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あなたの病のための助け

NO. 2124

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1890年1月19日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみなお直しになった。これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。『彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った』」。――マタ8:16、17


 夕方であった。それも、十中八九は安息日の夕べであった。ユダヤ人たちは、安息日を破らないよう細心の注意を払っていたため、病人を《救い主》のもとに連れてくるのも夕方になってからにしたのである。《救い主》は安息日にも喜んで彼らを癒されたであろう。それは、主にとっては聖なるわざを行なう日盛りだったからである。だが彼らはそれを正しいとは思わず、日が暮れるまで自分たちの病人を連れて行こうとはしなかった。もしあなたがたの中の誰かが、自分には《救い主》に近づく時はまだ来ていないと考えているとしたら、それは途轍もない間違いである。というのも、主は一時間たりともあなたが遅くなるのをお望みにならないだろうからである。むしろ、私はあなたにこう納得してほしいと思う。自分はあまりにも長く待ちすぎた、ついにイエスのもとに行くべき夕べが近づいているのだ、と。願わくは、あなたを引き留めてきたいかなる迷信も取り除かれ、この時が定めの時、あなたの魂にとって恵みの時となるように!

 それが安息日の夕方であったにせよなかったにせよ、その日を《救い主》は勤勉な労働に費やされた。というのも、私たちの《救い主》は、人々が七日目にご自身の話に耳を傾けようとするときには全力を傾けて説教をするように心がけておられたからである。日が上るや否や、主は救いに至る真理を告げ始めた。夕方がやって来たとき、主は疲れており、休息をお求めになったであろう。だが、そうなる代わりに、人々が主に癒してもらおうと病人たちを連れてきた。そして主は、倦み疲れる日のしめくくりとして、さらに骨の折れる務めを行なわれた。闇が地を覆うまで、主はなおも右へ左へ祝福を振りまき続けなくてはならなかった。今のこの時、私たちのほむべき《主人》は、あらゆる倦怠を脇へ打ち捨てておられる。そして、この夕刻、主は祝福しようと待っておられる。日中に何がなされてきたにせよ、また、たといどこかのあわれな、倦み疲れた魂が、それ以前の時間中、天来の御声をはねつけてきたにせよ、主はなおも、日が完全に没し去るまで救おうと待っておられる。夕方になると、人々は病んだ者らをみもとに連れて来た。私たちも同じ立場にある。主にこの祈りをささげようではないか。「おゝ、夕方に病人を祝福された方よ。今、しじまの中ですべてが冷えきっているこのとき、ここへ来て、私たちを祝福してください。そして、あなたの救いを見いださせてください!」

 その夕方には、いかに異様な光景が現出したことであろう! 人々が《救い主》のもとに連れてきたのは、悪霊に憑かれた者たち、また病んでいる者たちであった。彼らはそうした者らを寝台に乗せて運んで来ては、町通りに横たえた。悪霊に憑かれたある者らを連れ出すのは至難のことであったに違いない。そうした者らはもがいたり、わめいたりしていたからである。だが、それにもかかわらず、人々は彼らを連れてきた。町通りは病院となり、その静かな夕刻の大気の中には、悪霊に取りつかれたあわれな人々の叫びが、また、現実に痛みを覚えている人々の呻きが聞こえた。それは見るも悲痛で哀れな眺めであった。そして、キリストの目で見てとれる限り、あらゆる片隅や町角はこうした病人たちで占められていた。しかし、この、天来の《医者》であるお方を見ることは、何と栄光に富むことであったに違いないことか。このお方は目に涙を浮かべ、だがしかし、その顔つきには喜びが満ちていた。彼らの苦しみゆえに、その間ずっと大きな苦しみを感じてはいたが、しかし彼らを祝福できるゆえに喜ばしく、嬉しげであられた。あなたには見えるであろう。主が進みながら御手をひとりの病人の上に置くや、彼がその寝床から飛び上がる姿が。また、聞こえるであろう。主が別の者に語りかけるや汚れた霊が逃げ去り、狂気そのものだった者が穏やかで、分別ある者となった物音が。見るがいい。主が向こうを眺めやるや否や、一目で主が熱病を追い払うのを。聞くがいい。遠くにいる者に一言かけただけで、主が水腫を乾かすか、盲目の目を開くかするのを。《救い主》がこのようにサタンや汚れた病と戦い、いずこにおいても勝利をお収めになるのを見るのは素晴らしいことであった。それは、これまでパレスチナで一日の幕を閉じた夕暮れの中でも最も幸いな夕暮れの1つであった。私はあなたが今晩、それと並ぶような夕暮れを経験してほしいと思う。この場にはイエスがおられる。私たちはイエスを求めてきた。この場にはイエスとともにとどまっている者たちもいる。イエスはこの場におられ、病んだ人々もこの場にいる。そしてイエスは、過ぎ去った日々にそうであったのと全く同じように、今晩も癒すことがおできになる。

 私が語りたいのは、主の癒しのみわざについてであり、そこから励ましを引き出したいと思う。それから、私たちが詳しく論じたいのは、主の癒す御力の説明である。それは本日の聖句の二番目の節に示されている。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った」。

 I. 第一に注意したいのは、《私たちの主の癒しのみわざ》である。このとき、また他の多くの機会に、主はありとあらゆる種類の病を癒された。こう云っても正しいと思うが、病気という病気の一覧表の中で、《救い主》が耳にしなかったものは何1つない。そうした病気は、今では名前だけで知られているのかもしれない。というのも、最近の医師たちは十数もの新病を作り出したというからである。だが、それらは単に、古い病気に新しい名前をつけたにすぎない。私たちの曾祖父たちは、自分たちでは名前も知らない病気によって死んだ。あるいは、そうした病気につけられていた名前は、今つけられている名前とは異なっていたのであろう。しかし、人があらかた同じであり続けたように、ほとんどの病気は人間という種族と同じくらい長く存続してきた。私たちは、ユダヤ人たちの大きな悩みであったらい病が今ではほとんど根絶されていることに非常に感謝しなくてはならない。だが、私たちの《救い主》の時代、それはこの上もなくありふれたものであったように思われる。しかし、らい病も、他の形の病気も、《救い主》の御力のもとにやって来ると、そのみことばによって死んだ。

 さて、それと平行するのはこのことである。――イエス・キリストは、ありとあらゆる種類の罪を赦すことがおできになる。罪には種々に異なる段階がある。ある罪はこの上もない汚辱をもたらす、厭わしいものである。他の罪は、公共の社会にとってほとんど害にならず、そのためほとんどめったに注目されることがない。だが、いかなる罪も永遠に魂を滅ぼすものである。それは小さなものと考えられるかもしれないが、毒矢にちくりと刺されただけで血液が熱くなり、死がもたらされるように、罪は有毒の病気であって、いかに小さくとも致命的なものなのである。しかし、あなたがいかなる種類の罪をわずらっていようと、私はあなたを励ますであろう。それが何であろうと、それをかかえてイエスのもとに来るがいい、と。あなたの症状は、極端なものだろうか? あなたは、はなはだしい罪を犯してきただろうか? ならば、それをかかえて来るがいい。私たちの主は最悪の病気も癒されたからである。それとは逆に、あなたは幼い頃からはなはだしい罪に関わらないように生きてきただろうか? 外面的な悪徳から守られてきただろうか? あなたの主な罪は神を忘れ、キリストへの愛なしに暮らしていることかもしれない。――云わせてもらえば、死に至る罪である。だが、それを《救い主》のもとにかかえて行くがいい。あなたは怠惰だったろうか? 高慢だっただろうか? 好色だっただろうか? 不誠実だっただろうか? 俗悪だっただろうか? 意地悪だっただろうか? 私には分からない。だが神はご存知である。――あなたの心を、私たちが本を読むように簡単に読みとることがおできになる。しかし、その罪が何であれ、覚えておくがいい。人はどんな罪も冒涜も赦していただけるのである[マタ12:31]。「御子イエス・キリストの血はすべての罪から私たちをきよめます」[Iヨハ1:7 <英欽定訳>]。おゝ、これに聞くがいい。そして、《救い主》を仰ぎ見て、その大きなあわれみを祈り求めるがいい。主の贖い給う愛の癒しのわざが、すでに日の没したこの夕べに、あなたの上で振るわれるように! 人々はありとあらゆる種類の病気をイエスのもとに連れてきた。

 次に注意したいのは、イエスが、悪魔の所業の中でも特別な事例を扱うことがおできになる、ということである。悪霊に取りつかれることは、おそらくその時代に特有のことであった。時々私はこう思う。《救い主》が地上に降りて来られたとき、悪魔は厚かましくも自分が解放されることを願い出ていたのではないか。彼と、そのあらゆる使いたちが地上に来て、じかに《救い主》と対決することができるように願っていたのではないか、と。サタンは今なお、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っている[Iペテ5:8]。だが、キリストの時代に暴れ回っていたのと正確に同じしかたによってではない。彼はその頃していたように人々のからだを占拠することはできない。それで《救い主》はサタンと対面し、直接に対決された。だが悪魔はとても太刀打ちできなかった。主イエスが現われると常に、悪魔は逃げ回ったからである。悪魔の方でそうしたがらなくとも、《救い主》がすぐに、「この人から出て行け」、と云って彼を立ち去らせた。鞭で打たれた犬のように、彼は唸りもせずに逃げて行った。悪霊どもの一軍団全体が、喜んで豚の群れに入り込んでは、どっとがけから湖へ駆け降りて行き[マタ8:32]、私たちの主の渋面から逃れようとした。サタンは自分の手に負えない相手を見いだしていた。それに平行することはこうである。私たちの出会うある男たちは、如実に悪魔に支配されている。そして、そうした女たちもいる。――というのも、女たちが悪くなるとき、底知れず悪くなれるし、その点に間違いはありえないからである。悪魔がある女を徹底的に乗っ取ってしまったとき、彼は、男から引き出す以上の害悪を女から引き出すことができる。よろしい。男であれ女であれ、世には「悪魔のもの」と呼ばれて良い者たちがいる。ある者は酔いどれであって、誰にも彼を抑えることができない。彼は呑み続けずにはいられない。それによって分別を失っているように見える。彼は禁酒を誓い、しばらくの間は酒を断つ。だが、徐々に悪魔によって再びつかまれ、自分の酒のもとに舞い戻る。痛飲しすぎて振顫譫妄症に陥り、死の瀬戸際に至っても、それでもこの厭わしい悪徳に屈してしまう。他の人々は好色という悪魔に取りつかれており、いかなる苦しみをこうむろうと、おかまいなしである。彼らは常に自分を汚し、からだと魂を自分の不義によって荒廃させている。また、私たちの知っているある人々は、情動という点で自分の内側に悪魔を宿しているように見受けられる。彼らは、ごく些細なことで怒らされても、自分を抑える力を完全に失ってしまい、平静に戻るまで、ベスレヘム病院の精神病患者収容室に閉じ込めておくべきではないかと思われるほどになる。さもなければ、彼らは自分に、また、他の人々に害悪を及ぼすかもしれない。確かに、神を汚す悪態をつくことなしにほとんど話すことのできない、ある人々は、自らのうちに悪魔を宿しているに違いない。わが国の町通りを歩きながら、この国の労働者たちが普段交わしている会話を耳にすると、血も凍る思いがする。彼らがいかに不潔な会話で自らを堕落させていることか! それは正確には呪詛ではない。それはもっと不正直で、もっと悪辣である! そのような者に何か希望はあるだろうか? こうした者たちこそ、イエス・キリストがしばしばその癒しの御力を明らかに示してこられた当の人々なのである。私は今晩あなたがたに、子羊に変えられた獅子たちの話をすることができる。荒れ狂う情動の持ち主だったのが優しく、穏やかで、愛に満ちた者とされた場合、俗悪な話し方だったのが、かつて自分が口にしていたことを思い出しただけで慄然とする者とされ、しばしば祈祷会で声が聞かれる者とされた場合、不義の報酬を愛し、自分の評判を失い、自らを汚してきた男女でありながら、洗われ、聖なる者とされた場合について語ることができる。私が神の御名をほめたたえてきたのは、贖われた者たちにキリスト者の交わりのしるしとしての右手[ガラ2:9]を差し伸ばす時である。少し前のそうした人々には、私たちの右手を差し伸ばすことができなかった。自分のよこしまな追求を続けている彼らと仲間になることは正しくなかっただろうからである。おゝ、しかり。私の《主人》は、今なお人々から悪霊を追い出しつつあられる! もし今晩この場にそのような人がいるとしたら、助けを求めるあなたの叫びを私たちのほむべき主に立ち上らせるがいい。もう一度来てください、大いなる主よ。そして、人々から悪の霊を追い出し、多くの心において勝利を収めてください。あなたの恵みがほめたたえられるようにしてください!

 この奇蹟の働きについて尋常ならざる点は、あらゆる者が癒され、何の失敗もなかった、ということである。人は、特許医薬品を発表するとき、自分の薬の効能を証明するものを公表する。いくつかの症例を得ては、それを宣伝する。それはごまかしではないと思う。そんなごまかしをして、絞首刑になりたがる者はいないはずである。それゆえ、それらはみな正確で、ごまかしのない事例だと思う。しかし、医薬の宣伝者が決して人に知らせないことが1つある。その医薬の失敗例については決して広告されないのである。その治療薬を買うように勧められ、そこから何の益も引き出さなかった人々の数である。もしそれがことごとく宣伝されたとしたら、それは、新聞紙上で治癒について記す人々よりも多くの紙面を占めるであろう。私たちの主イエス・キリストは、これまで決して失敗したことのない《医者》であられる。――ただの一度たりとも。決してキリストの血で洗われた魂が雪よりも白くされなかったことはない。たといある人が最悪の悪徳に溺れていたとしても、キリストにより頼むとき、自分の悪習慣に打ち勝つ力を受けなかったことは決してない。地獄の最深部にある穴の中にさえ、あえてこのようなことを云おうとする者はいない。「私はキリストにより頼んだが失われてしまった。私はキリストの御顔を心を尽くして求めたが、キリストは私を捨てたのだ」、と。あえて嘘を云おうとするのでもない限り、そのようなことが云える生者はひとりもいない。というのも、心と魂をもって《救い主》を求め、主に信頼した者のうち、主から拒絶された者はひとりもいないからである。もしあなたが主に信頼するなら、主はあなたを救わずにはいられない。主が生きておられるのと同じくらい確実に、主はあなたをお救いになるに決まっている。というのも、主はそれをこう云い表わしておられるからである。「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」[ヨハ6:37]。もう一度云おう。「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」。あなたは、主があなたを受け入れておられないとしたら、決して来はしなかった。というのも、主はご自分に信頼する者たちを救わずにはおかないからである。

 ここで注意すべきは、主のことばこそ、主がお用いになった唯一の薬だったということである。他のいかなる薬も、まじないも、長々しい処置も、患部の上で手を動かすことも[II列5:11]なかった。ただ主が語られると、事はなされた。主が悪魔に、「この人から出て行け」、と仰せになると、それは出て行った。その病に、「去れ」、と仰せになると、それは去って行った。そのようにして、主は今日も人々をお救いになる。――そのみことばによって。私が今晩語っている間、あるいは、あなたがそれを読んでいる間、主のことばは救いを得させる神の力[ロマ1:16]となるであろう。私はあなたがこの場にいてそれを聞いていることを喜んでいる。信仰は聞くことから始まる[ロマ10:17]からである。私は、あなたが勤勉にみことばを読むなら喜ぶはずである。というのも、読むことは聞くことの一種であり、多くの人々はそれによって《救い主》に導かれつつあるからである。イエス・キリストには、あなたに長い煉獄をくぐり抜けさせ、救われる準備ができるまで何箇月も引き留めておく必要はない。主は単に今晩あなたの耳を開いてみことばを聞かせるだけで良い。そして、あなたがそれを聞くとき、主はそれをあなたの魂にとって祝福としてくださり、そのようにしてあなたは生き、あなたの罪は死ぬのである。そして、あなたは、主の比類なき恵みによって変えられ、更新された者となる。

 私は今晩この言葉を祈りながら語っている。主がそれを、以前にそうされたように有効なものとしてくださるように。また、主に誉れが帰されるように、と。

 私たちには、イエスが用いられたのと同じ薬が今晩もある。私たちには主のみことばがあるからである。この場には、御民の祈りに答えて主がおられる。また、この場には同じ種類の病んだ人々がいる。それゆえ、私たちは同じ驚異がなされるのを見るものと期待するのである。

 II. 願わくは神があなたに、聞くことのできる耳を与え、このことを私が語る間にあなたを救ってくださるように! すなわち、第二に私が語りたいのは、《私たちの主の、癒しを給う個人的な力》である。なぜ主には救うことのできる力があったのだろうか? 私たちには、この言葉によって主の御力の秘訣が指摘されている。「これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。『彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った』」。

 キリストが人々の病気を癒せたのは、自らそれを背負われたからであった。私たちの主イエスが実際に病を得たと考えてはならない。主は大いに苦しまれたが、何らかの病気にかかっていたとはどこにも記されていない。おそらく、この世のいかなる人にもまして自然の病気にかかりにくかったのは主であった。主のきよい、また、ほむべきみからだは、人々の内なる罪によってもたらされる種々の病気の影響を受けはしなかった。ならば、いかにして主は私たちのわずらいや私たちの病を身に引き受けられたのだろうか?

 まず、主は強烈な同情心によって私たちの病を背負われた。キリストがこうしたすべての病人たちを眺めたとき、主はいわば彼らの病のすべてを引き取られたのである。私が何を云いたいか分かるであろう。あなたも、非常に重病の人と話をしていると、その人ことが身につまされて、相手の痛みが自分にのしかかるように感じ、そうするときにその人を慰める力を得るのである。私は、悩んでいる人々と面会していると、悲しみに満ちた状況に次から次へと感情移入するあまり、その人々の誰よりも悲しみに陥ってしまう。私は、自分にできる限り、それぞれの人の状況に共感しようとする。それは、相手に慰めの一言を語れるようになるためである。そして、これは個人的経験から云えることだが、私の知る限り、悲しみに満ち、意気阻喪し、抑鬱している人々に対して、真摯な同情心をほとばしらせることほど、急速に魂をすりへらすことはない。時として私は、神の御手の中にあって、意気阻喪の霊によって苦しんでいる人を助ける手段となることがあった。だが私が与えた助けは、私に大きな代償を強いた。何時間経っても私は、自分自身が抑鬱したままであり、どうしてもそれを払いのけることができないのを感じた。あなたや私は、キリストのうちにあった同情心の千分の一も有していない。キリストは人間の災厄を丸ごと総和したものに同情し、ご自分の心を、悲嘆という悲嘆の流れが流れ込む、巨大な貯水池にするほど同情された。私の《主人》は今も全く変わっておられない。天国にいても、地上にいた頃と全く同じように優しい心をしておられる。私は、天国に行ったために優しさを失ってしまった人のことなど聞いたことがない。人々はそこに行くことで、より良くなるのである。キリストもそれと同じである。もしそのようなことが可能であるとしたら、主は地上におられた頃よりもいやまして優しくなっておられる。このことを考えるがいい。あわれな罪人よ。ある人はあなたに同情しないかもしれないが、イエスは同情してくださる。あなたは自分のしてきたことを、ある人々に告げたいと思わないであろう。彼らがあなたのもとから急いで立ち去り、遠く離れてしまうだろうからである。だが、イエスはそうではない。主は、審き主の目ではなく、医者の目で罪をご覧になる。それを1つの病気として眺め、それを処置して癒してくださる。主は、罪に対しては何の同情心もいだいていないが、罪人たちに対しては大きな同情心をいだいておられる。主は罪人のもろもろの悲しみを身に引き受けてくださる。

 「あゝ!」、とある人は云うであろう。「誰も私の魂など気遣ってはくれませんよ」。愛する方よ。あなたが男であれ女であれ、いかなる人であれ、ひとりの《お方》だけはあなたを気遣ってくださる。そして、今晩この唇を通してあなたに語りかけておられる。おゝ、この唇がその方によって用いられるにもっとふさわしければどんなに良いことか! その方は云われる。「わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」[マタ11:28]。その方は、いのちの水をふんだんに受けるよう、あなたに命じておられる。今この瞬間にも救いを授けようと待ち受けておられる。

 「誰も私の状況を知ってはいないのです」、とある人は云うであろう。しかしイエスは知っておられる。その心の暗黒の染みを知っておられる。その中心部にへばりついているものを知っておられる。今晩あなたが思い出している、そして、思い出して身震いしている、あの不潔なことを知っておられる。主はそのすべてを知りながらも、こう云っておられる。「裏切り娘よ。帰れ」*[エレ3:12; 31:22]、と。下劣な人間の中の最も下劣な人間にも、主はみもとに立ち返るよう命じておられる。なおも主は彼らに同情しておられるからである。

 イエス・キリストがご自分の身に私たちの病を引き受けたのは、私たちの人間性の代表戦士となることによってである。サタンは私たちの最初の両親たちを誤り導き、暗黒の諸力が私たちをとりこにしてしまった。罪の結果、私たちは病み衰え、苦しみがちな者となってしまった。

 さて、私たちの主イエスが地上に来たとき、主はこう云われたも同然であった。「わたしは、あの女の《子孫》[創3:15]である。そしてわたしは、かの人類の敵の頭を踏み砕くために来たのだ」。そしてキリストは、その点において、ご自分の上に、罪ゆえのあらゆる結果をお引き受けになった。主は、堕落した人類の《代表戦士》として表立ってサタンと戦い、彼を人々のからだから追い出された。病と闘争し、その根幹に横たわる悪を転覆された。それは人々が健やかにされるためであった。

 主は今なお私たちの《代表戦士》であられる。私はあなたに主を説くことを喜びとしている。あなたがた、苦しんでいる人たち。あなたがた、悲しんでいる人たち。あなたがた、罪深い人たち。あなたがた、失われている人たち。あなたがた、世間から見捨てられた人たち! ひとりのお方がやって来て、あなたのために戦っておられるのである。罪人の《贖い主》が、人間の近親者が、人間のためその敵に復讐し、その失われた相続地を買い戻すお方が、来ておられるのである。キリストのうちに見るがいい。罪人たちの《代表戦士》を。やって来ては、人々を長く苦しめてきたゴリヤテに挑戦するこのダビデを。おゝ、ぜひとも私たちの栄光に富む《代表戦士》に信頼してほしい! 思い出すがいい。主がいかに身一つでこの敵と対決し、それを打ち負かされたかを。「そは、かの昏(くら)き、かのすさまじき夜」。この敵は、あの園で獅子のように主に飛びかかり、《救い主》はその胸板で彼を受けとめられた。敵は《救い主》に膝をつかせたが、そこで主はこの獅子をつかみ、組みしめ、粉砕し、引き裂き、ポイと放り出された。私たちのサムソンは血のしずくのような汗を地に落とし[ルカ22:44]、その勝利を得ながらも、やがて頭を垂れて、霊をお渡しになった[ヨハ19:30]。しかしながら、主は生きており、今や再び、すべて苦しむ者、悲しむ者、罪深い者のために戦う《代表戦士》となっておられる。彼らがやって来て、自分のすべてを御手にゆだねさえすればそうである。主ご自身が私たちの病と私たちのわずらいをご自分の身に引き受けたのは、私たちの代表戦士となり、私たちの身代わりに私たちの戦闘を戦われることによってであった。主にあなたの戦いをあずけ、主の御手にあなたの魂をゆだねるがいい。そうすれば、主はあなたをかの《獅子》の顎から救いだし、しかり、地獄そのものの口から救い出してくださるであろう。

 しかし、肝心なのはこのことである。イエスが、罪のもたらしたあらゆる害悪を癒せる理由、それは、――イエスご自身が、その神聖な代償によって私たちの罪を身に引き受けてくださったからである。罪は私たちのわずらいと病気の根である。それで、その根を取り除く際に、主はその根が生じさせたあらゆる苦い果実をお引き受けになった。おゝ、それを大声で告げるがいい。もう一度大声で告げるがいい。毎日告げるがいい。真夜中に告げるがいい。真昼のまばゆい光の中で告げるがいい。市場で告げるがいい。町通りで告げるがいい。あらゆる所で告げるがいい。神が罪を罪人たちの背中から取り上げ、それをご自分の咎なき、ひとり子の上に置かれたことを! おゝ、天来の神秘よ。神の啓示がなければ決して知られなかった神秘よ。また、もし神ご自身が私たちに確証されなかったとしたら、今でさえ信じがたい神秘よ! 神は罪をキリストの上に置かれた。「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた」[イザ53:6]。ならば、聞けよ、あなたがた、咎ある人たち! 聞くがいい。いかに無代価で神は赦すことができ、だがしかし、ご自分の正義を傷つけることをなさらないかを。もしあなたがキリストにより頼むとしたら、あなたが、自らのもろもろの罪をキリストの上に置かれた者たちの数に入ることは確実である。主はあなたの代わりに、代理として、あなたに成り代わって罰された。さて、もし他者があなたに成り代わって罰されたとしたら、あなたもまた罰されることは正しくない。それゆえ、神の正義そのものがこう要求しているのである。もしキリストがあなたに成り代わって苦しまれたとしたら、あなたが苦しむべきではないことを。お分かりだろうか?

 「ですが、キリストは私に成り代わって苦しまれたのでしょうか?」 この問いには、別の問いをもって答えなくてはならない。「あなたはイエスがキリストであると信じているだろうか? あなたは、自分の魂をイエスにゆだねたいと思うだろうか?」 よろしい。もしあなたがそう思うなら、あなたのもろもろのそむきの罪はあなたのものではない。それらはイエスの上に置かれたからである。それらはあなたの上にはない。他の一切のものと同様に、それらは同時に2つの場所にあることはできないからである。そして、もしそれらがキリストの上に置かれたとしたら、それらはあなたの上には置かれていない。しかし、イエスは、ご自分の上に置かれたもろもろの罪をどうなさっただろうか? それらが私たちのもとに逆戻りすることはありえないのだろうか? 否。決してない。というのも、主はそれらを墓所の中に連れ込み、そこに永遠に葬られたからである。では今、聖書は何と云っているだろうか? 「その日、その時、――主の御告げ。――イスラエルの咎は見つけようとしても、それはなく、ユダの罪も見つけることはできない」[エレ50:20]。「わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った」[イザ44:22]。「あなたは彼らのすべての罪を海の深みに投げ入れてくださいます」[ミカ7:19 <英欽定訳>]。私たちのもろもろの罪は消え去った。キリストがそれを持ち去られた。「東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される」[詩103:12]。信仰者という子孫のためには、すでに勝利が獲得されている。彼らは、約束が保証されている子孫である[ロマ4:16]。それが保証されているのは、行ないによる人々に対してではなく、信仰による人々に対してである。新しく、神の御霊によって、キリスト・イエスに対する信仰を通して生まれた人々――この人々こそ、「人々の中から贖われた」[黙14:4]者たちである。かりに私が一万ポンドの借金をしていたとしよう。だが、もしも、ひとりの愛する友人が私の債権者を訪ねて、その一万ポンドを私に代わって支払うとしたら、私はそのときその債権者に何の義理も負っていないはずである。私は顔に微笑みを浮かべて彼と会えるであろう。そうしたければ彼は明日その会計簿を持ち出して、こう云うこともできる。「そら、見るがいい。ここには一万ポンドあんたの借りになっているよ」。私は喜びをもって答えるであろう。「ええ。ですが、もう片方を見てみてください。その支払いは済んでいます。このあなたの領収書の下側に、こう書いてありますよ。『全額支払い済み』、とね」。さて、イエスが信仰者たちのもろもろの罪をご自分の身に引き受けたとき、主はご自分の死によってその債務を支払われたのである。そして、信ずるあらゆる人は私たちの主の復活によって全額受領済みの領収書を受け取っているのである。「ですから、信仰によって義と認められた私たちは……神との平和を持っています」[ロマ5:1]。しかり。キリストを信ずる者たちには、あらゆる罪に対する完全な赦しがある。私について云えば、私はケントとともにこう歌うのを好んでいる。――

   「こは古き そむきの罪の赦しなり。
    いかに黒きも 消されたり。
    わが魂(たま)、見るべし、驚きて。
    罪ある所に 赦しもあらば!」

すべては、この神聖な一筆で帳消しにされた。――それを限りに跡形もなく消え去った。神は、ご自分がいったん赦された罪を二度と人々に着せることをなさらない。彼らの罪の半分は赦し、残り半分のために彼らを罰することはなさらない。むしろ、いったん与えられたなら、この祝福は取消不可能なのである。こう記されている通りである。「神の賜物と召命とは変わることがありません」[ロマ11:29]。神は決して、ご自分がなされたことを撤回したり、思い直したりなさらない。神はお救いになり、そのように救う救いは永遠の救いなのである。

 さて、私はなぜキリストに癒すことがおできになるかを見てとっている。愛する心よ。あなたは今晩、罪の病気を満身にまとわりつかせてこの場にやって来た。そして、あなたは、「主は私をお癒しになるでしょうか?」、と云っている。主を仰ぎ見よ! 主を仰ぎ見よ! 主を仰ぎ見よ! 私がキリストを見いだした朝、私はキリストを見いだすなどと思ってもいなかった。私は、以前も聞いたようにみことばを聞きに行った。だが、イエスをその時その場で見いだすなどと望んではいなかった。だが、私は実際にイエスを見いだしたのである。私が、なすべきことは何もなく、ただイエスを仰ぎ見るだけであると聞いたとき、また、この勧告が鋭く、先鋭に、また、明確に、「見よ! 見よ! 見よ!」、とやって来たときに、私は仰ぎ見た。そして私は自分がこうむった変化を証しする。――それは、ひとたび死んでからよみがえったかのような変化であった。そして、そのような変化が、話をお聞きの方々。もし信ずるならば、あなたにも臨むことになるのである。

   「十字架(き)の上(え)を仰がば いのちあり。
    汝れにもこの瞬間(とき) いのちあり」。

願わくは神が、あなたをそのように仰がせ、いのちを今しも与えてくださるように。イエス・キリストのゆえに! アーメン。

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説教前に読まれた聖書箇所――イザヤ53章


『われらが賛美歌集』からの賛美―― 410番、568番、296番

 

あなたの病のための助け[了]

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