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仲介者

NO. 2180

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1890年2月23日、主日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「仲介者なるものは、一方だけに属する者ではない。しかし、神はひとりである」。――ガラ3:20 <口語訳>


 この聖句をあなたは難解だとは思わないであろう。だが、これは解釈者にとって、この上もなく困惑させられるものである。私は、ひとりの古い注解者を読んでいた。それは、私が非常に愛好している注解者だが、見ると彼は、この節には二百五十もの異なる意味が講解者たちによって与えられていると云っていた。ジョン・プライムは1587年に、この節を「果てしなく続く迷宮」と呼んだ。「おゝ」、と私は考えた。「ここには、迷子になって姿を隠すのに格好の雑木林があるわい! 二百五十もの意味だと!」 もっと現代の著者――とはいえ、非常な読書家――に目を向けると、彼は云っている。彼の信ずるところ、この箇所には四百以上の解釈が寄せられている、と。これは雑木林を越えて1つの森――暗黒の森――へと達しつつあった。迷い込めば発見が絶望的な森である。このような箇所から私は説教すべきだろうか? しかり。だが、私はこうした幾多の解釈であなたを煩わせはすまい。その中のいくつかは、正しいものではありえない。その中のいくつかは、疑いもなく、ほぼ間違いなく正確であるに違いない。では、この箇所は何を意味しているのだろうか? 私は、自分がそれを知っているなどと云うつもりはない。だが、あえてこう云いたいと思う。それをいかにすれば実際的な目的のために用いるべきかは分かる、と。もし神の御霊が私たちを助けてくださるとしたら、私たちは、1つの非常に単純な手がかりによって、その実際的な意味を探し当て、この言葉を私たちの魂の益になるよう用いることであろう。

 ひとりの仲介者! 仲介者とは何だろうか? 仲介者とは媒介者であり、仲立ちである。さもなければ、互いに連絡を取り合うことのできない2つの陣営の間にやって来る者である。モーセの場合を取り上げてみるがいい。神の御声は非常にすさまじく、民はそれに耐えられなかった。それでモーセが間に入り、神に代わって語った。かの山上におけるエホバの臨在は、栄光に富むものでありすぎて、人々はその山に登ることも、その大いなる光景を見ることもできなかった。それでモーセが人々に代わって神のもとに上った。彼は一個の仲介者であり、神の代理として語り、人々の代理としてとりなしを行なっていた。これこそパウロが、律法は「御使いたちを通して仲介者の手で定められた」[ガラ3:19]、と語るときに示唆していることである。そして、ここで使徒は、ある種の一般的言明――直前で語られたこととも、直後に続くこととも関連していないように思われる真理――を滑り込ませているのである。彼はこのことを1つの一般的規則として言明している。「仲介者なるものは、一方だけに属する者ではない。しかし、神はひとりである」。パウロは黄金の粒子を有している。彼のあらゆる思念は尊い。彼は、1つの対象を眺めており、それについて語っている。その間、彼は自分の足で一個の石を打っては、一筋の金脈を露わにする。あたかもその宝に気づかなかったかのように彼は先へ進み、その金脈をあなたのために、また、私のために残していく。彼は、脇道にそれる強い癖がある。それがパウロの文体であり、云いたいことが一杯で、あふれ出ているあらゆる人の文体である。彼は1つの議論に沿って進むが、他の多くの議論をも見てとる。目標に向かって走りながらも、彼は一般的な原理という形で、そのとき思い浮かんだ黄金の林檎をそこここに落としていくのである。私の理解するところ、この箇所のパウロは、何らかの議論を続けているというよりも、1つの一般的原理をほのめかしているのである。それを私は――前後関係から取り出して――今晩の私たちの益となるように用いたいと思う。ひとりの仲介者、仲立ち、仲裁者は、一方だけに属する者ではない。それは明らかである。だが、神はひとりである。ここから私たちは何を学べば良いだろうか?

 I. 第一に、《仲介者は、神おひとりのためのものではない》。仲介者は、2つの人格を扱う。――神と人とである。仲介者がやって来るのは、神ご自身が何らかの種類の仲介者を欲されるからではない。神は永遠におひとりである。たといあなたが神を聖なる《三位》として眺めるとしても、それでも神は一体としての《三位》である。神はひとりである。ユニテリアン[一神論者]と自称する一部の人々に、その名前を使う独占権はない。いかなる三位一体説信奉者も一神論者である。確かに私たちは御父が神であり、御子が神であり、聖霊が神であられると信じてはいるが、神が三人いるのではなく唯一の神がおられると告白する。さて、御父と御子と聖霊の間には、何の不和も、何のいさかいの種もない。それゆえ、この神聖な位格同士を和解させるための仲介者などひとりも必要ではない。神はひとりであられ、それゆえ、私たちの神はご自分のためには仲介者を必要とされない。ならば、この仲介者は誰のために必要なのだろうか? 何と、別の者のためである。その別の者は、今晩この場にいる。そして、私はその人を見いだしたいと思う。仲介者! 神はほむべきかな。ひとりの仲介者がいる。だが、神はご自分の個人的な目的のためには彼を欲されない。この仲介者を必要としている他の者がいるのである。その、別の者とはどこにいるだろうか? 仲介者としてキリストが与えられたことそのものにおいて、また、キリストをその神また人たる性質においてお遣わしになることにおいて、また、キリストのいのちにおいて、また、キリストの死において、神は、もう一方の側に目を注いでおられた。神は、ご自分を越えて別の者を眺め、ひとりの仲介者を供された。それは、あなたにとって偉大な思想たるべきである。というのも、もし神がご自分から目を離して眺めておられるとしたら、なぜ神があなたを眺めてならないことがあろうか? もし神が、ひとりの仲介者を供するほどにご自分から目を離して眺めたとしたら、それは、神が仲介者を必要とする被造物について考えておられるということに違いない。おゝ、わが魂よ。神がお前のことを考えておられると云えるではないだろうか? お前は神からさまよい出し、長年にわたって神なしに生きてきたが、仲介者がいる限り、また、その仲介者が神だけのためにいることがありえない限り――神はひとりであられるのだから――、その仲介者は、私の必要に応ずるための、また、私を神に連れ戻すためのお方であると云えないだろうか?

 さて、この聖句の主旨に従えば、また、聖書の主旨に従えば、その、ひとりの仲介者が遣わされた別の側とは、人間である。人は神と仲違いしてしまった。人は神と反目しており、神は必然的に人を怒っておられる。というのも、神は罪を憎まざるをえず、悪を罰さざるをえないからである。それゆえ、神は外を眺めて人に目を注いでおられる。そして、ここに私は今晩、祈りの家に座っている。神は私を眺めておられるだろうか? 神は人々との交わりを願っておられる。人々がご自分のもとに近寄せられてほしいと思っておられる。ならば、なぜ私が近寄せられるべきでないだろうか? なぜ私は遠くで生きているべきだろうか? ここにひとりの仲介者がいる。その仲介者は、神だけのための者ではありえない。神はひとりだからである。彼は第二の人物のためのお方に違いない。私がその人物であるとは云えないだろうか? 私の目を天に上げ、そしてこう云おう。「おゝ、恵み深い主よ。どうか私を、この仲介者が関わる、その別の人物にならせてください!」 というのも、仲介者なるものは、一方だけに属する者ではないが、神はひとりであり、私をその第二の人物にしたいと思っておられるからである。それで、この仲介者にはなすべき働きが生まれるのである。これは、明々白々なことである。

 II. さて一歩先に進むがいい。第二のこととして、《仲介者は、互いに一致している者たちのためのものではない》。仲介者は、心と魂を1つにしている者たちのためには必要ない。私は、私自身と私の兄弟との間には、私自身と私の息子との間には、私自身と私の妻との間には、何の仲介者もいらない。私たちはすでに完璧に1つになっており、いかなる仲介者もお呼びでない。ならば、このことは明らかである。すなわち、もしひとりの仲介者がいるとしたら、それは何か不和の種があるふたりの人物のためである。この真理によく注意し、それに飛びつくがいい。私は洒落たことを云うつもりもなければ、洗練された言葉を用いるつもりもない。だが、私は、あなたがたの中の、救われたいと願っている人々に云う。――これから私が云うことに飛びつくがいい。というのも、それがあなたを助けるだろうからである。仲介者! それは、神との間に争いの種をかかえた人々たちのためのものである。罪人よ、罪人よ。これはあなたにとって良い知らせである! 仲介者は神と完璧に1つになっている人のためのものではない。だが、あなたのためのものである。多くの罪によって神を怒らせてきた人、自分の性質の罪深さによって神から遠く離れて立っている人のためのものである。あなたと、三重に聖なる神との間には仲介者の必要がある。そして、あなたのような者のためにこそ、ひとりの仲介者が現われてくださったのである。あなたにはこの真理が見てとれるだろうか? 仲介者は1つになっている者たちのためのものではない。彼は、不和となった者たちのための仲介者である。そして、それこそ、あなたの神に対するあなたの立場である。

 III. また、仲介者がやって来るのは、《簡単には解きほぐせないような不和の種がある》場合である。というのも、もしその不和の種が些細なものだとしたら、また、両者が喜んで合意しようとしているとしたら、彼らはすぐに問題を解決するはずだからである。だが仲介者が、仲裁人が連れて来られるのは、問題がこじれている場合である。それが、生まれながらのあなたの場合であり、私の場合である。私たちは罪を犯してきた。神は正義であられる。神は同情心に富み、その無礼がご自分の人格に対するものである限り喜んで赦そうとしておられる。だが、神は《王》であり全世界を《審くお方》[創18:25]でもあられる。それで神は罪を罰さなくてはならない。罪を罰さなければ、神は不正となり、罪を罰さない不正義は、義である人々すべてに対する残酷な仕打ちである。もしわが国の裁判官たちが明日、あらゆる泥棒や強盗や殺人者に向かってこう云うとしたらどうであろう。「出て行くがいい。お前たちを赦してやる」。それは彼らにとっては親切であろうが、私たちにとっては残酷な仕打ちであろう。罪を見過ごしにし罰を与えないことは、神の側における真のあわれみではないであろう。もし神が罪に審きを下さないとしたら、正義の守護者、美徳の擁護者としてのその王座を神は占めていられないであろう。ならば、ここに私たちは1つの障壁が、神と咎人との間にあることを悟る。神は違反者を罰さなくてはならない。そして、人は違反してきた。いかにしてこの両者を和解させることができようか? ここに歩み出るのが、この万人にすぐれた仲介者である。この方は、自分の手を両者の上に置き、この致命的な確執を調停し、永遠に和解させる。仲介者は1つになっている者たちのためではなく、容易には取り除くことができないような不和の種をかかえている者たちのためのものである。

 IV. この場合、もしも違反を犯している方の者に和解させられたいという願いがあるなら、それはなされるであろう。というのも、違反された神は和合することを望んでおられるからである。《双方とも互いに和解させられることを望んでいない限り、仲介者は何の役にも立たないであろう》。引き続く憎悪をいだき合っている二者の間にやって来る仲介者は、単に自分の時間を無駄にするにすぎない。だが私たちの場合、神は和解させられることを望んでおられる。「わたしはもう怒らない」[イザ27:4]、と神は云われる。しかし、人は恵みが彼の心を変えるまで、神に和解させられることを望まない。もしあなたの側に、あなたの争いを終わらせたい、また、神と友になりたいとの願いがあるとしたら、あなたは、ひとりの仲介者がいることを知って幸いになるであろう。イエスはあなたを神から隔てている障壁を取り除こう、あなたをご自分の死によって神と和解させようと待っておられる。

 しかしながら、続いて仲介者には、裁定人には、《双方の側が、この件を喜んで彼の手にゆだねようとする意向》がなくてはならない。そこにある不和は、彼らが取り除くことのできないものであり、かつ、彼らが取り除きたいと願うものであり、かつ、彼らが裁定人の手に喜んでゆだねようとするものでなくてはならない。神は私たちの問題を喜んでキリストにゆだねようとしておられる。神はすでにそうされた。神は力ある《お方》に助けを課された。この方をひとりの使節として来させ、ご自分と咎ある人々との間を和解させる資格と任命をお与えになった。あなたの側では、この件を喜んでキリストに全く引き渡そうとしているだろうか? キリストがあなたに命ずることを行ない、キリストがあなたに告白させたいと思うことを認め、キリストが不正であると告げる点で悔い改め、キリストが過ちであると警告なさる点で正しくなろうとするつもりがあるだろうか? あなたはこの仲介者に自分の問題を明け渡し、神の御子イエス・キリストを、この件におけるあなたの代表者としようとするだろうか? 神はご自分の栄誉を御子イエスの御手に託される。神は恐れることなく、ご自分の道徳的統治と、ご自分の王たるご性格とにかかわる一切のものを愛する方の御手に預けられる。あなたは、自分の魂の永遠の益を、同じ愛しい、刺し貫かれた御手に任せようとするだろうか? そうするとしたら、この長いこと疎遠であった二者の間に仲介者がいることを喜ぶがいい。――神とあなたとの間に仲介者がいることを。今晩この方をあなたの心に連れ来たらせるがいい。

 V. さて、私たちはもう一歩先へ進むであろう。仲介者なるものは、一方だけに属する者ではない。むしろ、《彼は双方の側の利益のために尽力する》。そうしたお方が、私たちの主イエス・キリストであられる。この地上に来られたとき、主は人々を救うために来られたのだろうか? しかり。主はご自分の父の御名の栄光を現わすために来られたのだろうか? しかり。この2つの目的のどちらを主眼として、主は来られたのだろうか? 私は何も語るまい。主はその両方のために来たのであり、2つを混ぜ合わせておられる。主は人の利益に気を配り、人の魂のために申し立てを行なわれる。また主は、神の利益に気を配り、神の栄誉の素晴らしさを証明するために死にすら至る。主が従順であるのは、神の律法を賛美し、それを誉れあるものとするためだろうか? しかり。だが、主が仲介者であるのは、律法の呪いから私たちを解放するためである。愛する方々。私たちのほむべき仲介者は、一方だけに属する者ではあられない。裁定人がどちらか一方の肩を持ってはならないし、ある仲介者が片方の側しか理解せず、片方の側の人のことしか配慮しないとしたら、その名にもとることになろう。私たちの仲介者、主イエス・キリストには双方の性質がある。主は神だろうか? 真実に主は、まことの神よりのまことの神であられる。主は人だろうか? 確実にそうである。その母の本質から生まれた、私たちの間のいかなる者とも同じくらいまことの人であられる。主は大部分が神なのだろうか、それとも大部分が人なのだろうか? この問いは発すべきではなく、それゆえ、答えるべきでもない。主は私の兄弟である。神の御子である。しかり。主ご自身が神であられる。私たちの望みうるいかなる裁定人よりもすぐれているのは、この天来の人間、ご自分の手を私たち双方に置くことができる方、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、人を兄弟と呼ぶことを恥としない方[ピリ2:6; ヘブ2:11]ではないだろうか? 仲介者なるものは、一方だけに属する者ではない。主は双方の性質を帯び、双方の申し立てを支持しておられるからである。おゝ、キリストの心にとって、神の栄光は何と愛しいものであろう! 主が生き、死に、よみがえられるのは御父の栄光を現わすためである。おゝ、キリストにとって、人々の救いは何と愛しいものであろう! 主が生き、死に、よみがえり、とりなしをしておられるのは、罪人たちの救いのためである。主には人類のための熱情があるが、神性のための熱情もある。神の栄光は現わされなくてはならない。主はそのために死のうとされる。人は救われなくてはならない。何と素晴らしい仲介者であろう。この方は、一方だけに属する者ではなく、双方の側の申し立てを取り上げてくださる!

 VI. この能力において、《私たちのほむべき仲介者は、双方の側に対して、双方のために弁じてくださる》。主は一方だけに属する者ではないからである。仲介者は、仲裁しようとする際には、一方の側に行き、状況を述べては、勧めたり、嘆願したりする。それをなし終えると、もう一方の側に戻り、相手側の立場を述べる。彼は一方の側のためにもう一方の側に嘆願する。それと全く同じように主イエス・キリストは神と人の中に入られる。おゝ、何と素晴らしいことか! 主は罪人たちのために神に嘆願される。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」[ルカ23:34]。そして、それから主は向き直ると、神のため罪人に嘆願し、神に立ち返って神の和解を受け入れよと命じられる。神は彼らの御父であり《友》であられるのだから、と! 仲介者なるものは、一方だけに属する者ではない。中に入り、仲介者になろうなどと触れ込んだ上で、一方にだけ非難をなすりつけ、もう一方の利益だけしか心がけないような者は、仲介者ではなく、党派根性にかられた徒輩であろう。しかし、この場合、ここにおられる《お方》が云おうとしておられるのは、罪を擁護したり弁解するためではなく、罪人へのあわれみを乞い求めることである。主は祈られる。「神よ、あわれんでください! 咎ある者をあわれんでください!」 ここまでで私は、この聖句について、言葉の正確な意味は示せないものの、その主旨は捕えたものと思う。この意味は、この言葉の中に秘められている。仲介者なるものは、一方だけに属する者ではない。むしろ、彼は双方の利益のために苦心する。

 VII. ならば、何より明白なのは、《仲介者は、2つの立場の者たちを扱わなくてはならない》、ということである。さもなければ、その職務は名ばかりのものでしかない。裁定人が選ばれるのは、二種類の人々の集団の間に秩序を保つためである。だが、もし一方の集団しか顔を出さないとしたら、《裁定人》殿、あなたは家に帰ってよろしい。明らかにあなたのなすべきことはない。「仲介者なるものは、一方だけに属する者ではない。しかし、神はひとりである」。

 さて、今晩、私の主は仲介者となるためにこの場におられる。神は人々と和解させられることを望んでおられる。だが、もしこの場に和解させられるべき者が誰もおらず、今晩の説教がこの場にいる誰とも関係がないとしたら、全く明らかにキリストの職務は果たされない。主が仲介者になるには、この場に和解させられるべき罪人がいなくてはならない。どこに彼はいるだろうか? 仲介者なる私たちの主は今晩、ご自分の法廷を開き、ひとりの使節としてこの場に着席される。だが、主が何かを行なえるためには、私が主のためにもう一方の側を見つけることができなくてはならない。私が、違反者を、咎ある者を見いだすことができなくてはならない。そして、その人を見いだした後で、神の御霊がその人にこう云わせるのでなくてはならない。「私は神の和解を受け入れたいと思います。そして、私の立場をこの大いなる介入者の手に任せます」。もしこの世に罪人がひとりもいなければ、この世には何の《救い主》もない。もしも人々に咎がなく、救われる必要がないとしたら、いかにして主は救えるだろうか? 私はあなたに云う。罪人よ。あなたがいなければ、キリストは何の仕事もできないのである! かりにある人が外科医だとして、玄関の外に真鍮製の表札を出すとする。だが行って彼に、この教区には誰ひとり病人はいませんよと告げるがいい。十哩四方に、風邪をひいたり歯痛を病んだりしている者すらいないと証明するがいい。この善良な人は、自分の真鍮製の表札を取り下ろしては、田舎に出かけ、一箇月ほどを過ごすかもしれない。誰もが健康でい続けるとしたら、医者はがっくりするものである。さて、もし今晩この場にいる誰もが神の律法を守ってきており、何の罪も咎もなく、完全に神と1つになっているとしたら、私の《主人》は、また私も、この場には何の使命も有していない。私は主についてあなたに語る何の必要もない。というのも、「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人」[マタ9:12]だからである。それゆえ、私は、この仲介者の御名において出て来ては、こう尋ねているのである。誰かここに、自分の咎を告白しようという罪人はいないか。平和を願い求めようという、神の敵はいないか。今の今まで軽薄に、神なしに暮らしてきたが、神と和解させられることを祈り求めようという若者はいないか、と。いるとしたら、あなたは私の《主人》にとって都合が良いのである。あなたは主に、主があれほどの喜びを覚えられる、かの天来の仲介者職において、果たすべき何かを与えるのである。

 そして、このことをよく聞くがいい。仲介者、あるいは、裁定人の場合において、その問題が困難であればあるほど、その調停に成功する際に彼が受ける栄誉は大きなものとなる。もしも、あなたと神との間に非常に猛烈な争いがあるとしたら、私はあなたに私の主を仲介者として推薦する。というのも、主はいかなる争議の解決にも失敗したことがなく、今このときこう仰せになるからである。「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」[ヨハ6:37]。ソロモンは難問をさばくことに長じていたが、ここにソロモンよりもまさった者がいるのである[マタ12:42]。たといあなたの人生が混乱と紛糾のきわみにあるとしても、主はそれを真っ直ぐなものとすることがおできになる。もしあなたの神との不和が言葉で述べるには厳粛すぎ、重大すぎるとしても、もしそれがあなたのいのちをあなたからしぼり出すとしても、もしそれによってあなたが眠ることもできないとしても、もしそれによってあなたが地獄の門口まで至らされているとしても、それでも仲介者なる私の主は、あらゆる不和に終止符を打ち、あなたの魂と神とを和解させることがおできになる。あなたは、主がその職務をあなたのために果たしてほしいと望んでいるだろうか? 望んでいるとしたら、あなたの問題が大きければ大きいほど、あなたのあらゆる困難を取り除いた際に、仲介者としての私たちの主のもとにもたらされる称賛は大きなものとなるであろう。

 この場にこれほど多くの罪深い者たちがいるからといって、また、あなたがたの中のこれほど多くの者たちがなおも神の敵であるからといって、案じてはならない。私は、単にあなたがたの中のひとりを来るように招くだけでなく、こう云うであろう。すべての者が来るがいい。そして、多ければ多いほど、陽気になるがいい。私の主は、それぞれに異なるが、同じくらい深刻な何百もの事案において、こうした争いを調停するなら、それだけ大きな誉れを得られるであろう。あなたがたは、全員がやって来て良い。主はあなたの面前でご自分の扉をぴしゃりと閉めたりなさらない。もしあなたが、この町の卓越した医師たちの誰かに診察して欲しければ、そこに非常に朝早く到着し、自分の番が来るまではほとんど一日中待たなくてはならない。だが、私の主また《主人》であるお方の場合、何も待つことはない。もしあなたが神と友になりたいと願うなら、この仲介者はいつでもその不和を調停しよう、そして、あなたを《いと高き方》への愛において幸いな者として送り返そうと待ち受けておられる。

 「しかし、私が来ても良いのでしょうか?」、とある人は云うであろう。来ても良いかであると? キリストが仲介者になるという看板を掲げているとき、なぜあなたが主を仲介者として用いてならないだろうか? 私は、気分が悪くなったとき医者の門を叩くのに、彼の許しを求めたりしない。彼は、病人を扱いたいといって開業しているのである。それゆえ、私は彼の所へ行くのである。彼を訪ねるからといって、何も図々しいことをしているのではない。もし彼がある職務を引き受けているとしたら、その職務を果たさせようではないか。あわれな、咎ある、みじめな人たち。神のもとに来るのを恐れている人たち。キリストが仲介者の看板を掲げているのを見るがいい。主はそのような者として用いられることを心待ちにしておられる! 主こそは御父に近づく道である[ヨハ14:6]。来て、主が公言しておられる通りのお方として主を用いるがいい。主がその御名とその公的な称号によって、そうすると主張していることをおできになると信ずるがいい。さあ来るがいい。そして、神の御子、仲介者なるイエス・キリストを通して神の和解を受け入れるがいい。

 私は、初めて説教をしようと試みて以来、今では四十年近くになる。だが、真の説教にはまだ達することができていない。おゝ、その方法を知っていたらどんなに良いことか! あらゆる魂を神に来させ、感動させ、平和を懇願させられるような言葉を操る方法を! いかに神は人々と和解させられたいと望んでいるに違いないことか。神はご自分と彼らとの間に立つ仲介者を供しておられるのである! いかに躊躇なくあなたはやって来なくてはならないことであろう。キリストの誉れと栄光は、人々が自分の事案を御手にゆだねることにかかっているのである! もう一度尋ねよう。何の事案もゆだねられないとしたら仲介者とは何だろうか? 王冠のない国王、群れのいない羊飼い、土地を持たない農夫、病人を持たない医者――こうした人々はみなあわれな苦境にある。そして、罪人たちを有していないキリストなど、どこにいるだろうか? その御名はむなしいしろものとなり、その栄光はかき消えている。ならば、来るがいい。あなたがた、罪人のかしらたち。キリストに来るがいい。そして、あなたの事案を主にお任せするがいい!

 VIII. しかし、しめくくりに私は、1つのことに注意したい。すなわち、確かに仲介者がその働きを始めるときには、2つの立場の者がいなくてはならない――というのも、仲介者なるものは、一方だけに属する者ではなく、神はひとりだからである――が、それでもその事案が終結するときには、《仲介者がその二者を1つにしているのでなくては、成功を収めたことにならない》。私たちの主イエスは、隔ての壁を打ち壊された[エペ2:14]。互いに疎遠であった者たちを真実に和解させてくださった。キリストはこのことを、あまりにも多くの人々にとって行なってこられた。だから私は、あなたがた、桟敷席に座っている方々にもこう云ってほしい。「なぜ主は私のためにもそのことを行なわないことがあるでしょうか?」 キリストの個人事務室には、一冊の記録簿が吊るされている。そこには、人々と神との間で、主が終止符を打たれたいさかいがごまんと記されている。なぜ主が、私の名をその中に有してならないことがあるだろうか? なぜ主は、私と神とのいさかいに終止符を打ってならないことがあるだろうか? なぜ主は、私と御父とを和解させ、御父が私に平和の口づけを与えるようにさせてならないことがあるだろうか? 主が失敗した事案はただの1つもない。最低最悪の事案のいくつかが主の裁定に提起されてきたが、主は常に成功を収めてこられた。天にいる者らは一件たりとも主が敗北を喫した事例を知らず、地獄の陰惨な影はキリストの失敗をただの1つも明らかにすることができない。あわれな、罪に定められた、咎ある魂がキリストのもとに行き、「神と私とを和解させてください」、と云った場合、キリストが、「それはできません」、と云わざるをえなかったことは一度としてない。そのような場合は1つもない。さあ、愛する方々。たといあなたが八十歳になる今まで神の敵として生きてきたとしても、それでもあなたはこの仲介者によって神の友となることができる! さあ、話をお聞きの方々。たといあなたが若く血気盛んであるとしても、また、たといあなたの数々の情動によってあなたが純潔からはるか遠くに離れてしまっており、神があなたと争うのも当然であるとしても、あなたは、あるがままで、すぐさまやって来てよい。そうすればキリストは、あなたと神との間の争いを仲裁してくださる! その赦しを給う血潮は、神を怒らせる咎を取り除くことができる。また、その深く刺し貫かれた御脇から血とともに流れ出た水は、あなた自身の胸中にある、反逆への傾向を取り去ることができる。確かに私は、このような言葉によっていずれかの魂を慰め、彼らをイエスに導くはずである。

 キリストによって作り出された和解は、絶対的に完璧である。それは永遠のいのちを意味する。おゝ、話をお聞きの方々。もしイエスがあなたをいま神に和解させてくださるとしたら、あなたは二度と再び神と争うことはなく、神があなたと争うことはないであろう。もしこの仲介者が確執の種――あなたの罪と罪深さ――を取り除くなら、それを永遠に取り去られるであろう。主はあなたの不義を海の深みに投げ入れる[ミカ7:19]であろう。あなたの罪をかすみのように、あなたのそむきの罪を雲のように拭い去る[イザ44:22]であろう。主があなたと神との間に作り出す平和によって、神はあなたを永遠に愛し、あなたは神を永遠に愛するようになるであろう。そして、何物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛からあなたを引き離すことはないであろう[ロマ8:38-39]。聞くところ、ある種の接着剤は、割れた皿の破片と破片をぴったり接合し、その品物は割れる前よりも強くなるという。私には、どうしてそのようなことがありえるのか分からない。ただ、このことだけは分かる。神と、イエスの血によって和解させられた罪人との間にある結びつきは、神と堕落前のアダムとの間にあった結びつきよりも親密かつ強固である。それは、ただの一撃によって砕かれた。だが、もしキリストがあなたをご自分の尊い血によって御父に結び合わせてくださるなら、主はあなたをそこに保ち続けてくださるであろう。ご自分の恵みをあなたの魂の中に流入させることによってそうされるであろう。というのも、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、誰が私たちを引き離すというのだろうか?

 もう一言だけ云うべきことがある。覚えておくがいい。もしあなたが、神の任命された仲介者を拒むならば、あなたは神と和解することを決定的に拒否することになる。あなたは、これまでどんな仲介者も見いだすことができなかったし、今も別の仲介者を発見できない。私たちと神との間に入るべきいかなる者にもまして完全に適切なのは、神-人なるイエスである。私たちの罪を取り去るために十字架上で血を流しつつあるイエス、また、私たちが義と認められていると宣告するために死者の中からよみがえられた[ロマ4:25]イエスである。さて、もし神がご自分のふところから、ご自分の御子を取り出し、この方を死に引き渡しても私たちと和解しようとしておられるのに、私たちが神を拒むとしたら、私たちは神と無限に戦うつもりだということになる。それこそ、結局は帰着することである。もしあなたがキリストを有そうとしなければ、あなたは腕まくりして《全能者》との永遠の争闘に入りつつあるのである。あなたは自分の兜をかぶり、自分の剣を身につけ、自分の《造り主》と戦おうとしつつあるのである。あなたは、キリストを拒絶するとき、和解を拒絶するのである。それを私は確信している。あなたは万軍の主との戦争を選びつつあるのである。よろしい。方々。もしあなたがそうするなら、そうならざるをえない。だが、私はあなたに懇願したい。ぜひ今すぐにもあなたの狂気の選択を悔い改めてほしい。《いかにして》あなたが神と戦うことなどできようか? なぜあなたが神と戦うことなどあるだろうか? 神と戦闘するとは、あなた自身の最上の利益と戦闘するということであり、あなたの魂を破滅させることである。天国は――被造物が有することのできる唯一の天国は――、自らの《創造主》との平安であるべきである。悪人どもには平安がない[イザ48:22]。私たちが持てる唯一の希望は、神との和解に至ることである。もし神が私を造られたとしたら、何らかの目的のために造られたのである。もし私がその目的を果たすなら、私は自分の存在の目的にかない、幸いになる。だがその目的を達成しなければ、私は不幸になるに決まっている。そして、神の敵となることを選ぶことによって、私は私自身の永遠の断罪を選びとるのである。願わくは神が私たちを助け、そうした選択を悔い改めさせてくださるように。また、私たちがいま仲介者なるキリストをつかみ、自分を主にゆだねることができるように。それは主が私たちと神とを和解させてくださるためである。そして、主の御名に栄光が永久永遠にあるように! アーメン。

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説教前に読まれた聖書箇所――ガラテヤ3章


『われらが賛美歌集』からの賛美―― 433番、384番、369番

 

仲介者[了]

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