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御霊と風

NO. 2067

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説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1888年2月2日、木曜夜の説教


「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです」。――ヨハ3:8


 私たちの《救い主》の言葉は無限である。ある人々は、おびただしい数の言葉を用いて、ごく僅かな意味しか伝えることがない。だが私たちの《救い主》は、汲めども尽きない教えを、いくつかの短い文章に詰め込まれる。もしキリスト教界のあらゆる説教者が、今後の十二箇月、ずっとこの一節からしか説教しないことにしたとしても、彼らはなおも、その教えの大きな部分を手つかずのまま残すことであろう。

 この言葉が私たちに思い起こさせるのは聖霊である。残念なことに、私たちは自分の生活の中で大きく力を失ってしまっているではないだろうか? そして、それは、私たちが十分に神の御霊の力を大切にしていないからではないだろうか? 私たちの《救い主》が聖霊の働きを風の動きにたとえたとき、主は私たちにこのことを示されたのではないだろうか? すなわち、その働きがいかに絶対必要なものであるか、また、いかにそれが不可欠なものであるかということである。想像してみるがいい、風のない世界を! 何と、私たちはすぐによどんで死に至るであろう。風がなければ、海上の大交通路が何の役に立つであろう? もし今後、空気に何の動きもなくなり、流れてやまない風の息吹が全くなくなったとしたら、一千もの害悪が生ずるであろうし、それは今の私たちが予測できるよりも無限にすさまじい害悪であろう。神の御霊がおられなければ、その光景はそれより無限に悪いものとなろう。おゝ、教会という船よ。いかにしてお前は時という海の上を疾走できるだろうか? 森の木々は手を打ち鳴らす[イザ55:12]ことがもはやなくなるであろう。進歩の沈滞が取って代わるであろう。谷間の干からびた骨は生かされることなく横たわり、シャロンの薔薇の香気すら、もはやただようことはないであろう。私たちには神の御霊が絶対に必要である。《義の太陽》でさえ、その翼に乗せて癒しをもたらされる[マラ4:2]。そのように聖霊は、生きたものすべてを私たちのもとにもたらされる。私たちは、《三位一体》の第三《位格》をあがめよう。また、霊において深く畏敬しつつ、この方のことをしばしば考えよう。そして働きに行くときも、祈りに赴くときも、あるいは、賛美歌を唄うときでさえ、御霊ご自身が、その聖なる務めのいのちとなられるよう求めることを決して忘れないようにしよう。

 神の御霊についての真理を明らかにするため、私がまず言及したいのは、この聖句に含まれているいくつかの副次的な教訓である。それから、聖霊の神秘という教訓である。そして第三に、御霊によって生まれる人という神秘である。というのも、これは単に、「御霊の働きも、そのとおりです」、と云われているのではなく、「御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです」、と云われているからである。一個の神秘から生まれた者は、自らが一個の神秘なのである。

 I. 第一に、《ここでは、いくつかの副次的な教訓が教えられている》。神の御霊は風のようである。よく注意するがいい。御霊の働きは予期できないものである。風はその思いのままに吹く。それで、人はどのような風を期待すべきかを知らない。特にこの国では、私たちは明日いかなる風が吹くかを決して予想できない。何日か前に、それは南西の風で、早い雪解けをもたした。だが、その翌朝、それはほとんど北風となり、霜を私たちに吹きつけた。わが国の公共の建物には、風見を取りつけておくのが良いと思う。月日や季節からだけでは、決してどの方角から風が吹いてくるかが分からないからである。私は、聖霊が風のように思いのままに吹かれることを思い出すとき感謝を感じる。というのも、私は次にどこで御霊がお働きになるか分からないからである。ことによると、明日、御霊はひとりの君主をお救いになるかもしれない。――それは予想もできないことであろう。別の日に、御霊はどこかのはなはだしい信仰後退者をお救いになるかもしれない。そうでないと誰に分かろう? 御霊は恵み深くも、人々の間のずっと堕落した部分に働きを及ぼされるかもしれない。あるいは、わが国の大商人の誰かを取り扱い、彼らをご自分の足元に引き寄せられるかもしれない。聖霊の働きを承知している者は、予期せぬことを予期することを学んでいるに違いない。エルサレムにおいて絶対に予想できなかったことは、タルソのサウロが回心するということであったが、彼は回心した。そして、あなたは今、いかに激越に福音に反対している者も、福音の力の戦利品となることを希望できる。そして、その同じ風があなたに吹きつけてはいないだろうか? あなたがた、単に何か荘厳な儀式を見物し、この説教者が何と云うかを聞いてみようと思ってこの場に来はしたが、それによって感化されたいなどとは全く願ってもいなかった人たち。いかにしばしば私たちは、最もありえそうもはなかった人々が、この天来の御力によって最初に感銘を受ける人となるのを見てきたことか! おゝ、天的な風よ。あなたの民のかすかな信仰によれば、あなたがいるとはほとんど全く考えもしていなかった方角で吹いてください。あらゆる影響力があなたを閉め出すために働いている方角で吹いてください。

 聖霊の動きが風に似ているというのは、また、それが説明できないものであるからでもある。なぜ月曜には北西の風だったのか、あるいは、なぜ金曜には東の風だったのか、誰が告げることなどできるだろうか。できると公言する人々もいるが、それは、愚にもつかない大仰な言葉を用いているだけでしかない。大抵の場合、科学とは、種々の憶測に立って人を云いくるめるものか、長ったらしい言葉で煙に巻くことである。現代の碩学たちの説明は、往々にして、説明されなくてはならない事実よりもずっと理解困難である。さて、私はなぜ神の御霊がそこここでお働きになるか告げることはできない。なぜ英国が福音で恵まれた一方で、文明においては大英国にまさっていた他の国々が福音なしで放置されたのだろうか? なぜ海の島々はほとんど例外なしに福音を受け入れるかのように見受けられるのに、諸大陸は暗黒の中に残されるのだろうか? 「神はいちいち答えてくださらない」*[ヨブ33:13]。これをあなたの答えとして受けとるがいい。これが、神がお与えになるだろう答えのすべてである。

 聖霊が風のように動かれるのは、その突然さ、また、自由奔放さについてもそうである。私たちの中の誰も風を起こすことはできない。私たちはそうした云い回しを用いるが、事実は私たちの力を越えている。風は私たちが呼び出したり、命じたりしなくともやって来る。私たちが明日起きるとき、雪解けを見るか、厳しい霜が降りているか、誰に告げることができよう? 風は好きなように起こり立ち、自らの望む通りに動く。そして聖霊もそれと同じである。確かに、エリヤの祈りのような祈りは、風を束縛し、雲をとどまらせるか、天の皮袋の口を解きほぐし、雨を引き下ろすこともできる。だが、それは主がそうなることを望まれるからである。やはり御霊は絶対に自由であり、人々を待つことも、人々の子らに合わせて暇どることもしない露のように動かれる。もし御霊が明日、その天来の精力をもってこの国の至る所に突発しようと望まれるとしたら、それをとどめることはできない。もし、御民の祈りに答えて――また、私がそう信頼している通りに――御霊が印度あるいは支那で働くことをお望みになるとしたら、私たちはじきに、このほむべき御霊がいかに自由に神に栄光をもたらされるかを見ることになるであろう。神はそれによって栄光を帰されるであろう。御霊は風のようであられ、その動きには何の説明もつかない。

 そして次に、聖霊が風のようであるのは、絶対的な主権をお持ちだからである。近頃のほとんどの説教者たちは、自分の会衆に向かって、神がみこころに従ってご自分の恵みをお与えになるということを告げたがらない。私が少年だった頃には、人のおもな目的は神の栄光を現わし、永遠に神を喜ぶことだと学んだ。だが最近、新神学に従って聞かされるのは、神のおもな目的が人の栄光を現わし、永遠に人を喜ぶことだということである。だが、これは物事をあべこべにすることである。神の栄光こそは、やはり世界が存在するおもな目的であり、人々がそう認めたがろうが認めたがるまいが、主は事を決しておられる。「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ」[ロマ9:15]。それで、「事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです」[ロマ9:16]。いかなる声にもまして私の声は、滅び行く者たちに対する神の無代価の救いを宣べ伝えることを喜びとしている。だが神は、ご自分の恵み深さの中にご自分の主権を沈めてはおられない。なおもエホバは統治しておられ、風はその思いのままに吹く。人が吹かせたいと思うところには吹かない。

 さらに、神の御霊が風にたとえられるのは、そのお働きの多様さのためである。

 風はいつでも同じように吹くわけではない。柔らかく、また優しく、それは私たちに夏の熱をもたらす。荒々しく、また厳しく、それは私たちに自分の外套をかき合わさせる。冬の厳しい息づかいが私たちを骨髄まで凍えさせるからである。神の御霊は状況の必要に応じ、また、ご自分のみこころに応じて、異なるときに、異なるしかたで働かれる。というのも、御霊は思いのままの所でと同じく、思いのままのしかたでお働きになるからである。時として私は、聖霊の力が祈り求められるしかたに、ほとんど身震いすることがあった。私は、私たちが神の御霊で満たされるようにと、ある兄弟が祈るのを聞いたことを覚えている。そして私は、その頃は非常に若くはあったが、思い切って彼に、自分が何を意味しているのか分かっているのですかと尋ねた。そして私がこう云い足したとき、彼は私を驚愕の目で眺めたものである。「御霊は、おいでになる所では、さばきの霊と焼き尽くす霊[イザ4:4]になるのですよ」。疑いもなく、御霊によって満たされることは1つの祝福である。だが、誰がこの方の来られる日に耐えられよう? 主イエスのように、御霊は精練する者の火、布をさらす者の灰汁のようなのである[マラ3:2]。私たちは、もしも自分の内側で御霊の驚くべきみわざに耐えることができたとしたら、いま以上に豊かに御霊を有していたことであろう。御霊が《慰め主》であることは私も知っているが、私は御霊がその箕を手に持っておられることも知っているのである。御霊は癒すお方であるだけでなく探るお方であり、善を創造するお方であるだけでなく悪を滅ぼすお方でもあられる。このように、見ての通り御霊の働きは常に一様ではない。恵みを有する1つの魂は、涙とともに心を砕かれて出て行く。神の御霊がその心を傷つけられたのである。別の魂は、完全な救いを喜びながら出てくる。それは神の御霊であった。ある日、神のことばは鉄槌と火のようにやって来て、別の時には天から、干上がった心への優しい露のように降って来られる。こうしたすべては、同じ御霊の働きなのである。私は切に願う。こちらの謙遜な希望や、そちらの震えつつある信頼をさばいてはならない。というのも、御霊があらゆる良いことを作り出されるからである。同じ個人の中においてすら、神の御霊は異なる折々に非常に異なった働きをなさる。ある日、御霊は私たちを険しい山々の上で飛び跳ねる若い鹿のようにさせ、そのとき、ナフタリは放たれた雌鹿[創49:21]となる。神の御霊がその上におられる。別のとき、真の預言者は口を閉ざされ、出て来ることができない。彼は言葉にすることができない吐息と呻きで満たされ、主のことばは骨の中に閉じ込められた火のようになる[エレ20:9]。しかし、神の御霊は沈黙の中にも、雄弁の中と同じようにおられる。――もしかすると、格段にそうあられるかもしれない。というのも、肉は前者に伴うことがありえるが、御霊こそ後者において働くお方だからである。私たちが自分の葡萄や無花果の木の下に座る秋の夕まぐれの後で、葉も実もない冬のような暗闇の夜が続くからといって、神の御霊に捨てられたと判断してはならない。あなたがたは知らないのだろうか? 神の御霊が、花々の咲き誇る緑の野を吹き抜ける風となるとき、主の息吹がその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむということを。まことに、民は草である[イザ40:7]。聖霊のこの、枯らすみわざも、私たちの永遠の恩恵にとっては必要なのである。御霊が別の時に、麗しい花々を芽生えさせ、その芳香を愛の足元に振りまかせる働きと変わらないほど必要なのである。では注意するがいい。風のように御霊がその現われのしかたにおいて多様であられるということに。

 さらにまた注意したいのは、神の御霊が風のようであられるのは、その働きが如実だからである。「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞く」。しかり。私たちは風を見ることはできないが、聞くことはできる。そのように、あなたは神の御霊を聞くことができる。あなたが聖書を聞き、みことばを読むとき、神の御霊はあなたに語りかけてくださる。御霊が良心の耳に囁くのを聞くことは良いことである。御霊が真理を心に突き入れ、その力を精神に感じさせてくださるときのことである。中でも最も甘やかなのは、新しく開かれた耳が、その独特の「かすかな細い声」[I列19:12]によって語られる神の御霊を聞くときである。そのとき、このことが甘やかな真実となる。「あなたはその音を聞く」。話をお聞きの愛する方々。あなたは、このことについて少しでも知っているだろうか? 神の御霊はあなたに働きかけて、その音を悟らせてくださることがあっただろうか? それは如実な働きである。あなたはそれを感じたことがあるだろうか?

 だが、あらゆる面において、神の御霊の働きは神秘的で不思議なものである。人々は風について私たちに多くを語ることができないが、風が吹き募って大竜巻になり、立ちはだかる一切のものをさらって行くとき、私たちは風に何ができるかを見てとる。願わくは、私たちが聖霊の台風を有せるように! それは、今は直立している教会の腐り果てた建物の大部分をいかに一掃してしまうことであろう! 多くの壮麗な大伽藍が、その前では、夏の脱穀場の床にある、ちりやもみがらのように吹き飛ぶであろう! しかし、神の御霊は、草葉の上の露一滴のように目に浮かぶ涙を揺らさないほど優しく働かれるときであれ、頑固きわまりない不信心を吹き飛ばすほどすさまじい威力をもって来られるときであれ、いずれにせよ非常に驚嘆すべきお方である。というのも、御霊は神であられ、天来のしかたでお働きになるからである。私はなかばここで立ち止まってこう云いたい気がする。「この時間の残りは、この力ある神の御前で礼拝することにしようではないか。ご自分のみこころを行ない、《いと高き方》のご意志を常に行なわれるこのお方の御前で」、と。

 II. 私が、続いて第二のこととしてあなたを考察させなくてはならないのは、《この象徴、すなわち、神の御霊の型である風によって教えられる神秘という偉大な教訓》である。さて、愛する方々。風について、私たちの《救い主》はこう云われる。「それがどこから来てどこへ行くかを知らない」。だがしかし、私たちはそれが東から、あるいは、南からやって来て、その通り道を抜けて西に向かうことが分かる。この聖句は、風の方角、あるいは、神の御霊が動いておられる方向が分からないと云っているのではない。というのも、私たちにはそれが分かるからである。私たちは、御霊が義と永遠のいのちとに向かって進む力であられることを知っている。しかし、そのとき私たちは、何らかの風がどこで吹き始めるかを知らない。誰もどこで北風が始まるかを説明できない。異教徒は、風がどこかの洞窟の中から噴き出すのだと、あるいは、皮袋の中から出てくるのだと考えていた。私たちはそれが夢想でしかないと知っている。私たちは、風がその旅をどこから始めるか想像できない。また、神の御霊がある人の心の中で、あるいは、私たち自身の心の中でさえ、いつ働き始めるか分からない。一部の人々は、自分の回心の日を告げることができないからといって悩む。その問題で悩んではならない。これこれの日に自分は決定的な一歩を踏み出し、光が自分の霊の中に突然入って来たと知っている者らでさえ、振り返ってみれば、恵みある経験の大きな部分が自分たちの決心以前にさかのぼり、自分たちの精神に、その最終的な一歩への備えをさせていたことに気づくであろう。私たちは、いかに古くから魂の内側で天来の過程が始まるかを知らない。私たちの生まれそのものが、多少は関わっている。私たちがこれこれの敬虔な両親から生まれたことは、恵みの備えの一部である。私は、あなたがあなた自身に関して、いつ最初に恵み深い思いがあなたに蒔かれたのか、いつ最初にあなたが神に対して生きる者となったのか告げられるとは思わない。あなたは、自分がいつ最初に神を信じたと自覚したかを告げることはできる。だが、それ以前に1つの経験があったのである。あなたは、これこれの場所を指さして、こう云うことはできない。「ここであの東風は始まったのです」、と。同じように、こう云うこともできない。「ここで神の御霊は私に対する働きをお始めになったのです」、と。

 また、私たちは必ずしも、何がその最初の過程であったかを告げることもできない。人は最初に祈るのだろうか、信じるのだろうか? もし信仰なしに祈るとしたら、それは聞かれないであろう。最初に来るのは悔い改めだろうか、信仰だろうか? 信仰を全く含んでいないな悔い改めは、全く悔い改めではないし、悔い改めを全く伴っていない信仰は、全く信仰ではない。こうした恵みによる産物は、車輪の輻のようなもので、みな同時に動くのである。霊的いのちという車輪が動くとき、私たちはその中にあるどの恵みが最初に動くのか告げることはできない。天来の恵みの諸過程は、あなたの場合、魂が意気消沈することから始まるかもしれない。別の人の場合、聖なる信仰が高められることによって始まるかもしれない。私たちは、それがどこからやって来るか告げることができない。

 また私たちは、必ずしも、私たちが御霊を受けとった正確な手段を告げることはできない。あなたは、それはこの教役者の説教によってだと云う。感謝するがいい。しかし、その説教の前に、ひとりの知られざる人があなたの心の中を大いに耕していたのである。ある人は、別の人が耕していなかったとしたら、いかにして種を蒔いたりしただろうか? 自分が何か善を施したりしたなどとは全く思っていない多くの人が、最後の大いなる日には、自分が思い描いていたよりも大きなことを行なっていたことを見いだすであろう。隠されたままであったとしても、その働きの本質的な部分を成し遂げていたことを知るであろう。「あなたはそれがどこから来るかを知らない」*。

 同じくらい神秘的なのは、「どこへ行くか」に関するもう1つの点である。私たちは、聖霊がどちらを向いているかは知っているが、どこへ行くかは分からない。すなわち、御霊のみわざが、今晩それを受けとった人において、いかなる特別の形を取ることになるか分からない。果たしてそれが罪の確信を深く深く進める方に向かい、その悔い改めによって、いのちを目立たせることになるのか、それともそれがキリストの御姿を高く高く見てとる方に向かい、その喜ばしさによって、いのちを目立たせることになるのか。そのどちらに向かうのか、あなたが告げることはできない。ある人の中で、神の恵みがどれだけ遠くまで行くかを云い当てることは不可能であろう。私たちは誰も自分を物差しにし始めて、こう云ってはならない。「誰も私以上に聖くなることはできない。誰も私が持っている以上の恵みを持つことはできない」、と。兄弟よ。あなたは、自分自身でさえ、今のあなたが有しているよりも十倍もの恵みを受けとることができるのである。あなたは、また幼子でしかない。キリストにあって成人となることがどういうことかを知らない。ほんの一週間前に回心した少年は、モファットやリビングストンのような人物になるかもしれない。その少女は、今は震えている信仰者だが、神によっていかなるマリヤやハンナにしていただくことができるかも分からない。あなたは御霊がどこへ行くか告げることはできない。マルチン・ルターの父親が最初にマルチンにキリストについて教え、息子のために祈ったとき、彼は神の御霊がわが子の中でいかに働き、いかにこの鉱夫の息子によって全世界が改善されるか、まるで見当もつかなかった。「あなたはどこへ行くかを知らない」*。おゝ、もしあなたがたの中のある人々が、まさにいま神の御霊を得るとしたら、私はそのことであなたがどうなるか推測できない。神の御霊を受けるあらゆる人の胸の内側には素晴らしい幾多の可能性が眠っている。御霊があなたの中でお働きになるなら、あなたは、一千年もの時に及ぶ聖めの経験の後でどうなるか知るまい。そして、一千年が何だろうか? 時の増加を越えた、あらゆる成長の中でも最大の成長、「私たちがキリストに似た者となること……なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです」へと身を置いてみるがいい。そのときでさえ、あなたは、この天来の道の果てに達してはいないのである。あなたは、それがどこへ行くか告げることができない。あなたはこれから御使いをもしのぐことになる。あなたの主イエスは《長子》であり、あなたはこの《長子》の多くの兄弟たち[ロマ8:29]のひとりとなるのである。無限の前進があなたの前にはある。私は窓を開いた。信仰の目によって、見晴らし、熟視するがいい。神の恵みがあなたの心に入ることによって何が起こるかを! あなたは北風がどこで立ち止まるかも、東風がどこで眠りにつくかも告げることはできないであろう? そのような場所があるだろうか? あなたは、それがどこで始まるか見たことはなく、それがどこで終わるか推測することもできない。だがしかし、あなたが栄光にあるときでさえ、御霊が地上であなたに分け与えたいのちはあなたのいのちであろう。

 III. 最後の数刻を費やして考えたいのは、《この人自身の神秘に関する教訓》である。――「御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです」。御霊によって生まれた人は、神秘的な人である。その人と同じような者たちだけが、その人を知っていると云える。その彼らでさえ、その人を知ってはいない。そして、それ以上に不思議なことは、その人が自分でも自分のことが分からないということである。ことによると、誰よりもその人を見て驚いているのは、その敬虔な人自身かもしれない。その人は1つの変化を経験したが、それをあなたに言葉で述べることができない。その人は、自分が変わった事がら、御霊の種々の効果を知っているが、それがどのようにしてもたらされたかは知らない。そして、誰もその人の最初の誕生について何も告げられないのと同じように、その人も自分の二度目の誕生について説明できない。それは、自らくぐり抜けた者にとってさえ、神秘的な働きにとどまっている。「おゝ」、と私にある人が云った。「先生。世界が完全に変わってしまったか、さもなければ、私が完全に変わってしまったのです」。実際、その通りである。あらゆることが変わっている。世界そのものが変わっており、いくつかの事がらにおいて、それは悪い方に変わっている。私たちは自分が世の中にずっといたにもかかわらず、そこでくつろげないことに気づく。私たちは、たとい自分で自分に出会ったとしても自分だとは分からないはずである。そして、不幸にして自分で自分に出会うとき、私たちは自分と喧嘩を始める。というのも、私たちにとっていかなる場所の何者にもまさる敵は、私たち自身の自我だからである。私たちがそういうことを云わなくてはならないのは奇妙なことである。だが、ありうべき最大の逆説は、新生した人が今なお宿しているからだが、腐敗のもとにとどまっていることなのである。その人は古いものと新しいもの、天性と恵みとの奇妙な混合物である。自分本人にとっても1つの神秘である一方で、その人の悲しみは他の人々にとっても神秘であり、彼らはその人がなぜ悲しんでいるかが理解できない。商売は繁盛し、子どもたちには囲まれ、健康には恵まれていながら、嘆いているのである。そして、もしその人が、「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」、と云うのを聞くとしたら、彼らは答えるであろう。「これはみじめな人間だ。これほど幸福な者はいないはずだが!」 この世で最も善良な人間から、自分がもっと善良になっていないからといって最も深い吐息をつくのを私たちは聞かされるのである。自分に勝利を与えることができる神に感謝しているその人は、戦いの中で呻いている人なのである。この世はこれを理解しない。いかに私たちが戦っていながら、それでも平安にしていられるかが分からない。いかに私たちが2つに引き裂かれながら、それでも決して十字架から引き剥がされることができないか、いかにして私たちが死ぬことによって生き、日々死ぬことによって、決して死なない者となることができるかが分からない信仰者の謎は非常に難解なものである。その人は自分の悲しみについても喜びについても1つの神秘である。これらはこの世が口出しできない秘密である。これは神秘的な務めである。貧困の中にある者が富んでおり、苦しみの中にある人が喜んでいる。ひとりきりの人が、最上の仲間たちとともにある。未回心の者はこの異様な人物を理解できない。

 神の近くに生きている人は、多かれ少なかれ、いついかなる時も1つの神秘である。その人は、自分が願う通りの者でも、自分が希望する通りの者でもないが、自分が期待していた所をはるかに越えている。奇妙な衝動が時としてその人を突き動かし、それでその人は自分では説明することができないような事がらを行なう。自分がそうしたことを行なわなくてはならないと感じ、それらを行ない、自分が正しく行なったのだという確証を、行なった結果の中に有する。私は確信するが、神の御顔の光の中を歩む[詩89:15]、あらゆる神の子どもは私が、私たちが無類のしかたで動かされていると云うとき何を意味しているか理解するであろう。その動かし方は、私たち自身でも、いかにしてかほとんど分からないようなものだが、そのように動かされるときには、知恵の正しいことが、そのすべての子どもたちによって証明される[ルカ7:35]。実に奇妙なものは、新生した者の心に及ぼされる聖霊の力である。そして、このことを明らかに示すのが、彼らがこうむっている無類の変化の数々である。神ご自身の民は、深淵の底を探り、高地を越えて飛翔するとはどういうことかを知っている。高く、高く、高く、未熟な稲妻が最初にその翼を広げた所へ、私たちは陶酔の中を上っていく。そして、それから、降っていく。海の怪獣たちがねぐらを有している深淵の中へ。至高の力の下にあるとき私たちはこうした存在なのである。木々の間をそよぐ風や、アイオロスの琴の弦の間を歌う風が、神の純粋な子どもが経験するものよりも異様であることはない。私はアハブの戦車の前をエリヤとともに走ることがいかなることを知っている。そして、残念ながら私は、えにしだの木の下で[I列19:5]卒倒し、起こされて食べる必要を覚えることも知っていると思う。それは、それによって得た力でさらに四十日旅を続けることができるためである。キリスト者である人は自分を理解しないが、その人の様々な経験は、ごく望ましいものである、自己への嫌気、キリストへの愛好によって織りなされる。

 私は、あなたが説明できない2つの言葉をあなたに示すであろう。それは、ただ、私たちの人間性の神秘を示すためである。まず、「霊性」。さて、あなたの辞書に目を向けて、それがこの言葉を定義しているか見てみるがいい。あなたはそれが何かを知っている。だが、それをこれこれこうと告げることはできず、私もあなたに告げることはしない。私にもそうできないからである。もう1つの言葉がある。――「油注ぎ」である。あなたはそれが何か知っている。もしあなたがそれを全く有していない説教を聞くなら、あなたはその欠如がいかなるものであるかが分かる。だが、みことばに油注ぎがとどまっているとき、あなたはそれがいかなるものか私に告げられるだろうか? 私はあなたに告げられない。だが、私は自分自身、その油注ぎを有せるように祈る。もちろん、不敬虔な人々はその表現をからかいの種とする。それが彼らには何も意味していないからである。だが、神の子どもたちはそれを楽しみとする。

 この世に理解してもらおうと期待してはならない。もしあなたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したであろう[ヨハ15:19]。だが、キリストがあなたを世から選び出された以上、世があなたをわきまえ知ると期待してはならない。もし世が、あれほどあなたにまさって善良で、きよいお方を知らなかったとしたら、いかにしてそれがあなたをわきまえ知ることなどあるだろうか? そして、話をお聞きの愛する方々。あなたがた、まだ新しく生まれていない人たち。こうしたすべてが外国語のように思われるに違いない人たち。私はあなたがこう信じるようになることを切に願う。あなたには理解する必要のある何事かがあること、また、それを理解するには、あなたが新しく生まれなくてはならないことを。願わくは神の御霊があなたに、この神秘を感じさせ、経験させ、享受させるために、この恵みに富むことばの力を知らせてくださるように。「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです」[ヨハ3:14-15]。もしあなたがイエスを信ずるなら、――もしあなたがイエスを仰ぎ見るなら、――もしあなたがイエスに頼るなら、――もし聖霊があなたに信仰を与えてくださるなら、主はその働きをあなたの中で働き始めており、それを行ない続け、それを完成させ、ご自分の恵みが永遠にたたえられるようにてくださるであろう。願わくは、そのようにならんことを。イエスのゆえに。アーメン。

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スポルジョン氏からの手紙

 愛する方々。「労苦はその日その日に、十分あります」[マタ6:34]。それゆえ私は、自分が受けとった衝撃に自然とまとわりついているような恐れのいずれも繰り返しはすまい。医者はこう云うのである。「その膝については、じきに良くなるでしょうが、思い違いをしてはいけません。頭の方は、もっとちゃんと回復の兆しを見せるまで、試すのはいけませんぞ」。私は彼の云わんとすることが分かるし、こう痛感するのである。自分は、しばらくの間は、自分が楽しみとしている務めから遠ざかっていなくては、再び途方もなく愚かな事を行なってしまうのだろう、と。

 こうした件のすべてには、いくつもの良い点が伴っている。主の御名を賛美すべきことに、教会全体は、牧師がふたりとも悲しむべきしかたで不在にしている間も、その働きから手をゆるめることなく、祝福はやんでいない。私はこのことによって励まされ、慰められ、そして確信するものである。主は、何か大きな愛のご計画を持っているに違いなく、私たちの炉床の上で燃やされてきた、炭火の堆積によって、それを成し遂げてくださる、と。主は良いお方である。陽射しの中と同じくらい、暗闇の中においても良いお方である。すべては善である。見よ。神が私を殺しても、私は神を待ち望もう[ヨブ13:15]。ことによると、肉体的な弱さによって、霊の強さは増し加わされるのかもしれない。

破れざる愛とともに。あなたの苦しみつつある牧師
C・H・スポルジョン
マントン、1889年1月17日。

 

御霊と風[了]

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