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罪と戦われる神

NO. 2179

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1890年12月28日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「しかし、彼らは逆らい、主の聖なる御霊を痛ませたので、主は彼らの敵となり、みずから彼らと戦われた」。――イザ63:10


 これは、すさまじい状況である。神がある人の敵となり、彼と戦われるとき、その人は絶望的な苦境に陥る。他の敵であれば、私たちも、ある程度まで勝てる希望をもって戦えるが、《全能者》が相手ではそうはいかない。他の人々の敵意は苦しいことだが、神の敵意は破滅である。もし神が私たちの敵となられるとしたら、すべてが私たちに敵対する。星々はその軌道上で私たちと戦い、野原の石ころは私たちをつまずかせようと同盟を組む。「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」[ロマ8:31]。しかし、神が私たちの敵であるなら、誰が私たちの味方になるだろう? この言葉は弔鐘のように記されている。「主は彼らの敵となり、みずから彼らと戦われた」。

 これによって私たちに示されるのは、神は罪に対して無関心ではないということである。人々は、こう確信しようとするかもしれない。神は気になどかけないのだ。神にとっては、人々がどう行動しようが、神の律法を破ろうが守ろうが、どうでもいいことなのだ、と。また、こう訴えるかもしれない。神は、「恩知らずの悪人にも、あわれみ深い」[ルカ6:35]のであって、同じ出来事が義人であれ悪人であれ、万人に起こるのだ、と。また、差し当たっては、そのように見える。私たちは、自分の近視眼さゆえに、不敬虔な者が繁栄し、うまい汁を吸っているようとさえ思い込むかもしれない。だが、これは単に私たちが盲目であるということでしかない。神は今も、また、常に、悪を憎まれる。さもなければ、神は神ではないであろう。神はあらゆる種類の悪に対して義なる憤りをかき立てられる。悪に対して神の御霊は怒りを覚える。一部の人々は無感動な神を信じている。だが確かに聖書の神は決してそのように描写されてはいない。聖書の中で神は、人間的な書き方で表わされているが、他のいかなるしかたで、人々に向かって表現できただろうか? もし神が神的なしかたで表現されていたとしたら、あなたや私はその描写について何1つ理解できなかったであろう。だが聖書の中で私たちに表わされている通りの主は、罪に注目し、罪を感じ、罪に怒りを発し、憤らされ、その聖霊は人々の反抗に痛まされる。この厳粛な聖句をもう一度読ませてほしい。「しかし、彼らは逆らい、主の聖なる御霊を痛ませたので、主は彼らの敵となり、みずから彼らと戦われた」。

 神は常に同じであられるが、神の行動は様々である。神はお変わりにならないが、本日の聖句では、あるものから別のものになったと表現されている。神は、その目的においては移り変わらないが、その行動においては移り変わられる。神は、決してそのみこころを変えないが、しばしば変化をお望みになる。神は常に同じ神だが、常にご自分のご性格の同じ面を私たちにお見せになるとは限らない。あわれみを明らかに示すときもあれば、正義をお示しになるときもある。どちらの場合においても、神が神であられることは全く変わりない。ある時には神は世界をお造りになる。別の時には、それを滅ぼされる。だが、神は同じエホバであられる。神の外的な経綸が変化するからといって、神の内的な性向が変わったということにはならない。神は変わらざる神である。その神について、こう記されているのである。「主は彼らの敵となられた」*、と。

 こうした二、三のことを、有用な皮切りの言葉として述べた後で、私はあなたが、この尋常でないほど印象深い節を、非常に大きな畏敬と畏怖をもって考察するよう招きたいと思う。願わくは聖霊が私たちを助けてくださるように! いま流行の考えはこうである。「恐怖することや、ぞっとするようなことは、何1つ説教してはならない。さもないと、スポルジョンのような悪名を着ることになるぞ」。さて私は、罪が悪であると責め、それが確実に審かれると宣言する説教を行なったがために悪名を着ることを、全く恥とは思っていない。そのような説教によって、私は何を得なくてはならないだろうか? 人々の称賛を得るだろうか? 否。この時代の好みの潮流は、全くそれとは違う方向に流れている。説教者が人々に向かってこう告げるとしよう。人は自分の好き勝手に生きて良いのだ、長い目で見れば万事問題ないのだ、と。すると、それは彼らを喜ばせるであろう。普遍救済は、「文化的な」人々の間で非常に人気を博している教理である。だが私は、あなたがたの人気など少しも欲しくはない。この舌が私の口の中で動いている限り、私は神の真理をあなたに宣べ伝えるであろう。それで人が腹を立てようが喜ぼうがどうでも良い。かの日には、どちらが最もあなたの魂を愛していたかが宣言されるであろう。――平然とおべんちゃらを語っていた者たちか、不快な真理を語っていた者たちか。本日の聖句には、一見すると、誰かに慰めを与えるようなものがほとんど含まれていない。だがしかし、私はこう確信している。すなわち、もしあなたが、畏敬に満ちた心をもって、その教えに耳を貸すならば、それはあなたを確実な慰めへと導くであろう。それは、人の哲学の中に見いだせる慰めを越えた慰めである。しかり、それはあなたの良心を、神との安息を得た状態に至らせるであろう。そのことゆえに、あなたは生きる限り神をほめたたえるであろう。

 I. 第一に、《本日の聖句は、主ご自身の腹立たしい子どもたちに属している》。どうか私に、努めて彼らを見いだし、この聖句をその骨身にしみ入らさせてほしい。神ご自身の民――本当に回心し、救われた人々――の中には、それにもかかわらず、主が彼らの敵となるほど、罪の状態に堕落してしまう者たちがいる。この章を読めば、それが分かるであろう。7節から始めさせてほしい。「私は、主の恵みと、主の奇しいみわざをほめ歌おう。主が私たちに報いてくださったすべての事について、そのあわれみと、豊かな恵みによって報いてくださったイスラエルの家への豊かないつくしみについて。主は仰せられた。『まことに彼らはわたしの民、偽りのない子たちだ。』と。こうして、主は彼らの救い主になられた。彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。しかし、彼らは逆らい、主の聖なる御霊を痛ませたので、主は彼らの敵となり、みずから彼らと戦われた」。見るがいい。愛する方々。かつて彼らは愛の膝の上にいて、かつて彼らは恩顧の胸にいだかれ、かつて彼らはキリストの同情を知り、かつて彼らは恵みについて、また、多数のあわれみについて歌うことができた。だが、彼らは逆らった。この恩顧を受けた神の民が信仰後退するとは大きな衝撃ではないだろうか? 悲しいことではないだろうか? 天の糧を食べてきた者たちが地の灰を渇望するようになるとは。キリストの御胸にいだかれていた者たちが、それにもかかわらず、裏切り者となり、その怒りを引き起こすことになるとは。だが、それが事実なのである。悲しい事実なのである。私たちはそれを他の人々において見てきた。願わくは、自分たちがそうならないように!

 こうした人々は、この愛をことごとく味わった後で反逆した。神は彼らを「反逆者」と呼ばれる。彼らは単に間違いを犯した子どもたち、愚かさゆえに転落した子どもたちではなく、「彼らは逆らった」*。神の子どもがそのような状態に陥ることなどあるだろうか? しかり。子どもたちは逆らってきた。ダビデはそのように過ちを犯したし、他の多くの者たちも恥ずべきしかたで自らの神に反逆してきた。私は、神の恵みを味わった者がどれほど深く罪にのめりこめるものか云うことはできない。だが、私は切に願う。その実験は行なわないでほしい。しかり。私たちは可能な限り罪から遠ざかっていよう。だが、ここに見られる限り、《救い主》がその苦しみを自らともにするほどの同情心をいだいておられる者たちが、それにもかかわらず、「逆らい、主の聖なる御霊を痛ませた」のである。

 よろしい。ならば、何が起こっただろうか? さて、私たちはこの聖句そのものに至ることになる。「主は彼らの敵となり、みずから彼らと戦われた」。これは、多くの場合における物語である。神は患難を送られる。その人の収穫には、かみつくいなご、食い荒らすいなご、ばったが襲いかかる。その人の仕事には葉枯れ病や枯れ病が降りかかる。その人には、それが理解できない。というのも、万事が順調に見えていた所で、今や何もかもうまく行かなくなるからである。その人が得ているすべてのものは、穴だらけの財布につぎ込まれる金銭のようである。その人が神の子どもでありながら、反逆者になったことに鑑みると、その人は神の御霊を痛ませ、懲らしめが降りかかっているのである。ことによると、その人は痛ましい病気によって衰弱するかもしれない。ことによると、愛児が取り去られるかもしれない。あれこれのしかたで患難が家庭に入り込む。神の栄光を現わすために試みられたヨブの患難ではない。罪によって家庭が汚れたものとなっていたために、自らの家庭内で苦しまされたヤコブの患難である。神はねたみ深く、ご自分の、過ちを犯しつつある子どもたちを峻厳に取り扱われる。

 神は彼らに種々の苦しみを送られる。だが、それよりも悪いことに、彼らの敵となり、聖霊の慰めを引き留めることによって、彼らと戦われる。おゝ、彼らも、かつてはいかに説教を楽しんだことか! それは恵みとまことに満ちていた。彼らは今は説教を楽しまない。同じ説教者である。他の人々は以前と同じように徳を建て上げられている。だが、彼らは違う。そうした人も祈りに行く。だが内側で御霊が嘆願しているとは全く感じない。聖書を読むが、それは死んだ文字である。キリスト者である人々と一緒にいようとするが、彼らとのつき合いはその人にとっては陰鬱で、何の慰めも生み出さない。神が天の窓を閉ざしてしまわれたのである。神は、御使いたちが黄金の梯子の道を通って種々の祝福を引き下ろすのをやめさせてしまわれた。神はその人の敵となり、その人と戦われる。私の知っているある場合において、神の真の民は(彼らが神の真の民であったことは確かである。というのも、彼らは立ち返ったからである。そして彼らは、神から離れたときでさえ、神のいのちを決して失わなかったのである。)ここに至ってしまっていた。――すなわち、神は彼らの祈りにおいて彼らと戦われ、祈る際の彼らは、銅製の大釜の中で叫んでいる人のように見受けられた。そこでは、あらゆる音が彼の耳の中で雷鳴のように反響するのである。私は、神の民である人々に命ずる。自分が何をしようとしているか注意するがいい。というのも、あなたを愛する神は、あなたがご自分に逆らって罪を犯すとき、あなたを手荒に取り扱われるからである。この聖句を思い出すがいい。「わたしは地上のすべての部族の中から、あなたがただけを選び出した。それゆえ、わたしはあなたがたのすべての咎をあなたがたに報いる」[アモ3:2]。私がしばしば云ってきたように、もしある人が、町通りで窓を割っているか、いたずらをしている男の子を見たとすると、その人はその子にほとんど何も云わないであろう。だが、もしその子がわが子だったとしたら、がつんと一発食らわして、その子を家に帰らせるであろう。主が、ご自分の子どもたちが罪を犯しているところをつかまえる際も、それと同じである。主は普通の罪人のことは放っておき、審きが執行されるまで罪を犯させておくかもしれない。だが、ご自分の子どもたちについては、そむきの罪を犯しておとがめなしではすまない。「主は彼らの敵となり、みずから彼らと戦われた」。

 そうした時、もし彼らがなおも用いられるキリスト者としての働きを続けようとすると、彼らは途方もない不毛さによって打たれる。そして、彼らの働きには何の効能もなくなる。私は、自分の言葉が、神の民の中でも最も繊細な人々を傷つけるとしたら、大いに悲しく思うが、それでも、それが事実であると知っている。もしも説教者が自分の神を離れるなら、彼の神は、彼を放置して、むなしく説教させておくであろう。もしある教師が《救い主》から離れ去るなら、《救い主》はその教師から離れ去り、彼を、あるいは、彼女を放置して、その生徒たちへの教えをだいなしにするであろう。神が去られるとき、普通は教役者に何が起こるだろうか? よろしい。神のもとに行き、自らへりくだり、あわれみを求めて神に叫ぶことだ。だがその代わりに、彼は新しい風琴を買おうと決意する。それが良く効くであろう。だが、結局その新しい風琴は、いかに良い音を鳴らそうと、大したものにはならない。よろしい。ならば、彼は扇情的な娯楽を催そう。日曜夜の演奏会だ。――洋胡弓か、他の何かだ。だが、もし神が彼を助けてくださらなければ、彼の苦境はキシュの子サウルのそれと同然である。彼はまず音楽を試そうとする。そして、それが助けにならないと、エンドルの魔女のもとに赴く。今は「現代神学」と呼ばれている魔女である。そして、そこで支援を受けようとする。もし私たちがそのようなことをするとしたら、神よ、私たちをあわれみ給え! 私は、もし神が与えてくださるのでなければ、教役者として成功することを願いはしない。そして、私は祈るものである。あなたがた、神のための働き人たちが、神ご自身の方法で、神ご自身からやって来るもの以外のいかなる成功をも得たがらないことを。というのも、たといあなたが、奇抜な、非キリスト教的な手段によって、海の砂のように回心者を積み上げることができたとしても、彼らは次の波がやって来るなり、海の砂のように消え失せるだろうからである。おゝ、神の子どもよ。神抜きで事を行なおうとしてはならない! あなたの罪があけた破れ目を、継ぎ接ぎするために種々の新発明を持ち込んではならない。もし主があなたの敵となり、あなたと戦っておられるとしたら、主の前に額ずき、自分の不正を告白するがいい。

 この点を後にする前に、厳粛な問いかけを行ないたい。私が語りかけている人々の中に、この聖句が悲しいほどに当てはまるキリスト者の男女が誰かいるだろうか? 罪があなたの悲しみの呪いではないだろうか? 私は切に願う。この問題を軽くあしらってはならない。神があなたと戦っておられることは、非常に厳粛なことである。神に申し上げるがいい。「なぜ私と争われるかを、知らせてください」[ヨブ10:2]、と。しかし、絶望してはならない。もし主があなたを滅ぼそうと決意していたとしたら、厳しくこう仰せになっていたことであろう。「彼は偶像に、くみしている。そのなすにまかせよ」*[ホセ4:17]。ある人を全く放置しておくことこそ、望みなき者に対する神の最後通牒である。だが、さまよう者を鞭打って、その主のもとに帰らせることは、仮面をつけた愛である。賢い人はその仮面の下を見て、こう理解することができよう。神はあなたを悪人とともに滅ぼしたくないからこそ、今あなたをご自分の家庭のしつけに服させ、こう感じとらせておられるのである。天の相続人において、罪と苦痛は両立せざるをえないのだ、と。主を求めるがいい。主に叫ぶがいい。そして自分の罪を告白するがいい。あの放蕩息子のたとえ話は、回心していない人よりも、ずっとあなたにふさわしい。というのも、あなたは神を「父」と呼ぶことができ、息子として神のもとに帰ることができるからである。遠い国[ルカ15:13]におけるあなたの放蕩三昧にもかかわらず、また、あなたが御父の財産をいかに食いつぶしてこようと、あなたは神の息子だからである。立って、ただちに神のもとに行くがいい。あなたは、その道を知っている。その道を戻って行くがいい。あなたは、あなたの御父を知っている。今すぐ御父のもとに飛んで行くがいい。あなたの頭をその御胸に埋めて、むせび泣きながら告白するがいい。「おとうさん。私は罪を犯しました」、と。そうすれば、今のこの礼拝が終わる前に、あなたはあなたの主の完全な赦罪を受けとり、自らこう感じることになるであろう。――

   「父のみむねに いだかれて
    再び子よと 告げられぬ
    御住まい二度と 離れじな、
    御神と家にて 安らがん」。

神は、あなたが罪を捨てるとき、すぐさま鞭をお捨てになるであろう。たとい神が懲らしめを停止されなくとも、あなたは忍耐強くそれに耐え、あなたを赦してくださったことで神をほめたたえるであろう。というのも、それこそ考えるべき主要なことだからである。原則として、主は罪をやめる人と戦うことをおやめになる。だが、たとい主がそうなさらないとしても、御前でひれ伏すがいい。ある奇抜な古書には一枚の絵が載っている。それが描いているのは、殻竿を持ったひとりの人が別の人を打とうとしており、襲撃されている人は、その近くに駆け寄りつつあるため、敵は彼を襲うことができないでいる場面である。その人は何と云うだろうか? 「もし、わたしのとりでにたよりたければ、わたしと和を結ぶがよい」[イザ27:5]。すなわち、――あなたを打っている神のみもとに真っ直ぐに行くがいい。そして、云うがいい。「主よ。私は全くあなたに屈服します。あなたのあわれみの心にかけて、お願いします。私を赦し、あなたの愛へと回復させてください」。神は、あなたが苦しむことをお喜びにならない。私たちは神の愛し子であるため、神はあなたを幸せにしたいと望んでおられる。神は、みもとからあなたがさまよい出すことを嘆いておられる。ただちに立ち返るがいい。信仰後退者よ。今すぐ立ち返るがいい。主は今あなたがそうできるようにしてくださる。イエスのゆえに!

 II. 《この聖句は、自分が神の民であると云えない人々にも当てはまる》。そう云えるためとあらば、目をえぐり出しても良いという人々である。覚醒された罪人たちの多くは、自分が逆らい、神の聖霊を痛ませてきたと感じ、今や、神が自分の敵となり、自分に苦難を送ることで自分と戦っておられると感じている。しかり。その人は順風満帆で、その順境が罠となっていた。その人は、唸るほど金銭を有し、それゆえ、いかなる娯楽場にも、いかなる悪徳の溜まり場にも入り込むことができた。今のその人は、空っぽのふところを嘆いている。今晩、その人は自分がどこで泊まり場を見つけることになるかほとんど分かっていない。その人は、かつては若い紳士だったが、今では乞食たちと群がらなくてはならない。しかり。おびただしい数の人々は、好色や酩酊によって、赤貧の奈落へと陥ってきた。神がそうした人々の敵となられた。あらゆることがその人を裏切るからである。その人は勤め口を得ようとするが、得られない。足を棒のようにして探し回っても、仕事を見つけられない。ことによると、私がこの場で話しかけている中には、神から遠く離れた道を歩んでいる若い婦人がいるかもしれない。そして彼女もまた、別の意味で下落してしまっている。健康が失われている。悲しいかな、向こう側で笑っている娘は! その頬に浮かぶ消耗性の紅潮からすると、果実の内側に虫が巣くっていることは明らかである。あわれな魂! 彼女は病気になりかけている。日ならずして世を去るだろうに、なおも何の希望もない。神は彼女の敵となっておられる(そう彼女は考えている)、そして、彼女と戦っておられる。というのも、医薬は彼女にとって何の役にも立たないからである。他の人々は治されているように見えるのに、彼女は以前と変わらず病んだままである。この場には、最近神が戦っておられる人々がいる。そして、神が戦われるとき、それは子どもの遊びではなく、単に握り拳で殴りつけるだけでもない。神は本気で戦われる。ことによると、神はあなたがたの中のある人々とこの点で戦っておられ、あなたは意気消沈しきっているかもしれない。かつてのあなたは、至極快活であった。物憂さを晴らすことなど、世界で最も容易なこととみなしていたものだった。おゝ、あなたは何と愉快な人間であったことか! だが今のあなたは自分の頭を持ち上げることもできない。1つのすさまじい抑鬱があなたの上に臨み、あなたは面を上げることができない。それは、ある説教によってであったかもしれない。あるいは、ひとりきりで考え事をしていて、意気阻喪し、憂鬱になり、浮かない気分になったのかもしれない。神があなたと戦っておられ、あなたは自分の魂の奥底で神の渋面を感じている。さもなければ、金銭上の困難に陥っている。以前は、あなたの繁盛があなたの破滅であった。あなたは、金持ちでいる間は救われることができなかった。また、あなたの安逸とあなたの無頓着さが遮られなくてはならなかった。あなたが枕を高くして寝ている寝床が燃え尽きなくては、あなたが救われることはありえなかった。神は、あなたの虚偽の喜びのすべてを散り散りに引き裂き、あなたに事の真実を見せつけておられるのである。

 私は、神があなたがたの中のある人々と別のしかたで戦っておられるとしても驚かない。それは、あなたの薄っぺらなキリスト教信仰観がみな消え去るためである。あなたは以前はこう豪語していた。「私は、いつでも好きなときに主イエス・キリストを信ずることができます。それで万事問題ないでしょう」。かつてのあなたは、信じるのは実に容易なことだと思っていた。だが、今やそうではないことに気づいている。あなたは最近救いについてずっと考えいる。そして、それはあなたが考えていたような取るに足りないことでは全くない。何と、今やあなたは叫んでいる。「私には感じられません。それどころか、信ずることができません。思い出せません。自分を悪から引き留めることができません。私は悪魔に取りつかれているように思われます。神よ、私をお助けください。私は自分で自分を助けられません」。神はあなたをお助けにならないように思われる。むしろ、あなたに自分の弱さを、以前は一度も知らなかったほど感じさせておられる。そして、あなたが良くなろうと苦闘すればするほど、悪化していく。「主は彼らの敵となり、みずから彼らと戦われた」。

 この戦闘が進展するにつれて、あなたは非常に深刻な損害をこうむってきたかもしれない。何年か前に、ひとりの人がこのタバナクルにやって来て、こう云った。「私は、ある日曜の午前中をだいなしにされてしまいました。私はこのタバナクルに入ってきました。そして、私は、自分がこの場所の五十哩四方のどんな商売人にも負けない善良な男だと思っていました」。彼は云った。「私はだいなしにされて出て来ました。というのも、私は、自分が、ニューイントンの、あるいは、この場所の一千哩四方の誰よりも悪いと告白させられたからです」。それこそ、神が私たちの、自分を義とする思いと戦い始められるとき私たちのもとで起こることである。私は幼い頃、自分のことを善良で慎みのある子どもだと考えていたが、それは私自身の心を見てとるまでのことであった。私が立派な兵士でいられたのは、神がその戦斧をもってやって来て、私の盾を打ち壊し、私の美装を切り刻むまでのことであった。そして、その場に私は立ちつくしていた。私は、その時の自分の目には、神を攻撃したことのある中でも最悪の若者であった。神は、自分を義としようする虚飾を滅茶苦茶に打ち壊される。私たちのけばけばしい美装は、真理がそれを扱うとき、たちまち崩れ落ちてしまう。

 そのように、神がある人と戦っておられるとき、その人の内なる悲しみは増し加わるように思われる。その人の記憶がその人に叫び立てる。「これを思い出すがいい! あれを思い出すがいい! 別のことを思い出すがいい! あの罪の夜を思い出すがいい! あの反逆の日を思い出すがいい!」 その人の恐れは湧き起こり、気味の悪い幽霊のようにその人の前にゆっくりと歩み寄る。その人の数々の希望は、かつては甘やかな海精の歌を歌ったものだが、今やその十四行詩を悲歌と変えてしまう。その人の数々の期待は働かなくなる。その人の数々の思念はみな、一揃いの短刀となり、その人の魂をあらゆる点で切り刻む。おゝ、方々。神が《人霊》の町を包囲するとき、神はその砲台をあらゆる門に向けて据えられる。神の大砲はその城壁のあらゆる部分に狙いをつけられる。神の砲弾は心の中心で炸裂する。主は軍人であり、エホバがその御名である。主が戦闘へ向けて進軍なさるとき、その矛先を受ける人はすさまじい被害を受ける。

 私には、あなたがこう云っているのが聞こえる。「あなたは、非常にすさまじい描写を示しています」。私は、救われる人々が常に必ず通ることを描写しているのではない。多くの人々はごく喜んでキリストのもとにやって来ては、単純にキリストにより頼み、たちまち生きる。しかし、話をお聞きの方々。あなたは、そうした心柔らかな人種ではない。やって来ようとしない。母の涙もあなたを説得せず、あなたの教師の勧告もあなたを来させない。それで、あなたが罪の中に生きるのをやめさせるには、とうとう神が有効にあなたを御手の中にかかえこむしかないのである。あなたの良心は覚醒させられ、あなたはもはや今のあなたのように生き続けられなくなる。

 「おゝ」、とある人は云うであろう。「私はそんなふうに感じてはいませんよ」。悲しいかな! 感じていれば、どんなに良かったことか。私は、悲しみに満ちた霊をした、非常に多くの人々と面会しなくてはならない。彼らは絶えず私を追い求めている。私は彼らが何哩もかけて、私と話をするためにやって来ることを知っている。というのも、彼らは、こうした傷や創痍に関する何かを私が知っていると考えているらしいからである。彼らはそう信ずることにおいて正しい。ただし、その事実によって私は、悲しい人々の間で大いに立ち働かざるをえなくなるが。おゝ、愛する心たち。もし神があなたと戦われるとしたら、あなたの武器を捨てるがいい! その羽根飾りをあなたの兜から引き抜くがいい! 神の御前で平伏するがいい! 屈服するがいい。そして、あなたが屈服するとき、神はあなたに何の害を加えず、むしろ、あなたの上に身をかがめ、あなたを引き起こし、赦してくださるであろう。キリストの御前に引き出された、あの姦淫の現場で捕えられた女は、主が、まさに現場で捕えられたあなたに何をなさるかという見本である。優しい《救い主》は云われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません!」[ヨハ8:11] 愛する魂よ。屈服せよ、屈服せよ、屈服せよ! 何の弁解もしてはならない。何の情状酌量も申し立ててはならない。神の全能に屈服するがいい。そうすれば、神が癒してくださるであろう。神はあなたを引き裂いたが、また、包んでくださる[ホセ6:1]。「主は殺し、また生かし、打ち砕くが、その手でいやしてくださる」*[Iサム2:6; ヨブ5:18]。しかし、いかにして神は、一度も殺されなかった者たちを生かすことがおできになるだろうか? あなたがた、これまで一度も傷つけられたことのない人たち。あなたがた、今晩この場にぬくぬくと座って、微笑んでいる人たち。あわれみが、あなたに何をできるだろうか? 自分の平安を喜んではならない。というのも、私が描き出してきた悲痛な経験の根底には、1つの不思議な秘密が横たわっているからである。すなわち、人々に対するこの戦いは、彼らの悪と戦い、彼らに善を施すためのもの、また、彼らが救われるようになるためのものなのである。神があなたの高慢と戦われるのは、あなたがへりくだらされるためである。神があなたの自己信頼と戦われるのは、あなたがそれを恥じるようになるためである。そして、神の戦いがその目的をかなえたとき、神は全くあなたの敵ではなくなり、むしろ、あなたは神があなたの罪をかすみのように、あなたの不義を雲のように拭い去られる[イザ44:22]ことに気づくであろう。

 次に移る前に一言、警告しておこう。罪に陥らないよう、不断に警戒するがいい。赦されることはほむべきことだが、罪から守られることは、一段とほむべきことである。おゝ、無頓着な行為が後に放埒な行為に至り、いかなる苦悶、いかなる害悪を個人に、また、家族にもたらすのを私は見てきたことか! 軽微な形の罪を避けて通るがいい。それによってあなたが御霊を痛ませ、神があなたの敵となり、あなたと戦われることになるといけないからである。

 III. 最後に、《この聖句は、悔悟しないままで死ぬ人々に関して非常に恐ろしいものである》。悔悟せずに死ぬ人々に関して、私たちは何と云えば良いだろうか? 彼らについては何が真理だろうか? あなたは――私がいま語っているのは、ただ、福音を聞いたことのある人々、このタバナクルに座っている人々、警告と約束を眼前に示されている人々についてだけである。――もしあなたが悔悟しないまま、故意にキリストの大いなる犠牲を拒絶したまま死ぬとしたら、あなたは復讐をいだいて死ぬであろう。イエス・キリストが死なれたのに、あなたはキリストの血の功績を拒んできた。あなたは故意に、よこしまに行ない、父なる神、子なる神、聖霊なる神のあわれみなどかまいつけなかった。そして、このことが、あなたの他の一切の罪に加えられている。さて、あなたに尋ねさせてほしい。――あわれみが目の前に示されたときに、それを受けとろうとしない人には何がなされるべきだろうか? もし有罪判決を受けた犯罪人が、罪を認め、赦罪を受けとるように招かれたとして、そうしなかったとしたら、その刑を執行する以外に何が残っているだろうか? 正義と、傷つけられたあわれみの双方が、そうされることを要求する。ある人が、キリストを拒みながら、天来のあわれみを拒絶しながら死んで、来世に至るとき、その人はそこで神と戦うであろう。そして、自分の能力に応じて、そこで地上にいた時よりも大きな罪人となるであろう。神はその人に楽しみを与えるべきだろうか? 主はそのような反逆者を幸せにすべきだろうか? そばに立ってこう云うべきだろうか? 「わたしは、この反逆者に褒美を与えよう。彼はわたしの御霊を痛めたが、わたしは彼を貴族に列し、報償を与えよう」、と。全世界を審くお方[創18:25]がそのように行なうべきだろうか? この《書》に目を向けるなら、あなたは、この表裏の表紙の間に、一筋たりとも、神なく、キリストから離れて死ぬ者に対する希望の光を見いださないであろう。私は、この《書》が霊感されていると信ずるあらゆる人に挑戦する。この神聖な頁の中に、キリスト・イエスにある神のあわれみを現世で受け入れようとしない者にとって、全くの絶望のほか何があるか見いだしてみよ、と。私の主であり《主人》であるお方はこう云われた。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます」[マコ16:16]。それが主のことばである。それはそこに立っているし、永遠にそこに立ち続ける。これが、最終的な判決である。「のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ」[マタ25:41]。私は、生ける神にかけてあなたに命ずる。ここまで神を怒らせてはならない。エホバの剣の刃めがけて突進してはならない。

 ただちに十字架につけられたイエスを仰ぎ見るがいい。――咎ある者のために十字架につけられたイエス、この世に来て、私たちの性質を身に帯び、私たちの罪と恥辱を背負われたイエスを。主は十字架の上から叫んでおられる。「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ」[イザ45:22]。私は天から来た御使いのようにあなたに語りかけることはできないが、地獄から救われた罪人のように語る。そして、私はあなたに懇願する。主イエス・キリストを信じるがいい。そうすれば、あなたは救われる。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」[ヨハ3:16]。神があなたを祝福し給わんことを! アーメン。

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説教前に読まれた聖書箇所――詩篇106篇


『われらが賛美歌集』からの賛美―― 176番、106番(第二の歌)、570番

 

罪と戦われる神[了]

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