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あなたの未来のための望み

NO. 2125

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説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「わたしはあなたがたの上に、昔のように人を住ませ、初めの時よりも、まさる恵みをあなたがたに施す」。――エゼ36:11 <口語訳>


 この言葉は、ユダの山や谷や川に向かって語られている。だが私たちも知る通り、主は丘や川を気遣っているのではなく、全くご自分の民のためだけに語っておられる。その土地に対する祝福は、民への祝福とするためのものであった。たとい私たちが、この約束を私たち自身に属するものであると受け取り、それを贖いの蓋の前で訴えるとしても、この聖句をねじ曲げたことにはならないであろう。私たちは信頼するものである。主はこのことを私たちのために行なわれ、私たちの終わりは私たちの初めの時よりもずっと祝福されるであろう、と。

 あなたは今まで、国々が没落するとめったに再興しないことに気づいたことがあるだろうか? バビロンやニネベは塵芥の山となる。いったんメド・ペルシヤ王国が没落すると、その王座は二度と回復されない。ひとたびギリシヤおよび古代ローマがその絶頂の座から滑り落ちると、彼らについてはその廃墟しか見られなくなる。しかし、神の民は諸国の民の1つとは数えられず、それでイスラエルは没落しても復興するのである。たとい何世紀もの間、この古代の民が四散し、零落し、嘲られ、蔑まれているとしても、あらゆるイスラエル人は喜ばしげに足をしっかと踏みしめ、こう云える。「否、イスラエル。お前は決して滅びない!」 その灰燼の中にすら、イスラエルの火は常に生き残っており、来たるべき時代には、イスラエルがそのメシヤを認め、イスラエルの神はこの聖句の約束を成就されるであろう。「わたしはあなたがたの上に、昔のように人を住ませ、初めの時よりも、まさる恵みをあなたがたに施す」。私は、これがこの聖句の第一義的な意味だと信ずる。だが、肉による子孫に属する、この契約のあらゆる祝福が、霊によってその契約の中にあるすべての者に霊的に属している以上、私たちはこの言葉をあらゆる信仰者に対して語られたものと受け取りたいと思う。

 もし偽善者が転落するとしたら、彼はあの明けの明星[イザ14:12]のように、二度と再び希望をいだけない。その人は流星であって、空を横切って閃いては消滅してしまう。さまよう星である彼らのためには、真っ暗な闇が永遠に用意されている[ユダ13]。ひとたびユダがその使徒職から転落し去ると、この滅びの子を回復する道はない。しかし、神ご自身の民が倒れるときは、何と異なっていることか! 悲しいかな、彼らが倒れることは! だが彼らについてはこう云われている。「私の敵。私のことで喜ぶな。私は倒れても起き上が……るからだ」[ミカ7:8]。ペテロは、自分の《主人》から見つめられて激しく泣いたが[ルカ22:62]、生きてこう云うことになった。「私があなたを愛することは、あなたがご存じです」[ヨハ21:15]。木には、たとい切り倒されても、再び芽を出す希望がある。その中にはいのちがあるからである。そして、いのちがある所には、希望がある。モルデカイが、王家のひとりであるなら、敵はもう彼に勝つことはできない[エス6:13]。信仰後退の暗い時期は来るかもしれないが、確かに主に贖われた者たちは、嘆きと悔い改めとをいだきつつ再びやって来て、そのみもとから自分たちがさまよい出て来たお方を求めるはずである。

 しかしながら、私は下落という主題の暗い面を長々と語るつもりはない。むしろ私があなたの注意を引きたいのは、この恵み深い約束についてである。神は私たちのために、私たちの初めの時よりも物事を良くしてくださるのである。第一に私はこの問いに答えたい。では、私たちの初めの時にはいかなる良いものがあるだろうか? 第二のこととして、もしそれほど良いとしたら、それを上回るようなものがあるだろうか? そして、第三のこととして、いかにして私たちはそうした良いものを確保できるだろうか? また、いかにすれば私たちの生き方に、この聖句の言明を立証させることができるだろうか? 「わたしは……初めの時よりも、まさる恵みをあなたがたに施す」。

 I. 《まず、私たちの初めの時には何がそれほど良いものだっただろうか?》 振り返ってみよう。私たちの中のある者らは、神に回心してから、今では多くの年数を数えている。そして、その間ずっと霊的ないのちを享受してきた。若い初信者である他の者たちも、現在の喜びに助けられて、この問いに答えるであろう。――その初めの時には何がそれほど良いことなのか? 私たちの初めの愛[黙2:4]のことは、「婚約時代の愛」*[エレ2:2]と記されている。そして、私たちがみな知るように、赦しを給う愛が私たちにとって尊いものであり、私たちが主にあって喜んでいた初めの時期には、格別に心を陶酔させるようなものがあった。

 1つのえり抜きの喜びは、私たちが鮮明に赦罪を感じとっていたことであった。私たちは自分が赦されたことを知った。それについて、疑いの影すらいだかなかった。ごく最近まで真っ黒だったため、自分の汚れから洗われたとき、その変化を見てとった。そのときにはサタンでさえ私たちにそれを疑わせることはできなかったであろう。私たちが十字架の根元に立ち、「かくわが罪は 洗われぬ」、と云ったとき、そのとき私たちは大きな恵みの中にあった。そのとき、代償は私たちにとって目新しいことであり、私たちは、御座の前にいる御使いたちのような1つの声が、こう歌うのを聞くかのようであった。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」[ロマ8:1]。――私たちはみな、そのときは、自分がイエスを仰ぎ見たことを知っていた。他のどこを見ることもできないと感じていたからである。私たちは新しくきよめられた罪人であり、自分でもそれを知っていた。おゝ、そのほむべき時期よ! 私たちの地上的な慰めの数々は、より大きく、甘やかなものの中で忘れ去られ、私たちの地上的な悲しみの数々は、咎が消え失せたためにやんでしまった。不義の縛めから解き放たれた私たちの心は、贖い給う御名の響きだけで踊り出した。あなたは歌った。「われ赦されたり。われ赦されたり」、と。あなたは、御使いたちに、この全能の愛の妙なる驚異を告げたいと願った。それが、あなたの初めの時の良い事がらの1つであった。

 また、あなたもよく思い起こせるように、そのときのあなたは、恵みの契約の良い事がらを非常に喜んでいた。あなたは、今のあなたが知っていることの十分の一も知らなかったが、自分の知っていることに強烈な喜びを覚えていた。イスラエル人たちが最初にカナンに入国したとき、彼らはそれが乳と蜜の流れる土地であることを見いだした。後にそれは、彼らのもろもろの罪によって、石だらけの土地となったが、そのときには、エシュコルに極上の葡萄の房が実り[民13:23]、野性の蜜蜂は、獅子の死骸のような奇妙な場所においてすら、ふんだんに蜂蜜を産出していた[士14:8]。私たちが最初にキリストのもとに来たときも、神のみこころのことはそのようであった。それらはみな甘やかであった。私たちは、契約の中の1つの祝福を見てとり、それから別の祝福を見てとり、それからさらに別の祝福を見てとった。そして、その1つ1つに有頂天になった。それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったか、私たちにはほとんど分からない。というのも、私たちは眺めれば必ず味わったし、味わえば必ず満喫したし、満喫すれば必ず再び満喫したからである。私たちは世の仕事に費やす時間を与えしぶった。私たちは自分の聖書に、あるいは、聖徒たちの集会に戻りたかった。私たちの主は、そのときには尊いキリストであったし、開かれてごく間もない私たちの目には、この上もなく麗しいお方であった。主にまつわるあらゆる事がらが、また、主の民、主のみことば、主の日、主の十字架が、私たちには目覚ましいことであり、私たちを強烈な喜びで満たしていた。そのときの私たちにとって、それは実に「幸いな日」であった。それが、私たちの初めの時における、もう1つのほむべき点であった。

 また、そのときに私たちは、三番目のことにおいてもイスラエル人のようであった。すなわち、私たちは何度となく勝利を得ていた。あなたは思い起こせるだろうか? あなたのエリコが崩れ落ちたときのことを。――高い城壁で囲まれた罪、残念ながら自分には決して屈服しないだろうと思われていた罪が、突如として打ち砕かれたときのことを。イスラエルは勝利に勝利を重ね、次から次へと王たちを殺していったが、この初期の頃のあなたもそれと同じであった。良心がある罪を明らかにするや否や、あなたはそれを、両刃の剣を振るうかのように打ち殺した。時としてあなたは、ある種の生き方をしていられる信仰告白者たちに驚くことがあった。自分にはそんな生き方はできないと感じた。あなたの手は戦わざるをえなかった。そして、ヨシュアのように、それをとどめなかった。自分の罪を殺すには一日でも足りないほどだと感じた。あなたは太陽に動くなと命じ、月にとどまれと云いたい気がした。それによって、罪を全く剣にかけるという、ほむべき殺戮のわざを完全に行なうためである。そのとき以来のあなたは、何の弁解もできない幾多の敗北を喫してきたかもしれない。だが、そのときには、「勝利!」があなたの合言葉であり、あなたは永遠の神の御名によってそれを実現しにかかった。日ごとにあなたは、数々の腐敗が蜂起するにもかかわらず、「確かに私は主の御名によって、彼らを断ち切ろう」[詩118:10]、と云い、時には古の女預言者のように、「私のたましいよ。力強く進め!」[士5:21]、と叫んだ。あなたは、いかに敵があなたの信仰の足の下に制圧されるかを見て驚嘆した。それらは――その初めの時は――良い時代ではなかっただろうか。

 その頃のあなたは、祈りに大きな喜びをいだいていた。ひとりきりでキリストとともにいるとき、それは下界の天国であった。また、神の民が心を暖かくしていた幾多の祈祷会において、いかにあなたは彼らと一緒になることを喜んでいたことか! 説教はあなたにとって脂肪であり髄であった。そのときあなたは、篠突く雨の中を長時間歩くことも全く苦にせず、あなたの主であり《主人》であるお方について話を聞きに行った。座席には何の座布団もなかったかもしれない。あるいは、通路に立たなくてはならなかったかもしれない。それは全く気にかからなかった。あなたは今では驚くほど口がおごってしまった。今のあなたは、かつてはあなたにとって妙なる調べのような声をしていた、貧相な説教者の話を聞くことができない。以前のあなたのようには、神のみこころのことを楽しむことができない。それは誰のせいだろうか? 台所は同じであり、食べ物も同じだが、残念なことに食欲がなくなってしまったのではないかと思う。いかに私は神のことばに貪欲であったことか。――いかに私は早朝に起き出しては、神の深み[Iコリ2:10]に満ちた数々の書物を読むのを常としていたことか! 私は、あなたがたの中のある人々が、砂糖棒菓子を欲しがる子どものように切望する、愚にもつかない小説だの、週ごとの小話だのを全く欲さなかった。そのとき、人は天からやってきたマナ、キリストご自身で養われていた。それは、あらゆることが喜ばしかった良い時期であった。あなたは福音の説教者の話を聞いた。ことによると彼は、まるで標準語から外れた話し方をしていたかもしれない。だが、そんなことは毛ほども気にならなかった。あなたは飢えていたのであり、卓上刀や食卓の敷布などに頓着しはしなかった。あなたは食物を、それもしこたま欲していた。そして、それが健全な霊的食物である限り、あなたの魂はそれによって喜ばされた。それは、私たちの初めの時の良い事がらの1つである。

 その当時の私たちは、生きた実を豊かに結ばせていた。それを私たちは失っていないものと思いたい。ユダヤの山々は葡萄酒で滴り、乳を流し、豊かな土壌で満ちていたが、そのときの私たちもそれと同じであった。私たちは何でも行なうことができた。時として、振り返ってみるとき、私たちはいかに自分があれほど多くのことを手がけようとしていたのかと驚くことがある。私たちは、自分の霊的いのちを保つことに汲々とするよりは、自分が得たものを費やすことに熱心であった。私たちはそのとき、自分の前に教会を押し、自分の後にこの世を引きずっていこうと考えていた。いかなる驚異を私たちは行なおうとしていたことか。左様。そして、私たちは、神の良き恵みによって、その多くを成し遂げた!

 そのときの私たちは、たといごく僅かな強さしかなかったとしても、それでも主のみことばを守った。1つでも才質があれば、それを最大限に活用した。ことによると、ある人々が十の才質で行なうだろうようなことをも行なったかもしれない。私は、あなたがた、若いキリスト者たちが自分に可能な限り活動的にしている姿を見るのを非常に嬉しく思う。そして、私の手をあなたがたの頭の上に置き、こう云おうと思う。「これは正しいことである。自分にできることはすべて行なうがいい。じきにあなたは、それほど活発ではなくなるかもしれないのだから」、と。もしあなたが、開始するときからして熱心でないとしたら、じきにどうなるだろうか? 私はあなたがその熱心さを維持すること、また、それを増加させることを望む。というのも、いかなる人もイエスのために事を行ないすぎるということはないからである。いかなる人も聖別しすぎたり、自己否定しすぎたり、熱狂的になりすぎることはない。この地上の表において、私たちの《主人》の御国と王国のために度を越して苦闘した者など、いまだかつて一度も見られたことはない。今後も見られはしないであろう。むしろ、私たちが私たちの神である主のために、豊かに実を結んでいたことは、私たちの初めの時の良い点の1つである。

 これは、聖徒たちが普通はあふれるほどの愛とともに始まるからである。おゝ、私たちは、いかに《救い主》が永遠の愛によって自分たちを愛しておられたかを最初に見いだしたとき、いかにこのお方を愛したことか! あのあくたの山が二度と自分の割り当て地にはならず、彼方の、《永遠者》の右の座にあるまばゆい栄光が自分のものとなることを見いだすとき、――おゝ、そのとき私たちは私たちの《救い主》を心の底から愛するであろう! 私は、今の私たちがそれ以上に愛していないと云っているのではない。だが私たちが、私たちの主イエスへの愛に満ちあふれるとき、それは良い初めの時である。

 II. 私はこのように、過ぎし日々について、いくらでもあなたに思い出させることができるであろう。だが、そうしたいとは思わない。今から、第二のこととして、この問いに答えたいと思う。《それよりも良いことが何かありえるだろうか?》

 よろしい。もしもありえないとしたら、それは非常に残念なことであろう。なぜなら、私の確信するところ私たちは、若い初信者だった頃には、大して自慢になるような者ではなく、いかに大きな喜びをいだいていたにせよ、それは結局、神のことばで啓示されているものにくらべれば、ごく小さなものでしかなかったからである。私たちは、より良いものに達するべきである。また、もし私たちが「徐々に小さく 哀れに少なく」なるとしたら、みじめなことである。もし私たちの光がいよいよ輝きを鈍らせ、真暗闇になるべきだったとしたら、それはキリスト教的な見地らしく思われないであろう。しかり。むしろ、それはいよいよ輝きを増して真昼となる[箴4:18]べきである。そして、初めの時に私たちの日は薄明である。最初に神のもとに来る際、私たちは単に外庭にしかいない。まだ、内奥の経験という至聖所に入ってはおらず、外庭に立っているにすぎない。私たちは、まだ苗の状態にある麦でしかない。農夫に聞いてみるがいい。青々とした苗が、畑の中にある最上のものだと思うかどうかを。彼は云うであろう。「ええ、今の所はね」。だが、もし翌月の七月になってもそれが青い苗だったとしたら、彼はそうは考えないであろう。それにまさって良いものが前方にはあるのである。神が私たちにお与えになる一切の善は、そのかげから、より良いものを汲み出すのである。そして、こう囁かせてほしいが、最上のものはまだ来ていない。聖徒の目にも耳にもまだ明らかに示されていない。むしろ、それは私たちの主が来られるときに、やがて私たちのものとなるであろう。

 ならば、いかなる点で私たちの未来は、後ろにあるものにまさっているのだろうか? 私は勇躍こう答えるであろう。信仰がより強くなることがありえる、と。神の恵みによって、それはずっと堅固になり、ずっと逞しくなるであろう。最初それは百合のように芽生え、非常に美しい姿をしているが、華奢である。後になると、それは頑丈な根を張って土壌をつかんでいる樫の木となる。そのがっしりとした枝は、強風をも物ともしない。若い初信者の信仰はすぐに意気消沈し、疑いや恐れが跋扈する。だが私たちは、恵みにおいて成長すると、堅く根ざし、しっかりとした基礎を置く。近年は、聖書の諸教理をあざ笑う風潮がはびこり、何事かを信じている人が思慮ある人とは考えられていないため、若い信仰者はぐらつきがちになる。だが現今のいかに多くの批評家や神学者たちの、いかに多大な懐疑主義をもってしても、私たちの中のある者らを揺るがすことはできない。私たちは、こうした事がらを味わい、手で触れ、自らの養いとしてきたのである。そして、それらの中に堅く建て上げられている私たちは、自分の召しのもたらした望みから動かされることがありえない。世界中の知者ぶる者らが総がかりになって、今より十倍も暗い暗黒にその洋筆を浸し、光などというものがないことが証明されたのだと書き連ねようと、私たちはこの目でそれを見ており、その中で暮らしているのである。私たちが、その永遠の真実から動かされることはありえない。

 これは初めの時の信仰よりもすぐれたものではないだろうか。先へ進んで、それを獲得するがいい。

 また、神は御民が前進するにつれて、彼らにより多くの知識をお与えになる。最初彼らは自分たちが知っていることを楽しんでいたが、自分が何を楽しんでいるかはほとんど知らない。恵みにおいて成長するにつれて、私たちはより多くを知るようになる。私たちは、自分が1つの祝福だと考えていたものが、五十もの祝福が1つになったものであることを見てとって驚く。私たちは真理を解剖するすべを学ぶ。――それを部分部分にし、その中を走る相異なる天来の思想を見てとる。そして、そのとき私たちは、私たちの高く上げられた主のご人格と犠牲によって自分に伝えられた祝福に次ぐ祝福を、楽しみをもって見てとるのである。兄弟たち。もし年数や経験によって私たちがより多くを知るとしたら、私たちの現在は私たちの初めの時にまさっている。

 キリストへの愛は、より恒常不変のものとなる。それは常に1つの情動だが、恵みにおいて成長している信仰者たちにとって、それは情動であると同時に1つの原理となる。たとい彼らが常に愛で燃え立っていなくとも、魂の内側には立派な火が灰の中に埋まっている。知っての通り、もしあなたが夕方、会堂に来る際に、家で留守をする者が誰もおらず、帰宅するまで火を絶やしたくないとしたら、消えないように火を灰の中に埋めるものである。それこそ、あるキリスト者がしばしば置かれている状態である。たとい私たちが確信について大いに語らなくとも、また、完全にほぼ達する域に近づくことについて何も云わなくとも、それでも私たちは神の御前にへりくだってひれ伏し、自分が神を愛していることに何の疑いもいだかない。私たちは自分がそうしていることを確信している。というのも、私たちにとってキリストと語り合うことは日ごとの楽しみとなるからである。そして、そのように語る際に、私たちは自分の愛が赤々と燃えるのを感じる。あなたは、自分が全く目にすることのない人々を愛していると常に感じはしない。だが、あなたの愛する大切な対象と語り合うとき、あなたの心は動かされるのである。古の清教徒たちのひとりがよく云っていたように、私たちの種々の恵みは、実行に移されるまで明白な姿を現わさない。かりに、あなたが禁猟地を歩いているとしよう。あなたの回り中には、しゃこや、雉や、野兎がいるかもしれない。だがあなたは、その一羽が隠れ家から飛び出してくるまで、あるいは、野兎が目の前を飛び跳ね出すまで、それらを目にしないであろう。あなたは、それらが動いているときには見えるが、それらが柴の中でじっとしているときには全く目につかない。それと同じく、キリストへの愛や、他のあらゆるキリスト者の美徳も、動かされるまでは隠されたままであろう。私たちの主の愛しい臨在は、そのすべてを彼らの隠れ場からおびき出す。そしてそのとき、あなたはその愛が常にそこにあったことを悟り、それも強大なものであったことを悟るのである。それが、必ずしも常にあなたの口の端に上らず、あなたの思いの中にすらなかったとしても関係ない。

 キリスト者たちが恵みにおいて成長するにつれて、祈りはいやまして強大なものとなる。もし主があなたを真に霊的な成人として立たせておられるとしたら、あなたはいかに祈りにおいて格闘すべきかを知ることであろう。なぜヤコブは、最初にベテルに赴いたときには、あの御使いと出会わなかったのだろうか? 彼はそこに横たわり、眠っては夢を見た。彼は霊的な幼子であり、夢が彼の能力に似つかわしかったのである。しかし、彼が再びやって来たときには、長年の経験によって成長していた。そのとき神の御使いはやって来て、彼と格闘したのである。天来の経験という教えの1つの部分は、私たちが祈りのわざにおいてより力強くなり、大きな事がらを神からかちとるすべを知るということである。最初は願い求めることなど夢にも思わなかったような大きなことを。願わくは、あなたが祈りという件で、あなたの初めの時よりもすぐれたものを与えられるように!

 思うに、それと同じことが用いられることについても云える。成長しつつあるキリスト者、また、成長しきったキリスト者たちは、初信者たちよりもずっとよく用いられる。彼らは一見するとあまり多くのことを行なっていないように見えるかもしれない。だが、彼らはそれをよりすぐれたしかたで行なっており、そこではより大きな成果を上げる。彼らの実は、たといそれほど豊富ではなくとも、より良質で、より熟している。たといその実の数は少なくとも、その一個一個はずっと大きく、それぞれが芳醇な香りをただよわせている。

 事実、この1つのことは、恵みにおいて成長しているあらゆる信仰者について明らかである。――彼らのうちにおける恵みのみわざは、より完成に近づいている。彼らは天国により近づいており、彼らはそこによりふさわしい者になりつつある。あなたがたの中のある人々は、この世に非常に捕われない生き方をしている。あなたは、もうじきお召しを聞くことを期待している。こうした、地から生じた物事を打ち捨てるよう、あなたに呼びかけるお召しである。熟柿は軽く触れただけで木から落ちるが、あなたもそれと同じようになりつつある。あなたが若かった頃には、この世は今よりもずっと強くあなたを握っていた。いま、この世から離れるというあなたの思いは、以前よりもずっと頻繁になり、ずっと望ましさの度を増している。あなたは死を、あたかも隣町への引越か、町通りの向こう側に移ることのようにみなすようになっている。あなたは死を長いこと眺めてきたため、私が以前に知っていた人のように、こう云えるほどである。「私は毎朝、この川に自分の足を浸してきましたから、いざそれを渡る段になっても、全然こわくはないでしょうよ」。主は、あなたを爪先立ちさせて、いつでも上れるようにしておられる。あなたはこう云える。「私が世を去る時はすでに来ました」[IIテモ4:6]。あなたの戦車は門口に来ている。よろしい。ならば、これはあなたの初めの時よりもまさっている。

 老練なキリスト者は、この新しい葡萄酒を振り返って見て、遺憾な口調で云えるであろう。「何というきらめきと泡立ちであろう! しかし、古い物は良い[ルカ5:39]」、と。あなたは、若々しい活力に満ちていた日々のことを思い起こすであろう。そのとき、からだは霊と歩調を保っていた。あなたは若く、気力も筋力も熱情も横溢していた。こうした血気盛んな時代は、あなたのもとから去ってしまっており、あなたは落ち着きを身につけ、緩慢にさえなっている。あなたは老いており、ことによると、物忘れがひどくなっているかもしれない。あなたは、新しい物語を作り出す代わりに、古い物語を持ち出す。だがそのとき、この古い物語――古けく古き物語――は、初めの時と同じくらいあなたにとって新しく、あなたは以前にましてそれを愛している。あなたは今やそれから追い払われることはできない。サタンそのひとでさえ、あなたがたの中のある人々に手出ししたいとはほとんど思わないだろうと思える。彼は、生ける神に対するあなたの信仰を揺り動かせないのを感じる。あるいは、たといあなたを揺り動かしても、あなたが逆に彼を揺り動かすであろう。彼は、過去五十年にわたる幾多の小競り合いを経て、あなたが真のエルサレム刀を帯びていることを知り始めており、むしろ、「現代思想」という竹光を好む他の人々を扱いたいと思うのである。あなたはすでにベウラの地に達しており、ヨルダンの岸辺に座して、かの《天の都》へ渡って行くのを心待ちにしている。確かにあなたは実感しているはずである。神があなたを、あなたの初めの時よりもずっと良く扱っておられることを。

 III. しめくくりに最後のことを取り上げよう。これは実際的な問題である。いかにして私たちは、愛する方々。キリスト者生活を始めつつある私たちは、《いかにして自分が、今よりも、やがて良くなることを確保できるだろうか?》 悲しいかな! 私たちは、一部の人々が目覚ましい様子で歩み出すのを目にしてきた。彼らはよく走っていた。だが、すぐに息切れするか、脇道にそれてしまった。以来、彼らの消息は聞かれない。私たちが恐れるのは、同じようなことが私たちにも起こるのではないかということである。いかにして私たちは、進み続け、良いものから、さらに良いものへと進むようにふるまうことができるだろうか?

 答えよう。まず、あなたの初めの信仰の単純さを守り続けるがいい。決してそこから離れ去ってはならない。あなたも、私たちが告げるのを常としていた行商人のジャックの物語を覚えているであろう。こう歌った行商人である。――

   「われは罪人 無の無なれども
    イエス・キリスト すべてのすべて」。

試問者たちは、彼を疑わせることができなかった。彼は云った。自分には、自分が哀れな罪人で、無の無であることを疑うことができない、自分はそれを知っているのだから、と。では、なぜ彼は、イエス・キリストが彼のすべてのすべてであると疑うべきだろうか? 神のことばがそう云っているのである。なぜ彼がそれを疑って良いだろうか? ここに彼は立ち、一吋たりとも考えを変えようとはしなかった。私も考えを変えはすまい。穴兎は岩の中で安全にしており、その中から出てくるほど馬鹿ではない。私はイエスの中に身を隠す。そして、そこにとどまるつもりである。批評家たちや文化人が何と云おうと関係ない。イエスは私のすべてのすべてであり、私は無である。私のいのちのため主はご自分の死という代償を払われたし、主の死こそ私のいのちなのである。主は私の罪を身に引き受けて死なれた。私は主の義を身に受けて、生きる。あなたは笑うかもしれないが、私は勝つ。あなたは嘲るかもしれないが、私は歌う。おゝ、愛する方々。イエスのもとに逃れ来て、その中に身を隠し、そこにとどまるがいい! 十字架を決して一吋たりとも越えてはならない。さもないと、後戻りせざるをえないからである。それが、死ぬまであなたの居場所である。あなたは無、キリストがすべてである。あなたは低く、低く、ずっと低く沈まなくてはならない。そして、あなたの評価においてキリストは高く、高く、ずっと高く上らなくてはならない。あなたが年老いるにつれて、「無の無」は一層強調され、「すべてのすべて」もまた一層強調されなくてはならない。もしあなたが翼を借りて、種々の思弁とともに、あなた自身であって良いものを越えて飛びかけようとするならば、あなたは墜落することになるであろう。そして、たとい骨折しなくとも、心傷つくことになるであろう。十字架の根元にとどまっているがいい。そうすれば、あなたは主にある自分の喜びを保つ――否、増し加える――であろう。

 それと同時に、愛する方々。絶えず細心の注意を払っているがいい。神の子どもたちの多くは、細々としたことに用心しなかったために、何箇月も泣かなくてはならない。ほんのしばし目をつぶり、「私は大丈夫だ」、と云ったがために、そのほんのしばしの間に、敵がやって来て、その人の麦畑に毒麦を蒔いていったのである。そして、ちょっとした居眠りのために大変な害悪が生じたのである。私たちは山猫の眼を持たなくてはならず、その眼を閉ざしてはならない。私たちは、ほとんどの誘惑がどの方面からやって来るか知らない。あらゆる方角に対して防備を固め、私たちの《主人》のことばを肝に銘じておく必要がある。「わたしがあなたがたに話していることは、すべての人に言っているのです。目をさましていなさい」[マコ13:37]。眼を覚ましていない限り、あなたの喜びを保ち、恵みにおいて成長することはないであろう。

 次の助言は、神に依存することにおいて成長することである。神があなたを保ってくださらない限り、あなたが自分を保つことはできない。あなたは目を覚ましていなくてはならないが、神こそイスラエルを守るお方であり、まどろむことも、眠ることもないお方であられる[詩121:4]。このことを覚えておくがいい。

 愛する方々。何よりも先に、徹底的であるように決意するがいい。私は、若いキリスト者たちが主のみこころについて非常に几帳面にしている姿を非常に嬉しく思う。私はあなたに、「おゝ、それは本質的なことじゃありませんよ!」、と云ってほしくはない。ある命令に対する従順は、あなたの救いにとって本質的なことではないかもしれないが、あなたの聖潔の完成にとっては本質的なことに違いない。「あの方が言われることは何でもしなさい」[ヨハ2:5 <英欽定訳>]。安全な歩みは、ただ慎重な歩みからしか生じない。私は、自分が間違いを犯すのではないかと恐れて、片足を持ち上げて地に下ろすことさえ心配した頃のことを覚えている。そして、私の信ずるところ、そうした感覚が常に私の上に臨んでいたときほど正しかったことはない。あなたがた、若い人々は聖なる恐れという恵みをいやまさって涵養しなくてはならない。何らかのことで、あなたの主のみこころを行ない損ねるのではないか、あるいは、主にそむくことを行なうのではないか、と日ごとに恐れるがいい。このようにして、あなたの喜びは保たれ、あなたがたの上には、昔のように人が住まわされ、神は、初めの時よりも、まさる恵みをあなたがたに施されるであろう。

 最後に、より多くの教えを求めるがいい。神の知識において成長するように心がけるがいい。それは、あなたがたの喜びが満たされるためである。あなたがこう云うのは悪いことであろう。「私は自分が回心したと知っている。それゆえ、これ以上は何も気を遣う必要がないのだ」。それでは通用しない。しかり。しかり。回心において、あなたは1つの競走を始めたのである。その競走において、あなたは決して立ち止まるべきではない。あなたは新しく生まれた。それゆえ、あなたには霊的な食物が必要である。あなたは霊的ないのちを享受しており、あなたはそのいのちを養うべきである。それがキリストの完璧なかたちと同じ姿になるまでそうすべきである。兄弟よ、前進せよ! 前進せよ。というのも、前にあるものは、あなたの労苦の十分な報いとなるからである!

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説教前に読まれた聖書箇所――エゼキエル36:1-15; 23-34


『われらが賛美歌集』からの賛美―― 675番、889番、867番

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スポルジョン氏からの手紙

 愛する方々。現在の悪疫の中にあって、私たちは――私たちのほとんどの者らは――苦しみをともにしている。だが、努めてそこから霊的な益を得るようにしよう。私たちの望みはすみやかな回復だが、恵みによる教えも受けたいとも思う。いのちの慰めと喜びとは、いのちそのものと同じくらい天来の意志にかかっている。私たちは、自分の希望が絶えないことと同じく、種々の恵みを楽しむことについても主を仰ぎ見なくてはならない。この説教者は乞い願っている。この者が、その話を聞く方々からも、読む方々からも忘れられないようにと。そして健康を回復した上で、その方々のもとにすみやかに戻りたいと希望している。

マントン、1890年1月11日。
あなたがたの心からの友
C・H・スポルジョン

 

あなたの未来のための望み[了]

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