし、わたしは、わたしの王を立てた。わたしの聖なる山、シオンに」[詩2:6]。私たちの主は、その子孫が戦勝する側に立つのをこれから見ることがおできになる。

 世俗性は神の教会を破壊することに大きな成功を収めてきた。それは、私たちを襲撃する最悪の尺取り虫であると私は判断する。人々は信仰を告白して教会に加入するが、その告白を決して貫徹できない。私たちの回りには、キリスト者であると自称しながら、実はそうではなく、嘘をついているだけの者がそこら中にいないだろうか? また、多くの人々は、キリスト者でありはすると思うが、この種族の中でも極度に貧困な部類に属し、ほとんど愛がなく、ほとんど熱心がなく(実際、熱心すぎることを恐れており)、ほとんどみことばを調べることをせず、ほとんど祈らず、ほとんど聖別せず、ほとんど神と交わりを持たない。こうした人々は、もっと良いこと[ヘブ6:9]の見込みがまるでない。願わくは主が、そのみじめな教会をあわれんでくださるように。それは、冷たくも熱くもなくなってしまったあげくに、今にも主の口から吐き出されんばかりである![黙3:16] それでも、なまぬるいものはなおも熱くされることがありえる。主の御国の進展はまだ途絶えてはいない。「彼は、その子孫を見ることができる」。地の表に敬虔な人々が少しでもいることを永続的な奇蹟とみなすがいい。というのも、奇蹟的な力が発揮されていない限り、そのような者はひとりもいないだろうからである。キリスト教は自然に生長するものではない。それは絶えず天来の創造物である。キリスト者生活には、日ごとに聖霊のバプテスマが必要である。教会は不断に上からの光といのちを清新に受けていなくてはならない。さもないと、死滅してしまうであろう。だが、なおもこの約束は有効である。「彼は、その子孫を見ることができる」。太陽と月が持ちこたえている間は、《小羊》に従う者たちは途絶えないであろう。たとい彼らの数があまりにも少なく、エリヤからこう云われかねなくとも関係ない。「ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうとねらっています」[I列19:10]。神は、バアルに膝を屈めなかった者たちを何千人もご自分のために残しておられるであろう。

 III. さて今、私はこの第三の思想によって結びとしよう。――《この子孫は常にキリストからじかに見守られている》。「彼は、その子孫を見ることができる」。おゝ、私はこれを嬉しく思う。「彼は、その子孫を見る」! 主は、彼らが最初に新しく生まれたとき、彼らをご覧になる。私は、この講壇から、この場所で生まれるかもしれない、ほんの一部の人々を注意して探し続けている。そして、この場には多くの目ざとい兄弟たちや姉妹たちがいて、御霊の動きを内側に受けてこの場所にやって来るすべての人に語りかけようとしている。もしも思い悩む魂があれば、この人々はその人を見つけ出そうとする。私たちはその全員を見ることができない。だが、《彼は》、その子孫を見ることができる。時として、それは、自分が子孫かどうかという問題である。――彼ら自身にとっては、非常に大きな問題だが、主にとってはそうではない。主は、その子孫を見ることがおできになる。ある人々は求めている。だが、ほとんど見いさない。そうした人々は切望する。だが、信仰の道をほとんど悟らない。あゝ、よろしい! 主はあなたの最初の願望を見ており、あなたがへりくだった祈りを囁き、震えながら近づくのを見ておられる。主はあなたを見ておられる。主は、ご自分の子どもを見ておられる。いかに辺鄙な場所で生まれようとも、たちどころに主から感知されない者はひとりもいない。最初の生きた叫び、最初の生きた涙を主はご覧になっている。「彼は、その子孫を見ることができる」。このように《見るお方》がおられるとは、何というあわれみであろう! 私たち、あわれな地上の牧師たちは、大して役に立たないが、この大いなる、魂の《牧者》であり《監督者》[Iペテ2:25]は、新生した恵みの子羊を1つも見落とすことのない目を持っておられる。――何というあわれみであろう。このような《牧者》が群れ全体を眺めておられるとは! 「彼は、その子孫を見ることができる」。

 しかり。そして、その後ずっと、その子孫がどこをさまよおうとも、主はなおも彼らを見ておられる。あなたがたの中のある人々は、ことによると、英国で長く生きてきたかもしれない。だが、あなたは遠い遠国――豪州か米国に――に行こうと計画している。

 あなたは、果たして自分を霊的に助けてくれる友にひとりでも出会えるかどうかあやぶんでいる。恐れてはならない。「彼は、その子孫を見ることができる」。「歌に知られぬ川もなお、神に知られぬものはなし」。そして、もしあなたが叢林地に全くひとりで住まなくてはならず、いかなるキリスト者の知人もいないとしても、それでもまっすぐに神の御子のもとに行くがいい。というのも、「彼は、その子孫を見ることができる」からである。キリストの目は決して信仰の目から離れることがない。もしあなたが主を仰ぎ見るなら、主はあなたを見ておられると全く確信して良い。

 このことの美点は、このキリストがその子孫をご覧になるまなざしが、強烈な喜びのまなざしだということである。私は、この最も尊い主題について説教することはできないが、あなたにそれを熟考してほしいと思い。主イエスにとって、あなたを眺めることは天来の楽しみなのである。それはご自分の死の報酬として主に約束されている。母親よ。あなたは、自分の娘を眺めることが、また、その成長を見ることが、自分にとっていかなる楽しみであったか知っている。あなたは娘に、自分がその子について思っていたすべてのことを告げたいとは思わないであろう。あなたはその子を強烈な喜びをもって眺めていた。さて、主イエス・キリストはあなたを、それと全く同じように眺めておられる。愛は盲目であると人は云う。だがイエスは盲目ではない。むしろ、ご自分の民を、彼らが自らの内側を一度でも見るようになるよりも、はるかにまして見ておられる。主は彼らの望み、彼らの願望、彼らの憧憬を見てとられる。また、しばしば意図を行為として受けとり、それを今は半分しか発展していないもの、それゆえ、私たちに願えるだけのものとはなっていないものの美しさとしてくださる。それは、現在は美徳の下手な模倣である。だが、それは良い意図によるものであり、やがて良くなるであろう。そして、主はそれがそうなることを見てとり、それを喜んでくださる。おゝ、主の目は何とほむべき目であろう。それは、主にしか見えないものを見つけ出すことができるのである! 主がそれらを創造し、それらをご自分でそこに置かれたがゆえに、主はそれらを見ることができるのである。

 「彼は、その子孫を見ることができる」。主は私たちの贖いのためにあれほど多くの苦しみをお受けになったため、私たちを愛さずにはいられない。私たちは主に多くの代償を払わせたため、主は私たちを喜ばないではいられない。

   「喜びて御子(こ)は 見下ろせり、
    苦悶(なやみ)もて買い 給いしものを」。

   「彼は、その子孫を見ることができる」。

 兄弟たち。私たちの《救い主》は常にご自分の贖われた者たちをご覧になることであろう。主は、最後までその子孫を見るであろう。彼らが自分を天界の国から隔てている川のもとに来るとき、「彼は、その子孫を見ることができる」。それは、もしかするとあなたがたの中のある人々にとっては陰鬱なものとなるかもしれない。だが、死の時に暗くなることはあまり多くない。主の子どもたちの多くは、立派な蝋燭をもって床に就くことができる。たとい暗闇の中で床に就くとしても、すぐに眠りに落ちる。だが、いずれの場合にせよ、彼らが主を見ることはできなくとも、主は彼らを見るであろう。あなたに何も見えず、目眩が始まり、思考も記憶も失せ去るときも、主はその子孫を見ることができる。

 しかし、かの朝に、主はいかなる子孫を見ることになるであろう! 私は、まだ老人ではない。私の牧会伝道が多年にわたることから、ある人々はそう思っているが、それは違う。だが、私はしばしばそのほむべき朝を待ち望んでいる。聖なる子孫の全員が御座の回りに集まるそのときを。私の信ずるところ、キリストはやって来て、ご自分の買い取られた愛する者たち全員をご覧になるであろう。そして、私たちが全員そこにいるか目でお調べになるであろう。そのとき、羊たちは、再び数を数える者の手を通り過ぎ[エレ33:13]、主は彼らを数えられるであろう。主はご自分の血で誰を買い取られたか知っており、彼らの頭数がそろっているかを確認されるからである。私には、その登記簿が、その点呼簿が読み上げられるのが聞こえる気がする。あなたはそこにいて、自分の名前に答えることになるだろうか? 愛する方々。主の子孫は全員そこにいるであろう。――主の家に新生によって生まれた者は全員いるであろう。彼らは答えるはずである。「はい、はい、はい。ここにいます。ここにいます!」、と。おゝ、だが私たちがそこにいることになる喜び――主の御顔を見つめることになる歓喜よ。それでも、たとい私たちの喜びがすべて1つに合わされたとしても、それは主が、ご自分の血を流してくださった者たち全員がそこにいるのを見いだすときに覚えられる喜びとはくらべものにならないであろう。――御父が主にお与えになった者たち全員――自分を主にささげた者たち全員――ご自分の子孫として生まれた者たち全員がそこにいるのである。――ひとりの欠けもなく! 「あなたがわたしに下さった者のうち、ただのひとりをも失いませんでした」[ヨハ18:9]。おゝ、その日の私たちの《愛する方》の喜び、歓喜はいかばかりであろう! そのとき彼は、その子孫を見るのである!

 そして、私の信ずるところ、主の天国の一部は、ご自分の贖われた者たちを眺めることであろう。主は《花婿》であられ、彼らは花嫁である。そして花婿の喜びは、自分の花嫁を婚礼の日に一度きり見ることではなく、彼は、二人がともに生きている限り彼女を見ることに歓喜する。真の夫と、真の花嫁は常に愛し合っている。彼らは常に愛情の強い絆で結ばれている。そして、かの模範となる夫、主キリストと、その完璧な天上の教会も、それと同じである。主は御民のため死なれたときにも劣らぬほど彼らを愛し、これ以上ないほど愛される。そのようにして、永遠に「彼は、その子孫を見ることができる」。

 このようにして私は、私の語り口に関する限りはごく貧しく、弱々しいしかたであなたと語り合ってきた。だが、この教理は弱々しくないし、福音は貧しくはない。おゝ、あなたがた、キリストの子孫である人たち。ここから出て行き、自分の生き方によって主をほめたたえるがいい! 上に召されている者としてふさわしいあり方をするがいい。あなたの血統の高貴さを、あなたの生き方の大度によって示すがいい。そして、あなたがた、主の子孫ではない人たち。自分がどこにいるか見るがいい! あなたに何ができるだろうか? いかなることがあなたにできようとも、それでは全く先に進んだことになるまい。あなたは新しく生まれなくてはならない。そして、これは神の御霊のみわざである。神の御霊は、ご自分のしかたで新しく誕生させるが、福音に従ってお働きになる。福音とは何だろうか? 「信じてバプテスマを受ける者は、救われます」[マコ16:16]。私はあなたに切り刻まれていない福音を示そう。マルコによる福音の中で得られるままに示そう。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます」。この戒めに従うがいい。そうすれば、この約束はあなたのものである。願わくは神があなたを助けて、主イエスを信じさせ、永遠のいのちを持たせてくださるように! イエス・キリストを信ずる瞬間に、あなたは新しく生まれる。願わくは主が、その聖霊によって、この使信にその証印を押してくださるように。この建物の中のあらゆる人々に対する祝福というその証印を。主ご自身の御名のゆえに! アーメン。

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説教前に読まれた聖書箇所――ヨハ12:20-45


『われらが賛美歌集』からの賛美―― 325番、332番、302番。


スポルジョン氏からの手紙

 愛する読者の方々。――もしあなたがこの《宣言書》[No.2185]で述べられた偉大な真理の数々を受け入れるというのであれば、これを広く配布していただきたい。私は、この説教を単一の号数にするためといって、これ以上短くはできなかった。さもなければ、何か重要な点を省かなくてはならなかったであろう。そして、それよりも短い説教[No.2186]をこれに添付するのは非常に適切だと思う。昔ながらの信仰に反対する者たちは口癖のように、スポルジョン氏は「悲観論者」で、物事を陰鬱に受け取ると云う。それほど不真実なことはない。この説教は、私が希望と信頼に満ちていることを示す助けとなるかもしれない。時代は悪だが、主は善であられる。人々は信仰を捨てるが、神はなおも真実であられる。

 私はじきに、再び声を上げることができると期待している。清新にされ、休息を得た私は、主を仰ぎ見る。戦いのために私の腕に力をつけることがおできになる主を。そしてこの戦いには、日々より多くの信仰と決断が必要となっている。「《未来の教会》」とむなしく呼ばれているものは、生ける神の《教会》を転覆しようと脅かしている。この「教会」は劇場や居酒屋を経営し、無神論者を会員に含めようとしている。時代がどこへ突き進みつつあるかを知るのは良いことである。それは、その劇場と居酒屋によって、これまで知られている中でも最大の悪の道具であった2つを背中にかかえているのである。

 二重の塔を背中に生やしたこの怪物に対抗する武器として私たちの手元にあるのは、神の恵みの福音しかない。それは、もしも最初に伝えられたとき同じように宣べ伝えられるとしたら、鋭い両刃の剣[黙2:12]となる。

 それを時代に合わせるようにとの種々の忠告は、その鍛造所を破壊しようとする誘惑である。そして、そうした忠告に対して、私たちは何の敬意を払うこともできない。もしも私が、天来の真理の中の、肉の思いにとって不快な部分を包み隠すとしたら、私たちは神に対して不忠実となり、自分の召しに対して不真実となり、魂の血に対して咎を負うことになってしまう。

 兄弟たち。私のために、また、神の真理に対して忠実なすべての人々のために祈ってほしい。私たちが自分の堅固さを保てるように。真理は勝利を収めるであろう。神がそれをご自分の御旗としており、神の聖なる御腕がそれを支えているからである。だが、終わりはまだ来ていない。実際、私たちの主が突然お現われになる時まで、終わりは来ない。

希望して待ちながら、敬具
C・H・スポルジョン
マントン、1891年1月15日。

 

私たちの期待[了]

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