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私たちの居場所、御足のそば

NO. 2066

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説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1879年6月8日、主日夜の説教


「御足のそばに」。――ルカ7:38


 東洋人は、姿勢というものに私たちよりも大きな注意を払う。彼らは内側にあるものをはっきり現わし、私たちが表明しない、あるいは、さほど熱をこめて表明しないものを、種々の外的なしるしによって表明する。彼らの宮廷では、いくつかの特定の位置が廷臣たちによって取られなくてはならない。東方の君主たちに近づく者たちは、王の偉大さと懇請者の恭謙さとを示唆するような位置を取る。それで、彼らの礼拝においても、東洋人は、神を前にするとき感じられるべきへりくだりを意味するような姿勢を豊かに有している。私たちの中のほとんどの者らは、外的な姿勢のことはほとんど重要視しない。ことによると、そうしたことについて十分考えを及ぼすことすらないかもしれない。静思の時に私たちは、からだの位置についてほとんど考えない。ならば、その分だけ魂の姿勢には、もっと注意を払おうではないか。そして、たといアブラハムがしたように立って祈ろうが、ダビデがしたように座って祈ろうが、エリヤがしたように膝まずいて祈ろうが、どうでも良いことだと思われるとしても、魂の姿勢には細心の注意が払われるようにしようではないか。私たちの心が見いだされうる最上の位置の1つは、イエスの御足のそばにあることである。ここに私たちは崩れ折れるか、ここに座すかして、数々のすぐれた模範に従って、この上もない益を得ることができるのである。

 霊的生活にとって真っ先に必要なことは、イエスの臨在を認めて、イエスとの交わりに入ることである。イエスを見ることが救いである。あの青銅の蛇を見ることが癒しとなったように、イエス・キリストを見ることによって永遠のいのちが魂にもたらされる。イエスを見る者となり、自分と主との間に、救いをやって来させるようなつながりができた後の私たちは、自分の主に対して種々の位置にあると述べられている。私たちは主の御胸の上にある。古の祭司が十二部族の名前をかかえていたのと全く同じように、イエスはご自分の民全員をその胸の上にかかえており、それこそ私たちが今このときいる所である。また、私たちがヨハネのように主の御胸によりかかっているような、恵まれた時もある。私たちは主の心臓が私たちに対する真の情愛で動悸しているのを感じる。私たちは単に主の愛を信ずるだけでなく、ある種の感覚を有している。――感覚とも呼べないものかもしれない。それは粗雑な知覚作用には属しておらず、そこには、イエスが私たちを愛しておられると感じさせる、一種の霊的に鋭敏な感受性があるからである。私たちは、「神は愛です。私にはそれが分かります、感じます」、と云っているかのように思われる。というのも、私たちの心の奥底に、神の愛は聖霊によって注がれているからである[ロマ5:5]。そのとき、私たちは主の御胸の中へと引き起こされる。その位置を取るのは、ほむべきことである。

   「おゝ、われらも聖き ヨハネとともに
    永久(とわ)にかしらを のせまほし、
    われらが主(きみ)の 御胸にぞ!」

私たちはまた、キリストの御手の中にあるとも述べられている。主の聖徒たちはみな、主の御手の中にある。主は彼らに永遠のいのちをお与えになり、彼らは決して滅びることがない。というのも、主はこう仰せになるからである。「だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません」[ヨハ10:28]。主の手のひらにあるあなたの位置を見てとるがいい。その一方で、キリストの御手は御父の御手でにぎられており、主は私たちにこう云っておられる。「だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません」[ヨハ10:29]。

 それからまた、私たちは主の肩の上にあるとも述べられている。あの良い《牧者》は、迷い出た羊を見つけると、それを肩にかついで家まで帰って来るではないだろうか?[ルカ15:5] アロンが主の前に立って嘆願していたとき、彼は部族の名前をその胸板の上にかかえていただけでなく、自分の両肩の上にある金の枠[出28:11]の中にも携えていた。キリストは私たちを、ご自分の愛の心と、ご自分の力の肩との上に乗せて運んでおられる。このようにして、私たちは完璧に安全なのである。

 このようにあなたは、私たちがどこにいるかが分かる。そして、私は、そうしたことをあなたに忘れてほしくないと思う。これから私は、主の民全員に、彼らが「御足のそばに」いるように力説しようとしているが、あなたは、こうした他の位置すべてを保ちながら、この位置をも自分のものとすることができるのである。というのも、それはからだには不可能でも、霊にとっては全く可能だからである。最高の楽しみと、最も充実した確証は、最も謙遜な畏敬の念と完璧に両立する。あなたは《主人》の口元まで高く上り、花嫁ととともに、「あの方が私に口づけしてくださったらよいのに。あの方の愛はぶどう酒よりも快い」*[雅1:2]、と云うことができるほどになれるが、しかし、それでも主の御足元に横たわり、自分の無価値さを自覚し、主の愛を感じる下で、ちりの中にひれ伏すことができる。

 私たちは、そうした他の位置をさておき、本日の聖句にある位置について考察しなくてはならない。そして、ただ2つのことだけ指摘しようと思う。――すなわち、第一に、主の御足のそばにいるのは、ふさわしい姿勢だということであり、第二に、御足のそばにいるのは、助けになる姿勢だということである。

 I. 第一に、《御足のそばにあるのは、ふさわしい姿勢である》。これが適切であるのは、主のご人格の威光のためである。主が天来のお方である以上、「御足のそば」は被造物にふさわしい場所である。イエスは、「万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神です」[ロマ9:5]。主について考えるときは常に、最も謙遜な畏敬の念を現わそうではないか。主は私たちのごく身近に来てくださる。それで私たちは、聖餐の席に着き、こう歌うのである。――

   「主は聖き御名 地をみたし
    もろびと呼ぶを 聞かんとす。
    主のまといたる 大威光(おおみいつ)
    愛の近づき えぬはなし」。

しかし、そこに威光はある。天来の威光はある。イエスは私たちの兄弟だが、多くの兄弟たちの中の長子[ロマ8:29]であられる。主は人のかしらを有しておられたが、そのかしらには多くの冠がある[黙19:12]。主は私たちのような性質を帯びておられるが、その性質は主の《神格》と結びついており、私たちはへりくだった崇敬をもって主の前にひれ伏すことなしに主について考えることができない。太陽も月も十一の星々も[創37:9]、ベツレヘムの星を伏し拝む。すべての束は、真中で真っ直ぐに立っているこのヨセフの束[創37:7]にお辞儀をする。あなたの母の子らはみな、あなたの前にひれ伏します。あなたがこの上もなく栄光に富んだお方だからです。見よ! すべての口が、あなたは主ですと告白し、すべての膝があなたの前でかがみます[ピリ2:10-11]。それゆえ、霊の喜ばしい平伏とともに、私たちは今からあなたの御足のそばでひれ伏します。

 私たちは、自分自身の無価値さを思い出すとき、主の御足のそばでひれ伏すのが良い。私たちは取るに足らない被造物である。こう云っても足りない。私たちは罪深い被造物である。主の尊い血によって贖われ、本当に信仰者となっているとしたら決して審きに会うことはないが[ヨハ5:24]、それでも私たちは、「ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子ら」[エペ2:3]なのである。受けるに値しないあわれみによって、私たちは今の私たちになっている。そして、今でさえ、主の恵みが私たちから引き下げられたなら、私たちは地獄の火を燃やすにふさわしい燃料なのである。私たちは自分の中にある何物も誇ることはできないし、イエスの近くに行くとき、私たちの位置は「御足のそば」なのである。ある人々は――否、私が思うに、主の民の中のいかなる者も――自らの罪人さ加減を思うとき、「御足のそば」以上の位置に高く上りたいとは願わないに違いない。主の愛を知ってからの自分がいかにさまよいやすく、数々の欠点を持った、主に対して心の冷たい者であるかを思えば、なおさらである。しかし、たとい、いや高い場所を占めることができる者が誰かいるとしても、私は自分がそうはできないことを知っている。おゝ、もし私が永遠に主の御足のそばに座っていることさえできるとしたら、また、もし私が主を仰ぎ見て、主が私を愛し私のためにご自身をお捨てになった[ガラ2:20]ことを、ほめたたえることさえできるなら、それは私の霊にとって永遠の天国であろう! そして、あなたも同じことを云わないだろうか? おゝ、虚無よ。お前は私たちとくらべれば、まだ何事かではある。私たちは無以下だからである! 無の虚空は、神が創造するために来られたとき、神の道に立ちはだかりはしなかった。だが、私たちのうちには、天来のみこころに反抗するものがある。――私は云うが、無よりも悪い何かがある。私たちの主の恵みに抵抗するものがある。だが、主は勝利を収め、私たちをお救いになった。そこで今や私たちは、深い謙遜とともに、「御足のそばに」額ずいているべきである。

 また、「御足のそば」がやはり私たちにふさわしい場所であるのは、私たちに対する、主の愛に満ちた請求権のためである。私たちの中の、恵みによって更新された者らは、サタンの奴隷たる境遇から救い出され、キリストへの甘やかな奉仕を行なう者となっている。そして今、私たちの大きな喜びは、主を《主人》また主をお呼びすることである。正しい精神状態にあるときの私たちは、あらゆるものを完全に主に明け渡す。私たちは「御足のそばに」私たちのあらゆる時間、才質、財産を置く。すべてのはかりごとをとりこにして[IIコリ10:5]、主の愛しい統治に服させたいと願う。私たちの大望は、主が完全に私たちを支配されることである。恵みの王笏によってこそ、イエスはご自分に頼る民を支配される。だが、それは鉄の王笏と全く同じくらい強力である。おゝ、主がそれを用い、それによって私たちの情欲を粉砕し、それによって土の器を打ち砕くように[黙2:27]私たちの罪深い願望を砕いて、私たちが全く主にささげきった者となるとしたらどんなに良いことか!

   「わが魂(たま)おさめ 征服(か)たせ給えや、
    そこに立てよや、汝が永遠(とわ)の御座。
    被造(つく)らる物を われに嫌気(いとわ)せ
    愛させ給え ただ汝れをのみ」。

これがキリスト者の願望である。そうした人々は《救い主》の御足のそばで喜ばしく従順に横たわり、征服なさる主に完全に服従している。

 もう一言云うが、主はすべてのすべてであり、私たちは主の御足のそばに横たわり、主のうちに救いを見いだしたいと思う。他のどこにも求めようとは思わない。ことによると、私が話しかけている人々の中には、永遠のいのちを切望し、救いを叫び求めている人がいるかもしれない。さあ、愛する友よ。私はあなたを知らないが、私の主はあなたをご存知である。来て、主の御足のそばに横たわり、こう叫ぶがいい。「私は決して離れません、あなたが私に平和を告げてくださるまでは」、と。あなたは、キリスト以外のどこでも平和を見いだすことができないと確信しているとき、まもなくキリストにあって平和を見いだすであろう。イエスのうちに見いだすもの以外のあらゆる希望に嫌気が差しているとき、じきにイエスのうちに希望を見いだすであろう。さあ、そこに這いつくばって云うがいい。「もし私がここで滅びるというなら、私は『御足のそばで』滅びよう」、と。そこで滅びた者はいない。十字架の下、完全ないけにえがささげられた所に、私は自分の身を投げ出す。私は決してそこから一吋たりとも動くまい。もし永遠の雷電がその十字架を打つとしたら、それは同時に私をも吹き飛ばすはずである。ここに私はとどまるからである。イエスの御足のそばに私は横たわる。他の一切のものには絶望しているが、イエスからは決して離れ去るまいと強く決意している。イエスとともに生きるか死ぬと決意している。では、これこそイエスの御足のそばにいる姿勢ということで私が意味していることである。

 しかし今、思い起こすがいい。愛する方々。イエスの御足のそばが、聖徒たちが喜んで取ろうとする、まさに最も輝かしい位置であるということを。ヨハネは、パトモス島にいて、自分の愛する《主人》を見たとき、自分の頭をその御胸にもたせようなどとはしなかった。彼の言葉を思い出すがいい。「それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった」[黙1:17]。さて、もし神聖なヨハネのような者がそこに横たわるとしたら、それはあなたや私にとって十分に高貴な場所である。「御足のそばに」。おゝ、そこに到達しよう! 低く、低く、低くなるがいい。高ぶった顔つきよ! 高慢な思想よ、打ち倒れよ! 律法的な希望よ、自己信頼よ、打ち倒れよ! 去れよ、去れよ! 人間を高める一切のものよ。そして、キリストだけが高く上げられよ。私たちはその御足のそばに横たわるであろう。というのも、もし私たちが喜んで頭を垂れなければ、へりくだらされる経験によっていやでもそうさせられることになるからである。主は万物をその足の下に置かれた[エペ1:22; 詩8:6]。私たちも自分を「御足のそばに」置こう。もし私たちがいま主を自分の《主人》また主として受け入れようとしなければ、私たちは神の怒りの酒ぶねに投げ込まれるであろう。そして神は私たちをその御怒りによって踏みにじり、燃える怒りで私たちを粉砕される。願わくは神がそのような運命から私たちを救い出され、私たちが主の御足のそばにいることを喜ぶ者となるように。

 II. さて、私たちは第二の所見に目を向けよう。私たちは、それがふさわしい姿勢であることを示したものと思う。だが、ここで第二に、《それは非常に助けになる姿勢である》

 本日の聖句に目を向けて、これが涙を流す悔悟者にとって非常に助けになる姿勢であることを見てとるがいい。「その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油のはいった石膏のつぼを持って来て、泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立……った」[ルカ7:37-38]。それは私たちが悔い改める助けとなる。行ってモーセの足元に立ってはならない。あなたは決してそこでは悔い改めないであろう。シナイの麓に立って身震いすることは、それなりに役に立つ。だが福音の悔い改めは、律法的な恐怖から生じはしない。恵みによる涙は、イエスの御足のそばで流される。おゝ、もしあなたが、心砕かれたいと、また、この岩から悔い改めの川を噴き出させたいと願っているとしたら、イエスの御足のそばに立つがいい。今そこに立つがいい。もしも柔らかな心を持ちたければ、あなたのために死なれた、この《愛する方》を思うがいい! その御足がいかに刺し貫かれたか考えるがいい。この女にそれは見えなかった。そのときには、まだそれはなされていなかったからである。だが、あなたはそれを見ることができ、その釘が、ほむべき御足のそれぞれどこに穴を開けたかに目をとめることができる。

 「御足のそば」が悔悟する者にとって最上の居場所だというのは、それが信仰を助けるからである。というのも、あなたがこの愛しい御足を見下ろすときには、こう考えるであろう。「このお方は神だ。だのに、私に代わって苦しむために人となられたのだ。そして、この愛しい御足は私の心が死から救い出されるために刺し貫かれたのだ」。そのときあなたは、この偉大な《身代わり》の光景を見て、信仰が自分の魂の中に湧き上がることに気づくであろう。このような信仰にこそ、赦罪が伴うのである。御足のそばに立つときあなたは、主がご自分の頭を巡らし、この女に向かって仰せになったことばをあなたにもお語りになることに気づくであろう。「あなたの多くの罪は赦されています。あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい」[ルカ7:47、50]。キリストから離れた悔い改めは、悔い改められる必要があるであろう。キリストの御足のそばでなされた悔い改めだけが、有するに値する悔い改めである。あなたが罪のために涙を流しても、その涙ゆえにキリストが見えなくなるとしたら、そんな涙は拭い去るがいい。不信仰による涙は、神が喜ばれるようなものではない。しかし、苦い悔い改めを味わい、それから、蜂蜜入りの赦罪の蜜を味わうのは、また、魂がずきずき痛んだ後で、それがイエスの御足のそばに立っているために喜ばされるのは、甘やかな、甘やかなことである。

 そして、涙を流して悔悟しているすべての人々にこう云わせてほしい。――立って、イエスの御足のそばに行くがいい。なぜなら、そここそあなたの愛があふれるだろう場所であり、そここそあなたが、自分の罪を拭い去ってくださるお方のために何かを行なうことを考え始めるだろう場所だからである。この女は、その豊かで長い髪の房をほどいて、拭い布としたではないだろうか? 水差しとたらいの代わりに、彼女の目の泉を、否、彼女の心の泉を用いて、主の御足を濡らしたではないだろうか? それから彼女は、香油として石膏の壺を割り、自分に救いをもたらしてくださったこのお方の愛しい、愛しい御足に、口づけし、口づけし、口づけし、さらに口づけした。おゝ、悔悟する人たち。私は切に願う。モーセとともに吹きさらしの張出し玄関にいてはならない。むしろ、イエスがあなたを歓迎してくださる室内に入るがいい。そして、その御足のそばに立つがいい。すると主はあなたに、あの、神のみこころに添った[IIコリ7:11]ほむべき悔い改めを与えてくださるであろう。それは、あなたに、平和という答えをもたらし、あなたの魂の中でいのちを養うであろう。

 こういうわけで、「御足のそば」は、涙を流す悔悟者にとって助けとなる姿勢なのである。

 さて、あなたは自分の聖書のルカ7章を開いているが、8章に移って35節を見るがいい。あなたは、一軍団もの悪霊を自らに宿していた男の話を知っているであろう。彼は自分のからだを傷つけ、墓場に住みついていた。ここに、こう記されている。「人々が、この出来事を見に来て、イエスのそばに来たところ、イエスの足もとに、悪霊の去った男が……すわっていた」。

 イエスの御足のそばは、新しく回心した者にとって最上の居場所である。悪霊どもに取りつかれ、垣根も溝も野原も大水も飛び越えて、どこへ行くか皆目見当もつかなかった、このあわれな男がどのような精神とからだの状態にあったに違いないことか! 人々は彼を鎖でつないだが、サムソンの再来のように、彼はそれを引きちぎった。彼は火打ち石で、短刀で、茨で自分を切り裂いた。あわれて、みじめな男よ! 彼は日も夜も休むことがなかった。むしろ、その陰気な叫び声で夜を薄気味悪いものとし、その墓地を通りかかるものをぞっとさせ、ここは地獄の門のそば近くかと感じさせていた。悪霊どもの一軍団全体が、このあわれで、みじめな男の中に巣くっていた。そして、キリストがその悪霊どもをみな追い出されたとき、彼は疲れ切り、消耗していたに違いない。譫妄状態の直後のように、そこには何のいのちも残っていないように思われた。彼は休息を欲した。どこでそれが得られただろうか? 彼はイエスの足元に座った。なぜ彼がそこで休んだか分かるだろうか? 悪霊もイエスの足元には押し寄せることができないと感じたからである。彼は、イエスの御足のそばに座っている間は、悪霊が二度と自分のからだに入らないことは間違いないと感じていた。何と、しかり。あの悪霊どもはイエスを恐れていた。豚に入り込んでは湖に突進して落ちていったのも、イエスから逃れるためだった。彼をあれほどすさまじい運命から救出してくださった、この偉大な《お方》の御足のそばに座っている限り、彼は、「私はここなら安全だ」、と感じているように思われた。イエスの御足のそばで、彼は勇気を奮い起こし、力を蓄えた! 彼は新しい着物を着て(彼は、長いこと全く何の着物も着ていなかった)、もつれあった髪の毛を再び梳き、それまで汚物で覆われていたあわれな顔を再びきれいにした。その彼が感じた愉快な感情と幸福とを私は到底想像できない。ただ私も、激しい苦痛と長い病の後で、大気を再び呼吸し、痛みから解放されるとき、時々どう感じたかを思い出すだけである。回復期は非常に甘やかであり、魂がとうとうキリストに至るときに感じるかを、見事に現わしている。「彼は私を救ってくださった。だが、おゝ! 私は倦み疲れている。倦み疲れている。私は彼の足元に座ることにしよう」。そして私たちは、主の御足のそばに座るとき、一切の倦み疲れが過ぎ去るのを感じる。

 「古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」[IIコリ5:17]。私たちは、新しい天と新しい地とを見る。また、私たちは完全に新しく造られた者となる。そして、私たちが座るのは、すべてを新しくなさるお方の御足のそばでなくてどこであろう? あなたがた、キリストをすでに見いだした人たち。また、今や大いに休息を必要としている人たち。キリスト以外のどこにも休息を見いだそうとしてはならない。さあ、「御足のそばに」座るがいい。もはや何の叫びも、もはや何の恐れも、もはや何の疑いも、もはや何の絶望もいだいてはならない。キリストはあなたを救われたのである。じっと座って、主が何をしてくださったか、何をしておられるかを思い出すがいい。じっと座って、主の愛しい御顔を見上げて、云うがいい。「私を地獄の顎からひったくり、かの竜の歯の間から私を救い出してくださった、この全く麗しいお方に誉れあれ」、と。おゝ、愛する方々。イエスの御足のそばで休むほどの休息はない。

    「ここにてわれは 天国(はて)をば得たり。
    十字架(き)をば見る間に」。

 さて、あなたの指をもう少し進めて、同じ章の41節を見てほしい。そこであなたは、「イエスの足もとに」いることが、願い事を懇願する人にとって――自分自身は救われており、他の人々のために嘆願している人々にとって――非常に助けになる姿勢であることを見いだすであろう。「するとそこに、ヤイロという人が来た。この人は会堂管理者であった。彼はイエスの足もとにひれ伏して自分の家に来ていただきたいと願った。彼には十二歳ぐらいのひとり娘がいて、死にかけていたのである」[41-42節]。

 私たちの中の多くの者らは、他の人々のために神にとりなしをするとはどういうことか知っている。だが、他のいかなるとりなしにもまして効果があるのは、イエスの御足のそばでなされるものである。あなたの心が砕かれているとき、――自分には自分が求めているあわれみを受ける価値などないと感じるとき、――アブラハムのように、「私はちりや灰にすぎませんが、あえて主に申し上げるのをお許しください」[創18:27]、と叫ぶとき、――そのときこそ、あなたは聞き届けられることができるのである。「御足のそばに」横たわるがいい。しかし、それが他の誰かの足であるかのように横たわってはならない。それをイエスの御足とするがいい。あなたの愛しい主、あなたを救うためにやって来られた主の御足とするがいい。そこに横たわって、云うがいい。「主よ。私の娘をお救いください」、あるいは、「主よ。私のさまよっている、わがまま息子をお救いください。あれをお救いください。あなたのあわれみのゆえに」、と。あなたの魂の全体で嘆願するがいい。執拗に懇願するがいい。だが、絶望した調子で懇願してはならない。

 もしあなたがイエスの御足のそばにいるとしたら、あなたは助けの泉の近くにいるのである。あなたは、あなたを優しく愛しておられるお方の近くにいるのである。人間を愛していなかったとしたら、足など持っていなかったはずのお方の近くにいるのである。というのも、主は愛ゆえにご自分の上に肉体をお取りになり、その御足は主のからだの一部だからである。おゝ、私たちが祈るとき、キリストの臨在を悟ることができるとしたらどんなに良いことか! というのも、もしそうでないとしたら、私たちはからっぽの入会地か、邪険な海を越えて祈っているのである。私は、《仲保者》の耳に直接祈ることを好む。イエスがそばにおられるとき、また、人がその友と話すようにあなたがイエスに語りかけるとき、それは偉大な祈りとなる。こういうわけで私は今こう祈る。「主よ。私の会衆をあわれんでください。人々をお救いください。主よ。私が何度も祈ってきた人々、今なお心において更新されていない人々をあわれんでください」。私たちがそのように祈るときは、常に聞き届けられるだろうか? 私は、自分がキリストに聞いていただいていると分かるときには、自分が郵便に出した手紙への答えを期待するのと同じくらい確信をもってお答えを待ち受ける。私たちの祈りのいくつかは、私たちの信仰の欠けのため、そのようにはならない。それは、神がおられること、また、神を求める者には報いてくださる方であること[ヘブ11:4]とを私たちが信じていないときのことである。だが、私たちがそれを信じているとき、神は私たちに耳を傾け、私たちを聞いてくださる。それで、ヤイロよ。もしあなたの娘が病んでいるとしたら、彼女のために祈るがいい。だが、それを「イエスの足もと」で行なうがいい。あなたには不敬虔な親族がいる。そして、あなたはしばしば祈ってきたが、ことによると、イエスの御足のそばで祈ったことはなかったかもしれない。そして、私はあなたが今その神聖な場所を試してみるよう勧めるものである。

 四度目に、もう少し先に進んで、ルカ10:39に向かってもらえるだろうか? 「彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた」。それで、「主の足もと」は、意欲的に学ぼうとしている者にとってふさわしい居場所である。私たち自身の無知を謙遜に感じとり、「主の足もと」以上の所にあえて座ろうなどとはせず、むしろ、信仰に満ちた信頼をもって、主には無限の知恵があることを頼んで、実際に「イエスの足もとに」座って、イエスから学ぼうとすること、――これこそ適切なことである。もし私たちがイエスの足もとで学ぼうとするなら、いかに私たちは、いやまさって偉大な生徒になることであろう! 主の民に属する中のある者たちでさえ、多少、知りすぎている。学校にいる多くの少年たちは、いかに優秀な教師がいても何も学ぶことがない。というのも、自分にうぬぼれているからである。彼らは何も知らず、自己流で自学する。残念ながら、私たちはそうした生徒と似ているのではないかと思う。私たちは何も知らず、自己流で自学している。私たちには幾多の偏見がある。――真理がいかなるものでなくてはならないかという意見がある。これは悪いことである。しかし、おゝ、こう感じることは非常に甘やかなことである。「私は何1つ分かっていません。どうかやって来て、聖書を取り上げ、それを私の心の印画紙に焼き付けてください!」 一部の人々の精神は、着色硝子窓のようである。それは光の大部分を遮断して、何とか内側にもぐりこんだ光を、結局は自分なりの色で着色してしまうのである。素通しの窓の方が良い。そうすれば、主の光は、その色合いや、微妙な濃淡もそのままに、天からやって来た通りに、私たち自身から得たものは何もなしに、やって来ることができよう。愛する方々。私は主に祈る。私たちを一切の偏見から、うぬぼれから、他の者たちから発した意見の数々から自由にしてくださるように、と。

 私たちはイエスの御足のそばで学ばなくてはならない。他の人がキリストから離れて行くときにも、人間の足もとで学んではならない。時として主は、ご自分がお教えになった人を遣わしてくださるであろう。そして、そうした人々から私たちが得ることは、私たちに対する神ご自身の声であろう。それでも私たちは常に、人が自分から云うことと、そうした人々が自分の《主人》の御名で云うこととを進んで区別しなくてはならない。というのも、そこには大きな違いがあるからである。「イエスの足もとに」、私たちは自分の座を占めなくてはならない。神学を学び始めている、また、他の人々の教師になろうと願っている愛する青年たち。自分を何らかの体系にささげきって、こう云ってはならない。「私はかくかく博士に、あるいは、しかじか博士に従う」、と。ジョン・ウェスレーが私たちの教師ではなく、イエス・キリストである。ジャン・カルヴァンが私たちの《師》ではなくイエス・キリストである。こうした人々がいかに偉大で善良であったとしても重要ではない。彼らは神の教会全体の愛に値するが、私たちは彼らをラビとは呼ばない。私たちは、その人がキリストに従っている限りはその人に従って良いが、それ以上は一吋もそうしてはならない。私たちはイエスの足元に座らなくてはならない。謙遜で、教えられやすく、子どものように、信頼し、イエスが云われることを信じつつ、だが、自分自身の「知っていること」は何1つ持ち込まないことである。――すべてを主から受けとるのである。

 しかし、もはや時間が尽きてしまったため、私はあなたを、ルカの中であなたに示したい最後の事例に連れて行かなくてはならない。ルカ17章の16節を見るがいい。――先に私が朗読した章である。ここに記されているサマリヤ人は、病を癒された後で、主の足元にひれ伏して、主に感謝をささげている。よろしい。ならば、その位置は、あらゆる感謝に満ちた礼拝者にとって、最も助けとなるものである。私は、御使いたちと、血で買い取られ者たちがその天界の合唱曲を開始しつつあるのが見えるような気がする。私の想像力は、この光景を見つめている間、ほとんど目もくらむばかりとなってしまう。彼らはみな太陽よりも明るく照り映え、その全集団は真昼の光を一千倍したよりも燦然と輝いている。その有頂天の旋律を彼らが始めるのを聞くがいい! 永遠の御父と、栄光に富む神の《小羊》とをたたえて礼拝する、彼らの調べが何と甘やかで、何と熾天使的であることか! 私たちにはその歌が聞こえる。それがいかに膨れ上がることか! 聞けよ、かの弾き手たちが優しくつまびく立琴の響きを! あなたは、あの歌い手たちと、楽器の弾き手たちとが、いかに陶酔しきって見えるか気づいているだろうか? しかし、よく聞くがいい! その歌が立ち上り出すにつれて、彼らは低くかがみ始める。それが高く上るにつれて、彼らはより低く、低く、低く頭を垂れる。聞けよ! 彼らの愛の熱狂的な熱情は、彼らの最も大きなハレルヤを高く上げさせる。そして、見よ! 彼らはその冠を主の神聖な御足の前に投げ出す。その全集団は、なおもその歌をその究極の栄光へと高めつつあるが、ただちに自らの顔を伏せ、御座の前にはいつくばる。「御足のそば」こそ彼らの最も高尚な位置なのである。彼らを模倣し、礼拝を以前よりもずっと陶酔的なものとし、主の前にひれ伏そう。

   「見よ、御足元の 荘厳(たか)き喜び、
    万民(もろびと)額ずく!
    喜びをもて 無にぞ縮みぬ
    永遠(とわ)の《すべて》の 御前にて」。

それで、私たちのために主がなされたすべてのことゆえに、主を賛美しよう。そして、主を賛美する際には、低く、低く、低く、沈みこみ、私たち自身において、私たちが無であり、キリストだけが私たちの中で生き給うようにしよう。いかなる自我の思いも、自己のための願いも、自己の夢も侵入させず、ただイエスをすべてのすべてとしよう。「御足のそばに」、私たちの天国が見いだされるようにしよう。私たちの魂が最も深く感謝の賛美に浴するとき、私たちは自分の顔を低く伏せて、《小羊》を礼拝するのである。主があなたを祝福し、あなたを御足のそばに永遠に保ってくださるように。アーメン。

私たちの居場所、御足のそば[了]


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