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罪を赦す神

NO. 2181

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1890年2月6日、木曜日夜の説教
説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「(神は)豊かに赦してくださるから。『わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。――主の御告げ。――天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い』」。――イザ55:7-9


 最初、人々は非常に低い罪観しか有していない。それは些細なこと、単なる間違い、判断の誤り、ちょっと脇道にそれることである。だが、聖霊が彼らを取り扱い始めるとき、罪は耐えがたい重荷に膨れ上がり、物凄いもの、恐怖と狼狽に満ちたものになる。人は、罪の悪について知れば知るほど、自分がそれに少しでも快楽を見いだしていたこと、あるいは、それを少しでも弁解できたことに愕然とする。さて、人々が自分自身について真実を知り始めるとき、それは良いことである。というのも、たといその真理が彼らを粉砕し、脱穀場のちりのように微細にすりつぶしてしまうとしても、虚偽の支配から解放されるのは良いことだからである。しかしながら、この時点で、罪の考えは明瞭になるが、赦罪の考えは最初それほど明瞭ではない。罪は大変なものであり、それを理由に、罪人は罪が赦されるはずがないと思う。あたかもその人は、自分の罪で主を測り、自分の罪が神のあわれみよりも大きいと思い描いたかのようである。こういうわけで、真に覚醒された人々を扱う際に困難なのは、神のあわれみに対する彼らの考え方を、罪の大きさに対する彼らの高められた考え方に匹敵するほど高めることである。彼らは、自分の罪を感じていない間は、神のあわれみ深さを語り、それについて非常に軽々しく話をし、赦罪など些細なことだとでも云わんばかりである。しかし、罪の重みを感じとると、彼らは罪が赦されるのは不可能だと考える。本日の聖句で、神はへりくだりをもって、罪人が赦罪を信じられる助けになるようにと、その人の神観を引き上げておられる。神が人よりも無限にすぐれているがゆえに、神は豊かに赦すことがおできになる。「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。――主の御告げ。――天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い」。主が豊かにお赦しになれるのは、主のご性質が私たちと同じ水準にはないからである。願わくは神が、これから私の語ることを祝福し、疑っている人々に、天来のあわれみを信頼させ、即座に私たちの神の赦罪を受け入れさせてくださるように!

   「赦しぞ、悪の きわみにも、
    赦しぞ、イェスの 血にて購(か)わるる」。

 I. 《あなた自身の思いは、赦罪を不可能と判断する》。それがなぜかを示させてほしい。ある人々にとって自分が赦されることが不可能と思われるのは、何らかの特別な、隠れた、はなはだしく重大な罪のためである。ほとんどの人は、自分の過去の生活を思い起こすとき、他のものよりも格段にどす黒い汚点を見てとる。ことによると、その汚点には他のどの汚点よりも多くの光が当てられているのかもしれないが、確かに、記憶の目は絶えずそこに戻っていく。そして、そうした人々が自分の人生を眺め渡すとき、彼らは、ある特定の巨大なそむきの罪の記憶に圧倒されてしまう。求道者の人々と会話する中で、私は多くのすさまじい物語を聞く羽目になった。それを私は決して繰り返して云いはすまい。彼らは弁解しようのない罪、汚らわしく、途方もない罪について涙を流した。だが、おゝ、私にとって常に喜びであったことに、私はこう云うことができた。「人はどんな罪も冒涜も赦していただけます!」[マタ12:31] 私が内密に聞かされた特定の行ないのうち、恵みの手も届かないように思われたものは――そう思われたものでさえ――ただの1つもなかった。「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」[Iヨハ1:7]。罪を確信した人々の中でも、自分の場合が他の誰にもまして極悪なものであると考えている人たちは、まさにそのような多くの人々が救われてきたのだと私たちが告げると驚くことがある。また、いかに使徒が、そうしたありとあらゆる種類の極悪非道さを列挙した後でこう云っているかを思い起こさせると、驚くことがある。「あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし、……あなたがたは洗われ……たのです」[Iコリ6:11]。彼らは、キリストが世に来られたのは聖徒を救うためだという幻想をいだいている。だが、主が世に来られたのは罪人を救うためなのである[Iテモ1:15]。彼らの想像によれば、主は、自分を罪人だと考えていても本当は罪人ではない者らをお救いになるのである。だがそうではない。イエスが来られたのは、罪人のふりをした者たちを救うためではなかった。本物の罪を犯した者たち、また、自分のしでかしたことを恥じるべき者たちを救うためであった。イエスは咎ある者たちのために死なれた。あなたは、カルバリで主の血によって支払われた贖いの代価が、取るにも足らない違反者たちのためのものだったと思うのだろうか? 否。まことに、無限の《お方》が死なれたのは、途方もない罪が取り去られるためであった。ならば、信ずるがいい。大いなる罪人たちのための大いなる《救い主》を!

 他の人々にとって、赦罪の困難さは、何らかの特別な不法よりは、自分たちの罪の数多さや、それをどれだけ長く続けてきたかに存しているように思われる。「見てください」、とある人は云う。「今では私も、罪を犯していないと考えていたときの自分が罪を犯していたことを悟っています。私は言葉で罪を犯し、思いで罪を犯し、動機において罪を犯します。ほとんど何の罪も犯していないと思っていた霊においても罪を犯しています」。あなたの部屋の空気は、十分にきれいで清潔なものに見えるが、太陽の光を鎧戸の穴から射し込ませるや、それは一変する。見よ! 見よ! 見よ! 何と、日光の光箭の中に無数の物体が踊り回っているではないか。そのように、全く罪もないように見える行動の内側には無数の悪があるかもしれない。それは、私たちの良心の目からうろこが落ちたとき、神の光によって分かるようになる。二十年、四十年、六十年、八十年を罪の中に生きてきたことは、覚醒された良心にとって途方もなく恐ろしいことのように見える。ほんの五分間でも人を怒らせるのは残酷なことである。一時間、その人を怒らせ続けるのは忌まわしいことである。だが、罪人たちがしているように、神を年々歳々怒らせるのは、途方もない罪悪であり、あわれみの手が届かないものに思われる。そのように心は感じ、それゆえにこそ本日の聖句のようなものが必要なのである。

 他の人々が、自分に赦しなどありえないという考えによって痛ましく苦しめられているのは、自分たちが、あることを自ら進んで行なったためである。「私はこれこれの折に」、とある人は云う。「はっきりと、義よりも罪の方を選びました。私は大きな光に背いて罪を犯しました。私は、あえて自分に背いても、悪いつき合いにおぼれ、罪を犯しました。私は自分の良心をぎりぎりと押さえつけて罪を犯したのです」。確かに、これは非常に重い悪である。故意に罪を犯すことは、極度に危険である。あえて意図的に事を行なうことこそ、まさに罪が断罪される理由にほかならない。光と知識に背いて故意に犯された罪は、まさに罪である。あなたが赦されることなど不可能だと考えるのも無理はない。だが、思い出してほしいのは、あなたの判断は、神のことばにくらべれば無だということである。そして神のことばはこう宣言しているのである。もしあなたがおのれの道を捨て、主に帰るならば、主は「豊かに赦してくださる」、と。驚いてはならない。あなたは、いま自分で考えているよりも、はるかに悪人なのである。たといあなたが自分自身について非常に恐ろしい考えをしているとしても、その考えは真実に達してはいない。しかし、それにもかかわらず、もしあなたが今のあなたよりも一万倍も悪人であったとしても、それでも、無限にあわれみ深い神は、キリストのゆえに、あなたの一切の罪過を赦すことがおできになる。あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのように拭い去ることがおできになる[イザ44:22]。見るがいい。神の御名によって、私はこの偉大な真理を掲げる。神は「豊かに赦してくださる」。

 「先生」、とある人は云う。「私の犯した罪は、とんでもない嘘と、心の悪辣さなのです。というのも、私はバプテスマを受けて、ある教会に加入したのです。私はキリストに従うと告白したのに、自分の契約を破ったのです。私はキリストの救いについてある程度知っていたのに、それに背いて罪を犯しました。私はいったんは神の御顔の光を喜んでいたのに、よこしまにも神から離れ去ったのです」。しかり。これは非常に、非常に、非常に重大なことである。しかし、このように云う聖句がある。「裏切り娘よ。帰れ」*[エレ3:14; 31:22]。そして、私は先に進む前に、この一言をぜひともあなたの耳の中で響かせなくてはならない。願わくは神の御霊がこれをあなたの心に突き入れてくださるように! 「わたしは彼らの背信をいやし、喜んでこれを愛する。わたしの怒りは彼らを離れ去ったからだ」[ホセ14:4]。神は「豊かに赦してくださる」。というのも、天が地よりも高いように、神の道は、あなたの道よりも高いからである。

 ある人がこう云っているのが聞こえる。「しかし、先生。私の罪には、1つ、特別に極悪なことがあるのです。私は、自分の罪によって私自身と他の人々を傷つけてきたのです」。多くの人は、自分の若い時の罪を骨の中にかかえている。だが、肉体的な結果は避けられないかもしれないが、それでも私は、こうキリストに信頼してほしいと思う。それにもかかわらず、その咎は拭い去られたのだ、と。私たちは他人を罪に導き、相手は滅びるかもしれない。だがしかし、驚くばかりの恵みよ、私たちは救われることがありえる。ダビデが赦されたとき、彼は、自分の邪悪な計略によって殺されたウリヤを生き返らせることができなかった。最悪なことに、私たちは他の人を地獄に至らせたことがあるかもしれない。「おゝ」、とある人は云うであろう。「もし私が他人を罪に定めたことがあるとしたら、それでも私の方は救われるなどということがありえましょうか?」 しかり、しかり。だが、そう云うとき私は、口をつぐみ、あなたにこう歌うよう求めたい気がする。

   「誰(た)ぞ、汝れのごと、赦す神にて、
    豊けく代価(かた)なき 恵みを持つや?」

私たちは、自分の不敬虔な人生の中で加えてきた危害をなかったことにはできない。酔いどれは、いくら素面になっても、自分が飲酒の手ほどきをした若い連中を引き戻すことはできない。不信者で、神とそのキリストに逆らう口を利いてきた人は、立ち返って悔い改め、忠実にイエスに従う者になるかもしれない。だが、彼が教えた悪事は、なおも多くの人の頭に残っていて、彼らを毒し続け、ついには彼らを滅ぼすかもしれない。罪は広がっていく疫病である。それは、身の毛もよだつ悪である。そして、十字架がなければ、罪深い魂と語り合うのは絶望的な務めであろう。だが、十字架、十字架、それはあらゆる罪の丘々を越えて高く上り、それを仰ぎ見る者は、神が豊かに赦してくださることを見いだすはずである。

 ことによると、ある人はこう云っていさえするかもしれない。「しかし、先生。私の罪はこうした種類のものなのです。私は神の栄誉を汚しました。キリストの《神性》を否定しました。私は、神の選びの愛や、信仰による義認に対して激昂してきました。私は福音を憎みましたし、神のしもべたちについても、神ご自身についても、ありとあらゆる馬鹿にした口を利いてきました」。それは悲しいことである。愛する方よ。だが、思い出すがいい。かつては迫害する者、暴力をふるう者だったひとりの人がいたことを。しかし、彼は、「あわれみを受けた」[Iテモ1:13]、と云うのである。あなたが明日の朝、にわとりがときを作るのを聞くときには、いかにペテロが赦されたかを思い起こし、あわれみを希望するがいい。確かに罪人たちは神をそしり、冒涜し、神の日を汚し、神の福音を憎んできたが、イエスは彼らを雪よりも白く洗うことがおできになる。このとき私は、あらゆる形のそむきの罪、また、不義に対する赦しを宣言すべきである。ダビデは云った。「私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました」[詩51:4]。そして、確かにあなたは、自分の罪が特にそうした種類のものであると痛感させられているかもしれないが、それでも主は豊かにお赦しになるであろう。というのも、主はこう云われるからである。「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い」。

 II. しかし、第二に、《他の事がらに関する神の思いは、あなたの思いよりもはるかに高い》

 私は、このことについて長々とあなたを引き留めはすまい。全く確かに、いかにすぐれた思いも――あなたがかつていだいたことのある、いかに論理的な思考、いかに独創的な思考、いかに正確な思考も――、神の思いとくらべものになる価値はない。さて、自然界を見るがいい。あなたが自然界に見てとる物事は、初めは、神の精神の中にある思念だったのであり、神がそれを具象化されたのである。あなたは、神が創造において有されたような思念をいだいたことがあるだろうか? 蝿の羽を取ってみるがいい。取るに足りないもの、単純きわまりないものである。だが、それを顕微鏡の下に置くと、それが非常な美と絶妙の精巧さを織りなしており、それが造られた目的に素晴らしいしかたで適合していることが分かる。顕微鏡をのぞいたことのある多くの人々は、驚嘆の念で圧倒されてきた。その下に針を置いてみてほしい。レディッチ製の極上の針である。するとそれは、ごつごつとした鉄棒でしかない。だが、神のみわざの何かを取り上げて、それをいかに好きなだけ拡大してみようと、あなたは決して何の粗雑さも検知しない。神の小さな物事にましてすぐれた仕上がりを持つものはありえない。微細な物においてさえ、神の思いはあなたの思いのようではない。あなたは、自分が神がお赦しになるには取るに足らない者だと思っている。おゝ、だが、蝿の羽に無限の知恵を注ぎ込まれるお方は、いかなる気遣い、いかなる無限の思いをあなたに注ぎ込んでも、あなたを赦すことができるようにされるであろう。星々を見上げるがいい。あなたは、それがただの光の点々だと思うであろう。神の思いはあなたとは異なる。というのも、望遠鏡を通して見るとき、あなたはそれらが巨大な天体であることを見いだし、諸天についての神の大きな思いを到底あなたの頭の中に入れることができないからである。天文学者は、いやでも礼拝せざるをえない。彼は、創造の神の途轍もない思念を測り知ることができない。自然界における神の大いなる思いは、私たちのいかに高潔な概念をもはるかに越えている。

 《摂理》における神の思い――いかに驚嘆すべきしかたで、それが私たちの思いを越えていることか! 歴史を紐解くと、すべてがもつれ合っているように思われる。国々の物語は、「輪に輪を掛けた大混乱」のように見える。だがしかし、その章を読み終える前に、あなたはそのすべての中に、1つの計画、1つの体系を見てとるのである。――

   「傍目(はため)の悪より 善を引き出し
    なおも益をば さらに益をば
    果てなく続けぬ」。

神は摂理において、いとも奇しく働かれる。私たちが思いもよらぬ方法で働かれる。神の思いは、私たちの思いを越えている。

 未来に関するあなた自身の精神においても全く同じである。預言書を読み、これから何があるか見てとるがいい。神の思いは、新しい天と新しい地をも越えている。――いかに私たちの思いなどを凌駕していることか! 黙示録は、未来を越えた神の思いの一端を私たちに示しているが、まだ私たちの理解するところではない。私たちは、事実がそれを説明するのを待たなくてはならない。というのも、神の思いは私たちの思いを越えているからである。何と、死者の復活というような単純な問題を取り上げてみるがいい。私たちは世を去った人を葬る。すると、彼らのからだは分解する。だが神の思いは、彼らがよみがえるという。この種は花となるのである。神の思いは、あなたの魂の中に生じうるいかなる思いをもはるかに越えたものである。

 III. 今の項目を取り上げたのは、単に事のついでであって、それは、このことに至るためにほかならない。――《赦罪に関する神の思いは、あなたの思いを越えている》。神の赦罪の道は、あなたが理解できるいかなることをもはるかに越えている。自分自身を見るがいい。あなたは赦すことに遅くはないだろうか? ある人々は悲しいほどに遅い! 彼らがある危害を忘れることができるようになるまでには、長い時間がかかる。だが神は、ただちに赦してくださる。ご自身の愛する御子の死により、神は、ご自分の正義を冒すことなく、即座に、無代価で、ただちに赦すことがおできになる。そこには何の強制もない。「神はいつくしみを喜ばれる」[ミカ7:18 <英欽定訳>]。神の自己そのものがお赦しになる。神は愛だからである。神の心を、あなたのかたくなな心で判断してはならない。神はただちにお赦しになる神であられる。

 あなたは、すぐにあなたの赦しの限度に行き当たる。七度も立腹させられた後では、七度を七十倍するまで赦し続けたりしない。もしそうしていたとしたら、確かにあなたは非常な驚異の的となり、非常な賛美に値すると考えるであろう。しかし、神は七度を七十倍するまでお赦しになる。――どこまでも、どこまでも、どこまでも赦し続け、魂が赦しを叫び求める限り、赦しのあわれみの果てに行き着くことがない。

 いくつかの事がらを、あなたは赦しがたいと思う。あなたは云うであろう。「よろしい。さて――さて、これは実に非常に癪に障ることだ。私は寛大な性質だし、何度も何度も違反を見過ごしにしてはきた。だが、これほどの扱いをしておいて、私がそれを辛抱するなどとは思わないであろう? 確かに、私が、いつまでも踏みつけられたまま、おとなしくしているなどと思いはすまい」。しかり。誰もあなたにそのようなことを期待しないし、そんな期待をする人は失望することであろう。神は、私たちが願ったり、考えたりしさえしたりするところをはるかに越えた赦しを行なわれる。神は、大きな違反にこだわりはしない。むしろ、私たちが赦しを叫び求めるや否や、赦しをもってお答えになる。

 残念ながら、私はあなたがたの中のある人々について、赦しても、忘れない人々と云わなくてはならないのではないかと思う。さて、神は私たちのもろもろの不義を忘れると約束しておられる。。忘れることは、全知に可能なことを越えている。だがしかし、神はご自分が忘れると宣言しておられる。「わたしは彼らのすべての罪を、わたしのうしろに投げやろう」、と神は仰せになる[イザ38:17参照]。「わたしは彼らのすべての咎を海の深みに投げ入れる[ミカ7:19参照]。それらが彼らに対して思い出されることは永遠にない」、と。

 私たちは赦すが、しかし多少の怒りがぶり返すことがある。あなたは赦し、本気でそうする。だが、時として以前の違反について考え込み、再び口惜しく思うことがある。その違反に、あなたはどこか憤懣やるかたないものを感じてはいないだろうか。そして、自分では水に流したつもりでいても、再びそれが浮き上がるのである。しかし、神は決してそうではない。この《あわれみに富んだお方》は決して以前のことを蒸し返されない。「わたしは、あなたのそむきの罪を……罪をかすみのようにぬぐい去った」[イザ44:22]、と主は云われる。いったん拭い去られたなら、それは永遠に処分されたのである。「来たるべきその日には、――主の御告げ。――ユダの罪は見つけようとしても、見つけることはできない。しかり、それはない」*[エレ50:20]。主は私たちのもろもろの罪を消滅させられた。こう書かれていないだろうか? 主は「罪を終わらせ」[ダニ9:24]、と。

 愛する方々。私はこう云ってもあなたを中傷することにはなるまい。すなわち、あなたはあまり赦すことに熱心ではない、と。そうではないだろうか? 誰かに怒らされたとき、あなたは長々と考えを巡らす。たとい説得やへりくだった陳謝を受けた後であなたが、その、理由もなく人を怒らせた者にあなたの手を差し出し、争いをおさめようという気になるとしてもそうである。あなたは、赦すことを切望してはいない。だが神は切望しておられる。神こそ、怒らされた側のお方こそ、怒らせた者を求め、彼と和解しようと提案する方なのである。神こそ、「待て」、と叫んでは、そむく者らをみもとに近づくようお命じになるお方なのである。――「神の和解を受け入れなさい」[IIコリ5:20]、と。「わたしは誓って言う。――神である主の御告げ。――わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ」[エゼ33:11]。

 あなたは、私たちの中の誰かが、他者を赦すことができるようになるために多くの苦しみを受けたがると思うだろうか? 「いいえ」、とあなたは云うであろう。「私は、自分がなぜ彼の不正のために苦しまなくてはならないのか分かりません。代価を払わずにすむのなら、彼を赦しもしましょう。ですが、それによって、損をすることには承服できません」。かりに、非常に重大な困難が途上にあり、何らかの償いがなされない限りあなたが正当に赦すことができないとして、あなたは自分でその償いをするだろうか? あなたは驚愕して叫ぶであろう。「私が償いをするですと! 何でまたそんなことを云えるのです?」 少し前に、ある事件が持ち上がり、そこで私は《救い主》の真似をしてみようと試み、ある程度の成功を収めた。二人の兄弟が互いに痛めつけあっていた。一方は非常に恥ずべきふるまいをしていた。私はもう一方に、彼を赦してやるよう懇願し、そうする気持ちにならないのを見てとって、こう云った。「彼がしたことには、いくつかの結果が伴っていますね。私がその結果のすべてを引き受けましょう。そして、あなたがそうしたければ、私を罪を犯した側の人間とみなしてくださってかまいませんよ」。よろしい。彼は、私に向かって怒ることはできないと云った。私は何の不正も行なっていなかったからである。しかしながら私は、その不正な行為の結果を実際に引き受け、このようにして私は二人を和解させた。不当に扱われた側の兄弟は、私の仲裁によって、その危害を見過ごしても、自分の言葉を守ることができた。だが、その人は、私が贖罪の山羊となったことを遺憾に思っていた。それで私は彼に、二人を仲直りさせるため私が喜んでそうしたことを請け合ってやった。立腹している方の兄弟に、もう一方の違反の結果を苦しむよう依頼するのは賢明ではなかったであろう。だが、これこそ神がなさったことである。私たちの罪のあらゆる結果を神は背負われた。そして、イエスは、私たちの罪が死を伴っていたがゆえに死なれた。あわれみの奇蹟よ!

   「誰(た)ぞ、汝れのごと、赦す神にて、
    豊けく代価(かた)なき 恵みを持つや?」

 こうしたすべてがなされたのは、神がその知恵のありったけを傾けても、それを行なう道を見いだそうとされたためであった。あなたや私は、このように、いかに赦すべきかの案を練ったり、計画したりしない。もし神が贖罪なしに無代価で罪を赦すことにしたとしたら、それはさほど神の愛を明らかに示しはしないであろう。神が、ご自分の御子というお方において自ら私たちに代わって苦しみを受けても、私たちが神に和解させられるようにするご計画をお持ちだったからこそ、神の愛は明らかに示されたのである。もし私が、鶴の一声で喧嘩をやめさせることができるとしたら、それは大したことではない。だが、もしも私が案を練り、計画を立て、思案を凝らした方法によってその違反者を赦しても、彼が再び違反するようなことにはならず、あるいは、家族の他の者が彼の違反を軽くみなしたりせず、あるいは、彼に対する私の赦しの無代価さゆえに何の害悪も生じないようにするとしたら、そのときは、あなたもいかに私が愛しているかを見てとるであろう。そして、もしそれが、こうであったらどうだろうか?――私がその違反者を無代価で赦しても何の損害ももたらさないためには、彼に代わって私が死ななくてはならないとしたら、どうだろうか? そして、もし私が本当に自ら彼に代わって死ぬとしたら、どうだろうか? そのときは、ここに驚くばかりの愛がある。――度外れた愛がある! おゝ、魂よ。あなたがた、いま私の話を聞いている人たち。そして、自分のことなど神は赦すことができないと考えている人たち。私は希望するものである。こうしたすべてによって十分あなたは、自分の思い違いを感じさせられることだろう、と! あなたは神をあなたの物差しで測ってきたのである。神は、あなたがこれまで夢にも思わなかったほど大きな赦しに満ちておられる。おゝ、神は大いなる赦し主であられる! 神はいかなる立場を取られても驚嘆すべきお方である。だが、血を流すいけにえによって赦そうとしておられるとき、そのとき、神は実に栄光に富むお方となられる。この銀の王笏こそ、神の王権の最も威光に富むしるしである。

 IV. 私はここでしめくくることもできるが、時間があるとしたら、このことを云っておきたい。《神の思いがあなたの思いを越えているのは、その恵みに関わるすべての事がらにおいてである》。この章全体をもう一度読んでもらえるだろうか? 第一節からして、神の恵みの無代価さが見てとれる。あなたの思いからすると、代金を払わなければ何も手に入れることはできない。神の思いはこうである。「水を求めて出て来い。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え」。しかし、あなたが思うに、たとい神があなたを救うことになったとしても、それを二流のしかたでそうなさるであろう。そうではない! 神は決してけちくさい救いをお与えにはならない。もしも神がご自分の民に食物を与えるとしたら、それは極上に豊かで無代価なものであろう。これを聞くがいい。「わたしに聞き従い、良い物を食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づこう」。それはひと啜りの水とか、パンのかけらとか、牛乳の一滴ではない。むしろ、キリストがあわれな罪人たちにやって来るよう招くとき、主は彼らを贅を尽くした宴会に招かれる。あなたがた、いかに重い咎を背負っている者らもキリストのもとにやって来ては、その聖徒たちの中の最も幸福で、最上の者らの間にいることができる。誰も罪人が神との契約に入ることができるなどと想像しはしないであろう。――神が咎ある者らと契約を取り交わし、恵みを与えようと約束なさるなどとは。これを聞くがいい。「耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。わたしはあなたがたととこしえの契約、ダビデへの変わらない愛の契約を結ぶ」。私の覚えているある人は、長期刑を受けて牢獄に閉じ込められていた。そして、あまりにも凶暴だったため、独房に入れられていた。教誨師は自分にできることをみな行なっては、彼を悔い改めに至らせようとしてきた。だが、ある日、この牧師は彼にこの節を読み上げたのである。「わたしはあなたがたととこしえの契約を結ぶ」*。その男は云った。「そんなこたあ一度も聞いたことがねえ。先生よお。神が、俺みてえなみじめな人間と契約を結べるってえのか?」、と彼は云った。「だとしたら、俺の心も粉みじんにならあ」。そして、実際にそれは彼の心を粉々に砕き、彼はこの驚くばかりの思いの力の下で、キリスト・イエスにあって新しく造られた者[IIコリ5:17]となった。神が、彼のようなみじめな者とも契約を結ぼうとされるという思いである。

 あゝ、よろしい! 私はあなたがどう思っているかが分かる。あわれな罪人よ! あなたは思っている。たといキリストが自分を救うとしても、自分などからは大した栄光を決して得られないであろう、と! 聞くがいい! 主の栄光とは、主が、主の知らない国民を呼び寄せると、主を知らなかった国民が、主のところに走って来ることである。彼は、1つの非常に悪い民に言及している。それは、私たちの主ご自身が知らなかったほどの悪い民、確かに主を知らなかったほどの無知な民である。主の栄光となるべきこと、それは、主が彼らをその恵みによって呼び出すことである。「主があなたに光栄を与えられたからである」[イザ55:5 <口語訳>]。これは、1つの思想である! それはあなたの思いの1つではない。神の思いの1つである。――神が大いなる罪人たちの救いによって、キリストの栄光を現わすことがそれである。

 「あゝ、よろしい!」、とある人は云うであろう。「私は家に帰って、神にあわれみを叫び求めることにします」。それはあなたの思いである。神の思いに耳を傾けるがいい。「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ」。神への祈りをいま囁くがいい。信仰の目によってイエスを今すぐ仰ぎ見るがいい! 主があなたを助けてそうさせてくださるように! あなたの思いによると、救いはこれから何箇月か、何年か労苦と祈りを積むことによってかちとられるべきである。しかし、赦罪は稲妻の閃きのように即座に与えられる。罪は今そこにある! かと思うと、なくなっている! 死んだ魂が生きるようになっている! 失われた魂が救われている! 私がこの言葉を語っている間に、それはなされる。そして神はそれによって栄光が帰される。

 あゝ! それでもあなたは思うであろう。「いかにして私は赦されることができるでしょう?」 これを聞くがいい。「悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから」。この章の残りを読んで、それぞれの節ごとに、自分に向かって云うがいい。「これは私の思いではなかった。これは私の道ではなかった」、と。最後の節とともに、あなたの一切の疑いをやめるがいい。「いばらの代わりにもみの木が生え、おどろの代わりにミルトスが生える。これは主の記念となり、絶えることのない永遠のしるしとなる」。あゝ、私の神よ! これは私の道ではありませんし、これは私の思いではありません。

   「誰(た)ぞ、汝れのごと、赦す神にて、
    豊けく代価(かた)なき 恵みを持つや?」

主が、まだ救われていない、あなたがた全員を導き、永遠のいのちへと導いてくださるように! そして、主の民であるあなたがたに私は切に願う。この言葉が祝福となるよう祈ってほしい。その御名のゆえに。アーメン。

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説教前に読まれた聖書箇所――イザヤ55章


『われらが賛美歌集』からの賛美―― 537番、512番、202番

 

罪を赦す神[了]

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36巻 巻末

 連続説教の三十六年目を終えることが許されて、この説教者の心のすべてはこう叫んでいる。「わがたましいよ。主をほめたたえよ!」[詩103:1] この泉は決して流れるのをやめたことがなかった。聖書は、私たちがそこから主題を選ぶことを始めた時よりも、ずっと充実した、また、ずっと豊かな題材を供しているように思われる。ここの美しさを少々、あそこの美しさを少々といったこと程度が、私たちがせいぜい「汝が国――おゝ、インマヌエル。――」を描写できるすべてなのである! 私たちは、神のご計画の全体[使20:27]を、余すところなくあなたがたに知らせてきた。だが、その「ご計画の全体」は、その完全な形においては、海が子どもの手のひらを越えているのと同じくらい私たちを越えたものである。それでも、神は私たちの証言に対して多くの回心、また建徳という証印を押してこられた。何にもまして、この方に栄光が帰されるべきことに、苦しみの中にあるあわれな人々、公の礼拝に出ることを引き留められている人々が、こうした説教集によって清新にされてきた。この講壇が立ち続ける限り、そうしたことが続くように! 「兄弟たちよ。私たちのために祈ってください」[IIテサ3:1]。――C・H・S。

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