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私たちの主の死の奇蹟

NO. 2059

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1888年12月30日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1888年4月1日、主日夜の説教


「そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。そして、イエスの復活の後に墓から出て来て、聖都にはいって多くの人に現われた」。――マタ27:50-53


 私たちの主の死という驚異は、数々の驚異に取り巻かれている。それは、王室所蔵の金剛石コイヌールが、幾多の宝石に取り巻かれている様子を思い起こさせる。太陽が、それを取り巻く惑星群の真中にあって、それらすべてをはるかに圧して輝いているように、キリストの死は、その時に起こったどの奇蹟よりも素晴らしいものである。だが、太陽を見た後の私たちは、種々の惑星を研究することをも楽しむ。それで、キリストの無比の死を信じ、《十字架につけられたお方》としてのキリストに信頼を置いた後の私たちは、この聖句で言及されている、こうした4つの驚異を詳細に吟味することに大きな喜びを見いだすものである。これらは惑星のように、私たちの主ご自身の死という偉大な太陽の周囲を回っているのである。

 それは何かというと、神殿の幕が真二つに裂けたこと、地が揺れ動いたこと、岩が裂けたこと、また、墓が開いたことである。

 I. まずこうした驚異の最初のものから始めるが、これを私は今晩は詳しく語ることができない。それだけの体力はない。単にいくつかの考えを示唆するだけにしたいと思う。

 《裂かれた幕》、すなわち、明らかにされた数々の奥義のことを考えてみるがいい。キリストの死によって、神殿の幕は上から下まで真っ二つに裂けた。そして、それまでの多くの世代の間、至聖所に隠されていた数々の奥義は、すべての信仰者の凝視の前に明らかになった。いわば、キリストの《神性》における最頂部から、キリストの人性における最底辺の部分に至るまで、この幕は裂かれた。そして何もかもが、あらゆる霊的な目の前に明かされたのである。

 1. これはキリストの死後の最初の奇蹟であった。キリストの生涯における最初の奇蹟は意義深いもので、私たちに多くのことを教えた。主は水を葡萄酒に変えられた。あたかも、あらゆる普通の生を主がより高次の階梯へと引き上げ、あらゆる真理に力と甘やかさを込められたことを示すかのようにである。そうした力や甘やかさは、主を離れては存在しえない。しかし、この主の死後における最初の奇蹟は、その生涯における最初の奇蹟を越えたものとして立っている。なぜなら、もし思い出せば分かるように、その奇蹟は主の御前でなされたからである。主はそこにおられ、水を葡萄酒に変えられた。しかしイエスは、人としては、神殿の中にはおられなかった。その奇蹟は、主のいない所でなされた。そして、それがその不思議さを高めているのである。それらは、どちらも等しく奇蹟的であった。だが、この第二の奇蹟には、ほんの少し著しさがまさったものがある。――主がそこにいて、言葉を発して、幕を真っ二つに裂いたのではなかった。主の魂はそのからだから離れてしまっており、主のからだも主の魂も、《いと高き方》の幕屋の、あの秘められた場所にはなかった。だがしかし、距離を隔てていても主の意志は、あの厚い幕を十分に裂くことができた。熟練の手芸で縒り合わされていた、あの見事な亜麻布の幕を。

 水を葡萄酒に変える奇蹟が行なわれたのは、個人の家の中で、家族の中で、また、その家族の友人であった弟子たちの間でなされた。だが、この驚異は神の神殿でなされた。そこには異様な神聖さが伴っている。なぜなら、この不思議な行為は、最も畏怖すべき神秘的な場所でなされたからである。それは、神聖な礼拝の中心であり、神の御住まいであった。見るがいい! 主は死んで、神の気高い聖所の扉そのものにおいて、その幕を裂いておられる。この奇蹟は、エホバの御前でなされたものとして、厳粛なものがある。それを言葉で伝えることはほとんどできないが、あなた自身の魂においては感じとれるであろう。

 また、これが《救い主》によって、その死後になされたことをも忘れてはならない。そして、このことによって、この奇蹟は非常に尋常ならざる光のもとに置かれる。主はこの幕を、まさに死の瞬間に裂いておられる。三十年間、主はその生涯最初の奇蹟のための準備をしておられたように見える。だが主は、その死後の最初の奇蹟を息を引き取った瞬間に行なっておられる。その魂がみからだを離れつつあるとき、私たちのほむべき主は、その同じ瞬間に、御父の象徴的な家の大きな幕をつかんでは、それを真っ二つに裂かれた。

 2. この死後の最初の奇蹟は、厳粛な思いをいだくことなく通り過ぎることができないような所でなされている。ここには、非常に意義深いものがあった。それは、新しい経綸と呼んで良いものの冒頭にあるからである。水を葡萄酒に変える奇蹟は、主の公生涯の端緒となり、その基調を定めている。この奇蹟は主の死後のみわざの端緒となり、その調子を表わしている。これは何を意味しているだろうか?

 これは、キリストの死が数々の秘密の啓示であり説明であることを意味していないだろうか? 儀式律法のあらゆる予型と影は消滅させるがいい。――キリストの死において成就され、説明されたがゆえに消滅させるがいい。主イエスの死はあらゆる真の哲学の鍵である。人となられた神が、人のために死んでおられる。――もしそれで奥義が説き明かせないとしたら、それは解き明かせない奥義なのである。もしこの糸を手にしていても、人間に関する諸事という迷宮をくぐり抜け、神の偉大な目的を悟ることができない人がいるとしたら、その人はその糸を辿ることが全くできないのである。キリストの死は、大いなる幕の裂き手であり、数々の秘密の大いなる啓示者である。

 それは、数々の入口の大いなる開き手でもある。聖所へ至る道は、イエスが死に至りつつこの幕を裂かれるまで全くなかった。至聖所へ入る道は、主が死なれるまで明らかにされなかった。もしなあなたが神に近づきたいと願うなら、キリストの死が神への道である。被造物が、その神に対して可能な限り最も間近に近づき、最も親しい交わりを有したいと欲するとしたら、見よ、キリストの犠牲はその道をあなたに啓示している。イエスは単に、「わたしが道である」*[ヨハ14:6]、と仰せになるだけでなく、その幕を裂いて、その道を造っておられる。主の肉体という垂れ幕[ヘブ10:20]が裂かれたことにより、神への道は、信仰を有するあらゆる魂にとってこの上もなく鮮明にされている。

 さらに、十字架はあらゆる障害物を一掃するものである。キリストは死によってその幕を裂かれた。それ以後、主の民と天国との間には何の邪魔物も残っていない。あるいは、たとい何かがあるとしても――あなたの恐れが何らかの邪魔物を作り上げるとしても――この幕を裂かれたキリストはなおもそれを裂き続けてくださる。青銅のとびらを打ち砕き、鉄のかんぬきを粉々に砕いてくださる[詩107:16]。見よ、その死において、「打ち破る者は、彼らの先頭に立って上って行き、主が彼らの真先に進まれる」*[ミカ2:13]。主は打ち破って、道を通れるようにしておられ、主の選びの民はみな主の後に続いて、神の栄光に富む御座へと至るのである。

 これは、私たちがいま生きている経綸の精神の意味を伝えるものである。障害物は一掃されている。困難は解決されている。天国は信仰者すべてに開かれている。

 3. これはキリストにふさわしい奇蹟であった。しばし立ち止まり、あなたの死に給う主をあがめるがいい。主はこのような奇蹟でご自分の死を目立たせておられるのだろうか? これは、主の不滅性を証明しないだろうか? 確かに主は頭を垂れて死なれた。御父のみこころに従い、死の時が臨んだことを知って、主は心からの黙従によってご自分の頭を垂れた。だが、あなたが主は死んだと呼んだ瞬間に、主は神殿の幕を引き裂かれるのである。主のうちには死んだにもかかわらず不滅性があるではないだろうか?

 また、主がいかなる力を有しておられたか見るがいい。主の御手は釘づけられている。御脇腹は刺し貫かれようとしている。そこに吊り下げられている間、主は兵隊の侮辱からご自分を守ることができない。だが、その弱さのきわみにおいて、主は神殿の重い幕を上から下へ引き裂くほどの力強さを有しておられるのである。

 主の知恵を見るがいい。というのも、この瞬間、この行為を霊的にご覧になって主は、私たちにすべての知恵を開き、神の数々の秘密をむき出しにされたからである。モーセが自分の顔にかけた覆い[IIコリ3:13]を、キリストはご自分の死の瞬間に取り去られた。この真の《知恵》は、自らの死において、その最も壮大な説教を語っておられる。信仰を有するあらゆる者の目から至高の真理を隠していたものを引き破ることによってそうしておられる。

 愛する方々。もしイエスがその死によって私たちのためにこうしたことを行なっておられるとしたら、私たちは、主のいのちによって確かに救われるであろう。イエスは、死んだが生きておられ、私たちはこのお方に信頼している。このお方こそ私たちを「手で造られない聖所」*[マコ14:58]へと導き入れてくださるのだ、と。

 第二の驚異に移る前に、私はこの場にいる、《救い主》をまだ知っていないあらゆる人に勧めたいと思う。この方の死に伴った数々の奇蹟について真剣に考えてみてほしい。このように、私たちのもろもろの罪のためにご自分のいのちを捨てられたお方が、いかなる種類の人であられたかを。この方が死ぬとき、御父は決して奇蹟もなしにそれが起こることをお許しにならなかったし、その奇蹟はこの方が罪人たちを神に近づける道を作られたことを示していたのである。

 II. さて第二の不思議に移ることにしよう。――「《地が揺れ動いた》」。不動のものが、キリストの死によって動揺させられた。キリストは地面には触れていなかった。木にかけられて地面からは高く掲げられていた。主は死にかかっていた。だが、その御力を脇に置く際に、また、死の行為のただ中にあって、主はご自分の真下にある地面、私たちが「固い大地」と呼ぶものそのものを震えさせられた。これは何を教えただろうか?

 それが第一に意味していたのは、この物理的宇宙が、その命運の最後のすさまじい一揺れを予感したということではないだろうか? 来たるべきその日、キリストは地の上に現われ、そのうちに万物は古びた衣のように巻き取られ、捨てられることになる。主は、もう一度、地だけではなく、天も揺り動かすであろう[ヘブ12:26]。決して揺り動かされることのないものは残るが[ヘブ12:27]、だが、この大地はその1つではない。これは揺り動かされて、元ある所からなくなってしまうであろう。「地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます」[IIペテ3:10]。何物も主の前に立つことはない。主だけが立ち続ける。他の物事は単に立っているように見えているにすぎない。そして、主の御顔の恐怖を前にするとき、万人は震え、天地は逃げ失せることとなる。それで、主が死んだとき、地は自らの命運を予期して、その御前で震えおののいたかのように思われる。再び生きることとなったこのお方が、神の栄光の一切を帯びてやって来られるとき、いかに地は震えおののくことか! 話をお聞きの方々。《救い主》も持たずに来世で目覚めるとき、いかにあなたが震えおののくことか! その日いかにあなたは震えることか! 主は義をもってこの世界をさばく[使17:31]ためにやって来られ、あなたは自分が蔑んできた《救い主》に直面しなくてはならないのである! このことを考えるがいい。ぜひともそうしてほしい。

 また、この奇蹟はこのことをも意味していなかっただろうか?――霊的世界はキリストの十字架によって動かされることになっているのである。主は十字架の上で死んで、物質世界を揺り動かされる。それは、ご自分の死がこの、悪い者の支配下にある世界[Iヨハ5:19]を揺り動かし、道徳上の王国に激震を招くことになる予言としてである。兄弟たち。このことを考えてみるがいい。私たちは自分たちについて、「私たちがどうして世界を動かすなどということがあるだろう?」、と云うであろう。使徒たちはそうは自問しなかった。彼らは自分たちが宣べ伝える福音に信頼を置いていた。彼らの宣教を聞いた人々は、その信頼を見てとった。そして、口を開くときにはこう云った。「世界中を引っくり返して来た者たちが、ここにもはいり込んでいます」[使17:6 <英欽定訳>]。使徒たちは、福音を単純に宣べ伝えるだけで、世界を揺り動かせると信じていた。私は、あなたにも同じことを信じてほしいと懇願する。これは――このロンドンは、広大な町である。いかにして私たちがこれに影響を及ぼせようか? 支那や、ヒンドスタンや、アフリカ、――これらは広漠たる領域である。キリストの十字架は、これらに影響を及ぼせるだろうか? しかり。私の兄弟たち。というのも、それは地を揺り動かしたからである。そして、人類の莫大な数の人々を揺り動かすことになるからである。もし私たちがこの十字架に信を置いていさえするなら、また、その宣教を続けるねばり強さを有していさえするなら、イエスの御名が万人に知られるようになり、あらゆる膝が主の前にかがめられ、あらゆる舌が「イエスはキリストである」と告白して、父なる神の栄光が現わされるようになる[ピリ2:10-11]ことは時間の問題である。地は十字架の下で揺れ動いた。そして、もう一度揺れ動くであろう。主なる神はそのためにほめたたえられるであろう。

 かの古い世界は――それがいかに長い歳月のあいだ存在していたか私には分からない。創世記の第一節で言及されている初めの時から数えた世界の年齢を私たちは計算することができない。それがいかに古いものであれ、それは《贖い主》が死なれたときには揺れ動かなくてはならなかった。これは、私たちのもう1つの困難をも乗り越えさせる。私たちが相手にしなくてはならない悪の体系は、はるか昔に確立されたものであり、白髪をいただき、古めかしさゆえの威厳を帯びている。そして私たちは内心こう思う。「私たちには、数々の古い偏見を向こうに回すとき、大したことができない」。しかし、死に給うキリストの下で震え、揺れ動いたのは、古い、古い大地であった。そして、これはもう一度、震え、揺れ動くであろう。壮大な数々の思想体系、哲学と詩歌によって支えられているそうしたものらは、これから、比較的新しい教えと云われている十字架の教理の前に屈するであろう。確かに、この教えは新しくはない。むしろ、大地そのものよりも古い。それは神ご自身の福音であり、永遠にして永久である。それは、古代からあるもの、由緒あるものを揺さぶり落とすであろう。これは、主が生きておられるのと同じくらい確実なことである。そして、私はこのことの預言を、十字架の下で地が揺れ動いたことに見いだすのである。

 ただキリストを宣べ伝えるだけで、このことがなされるなど、不可能に思われるではないだろうか? こういうわけで一部の人々は、音楽や、建築や、その他、私には見当もつかない一切の補助手段をキリストの宣教に結びつけないではいられないのである。それは、ついにはキリストの十字架が人間による種々の発明で覆いかぶされ、人の知恵で押しつぶされ、埋没させられるまでとなる。しかし、何がこの大地を揺り動かしただろうか? ただ私たちの主の死だけであり、人間的な力も知恵も全く付加されていなかった。それは、これほど大きな結果を引き起こすには、不適切きわまりない手段と思われた。だが、それだけで十分であった。というのも、「神の弱さは人よりも強く、神の愚かさは人よりも賢い」*[Iコリ1:25]からである。そしてキリストは、その死そのものにおいて、その十字架の下で大地を揺れ動かすことが十分おできになる。さあ、心からこのことに甘んじようではないか。私たちが携わっている戦いにおいては、福音以外のいかなる武器も用いず、十字架以外のいかなる戦斧も用いないことにする、と。もし私たちがこのことを信じることができさえすれば、かの古い古い物語を告げるだけで、人を神に和解させることができるであろう。イエスは罪人の代わりに死なれた。正しい方が悪い人々の身代わりとなった[Iペテ3:18]。神の恵みと正義とが、ただ1つの行ないによって、素晴らしいしかたで表わされている。このことから離れさえしなければ、私たちは、征服者なる私たちの主のもとに勝利がすみやかにやって来るのを見るであろう。

 ここで、この第二の奇蹟を離れることにしよう。ここでは、不動のものが動かされるのが見える。地が揺れ動くことの中に、それが見られる。

 III. 第三の奇蹟については、ほんの一言二言の示唆のみ述べよう。――《裂けた岩》である。

 聞けば、今日に至るまで、エルサレムには、この上もなく異様な種類の、岩が裂けた跡がいくつかあるという。旅行者たちの話によると、それらは地震その他の原因によって通常生じるようなものではないらしい。このことについて、私はほとんど何も云うまい。だが、このことは驚くべきことである。イエスが死なれたとき、その魂がみからだから引き裂かれたとき、神殿の幕が2つに裂かれたとき、この大地が、また、その岩からなる部分が、また、ありとあらゆる物の中でも最も堅固な組織をしたものが、ただの一瞬にして引き裂かれて、深く大きな裂け目と割れ目を生じさせたのである。この奇蹟が私たちに示しているのは、このことでなくて何であろう。――無感覚な者らも覚醒させられるのである。何と! 岩に感覚があるだろうか? だが、それらはキリストの死を目の当たりにして裂けた。人々の心は死に給う《贖い主》の苦悶の叫びには反応しなかった。だが、岩々は反応した。それらは裂けた。主は岩々のために死んだのではない。だが、岩々は人々の心よりもずっと柔らかかった。主がその血を流された当の相手の人々よりも。

   「よろずの物に 道理(ことわり)ぞ見ゆ、
    ただ例外(さならず)は 無情(こわき)わが心(たま)」、

と詩人は語った。そして、それは真実であった。岩々は裂けることができたが、ある人々の心は十字架を目にしても裂けることがない。しかしながら、愛する方々。ここにこそ、私がここで目にしているように思われる点がある。――そうしたかたくなさ、強情さも、キリストの死によって打ち負かされるであろう。あなたはある人に向かって死について説教するかもしれない。そして、その人はその確実さによっても厳粛さによっても震えないであろう。だが、それを試すがいい。あなたはある人に向かって地獄について説教するかもしれない。だが、その人はパロのように、主の審きに対して自分の心をかたくなにするであろう。だが、それを試すがいい。人を動かすことのできる一切のことが用いられるべきである。しかし、いかに強情で、いかにかたくなな者にも影響を及ぼすのは、神の大いなる愛である。主イエス・キリストの死のうちに、かくも異様なしかたで見られる神の愛である。私はそれがいかにしてなされるか示すために長々と語ろうとは思わないが、私はそれが事実であることをあなたに思い起こさせたいと思う。まさにそのことこそ、私たちの中の多くの者らの場合に、悔い改めの涙を私たちの目にもたらし、私たちを神のみこころに服従させたものであった。私の場合がそうであったことを私は知っている。私は一千もの物事を眺めたが、心が和らぎはしなかった。だが、

   「われは見ぬ、かの 木の上(え)の《ひと》を
    苦悶(なや)み、血ながす かの人を」。

そのお方は、私のために死につつあった。そのとき私は自分の胸を打った。ひとり子を失って嘆くように、このお方のために嘆いた[ゼカ12:10]。確かにあなた自身の心も告白するに違いない。岩を引き裂く大いなるお方は、死に給う《救い主》であられる、と。

 よろしい。さて、あなたは、自分にとって真実であることが、他の人々にとってもそうであることに気づくであろう。あなたが最善を尽くしてもうまく行かなかったときには、この最後の鉄槌――キリストの十字架――を持ち出すがいい。私は何門もの大砲の上にラテン語で銘がこう記されているのを見たことがある。「国王たちの最後の云い分」、と。つまり、大砲こそ、国王たちが最後に用いる云い分だというのである。しかし、十字架は神の最後の云い分である。もしも死に給う《救い主》があなたを回心させないとしたら、何がそうするだろうか? もしこの血を流す傷口の数々があなたを神に引き寄せないとしたら、何がそうするだろうか? もしイエスが私たちの罪を十字架上でご自分のからだに負い、それを捨て去っているとしたら、また、もしこのことによってもあなたが、決して神に導かれることもなく、自分の罪を告白することもなく、その罪を憎むこともないとしたら、あなたには何も残っていない。「私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにしたばあい、どうしてのがれることができましょう」[ヘブ2:3]。十字架は岩を裂くものである。兄弟姉妹。死に給う神の御子の愛を教え続けるがいい。キリストを宣べ伝え続けるがいい。あなたはアルプスのごとき高慢のを、また、花崗岩のごとき偏見の山を、これによって掘り抜くであろう。あなたは、人々の心の奥底にキリストが入れる入口を見いだすであろう。たといその心が鉄石のように固くとも関係ない。そして、それは、御霊の力によって十字架を宣べ伝えることによってなされるであろう。

 IV. しかし、ここでしめくくりに最後の奇蹟を取り上げよう。こうした数々の不思議は積み重なって大きくなり、互いによりかかり合っている。揺れ動く大地は、疑いもなく、岩々を引き裂いた。そして、岩々が裂けたことは、第四の不思議に役立った。「《墓が開いた》」。墓が開いて、死者が生き返った。それが私たちの第四の項目である。それは、キリストの死の大いなる結果である。数々の墓が開いた。人間は、墓所に気を遣う唯一の動物である。ある人々は、自分たちがいかに埋葬されるかについて心を悩ます。これが、私の脳裡をよぎる最後の気遣いなのである。私は確信しているが、人々は私を憎むがゆえに、あるいは、愛するがゆえに埋葬するであろう。特に、自分自身に対する愛のゆえにそうするであろう。私たちがそのことについて悩む必要はない。しかし、人はしばしば自分の墓によってその高慢を示してきた。これは奇妙なことである。絞首台を花輪で飾るというのは、まだしでかされたことのない珍奇なことだと思う。だが、墓の上に大理石や選り抜かれた彫像を積み上げること、――これは、絞首台を飾ることではないだろうか。人間の卑小さだけが目立っている所で、人間の大きな威勢を示すことではないだろうか。ちりと、灰と、腐れと、腐敗、それから1つの彫像、そして、ありとあらゆる種類の見事な物事。ちりに帰る被造物は、結局、偉大なものなのだ、とあなたに思わせるそうした物事。さて、イエスが死んだとき、幾多の墓所があらわにされ、死者が暴露された。これは何を意味しているだろうか?

 私たちは、この最後の奇蹟のうちに、「人の歴史」を有していると思う。そこに人は死んで横たわっている。――罪過と罪の中に腐って、死んでいる。しかし、何と美しい墓所に人は横たわっていることか! 彼は国教会に通っている。あるいは、非国教徒である。――あなたの好む通りの者である。彼は非常に道徳的な人物である。紳士である。市民である。自分の《会社の主人》である。いつの日か、市長になるであろう。彼は非常に善良である。――おゝ、非常に善良である! だが、その心の中には何の恵みもなく、その信仰には何のキリストもおらず、何の神への愛もない。あなたは彼がいかなる墓所に横たわっているかを見てとる。――金箔を被せた墓場の中の死んだ魂である。その十字架によって私たちの主は、この墓所を2つに裂き、破壊される。十字架を前にするとき、私たちの功績に何の価値があるだろうか? キリストの死は自分を義とする思いの死である。イエスの死は、もし私たちが自分で自分を救えるとしたら蛇足のようなものである。もし私たちが《救い主》を必要としないほど善良だとしたら、何と、その場合、イエスはご自分のいのちを木の上でお捨てになったりしただろうか? 十字架は、偽善と、形式尊重主義と、自分を義とすることという、霊的に死んだ者らが身を隠している数々の墓所を打ち壊すのである。

 次は何だろうか? それは墓を開く。地ははねるように開く。そこに死んだ人が横たわっている。白日のもとにさらされる。キリストの十字架がそうする! その人は、まだ恵みによって生きた者とされてはいない。だが、彼は自分に気がつく。彼は、自分が自分の罪という墓に横たわっていることが分かる。彼には、大理石で覆われた死体のようにではなく、墓掘り人たちが土塊をはね飛ばした後で、日の光にさらけ出された死体のように横たわっている。そうするに足るだけは神の力を有している。おゝ、十字架がこのように墓場を開くとき、それは大いなることである! あなたが人々に罪を確信させるには、十字架につけられた《救い主》を宣べ伝えることによるしかない。私たちが人々の心に達するために用いる槍は、《救い主》の心臓を刺し貫いたのと同じ槍である。私たちは、十字架刑を用いて、自分を義とする思いを十字架につけ、その人に、自分が罪の中に死んでいると告白させなくてはならない。

 その墓所が打ち壊された後で、また、その墓場が開かれた後で、何が続いただろうか? いのちが分け与えられた。「眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った」。彼らは、すでにちりに返っていた。だが、1つ奇蹟が起こるときには、大きな奇蹟も起こって良い。私にとって驚きなのは、人々が、ある奇蹟は信じることができるくせに、別の奇蹟については困難を感ずるということである。だが、いったん《全能》を導き入れたなら、困難はやんでしまったのである。そうしたからだは、突如として1つにまとまり、五体満足で、今や生き返るのを待つばかりとなっていた。いのちの分与は何と素晴らしいことであろう! 私はそれを死人においては語らないであろうが、死んだ心においてはそれについて語るであろう。おゝ、神よ。あなたのいのちを、この瞬間に、私が語っている間、何人かの死んだ心に送り給え! いのちを死んだ魂にもたらすものは、イエスの死である。私たちが贖罪を眺め、私たちの主が私たちの代わりに血を流しているのを見ている間、天来の御霊はその人に働きを及ぼし、いのちがその人に吹き入れられるのである。御霊は石の心を取り除き、新しいいのちで脈打っている肉の心を与えてくださる。これが十字架の不思議なみわざである。私たちの主の死によってこそ、新生は人々のもとに来るのである。もしその1つの死がなかったとしたら、何の新しい誕生もなかった。もしイエスが死ななかったとしたら、私たちは死んだままであった。もし主がその頭を垂れなかったとしたら、私たちの中の誰も自分の頭を上げることはできなかった。もし主がそこの十字架の上で生者の間から移し去られなかったとしたら、私たちは永遠に死者の間にとどまっていたに違いない。

 さて、次に移ると、あなたは、このいのちを受けた人々が、やがてその墓から立ち去るのを見てとるであろう。彼らはその墓から出て来た、と書かれている。もちろん彼らはそうした。いかなる生者がその墓場にとどまっていたいと願うだろうか? そして、あなたがた、話をお聞きの愛する方々。もし主があなたを生かしてくださるとしたら、あなたは自分の墓場の中にとどまっていないではないだろうか? たといあなたが酒を飲むこと、あるいは、何か他の、絶えずつきまとう罪に慣れきっていたとしても、あなたはそれをやめるであろう。あなたは、自分の墓所にいかなる愛着も覚えないであろう。たといあなたが不敬虔な仲間たちの間で暮らしてきたとしても、また、疑わしい場所で楽しみを見いだしてきたとしても、あなたは自分の墓場の中に止まってはいないであろう。私たちがあなたを追いかけて行って、あなたの古いつき合い連中からあなたを引き離そうとする必要はないであろう。あなたは、彼らの中から躍起になって出て行こうとするであろう。もしこの場にいる誰かが生きながら埋葬されたとしたら、また、もしその人が息を引き取る前にその棺桶の中にいるのを発見されたとしたら、確かに、その土塊が取り除かれ、その蓋が外されたとき、その人は祈り深い懇願など全く何も聞かされなくとも、自分の墓から出てくるであろう。それどころではない。いのちは、死の牢獄を愛するものではない。そのように、願わくはこの死に給う《救い主》があなたを、あなたが今なお生きている墓場から連れ出してくださるように。そして、もし主が今あなたを生かしてくださるとしたら、確かに私たちの主の死は、あなたにこう思わせるであろう。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのだ。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのだ[IIコリ5:14-15]、と。

 こうした人々は、自分の墓場から出て来た後で、どこへ向かっただろうか? 彼らは「聖都にはいった」*、と語られている。まさにその通りである。そして、十字架の力を感じた者は聖潔に向かう道を行くはずであろう。その人は、神の民に加わることを切望するであろう。神の家に行き、三重に聖なる神と交わりを持つことを願うであろう。私は、生かされた人々がそれ以外のどこに行くことも期待しない。あらゆる生き物は自らの同類の所に行く。獣はそのねぐらに行き、鳥はその巣へ向かう。そして、回復され、新生させられた人は聖都へと向かう。十字架は私たちを神の教会へ引き寄せないだろうか? 私たちは、イエスの五つの傷口と、血を流す脇腹以外の何物から得られた動機によっても、人が教会に加わってほしくないと思う。私たちはまず自分自身をキリストにささげ、それから、この主のゆえにこそ、自分を主の民にささげるのである。十字架こそ、そうさせるものである。

   「木の上(え)で死にし イエスこそ
    かくも不思議(たえ)なる みわざをなさん」。

 そして――この驚異の物語のしめくくりとして――こう告げられている。すなわち、彼らは聖都に入って、「多くの人に現われた」、と。これは、疑いもなく、死人の中から生き返った彼らの中の何人かが、自分たちの妻たちに現われたということである。愛する夫を再び見た彼女たちの歓喜やいかばかりであったことか! 彼らの中の何人かは、その父母に現われたであろう。そして、疑いもなく、生かされた母や父たちは、その子どもたちに最初に現われたに違いない。これは私たちに、このことを教えなくて何であろう。もし主の恵みが私たちを死人の中からよみがえらせたとしたら、私たちはそれを現わすように気をつけるべきなのである。多くの人々に自分を現わそうではないか。神が私たちに与えてくださったいのちを明らかに示そうではないか。それを隠すのではなく、私たちの以前の友人たちのもとに行き、キリストがそうなさったように、私たちも自分の顕現を行なおうではないか。主のご栄光のために、他の人々に自分を現わし、自分の姿を示そうではないか。この死に給う《救い主》に栄光があらんことを! この偉大な《犠牲》がほめたたえられんことを!

 おゝ、私のこのあわれな、弱々しい言葉が、あなたの中に、私の死に給う《主人》について何がしかの関心をかき立てるとしたらどんなに良いことか! 主のために死ぬ覚悟をするがいい。そして、あなたがた、主を知っていない人たち。――この大いなる奥義について考えるがいい。――神はあなたがたの性質を取り、人となって、死んでおられるのは、あなたが死ななくなるためであり、この神があなたの罪を背負っておられるのは、あなたがその罪から自由にされるためなのである。さあ来て、今晩、私の主を信頼するがいい。ぜひそうしてほしい。神の民が、聖餐台に集まり、パンを割いている間、あなたの霊を急いで向かわせるがいい。聖餐台と聖餐のもとにではなく、キリストご自身とそのいけにえのもとへと。アーメン。

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説教前に読まれた聖書箇所――マタイ27:35-54


『われらが賛美歌集』からの賛美―― 300番、280番

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----私たちの主の死の奇蹟[了]
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