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あなたを責める証言

NO. 2123

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1890年1月19日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「私は大集会を開いて彼らを責め」。――ネヘ5:7


 これには、次のような事実があった。一部のユダヤ人たちがネヘミヤとともにエルサレムに戻ってきたとき、その多くは非常に生活に窮した状態にあった。だが、より富裕なユダヤ人たちは、ユダヤの法に反して、彼らに高金利で金を貸した。月利で一厘、年利で一分二厘というような利率である。彼らは、自分の貧しい兄弟たちからその土地を取り上げるか、それを重い抵当に入れた。場合によっては、相手自身を、やむなく背負い込んだ借金のかたに奴隷とした。さて、知っての通り、あらゆるユダヤ人は土地保有者であり、彼の土地は、たとい一時的に抵当に入れられても、五十年の間には無償で彼に戻さなくてはならなかった。また、たといあるユダヤ人がしばらくの間、同胞であるユダヤ人のしもべとなるとしても、七年経てば無償で自由の身とされなくてはならなかった。彼を奴隷として縛っておけるのは、短い間だけであった。それゆえ、ネヘミヤは自分のもとに長老たちや、貴族たち、エルサレムのつかさたちを呼び寄せて、彼らが貧しい兄弟たちを奴隷のままにしていることがいかに悪いことかを示した。「あなたがたはみな、自分の兄弟たちに、担保を取って金を貸している」、と彼は云う。そして、このことゆえに彼らを厳しく叱責した。そして、自分ひとりの言葉では彼らにほとんど何の痛痒も感じさせないことに気づくと、国民の合同集会を開き、彼らひとりひとりに発言させた。その一言一言が頂門の一針となった。彼は云った。「私は大集会を開いて彼らを責め……た」。ある人々に正義の声を聞かせるには、何千もの同胞によって大声で繰り返させるしかない場合がある。正しい筋を通そうとする声が目立たないものであるとき、人々は耳を貸そうとしない。ひとりの忠実な隣人が発する物静かな叱責を、彼らは小馬鹿にする。だが、義が世論を味方につけ、多くの人々がその擁護者となるのを目にするとき、こうした当の人々は良心のなごりを有していることを示し、正しい主張に身を服させる。なぜなら、単にそれが正義であるだけでなく、人々の支持を集めていることに気づくからである。これこそ、劣弱な種類の人々にとって肝腎な点にほかならない。私たちは、ネヘミヤのように「大集会を開いて彼らを責め」るとき、形勢を一変させるのである。

 さて、私が今晩思いついたのは、私もごく容易に、何の不都合もなく1つの大集会を開いて、この場にいる、あらゆる未回心の人々を責めることができるのではないか、ということである。私は神の御名にかけて、また、真理の主張によって、自分の現状をよく考え、神に立ち返るように要求するものだが、それに加えて、1つの大きな集会を召還できるであろう。その集会は、未回心の人々が追い求めている悪の道を責める証言を行なうはずである。

 そこで今晩はこうした進め方で、未回心のままでいる人々に対して働きかけたいと思う。私は大集会を開いてあなたを責めたい。あなたは自分のもろもろの罪をまだ悔い改めていない。キリスト・イエスにあって供されている救いを受け入れていない。祈りなしに生きている。神を求める代わりに、自分のことを求めている。

 私の開く大集会は、この地上にいるあらゆる敬虔な人々の集まりである。私は大集会を開いてあなたを責める。彼らは、愛と気がかりとともにあなたを眺め、あなたが回心するのを見たいと願っている。だが、あなたが今のようなあり方をしている限り、彼らはあなたを責めている。あらゆる真のキリスト者の裏表のない生き方は、あなたを叱責していないだろうか? 謙遜で、恵みに満ちた人々をあなたが見るとき、たといそこでは何1つ語られなくとも、また、彼らが決して言葉巧みではなくとも、彼らの生き方が雄弁に物語ってはいないだろうか? それを感じないだろうか? あなたは、いかに無頓着な気分をしているときであれ、一度もこう感じたことはないだろうか? 自分も、あの人々たちのようであれば良いであろうに、と。そして、彼らが誘惑の下にあっても、真実で正しくあり続けているのを見たとき、あなたは内心こう云わなかっただろうか? 「何はともあれ、あの人たちには、感心な所があるわい。できれば私も、試練のときに正しくしていられるような、同じ強固な節義を持っていたいものだ」、と。結局において、あらゆる人は魂の奥底で、敬虔の力を感じているのである。感じざるをえないのである。義人たちの集いで、神は大いに恐れられている[詩89:7]。悪人は、神の民の中で神の臨在を知り、それを現実に恐れる。彼らがそう告白するかしないかは関係ない。事実、中傷や、あざけりや、迫害は、反逆が従順に表する敬意であり、罪が義の足台に表する敬意なのである。悪が善を憎むのは、それが自分たちの悪を断罪するからである。彼らは無理にも善を軽蔑しようとする。なぜなら、善があると、いやでも自分を軽蔑したい気分になるからである。

 義人は、単に彼らの性格の裏表のなさによってあなたに立ち向かっているだけでなく、神にあるその喜びによってあなたを叱責している。あなたが未回心の人であり、敬虔な母上がおられるとしよう。また、母上が多くの弱さや痛みをこうむってきたとしよう。その場合、あなたは母上がその一生涯の苦しみを忍んでいた際の神聖な朗らかさを忘れることができなかったはずである。あるいは、かりにあなたが、キリスト者である妻を亡くしたばかりで、彼女があなたとの生活の中ではほとんど何の慰めも得ていなかったとしよう。その場合あなたは、自分に別れを告げて安息に入ったときの、その青ざめた、だが幸福な顔を忘れることができないであろう。あなたは、その婦人には、苦難の時にも、自分には真似しようもない平静さがあったことを知っている。自分なら気が狂っただろうような苦痛を彼女が辛抱強く受け取っていたこと、それは恵みの力が彼女のうちにあって、彼女を強くしていたからであることを知っている。彼女、そして、彼女と同じように平静にされ、平安を得て、幸福にされている神の子どもたち、――私は彼らを集めて大集会を開き、あなたを責める。そして彼らは、あなたを責める証言をする。あなたが生ける神に従っていないからである。

 さらに、彼らは証言するだけでなく、あなたの罪に対する、また、あなたの状態に対する彼らの戦慄そのものがあなたを責める証言である。私はしばしば考えるが、もし私が、話をお聞きの未回心の方々の真の状態を知ることができたとしたら(徹底的に知ることができたとしたら)、その人々に語りかけることは不可能になるかもしれない。私は、あなたがたの中のある人々の立場を悟ろうと努め、あなたが神なく、望みなく死んだ場合に待っている未来を心に映し出してみようとする。私は、来たるべき世のすさまじい描写を何もあなたに示すつもりはないが、覚えておくがいい。私が口にするいかに慄然たることも、現実がそうあるに違いないものよりは無限に劣っているであろう。もし私が、その身の毛もよだつ未来をもっとはっきり悟ることができるとしたら、この舌は、私の心情が覚える恐怖のために沈黙するかもしれない。それゆえ、私は切に願う。私たちがあなたに語りかける際に経験する恐ろしさにかけて、このことを、あなたにこれほどの悲惨をもたらすであろう罪を責める証言としてほしい。私たちは、あなたを待ち受けているものを考えることに耐えられない。聖なるホイットフィールドは、この主題に触れ始めると、流れ落ちる涙でその頬を濡らしながら、こう叫ぶのが常であった。「必ず来る御怒り! 必ず来る御怒り!」 それは、彼にとって耐えがたいことであった。彼にはこの言葉を繰り返して、口をつぐむことしかできなかった。たといあなたが自分で自分を不幸に感じなくとも、私たちはあなたに同情する。この場には、夜、膝をかがめて祈るたびに、霊に重荷を覚えて未回心の人々のために祈らないではいられない者たちがいる。この場にいる、私の知っているある人々は、屈強の男たちでありながら、神聖な情動に圧倒されて、あなたのために、また、不敬虔な人々の魂のために苦悶するのである。それを私は見たことがある。単に、彼らの多くの頬を濡らす、滂沱たる涙ばかりでなく、彼らの心が彼らの胸中で波打ち、彼らの全存在が霊の苦悶によってわなないてきた。それは、もしやあなたが滅びるかもしれないとの恐れからであった。

 この世で祈りをささげているすべての人々を私は大集会としてあなたを責める。彼らがあなたのために祈っているというのに、あなたが全く自分のために祈らないでいて良いだろうか? あなたのもろもろの罪ゆえに恐怖が彼らをつかむというのに、あなたが何の恐怖にもつかまれずにいて良いだろうか? ひとりの敬虔な母親があだに――否、あだにではない。――あなたの魂のために、涙とともに夜を徹しているというのに、あなたが悔い改めの涙を全く流さないで良いだろうか? 私たちが、この心に奮い起こせるありったけの真剣さをこめてあなたに懇願し、あなたに懇願する言葉を探し求め、あなたを説得するために最善を尽くしたときも不十分すぎてならないと感じているというのに、――私たちがこうしたすべてを行なっているというのに、あなたが、「それは私には関係のないことです。関係のないことです」、と云っていて良いだろうか? よろしい。ならば、もしそうならざるをえないというのであれば、私はただこう云うことしかできない。私は地上の生ける聖徒たちの全集会を開いてあなたを責める、と。彼らをしてあなたに睨みを利かせてもらおう。

 「あゝ!」、とあなたは云うであろう。「ですが、彼らの中には多くの偽善者がいるではありませんか」。まことに結構。彼らは、あなたの側につくであろう。あなたを彼らは歓迎するであろう。だが、すべての真摯な人々によって私はあなたを責める。

 「しかし、祈っているのは真摯な人々だけではありませんよ」。まことに結構。あなたは、真摯でない人々全員をあなたの仲間にして良い。何と情けない集団であろう! 私は、あなたが彼らを自分のものとしたがる神経が分からない。だがそれでも、あらゆる真摯な信仰者は、神に嘆願するときに、いわばあなたに抗議しているのである。あなたの膝が全くかがめられず、あなたの心が決して、すべての霊の父[ヘブ12:9]としての神に叫び求めないことに異議を唱えているのである。ある人々は何週間も、何箇月間も、何年間も祈ることをせずに暮らしている。イスラム教徒や異教徒たちでさえ、あなたを叱責している。彼らは、その祈りを唱えることなしに一日たりとも生きようとはしない。小さなひよこは、流れで水を飲むとき、その頭を上げて、あたかも神に感謝するかのようである。あなたは、そのあわれな鳥にも劣っている。あなたは、樫の木の下でどんぐりを探すが、その木のことは何も考えない豚のようになり果てている。あなたは神の数々のあわれみを受けていながら、決して《与え主》に感謝することがない。おゝ、良心よ。もしも良心が残っているとしたら、神なしに生きようなどとする人間に叫ぶがいい。恥を知れ、と! そこで私は祈り深い人々にあなたを責めさせる。

 しかし次に、私は別の集団をも召集できる。私は、未回心の人々を、旧新両約の、霊感された聖書記者たち全員に責めさせよう。彼らをひとりひとり立ち現われさせ、彼らがよく云ったようなしかたで語らせよう。ただのひとりたりとも、自分のもろもろの罪を悔い改めようとしない人のために慰めの言葉を語ってはいない。贖罪のいけにえを受け入れる人に対しては、「あわれみを」、と彼らは一斉に叫ぶであろう。だが、もし人がキリストを信じようとしなければ、あらゆる預言者、また、使徒たちは、異口同音にこう云うであろう。「災いが、災いが、言葉に尽くせぬ災いが、キリストを離れて生き、かつ死ぬ者にあれ!」、と。御霊に動かされて語った人々[IIペテ1:21]全員は、一致して不敬虔な人々を責めている。

 しかし、私はこうした人々のいずれよりも多数の人々に言及しよう。それは、世を去った聖徒たちである。おゝ、もしもこの日、あなたが、その白い衣を着た彼らを見ることができるとしたら、また、彼らの神聖な歌を聞くことができるとしたら、それを見るためなら死ぬに値する光景であろう。また、その響きは――それを聞くためとあらば、地上の一切の声音が死の沈黙のなかで失われるに値するであろう! しかし、かりにあなたがた、未回心の人々が、この血で洗われた群衆の中で友人たちを探すようなことがあるとしよう。私にはこの光景が目に浮かぶ。あなたは、彼らがその栄光に富む隊伍となって立っている姿を眺めながら、こう云う。「私は神の敵です。祈りもささげず、悔悟もせず、恵みも持たない者で、いつまでもこのままでいたいと思っています。ですが、あなたがた全員の中で、誰か私の友となってくれる方はいませんか?」 あなたを見る目の中で、憤りに燃えないものは1つもないであろう。あなたをつかむために差し伸ばされる手は1つもないであろう。さあ! この長大な列に添って行進し、その喜ばしい顔また顔をのぞき込むがいい。あなたの強情な反逆に対する共感めいたものが少しでもあるかどうか見てみるがいい。彼らに問うがいい。罪の中にいるあなたのもとにやって来て、自分を助けてくれるよう、あるいは、悔悟しない自分を慰めてくれるよう彼らに懇願するがいい。ひとりでも、そうしようとする者がいるだろうか? 私はその全集会にあなたを責めさせる。そして、そこにひとりの人がいる。――あなたは彼女を覚えている。というのも、彼女は驚くべき変化をこうむり、至福の光景によって、そのあらゆる部分がこの上もない栄光で輝いているとはいえ、あなたは彼女を知っている。それはあなたの母であった。子どもの頃のあなたのために涙し、あなたのために祈りを口にしながら死んだ、あなたの母上であった。彼女に問うがいい。もし自分が回心することなく生きて、死んだとしたら、彼女が自分の友となってくれるかどうかを。すると、かつてあなたがしばしば愛情をもって眺めたその顔、また、あなたに対する愛で常に満ちていたその顔は、あなたから背けられる。彼女が何をすべきだろうか? たといわが子であるとはいっても、その子は御怒りを受けるべき子[エペ2:3]なのである。彼女はあまりにも《救い主》を愛しているため、《救い主》の敵どもに与することができない。地上では、あなたのために泣くことも祈ることもできた。だが彼女は、天国では他になすべき働きがあり、また、神のみこころに完全に同化してしまったために、その愛しい唇をもって、あなたが罪に定められることに対して最も厳粛な「アーメン!」を唱えるであろう。彼女もまた、忠実な人々の全群衆とともに、その判決が正しいと告白するであろう。あなたが地上で知っていて、今は天国にいる人々全員のうちで、あなたを愛することができる者はひとりもいない。あなたが心において更新され、変化しない限りはそうである。私は、あなたがたの中の多くの人々に前にして何度となく、私にできる限り平易なしかたで、真理を云い表わそうとしてきた。自分にできる限り真剣に語ろうとしてきた。だが、いったんこの正門を抜けて、あなたが来世に行ってしまえば、いかなる説教者も決してそこではあなたを煩わせない。死と地獄の影へと降ってしまえば、いかに真剣な声も、そこにいるあなたに懇願することは決してない。そこには、狂信者だといってあなたが馬鹿にできる者は誰もいない。そこには、あなたが、「何て気違いじみたたわごとだ!」、と云えるような説教は1つも聞かれない。あゝ、しかり! あなたには別の仲間がいて、別の務めがあるだろうが、神の教役者たち全員はあなたを責めるであろう。そして、あなたが地上で不敬虔な者のままであり続ける限り、彼らはあなたを責めている。私はいま、天国にいる贖われた人々の全群衆にあなたを責めさせ、そのすべての栄光をもって、あなたの生き方の過ちから立ち返るように、あなたに挑戦させる。その栄光が、あなたの悲惨さを際立たせ、増し加えることになるといけないからである。

 私はこうした地上のあらゆる聖徒たち、また、天国にいる栄光に富む霊たちに、御使いたちの全集団を加えなくてはならない。彼らは聖徒たちの友であり、仲間である。だが、彼らは決して不敬虔な者の友ではない。彼らは、もしあなたが悔い改めれば喜ぶであろう。だが、あなたが悔い改めない間は、私は彼らが、私たちの間における自分の使いを果たす際に、こう叫びたい気持ちになるに違いない気がする。「大いなる復讐の神よ。私たちにこの剣を抜かせてください。この反逆者どもを殺させてください!」 そこにひとりの男が立っている。先日、神を呪って、自分の五体をしなびさせてみやがれと云い放った男である。もしそのそばをひとりの御使いが通り過ぎていたとしたら、また、疑いもなく、そうであったに違いないが、彼は立ち止まって、身の毛もよだつ恐怖に駆られて空中に浮かび上がったのではなかろうか。彼が自分の魂の中で、このような男の近くにいるのは自分にとって毒であると感じ、熾天使らの振るう大剣を抜き放ちたい、その男を斬り殺したいと思ったとしても不思議ではない。御使いたちはあなたを責めている。その神聖な群衆の誰ひとり、神の敵である人間の味方にはならない。

 最悪のことがやって来る。神があなたを責めておられる。「主の御顔は悪をなす者からそむけられ、彼らの記憶を地から消される」[詩34:16]。神はあなたが救われてほしいと思っておられる。「わたしは誓って言う。――神である主の御告げ。――わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ」[エゼ33:11]。しかし、もしあなたが立ち返ろうとしなければ、あなたは焼かれなくてはならない。悔い改めようとしなければ、滅びなくてはならない。神はそう云われたし、偽りを仰せになることはない。正義がそれを要求しており、全世界を審くお方[創18:25]は正義でなくてはならない。

 そして、最後を飾るものとして、もしあなたが神の敵である決意を固めるとしたら、神の御子イエス・キリストがあなたを責める。キリストは罪人たちを愛しておられる。罪人たちのために死なれた。いつでも彼らを喜んで受け入れてくださる。だが、彼らが悔悟せず、信じないままとどまっている限り、キリストは彼らの罪を愛することができず、彼らを、強情で、かたくなな反逆者とみなし、彼らを愛することがおできにならない。そして、終わりの日に主が来られるとき、キリストを愛さない者に何が起こるか、あなたは知っているであろう。――彼らは、アナテマ、マラナ・タとなる[Iコリ16:22]。――主の来たるとき呪われる。キリストご自身がそう仰せになるであろう。そして、この事実をあなたに思い起こさせなくてはならないのはぞっとさせられることだが、――キリストご自身が、その、甘美な没薬を滴らせる百合の花のような、乙女のような優しい唇によって、再臨の時には、自らこう仰せになるであろう。「のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ!」[マタ25:41] あなたは、その最後の途方もない日に、キリストのうちに何の友も見いださないであろう。キリストは鉄の杖であなたを打ち砕き、焼き物の器のように粉々にするであろう[詩2:9]。それで、私はこの大集会によってあなたを責める。地上にいる聖徒たち、天上にいる聖徒たち、御使いたち、神、そしてキリストご自身があなたを責めている。

 誰があなたに味方しているだろうか? 誰があなたの側に立っているだろうか? おゝ、神の敵である人たち。あなたに味方している者どもを考えることは、あなたを責めている者たちについて考えるのと同じくらいすさまじいことである。というのも、あなたに味方し、あなたの側に立っている者どもは、あなた自身と同じように不敬虔な人々だからである。また、地獄にいる失われた人々である。――あなたも逃れない限り、今の彼らと同じような者にならざるをえない。――そして、悪魔とその使いたちである。――自分自身、自らのもろもろの罪ゆえに罰を受けている者どもである。――確かに、陰惨な集団があなたの味方である! 人は卒然として、こう云うはずだと思う。――「私は、このような連中とともにとどまることはできない! 私はこのような海賊船に乗り、このように物凄い乗組員とともに航海しているのか? サタンを船長として? 神の御名にかけて、私はこの船を飛び降りて、別の船に泳いでいこう。こんな船には決してとどまっていられないからだ。この黒旗の下では決して戦えないからだ。どれほどの賄賂を積まれてもお断りだ。私はサタンに仕えることはできないし、仕えるつもりもない」、と。愛する方々。もしあなたがそういうことを云うとしたら、私はここにイエスのしもべとして立って、あなたの上に掲げるであろう。血に染まったキリストの十字架旗を。おゝ、あなたがた、入隊金を受けとりたい人たち。ここにそれがある。来て、取るがいい。というのも、キリストを受け入れる者は誰でも――キリストを信頼することによって受け入れる者は誰でも――キリストのしもべとなり、十字架の兵士となる特権が与えられるからである。そのときには私は、その人を責める何の大集会も開くまい。むしろ、同じ威厳ある大集会がイエスを信ずる信仰によって救われた人の味方となる! 願わくは神が、この言葉を有益なものとしてくださり、キリストがその栄光をお受けになるように!

 しばし私は話の調子を変えて、だが、同じ観念と密接に結びついた話をしたい。ある人々によると、罪は非常に快く、有益なものだという。実際、多くの人々は近頃そうした意見を公言している。この場にもそうした人々がいるかもしれない。特に、人生に乗り出したばかりの一部の青年たちがいるかもしれない。ロンドン暮らしの魅惑に心奪われ、見知らぬ女の家で売られている、危険な葡萄酒をすすり始めた人々である。彼らにとって、悪徳は快楽と思われる。おゝ、若い人よ。私はあなただけを一室に伴い、そこで話して聞かせることができたらどんなに良いかと思う。というのも、私があなたに個人的に、熱心に語ってやりたいある種の事がらは、公の集会ではほのめかす程度しかできないからである。罪の種々の結果は、私がこの場で語ることができるようなものではない。あなたは途方もない迷妄の下にある。もしあなたが罪によって快楽を与えられると考えているとしたら、私は大集会を開き、そうした夢についてあなたを責める。おゝ、もし私が数々の病院からそのみじめな人々を連れ来たるとしたら、それは何という大集会となることであろう。彼らは、自らのもろもろの罪ゆえに生き地獄を味わっているのである! 私は彼らを見てきたではないだろうか? 彼らが地上を這いずるのを見てきたではないだろうか? あえて上を見上げることもできない、沈鬱症の、意気阻喪した、絶望した者らである。悪徳以外の何物も人間の上に持ち来たらせることのない絶望にかられた者らである。私は見てきたではないだろうか? 彼らの骨そのものが、彼らの罪ゆえに腐り果てている姿を。そうした病は、そむきの罪に対する《永遠者》の呪いの刻印であり証印である。こうした病は、地獄の途轍もない大嵐がもたらす永遠の豪雨の、最初の大粒である。もしこの場に医者か外科医がいるとしたら、その人はあなたに告げることができるであろう。いま世で普通に犯されているいくつかの罪は、現世においてさえ、この上もなくすさまじい罰を人々にもたらすということを。地獄の炉はむさぼり食らっている。だが、ネブカデネザルの護送兵たちと同じく、現世にある人々も倒されて、永遠に灼熱して赤々と燃える火の熱のため殺されている。罪の種々の結果の一部を、神が現世でも人々にやって来ることをお許しになるときそうである。私は今晩、もしそれがふさわしく適切なことだとしたら、ここに酒食、博打で身代を潰した者らを引き出すことができるであろう。若い時代、あらゆる放蕩に浪費し、襤褸と病を身に招いてきた者らである。浮浪者の一時収容所を視察し、救貧院の中に入り、安下宿屋で一泊し、話を聞くがいい。教役者の息子たちや、紳士階級の息子たちや、貴族の息子たちや、かつては商人であり貿易商であり法律家であり博士であった人々の話を。ただ自らの無節制と罪だけのために、身を持ち崩し、乞食暮らしをし、その苦い運命においてさえ欠乏するようになった人々の話を。罪が快楽であるなど悪い冗談である! あなたがそれを堪能することもありえないではない。だが、それはじきに苦味となり、真に賢い者らはそれから逃れるものである。

 「よろしい、よろしい」、とある人は叫ぶであろう。「私たちは、必ずしも全員がそうした種類の罪を愛するものではありませんよ」。実際、私はあなたがそうしていないことを願っている。私も、そうした罪はお断りであった。だが、私には、別のいくつかの罪があった。――世間では、罪と呼ばないだろうようなものだが、罪であることに変わりはなかった。――そして、《救い主》を見いだす前に、私は罪がいかなるものかを見いだし始めた(私は、今の私が知っていることについて語っている)。私のもろもろの罪は、私の良心の中においては、私にとって小さな地獄であった。私は知っている。救われていない人々は、時として暗い闇夜に、あるいは、病のとき、あるいは、苦難の中にあるとき、あるいは、ひとりでいるとき、その良心がひとりでに働きだすであろう。そして、すさまじいばかりに落ち着かないものを感じるであろう。私は、自分の友人が死んだと知らされて、あなたの頬が青ざめるのを見たことがないだろうか? 葬儀の弔鐘が鳴っているとき、あなたは自分自身、それが聞こえなければいいのにと森の奥で願わなかっただろうか? あなたが、いやでもひとりきりでじっと座っていなくなてはならなくなったとき、あなたは自分の精神が永遠について黙想しだすのを恐れた。むしろ再び、つかの間の軽薄な物事に急いで飛んで行こうとした。そうした物事は全く愚にもつかないものだと感じていたが関係ない。罪はみじめなものであり、良くてせいぜい不満足なものである。イゼベルの顔のように[II列9:30]、化粧を塗りたくったもろもろの罪でさえ、真に美しくはない。人々が不道徳と呼ぶものは、いかに控え目に云っても、それ自体みじめである。そして、ひとかけらでも常識があれば、人は見てとることができるであろう。自分の悲惨さが、自分の快楽をはるかに上回っていることを。私は大集会を開いて、不義には快楽があると宣言する人を責める。

 それとは逆に、真のキリスト教信仰は人々をみじめにすると云われている。私は大集会を開いて、そのように云ういかなる人をも責める。先に私はこう考えていた。あなたがた、キリスト者であるがゆえに不幸になっているという人たちに今晩、キリスト教を責める証言をするよう求めようかと。だが、後で私は、ことによると、それを逆さまにできるかもしれないと思った。それで、あなたがたの中にいる、《救い主》を愛し、《救い主》のうちに慰藉と幸福を見いだしている人々に、私とともに私たちの喜ばしい賛美歌の1つを歌わせよう。そして、方々。私はあなたに請け合うが、私たちはこの大きな丸天井を私たちの強大な音楽で満たすことであろう。不幸だと! キリスト者であるがゆえに不幸であると! 私は、この場にいるほとんどの人に負けないくらい肉体的な苦痛を受けてきたし、時には誰にも負けないほど精神の抑鬱を味わってきた。だが、私の《主人》への奉仕はほむべき奉仕であり、このお方を信ずる信仰は私の心を喜び躍らせてきた。私は、イエス・キリストを信ずる信仰を捨てなくてはならないとしたら、世界中で最も健康な人とも、最も裕福な人とも、最も学識ある人とも、最も卓越した人とも、入れ替わりたいとは思わない。――時として信仰ゆえにいかに試みられようと関係ない。あゝ! キリスト者であることはほむべきことであり、神の民はみなあなたにそう云うであろう。私たちはしばしば病人の見舞いに行かなくてはならないことがあるが、病んだ信仰者たちは全く私たちの心を元気づかせてくれる。その、すぐ下にある1つの座席は、あなたがたもよくご存知の、ひとりの愛する姉妹がよく占めていた座席である。私は病床のもとにある彼女の見舞いに行ってきたが、あなたがたにこう請け合うことができる。彼女が肺病にかかり、死にかけていたとき、私は彼女とともにいるときほど幸いな一時間をどこでも過ごしたことはなかった、と。そして、ほんの先週、つまり、十日前に、私が彼女の傍らに座ったときには、彼女はほとんど口をきくことができなかったが、それでも、彼女が実際に口に出したことは、言葉が達することのできる限りの神聖な喜びに満ちていた。彼女はいま天国にいるが、天国はそのときから彼女の中にあった。「私は、ずっとずっと近づいてます」、と彼女は云った。「あの、素晴らしい国へ。――この苦しい息が少なくなればなるほど、この激しい痛みを耐えれば耐えるほど。私は、じきに、イエス様がおられる所にいることになります」。そして彼女は、死ぬことや、故郷に向かうことについて、私がこの集会が終わってから帰宅することについて語るのと同じくらい、はばかりなく語った。昨日の十二時頃、その眠りにつく前の彼女は、回りにいる人々に、まるで川を通り抜けて行くような不思議な気分がすると語った。ある時など、自分はその川の真中にいて、大水が回りにあります、とも云った。それからすぐに、途切れがちな意識の合間に云った。「私は向こう側に上っていきます。水が浅くなってきました。向こう岸に上っているところです」。とうとう彼女は叫んだ。「イエス様が私の方に来られます! 天国の調べが聞こえます!」 彼女の心は、何らかの甘やかで神秘的な旋律で圧倒されているかのように思われた。彼女の魂の中に、耳から入りはしなくとも、ともあれ何かの別の経路を通じて内奥の霊に達した旋律である。「歌声が聞こえます! 歌声が聞こえます!」、と彼女は云った。「ああ、イエス様が来られるとき、私を待たせないでください。立ち止まらせたいと思わないでください。行かせてください」。彼女は行った。私は死に間際にこれほど苦しんだ人はいないと思う。これほどの呼吸困難を伴う肺病を得た人はいないと思う。神に感謝すべきことに、彼女ほど苦しむ人はめったにいない。だが、臨場の床の上にあって、他のいかなる人にもまして静謐で、慰めに満ち、喜ばしくしていたのは、この患難の娘であった。

 私は、神ご自身と、私の魂に対していなされた神ご自身に関する神の啓示以外に何の証拠がなくとも、神を信ずる。だがしかし、私は種々の証拠のゆえに神に感謝する。そして、そうした証拠の中で何にもまして私にとって助けとなるのは、信仰者たちの臨終の床である。現世を離れる際の主の民を見ることは、私の魂に大きな善を施す。私は、あなたが天へ取り去られてしまうことを悲しく思う。あなたが地上にいてほしいからである。だが、あゝ! もしあなたがたの中の誰かの出立が、最近私が目にする特権を得たような甘やかなものとなるとしたら、私はこの講壇に大胆にやって来るであろう。もしも私が教えているキリスト教信仰が、人々をこのように死なせるものだとしたら、私はそれを宣べ伝えることを恥とはしない。もしも私が聖霊の力によって彼らに伝えてきた信仰が、彼らを死の間際においてもあれほど勝利に満ちた者とするとしたら、私は他の何をも伝えず、ただこう告げ続けるであろう。イエス・キリストの代償的いけにえを単純に信頼するがいい。そして、そこにだけ全く信頼するがいい、と。そのとき私は、いま喜んでいる生きた聖徒たちにより、また、恐れなく死ぬ臨終の聖徒たちにより大集会を開き、真のキリスト教信仰が人々を幸福になどしないと云って中傷する人を責めるものである。

 私には他にも数多く云うべきことがあるが、ここで話を終えるのが良いであろう。ただ私は祈るものである。時の短さにかけて、死の突然さにかけて、審きの確かさにかけて、地獄の恐ろしさにかけて、天国の栄光にかけて、あなた自身の魂の尊さにかけて、イエスの血にかけて、そして、永遠の神の栄光にかけて、あなたが神の敵であるのをやめることを。御顔を慕い求めるがいい。「悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから」[イザ55:7]。「主イエス・キリストを信じなさい。そうすれば、あなたも救われます」*[使16:31]。というのも、「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます」[マコ16:16]。そこから、神があなたを救ってくださるように! アーメン。

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説教前に読まれた聖書箇所――イザヤ1:1-20


『われらが賛美歌集』からの賛美―― 387番、34番、514番

 

あなたを責める証言[了]

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