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私たちの主の愛のことづけ

NO. 2060

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説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1888年8月5日、主日夜の説教


「行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます。』とそう言いなさい」。――マコ16:7


 見るがいい。兄弟たち! イエスはご自分の民と会うことを喜びとしておられる。主は死人の中からよみがえるや否や、御使いによってことづけを送り、弟子たちに会いたいと云っておられるのである。主は彼らを喜びとしておられる。主は彼らを非常に優しい愛で愛しており、彼らの間にいるとき最も幸福に感じられる。あなたは、あなたの主に懇願し、説得しなければ、あなたのもとに来ていただけないと思っているだろうか。主は近しく親しい交わりを喜びとされる。この天的な《花婿》は、あなたとともにいることに慰めを見いだされる。もしあなたが本当にこの方にめとられているとしたら、そうである。おゝ、あなたが主とともにいることに、より熱心であったなら、どんなに良いことか!

 私たちの主は知っておられる。ご自分の真の民にとって、彼らが有しうる最大の喜びは、ご自分が彼らとお会いになることである、と。弟子たちは悲しみのきわみの中にあった。彼らの主が、彼らの考えによれば、死んでしまっていたからである。彼らは、生まれてこのかた最も哀切な安息日を過ごしたばかりであった。主が墓の中におられたからである。だが今、彼らを慰めるために、主はほかならぬこのようなことづけを送っておられる。――彼らと会おうと云われるのである。主は、ご自分が彼らとお会いになるという知らせには、彼らの傷心を鼓舞するだろう魔法があることをご存知であった。それが、すべてを満ち足らすであろう慰藉となることをご存知であった。「ガリラヤに行きなさい。そこで主に会えるのです」*[マタ28:10]。

 もしも神の民の悲しみをすべて注ぎ出して、1つに積み上げることができるとしたら、それはいかなる山となることであろう! いかに種々雑多な苦悩を私たちは覚えることか! いかに私たちの抑鬱は多種多彩なことか! しかし、愛する方々。もしイエスが私たちとお会いになるとしたら、あらゆる悲哀は飛び去り、あらゆる悲しみは明るくなるであろう。主が私たちとともにいさえすれば、私たちはすべてを有しているのである。あなたは――あなたがたの中の多くの人々は――、私が何を意味しているか分かるはずである。私たちの主は、悲しみの折にも私たちの心を喜びで踊り上がらせてくださった。私たちが肉体的な痛みに満たされていたとき、主がともにおられることによって、私たちはからだの弱さを忘れてきた。また、私たちが新しい墓から帰ってきたばかりで、私たちの心が死別によって引き裂かれんばかりになっていたとき、《救い主》を目にすることによって私たちの苦い杯は甘くされてきた。主の御前にいるとき、私たちは大いなる御父のみこころに服する気持ちになり、こう云って満足させられてきた。「その方は主だ。主がみこころにかなうことをなさいますように」[Iサム3:18]。そよ風が吹き始め、永遠に影が消え去るまでに[雅2:17]、私たちがひたすら求めるのは、私たちの《愛する方》がともにおられることしかない。「私とともにとどまっていてください! 私とともにとどまっていてください!」――これが私たちの唯一の祈りである。そして、それがかなえられるとき、他の一切の願いは後回しになって良い。

 本日の主題が選ばれたのは、私たちが週の初めの日に常に行なうように、この聖餐の卓子に着くことに鑑みてである。私は、神のあらゆる子どもたちが、ここでキリストとの完全な交わりを求めてほしい、否、得てほしいと思う。私自身、そうした交わりに恵まれたいと切に願っている。それは、自分の宣べ伝えている《救い主》の御前で、自分も生きていたいと思うからである。私は、あなたがそうした交わりに恵まれてほしいと切に願う。それは、あなたが私の声ではなく、主の御声を聞けるようになるためである。その御声は、御使いたちの立琴の音色にまさって甘やかである。おゝ、私たちの主を知らない人々が今そのすぐれた甘やかさを求めて飢え渇くようになればどんなに良いことか! 主はあなたのもとに来たいと欲しておられる。一言祈るだけで、主は見いだせるであろう。一粒涙を流すだけで、主は引き寄せられるであろう。信仰による一瞥だけで、主を堅くつかめるであろう。イエスに身を投げかけるがいい。そうすれば、主は両腕を開き、喜んであなたを受け入れてくださる。

 しかし今、この聖句に目を向けよう。私はこの聖句を素直にそのままとらえて、これについて5つの所見を述べたいと思う。

 I. 第一はこうである。《イエスは、ご自分の民と会うために、招きのことばを発しており、その招きは非常に恵み深いものである》。――「行って、お弟子たちとペテロに……言いなさい」。「行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい」[マタ28:7]。この招きは、彼らに対して向けられたことからして、非常に恵み深いものである。というのも、先に彼らは「みながイエスを見捨てて、逃げてしまった」[マコ14:50]からである。あの夜――あの陰鬱な夜――彼らがともにいることを主が最も必要としておられたときに、彼らは眠っていた。そして、主が寝ずにいて、カヤパの邸に連れて行かれたとき、彼らは逃げてしまった。――しかり。ひとり残らずそうした。彼らの中には不動の精神を有する者がひとりもいなかった。彼らはみな逃げ出した。「何と恥ずべきことだ!」、とあなたは云うだろうか? しかり。だがイエスは彼らを恥とはお思いにならなかった。というのも、地上における栄光の生の最初の発言の1つで、主は特に彼らに言及しておられるからである。「わたしの弟子たちにこのことを知らせなさい」。他の者たちにまして忠実だった誰かれを、ひとり、またひとり、と抜き出して選り抜くのではなく、この臆病な一団全体に言及して、「わたしの弟子たちに言いなさい」、と云っておられる。兄弟たち。キリストの弟子たち。イエスはいま私たちに会おうとしておられる。主の御前に急いで行こうではないか。私たちの中の誰ひとり、自分の忠実さを自慢しようなどとは思わない。私たちはみな、時として臆病風に吹かれてきた。私たちは、ひとり残らず、私たちの主が私たちに対して最も忠実な愛をいだいておられると思うときも、恥ずかしさのあまり顔を伏せるであろう。私たちは決して主に対して当然なすべきようなしかたでふるまってこなかった。もし主が私たちを追放されたとしても、もし主が、「わたしは、もはやこの卑怯者どもを認めまい」、と仰せになったとしても、私たちがそれを異とすることはできなかったであろう。だが主は私たち全員を招いてくださる。主の弟子である者全員を――私たちを、ご自分のもとへ招いてくださる。あなたは遠くに離れていようとするだろうか? あなたがたの中の誰かが、この愛しい御顔を――人のようではないほど損なわれていながら[イザ52:14]、御使いたちの顔にまして愛すべき御顔を見ることなしに満足しようというのだろうか? 来るがいい。あなたがた、主に従うすべての人たち。主が来るようあなたに命じておられるからである。このことづけの語りかけを聞くがいい。――「わたしの弟子たちに言いなさい」。

 しかし、主の恵みの寛大さと美しさはここに存していた。――そのひとりは、残りの者にまして卑劣であった。それゆえ、その男のためには、彼を差し招く特別な指が、また、彼に対する特別な言葉があったのである。「わたしの弟子たちと《ペテロに》言いなさい」。自分の主を否定した男、呪いをかけて否定した男、騒々しい自己信頼の後で、女中にからかわれただけで身震いした男。この男が招かれるのだろうか? しかり。「わたしの弟子たちとペテロに言いなさい」。もしあなたがたの中の誰かが、他の者らにまして自分の《主人》に対して卑劣なふるまいをしてきたとしたら、あなたは特にいま主のもとに来るよう招かれているのである。あなたは主を悲しませてきた。そして、あなたは自分が主を悲しませてきたがゆえに悲しんでいる。あなたはすべり落ちて主から離れた後で悔い改めへと導かれており、いま主はあなたをご自分のもとへ招くことによって、あなたの赦罪に証印を押しておられる。主はあなたに、引っ込んだ所に立っていてはならないと命じておられる。むしろ、残りの者らとともにやって来て、ご自分と交わりを持つよう命じておられる。

 ペテロよ。あなたは、どこにいるのか? あの鶏の鳴き声は、今なおあなたの耳に響いており、あの涙は今なおあなたの目に宿っている。だが、来て、迎(い)れられるがいい。あなたは主を愛しているのだから。主はあなたが主を愛していることを知っておられる。あなたは、自分の愛に疑いがかけられてしかるべきであることを悲しんでいた。来るがいい。主はあなたを赦しておられる。その赦しのしるしをあなたの砕かれた心と涙ぐんだ目に与えておられる。ペテロよ、来るがいい! 来るがいい、たとい他の誰も来なくとも。イエス・キリストは、他の誰にもまさってあなたを名指しで招いておられる。この場所には、異常な行動を行なってきた信仰者たち、主を捨てたことすらある信仰者たちがいるかもしれない。そして、彼らはいま自分を憐れんでいる。あなたの聖なる悲しみはかかえておくがいい、だが、あなたの主のもとに来ることである。主を目の当たりにするまで満足してはならない。信仰によって新たに主をつかむまで満足してはならない。そして、「私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの」[雅2:16]、と云えるようになるまで満足してはならない。

 こういうわけで、イエスが発しておられるこの招きは、この上もなく優しいものである。その優しさの一部は、いま、主に代わってこのことづけを伝えている唇に存している。この女たちがやって来て、こう云ったのである。――イエス様が私たちに仰いました、御使いを通して、私たちより先にガリラヤへ行かれます、前に云われた通り、そこでお会いできます、と。私が常に感謝しているのは、神がみことばを伝える役目を御使いたちにではなく、私たち、あわれな人間にゆだねておられることである。少し前にあなたがたに語ったように、あなたは私に、また、私のもごもごした物云いに飽き飽きするようになるかもしれない。だがしかし、そうしたものの方が、もっと高貴な種族よりもあなたに適しているのである。疑いもなく、もしも御使いがあなたがたに宣教することになっていたとしたら、非常な大群衆が集まり、しばらくの間あなたは、「これは素晴らしいことだ」、と云うであろう。だが、それは人間的な同情を欠いていることにより冷たいものとなりすぎて、あなたはじきにその高尚な様式にうんざりするようになるであろう。御使いも、その天的な性質にふさわしく、親切になろうとするであろうが、同類となることはなく、必然的にあなたは類縁関係から出る親切さがないことを物足りなく思うようになるに違いない。私はあなたに、あなたの骨の骨、あなたの肉の肉として語っている。私はあなたに、教師として語っている。私は教師だからである。弟子として語っている。弟子だからである。だが私は、自分があなたがたの中の最も小さな人々よりも偉大であるなどとは考えもしない。私たちは手に手を取って私たちの愛する《救い主》のもとに行こうではないか。そして、もろともに、主が、世には現わそうとしないようなしかたが、私たちのご自分を現わしてくださる[ヨハ14:22]ことを願おうではないか。では、これが私の最初の点である。――主の招きは恵み深いものである。

 II. 第二に私たちが本日の聖句に見てとるのは、《イエスはご自分の会合の約束を守られる》ということである。もしあなたがマルコ14:27、28に目を向けるとしたら、あなたは主が死ぬ前に彼らにこう告げておられたことを見てとるであろう。「あなたがたはみな、つまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊は散り散りになる。』と書いてありますから。しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます」。主は、そこにおられるとお告げになった場所におられるであろう。私たちにとって、特に多忙をきわめる者たちにとって非常に苛立たしいことは、誰かから、「これこれの場所で私と会ってくれませんか?」、と云われることである。「よろしい。何時にしましょうか」。その時間が指定される。私たちはそこに出かけていく。感謝すべきことに、私たちは、時間通りに行くことが可能な時は、その時間に三十秒と遅れたことはない。だが、時間通りに行動することは、いまだごく少数の人々しか学びとっていない教訓である。私たちは待つ。いやになるほど待つ。そして、ことによると、私たちはその場所を立ち去って、私たちののろくさい友人たちにこう知らせることになるかもしれない。あなたがたは永遠の中にいるとしても、私たちは時間の中にいるのであり、その一部をも失う余裕はないのだ、と。多くの人々は約束をしてもそれを破る。まるで、実質的に嘘をつくという罪を犯しても何でもないかのようである。イエスについては、そうではない。主は、「あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます」、と云われた。そして、主はガリラヤへ行かれるのである。主がご自分の民と会おうと約束するとき、主は間違いなく、また遅れることなく彼らとお会いになるであろう。

 しばしの間、この約束について詳しく述べてみよう。なぜ私たちの主はガリラヤへ行くと云われたのだろうか? それは、主のなじみの場所であり、死人の中からよみがえった後で、ご自分が慣れ親しんだ所に――湖に、また山腹に――戻りたいと願われたからだろうか? 確かに、それには一理ある。そこは弟子たちのなじみの場所でもあった。彼らはその湖の漁師であった。それで主は彼らを、丘々の間に眠っているこだまのように、彼らの声によって一千もの記憶が覚醒されるであろう場所へと彼らを連れ戻したかったのであろう。それに加えて、それは主がどなたであるかについて、数々の目撃者を供することになるであろう。というのも、ガリラヤ人たちは主をよく知っていたからである。主はそこで育ったからである。主はご自分が知られている所へ行き、ご自分がかつてよく行かれた場所に姿を現わそうとされた。

 また、ことによると、それはその場所が蔑まれていたからかもしれない。主はよみがえられ、ガリラヤへ行かれる。主はガリラヤ人と、また、ナザレ人と呼ばれることを恥とはなさらなかった。このよみがえられた《お方》は、君主たちの大広間に行くのではなく、農民や漁民の住む村々へ行かれる。イエスのうちには何の高慢もない。この炎の臭いすら、主の上を通り過ぎた兆しはなかった。主は常に心優しく、へりくだって[マタ11:29]おられた。

 また、主がガリラヤに行かれたのは、それが多少エルサレムから離れた所にあり、主と会おうとする者たちが少し苦労することになるからではなかっただろうか? 私たちの《愛するお方》は、探し求められたいお思いになる。主を求めて旅をすればこそ、主とともにいることが尊くなるであろう。主はあなたとエルサレムではお会いにならない、かもしれない。――少なくとも、あなたがた全員とはお会いにならないであろう。だが、主は遠いガリラヤの湖畔でご自分を現わしてくださる。

 あなたは、主がガリラヤに行かれたのは、それが「異邦人のガリラヤ」[マタ4:15]だからだと考えているだろうか? ご自分の使命が許す限り、私たち異邦人の間近に近寄りたいと思われたからだろうか? 説教者としての主は、イスラエルの家の滅びた羊以外のところにのみ遣わされていた[マタ15:24]。だが、主はご自分の教区の最辺縁にまで旅され、ご自分に可能な限り異邦人(私はこのことで私たち自身を意味している)に近づいてくださった。おゝ、これは私たち異国者にとって幸いな言葉である!――「あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます」。そう主は云われた。そして、主は、墓を離れたとき、ご自分の約束を守られた。

 さて、愛する方々。主はこう約束しておられる。私たちがともに集まっている所に主はやって来られ、私たちと会ってくださるのである。「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです」[マタ18:20]。そして主は、その約束を守っておられないだろうか? 私たちの集会において、それが大集会であれ小集会であれ、いかにしばしば私たちは、「主がここにおられた」、と云ってきたことか! いかに頻繁に私たちは、説教者のことを忘れ、ともに礼拝している人々のことを忘れ、自分が定命の人を越えたお方の御前にいると感じてきたことか! 私たちの信仰の目は、私たちに対してご自分の愛を明らかにしておられる、麗しい《王》[イザ33:17]を見てきた。おゝ、しかり! 主は会合の約束を守られる。主はご自分の民のもとに来られる。決して彼らを失望させることはない。私は、このことが特に真実なのは聖餐式の卓子だと思う。いかにしばしば主はそこで私たちと会われたことか! 私は、自分の個人的な証しを繰り返さざるをえない。私は、この人生の長年の間、いかなる安息日にも、病気にかかっていたか出席できない場合を除き、聖餐台に着くのを怠ったことはない。それゆえ、この問いに答えることができるのである。――回数を重ねることによって、この儀式の厳粛さは減じてしまうだろうか? 私の経験では否である。むしろ、ますます好ましいものとなる。かの裂かれたパン、かの注ぎ出された葡萄酒という、主のからだと血との象徴――これらによって主は非常に身近にされる。あたかも、感覚が信仰に援助の手を差し伸べているかのようである。そして、こうした2つの瑪瑙の窓、紅玉の門[イザ54:12 <英欽定訳>]を通して、私たちは私たちの主の非常な間近に行くのである。私たちがここで有しているのは、教えに富んだ象徴のもとにおられる、主ご自身でなくて何だろうか? 私たちがここで行なうのは主を覚えることでなくて何だろうか? そしてそのように、確かに私たちは、目のさえぎられた者であるため[ルカ24:16]、道すがら言葉を交わしてくださる主を目の当たりにしたことはないかもしれないが、それでも私たちは、パンが裂かれることにおいて、主を見てきたのである。願わくは、それが常のことであるように! 願わくは、イエスがその誓いを守られることを私たちが経験できるように。主は今しも私たちとともにおられるであろう。かりに、イエスが今晩この場所に文字通りに血肉をもってやって来られると仰せになっていたとしよう。あなたがたはみな、期待を込めて座席に座り、「主はいつ来られるのでしょうか?」、と云い交わしているであろう。説教者は、自分の《主人》が正面にお立ちになったなら、後ろに引き下がろう、あるいは、膝まずいて崇拝しようと待ちかまえているであろう。あなたは主をそのように見ることはないであろうが、願わくはあなたの信仰が、この、視力よりもはるかにまさったものが、現在ここにおられるキリストを――あなたがたひとりひとりの間近におられるお方としての主を――見てとることができるように。もし主が肉体をもってここにおられたとしたら、主はここに立たれるかもしれない。その場合、主は私の間近にはおられるであろうが、向こう側の私の友人たちからは遠く隔たっていることになるであろう。だが、霊において来られるとき、主は私たち全員と等しく身近におられ、私たちひとりひとりに個人的に語りかけてくださるのである。ひとりひとりが、その場にいるたったひとりの人であるかのように。

 III. 私の第三の所見はこうである。《イエスは、いかなる所でお会いになると定められた場合も、先に真っ先にやって来られる》。この聖句はそう伝えている。「イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます」。あの約束を思い出すがいい。「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです」。――「わたしもその中に行くでしょう」、ではない。イエスは、ご自分の弟子たちがその場所に着く前からそこにおられる。この家に第一にお着きになるお方は、この家で第一であられるお方である。私たちは主のもとにやって来る。私たちが集会を持ち、そこに主がやって来るのではない。むしろ、主が私たちの前に行かれ、私たちは主のもとに集まるのである。

 これは、主が羊飼いであられることを教えていないだろうか? 主は云われた。「『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊は散り散りになる。』……しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます」[マコ14:27、28]。主は再び羊飼いの役目につくであろう。そして、群れに先立って行くであろう。また、再び群れの立場を取り、もはや散り散りにはならず、《羊飼い》のすぐ後について行くであろう。大いなる《主人》よ、今晩、来てください。あなたの羊をご自身のもとへ呼び集めてください! 私たちに語り、私たちを見つめてください。そうすれば、私たちは立ち上がり、あなたについて行きます。

 次に、主が先に行かれるのは、主が中心であられるからではないだろうか? 私たちは主に集まる。円周を引く前には、中心を選ばなくてはならない。イスラエルが荒野を旅していたとき、その宿営として最初に定められた場所は、幕屋と契約の箱とが安置される場所であった。それから、その回りに他の天幕が張られたのである。イエスは私たちの中心であられる。それゆえ、主が第一でなくてはならない。私たちは喜んで主がこう仰せになるのを聞く。「わたしは、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます」。主は第一の場所を取られ、それから私たちは主の回りに群がるであろう。あたかも、蜜蜂がその女王の回りに群がるように。愛する方々。あなたは常にイエスの御名のもとに集まっているだろうか? もしあなたが何らかの教役者か、何らかの教派かを目当てに集まっているとしたら、あなたの集まりは間違っている。私たちは、主イエスのもとに集まるのでなくてはならない。主が中心でなくてはならない。主だけでなくてはならない。このことに注意しよう。

 次に、主が当然私たちの先に行かれるのは、主が招待主であられるからである。もし何らかの祝宴があるとしたら、そこに赴く最初の人は、その祝宴を催す人である。――その席の上座に着く主人、あるいは女主人である。招待客がそこに最初に赴き、その後で主人が息せききって帰宅して、「失礼しました。皆さんが六時にいらっしゃることをすっかり失念していました!」、などと叫ぶとしたら、全く何にもならない。おゝ、否。主人が最初にいなくてはならない! イエスがご自身のもとに来るように私たちに命じておられ、ご自分が私たちとともに食事をし、私たちもご自分とともに食事をする[黙3:20]と仰せになるとき、主は確かに最初に赴き、その祝宴を用意してくださるに違いない。主は私たちより先にガリラヤに行かれるのである。

 しかし確かに、主が先に行かれる理由はこのことである。――主は、私たちが主のために備えをするのに、はるかにまさって、私たちのための備えができているのである。私たちが聖餐式のための備えを行なうには時間がかかる。私たちの魂を整え、私たちの心を落ち着けるのに時間がかかる。あなたがたはみな、今晩、主の晩餐のために用意ができているだろうか? ことによると、あなたがたの中のある人々は無頓着にここにやって来たかもしれない。だがしかし、あなたは教会の会員であり、聖餐式までとどまっているべきなのである。愛する方々。用意された心をもってやって来るようにするがいい。聖餐式はあなたにとって、多くの場合、あなたがそうする通りのものとなるからである。そして、もしあなたの思いや願いが正しくないとしたら、外的な象徴があなたにとって何になりえるだろうか? 私たちの主の側では、何もかも準備が整っており、主はあなたを迎え入れ、あなたを祝福しようと待っておられる。それゆえ、主は定められた会合の場所へと先に行かれるのである。

 私はまた、こうつけ足すこともできよう。主は、あなたの方が、主と交わりを持つことに熱心であるにもまさって、あなたと交わりを持つことにはるかに熱心であられる。これは奇妙なことだが、その通りである。私たちの魂を大いに愛される主は、熱情的な願いを燃やして、ご自分の民を御胸に抱きしめようとしておられる。だのに私たちは――このように無比の愛の対象である者たちは――、後ずさりし、主の情愛の熱気に対してなまぬるさをお返しするのである。そのようなことが、この機会にはあってはならない。私は私の主に申し上げてきた。「どうか私があなたを大いに喜ぶか、あなたに飢え渇くようにしてください」。私が願うのは、あなたが今のこの時、イエスに対する燃える渇きを有して、主の杯を飲むか、主に渇いてやつれ果てるほどになることである。

 IV. 第四の所見はこうである。《主イエスは、ご自分の民にご自身を明らかに示される》。この聖句は何と云っているだろうか? 「イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。……そこでお会いできます」。最たる目的は主にお会いすることである。主がガリラヤに行かれたのは、彼らにご自身を明らかに示せるようにするためであった。私の愛する方々。これこそ彼らが他の何にもまして必要としていたことである。彼らの悲しみは、主を死んだと考えていたがためであった。彼らの喜びは、生きた主を見たことゆえとなるであろう。彼らの悲嘆は多様であったが、この唯一の慰藉はそのすべてを終わらせるであろう。もし彼らがイエスを目にできさえしたら、彼らは自分たちの恐れが去るのを見るであろう。神の子どもたち、あなたは今晩何を求めてここにやってきたのだろうか? あなたはこう答えることができると思いたい。「先生。イエスにお目にかかりたいのです」[ヨハ12:21]。もし私の《主人》がやって来られるとしたら、私たちはその臨在を感じるはずである。いかに弱々しく私が語ろうと、いかにこの礼拝式そのものが貧しいものであろうと関係ない。あなたは云うであろう。「ここにいるのは素晴らしいことだった。主は、その愛の栄光のきわみをもって私たちに近づいてくださったのだ」。

 そして、これは主が喜んで与えてくださることである。イエスはご自身の民と非常に親しみ深くあられる。一部の人々が礼拝している《救い主》は、堂々と厳めしい無関心をまとって天上の御座に座している。だが私たちの主はそうではない。確かに天で統治してはいるが、主はなおも下界の御民と親しく交わってくださる。主は苦しみを分け合うために生まれた兄弟[箴17:17]であられる。霊的に主は私たちと親しく語られる。あなたは、キリストとともにいることがいかなることか知っているだろうか? あなたは、主に関する種々の教理に、あるいは、主に関する様々な儀式に熱中しているだろうか? そうだとしたら、あなたのいのちは貧弱なものである。だが、内的いのちの喜びは、主イエスを知り、主イエスと語り、主イエスとともに住むことである。あなたはこのことを理解しているだろうか? 私はあなたに命ずる。あなたの主と、個人的で親密な交通に至るまで、満足してはならない。これに欠けている場合、あなたは主があなたに必要なものとみなされた特権に欠けている。というのも、これこそ主の大いなる約束だからである。「そこでお会いできます」。

 それだけでなく、このように主を目のあたりにすることは、私たちの主が有効にお授けになることである。イエスは、単にご自身を顕示するだけでなく、私たちの目を開き、私たちがその光景を味わえるようにしてくださる。「そこでお会いできます」。主がいかに明らかにお示しになっても、盲目の目では主を見られないであろう。ほむべき《主人》よ。ここに来て、目からうろこを取り除き、私たちの心が霊的にものを認められるようにしてください! 誰もが神を見てとれるわけではないが、それでも神は至る所におられる。目が最初に明るくされなくてはならない。イエスは云っておられる。「あなたがたは、そこで私に会えます」、と。そして主は、いかにすれば私たちの目を開いて、ご自分を私たちに見えるようにできるかご存知である。私たちの主は、このことをご自分の民が心奪われるような務めとすることがおできになる。「イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます」。――そして、それからどうなるだろうか?「そこでお会いできます」。何と、彼らは漁に出かけたのではなかっただろうか?[ヨハ21:3] しかり。だが、彼らはそれから呼び戻された[ヨハ21:5]。「そこでお会いできます」。彼らは途方もない大漁を得たではなかっただろうか?[ヨハ21:6] しかり、しかり、しかり。だが、それは、たまたま起こったことにすぎなかった。大いなる事実は、彼らが主にお会いしたということであった。願わくは主が、私たちの人生の唯一の務めを、《主ご自身》にお会いすることとしてくださるように。願わくは、一切の低級な光が薄暗くなるように。真昼に星々はどこにあるだろうか? みなしかるべき場所にある。だが、あなたには太陽しか見えない。キリストが現われるとき、一千もの物事はどこにあるだろうか? みなしかるべき場所にあるであろう。だが、あなたにはキリストしか見えない。願わくは主がこうした他の一切の愛を消し去り、ご自身によってのみ私たちの心を満たしてくださるように。そのようにして、このことが私たちについて真実となるように。「そこでお会いできます」!

 私はこのようにして、聖霊の助けを叫び求めつつ、ここまで進んできた。さて今、第五の所見に移って、それでしめくくりとしよう。

 V. 《私たちの主は、ご自分の数々の約束を覚えておられる》。主が彼らよりも先にガリラヤへ行くと云われたのは、主が死なれる前であった。そして、死人の中からよみがえられた今、主はその御使いの口を通して、「前に言われたとおり、そこでお会いできます」、と云っておられる。キリストの行動の規則は、ご自身のことばである。主が仰せになったことを主は果たされるであろう。あなたや私は主の約束を忘れるが、主は決してお忘れにならない。「前に言われたとおり」。これは、主がお語りになったすべてのことを覚えておられるということである。なぜ私たちの主は、ご自身がこれほど恵み深く語ったことを覚えていて、繰り返しておられるのだろうか?

 主がそうするのは、主が、先見と深慮と配慮とをもってお語りになったからである。私たちが約束をしてもそれを忘れてしまうのは、良く考えないうちに口を開くからである。だが、もし私たちがとくと考え、計算し、比較考量し、評価し、入念な決心に達した上で口をきくとしたら、私たちは自分が決心したことを真剣に覚えていよう。私たちの主イエスのいかなる約束も、性急に口にされ、後で悔やまれるようなものではなかった。無限の知恵が無限の愛を導いており、無限の愛が洋筆を取って1つの約束を書き記すとき、無謬の知恵がそのあらゆる音節を口述するのである。

 イエスがお忘れにならないのは、その約束を語るとき、心底からお語りになったからである。あらゆる舌が、心をそのまま表わしているわけでは決してない。むしろ、真実な人々でさえ、心から思った多くのことを云いはするものの、そこには感情に深みがなく、強い情緒も、心の中心が感動させられていることもない。私たちの主が、「あなたがたは散り散りになる。しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます」、と仰せになったときには、重々しい心をもって、また、多くの心を溶かすようなため息とともに云われた。そして、主の全霊は、その悲しみに沈んだ場面をしめくくる約束に込められていた。主は、ご自身が約束したものを獲得し、ご自分の血潮によって獲得された。それゆえ、主はこの上もなく厳粛に、また、心底から語っておられるのである。キリストの側には、ご自分が約束を交わされた者に対するいかなる無駄な行動もない。それゆえ、主は決してお忘れにならない。

 そしてまた、主の栄誉があらゆる約束にかかっている。もし主がガリラヤに行くと仰せになっていながら、行かなかったとしたら、弟子たちは主が過失を犯したのだと、あるいは、物事に失敗したのだと感じたであろう。兄弟たち。もしキリストの約束が果たされなかったとしたら、私たちはそれをどう思うだろうか? しかし、主は決してご自分の忠実さと真実さをだいなしにしたりなさらない。

   「むしろ主、存(あ)るを 已(や)むるらん、
    御約束(みちかい)破り、忘るより」

人の言葉はもみがらのように吹き飛ばされるであろう。だが、イエスのことばは堅く立つに違いない。主は、ご自分の冠に填めこまれた宝石の精粋の1つである、ご自分の真実を汚そうとはされないからである。

 私は、あなたがこの思想をひとり静かに思い巡らしてほしいと思う。イエスはご自分が語られたすべてのことを覚えておられる。私たちの心が忘れないようにしよう。主のもとに、その契約の証書と、恵み深い約束の数々をもって行くがいい。主はご自分の署名を認めてくださるであろう。ご自分の約束を最後まで尊び、主に信を置いた者は誰ひとり主が誇大に語ったと不平を云うことはないであろう。

 そのことを云って、私の話は終わる。いま私は、私たちがこの聖餐台に着き、キリストとの真の交わりを持つことを切に気遣っている。イエスよ。あなたは私たちがあなたを求めて飢えるようになさいました。私たちを養ってくださらないのでしょうか? あなたは私たちがあなたを求めて渇くようになさいました。その渇きを癒してくださらないでしょうか? あなたは私たちの《愛するお方》が、私たちをじらすつもりだと思うだろうか? 私たちの飢えは、石の壁をも突き破るほどのものである。主の心は、石の壁のように固いものであると分かるだろうか? 否。主は道を開いてくださり、私たちは私たちで、あらゆる障害物を突き破っても主のもとに行くであろう。「しかし」、とある人は云うであろう。「いかにして私が主のもとに行けましょう。私のようにあわれで、名もない、無価値な者が」。あの湖のほとりにいた弟子たちもそうした者であった。彼らは漁師だった。そして主が彼らのもとにやって来られたとき、彼らは一晩中働いてくたくたになっていた。あなたは主のために働いているだろうか? ならば、主はあなたのもとにやって来られるであろう。いま主を期待するがいい。「あゝ!」、とある人は云うであろう。「私は働いても何の甲斐もありませんでした」。――あなたは、あわれな教役者で、会衆は減少しつつある。教会は会衆によって増加することがない。――あなたは夜通し骨折ってきたが、何も取れなかった。あるいは、あなたは《日曜学校》の教師であって、受け持ちの少女たちが回心するのを見てはいない。あるいは、受け持ちの少年たちがキリストのもとに来ようとしないのを嘆いている。よろしい。私は、あなたがいかなる者であるか分かる。あなたこそは、イエスが近づいて来てくださる種類の人々である。というのも、彼らもやはり一晩中働いたが、何も取れなかったからである[ヨハ21:3]。あなたは空腹だろうか? イエスが叫んでおられる。「子どもたちよ。食べる物がありませんね」[ヨハ21:5]。主はあなたのもとに来て、あなたの空腹についてお尋ねになる。と同時に岸辺には炭で火がおこしてあり、その上に魚が載せられている[ヨハ21:9]。「さあ来て、朝の食事をしなさい」[ヨハ21:12]、と主は云われる。卓子は広げられている。主ご自身のもとに来るがいい! 主はあなたの食物、あなたの望み、あなたの喜び、あなたの天国であられる。主のもとに来るがいい。主がご自分をあなたに明らかに現わしてくださるまで、やむことなく主に願い求めるがいい。そのときあなたは確実に知るであろう。あなたの主こそ、あなたを抱いていてくださるお方である、と。願わくは主が、いま私たちひとりひとりに対してそのようにしてくださるように。その甘やかな愛のゆえに! アーメン。

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説教前に読まれた聖書箇所――マルコ14:1-14


『われらが賛美歌集』からの賛美―― 385番、784番、785番

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----私たちの主の愛のことづけ[了]
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