私たちの主の御傷の証拠
NO. 2061
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---- 説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1877年12月2日、主日夜の説教「それからトマスに言われた。『あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい』」。――ヨハ20:27
今日、私たちの間には、トマスのような者たちが数多くいる。――半信半疑で、しるしや証拠を要求し、疑り深く、しばしば悲しみに沈んでいる。トマスのような部分は、微かな程度においては、私たちのほとんどの者のうちにあるのかも分からない。時と場合によっては強い人もくじけ、確固たる信仰者もしばし立ち止まって、「本当にそうだろうか?」、と云うことがある。私たちが前にしている聖句について思い巡らすことは、トマスを苦しめた疾病に影響されている人々にとって役立つであろう。
本日の主題を本格的に取り上げる前に注意したいのは、トマスが、願ってはならないことを私たちの主に願った、ということである。彼が復活された私たちの主を試したがったしかたには、その神聖なみからだへの尊崇の念がほとんど見られない。彼の《主人》が彼に示された忍耐を賞賛するがいい。主は、「信じたくないというなら、自分の不信仰ゆえに苦しみ続けるがいい」、とは語っておられない。しかり。この疑う者に目を注ぎ、特に彼に対して語りかけられた。ただし、それは非難や怒りの言葉ではなかった。イエスはトマスを忍ぶことがおできになった。トマスがあれほど長い間イエスと一緒にいたのに、イエスを知らなかった[ヨハ14:9]としても関係ない。自分の指をその釘の跡に差し込み、自分の手をその脇腹に差し入れるなどということは、いずれかの弟子がその天来の《主人》に向かって願える限度を、はるかに越えていた。だがしかし、イエスのへりくだりを見るがいい! トマスに不信仰ゆえの苦しみを受けさせるよりは、大きな自由を与えようとしておられる。私たちの主は、私たちに対して、必ずしもその威光に従ってふるまわれるわけではなく、私たちの必要に従って行動される。そして、もし私たちが本当に弱く、ご自分の脇腹に私たちの手を差し入れるしか道がないとしたら、私たちにそうさせてくださる。これは、異とすべきことでもない。もし主が、私たちのために槍で脇腹を突き刺されることすら甘んじたとしたら、次いで手が差し入れられることをも許してくださるであろう。
トマスが即座に確信に至ったことに注目するがいい。彼は、「私の主。私の神」、と云った[ヨハ20:28]。これは私たちの《主人》の知恵を示している。主がトマスの、このような馴れ馴れしさを許されたのは、この要求が増上慢なものであったとはいえ、彼のためになるとご存知だったからである。私たちの主は時として賢くこう云って拒まれる。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ……上っていないからです」[ヨハ20:17]。だが他の時には、知恵をもって同意してくださる。なぜなら、私たちのそうした願いが行き過ぎであるとはいえ、それを与えることは賢明とお考えになるからである。
私たちが現在なすべき黙想は、まさにこのこと、種々の疑いの解決についてである。トマスがその指をあの釘の跡に差し入れるのを許されたのは、彼の種々の疑いを解決するためであった。ことによると、あなたや私も、それに似た何かを行なえたら、と願うかもしれない。おゝ、もし私たちの主イエスが一度でも私の前に現われて、この手をその脇腹に差し入れることができたなら。あるいは、もし私が一度でも主を見ることができるなら、あるいは、主と語り合うことができたとしたら、いかに私は確固たる者となるであろう!、と。疑いもなく、そうした思いは多くの人々の精神に思い浮かんだことがあるに違いない。だが、私たちの兄弟たち。私たちがそうした証拠を有することはない。だが私たちは、それらにほぼ似通ったものを有するであろうし、それが同じ目的を果たすことになるであろう。
I. 私の講話の第一の項目は、こうである。《いかなるしるしをも切望してはならない》。たといそうしたしるしが可能であっても、それらを切望してはならない。たとい種々の夢や、幻や、声があるとしても、それらを求めてはならない。
まず種々の不思議を切望してはならないのは、それらを求めることが、聖なるみことばの名誉を汚すことになるだからである。あなたはこの聖書が霊感された書物であると信じている。――神の《書》であると信じている。使徒ペテロはこれをこう呼んでいる。「さらに確かな預言のみことば……それに目を留めているとよいのです」[IIペテ1:19]。あなたは、それで満足しないのだろうか? あなたが全幅の信頼を置いている、信用のできるある人が、あれこれのことに証言を行なっているとき、「それ以上の証拠があれば嬉しいのですが」、と即座に返答するとしたら、あなたは自分の友人を軽んじ、彼に不当な疑惑を投げかけているのである。あなたは聖霊に疑惑を投げかけようというのだろうか? 御霊はそのことばによってキリストについて証言しているのである。おゝ、否! 御霊の証しで満足しようではないか。見ることを願うのではなく、信ずることで満足していよう。たとい信ずることに困難があるとしても、それは自然なことではないだろうか? 信ずる方の者は有限であり、信じられるべき事がらは、それ自体で無限なのである。そうした種々の困難は、それ自体で、ある程度まで、私たちの立場の正しさの証明として受け入れようではないか。それらは、天的な種々の奥義が、私たちの理性のような貧弱なものによって眺められるとき、必然的に伴うものなのである。みことばを信じ、何のしるしも切望しないようにしよう。
何のしるしも切望してはならないのは、すでに持っていること以上のものを願うのは筋が通らない話だからである。みことばにおさめられている主イエス・キリストの証しだけで、私たちにとっては十分であるべきである。それに加えて、私たちには聖徒や殉教者たちの証しがある。私たちの前を進んだ彼らは、信仰において勝利のうちに死んでいった。今なお私たちの間にいる多くの人々の証しがある。彼らは私たちに、こうした事がらが真実であると告げている。部分的には、私たちには自分自身の良心の証しがあり、自分自身の回心の証しがあり、自分自身のその後の経験の証しがあり、これは確信を与える証しである。それで満足しようではないか。トマスは、マグダラのマリヤや、他の弟子たちの証しで満足すべきであったのに、そうしなかった。私たちは、自分の兄弟たちの言葉を信頼すべきである。すでにふんだんに証拠が供されているというのに、さらに証拠を求めるような理不尽なことをしないようにしようではないか。
何のしるしも切望してはならなのは、そうすることが増上慢になりかねないからである。あなたは何様だというので、神をしるしとするのか? 神が何をすれば、神を信じようというのか? もし神がそうすることを欲さないとしたら、あなたは傲慢にも、「私は、主が私の命令に従わない限り信じない」、と云うのだろうか? あなたは、御使いが、ひとりでもあなたに注意を払うほど身を落とすとでも想像しているのだろうか? 彼があなたを支えて、《いと高き方》に要求させようとするだろうか? そのようなことはないに違いない。神がそのみことばにおいて私たちに与えようとされた証し以上の何かを神に求めるなどということは増上慢である。
さらに、しるしを切望するのは、私たち自身にとって有害である。イエスは云われる。「見ずに信じる者は幸いです」[ヨハ20:29]。トマスはそのしるしを得て、信じた。ひとまずは、それで良かった。だが彼は、見ずに信じる者に特有の幸いを取り逃がしてしまった。それゆえ、神の御霊の証し以外に何の証拠もなくとも、そのまま主イエスを信じて永遠のいのちに至ろうとする人々に訪れる、特別の愛顧を奪われないようにするがいい。
また、何のしるしも切望してはならないのは、こうした切望が非常に危険なものだからである。多くの人の翻訳にならえば――また、それは正しい翻訳であると思うが――私たちの《救い主》はこう云われたのである。「あなたの指をここにつけて、釘の跡に差し入れなさい。信仰のない者にならないで、信じる者になりなさい」*[ヨハ20:27]。これは、トマスが徐々に信じない者となるだろうことを指している。彼の信仰はあまりにも小さなものとなってしまっていた。そのため、もしもしるしや、証拠としてのあれこれのことにこだわり続けるとしたら、彼の信仰は最低のものになってしまうであろう。しかり。何の信仰も残らないであろう。「信仰のない者にならないで、信じる者になりなさい」。愛する方々。もしあなたがしるしを求め始めるならば、また、それを見ずにはすまないことになるとしたら、何が起こるか知っているだろうか? 何と、あなたはより多くを欲するようになるのである。そして、それを得たとしても、さらに多くを要求するようになるのである。自分の感情にまかせて生きている人々は、神の真理を自分の状態によって判断する。幸福な気分のときには信ずるが、気鬱になったり、たまたま天気がぐずついていたり、たまたま体調が多少すぐれなかったりすると、気分が沈み、たちまち信仰も沈み込む。感情を基にしない信仰、主のみことばの上に建てられた信仰によって生きる人は、神の山のように動ずることなく、堅固である。だが、あれこれのことを主の御手によるあかしとして切望するような者は、信仰の欠けゆえに滅びかねない危険に陥っている。もしも生きた信仰がひとかけらでもあるとしたら、滅びることはないであろう。神が彼を誘惑から救い出してくださるからである。だが、その誘惑は信仰にとって塗炭の苦しみである。
それゆえ、何のしるしも切望してはならない。もしあなたが、何らかの幻を見た人の物語を読んだり、何らかの声が語りかけるのを聞いたという別の人の話を聞いたりするとしたら、――それを信ずるも信じないも、あなた次第である。だが、自分でそうしたものを欲してはならない。こうしたものは、想像力のいたずらかもしれないし、そうでないかもしれない。私はいずれとも判断しない。だが、そうしたものにより頼んではならない。私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいる[IIコリ5:7]からである。目で見える、あるいは、耳で聞こえるいかなるものにもより頼んではならない。むしろ単純に、私たちが神のキリストであると知っているお方、私たちの救いの《岩》に信頼するがいい。
II. 第二に、あなたが慰めを欲するときには、しるしを切望するのではなく、《あなたの主の御傷に目を向けるがいい》。あなたはトマスが何をしたか見ている。彼は信仰を欲した。それで、それを求めて傷ついたイエスに目をやった。彼は栄光の冠を戴いたキリストの頭については何も云っていない。自分は「胸に金の帯を締めた」[黙1:13]主を見なくてはならない、とは云っていない。トマスは、不信仰ではあったものの、賢いことをした。自分の主の傷口による慰めを求めた。あなたの不信仰が力を得るときには、この点でトマスのふるまいにならい、ひたすらイエスの御傷に目を向けるがいい。それこそ、決して尽きることのない慰藉の泉である。もしもそこから一口飲むならば、その人は自分のみじめさを忘れ、自分の悲しみを再び思い出さない。主の御傷に向かうがいい。そうするとき、あなたは何を見るだろうか?
最初にあなたは、あなたの《主人》の愛のあかしを見るであろう。おゝ、主イエスよ。あなたの御脇と御手の傷跡は何でしょうか? 主はお答えになる。「これらは、わたしがあなたのために苦しんでいたとときに耐えたものだ。どうして、わたしがあなたを忘れられよう? わたしは手のひらにあなたを刻んだ[イザ49:16]。どうして、あなたのことを思い出せないことがあろうか? おゝ、わたしのこの心臓には、かの槍であなたの名が記されたのだ」。イエスを見るがいい。死んで、葬られ、よみがえられたイエスを見て、それから云うがいい。「主は私を愛し私のためにご自身をお捨てになった[ガラ2:20]のだ!」、と。沈みつつある信仰にとって、傷ついた《救い主》を見てとることにまさる気付け薬はない。魂よ。仰ぎ見て、主の死の証拠によって生きるがいい! さあ、信仰によって、あなたの指を釘の跡に差し入れるがいい。こうした御傷はあなたの不信仰を癒すであろう。私たちの主の御傷は、その愛のあかしである。
それらはまた、主の死の証印でもある。特に主の御脇の傷がそうである。主は死んだに違いなかった。「兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。それを目撃した者があかしをしているのである」[ヨハ19:34-35]。神の御子は確実に死なれた。天と地を造られた神が、私たちの性質を取り、ひとりの驚嘆すべきお方において神であるとともに人であられた。そして、見よ! この驚嘆すべき神の御子は言語を絶する苦しみを忍び、その死によってすべてを完成された。これが私たちの慰めである。というのも、もし主が私たちの代わりに死なれたとしたら、私たちが自分のもろもろの罪のゆえに死ぬはずがないからである。私たちのそむきの罪は取り去られており、私たちの不義は赦されている。もしかのいけにえが一度も殺されなかったとしたら、私たちも絶望して良い。だが、この槍の傷跡によって、この偉大な《犠牲》が真に死んだことが証明されている以上、絶望は殺され、希望は生き返り、信頼する心は喜ぶのである。
次にイエスの御傷は、このお方を見分ける目印である。これらによって私たちは、主の同じみからだを復活後にも見分けることができる。あの死んだキリストが、そのままよみがえられたのである。決して幻想ではない。そこには、いかなる間違いもありえない。主になりすました別人が主を詐称しているのではない。しかり、死んだイエスが、死人の中からやって来たのである。その御手と御足には十字架刑のしるしがあり、槍の刺し傷もまだあった。これはイエスである。同じイエスである。これはキリスト者にとって大きな慰めとなる。――私たちの主の復活という教理は議論の余地ないしかたで証明されている。これは福音という橋梁の要石である。それを取り除くか、疑うかしてみるがいい。あなたを慰めるものは何1つ残らない。しかし、イエスが死んでから全く同一のみからだにおいてよみがえらり、常に生きておられるがゆえに、私たちの心は甘やかな安息を得る。なぜなら、「神は……イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られる」[Iテサ4:14]と信じられるからである。また、イエスのみわざのすべては真実であり、完成され、神に受け入れられていると信じられるからである。
また、こうした傷口、こうした私たちの主の傷跡は、御民に対する主の愛の記念であった。それらは主の愛を公に示して、主の選民たちがそのあかしを見えるようにしている。だが、それらは主ご自身にとってのあかしでもある。主は、へりくだりをもって、ご自分の記憶を喚起するものとしてそれらを身に帯びておられる。天国では、今この瞬間も、私たちのほむべき主のみからだの上に十字架刑の傷跡がある。何世紀も過ぎ去ったが、主はほふられた《小羊》のように見える[黙5:6]。私たちは一目見るなり、これこそ人々が、「十字架につけろ。十字架につけろ」[ヨハ19:6]、と云ったお方であることを確証するであろう。あなたの信仰の目によって栄光の中を見通し、あなたの《主人》の御傷をまざまざと見てとるがいい。そして自分に向かって云うがいい。「このお方は今も私たちに同情してくださる。そのお苦しみのしるしを帯びておられるのだから」、と。あわれな苦しめる者よ。仰ぎ見るがいい! イエスは肉体的苦痛がいかなるものか知っておられる。あわれな、抑鬱した者よ。仰ぎ見るがいい! 主は心引き裂かれるということがいかなるものか知っておられる。あなたにはそのことが感知できないだろうか? 主の御手の釘跡、あの神聖な恥辱のしるしは、こう宣言しているのである。主は私たちのために引き受けたことを忘れておらず、今なお私たちに対して同胞としての感情を有しておられる、と。
さらにまた、これらの御傷が私たちを慰めるものとなりえるのは、それらが、天国の神と聖なる御使いたちの前にあって、主の完成されたみわざを不断に象徴するものとなっているからである。あの主の受難は決して繰り返されることがありえず、全くそうされる必要もない。「キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着」かれた[ヘブ10:12]。しかし、それを記念するものは常に神の無限のみ思いの前に提示されている。その記念物とは、部分的には、私たちの主のみからだの御傷である。栄化された霊たちは、決してこう歌うことをやめることができない。「ほふられた小羊は……賛美を受けるにふさわしい方です」[黙5:12]。彼らがこの方に目を注ぐたびに、その傷跡に気づくからである。その傷跡は、いかに燦々ときらめくことであろう! 国王が着飾ったことのあるいかなる宝石も、これらの傷の半分も輝かしく見えることはありえない。主は万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神[ロマ9:5]ではあられるが、それでも主の最も輝かしい光彩は、少なくとも私たちにとっては、その死から発されているのである。
話をお聞きの方々。あなたの魂が暗雲に曇らされるときは常に、これらの御傷に目を向けるがいい。これらは、五つの輝く星からなる星座のように輝いている。あなた自身の傷にも、あなた自身の痛みや、罪や、祈りや、涙にも目を向けず、むしろ思い出すがいい。「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」[イザ53:5]ことを。慰めを見いだしたければ、熟視することである。凝視するがいい、あなたの《贖い主》の御傷を。
III. これにより私は、第三の点に移る。信仰が少しでもぐらつくときには常に、《自分の信仰にとって助けとなる妥当なものを求めるがいい》。私たちは、文字通り自分の指をあの釘の跡に差し込むことはできず、そうしたいとも思っていないかもしれない。だが、真理を認める方法として、いま手元にあるものを用いようではないか。それを最大限に活用しよう。そうすれば、もはや自分の手を《救い主》のわきに差し入れたいとは思わないであろう。そうしたことをしなくとも、完璧に満足するであろう。あなたがた、疑いと恐れに悩んでいる人たち。私はあなたに、次のように勧めたい。
最初に、もしも自分の信仰を生き生きとした、力強いものにしたければ、あなたの《救い主》の死の物語をよく学ぶがいい。それを読んで、読んで、読んで、読むがいい。「Tolle: lege」、とあの声はアウグスティヌスに云った。「取りて読め」。私もそのように云うものである。この四つの福音書記者を取るがいい。イザヤ書53章を取るがいい。詩篇22篇を取るがいい。私たちの苦しめる《身代わり》に関連する、他のあらゆる聖書箇所を取るがいい。そして、それらを日夜読むがいい。主の数々の悲嘆と、罪を負われるありさまの物語のすべてに精通するまでそうするがいい。一心にこの物語に思いを据え続けるがいい。時々にではなく、絶えずそうするがいい。Crux lux.―― 十字架は光である。あなたは十字架を、十字架そのものの光によって見てとるであろう。聖霊によって光を受けることを願いつつこの物語を学ぶとしたら、あなたの中には信仰が生まれるであろう。そしてあなたは、この手段によって非常な助けを受け、ついにはこう云うようになるであろう。「私には疑うことはできません。贖罪の真理は私の記憶に、私の心に、私の知性に刻印されています。この記録が私を確信させました」、と。
次に、それでも十分でないとしたら、イエスの御苦しみをしばしば黙想するがいい。どういうことかというと、あなたがこの物語を読むときには、じっくりと腰を据えて、それを脳裡に思い描いてみることである。主が死ぬのを見ていた、あの使徒たちの立場に自分を置いてみるがいい。これは、他の何をすることにもまして信仰を大いに強めるであろう。また、他の何にもまして喜ばしいことに違いない!
「甘き瞬間(とき)かな、豊けき祝福(めぐみ)
十字架のもとで われは過ごしぬ
いのちと健康、平和を得たり
罪人たちの 死ぬる《友》より」。あなたを死と地獄から贖い出したあの驚嘆すべき死について、そのあらゆる細部と事実と事件について、徹底的に調べることに一時間を費やすとしたら、その時間は非常に有益なものとなるであろう。聖霊の助けによって、そのことに精通するようになるなら、それを見るとき、いかにそれらが迫真のものになることか。それに気づいてあなたは驚くであろう。そうした現実の光景はおそらくあなたの精神から過ぎ去り、忘れ去られてしまうかもしれないが、この悲しみに満ちた場面の黙想は、あなたの魂の奥深くにしみ通り、永遠の描線を残すからである! まずあなたは、この物語を読んで知るのが良いであろう。それから、それを注意深く、また、真剣に黙想するがいい。――つまり、ふとした折に一、二分それについて考えるのではなく、あえて特別に一、二時間を取り分けて、あなたの《救い主》の死の物語を考察するということである。私は確信しているが、もしそうするとしたら、それは、トマスがその指をあの釘の跡に差し入れたことにまさって、あなたの助けとなるであろう。
次は何だろうか? 何と、愛する方々。主には、その御民に驚くべき悟りを与えるしかたがある。私はここで何1つ不正確なことを云わないようにしたいと希望するものだが、私たちは、時として、主が私たちとともにおられるのを感ずることがある。そして、その事実に強い感銘を受け、そうした臨在の感覚の下で行動することがある。それは、あたかも《天来の》の栄光が現実に目に見えるかのようである。あなたは、ある友人に手紙を書きながら、まるで主イエスがあなたの肩越しにのぞき込んでおられるように感じていたことがなかっただろうか? 私は、時として、ここに立って説教するとき、私の主が私の身近におられ、たとい文字通りに主を見たとしても、全く驚かないはずだと感ずることがある。あなたには一度もこうしたことがなかっただろうか? 夜眠らずに、静かに横たわって、時計の針の音のほか何も聞こえないまま、主のことを考えている。そのうちに、確かに自分の前にはいかなる姿も見えないと分かっているにもかかわらず、主がそこにおられることを、まるでその憂いに満ちた御顔が見えるのと同じくらい確実に感じるようになるのである。静かな場所でひとりきりでいるとき――あなたはこの物語をほとんど人に語りたいとは思わないであろう――、人気のない森の中で、また、二階の密室で――、あなたはこう云ったことがある。「たとい主が言葉でお語りになるとしても、いま以上に主の臨在について確信することはないだろう。また、もし主が微笑みかけてくださったとしても、いま以上に主の愛を確信することはないだろう」、と。こうした悟りは、時としてあまりにも圧倒的に喜ばしいものであったため、何年もの間あなたは、それによってあらゆる疑いの力を越えたところにいることができた。こうした聖なる夏の日々は、魂の霜を追い払う。私たちの主の存在について、何らかの疑いが吹き込まれるときには、私は常に、その誘惑者をあざ笑えると感ずる。というのも、私は主を見たことがあり、主と語り合ったことがあるからである。この目によってではないが、内なるいのちの目によって、私は私の主を見たことがあり、主と親しく言葉を交わしたことがある。私が「現代思想」というあの黒い海賊船の乗組員のひとりでないのも不思議ではない。
また、こうした助けを得るのは、単に恵まれる時期においてだけではない。深い苦悩を覚える時期においてもそうである。苦痛に打ちのめされ、いかなる慰めも楽しめず、眠ることさえできないというのに、信仰者の魂が、まるで結婚式の鐘の音しか聞こえていないかのように幸福にしている姿を私は見たことがある。私たちの中のある者らは、熾烈な試練の折にも、しごく上機嫌で、喜ばしく、嬉しくしていることを経験したことがある。それは、キリストが非常に間近におられたためである。数々の損失や死別に遭うとき、また、悲しみが骨髄まで刺し貫くとき、また、それが来るまでは決して自分には耐えきれないだろうと考えていたにもかかわらず、あなたは支えられてきた。かつて傷つけられたことのあるかの神聖な頭を見ることによって、また、そのお方の苦しみをともにすることにおいて支えられてきた。あなたはこう云えた。「私の嘆きなど、この方の嘆きにくらべれば何だろうか?」 あなたは自分の悲しみを忘れて、浮かれ騒ぐ人々のように心の喜びゆえに歌ってきた。もしこのようなしかたで助けられたことがあったとしたら、それは、あなたの指をあの釘の跡に差し入れることによるいかなる効果にも負けない効果をあなたに及ぼしたことであろう。万が一、あなたが死に引き渡され、精神的に死のあらゆる過程をくぐり抜け、今にも神の法廷に立つことになるのだと覚悟したことがあったとしたら、また、それでも幸福でいて、大喜びに感じさえしたとしたら、自分をこのような怒濤の波浪を越えて支えてくれたキリスト教信仰の現実を、あなたは疑いえないであろう。今のあなたは命拾いをして、もう少し余命を長らえている。ならば、今にも死につつあると思った時の自分の軽やかな精神を思い起こせば、この指をあの釘跡に差し入れることによって得られるすべての目当てを果たせるであろう。
時として、こうした心強めるような影響が、誘惑のゆえに供されることもある。青年よ。もしあなたが一度でも強大な誘惑の猛然たる攻撃に遭ったことがあり、足をほとんどすくわれんばかりになったことがあるとしたら、――左様、私は「青年」とは云うまい。むしろ、老若男女の誰であれ、もし一度でも、「神よ、お助けください。どうして私にこれを逃れられましょう?」、と叫ばざるをえないことがあったときに、あなたの目をあなたの主に向けて、主を見、またその御傷を眺めたことがあったとしたら、また、もしあなたがその瞬間にこの誘惑が一切の力を失うのを感じたことがあったとしたら、あなたは主からの証印を得たのであって、あなたの信仰は強められたのである。もしあなたの主を見たときのあなたが、その誘惑を向こうに回して、「どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか」[創39:9]、と叫ぶことがあったとしたら、その後のあなたは、あなたの《贖い主》の救う力について最上の証拠を得ているのである。これ以上にすぐれた、また、実際的な証拠を願うことができるだろうか?
近年は、私たちの信仰の土台が絶え間なくむしばまれつつあり、時として人は、「もしもこれが真実でなかったとしたら?」、と自問するよう駆り立てられることがある。先日の夜、空の下に立って星々を見ていたとき、私は、自分の心が私に可能な限りのありったけの愛をもって、この偉大な《造り主》へと向かうのを感じた。私は自分に向かって云った。「何が私をして、いま自分がしていると分かるようなしかたで神を愛させたのだろうか? 何が私に、きよさにおいて神に似た者となりたいと感じさせたのだろうか? 私の神に従いたいと私に願わせたものが何であれ、それは嘘八百ではありえない」。私は、自分に対するイエスの愛こそ、私の心を変えたものであること、また、かつては無頓着で神に無関心であった私を今や神に栄誉を帰したいとの渇望であえぐ者としたことを知っている。何がそうしたのだろうか? 確かに、それは嘘八百ではない。ならば、真理がそれをしたのである。それはその実によって分かる。たといこの聖書が不真実であると分かったとしても、私が死んで自分の《造り主》の前に行ったときには、こう云えるではないだろうか? 「大いなる神よ。私はあなたについて大いなる事を信じてきました。たといそうではないとしても、私は、あなたの驚くべきいつくしみ深さと、あなたの赦し給う御力について有していた信仰によって、あなたに栄誉を帰してきたではないでしょうか?」 そして、私は恐れなく神のあわれみに身をゆだねるであろう。しかし私たちは、そのような疑いをいだいてはいない。というのも、これらの愛しい傷口は、絶えず福音の真理を証明し、それによって私たちの救いの真理を証明しているからである。受肉した《神格》は、決して詩人の精神によって発明された思想でも、哲学者が巧妙に推論された思想でもない。受肉した《神格》、罪深い人の身代わりとして人間のかたちで生き、血を流し、死なれた神という概念、これは、それ自体が自らの最上の証人である。この御傷は、キリストの福音の無謬の証言である。
あなたは、こうした傷口が、義務を行なう時の助けという形で、非常に強力なものであると感じたことはないだろうか? あなたは、「それは私にはできません。私には難しすぎます」、と云った。だが、傷つけられたイエスを仰ぎ見たとき、あなたには何事であれ行なうことができた。血を流すキリストを一目見るとき、私たちはしばしば熱情で満たされ、力で満たされる。それは私たちを神の全能性によって強大な者としてきた。あらゆる時代におけるキリストの教会を見るがいい。国王や君主たちは、それをどうして良いか分からなかった。彼らは教会を滅ぼしてやると誓った。迫害の勅令を発布し、キリストに従う者らを何千、何万となく殺した。しかし、何が起こっただろうか? イエスの死によって人々は、喜んでイエスのために死のうとしたのである。いかなる苦痛も、いかなる拷問も、信仰を有する大勢の人々を引き留めることはできなかった。彼らはイエスを愛するあまり、たとい指揮官層が血まみれの死によって斃れても、別の列伍が登場し、さらに別の者らが、さらに別の者らがやって来て、ついには暴君たちにこう見てとらせたのである。地下牢であれ、拷問台であれ、炎であれ、キリストの軍隊の進軍を食い止めることはできない、と。今もそれと同じである。キリストの御傷は、輸血によって教会にいのちを注ぎ込んでいる。神の教会の活力の元は、イエスの御傷から出ている。その力を知ろうではないか。また、それが私たちの内側で働いて、みこころのままに志を立てさせ、事を行なわせてくださる[ピリ2:13]のを感じようではないか。
では、キリストを信頼していない人々について、何と云えば良いだろうか? 願わくは主があなたを助けて、即刻、キリストに信を置かせてくださるように。というのも、あなたは、キリストに信を置いていない限り、すさまじい呪いの下にあるからである。こう書かれている。「主を愛さない者はだれでも、のろわれよ。主よ、来てください」[Iコリ16:22]。――主の来臨の際に受ける呪いである。願わくは、あなたがそうならないように! アーメン。
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----私たちの主の御傷の証拠[了]
説教前に読まれた聖書箇所――ヨハネ20:18-31
『われらが賛美歌集』からの賛美―― 785番、937番、282番
スポルジョン氏からの手紙 愛する読者の方々。――このように本説教集の34巻が完結したことを私は神に感謝したいと思う。願わくはこうした説教が、この説教者およびその現在の読者たちが安息に入った後も、引き続き神によって祝福されるように。その語り手は、今なお弱さのため働けずにいるが、主のことばは決してその力を失いはしない。彼の声は、ほんの数千人にしか聞こえないが、印刷された頁は大群衆に語りかけるであろう。祈ろうではないか。聖霊のかすかな細い声[I列19:12]が、来たるべき多くの世代の読者たちの心に響くことを。
一冊の本には、ナルドのような1つの真理が包み込まれていることがありえる。それは、いったんは忘れ去られても、いずれは元々の香りを再び人々のもとに放つはずである。今の世代は、恵みの諸教理をまるで無価値であるかのように扱っているかもしれない。だが、この値もつけられぬほど高価な宝石類は、後に、より多くの光を受けた時代から尊ばれるであろう。私たちと同時代の人々を楽しませている安ピカの金物すべてよりも無限に価値あるものと判断されるであろう。私は今日、比較的に少数の人々を相手に説教することで満足している。私の伝える諸真理は、無数の大群衆の救いのために神から啓示されたものであると信ずるからである。また、未来のいつの日か私の仕える主は、それらを忠実に証しした者たちの正しさを、人々のいかなる誹謗にもかかわらず裏書きしてくださると信ずるからである。それと同時に私は、なおもこれほど多くの人々が、私たちの父祖たちの古の信仰に対して忠実であることについて、神をほめたたえるものである。
一年の終わりに当たり、私は兄弟たちに挨拶を送りたい。そして、彼らの日々の祈りに覚えてほしいと願う。私が健康を回復し、自分の講壇に戻ることを許されるように祈ってほしい。また、私たちの主の御国が至る所で進展する姿を見ることができるように、と。
キリスト・イエスにありて敬具
C・H・スポルジョン
マントン、1888年12月20日
第34巻 ―了― ---------
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