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羊を見つける私たちの大牧者

NO. 2065

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1889年1月27日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1888年3月25日、主日夜の説教


「見つけるまで……見つけたら、帰って来て」。――ルカ15:4、5、6


 《大牧者》イエスの愛は非常に実際的で活動的である。一匹でも失われた羊がいると、主はそれを気の毒に思われる。だが主の愛は、気の毒に思うだけで疲弊したりしない。主は立ち上がり、失った者を捜しては、お救いになる。イエス・キリストの愛は、ことばや口先だけではなく、行ないと真実をもっての愛[Iヨハ3:18]なのである。また、イエスの愛は熱く燃えるものである。主は、その羊が戻って来たくなるまで、あるいは、戻ろうとする何らかの試みを行なうまで待つことはない。その失われた状態がこの《羊飼い》に知られるや否や、主は即座に出立し、失われた者を見つけようとする。また、この失われた羊に対するイエスの愛は著しく抜きんでたものである。主は九十九匹をその牧草地に残し、しばらくの間それらを忘れては、自分の心と目と力の限りを尽くして、道を踏み外した一匹に専念される。おゝ、キリストの甘やかな愛よ。これほどまでに実際的で、熱く燃え、抜きんでた愛よ! 私たちは、それを学びとることのできる恵みを願い求めよう。特に、私たちの中にいる、人々の羊飼いとなるべく召されている者たちはそうしよう。

 神の民の間では、ほとんどの聖徒たちに、互いに見張り合う責任がある。いかに小さな群れであろうと、また、それが自分の家族だとか、安息日に自分の回りに集まる小さな学級だとかに限定されていようと、それでも私たちはみな、ある程度まで、自分の兄弟の番人[創4:9]である。私たちはキリストの愛を学んで、牧羊術によく通ずるようになろうではないか。私たちは、自分の友人たちのことを口に出し、彼らを愛していると云おう。だが、それを示すため、熱心で、個人的で、時を置かない努力によって彼らに善を施そう。彼らのうちに何か良い点を見いだすまで――彼らが教えを求めるまで――待とうとしたりしないようにしよう。むしろ、「おゝ、いざ立ちて 迷うを捜(もと)めん、子らのさまよう 死の通い路(じ)を」。そして、彼らが帰って来ようと考えるはるか前から、彼らの後を辿り、熱心に彼らをつかまえようと努め、何とかして、幾人かでも[Iコリ9:22]救おうと努めよう。おゝ、私たちの心に、魂に対するそのような愛があればどんなに良いことか。私たちを没頭させるあまり、地上的な必要を忘れさせ、ただこの、より高い必要だけを覚えているような愛があれば! 聖ベルナルドゥスによれば、マルタがマリヤに不平を云わなくてはならないような家は良い家だという。――そこでは、恵みに満ちた務めが、他の働きの影を薄くしているのである。人々が、失われた羊を救うことに主たる精力を注ぎ込もうとするあまり、それに劣る仕事について、しばしたるんだ状態にさえなるのは、最上の罪悪である。

 そこまでを序論としよう。願わくは私たちが、ベルナルドゥスが見てとったように、イエスの愛を見てとることができるように。そうすれば、私たちは十分に説教を受けとめたことになるであろう。

 本日の聖句で私は、3つの時にあなたの注意を引きたいと思う。

 I. まず、《良い牧者》なるキリスト[ヨハ10:11]は、失われた羊を「《見つけるまで》」捜し求められる。それが私たちの第一の項目である。――「見つけるまで」。それは、「見つけるまで」なされる長距離行である。

 私はこの云い回しを嬉しく思う。主イエスが地上に降りて来たのは、人々を捜してみようと試みるためではない。主は、それを行なうために来て、実際にそれを行なわれた。主は地上に滞在し、失われた羊を見つけるまで捜し求められた。その働きがなされるまで、決して投げ出されなかった。主は今この時、ご自分の選民の間におけるその恵みのみわざによって彼らを救おうと試みたあげくに、敗北を喫したりなさらない。むしろ魂を捜し続け、「見つけるまで」そうしてくださる。

 この捜し求める羊飼いを見るがいい。彼は羊を捜している。注目するがいい。それを「見つけるまで」、いかに彼が心配げな顔つきをしていることか。ここには、それを見つけた後で彼が大喜びしたと記されている。だが見つけるまでは何の喜びもない。彼は神経を張りつめ、いかに微かな物音も聞きつけるように耳を澄ましている。いなくなった羊の鳴き声がするかもしれないからである。彼の目は鷲の目のようである。向こうの蕨の茂みに、何かもそもそ動くものを見つけるや、ほんの一歩か二歩で跳んで行く。それほど熱心なのである。否、それは間違いだった。それは羊ではなかった。ことによると、それはどこかの怯えた狐だったのかもしれない。彼は石塚によじ登り、その天辺から回り中を見渡す。私は彼が、耳と目を一緒にして眺めているとさえ、ほとんど云うところであった。彼は全身全霊を傾けて一心に見つめている。ひょっとして羊を見分けられるかもしれないからである。その顔に微笑みは浮かんでいるだろうか? あゝ、否! 「見つけるまで」そのようなものはない。彼の魂はことごとく、それを見つけるまで目と耳に集中している。これは、ご自分の羊を捜しに地上にやって来られた、かの《大牧者》のおぼろな、だが真実な絵姿である。福音書記者たちは、そのようなお方として主を、彼らの紙と墨による素描において描き出している。――常に油断怠りなく、夜も日も祈りと、涙と、懇願に費やし、失われた者を見つけるまで決して喜ぼうとはしないお方として描いている。そして、主は、一匹の羊を見つけ、そこにご自分の食べ物、飲み物を見いだしては[ヨハ4:34]、ご自分の愛するみわざをそこまで成し遂げたという事実によって元気を回復なさるのである。この大いなる《羊飼い》は、ご自分の羊に関して、それを「見つけるまで」、精力と心遣いを傾け、精神を集中しておられる。

 イエスには何のためらいもない。羊が失われ、その知らせが羊飼いのもとに届くや、彼はきりりと衣に帯を締め、捜索に飛び出している。彼はたちまち、迷った羊がどの方角に向かっているかを知り、即座に後を追い始める。その足跡に印をつけるには、自分の血を用いなくてはならないと知ってはいるが関係ない。このほむべき羊飼いが一心に道を急ぐ姿を見るがいい。そこには、「見つけるまで」立ち止まることも、一休みすることもない。彼は決心しているのである。自分の羊を一匹たりとも失いはすまいと。それで彼は丘を越え、谷を越え、さまよい歩く者を「見つけるまで」追跡するのである。

 もしあなたがこの羊飼いの顔をのぞき込むとしたら、そこには何の怒りの気色もない。彼は、「おゝ、この俺様が、あの馬鹿な、迷い出した羊のために案じなくてはならないとは!」、とは云わない。心配に満ちた愛のほか、そこにはいかなる思念もない。それはみな愛であり、愛以外の何物でもない。彼がそれを見つける前は、見つけるまではそうである。そして、あなたは確信して良い。彼がそれを見つけた後には、心遣いに満ちた優しさが全く働き出すことになるだろう、と。彼は、心配げな愛のまなざしで眺めている。「わたしは誓って言う」、と主は仰せになる。「わたしは決してだれが死ぬのも喜ばない。かえって、それが立ち返って、生きることを喜ぶ」[エゼ18:32; 33:11参照]。そこに不安の思いは全くないであろうが、「見つけるまで」、失われた羊に対する憐れみに富む心遣いが満ちているであろう。

 そして、よく聞くがいい。それは決してあきらめに屈することがない。その羊は、今やもう何時間もさまよっている。日が上り、日が沈んだ。あるいは、少なくとも、今しも沈みつつある。だが、この羊飼いにものが見える限り、また、その羊がなおも生きている限り、彼は「見つけるまで」捜し続ける。彼は、幾度となく失望してきた。また、ついに見つけたと思ったときも、それを取り逃がしてきた。だがそれでも、彼は決してあきらめないであろう。彼は、抵抗しがたい愛によって前へ突き動かされている。そして彼は、その疲労しきった捜索を、見つけるまで続けるに違いない。これは、私たちの主イエス・キリストについても全く同じである。主があなたを求め、私を求めてやって来られたとき、私たちは主から逃げて行ったが、主は私たちを追われた。私たちは主から隠れたが、主は私たちを発見された。主はほとんど私たちをつかみかけたが、私たちが主からすり抜け続ける限り、主は私たちを見つけるまで、たゆみない愛によって追跡し続けてくださる。おゝ、もし主が最初の十年間の後であきらめてしまっておられたとしたら、――もし主が五十回もの異なる機会に、私たちが良心を押し殺し、御霊を消した後で、私たちの中のある者らについて気遣うのをやめておられたとしたら、――私たちは失われていたはずである。しかし、主は追い返されようとはなさらない。主は、救うと決心したとしたら、そのぶらついている羊を見つけるまで追跡し続けなさる。主は、見つけるまで、その捜して見つけるみわざをやめることができず、やめるはずがなく、やめたいとも思われない。私が今晩望むのは、この時、この場にいるある人々についてこのように云われるようになることである。「《救い主》は、これこれという者を追いかけてきたが、ついに見つけられた。――タバナクルで見つけ、その一切のさまよいにそこで終止符を打たれた。――向こうの桟敷席で彼を見つけ、彼の一切のさまよいに、『十字架の根元で』終止符を打たれた」、と。願わくは神がそのようにしてくださるように! だが、あなたについてそうなろうとなるまいと、このことだけは確信するがいい。――主イエス・キリストは、何千、何万もの場合において、不退転のあわれみによって罪人たちを追跡してこられ、罪の丘々を飛び越え、彼らを見つけるまで後を追われたのである。私たちはいま永久永遠に主のものである。というのも、私たちを見つけ出されたお方は、決して私たちを失うことがないからである。主の御名はほむべきかな!

 次の点に移る前に、この教訓を学ぶがいい。もしあなたが、誰かの回心を求めているとしたら、その人を見つけるまで後を追うがいい。落胆してはならない。数知れず肘鉄砲を食わされ、なじられても辛抱するがいい。やがてあなたは彼を手に入れるであろう。確実に成功する人とは、自分の目当てから意欲をそがれることができない人である。ある人々からは、きわめて落胆させられるようなことを何度となく受けとることが必要であろう。それを受けとり、そのことについて何も云わないがいい。ただ自分に向かってこう囁くがいい。「私も、自分に心遣いをしてくださる、かの《大牧者》に剣突を食らわしてきたかもしれない。だがしかし、それでも脇に打ち捨てられることがなかった。もし主が私を死に至るまで保たれたとしたら、私も一個の魂を捜し求め、見つけようとすることにおいて、いのちある限りやり通して良いであろう」。私の聞いたことのある妻たちは、自分の夫のため神に二十年間、懇願してきたという。それにもかかわらず、結局、その夫たちが回心する姿を見ることになったのである。この場所で見られたいくつかの場合においても、疲れを知らない愛が不敬虔な親族たちを追いかけ続けた果てに、とうとう彼らが主権の恵みによって救われたのである。愛に満ちた懇願をささげ通すがいい! あなたが、まだ救われないままの愛する者を埋葬するそのときまで、彼らを死んだものと考えてはならない。彼らが本当に死ぬまで、彼らを霊的に埋葬してはならない。ある人々は簡単に気を挫かれてしまう。彼らは、自分の友のために祈るのをやめることによって、彼の死の宣告に署名してきた。だがしかし、その死の宣告は決して天の登録簿において記されはしないであろう。というのも、彼らの友人は《救い主》の足元に導かれるであろうからである。

 「見つけるまで」。さて、あなたの軍旗を帆柱に釘付けるがいい。「見つけるまで」、と。働きに出るがいい。あなたがた、キリストのしもべである羊飼いたち。この標語をあなたの座右の銘とするがいい。「見つけるまで」。生きようが死のうが、働こうが苦しめられようが、時が短かろうが長かろうが、道がなだらかであろうが険しかろうが、あなたがたの中のひとりひとりは、「見つけるまで」魂を捜し求めなくてはならない。そのときあなたは、その魂を見つけるであろう。キリストがあなたを見つけてくださったのと全く同じように。第一の点はここまでとしよう。

 II. さて第二の点はこうである。――「《見つけたら》」。見つけたら、主は何をなさるだろうか? よろしい。まず、堅く把握なさる。「大喜びでその羊をかついで」。それで、彼がそれを見つけたとき、最初に行なうのは、それを堅くつかむことである。彼を見るがいい。彼はその羊に密着している。このあわれな動物は疲れ切っているが、まだ逃げ出すだけの力が残っているかもしれない。それゆえ、この羊飼いは羊がそうしないようにきちんと用心する。その足をつかむと、それを堅く握る。それこそ主イエスが、ついにある人をとらえるときになさることである。その人は、罪意識の下で砕かれ、これ以上天来の恵みに対抗するには疲れ切り、消耗し切っている。私たちの主は、この反逆者を堅くつかみ、もはや決して逃げられないようにされる。私は、主が私をつかんだときのことを覚えている。主は決してその把握を今日に至るまで失っておられない。しかし、おゝ、それは何たる把握であったことか! 私の移り気な精神をキリストの御手のように握りしめたものはなかった。その天来の御手――地の基を据えた御手――が私を堅くつかんだとき、私のさまよいは決定的に終止符を打たれた。

 そのように堅く把握した後で、次になされたのは、恵み深く持ち上げることであった。彼はこのあわれな羊をかかえ上げ、自分の肩の上に乗せた。そして、それはその一切の重みとともに、力強い両肩によって運ばれた。それこそ《救い主》があわれな倦み疲れた罪人たちになさることである。主は彼らの罪の重みを、否、彼ら自身の重みをかかえてくださる。主は私たちをまさにあるがままに取り上げ、ご自分の律法によって私たちを追い返す代わりに、ご自分の愛によって私たちを家までかかえて行ってくださる。家へ帰れと私たちに急き立てる代わりに、主はご自分の贖われた者たちの重荷を雄々しく担い、彼らをご自分の肩に乗せてくださる。そして、今やあなたは、あなたの前に、想像力が素描しうる限り最も麗しい肖像画の1つを有している。――羊たちの偉大な、王冠を戴いた《羊飼い》、王の王、主の主なるお方が、その肩の上に、喜んで担われる荷として、かつては迷い出た羊をかついでおられる姿である。おゝ、私は神に祈るものである。あなたが、もしもこの恩顧を受けたことが全くなかったとしたら、この幅広い両肩の上に伏すようになることを。この全能の両肩は私たちの弱さを担う。――この強大な《救い主》は私たちと、私たちの罪のすべてと、私たちの思い煩いのすべてと、私の存在すべてとを、その御力の肩の上に負ってくださる。――これは、御使いたちのための光景である。

 そして、主がこのようにその重荷を担われる間、注目すべきは、距離が取り除かれていることである。次の節には、「帰って来て」、と記されている。だが、そこには、その道のりについては何1つ語られていない。というのも、いかにしてか、私たちの《主人》は、一瞬にして家に帰り着くすべを心得ておられるからである。罪人は自分では、罪に満ちた二十年間によって倦み疲れているかもしれない。だが、ほんの五分で、それらすべては消え去ることがありえる。あなたは、五十年もかかって、今のあなたのような、地獄に値する罪人になり果てたのかもしれない。だが、イエスは時計が五回もチクタク云わないうちに、あなたを洗い、雪よりも白くし、大いなる御父の家に連れ戻すことがおできになる。実は、この《羊飼い》の贖いのみわざはすでに成し遂げられているのである。

   「いかにすさまじ 時たらん、
    神、わが彷徨(まよい)を 置き給い、
    復讐(みいかり)を疾く 注がれぬ、
    われらが《牧者》(きみ)の かしらにぞ!

   「いかに栄光(はえ)ある 恵みぞや、
    鞭をキリスト 忍びたり!
    いのちと血とを 払いしは
    群れを贖う 代価(かた)なるぞ」。

この贖いの過程によって、主は私たちを神に近づけてくださったのである。

 《羊飼い》にも羊にも、うんざりするような帰路は全くない。彼は羊を堅くつかみ、それを自分の肩にかつぐや、彼ら双方は、囲いに戻っているのである。

 しかし、私があなたに注意してほしい特別な点は、この大いなる《羊飼い》が、この重荷を背負われる時のことである。こう記されている。「見つけたら……その羊をかついで」。――非常な懸念をもってだろうか? そうであるかどうか見てみるがいい。そうした類のことは全くない。しかし、こうではないだろうか? 「疲れきった様子でその羊をかついで」。否。見よ! 見よ! 「大喜びで――大喜びで――その羊をかついで」。彼は、自分が苦しまなくてはならなかった大儀さのすべてを忘れている。素晴らしい牧草地からいなくなり、これほど大きな危険に巻き込まれ、羊飼いにこれほどの苦労をかけた、この羊の愚かさについては考えていない。それについては一言も口にしていない。「大喜びでその羊をかついで」。彼は自分に向かってこう云う。「私はこの荷物をかかえるのが嬉しい。何と幸いなことか、いなくなった私の羊を家までかかえていけるとは」。そして、おゝ! 私はこの瞬間、大きな喜びを感じている。ほむべきキリストの御心にある喜びを、私自身に対して描き出せるからである。「イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び……ました」[ヘブ12:2]。さて今、――失われた羊をかかえて戻るときには常に――主は大喜びしておられる。主の御心は喜び躍る。一切の懸念はなくなった。主は歓喜に満たされておられる。「大喜びでその羊をかついで」。私は果たしてこの羊に、《羊飼い》が喜んでいるのが見てとれただろうかと思う。それに見てとれたとは思わない。だが、それを感じとることはできるだろうと思う。知っての通り、羊を扱うには2つのやり方がある。そして、羊はすぐに、どちらが自分の飼い主の側の喜びを表わしているかが分かるようになるものである。いずれにせよ、私が確信するところ、犬はあなたの動きが何を意味するか十分によく知っている。もしあなたが怒った調子で羊に語り、憤ってそれを自分の肩から投げ捨てるとしたら、それは1つのことである。だが、もしあなたが他には何も云わず、ただ、「可哀想に、お前を見つけられてよかったよ」、と云うだけであったとしたら、また、喜びながらそれを自分の肩にかつぐとしたら、何と、羊ではあっても、その違いが分かるであろう。いずれにせよ、私は、キリストには私たちをお救いになる1つのしかたがあると知っている。おゝ、優しく、愛に満ち、上機嫌であるキリストは、私たちをも救われたことにおいて幸いにしてくださる。あなたが貧者に施しをするしかたによって、一銭銅貨は石ころにも黄金にもなる。あなたは、彼が犬ででもあるかのようにそれを投げつけることもできる。その場合、彼があなたに対して感ずる感謝は、犬ほどのものであろう。あるいは、そこまでも行かないであろう。しかし、しかたによっては、あなたはこう云うことができる。「色々と必要があって、お気の毒ですね。これは今の私が最大限してあげられることです。どうか受けとってください。そして、できるだけの用に役立ててください」。兄弟のような顔つきで与えられるならば、それは感謝とともに受けとられ、最大限に用いられるであろう。贈り物をするしかたには、その中身と同じくらい大切なものがあるのである。キリストは、常に恵み深くあることを習い性にしておられる。キリストは私たちを大喜びで救われる。キリストが、失われたその羊をつかんで、肩にかつがれるとき、それはキリストに対して感謝すべきことである。そうであると考えると私は嬉しくなる。私たちは、しぶしぶキリストに救われたのではない。キリストは決して、私たちにうんざりした様子でも、私たちをお払い箱にするために、さっさと仕上げようとする様子でもない。主は、こう口にするような、どこかのがさつな外科医のような態度を、私たちに対して取られなかった。「私はすぐにお前を診てやろう。だが、私には他にもしなくてはならないことが山ほどあるのだ。お前たち、無料で診療される患者どもは厄介の種だわい」。また主は、荒々しく骨を接ぐこともなさらない。しかり。イエスはやって来られると、貴婦人の華奢な手を取るように、外れた関節を直してくださる。そして、それを接いでくださるとき、その接ぎ方にさえ無上の喜びがある。私たちが主の御顔をのぞき込むと、そこに見えるのは、主がその最も優しい同情を、あらゆる動きにこめておられるということである。あなたも、労働者たちが異なるしかたで働くことを知っているであろう。ある種の働きに人はすぐにうんざりしてしまう。分業の原則は、大規模な結果の生産のためには非常に見事なものである。だが、自動装置ででもあるかのように、同じことを繰り返し繰り返し一日中行なうのは、労働者にとってみじめな仕事である。一方、彫像を作成中の人を見るがいい。――自分の鑿に魂をこめている芸術家である。彼は、その大理石の塊の内側に輝かしい霊がこもっていることを知っている。そして、自分の目からその麗しい心像を隠しているものを削り取ろうと心を決めている。見るがいい。彼がいかに働くかを! 悲しみながら事を行なう人が、それを首尾良く仕上げることは決してできない。最上の働きを行なえるのは、幸せで喜ばしい労働者である。キリストについても、それと同じである。主は必要に迫られて魂をお救いになるのではない。――あたかも、できるものなら、他のことをしていたいとでも云うかのようにお救いになるのではない。むしろ、主の御心そのものが、そのみわざにこもっており、主はそうすることを喜んでおられる。それゆえ、主はそれを徹底的に行ない、そうする中でご自分の喜びを私たちに伝えてくださる。

 さて、私が第三の点に移る前に1つの教訓を学ぶがいい。「見つけたら」。かりに、あなたがたの中の誰かが、じきにひとりのあわれな、悩みをかかえた罪人と会うことになるとしよう。あなたがその人を見いだしたとき、《主人》の模範を真似するようあなたに勧めさせてほしい。その人を堅くつかむがいい。するりと逃げ出させてはならない。その人を握りしめ、それから、もしその人が悩みの中にあるとしたら、その悩みをすべてあなた自身の上に乗せてやるがいい。あなたがその人をあなたの肩の上に乗せられないかどうか試してみるがいい。そのようにして、あなたの《主人》にならうがいい。その人の一切の重荷をその人に代わって負うようにしてみるがいい。キリストがあなたの重荷をそうしてくださったように。その人を、真の重荷の担い手なるキリストのもとに導くがいい。そして、その間ずっとそのことについて非常に嬉しげにしているがいい。私は、私たちが若い回心者たちのもとに行くとき、まるで《救い主》を見いだすことが何かぞっとするようなことででもあるかのように、恐ろしく厳粛な声音で話をしてはならないと思う。請け合っても良いが、彼らは二度とやって来ないであろう。彼らはあなたに寄りつかないであろう。むしろ、ただ行って、喜ばしい気立てでこう云うがいい。「あなたがご自分の魂に関心を持っておられることをたいへん嬉しく思いますよ」、と。魂を捜し求める者に起こりうる最上のことは、悩みをかかえた良心に出会うことである。あなたがそう思っていることを見せてやるがいい。「ですが」、とあなたは云うであろう。「私にはその時間がないのです」。たとい真夜中であっても、あわれな、良心を打たれた罪人に面会するためであれば、常に時間を作るがいい。しかし、ことによると、あなたは非常に倦み疲れているか、具合が良くないかもしれない。たとい私が倦み疲れているとしても、一匹の失われた羊に出会ったときには、もはや倦み疲れているべきではない。また、たとい私が病んでいようと、罪に悩む罪人の世話をするためなら良くなるであろう。そのようなしかたで、甘やかな心地よい励ましとともに語るがいい。というのも、これがあなたの兄弟である罪人を助けて《救い主》へと至らせる道だからである。

 私の時間はほとんど尽きているが、もう二言三言この最後の点を語らせてほしい。

 III. 「《帰って来て》」。「家に帰った時、友だちや近所の人たちを呼び集め、『私の羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう」<英欽定訳>。手早くいくつかのことを指摘したい。最初に、天国は家である。「家に帰った」。そして、次の節によると、それは天だと云うのである。天国は家である。あなたは、それをこうした面から考えることを嬉しく思わないだろうか? それはイエスの家庭なのである。そして、もしそれがイエスの家庭だとしたら、他のどの家庭がそれと肩を並べられるだろうか? 「帰って来て」。

 次に注意したいのは、失われた者たちは天で知られているということである。その思想を明らかにしているのは、この箇所の英語よりはギリシヤ語である。「帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『私の羊を――いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう」。それが、ここで云われていることである。それは、あたかも友だちも、その一匹がいなくなったことを知っていて、それがいなくなったことが嘆かれていたかのようである。そして、羊飼いは云う。「私の羊を見つけました。どれのことかおわかりでしょう。――いなくなった羊ですよ」。天上にいる者たちは、どれがキリストの羊か、また、どれがいなくなった羊かを知っている。天国は、私たちの中のある者らが夢見ているよりもずっと地上に近い。そこに行くまで、どれだけかかるだろうか?

   「ただ一息で 霊は離(ゆ)き、
    『去(い)ぬ』とわれらの 云う云わず、
    贖(か)われし霊は 得(うけ)るなり、
    御座の近くに その場所を」。

そして、地上と天国の間には、ある人々が夢見ているよりもずっと多くの交流があるのである。というのも、ここで明らかなように、羊飼いが家に帰ったとき、彼は彼らにこう云ったのである。「私はあの羊を見つけましたよ」、いなくなった一匹を、と。ということは、彼らはそのことについてみな知っていたのである。また、明らかにその場にいた者らはみな、羊飼いがその羊を追いかけて行ったことを知っていた。彼はこう云っているからである。「私はいなくなっていた羊を見つけましたよ」、と。彼はみな、彼が捜しに出たことを知っていた。それで彼らはみな、彼がその羊を連れ帰ったときの彼の喜びを理解しているのである。私の信ずるところ、キリストが誰かを捜しておられるとき、天国にいる者たちはそれを知っている。未回心の息子か未回心の娘を残して死に、いま天上にいるある者たちにとって、しばらくしてから息子か娘が回心したと知ることは、非常な満足であるに違いない。彼らはそれを知らずにはいられない。なぜなら、彼らはキリストの友だちであり隣人だからである。そして、このたとえ話によると、彼は彼らに告げて、「いっしょに喜んでください」、と云うからである。そして、もし彼が、「いっしょに喜んでください」、と云うとしたら、何と、もちろん、彼は彼らにその理由を告げるであろう。あなたも、イエスがある霊を御座の前に招いて、ご自分とともに喜ぶように云ってから、このような答えを受けとるとは思わないであろう。「私にはそんなことはできません。なぜ喜ばなくてはらないか理由が分かりませんから」。もし私が私の母の死の後で回心したとしたら、私はこう空想できよう。イエスが彼ら全員に向かって、「わたしは、わたしの羊を――あのいなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください」、と仰せになるとき、私の母は云うであろう。「わが主よ。私はこの人たちの誰よりもずっと喜ぶことができます。というのも、それは私の坊やだったからです。ついにあの子が救われたのですね」。ジョン君。もし君が君の心をキリストにささげるとしたら、栄光の中にいるあなたの母上は今晩、二倍に栄化されるであろう。いま御座の前にいるお父上は、もしさまよう者が家に帰ったとの囁きがかの黄金の通りを行き巡ることになったとしたら、パラダイスがさらにパラダイスの度を増すように思うであろう。

 次に、ごく手短に注意してほしいのは、イエス・キリストは他の人々がご自分とともに喜ぶことを愛される、ということである。それで主は、罪人を見つけるとき、その御心の中には大きな喜びが満ちあふれるため、他の者たちにこう叫ばれるのである。「さあ、友だちよ。さあ隣人たちよ。ここに来て、わたしの喜びをいや増させてほしい。わたしは別の魂を救ったのだから」。このほむべき伝染力に影響されようではないか。もしあなたが、誰かの救いについて聞いたばかりだとしたら、そのことを喜ぶがいい。その人を知らなくとも、それでもそのことを喜ぶがいい。イエスが嬉しくお思いなのだから。

 次に注意したいのは、悔い改めは家に帰ることとみなされている、ということである。この羊は天国にいなかった。しかり。だが、それが囲いに連れて来られるや否や、それは悔い改めていると述べられるのである。そしてイエスと御使いたちはそのことを喜び始める。もしある人が真に悔い改めるとしたら、また、キリストがその人をお救いになるとしたら、明らかにその人は決して失われないであろう。古いことわざによると、狸を捕えるまで、その皮の売買を算用してはならないという。そして、私は御使いたちも不滅の魂についてそのようなことをするとは思わない。もし彼らが悔い改めつつある罪人たちが後で失われると信じていたとしたら、彼らはまだ婚礼の鐘を打ち鳴らしはしないであろう。むしろ、彼らは事の成り行きを見るためにしばらく待つであろう。もしそうした人々がこれから滅びることがありうるとしたら、世にいる回心者のひとりについても御使いたちはあえて喜ばないであろう。というのも、もし神の子どもの誰かひとりが転落し去って滅びるとしたら、なぜ私たちのあらゆる者がそうならないだろうか? もし誰かひとりでも恵みから落ちるとしたら、私は自分がそうなることを恐れる。おゝ、私の兄弟よ。あなたも同じことを自分について恐れないだろうか? 「いいえ」、とあなたは云うであろう。「私はそうは思いません」。よろしい。ならば、あなたは高慢な輩であり、自分の主を見放す見込みが最も大きい者である。もし一匹でもキリストの羊が転落し去るとしたら、私がそうなるはずである。私には、あなたがたについて見てとる以上に、私自身のさまよいがちな傾向を知っており、私自身の罪を犯させる種々の誘惑を見てとっているからである。私は、もし悔い改めが人間的な向上のしるしにすぎず、天的な愛のしるしではないとしたら、ある人々が悔い改めているからといってそのことで御使いたちに喜んでほしくはない。私は云うであろう。「やめよ、御使いたち。というのも、この男は逆戻りし、結局は滅びてしまうかもれしないからだ。もしも、現代の福音に従って、キリストがきょうは愛していても、明日はお憎みになり、神の子どもがこれから悪魔の子どもになりうるとしたらそうである」、と。だが私はそうした教理の一言も信じていない。私は、主が恵みの良い働きをお始めになるとしたら、それを行ない続け、完成させてくださると信じている[ピリ1:6]。そして、主がいったんある人にご自分を知ることを得させたとしたら、そうした人々がその知識の中に永遠に保たれるようにしてくださると信じる。その決着をつける1つの聖句がある。「わたしはわたしの羊に永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません」*[ヨハ10:28]。さて、もし彼らが永遠のいのちを有しているとしたら、それが打ち切りになるはずがない。というのも、永遠のいのちは、明らかに永遠にあるからである。そして、もし彼らに永遠のいのちがあるとしたら、この《羊飼い》とその友人たちは、その永遠のいのちを有するひとりの者がいのちと救いに至らされるときに歌声をあげて差し支えないであろう。悔悟する者の中では、決して取り消されることのない働きがなされている。そして、そうした人々は決して失われることがありえない所に置かれているのである。しかり。

   「われは すえまで 忍びうべし、
    その証しを堅く 受けたれば。
    幸い増せども 安泰(たしか)さ変わらじ。
    栄えを受けし 天つ霊らは」。

歌い続けよ、御使いたち! いま歌うべきことがあるのである。そして、私たちもあなたがたに唱和して、変わらざる神をほめたたえ、賛美しよう。永久永遠に。アーメン。

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説教前に読まれた聖書箇所――ルカ15章


『われらが賛美歌集』からの賛美―― 421番、257番、378番

 

羊を見つける私たちの大牧者[了]

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