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下り勾配ゆえの悲歌と信仰ゆえの歌

NO. 2085

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1889年4月18日、木曜夜の説教
説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「すべてこれのために悲しむ者よ。これとともに喜び喜べ」。――イザ66:10


 悲しむ人には、だれしも関心を持つものである。私たちは、陽気にはしゃいでいる人々のことは、気にもとめずに通り過ぎるが、喪章を目にすると立ち止まり、あえて尋ねはせずとも、遺された人々の胸中を思いやる。寡婦になったばかりの婦人、父を亡くした子どもたち、妻に先立たれた夫、――こうした人々の来し方行く末に私たちは、同じ人間として思いを馳せざるをえない。「自然の情に打たれるとき、全世界は親族となる」。そして、その自然の情が悲しみという手によってもたらされるとき、その親族意識はたちまち立ち現われるのである。

 さて最も見上げた種類の悲しむ人とは、その悲嘆が利己的なものでも、卑しいものでもない人にほかならない。他の人々のために霊的な悲しみをいだいている人は、自分の個人的な災難を嘆いている人よりも、一段高貴な立場にある。この人は、単に個人的な困難という避けがたい重荷に肩を落としているのではなく、この命令に従っているのである。「互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい」[ガラ6:2]。中でも最もすぐれた種類の悲しむ人とは、シオンの中で悲しむ人、シオンのために悲しむ人、シオンとともに悲しむ人である。というのも、都を愛することによって彼らは、その《王》を愛しているからである。キリストご自身がやって来られたのは、「シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、……憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである」[イザ61:3]。恵みの働きの中でも決して小さくはないもの、それは、人をキリストと1つにし、キリストの神秘的なからだと1つとして、キリストおよびその花嫁とともに悲しませるほどにすることである。神の道が衰弱すると、自分も衰弱せざるをえない。これは、恵みが活発に活動している目印である。この天的な悲しみ方を心得ている人々が、喜ぶように呼びかけられているのである。「すべてこれのために悲しむ者よ。これとともに喜び喜べ」。

 このたとえを取り上げるとき、私は最初、内側にも外側にも哀歌が記された巻物を取り上げているかのように見えるであろう。私が最初の項目として問いたいのは、エルサレムとともに悲しむのはだれか、ということである。次に私は、慰めの杯を手から手へと渡して、なぜ彼らはエルサレムとともに喜べるのか、ということを考察しよう。第三に私は、ひとりひとりの方々に、この問いかけをつきつけようと思う。すなわち、なぜ私たちは個人的に「エルサレムとともに」悲しむべきなのか。確かに私たちはみな、ひとりひとり、ここに受けるべき分があるに違いない。

 I. 《エルサレムとともに悲しむのはだれか。》 神の教会を愛し、その繁栄を願う人々である。そして、その繁栄が見てとれないとき、彼らは霊において沈鬱になるのである。いま現在、そのように沈鬱になるべき原因はきわめて数多く見られる。

 何にもまして神の民の心を重く沈ませること、それは、教会の有する福音の栄光が減退していく有様を目にすることである。かつては神の無代価の恵みの福音が、さながら喇叭の響きのように、わが国の至る所の講壇から鼓吹されていた時代があった。だが、それは昔日の夢である。何年か前までは、非国教徒の礼拝所に入りさえすれば、まず間違いなく福音を聞けると当てにすることができた。だが近年は、そのように当てこむことができなくなっている。場所によっては、偽りの教理が公然と教えられているか、ひそかに唱えられているからである。以前の善良な人々は、互いの教理体系の形式については意見を異にしていた――これは、今後も常にそうであろう――が、根本的な点については一致していた。今はそうではない。私たちの主の《神性》、主の大いなる贖罪の犠牲、主の復活、悪人に対する主の審きといった点は、これまで一度も教会内で議論の余地があった試しはない。だがそれらが今では疑問視されているのである。聖霊の働きは、口先では敬われている。だが、御霊を人格としてではなく、単なる影響力としてしかみなさないような人々に、いかなる信頼を置けるだろうか? 神ご自身すら、一部の人々にとっては非人格的な存在、あるいは万物の魂なのである。それは、何物でもないと云うにひとしい。汎神論は、一皮むけば無神論である。私たちが子どもの頃から理解してきたような聖書の十全霊感は、一千もの陰険なしかたで攻撃されている。アダムの堕落は寓話として扱われ、原罪と、転嫁された義とは、どちらも公然と罵倒されている。恵みの諸教理について云えば、それらは完全に時代遅れのものとして嘲笑されており、律法の厳粛な拘束力すら、暗黒時代のこけおどしであると鼻で笑われている。洟垂れの阿呆にとって、福音の昔ながらの偉大な諸教理は、罪人たちを回心させ、聖徒たちの徳を建て上げ、イスラエルに神がおられることを世に知らしめてきたものである。だがこれらは、現在の文化的で優越した人種にとっては、古臭すぎるのである。彼らは、《民主的社会主義》による世界の再生を目指しており、新生も罪の赦しもなしに、キリストのための王国を設立しようとしている。確かに、主はバアルに膝をかがめていない七千人を取り去ってはおられないが、ほとんどの場合彼らは、オバデヤがほら穴に隠した預言者らのように、姿が全く見えない。この終わりの日の福音は、かつて私たちが救いを受けた福音ではない。それは、私の目には、変幻自在の目まぐるしい混乱に見える。その創始者たちの告白するところ、それは現代の成果であり、さかんに吹聴される「進歩」の鬼子であり、自負心の大釜から浮かび上がった灰汁である。それは、神の無謬の啓示によって与えられたものではないし、そうしたものであるとふれ込まれてもいない。それは、天来のものではない。霊感された聖書には全く根拠を置いていない。それは、十字架についてふれる際には敵であり、そこで死なれたお方について語る際には、欺きに満ちた友である。代償死という真理に対しては、数多の軽蔑が浴びせかけられている。それは、尊い血潮が言及されると怒りに駆られる。かつてはキリストが、その贖罪死のあらゆる栄光とともに高く掲げられていた多くの講壇は、今では、信仰による義認にけちをつける者どもによって汚されている。実際、いま人々は信仰によってではなく、疑いによって救われるべきだというのである。神の教会を愛する人々は心重く感ずる。人々の教師たちが彼らを誤らせる元凶となっているからである。国家的な見地からすら、先見の明のある人々は、深刻な懸念をいだくべき原因を目の当たりにしている。クーパーはその時代に、いま思い出されるに値する言葉を歌っている。

  「国々が、その罪によりて滅びるは、
   教会に、らいの病ぞ 起こるとき。
   真心こめて 泉をば見張り、
   清く守るべき 司祭らが

   迂闊にも 頭を垂れて船を漕ぎ
   余所者が毒を 群れの飲料に投ずを見じ。
   疑い知らぬ羊たち それを浄しと信じ込み、
   ほかならぬ 癒す手段に汚されて、

   次々と 病める斑を 伝染(うつ)し合い
   あまねく穢れの先棒かつげり。
   かくて真理は封じられ、異端の教え広まりて、
   理性に届かぬ ものみな屑と みなされん」。

グラスゴー市の古い標語は、「みことばの宣教によりグラスゴーを栄えさせん」、であった。わが国は、みことばの宣教によって繁栄してきた。そして、神によってわが国は、そのプロテスタント主義キリスト教を力の源泉として、卓越した地位に引き上げられた。だが、わが国がそのキリスト教から離れるとき、その偉大さを保つべき理由はやんでしまうであろう。このことを私たちは悲しむものである。

 悲しむべきもう1つの原因は、目に見える教会の聖さが、見るからに曇らされていることにある。私は、ありもしないあらを好んで探す人間ではないと思っている。だが私は、目を開いて私たちの諸教会を見るとき、三十年前には夢にも思われなかったようなことが行なわれているのを見てとらざるをえない。娯楽という点で信仰告白者たちは、放縦の道をはるか先まで突き進んでしまっている。さらに悪いことに、今や諸教会は、人々を面白がらせることこそ自らの義務であるとの考えをいだいているのである。かつては観劇に抗議していた非国教徒たちは、今や自分たちのもとに劇場を来させている。多くの教室で演劇が許されているのは、ありうべからざることではないだろうか? もし律法の厳格な執行を心がけるとしたら、芝居をするのを禁じる必要があるのではないだろうか? あえて私は、教会主催の慈善市や小間物市でなされてきたことにふれはすまい。たといこうした催しが、お上品な世俗の人々の手で切り回されていたとしても、これ以上にひどいものになりえていただろうか? まだ手をつけられていない愚行が何か残っているだろうか? 自分はこの世のものではないと云い、分離した生き方によって神とともに歩むよう召されていると云い、神の子らであると告白している人々の良心にとって耐えがたほど愚劣なことが何かあっただろうか? この世は、そうした人々が勿体ぶって何を云おうと偽善とみなすものである。そして私も、実際それを他にどう呼べばよいか知らない。考えてもみるがいい。神との交わりを楽しんでいるという者が、衣装をつけて道化を演じているのである! 密室の祈りによって神と格闘していると語る者が、公然たる賭博によって、この世をもてあそんでいるのである。一体これが正しいことだろうか? 善悪はその所を替えたのだろうか? 確かに、心の中の恵みのみわざと首尾一貫した、節度ある行ないというものはあるに違いない。また、悪の霊に牛耳られていることを如実に示す軽薄さというものはあるに違いない。あゝ、方々! かつては、キリスト者たちが几帳面すぎた時代もあったかもしれないが、私の時代はそうではない。かつては、清教徒的な硬直さといった不快なものもあったかもしれないが、私はそれを見たことがない。そのような悪が存在したことがあったとしても、私たちはそれから全く解放されている。私たちは自由から放縦に行き着いてしまった。胡乱な所を通り越し、危険な所へ至ってしまった。そして、その行く手の果ては、だれにも予想がつかないのである。今日、神の教会の聖さはどこにあるのだろうか? あゝ! 教会がその告白通りのものであったとしたら、彼女は「月のように美しい、太陽のように明るい」ものとなり、「旗を掲げた軍勢のように恐ろしいもの」となるであろうに[雅6:10]。だが今の彼女は、くすぶる燈心のように煙っており、敬意の的というよりは嘲りの的となっている。

 ある教会の影響力の目安は、その聖さによって測れるのではないだろうか? もし信仰を告白する大量のキリスト者たちが、家庭生活や職業生活の中で御霊に聖められているとしたら、教会はこの世の一大勢力となるであろう。神の聖徒たるもの、これほど霊性と聖さが衰退しているのを見るとき、エルサレムとともに嘆いてよい! 他の人々は、大したことではないとみなすかもしれない。だが私たちはこれを、らい病が吹き出したものと考える。

 さらに教会内では、その聖なる熱情が冷えつつあるように見受けられる。今なお、一部の信仰者たちの中には熱誠があり、それも最上の種類の熱誠がある。天来の御霊は私たちから完全に離れ去ってはいないからである。私たちの周囲には、イエスのためなら何でも行なおうとし、実際に行なっているキリスト者の男女がいる。彼らは天下の公道でイエスのために証しすることもいとわない。神に感謝せよ! 彼らはなまぬるい時代に逆らい立つ抗議者たちにほかならない。また、コンゴ川の熱暑のただ中で異教徒にキリストの御名を伝えるため、自分のいのちを投げ出そうとする、恵みに満ちた青年たちもまだまだいる。《贖い主》の御国を進展させるために日夜労する忠実な人々の種にも、おびただしいものがある。それでも、イスラエルの状態は私たちが願っているようなものとはほど遠い。最近の信仰者たちが狂信的だと非難されることはまずないし、熱狂的すぎると非難されることすらめったにない。これは、私たちが正しい熱烈さに達していないしるしである。私たちは、世から狂信者だと呼ばれるとき、私たちの主に当然ささげるべき熱情に近づいているのである。もし私たちが本当に狂信的になるなら間違いであろう。だが、世が誤った判断を下しがちなものである以上、そう呼ばれるとき私たちは、自分の暖かさが冷えた世に迷惑をかけるほど熱心なだけだと結論してよい。おゝ、ラザフォードのごとき情熱的な愛があれば、どんなによいことか! おゝ、ホイットフィールドのごとき激越な熱心、ウェスレーのごとき不屈の決意をもって人々の魂を追い求めることがあれば、どんなによいことか! おゝ、天来の同情心の情動につき動かされることがあれば、どんなによいことか! おゝ、私たちの《王》であり、私たちの主であり、私たちのすべてであられる方への完全な献身があれば、どんなによいことか! 主の栄光こそ私たちの人生の唯一の目的たるべきである。多くの教会や個々人について云うと、彼らは冷たくも熱くもないと悲しむべき理由がある。私たちは、個人的に、また実際的になって、その点で自分に悲しむべき理由がないか探ってみよう。

 シオンには嘆くべき深刻な原因がある。なぜなら、神の家の礼拝がないがしろにされているからである。かつては壁際まで人でひしめいていた一部の大きな礼拝所では、今や人間よりも空席の方が多いと聞く。何にもまして詐欺同然と云えるのは、この大首都にある種々のキリスト教施設である。というのも、ここにはおびただしい数の教会や会堂があり、これ以上の建設は全く不必要のように見えるが、よくよく調べてみると、場合によっては笑えるほど僅少な会衆しか集っておらず、たといその建物が存在しなくなっても、波しぶき一滴ほどにも惜しまれないだろうからである。「私は、自分の回心者たちをどこへ送れば、彼らがちゃんとした福音を聞けるのかわかりません」、とひとりの伝道者がある日私に、ロンドンのある地区に関して云った。どうしても認めざるを暗鬱な事実は、礼拝の場所に通うという習慣が、この街では完全に失われつつある、ということである。神の家に出席する習慣のある人がひとりか、ふたりしかいないような通りはごまんとある。安息日に礼拝の場所に行く人が奇異な目で見られさえする。私は、ある人のことで面白い思いをしたことがある。その人は、ある木曜日の晩、このタバナクルに出席し、その集会に非常に興味をそそられたので、毎木曜日にやって来るようになった。だが、ひとりの友人が彼に、「日曜日には来ないのですか?」、と聞いたところ、彼は答えた。「いやあ、私はそこまで行っちゃいませんよ。自分が日曜に教会に通う人間になれるなんて思えませんね」。私たちの観点からすると、平日に話を聞きに来る人は、主の日しか出席しない人よりも高く評価できると思う。だが、彼の観点は非常に異なっていた。平日の間なら、彼がどこへ行こうとだれも非難はしなかったであろう。だが、安息日を守ることは決定的な一歩であって、彼はその覚悟がまだできていなかった。というのも、それは、宗教がかっていない奴という、仲間うちでの評判を失うことを意味していたからであった。このわらしべは風の向きを示している。悲しいかな! かつて安息日を守ることは義務と考えられていた。だが、今では安息日は、遅くまで寝床に入っている日、しゃちこばらずにのらくら過ごす日、あるいは、兎小屋や鳩小屋を修理する日なのである! 私が誇張していると考えてはならない。私は、真面目に、真剣に、悲しい真実を語っているのである。それこそ、都市宣教師や、地区訪問者や、そうした地区で暮らしている労働者たちから聞かされている真実なのである。わが国の多くの村々や田舎町には、まだまだ教会や会堂に通う健全な習慣がある。そうした地域においてすら、以前ほどそれは一般的ではなくなっているが。だがロンドンでの一般的な習慣はその逆である。これは嘆かわしいことである。いかにしてこのような事態が生じたのだろうか? 大部分の場合それは、たとい人々が出かけていっても、多くの礼拝所で耳にすることを理解できないからではなかろうか。否、さらに悪いことに、たとい彼らが理解したとしても、それが彼らにとってほとんど何の役にも立たないものだからではないだろうか。そう私は恐れるものである。現代思想に関する種々の批判など、労働者にとっては無価値である。もし昔からの福音が、その素朴さの限りを尽くして前面に押し出され、熱情込めて説教されるとしたら、人々がそれを聞きに戻って来る姿を見る望みもあろう。だが、彼らを呼び戻す務めは容易なものではない。ものを疑う神学がはびこるのと全く符合して、こうした宗教的無関心がやって来るのである。いま横行している形式の教理によって、私たちの街はキリスト教的というよりも純然たる異教的なものになりつつある。迷信的な礼典形式主義の幼稚さと、意識的な疑問という邪悪さの間で、大衆は聖なる物事を全くないがしろにする方向へと滑り落ちつつあるのである。尊崇の念は死に絶えんばかりであり、それが完全に死に絶えたとき、そこにはすべての秩序を破壊しようと熾烈に求める動きが生ずるであろう。

 私がいま嘆いている悪は、外部の一般大衆の間でだけはびこっているのではなく、キリスト者たち自身をも汚染している。あなたの教会の礼拝堂を眺めてみるがいい。――日曜だけの信仰告白者たち、一回だけの礼拝で事足れりとし、それにすら飽き飽きしている! 祈祷会について、多くのキリスト者はどうしているだろうか? 祈祷会は教会の働きの心髄であり、私たちのあらゆる霊的活動への祝福を引き下ろすものである。だが祈祷会は、教会内のお高くとまった人々から軽蔑されている。多くの会堂では、平日の間に二度も集会を行なうのは、教役者の体力にあまりにも大きな努力をしいるもの、その聞き手の時間にとってあまりにも大きな負担をしいるものとなっている。彼らは、ホイストや芝庭球といった、一段とすぐれた気晴らしのために多忙なのである。一週間に二晩もやって来ることはできない。そのようなことを、一体だれが求めるというのだろう? そこで、板挟みになった人々を救済するため、1つの妥協がひねりだされた。彼らは、半分は講義で、半分は祈祷会であるような種類の集会を作り出し、宗教上のお勤めを一回で全部すませてしまえるようにした。そして、その一回の集会すらごくごく貧弱に営まれているのである。これは、それ自体悪いものであるばかりか、それ以上に悪いもののしるしである。他の人々の徳を建て上げられるように祈れる人々は、ある方面では、まれになりつつある。ある牧師が前に私に告げたところ、相当の人数の会衆がいるというのに彼は、祈れる人があまりにも少ないため、祈祷会を開くのが困難であることに気づいたという。これは諸教会に対するすさまじい告発である。だが、誠実であろうとすれば、事がさらに悪化する前に、はっきりそれを公にしておかなくてはならない。演奏会を群衆でいっぱいにすることはできても、祈祷会に十数人も連れてくることができないのである! 私は自分が何を云っているか承知している。こうしたすべてのことのために、シオンの往来が衰退しているのである。――かつては最もよく踏みしめられていた道々、すなわち、祈りと賛美の道が衰退しているのである。確かに主は、このことゆえに諸教会を訪れなさるであろう。大いなる例外も散見はされる。神は感謝すべきかな。だが、それでもこの事実は変わらない。――純粋に霊想的な集会は軽んじられているのである。人々は、才気走った人間の話を聞くためにはやって来るが、神を待ち望むために来ようとはしない。幻灯機や、貧民のための割安朗読会や、滑稽詩の朗誦会があれば、宗教熱心と云われる人々は何としても出席しようとするが、祈ることなど、小説読みの、劇場通いの信仰告白者にとっては、つまらなすぎるお勤めなのである。こうした評言は、年季を積んだ善良な信仰者たちにとっては異様なものと思えるであろう。だが、それを聞き、それが真実であると知ったとき、彼らは、否応なしにシオンとともに嘆く者たちの間に座を占めるに違いないと思う。

 もう1つ、あらゆる真のキリスト者にとって非常に大きな、また深刻な嘆きの種は、救われないままとどまっている、おびただしい数の罪人たちである。おゝ、話をお聞きの愛する方々、あなたは魂にとって救われないとはいかなることか、一度でも悟ったことがあるだろうか? もしあなたが、帰宅途中で屍体につまずいたとしたら、あなたは身を屈めて目を凝らし、その人が本当に死んでいるかどうか確かめるであろう。そして、自分がこれほど死人の間近にいることを知って、何と肝を潰すことであろう! あなたはそのことを何週間も忘れまい。だが人間は、罪過と罪との中に死んでいる者であって、私たちはそれを信じているのである。だのに、それは別段私たちに影響を及ぼさない。主よ、私たちを目覚めさせたまえ! もし私たちが刑務所の構内を通り抜け、鎖につながれた人を目にし、彼の足枷の鎖がジャラジャラ鳴るのを耳にしたとしたら、その鉄は私たちの魂に入り込み、私たちはその囚人のために悲しく感じるであろう。だがしかし、この会衆の私たちの周囲には、罪の鎖にがんじがらめにされた男女がいるのである。だのに私たちは、彼らのために心を痛めることがない。彼らの束縛に気づかない。その事実を論ずることもなければ、その悲しみを感ずることもない。私たちの身の回りにいる多くの人々を眺めてみるがいい。公然たる悪の中で生活し、自らの情欲を追求し、自分の破滅となるに違いないものの中へ日増しに沈み込みつつある。眺めてみるがいい。こうした、目はあっても盲人で、耳はあっても聞くことなく、理性ある存在であっても感覚のない多くの人々を! それに私たちはいかにして耐えられようか? いかにして私たちは耐えられるのか? 自分たちの間には、神を知ることなく、主イエス・キリストを愛することなく、いまだ自分の罪の中にいる人々がいるのである。もし不敬虔なある人が自分自身の状況を悟ることができたなら、その人は自分の座席に静かに座ってなどいまい。また、もし私たちに思いやり深い心があり、自分の子どもたちが、愛しい親族が、あるいは最も近しい隣人たちが、罪のゆえにさばかれており、一瞬ごとにすさまじい審判に近づきつつあるという事実を明確に見てとれたとしたら、私たちは自分を奮い立たせ、滅びつつある者らが救われるまで、昼夜を問わず一心不乱に神に叫ぶべきである。救われていない魂を見るとき私たちは、[石となって涙を流し続けた]ニオベーと化し、あわれに思う悲嘆の涙を絶え間なく流し、あわれみの腕が介入して救いを成し遂げるまで、そうしているべきである。

 真実な心にとって、最も暗澹たる考えは、魂がまさにいま失われている一方で、悪はここで終わらない、ということである。否、魂は、私たちの主が、そのうじは尽きることなく、その火は消えることがないと語られた、来世の絶望的な状態へと過ぎ行きつつある。魂は、あわれみが宣告されている現世から、「離れ去れ、のろわれた者ども」、との審きの声が叫ぶ、あの恐るべき法廷へと向かいつつある。彼らは、あの大きな白い御座の前へと先を急ぎつつある。救われも、更新されも、赦されもしないままに! おゝ、神よ。願わくは、私たちの同胞をあわれみたまえ。しかし、まず私たちに、彼らをあわれむ恵みを与えたまえ! ある魂が失われているのを見ても、苦悩を感じずにいられるような者に、どうして神の愛がとどまっているだろうか? 人々が福音のもとで故意に滅びつつあるとき、私たちは悲しみで満たされるべきである。失われた魂の恐るべき絶望的な未来について私たちが本気で信じているなら、それは私たちの心を引き裂くはずだ、と敵が私たちに告げるとき、私たちは彼らの言葉の正しさを認める――最大限度まで認める。しかし私たちはこう答える。もし私たちが、聖書で明白に教えられていると自分に思われる、このすさまじい真理を信じていながら、真にそうあるべきほど心優しくなっていないと彼らが云うのであれば、私たちは、彼らの云うことを聞いて、いま信じているものを疑うようになった場合、途方もない無感覚さに下っていかずにすむだろうか? もし彼らが私たちに、そのぬくい作り事を納得させ、彼らの「より広い望み」を受け入れさせることができたとしたら、私たちは、親切にも彼らが今の私たちにも多少はあると云ってくれているような、ごく微量のあわれみすらなくしてしまうのではないだろうか? 兄弟たち。私たちは――大した自慢にはならないが――彼らと同じくらいに同情深くはあるのである。少なくとも私たちは、あえて不人気を買い、知者や識者の嘲りと非難をこうむろうとも、人々が自分自身に招き寄せつつある、すさまじい災厄について正直な警告を与えようとしている。彼らは、私たちの宣べ伝える地獄について、まるで私たちに非があるかのように語る。では、私たちの説いている天国についても、同じくらい栄えある取り前を認めてくれないだろうか? 天国も地獄も私たちの作り出したものではない。だが、少なくとも彼らは、片方だけを私たちの責めに帰さないようにするがいい。私の兄弟たち。《救い主》を故意に拒否する人々を待ち受ける、来たるべき世の恐怖は、彼らよりも私たちに、いやまさって影響を及ぼすべきである。この世のだれにもましてそれを進んで認めるのは私たちである。私たちは、この時代のしるしを、同胞たちの滅びを、心に銘記しよう。彼らは神を愛しておらず、神の愛する御子を信頼しておらず、罪にのぼせあがり、聖さに敵対している。これは敬虔な心にとって非常な重荷である。彼らは自分たちの罪の中で死にかけており、永遠の刑罰のもとに進みつつある。そして、こうした事がらによって私たちは、シオンで嘆く者となるべきである。それらが心を非常に重苦しくすると云っても云い過ぎではない。

 私はいかなる人も、教会の状態について本気で考え、教会に関してのこの世の状態に目を向けるなら、ひねもす陽気に通りを闊歩できはしないと思う。他の諸真理の働きによって喜びはするが、この真理によって下に引きずられるのである。私たちは、ひとりきりになり、主の前で自分の心を水のように注ぎ出し、このように叫ぶときがなくてはならない。「おゝ、主よ。いつまで待てば、あなたはあなたの救いの力を発揮してくださるのですか? いつまで待てば、あなたの御腕が現われ、堕落した幾百万もの人々を救済する恵みのみわざが行なわれるのですか?」

 II. ここまで私がまがりなりにも示してきたのは、私たちには、あふれ流れる悲嘆の泉がないわけではない、ということであった。さて、愛する方々。今からは、ここまでの嘆きの調子を変えるべきときである。願わくは主が、あなたのあわれみの泉を流れさせてくださるように。だが、それと同時に、私が第二のこととして云うことにも、あなたをついて来させてくださるように。すなわち、《それでも私たちは、エルサレムとともに喜ぶことができる》。なぜ私たちは、これほど多く悲しみの種がある中にあってそうできるのだろうか?

 私たちが主に選ばれた人々とともに喜べるのは、次のことを思い出すときである。まず第一に、神は、そのご性質においても、御民に対する愛においても、御恵みの目的においても、変わってはおられない。神は、私たちが生まれる前から、その愛の目的を果たすことがおできになったし、私たちがこの下界で祈りも働きもしなくなった後も、ご自分のみこころを成し遂げなさるであろう。ご自分の教会が忠実だったとき、神の天来の聖定は実行された。たといご自分の教会が不忠実になっても神は全能のお方であられ、それゆえ、その偉大なご計画を実行することがおできになる。神は、ご自分の働く方式を変えてはおられない。今なお、教会を通して世界を祝福しようとしておられる。ご自分の救われた者らを用いて他の者らを救おうとしておられる。私の信ずるところ、神はこの戦闘をも戦い抜き、これまでと同じ幸いな結果へと至らせ、最後には、ご自分のしもべたちのあらゆる弱さ不完全さにもかかわらず、偉大な栄光をおおさめになる。変わることなき神は、私たちの究極的な勝利の保証である。私たちはこの真理を頼りとしている。私たちの主は移り変わりの影を知らず、その永遠の目的は立ち続ける。ハレルヤ! ハレルヤ! 歓声をあげて喜ぼうではないか。

 さらに喜ぶべき理由はこのことである。――私たちは、主が現われることを期待できる。私たちの前にある章の5節に注目するがいい。こう記されているからである。「主は現われてあなたがたを喜ばせるが、彼らは恥を見る」<英欽定訳>。神はご自分の大目的を見捨てはしない。決してそのような考えで心を苦しませてはならない。私たちは、神の力が隠れるのを感じてきた。やがて、その覆いが取り除かれるのを見るであろう。私たちは、神が敵をこの上もなく高慢にふるまうのをお許しになっているのを悲しまなくてはならなかった。だが、まもなく神は、彼らを別の調べに合わせて歌わせなさるであろう。主は、眠り込んでいた勇士のように目をお醒ましになる。それから、その右手をふところから抜き出すと、ご自分の栄光と神性に逆らってチーチーさえずっていた虫けらどもを始末なさるであろう。だれが反対しようと、エホバは勝利なさるであろう。いまだかつて、忍耐のしいられた暗い夜が、信仰の味わう輝かしい朝に終わらなかったことは一度もない。暗闇の中に、また死の陰の谷に座っていた者たちは偉大な光を見た。それは闇が最も濃密だったとき、はじけるように輝きを発した。中世に暗闇は七晩に及ぶほど深まったが、一瞬のうちに、神が、「光よ。あれ」、と仰ると、真っ暗闇の夜空にルターや、カルヴァンや、ツヴィングリその他の星々が光を放ち、またたくまに暗がりをかき消してしまった。私たちの栄光ある神は、現在の危機においてもそうすることがおできになる。おゝ、その御座からのことばが1つありさえすれば! おゝ、光の主にして《与え主》からの fiat lux ――「光よ。あれ」がありさえすれば、この鼻をつままれてもわからぬ暗黒は全く失せ去るであろう! 私は大いに悲しんではいても、希望を失いはしない。この戦いは私たちの戦いではなく、主の戦いである。神には何の困難もない。《全能者》には至る所にしもべがあり、その目的のためには海の真砂ほど多くの配下を創り出す力がある。今晩、暖炉の側に座った一個のルターが、その火を見ながら、今日の哲学的階層制度のたわごとを燃やす準備をしている。救貧院の中には、貧しい子どもたちの間に一個のモーセがいて、やがて彼が私たちのパロと対決し、イスラエルの部族を解放することになる。永遠の福音を証しするその勇敢さによって世界を驚かす、来たるべき人は、いま学校に入っている。そのことを決して疑ってはならない。神は現われなさる。

   「主よ。もろもろの悪たちまさり
    けがしごとのみ 威を張りて
    御民の信仰 うすれ果て
    愛のこころの 冷えるとき

   「疾駆せざるや 汝が戦車(くるま)。
    賜らざりしや このしるし。
    頼りて生くは 徒(あだ)なるか、 
    かくも尊き約束に」

 主が力をまとわれるとき、その教会は目を覚ますであろう。私は、この章の中の言葉をあなたがたに読んだはずである。――「彼女は産みの苦しみをする前に産み、陣痛の起こる前に男の子を産み落とした」[イザ66:7]。主は、すぐにもその教会に、実り豊かな陣痛を起こさせ、子を産まない女を家に住まわせることがおできになる[詩113:9参照]。私は死ぬ前に、復興した教会を見たいと願っている。それは、真実の教理を堅く握り、失われている魂への思いに苦悶し、幾万もの回心者たちで祝福されている教会である。主の御名に栄えあれ。主は、すべてが砂漠にひとしい場所を庭園とすることがおできになる。アロンのひからびた杖には芽が出て、再び花咲くであろう。主の囲いは群れで満たされ、無数の羊の鳴き声のような大きなざわめきがあるであろう。物質世界においてと同じく霊的領域においても神が全能であられる以上、私たちは何を期待しても期待のしすぎということはない。私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせたお方は、瀕死の教会を呼び覚ますことがおできになる。ラハブを切り刻み、竜を刺し殺したお方は[イザ51:9]、不信心な批評学の力をくじくことがおできになる。神は、もう一度、地だけではなく、天も揺り動かすであろう[ヘブ12:26]。それゆえ、主のうちに安らい、喜ばしい確信をもって歌おうではないか。いかなる良きものも主の教会に差し止められることはなく、主はいかなる悪しきものも、長きにわたって教会に害を与え続けるのをお許しにはならないからである。

 おゝ、そのように清々しい時代が来ればどんなによいことか! そのとき教会は、多くの回心者を得て、自らの力を実証し、自らの影響力を増し加えることであろう。おびただしい数の人々が、待ち望まれたペンテコステにおいて、イエスに立ち返るであろう。

 そのとき教会は、彼らをよく養い、知識と理解という食物を彼らに与えるであろう。ある種の教会では、たとい多くの回心者が起こっても、彼らをどうしてよいかわからないのではないかと私は恐れるものである。だが、聖霊が真ん中にやって来られるとき、教会は子らを世話する母親となるであろう。「彼女の慰めの乳房」と記されている。11節を見るがいい。神が教会を祝福なさるとき、彼女はいかにふんだんに愛にあふれた、生きた栄養分を自分の新生児たちに供することであろう! しかり。主がおられるならば、牧会活動は、恵みにおいて小児である者たちを霊的に支え、慰め、成長させるための手段となる。そして実際、教会に属するあらゆる人々が、キリストのもとにやって来たばかりの人々の世話に励むようになる。願わくは、私たちの間では今からそうなっているように。私たちは、この二箇月の間に、まず七十人、それから九十人の新しい会員を加えた。そのことのゆえに私は神に感謝するものである。この教会はそれ自体としては小さい。だが、あなたがた全員が彼らの面倒を見てやり、彼らを助けてやるのでない限り、私たちは、それほど大勢の人数が追加されたことによって、困惑することになるであろう。おゝ、この教会が、主から与えられたすべての子らを懇切丁寧に世話するようになるとしたら、どんなによいことか! そうなった場合、私たちは本当に教会とともに喜ぶべき完全な理由があることになるであろう。そのとき私たちは歌うであろう。「主はその民をふやし、その喜びをまし加えられた」、と[イザ9:3参照]。

 そのような時代、信仰を有するあらゆる心には、途方もない平安と喜びがある。「主はこう仰せられる。『見よ。わたしは川のように繁栄を彼女に与え、あふれる流れのように国々の富を与える』」[イザ66:12]。教会が愛を枯渇させ、てんでばらばらに行動するとき、それは悲しい悲しいことである。聞くところによると、諸教会の中には、使徒パウロが、「あなたがたの間には分裂があると聞いています」[Iコリ11:13]、と云ったであろうような教会があるという。それが事実だとすると、そこに善を施す力はない。神はその教会のために現われ、そのはなはだしい軋轢を終わらせ、御民の心を1つにしてくださるであろう。それが実現するとき、そこには大いなる喜びがあり、私たちもそれにあずかるであろう。

 それですべてではない。神は、ご自分のみわざを行なうのにふさわしい人々を起こしてくださるであろう。21節を読むがいい。「『わたしは彼らの中からある者を選んで祭司とし、レビ人とする。』と主は仰せられる」。聖霊がある教会を訪れなさるとき、彼は確かに特別の賜物を授け、特別の召しをお与えになるに違いない。聖霊は、かつて、「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい」、と云われたように[使13:2]、私たちの諸教会の中でも同じように語り、私たちを大いに喜ばせてくださるであろう。神がハームズ牧師をハーマンズバーグにお遣わしになったとき、そこは荒れ地にすぎず、その荒れ地で主を知っていた者はほとんどいなかった。だが、彼の熱心な説教のもとで、その村全体は1つの宣教協会へと変貌したのである。おゝ、私たちも何かそのようにできるとしたら、どんなによいことか! 農夫も労働者も、男も女も、キリストのために宣教師となってアフリカへ赴いた。また全住民のうちの相当な人数が、福音を宣べ伝えるため、あるいは宣教師とともに働いて彼を支える小植民地を作るため、海外へ出ていった。彼らは家も、土地も、何もかもを売り払い、そのようにしてハーマンズバーグを、1つの偉大な伝道事業の起点としたのである。私の愛する方々。私がいかに野放図な大望をいだくとしても、あなたがたが、これほどの献身に到達できるなどと希望することは到底できない! モラヴィア派の人々がどうであったか見てみるがいい。あらゆる男は彼らの教会の教会員となり、自らみことばの教師となった。彼らのうちにいたあらゆる男が、女が、子どもが、魂をキリストのもとに連れて来ようと努めていた。願わくは神が、そのような主の力を私たちの諸教会すべてのもとに来たらせてくださるように! そして私たちは、真の福音を宣べ伝えていさえすれば――そうした福音を愛していさえすれば――その福音の力によって生きていさえすれば、そうした期待をいだけるであろう。そうならざるをえない。主はこれから、ご自分の民のただ中から、おびただしい数の者を取り上げて、祭司やレビ人になさるであろう。もし私たちが、ここ何年もの間のたくり進んできたような割合で進み続けるとしたら、インドや、アフリカや、中国はどうなるだろうか? いかなる宣教の働きも良いものではあるが、それでも、手つかずの働きにくらべれば、それは何という手桶の中の一滴にすぎないことか! おゝ、願わくは主が、ご自分のあわれな、死んだ教会のもとにやって来られ、それを、より神聖ないのちで生かしてくださるように! 教会がその頭の天辺から足の先まで生かされるとき、そのときこそ、地の諸国は、神が御民の真ん中におられること、無限のエホバ、その名を救いと呼ばれるお方が御民のうちにおられることを知るであろう。願わくは、あたかもサムソンが狐を捕えたように、主イエスがそのしもべらを捕え、たいまつを縛りつけ、麦畑の中に召し放ち、全地を天から下った炎で燃え上がらせてくださるように! そのとき、私たちの喜びは何と大きなものとなることであろう!

 兄弟たち。神の摂理は私たちとともにある。そのすべての恐怖は、そのすべての寛大さと同じように、主の御国の進展のために働いている。かの目がいっぱいついている輪[エゼ10:12]はみな、その方向を眺めている。兄弟たち。神の約束は私たちとともにある。私たちの主イエスの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められている[Iコリ15:25]。兄弟たち。祈りも私たちとともにある。贖罪蓋も、《慰め主》も、《弁護してくださる方》もともにある。もし私たちが《すべての祈り》という強力な機関を用いるすべを知っていさえすれば、私たちはハデスの門をまだ揺さぶることができよう。兄弟たち、聖霊はまだ私たちとともにおられる。彼はペンテコステのときに下ってこられ、決して再び帰って行くことがなかった。彼はその教会のうちに永遠にとどまっておられ、力強く働いておられる。私たちはただ彼に呼びかけ、その聖なる使命を果たすよう願いさえすれば、それよりもさらに大きなことを見るであろう。

 III. しかし今、私の時間はほとんど尽きかけている。それで私はしめくくりに尋ねなくてはならない。《なぜ私たちは、個人的に、教会とともに悲しみ、教会とともに喜ぶ人々のひとりとなるべきなのだろうか?》 ことによると、あなたがたの中のある人々は、その栄誉ある仲間に属していないかもしれない。私は聖霊が今すぐあなたを、その多数のひとりとしてくださるよう祈るものである。

 というのも、第一に、自分自身の罪と破滅は、悲しむべきものだからである。今しがた私は、私たちがいかに失われている魂のために感ずべきかを語ってきた。だが、その失われた魂自身は、自らについて、いかに感ずべきだろうか? あわれな魂よ。もし私たちがあなたのために悲しむべきだとしたら、いかにいやまさってあなたは、自分自身のために悲しむべきであることか! たといあなたが滅びても、私は、あなたに対して忠実を尽くしていさえしたならば、何の損もしないであろう。たといあなたが地獄に堕ち、あなたの母の懇願が無に帰したとしても、あなたの母はあなたが《救い主》を拒んだからといって、自分の栄光を奪われることはないであろう。危機に瀕しているのは、あなたの魂、あなた自身の魂、あなたのたった1つの魂なのである。人は、地上で破産したとしても新規まき直しができるかもしれない。だが、もしあなたがこの定命の人生を破産させたなら、いかなる再出発も不可能である。軍事行動において、戦闘に敗れることは途方もない災厄だが、次の戦いでその大失態を埋め合わせることができるかもしれない。だが人生の戦闘に敗れた場合、あなた決して再入隊して捲土重来を期すことはできない。それゆえ私はあなたに願う。自分自身の状態について今すぐ悲しむがいい。赦されていない罪人として、また神への反逆者として、自分の最良の友への敵意を心にいだきながら、そこの会衆席に座っているあなたは、何という状態にあることか! 主があなたをあわれんでくださるように! 主が今すぐあなたを神の教会の中で悲しむ者としてくださり、遠からぬうちに、その教会の《救い主》にあって喜べる者としてくださるように!

 次に私は、信仰後退者となった人、また今このときも信仰後退者である人に語りたい。あなたは、こうため息をついているだろうか?

   「わが知る幸(さち)は いずこにありや
    主を見そめしときに 知りしかの幸は」

あなたがそう云うのも当然であろう。あなたは、自分の見下げはてたさまよいによって、キリストの御名を汚し、一度は愛すると告白した信仰に泥を塗ってきた。敵に神を冒涜する機会を与えてきた。ならば、自分の安息が破られていても不思議がることはできない。もしだれか悲しむべき人がいるとしたら、それはあなたである。あなたはキリストの教会のために嘆く者たちの中でも筆頭に立つべきである。あなたが主の教会に加えた損害は、たとい今後いかに長い人生を費やしても取り返しがつかないほどのものなのである。

 兄弟たち。私たちはみな、自分自身の熱心の足りなさや、他者の魂に対する配慮の足りなさを思うとき、悲しむ者となるのが道理であるとは考えないだろうか? この説教者は自分の胸を打ち叩きたいと思う。そして、あなたがたも同じようにするよう招くものである。私たちのうちだれが、当然なすべき程度の半分ほども、自分の同胞たちの回心について思ってきたと云えるだろうか? 私たちはみな、彼らのことを多少は考える。あなたがたのうちのほとんどは、イエスとその御国の進展のために多少は事を行なっていると私は思いたい。私たちが教会としてできることのうち、手つかずで残っていることは多くない。だが、なされている事がら――それは常に正しい精神で行なわれているだろうか? それは常に祈りの洗礼を受けてきただろうか? へりくだりつつ、熱心に、そして全く神の御霊により頼みつつ行なわれているだろうか? 残念ながら私たちは、他の人々に対する誤りがちな奉仕によって、他に何もすることがなければ、シオンで悲しむ者の間に押し込まれざるをえないのではないかと思う。私たちは彼らの間にいることを恥じる必要はない。というのも、もし私たちが主の教会とともに悲しむなら、いつの日か私たちは、その教会とともに喜ぶことにもなるからである。

 さらには、聖さという点における私たち自身の失敗を加えていいのではないだろうか? 私がたった今したように、全教会の素行の悪さを数え上げ、当然受けてしかるべき鞭打ちを加えるのは、ごく容易なことである。だが、咎ある人間が自分自身に鞭を当てるのはそれほど容易なことではない。それでも、これこそ必要なことである。自問するがいい。――私は当然そうあるべきほどに聖い者だっただろうか? 私の家は正しく整えられてきただろうか? 家庭礼拝は、単に形式としてではなく、いのちと力をもって守られてきただろうか? 私は自分の子どもたちに対し、夫に対し、妻に対し、召使いたちに対し、しかるべくふるまっているだろうか? 自分の職務において、また普段の日常生活に関して、私は当然そうあるべきほどに公明正大で、寛大だろうか? おゝ、方々。私たちが、めいめい自分自身を注意深く吟味するとしたら、神の教会とともに悲しむ者となるであろう!

 もう一言、私たちはみな、この件に大きな関わりがあるがゆえに、教会のすべての悲嘆をともにすべきである。もし私たちの牧師たちの牧会活動が不出来なものであるとしたら、その力の欠けによって私たちは損害をこうむるであろう。もし福音が宣べ伝えられていなければ、私たちの魂は養われないであろう。あなたは、現代の偽りの教理を励ましたり、背教に目をつぶったりしないよう気をつけるがいい。かりに福音が救いに至る力をもって宣べ伝えられていないとしたら、私たちの子どもたちは回心することがなく、彼らは私たちの喜びにも冠にもならないのである。講壇に欠陥があるとき、それは私たちの家庭に悪影響をもたらさずにおかない。私たちは1つのからだの各器官であって、そのからだの一部分が苦しめば、他のすべての部分が苦しまざるをえない。現在のように世俗性がはびこっている限り、私たちは自分の子どもたちが世俗的になるのを見るであろう。現在かくも多くの前途有為な青年男女を押し流し、奈落へと引きずり込みつつある不信心と軽薄さとの渦巻きに、わが子も吸い込まれていくのを見るであろう。悪が至るところでもたらしつつある、すさまじい損害から無事に免れることのできる者は、私たちのうちひとりとしていないであろう。偽りの教理が大水のように吹き出すとき、それは私たちの家々すべてに押し寄せるであろう。それゆえ私たちは、大声をあげて神に叫ぼうではないか。私たち自身のためだけではなく、1つの偉大な普遍教会のため、また、この大いなる街のため、また、この邪悪な世界のために。おゝ、主よ、私たちの神よ。あなたの御国と栄冠のために、立ち上がりたまえ! 剣と盾を手に握り、あなたの云い分を立てたまえ、イエスのために! アーメン。

下り勾配ゆえの悲歌と信仰ゆえの歌[了]

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