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忍耐強いヨブと、挫かれた敵

NO. 2172

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1890年8月28日、木曜日夜の説教
説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「ヨブはこのすべてにおいて罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった」。――ヨブ1:22 <英欽定訳>


 これはすなわち、こうした試練のすべてにおいて、また、こうした誘惑のすべての下にあっても、ヨブは神に対して正しい者であり続けたということである。その財産すべてを喪失し、その子どもたちが死んだ最中にあっても、彼はふさわしくないしかたで語らなかった。この聖句は称賛をこめて、「このすべて」について語っている。そして、これは偉大な「すべて」であった。あなたがたの中のある人々は、多くの試練の中にある。だが、それはヨブの試練にくらべれば何であろう? あなたの種々の患難は、この族長の悲嘆をアルプスとすれば、もぐら塚のようなものである。「このすべて」! 彼は突如として貴人から乞食に引き落とされた。大富豪から一文無しになった。幸福な父親から、子無しの哀悼者になった。誰が「このすべて」を測り知ることができようか? だが、「ヨブはこのすべてにおいて罪を犯さ」なかった。ここには、恵みに満ちた霊の勝利があった。あゝ、愛する方々! 神がこのすべてにおいてヨブを支えられた以上、あなたは神があなたをも支えることがおできになると確信して良い。この天来の支えを求めて神を仰ぎ見るがいい。

 「このすべて」は、また、ヨブが行ない、考え、口にした一切のことを暗示してもいる。彼は、ふくれあがる悲嘆のため張り裂けんばかりだった。自分の頭を剃り、衣を引き裂き、自分の神である主に向かって声を上げた。だが、「ヨブはこのすべてにおいて罪を犯さ」なかった。彼は立ち上がった。彼は行動の人であり、感受性の鋭い強大な精神の持ち主であり、詩的精力の人であり、自分の種々の情緒を、驚嘆すべき象徴で表現せずにはいられなかったからである。だが、「ヨブはこのすべてにおいて罪を犯さ」なかった。これは、極度の苦難の中にあることが見てとれる人に呈された、途方もない賛辞である。もしもある人が、いかなる患難の矢に傷つけられていようと、魂を忍耐深く保っていられるとしたら、その人はまことに大人物である。

 願わくは私たちが、最後にはこう云われるような生涯を送れるように。「彼はこのすべてにおいて罪を犯さなかった。彼は苦難の海を泳ぎ抜いた。彼の生涯の物語を記した巻き物は、その内側にも外側にも哀悼が記されている。だが、このすべてにおいて彼は自分の主の御名の名誉を汚さなかった。彼は多くのことを行ない、口にした。だが、それらすべてにおいて、忍耐強く、わが身を服従させ、従順で、決して反抗的な言葉を発さなかった」、と。このヨブの素晴らしい場合について、実践的なしかたで考えてみよう。聖霊が、私たちを彼に似た者としてくださるよう願いつつそうしよう。

 I. 私たちの最初の項目はこうなる。《私たちのいかなる問題においても、肝心なのは罪を犯さないことである》。「ヨブはこのすべてにおいて悪口を云われなかった」、とは云われていない。というのも、彼は、彼自身の面前でサタンから悪口を云われたし、じきに、彼を慰めてしかるべきであった人々によって、偽りの非難を受けることとなったからである。愛する方々。あなたは、この世を通り抜けた後で、こう云われることを期待してはならない。「このすべてにおいて誰も彼の悪口を云ったことはなかった」。私はある人について次のような言葉を聞いたことがある。「彼には、敵が全くなかった」。そこで私は、あえて云い足した。「友人も全くなかったが」、と。ひとりも敵がいないという人には、ひとりも友人がいない。人々から熱心に愛される者たちは、熾烈な敵たちを作るに決まっている。誰をも怒らせないような人畜無害な人は、他の方面でも確実に味気のない人に違いない。日和見な人は、のらりくらりとこの世をはぐらかして行けるかもしれない。だが、徹底的な神の人の場合、そうなることはめったにないであろう。その人が世のものではないために、世はその人を憎むであろう[ヨハ15:19]。ほむべき聖なる主イエスは、極度の中傷を受けた。永遠にほめたたえらるべき神ご自身、古き蛇に姿を変えていた古きしもべによって、《楽園》で誹謗された。それゆえ、あなたも悪口を云われたとしても不思議がってはならない。罪人呼ばわりされずに人生をくぐり抜けて行くことを期待すべきではない。むしろ、熱心に願うべきことは、いかなる喜びや悲しみの状態を経ようとも、罪に陥らないことである。

 また、私たちにとって肝心な点は、苦しみを免れた人生を送ることでもない。主のしもべたちは、最上の者であってさえ、苦しみによって成熟し、円熟するからである。牧者であったアモスは、いちじく桑の木を傷つける者であった。――パレスチナでは、この種類のいちじく桑は杖で打たれて、傷をつけられないと完熟しなかった。残念ながら、患難なしに完全に成熟した敬虔な人はほとんどいないのではないかと思う。葡萄の木は、刀傷を受け、厳しく刈り込まれない限り、めったに多くの実を結ばない。残念ながら、多くの艱難なくして多くの実が生じることはごくまれではないかと思う。思うに、気高い人格が引き続く繁栄によって生じさせられることもありえるだろうが、そうしたことは非常に珍しかった。逆境は、私たちの敵にとってどう見えようとも、私たちの真の友である。そして、少しでもそれを知った後の私たちは、それを尊いもののように、来たるべき喜びの予言として受け入れる。私たちのいだくべき大望は、茨も石ころもないようななだらかな道を越えて行くことではない。むしろ、こう尋ねようではないか。――

   「ひとりシモンが 十字架(き)を負いて、
    余の者自由に 行くべきや?
    否とよ、誰にも 十字架あり、
    そして十字架は われにあり」。

 愛する方々。さらに私たちのいだくべき大望は、心の悲しみなしに世を行き過ぎることでもないと思う。確かに、心の重苦しさは、肉体的な苦しみよりも悪いものである。「ひしがれた心にだれが耐えるだろうか」[箴18:14]。しかしながら、ある人々は、ほとんど何も感ずることなく、はなはだしい苦難に耐えているように見える。こうした人々は、無神経で、情の強い、鈍感な者らであって、実際、私はなかば彼らがうらやましくなることがある。また、恐怖を引き起こすような感受性がなくなるよう、ほとんど願いたくなることがある。だが、それが祝福かどうかは非常に疑わしいであろう。私たちは繊細でなくては、神の御手のいかにかすかな一触れも感じられないであろう。「あなたがたは、悟りのない馬や騾馬のようであってはならない」[詩32:9]。使徒は云う。「あなたがたは……いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのです」[Iペテ1:6]。多くの人々は、この箇所を、なくてはならないのが試練であるかのように読む。そして、実際、私たちは試練を受けなくてはならない。だが、この箇所がなくてはならないものとしているのは、心の憂悶である。もしあなたが、全く心の憂いなしに試練に耐えることができるとしたら、それは、あなたにとってほとんど試練などではない。「打って傷つけるのは悪を洗い落とすため」[箴20:30]。痛みの中の痛み、雀蜂の刺し傷こそ、心に働いて効果を及ぼす。もし私たちが鞭の下で疼痛を感じないとしたら、それが私たちにとって何の役に立つだろうか? それゆえ、私はあなたがたが、魂の悲しみから遠ざけられるよう祈ってほしいとは思わない。むしろ、一日に七度も、「主よ。私を罪から遠ざけてください」、と腹の底から祈ってほしいと思う。願わくは、私たちの中のすべての者について、最後にはこう云われるように。彼は、このすべてにおいて罪を犯さなかった、と!

 覚えておくがいい。もし神の恵みによって私たちが、自分の患難ゆえに罪に陥らされずに済むとしたら、サタンが敗北するということを。サタンは、ヨブに罪を犯させることができるとしたら、ヨブがいかなる苦しみを受けようとどうでもよかった。彼は、ヨブに罪を犯させることができなかったことに気づいたとき、ヨブを試みたことを悔やんだに違いない。私は、この友が愚痴を云っているのが聞こえる気がする。「こいつに、らくだを返してやりたいわい。羊を返してやりたいわい。もしこうした損失によって、こいつの忍耐や忍従が明らかになるくらいなら」。ヨブの反抗的な言葉遣いを引き出せなかった以上、この誘惑者のあらゆる残酷な努力は水泡に帰したのである。彼の注ぎ出した悪意は、徒労に終わった。彼がこの善人に罪を犯させることも、神に愚痴をこぼさせることもできなかった以上、彼は敗北したのであり、神の栄光が現わされたのである。愛する方々。もしもあなたが、あなたの特定の苦難の間、罪に陥らないとしたら、あなたは、あなたを憎む者に対して圧倒的な勝利者となる。もしもあなたが、暗闇に魂を覆われている間も、かの大敵に抵抗できるとしたら、彼はまごつかされて、あなたの前から逃げ去るであろう。もしあなたが、悲嘆の折にも彼に勝利するとしたら、あなたは真の勝利を収めるのである。願わくは、アポルオンとのあなたの争闘が、『天路歴程』中の基督者のそれに似たものとなり、あなたのためにも次のような銘を刻んだ碑が立てられるように。――

   「勇ましくも雄々しく戦って
    彼は悪魔を走らせた。
    その証拠を示さんために
    碑を一つここに立つ」*1

 もしあなたが、重い苦難の圧力の下でも罪を犯さないとしたら、神に栄誉が帰されるであろう。神は、あなたを苦難に遭わさずに済ませることによって得られるよりも大きな栄誉を、苦難の中であなたを支えることによってお受けになる。神は、あなたが試みられるのを許すことによって、あなたの中にあるご自分の恵みが試験され、栄光を現わされるようにされる。何年も前に、ウィンスタンレーなる者がエディストン岩の上に1つの灯台を建てて、これはどんな嵐が吹き募ろうと確実に持ちこたえるはずだと豪語した。そして、英国海峡をいかに熾烈な暴風が吹き抜ける際にも、自分はその中にいたいものだと云った。さて、ある夜、彼が自分の建物の中にいるとき、途方もない猛風がやって来て、彼と彼の灯台をきれいに吹き飛ばしてしまい、彼の消息は二度と聞かれなかった。だが彼が試練を求めたのは、自分の作品を信じていたからであった。さて神が試練を許すのは、ご自分の知恵と恵みによって私たちがそれに耐えられるとご存知だからである。後にエディストンに建てられた灯台は、ありとあらゆる種類の嵐に吹きつけられたが、そのすべてを無事に乗り切った。それゆえ、その建設者の名は尊ばれている。全くそれと同じように、私たちの神は、ご自分の聖徒たちのあらゆる試練において、彼らがその恵みによって忍耐強く耐え抜けるとき、栄光を帰されるのである。「そら」、と神は仰せになる。「恵みに何ができるか見るがいい。いかなる苦しみにそれが耐えられることか、いかなる労苦を成し遂げられることか!」 恵みは、偉大な《王》とその宮廷の前で演技する運動選手のようなものである。雲のような証人たちが信仰の妙技を見下ろし、それがいかに、主が成し遂げるよう指定なさることをやり遂げるかを、喜びとともに注目しているのである。恵みは地獄の悪鬼との戦いすら始め、見事に一本背負いをくらわす。もしあなたが自分の苦難の中で罪を犯さないとしたら、あなたが試練に耐え抜くことによって神には栄光が帰されるであろう。

 さらに覚えておくがいい。もしあなたが罪を犯さなければ、あなた自身、あなたのいかなる艱難によっても敗北者にはならないであろう。罪だけがあなたを傷つけることができる。だが、もしあなたが堅固なままであるとしたら、たといあなたが裸にされても、栄光をまとわされるであろう。慰安を奪われても、真の祝福は何も失わないであろう。実際、裸にされるのは快くは思われないかもしれない。だがしかし、もしもすぐに寝床につくことになっているとしたら、それは大して重要なことではない。富と別れるのはやさしいことではない。だが、もしそれによってあなたの重荷が下ろされるとしたら、その損失は利得である。神の子どもは、短刀によって鋭く切り刻まれるかもしれないが、もしそれが、余計な枝葉を取り除くだけだとしたら、それはその木の結実にとってこの上もなく有益なことであろう。そして、それが肝心なのである。もしるつぼの中の金属がその黄金を全く失わないとしたら、それが失うものはみな、失ってかまわないものであり、実際、それは得をしたのである。あなたが種々の状況において切り詰められるとしても、霊において大きく広げられるとしたら、それが何であろう? たといからだは病んでも、魂の健康がそれによって増進させられるとしたら、それが何であろう? 罪を犯すのは恐ろしいことであり、聖潔にとどまるのは勝利である。願わくは私たちの一切の患難において、何の落ち度もないように。主は私たちに三百貫もの苦難をお送りになるかもしれないが、それは十匁ほどの罪にもまさっている。あなたの祈りが、悲しみからの解放を追いかけるだけのものにはならないようにするがいい。むしろ、何よりもまずこう祈るがいい。「どんな罪にも私を支配させないでください」[詩119:133]。神の国と、神への従順をまず第一に求めるがいい。そうすれば、それに加えて、解放は与えられる。私たちは、「主よ。私たちを苦難から遠ざけてください」、と云ってかまわない。だが、命ぜられているのは、こう祈ることである。「私たちを……悪からお救いください」[マタ6:13]。種々の試練が私たちのもとに来る場合、たといそれがヨブに起こったようなものであろうと、私たちの心が罪に引き寄せられたり駆り立てられたりしない限り、私たちの魂には何の問題もないであろう。

 II. さて、この聖句から第二の思想が生ずる。《いかなる試練の時にも、私たちが罪を犯す特別な恐れがある》。神の子どもがこのことを覚えているのは良いことである。暗闇の時は、危険な時である。苦しみは、いくつかの形の罪にとって実り豊かな土壌である。こういうわけで聖霊は、ヨブについて、彼は「このすべてにおいて罪を犯さ」なかった、と証しする必要があったのである。それは、彼が罪を犯すに違いなかったのに、それでも罪を犯さなかった、と云っているかに思われる。そして、このことは、霊感によって、記憶すべき事実して記録されている。彼はなお、自分の誠実を堅く保ち[ヨブ2:3]、主のみこころに従った。愛する方々。もしあなたが苦難の時期に近づきつつあるとしたら、油断せずに祈っているがいい。試練に陥っても、罪を犯すことに陥らないで済むためである。多くの人々は、悲しみの折に、自分の神をいたく悲しませるようなことを口にしたり、行なったりしてきた。

 例えば、私たちは苛立ちをつのらせがちである。私たちは主に対してつぶやく。自分の試練が長すぎると思うか、祈りが聞かれるべきときに聞かれないと思う。もし神が真実なら、なぜ神はご自分の子どもを 早く解放してくださらないのか? 古の時代には、神はケルブに乗って飛び、風の翼に乗って飛びかけられた[詩18:10]。だが、なぜ今は神の戦車の歩みがこれほど遅れているのか? 主のあわれみの足は鉛を履いているように思われる。不機嫌や不平は、厳しく試みられている人々に容易にからみつく罪である。人々は、神がその御手を苦味のつぼに入れ、悲しみの薬剤をお取り出しになるとき、神のことを苦々しく考えがちである。男女どちらかと云えば、婦人たちの方が通常、忍耐の賞を、特に肉体的な病についてはさらって行く。私たち、より粗雑な材料で作られている者らについて云うと、恥ずべきことに、概して男たちの方が苦痛には非常に我慢が足りない。私たちは、何の忍耐もないことを示すほど忍耐を失いはしない。ヨブは、その最初の一連の試練の下では、さほど不平を云うことに急ではなかった。というのも、聖霊は、わざわざ新約聖書でヨブの忍耐について言及しておられるからである[ヤコ5:11]。

 私たちは、神に対する反抗にすら誘惑される。私の会ったことのある何人かの人々の場合、反抗的な言葉が口にされ、幾度となく繰り返されさえした。ある者は私の聞こえるところでこう云った。「神は私の母を取り去った。だから、私は決して神を赦さない。私は二度と、かつて思っていたように神を愛の神だなどとは考えられない」。こうした言葉は、その喪失そのものがもたらしただろう痛みにもまさる痛みを神の子どもに引き起こすであろう。私は、ある人が自分の死にかけた子どもについてこう云うのを聞いたことがある。私は、その子を訪問するよう招かれて来ていたのだが、彼は、神が自分の娘を自分から取り上げるほど不正なことをするなど信じられなかった。実際、彼はあまりにも反逆的な口を利いていたため、私は、優しさの限りをこめて、だが深い魂の厳粛さとともに、彼をさとさなくてはならなかった。そのように高慢な口の利き方をしている人のもとには、主の訪れがあるのではないかと思いますぞ、と。明らかに彼の子どもはまもなく死のうとしていたし、私は、その衝撃が来たとき、彼も死んでしまうのではないかと恐れた。なぜなら、彼は非常に激しく主に文句を云っていたからである。私は内心こう云った。「神の子どもが、自分の御父についてこんなしかたで語っていて、さらなる懲らしめを受けずに済むはずがない」、と。それは私が予期した通りにやって来た。そして、彼自身が打ち倒されてしまった。私は深く悲しんだが、全く驚きはしなかった。いかにして私たちが神に反逆しておいて、その反逆の中で栄えることなど望めるだろうか? 神は、曲がった者には、ねじ曲げる方[詩18:26]であられる。そして私たちは、それがいかに悲惨な世界を自分にもたらすか気づくであろう。おゝ、単に屈従しなくてはならないから屈従するだけでなく、信頼しているがゆえにそうする恵みがあればどんなに良いことか! 願わくは、私たちがこう云うように! 「その方は主だ。主がみこころにかなうことをなさいますように」[Iサム3:18]。その誘惑を前にしてもヨブは倒れなかった。というのも、この点で罪を犯さなかったからである。

 私たちはまた絶望によっても罪を犯しかねない。ひとりの苦しめられていた者がこう云った。「私は二度と幸せにはなれません。一生の間、嘆き続けます」。愛する方よ。なぜもう一度朗らかにならないのだろうか? 神の種々のあわれみは、きれいさっぱり永遠に失せ去ったのだろうか? あなたは常に信ずるように命じられている。「あなたがたのうち……暗やみの中を歩き、光を持たない者は、主の御名に信頼し、自分の神に拠り頼め」[イザ50:10]。暗闇の中には、絶望ではなく、信頼のための場所がある。陰気な子どもは、おそらく鞭そのものが引き起こすよりも十倍も多くのみじめさを自ら作り出すであろう。神が信頼せよと命じているというのに、あえて誰が絶望しようというのだろうか? さあ、もしあなたがヨブのように貧しいとしたら、ヨブのように忍耐強くなるがいい。そうすれば、あなたは、決して沈まない星のように永遠に輝く希望を見いだすことであろう。

 多くの人々は、不信仰な話し方によって罪を犯す。すでに私は、神の子どもたちが口にしたことのある、一、二のよこしまな事がらを繰り返してきた。だが、ヨブはそうした類のことを何1つ云わなかった。彼は立派にこう語った。「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」[ヨブ1:21]。

 人々は、打ち続く苦難によって一種の無神論に追い込まれることがある。彼らは邪悪にもこう論じてきた。――「神などいるはずがない。さもなければ、私がこれほど苦しむのを許さないだろう」。愛する方よ。愚か者のような話し方をしてはならない。そして、そのような話は愚劣のきわみである。あなたがこのように聖霊を悲しませるとしたら、あなたの口は非常に汚れたものとなるであろう。主があなたを救ってくださったというのに、あなたが主に逆らう口を利こうというのだろうか? いくらでもつけ足すことはできるが、これ以上話をしている時間はない。願わくは、試練の時に主が私たちを心においても、手によっても、唇によっても、罪を犯すことから守ってくださるように。

 III. 第三に注意したいのは、《哀悼を示す行為を行なう際、罪を犯してはならない》ということである。聞くがいい。あなたは泣くことが許されている。自分が自分の喪失によって苦しんでいると示すことを許されている。ヨブが何をしたか見るがいい。「ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝し……た」[ヨブ1:20]。そして、「ヨブはこのすべてにおいて罪を犯さ」なかった。母親がわが子のために大いに泣いても、罪を犯さないでいることはありえる。母の悲嘆、母の愛は、神聖なものである。その嘆きが愛し子のためのものであるとき、それは完璧に自然な涙であるばかりか、聖なる涙ですらありえるであろう。ある夫が、愛する者を取り去られたときに、いたく嘆き悲しんだ。彼は正しかった。彼がそうしたからといって、私は彼のことを決して見下げたりしない。「イエスは涙を流された」[ヨハ11:35]。

 しかし、悲嘆の表現には限度がある。ヨブは自分の衣を裂いたのは間違いではなかった。頭を剃ったのは間違いではなかった。だが、一部の、絶望が狂気に転じた人々が行なったように、自分の髪の毛をかきむしっていたとしたら、それは誤りであったろう。彼はゆっくりとかみそりを取り上げて、頭を剃った。そして、このことにおいて罪を犯さなかった。あなたは喪服を着ても良い。他の折には聖徒たちもそうしてきた。あなたは泣いても良い。というのも、それはことによると、あなたの張り詰めた情緒を和らげることになるかもしれないからである。こみあげてくる涙を抑えてはならない。外側であふれる涙は、内側で氾濫する悲嘆を鎮静する。ヨブの悲嘆の行為は慎みのある、礼儀にかなったものであった。――彼の信仰によって調子を抑えられたものであった。私は、キリスト者たちがその葬式において、この世のしかたにあまりならわないでほしいと思う。むしろ、自分たちの悲しみが、望みのない他の人々と同じものではないことを明らかにしようとしてほしいと思う。あなたは、長いこと黒服を身につけることによって、それを主の御心に対する反抗の象徴としてしまうことがありえる。

 ヨブの言葉は、非常に強くはあったが、非常に真実でもあった。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう」[ヨブ1:20]。真実を越えたことを何も云わいとしたら、私たちはそれを口にして良い。その口調が、つぶやきのそれとならなければそうである。確かに、ことによると、アロンがそうしていたように[レビ10:3]、全く沈黙する方が良いかもしれない。ダビデは云った。「私は黙し、口を開きません。あなたが、そうなさったからです」[詩39:9]。もし私たちが金の沈黙を保てなければ、それでも私たちの話すことは銀にしよう。私たちは貴金属のほか何も用いてはならない。

 ヨブは嘆き悲しんだが、罪を犯さなかった。というのも、彼は嘆き悲しみ、嘆き悲しむと同時に礼拝したからである。これこそ、私があなたがた、今このとき嘆き悲しんでいる人たちに推薦したいことである。もしあなたが地に打ち伏さなくてはならないとしたら、そこで主の御前で礼拝するがいい。もしあなたの心が打ちひしがれているとしたら、ひれ伏して神を礼拝した聖なる人々を見習うがいい。私の信ずるところ、何にもまさって真実で、きよくて、甘やかで、強い献身のいくつかが神のもとに至るのは、悲嘆で打ち砕かれつつある心からである。では、覚えておくがいい。悲嘆を示すあれこれの行為の中には、必ずしも罪はないということを。

 IV. しかし、第四に、《私たちは神に愚痴をこぼすことによって大きな罪を犯す》。「ヨブは……罪を犯さ」なかった。そして、それを説明する語句はこうである。「神に愚痴をこぼさなかった」。ここで云わせてほしいが、そもそも神を私たちの裁きの座に呼び出すこと自体、大罪であり重罪である。「しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか」[ロマ9:20]。あゝ、自分を造った者に抗議する者[イザ45:9]。主は絶対的な主権をお持ちであり、ご自分の行なうことに何の弁明もなさらない。私たちは、全世界を審くお方[創18:25]を審く座につこうなどとするとき、僭越な馬鹿者となる。

 次のこととして、私たちは、神のすることを自分に納得させよと要求することによって罪を犯す。何と? 神は私たちにご自分の釈明をすべき義務を負っておられるのだろうか? 私たちは、神が私たちに対して自分を正しいと主張しない限り、反逆するぞと脅迫するのだろうか? 神の御名はほむべきかな。神は測り知れず、私は神がそのようなお方であることを喜んでいる。あなたは、あなたの神がご自分の種々の経綸を説明することを欲するのだろうか? あなたは、神を信じるだけで満足しないのだろうか? 説明を要求するのは不信仰である。これは実際、あなた自身を神よりも賢いとすることである。何の疑問もなく神の前にひれ伏そうではないか。神はエホバであられ、それで事は決してしまう。神は、ご自分のみこころが常に最善であるとご自分の子どもたちに感じさせてくてくださるであろう。神の前にひれ伏し、その御座の前にあなたの願望も思いも判断も屈服させるがいい。神がなさることは賢く、真実で、親切である。そして、そのことを私たちは確信している。私たちは非常に容易に神に愚痴をこぼすことができる。だが、神の非難など全くしない方が良い。というのも、《永遠者》を問責しようなどとする私たちは何者だろうか?

 私たちが神に愚痴をこぼすのは、神を不正だと想像するときである。「あゝ!」、とある人は云った。「私も、この世の者だったときには繁盛していたものだ。だが、キリスト者になってからこのかた、次から次へと損失や苦難を我慢し続けだ」。あなたは主があなたを公正に扱っていないとあてこすっているのだろうか? しばし考えてみて、自分の誤りを認めるがいい。もし主があなたを厳密な正義に従って扱っておられたとしたら、あなたはどこに行くだろうか? もし神が今あなたをあなたのもろもろの罪ゆえに非難するとしたら、また、正義の抜き身の剣をあらわにされたとしたら、あなたはどうなるだろうか? あなたはたちまち絶望に落ち込み、じきに地獄に入るであろう。正義を果たしていないなどと決して主を非難してはならない。というのも、これは復讐を伴う罪だからである。

 しかしながら、ある人々は神の愛に対して愚かな非難を持ち出すであろう。「私がこれほど苦しむことを許したりするとしたら、どうして神が愛の神でありえるのか?」 あなたは、あの言葉を忘れている。――「わたしは、優しくかわいがる者」(これが元々のギリシヤ語である)「をしかったり、懲らしめたりする」*[黙3:19]。主は、あなたを愛すれば愛するほど、より確実にあなたのうちに見てとる悪の1つ1つを叱責なさるであろう。あなたは主にとってあまりにも尊い者である。それゆえ、主は、あなたにみこころを行なわせようとして、すべての良いことについて、あなたを完全な者[ヘブ13:21]とすることを願われる。私の姉妹よ。神はあなたを大いに尊んでおられる。さもなければ、あなたがあれほどしばしば歯車の上ですりつぶされて、一切のいぼを取り除かれることも、あなたの魂の宝石が光り輝くようにされることもなかったであろう。私が非常な肉体的な痛みと弱さのもとにあったとき、「おゝ」、とひとりの世俗の人が私に向かって云った。「これは、神がその子どもたちを取り扱うしかたなのですかな? ならば、私はそのひとりでないことを嬉しく思いますよ」。いかに私は、心を内側に燃やしながら、また両眼をひらめかせながら、こう云ったことであろう。私は、神よりも安逸を好むような人の立場に立つくらいなら、いま忍んでいるような苦痛を永遠に受ける方を選びますよ、と。私は、自分が子とされていることについて一片でも疑いをいだくことが地獄であろうと感じた。そして、私がいかなる苦痛に苦しもうと、それは、主が私の神であると分かっている限り、大したことではない、と感じた。こうした痛烈な批判の下にある、神のあらゆる子どもは、主の誉れを非常に執拗に守りたいと感じるであろう。愛する方よ。私たちは、天来の愛を、それと関連して起こるべき一切の不利益とともに喜んで受けとるであろう。というのも、私たちの御父の愛は栄光の重みだが、時の間の一切の悲しみは「軽い患難」[IIコリ4:17]でしかなく、それらはほんの一瞬しか続かないからである。主がこう仰せになるのを聞くのは何と甘やかなことであろう。――

   「愛もて懲らし 汝が黄金(かね)錬りて、
    終(つい)には与えん わが似姿を!」

 悲しいかな! 時として、不信仰は、神の御力について神に愚痴をこぼすことがある。私たちは、神がある特定の試練において私たちを助けられないのだと考える。そうした恐れなど風に吹き飛ばすがいい。それらは私たちにふさわしくなく、私たちの主に恥辱を加えるものである。神に難しすぎることがあるだろうか? 大水をも大火をも越えて、神は私たちを安全に引き出してくださる。

 私たちは、神の知恵を疑うほど愚かになることがありえる。もし神が《知恵に満ちた》お方であるとしたら、いかにして神は私たちがこのような苦境にあって、今の私たちのように低く沈むことをお許しになるのか? これは何という愚かさであろう? あなたは何者なのか? 神の知恵を測ろうなどとは。梟が太陽の光を見積もろうとして良いだろうか? あるいは、蟻が永遠の丘を評価しようとして良いだろうか? 水滴1つの中にいて、無数の仲間たちと遊び戯れている何らかのちっぽけな極微動物が、海の範囲を辿り始めようとして良いだろうか? あなたは何をする者なのか? あなたは何者だというので、自分の判断を《全能の神》なる主のそれと対置させようというのか? 無以下の者であるあなたが《無限者》をとがめようというのか? ちりの上を這う虫けらよ。あなたが力ある神を糾弾しようというのか? あなたの力の到底及ぶところではない。ヨブはそうしなかった。というのも、彼は罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかったからである。

 V. 最後に、――急いでしめくくらなくてはならないため、――《罪を犯すことなしに大きな試練をくぐり抜けることは、聖徒たちの誉れである》。もし私たちが試練を受けて、そこから出て来たときには、生まれたままの裸になっているとしたら、恥じる必要はない。だが、もし罪を犯さずにそこから出てきたとしたら、患難が大きければ大きいほど、私たちの勝利の誉れは高まる。「ヨブはこのすべてにおいて罪を犯さ」なかった。そして、「このすべて」こそ、恵みが彼を覆った栄光の一部である。かりに、あなたの人生が全く安逸なものだったとする。かりに、あなたが子どもの頃から優しく育てられ、良い教育を受け、どんな望みもかなうだけの富を残され、幸福な結婚をし、病気知らずで、心配事や艱難辛苦や重い悲痛など何もなかったとする。どうなるだろうか? 確かにあなたは、決して忍耐ゆえに名を上げることはありえない。ヨブがもし試練を受けなかったとしたら、誰が彼のことを耳になどしていただろうか? 誰も彼について、「ヨブはこのすべてにおいて罪を犯さなかった」、などと云いはしなかったであろう。彼は、ただその忍耐によってのみ、完璧な者となり、不朽の名声を与えられたのである。かりに、あなたの経歴がこのようなものだったとしよう。生まれたときから苦しんでおり、一生を通じて苦闘し、家庭内には格闘があり、家庭外では兵士となって十字架を負っていたが、こうしたすべてにもかかわらず、強い信仰を通して喜びと平安に満ちており、極度の試練を受けたが、忠実な者であることが示された。このような年代記の中には、記憶に値することがある。何の栄誉も受けられないのは、羽根布団に寝ている兵士である。豪奢な連隊服で飾り立てられていながら、全く向こう傷で美しくされも、戦勝によって高尚にされもしていない人である。こうした兵士についてあなたが耳にすることは、せいぜい彼が舗道を歩くとき、その拍車がチリンチリンと鳴るという程度のことである。この実戦経験のない軍人には何の戦歴もない。ただの伊達男である。彼は一生涯一度も火薬の臭いを嗅いだことがない。あったとしても、自分の香水瓶を引き寄せては、その悪臭を消してしまったはずである。よろしい。それは、国々の物語の中では大して華々しい光景にはなるまい。もし私たちに選べるものなら、また、もし私たちが主ご自身のように賢明であるとしたら、私たちは、いかなる激痛をも差し控えないはずである。誰が一生の間、あひるの池でピチャピチャ遊んでいたいと思うだろうか? 否。主よ。もしあなたが大海に乗り出せとお命じになるのであれば、私を深みに漕ぎ出させてください。荒波によって天高く持ち上げられては、大洋が大きく口を開くにつれて再び深淵に下っていく人々、こうした者たちは主のみわざを見、深い海でその奇しいわざを見る[詩107:24]。種々の不快さや危険によって私たちは成人し、そのときには子どものこと[Iコリ13:11]をもはや扱わず、永遠の問題を扱う。もし私たちに何の苦難もなければ、最後には、語るべき主題を欠くためにおしになるであろう。だが、今の私たちは、やがて御座の前の家族の輪に加わるときに、自分の兄弟たちに語るに足る数々の事件を蓄えているのである。試みられた魂は、自分たちを助け、解放してくださった神の無限のあわれみと愛について告げることができる。結局において、私が重んじるのは興味深い生涯である。そして、もし興味深い生涯があるとしたら、それはヨブの生涯がそうであったように、その苦難の割り当てを全く受けたものに違いない。そのとき、天は大いなる《審き主》の判決を聞くことになる。「わたしのしもべは、このすべてにおいて罪を犯さなかった」、と。

 キリスト者の誉れは、あるいは、云わせてもらえば、キリスト者のうちにある神の恵みの誉れは、私たちが詳細に至るまで従い、義務のいかなる点をも忘れないようなしかたで行動したときに現わされる。「ヨブはこのすべてにおいて罪を犯さ」なかった。彼が考えたことにおいても、語ったことにおいても、行なったことにおいてもである。彼が云わなかったこと、行なわなかったことにおいてさえそうである。「ヨブはこのすべてにおいて罪を犯さ」なかった。私たちは、自分の部屋に閉じこもり、二度と世の中に出て行ったり、これ以上語ったり行動したりしようとすまいとしがちである。確かに、それは大きな空白となり、私たちの生涯の汚点となるであろう。否! 否! 否! 私たちはこう云ってはならない。「私はもはや主の御名によって語ることはすまい」。語り続けるがいい。行動し続けるがいい。苦しみ続けるがいい。波を切って進むがいい。キリスト者よ! 向こう岸へと泳ぐがいい。そして、願わくは神の無限のあわれみが、そこへあなたを至らせることにおいて見られるように! あなたの生涯に行動を詰め込み、それを忍耐で飾り、それがこう云われるようにするがいい。「彼はこのすべてにおいて罪を犯さ」なかった、と。願わくは私たちが、詳細にわたって従順になり、完全に主に従い、奉仕の細密な点まで完璧に成し遂げられるように!

 私は、ただこのことをつけ足さなくてはならない気がする。この聖句を読み通すとき、これは私にはあまりにも無味乾燥に思われるので、私たちはそれを一掬の涙で潤したい。「ヨブはこのすべてにおいて罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった」。だがしかし、これほど僅かしか苦しんで来なかった私は、しばしば罪を犯した。そして、残念ながら、苦悶の折々には、神に愚痴をこぼしてきたのではないかと思う。愛する方々。これはあなたがたの中のある人々に当てはまらないだろうか? 当てはまるとしたら、あなたの涙を私の涙の後に続かせてほしい。しかし、その涙で罪が洗い流されはしない。血で満たされた泉へと飛んで行き、そこで苛立ちの罪、不機嫌の罪、反抗の罪、不信仰の罪を洗いきよめるがいい。これらはまぎれもなく罪であり、《小羊》の血で洗い流される必要がある。おゝ、その泉が私たちにとって何と愛しいことか! しばしば病床に伏して苦しまなくてはならないあなたにとって何と愛しいことか。――というのも、それでもあなたは罪を犯すからである! 健康と体力を有していて神に仕えることのできる私たちにとって、これはむ何と愛しいことか。というのも、私たちは、私たちの聖なる事がらの中に罪を見ており、その汚れから私たちは清められる必要があるからである。あなたがた、毎日仕事に出かけては、ありとあらゆる種類の人々と入り混じる人たち。いかにいやましてあなたは日々洗われる必要があることか! さあ、愛する方々。一緒に行き、云おうではないか。「主よ。私たちをお赦しください」、と。

 私は、あなたがたの中の、神の民ではない方々に対して語りたいことがある。かりに私があなたの生涯を要約し、それをこのようなしかたで書き出すことになるとしよう。「派手好きだった。多くの日々を軽薄な娯楽に費やした。時には酔っ払った。たまに冒涜的な言葉遣いを用いた」、云々と。だが、その後でこう云うとしたら、それは何たる偽りであろう。「彼はこのすべてにおいて罪を犯さなかった」、と! 何と、このすべてにおいてあなたは罪を犯すこと以外何もしていなかった。神はあなたの食卓を満載し、あなたの背中に服を着せ、あなたを健康に保ち、あなたの一生を長くされた。そして、このすべてにおいて、あなたは罪を犯し、神に愚痴をこぼすこと以外の何もしてこなかった。では、私は今晩あなたに、先に語ったのと同じ泉のもとに来て、こう叫んでほしい。「《救い主》よ。私を洗ってください。さもなければ、死んでしまいます」、と。これは、ヨブとまるで正反対であった。あなたの一切の慰安やあわれみの中にあって、あなたは罪を犯してきたし、決してしかるべき感謝をほむべき神に示すことなく、むしろ、神に悪を行なってきた。願わくは主が、私たち全員を御足元に至らせ、それから、私たちを助けて、将来の一切の激しい苦難において堅く立たせ、罪を犯さないようにしてくださるように。今晩あなたは、そうした苦難を受ける見込みが念頭にあり、ここに座っていながら、それについて抑鬱を感じている。意気阻喪し始めてはならない。むしろ、倍増しで勤勉に祈るがいい。苦しみから保たれるよりも、罪を犯すことから保たれることの方にずっと関心を払い、日々こう祈るがいい。「主よ。もしあなたが私をこの険しい路を通して導かれるとしたら、私の足を守り、つまずかせないでください。また、私の衣が最後まで、この世からきよく守られているようにしてください。私はあなたにこの1つのことしか求めません。聖なる父よ。私を、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたに従い、あなたに仕える愛し子として保ってください。私が高きへ行き、あなたとともに永遠に住むそのときまで!」 願わくは主が、あなたがた全員の苦難の日に耳を傾け、あなたを人生最後の時まで、傷もしみもない者として保ってくださるように! そのとき、主はあなたによって栄光を現わされ、あなたは喜びを有するはずである。アーメン。アーメン。

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説教前に読まれた聖書箇所――ヨブ1章


『われらが賛美歌集』からの賛美―― 758番、744番。

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(訳注)

*1 ジョン・バニヤン、『天路歴程 続編』、p.133-134、(池谷敏雄訳)、新教出版社、1985。[本文に戻る]

 

忍耐強いヨブと、挫かれた敵[了]

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