妥協はしない
NO. 2047
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---- 1888年10月7日、主日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル「しもべは彼に言った。『もしかして、その女の人が、私についてこの国へ来ようとしない場合、お子を、あなたの出身地へ連れ戻さなければなりませんか。』アブラハムは彼に言った。『私の息子をあそこへ連れ帰らないように気をつけなさい。私を、私の父の家、私の生まれ故郷から連れ出し、私に誓って、「あなたの子孫にこの地を与える。」と約束して仰せられた天の神、主は、御使いをあなたの前に遣わされる。あなたは、あそこで私の息子のために妻を迎えなさい。もし、その女があなたについて来ようとしないなら、あなたはこの私との誓いから解かれる。ただし、私の息子をあそこへ連れ帰ってはならない。』」。――創24:5-8
創世記は、種々の発端の書であるとともに、神の種々の定めの書でもある。あなたも、パウロがいかにサラとハガル、エサウとヤコブ、その他の物語を用いているかは知っているであろう[ガラ4:24-25; ロマ9:10-13]。創世記は、徹頭徹尾、人間に対する神の定めを読者に教えている書物なのである。パウロはある箇所で、「このことには比喩があります」[ガラ4:24]、と云っている。これによって彼が意味しているのは、決してそれらが文字通りの事実ではなかったということではなく、文字通りの事実でありながら、それらを教訓的な比喩として用いることもできるということである。この章についても同じことが云えるであろう。これは、現実に語られたこと、行なわれたことを記録している。だが、それと同時に、その中には、天的な事がらに関する比喩的な教えも含まれているのである。真にキリストに仕える教役者は、このダマスコのエリエゼル[創15:2]のようである。彼は、《主人》の子のための妻を探しに遣わされているのである。彼の熱望は、キリストの現われの日に、多くの人々が《小羊》の妻である花嫁[黙21:9]としてキリストにささげられることである[IIコリ11:2]。
このアブラハムの忠実なしもべは、出発前に主人と話を交わしている。そして、このことは、自分の主の用向きを果たしに出かける私たちにとって1つの教訓である。私たちは、実際の奉仕に携わる前に、《主人》の御顔を拝し、主と言葉を交わし、自分の脳裡に去来するいかなる困難についても主に申し上げようではないか。いざ仕事に取りかかる前に、自分が何に従事しているか、また、自分がいかなる立場に立っているか知ろうではないか。私たちの主ご自身の御口から、主が私たちに何をすることを期待しておられるか、また、そうすることにおいて主がどこまで私たちを助けてくださるかをお聞きしようではないか。私はあなたに命ずる。私と同労のしもべである人たち。神のため人々に嘆願しに出かける前には、決して人々のため神に嘆願することを忘れてはならない。何らかの使信を伝えようとするときは、まずあなた自身が主の聖霊によって受けた使信を伝えるのでなくてはならない。密室で神と交わりを持ち、その後で人々の間に出て来て、みことばを語る講壇に立つがいい。そうすればあなたは、何者も抵抗できないような清新さと力を身にまとうであろう。アブラハムのしもべの言葉やふるまいを見ると、彼が、自分の主人の命ずる通りに正確に行ない、主人が告げる通りのことを口にする義務があると感じていたことが窺われる。こういうわけで、彼の唯一の心配は、自分の任務の最重要点と限度を知ることであった。自分の主人との会話の間で、彼は、支障となりかなねない1つの小さな点に言及した。そして彼の主人は、たちまち彼の思いからその困難を取り除いた。さて、この支障は近年、非常に大規模に起こりつつあり、私の《主人》のしもべたちの相当多数を動揺させている。そのことについてこそ、私は今朝、語ろうとするものである。願わくは神が、これをご自身の子どもたち全体の益となるようにしてくださるように!
I. 私たちの説教の冒頭にあたり、まず第一にあなたに願いたいのは、《このしもべの喜ばしい、だが重大な用向きについて考える》ことである。それは喜ばしい用向きであった。彼の回りには、結婚の鐘が鳴り響いていた。一家の跡取りの結婚は、喜ばしい出来事のはずである。主人の息子のための花嫁探しをゆだねられるということは、このしもべにとって光栄なことであった。だが、それは、あらゆる点から見て、この上もなく責任ある務めであり、決して容易に成し遂げられるものではなかった。思わぬへまをいくつしでかすか知れなかった。そこで、これほど繊細な問題のためには、彼のあらゆる才覚を総動員して気を配る必要があったし、彼の才覚以上のものが必要であった。彼は、道なき道を越え、人跡まれな土地をいくつも踏破しなくてはならなかった。自分の知らない一族を見つけ出さなくてはならなかった。その一族の中から、自分の知らない女人を見いださなくてはならなかった。それにもかかわらず、彼女は自分の主人の息子の妻としてふさわしい者でなくてはならなかった。こうしたすべては、途轍もない大仕事であった。
この男が引き受けた働きは、彼の主人が非常に心砕いていた務めであった。イサクは今や四十歳であったが、結婚する兆しを見せたことが全くなかった。彼は穏やかで、物柔らかな性質であったため、もう少し進取の気性に富んだ者の後押しを受ける必要があった。サラの死[創23:2]は彼の人生から慰めとなるものを奪ってしまっていた。彼が母のうちに見いだしていた慰めである。このため彼は、疑いもなく、愛情のこもった交わりを欲するようになっていたであろう。アブラハム自身、めっきり老け込んでいた。それで、ごく当然のことながら、あの約束が成就し始めるのを見たいと願った。イサクから出る者が彼の子孫と呼ばれるとの約束である[創21:12]。それゆえ彼は、非常な気遣いとともに――これは、彼がそのしもべに最も厳粛な種類の誓いを行なわせたことから察しがつくが――、1つの任務を与えた。アラム・ナハライム[創24:10]にある昔の一族の居住地に行き、イサクのための花嫁をそこで探せというのである。その一族は、何から何まで申し分がないわけではなかったが、彼の知る限り最上の一族であった。そして、ある程度までは天的な光の名残がそこにとどまっていたため、彼はその場所で息子のために最善の妻を見つけたいと希望したのである。しかしながら、彼が自分のしもべに託した務めは由々しいものであった。私の兄弟たち。それすら、真にキリストに仕える教役者の上にかかっている重圧とくらべれば何ほどのものでもない。《大いなる御父》は、キリストの永遠の愛の的たるべき教会をキリストに与えることに、その全心を傾注しておられる。イエスが独り身であってはならない。その教会が、イエスの愛する連れ合いとならなくてはならない。御父は、この大いなる《花婿》のために、ひとりの花嫁を見つけようとしておられる。この《贖い主》の報酬となり、この《救い主》の慰藉となる花嫁である。それゆえ御父は、世で福音を告げ知らせるためにお召しになるすべての者らに、このことを銘記させ、私たちがイエスのために魂を追い求め、彼らの心が神の御子と結ばれるまで決して休まないようにしておられる。おゝ、この任務を果たすための恵みがあらんことを!
この使信がいやまして重大なものであったのは、この伴侶がいかなるお方のために求められたかということである。イサクは、ざらにいるような人間ではなかった。実際、このしもべにとって彼は無比の人物であった。彼は約束によって生まれた。肉によってではなく、神の御力によって生まれた[ガラ4:23]。そして、あなたも知っているはずである。いかにキリストのうちにあるいのちが、また、キリストと1つにされたすべての者たちのうちにあるいのちが、約束と神の御力によってやって来るものであり、人の力から生じてはいないかを。イサクは彼自身、約束の成就であり、約束の相続者であった。無限に栄光に富むのは、《人の子》としての私たちの主イエスである! 彼の時代の者で、だれが思ったことだろう[イザ53:8]。どこで彼の配偶者が――彼の花嫁に定められるにふさわしい者が見つかるだろうか? イサクは、すでに聖別されていた。祭壇の上に横たえられたことがあった。そして、現実に死にはしなかったものの、彼の父親の手は彼を殺すための刀の鞘を払ったことがあった[創22:10]。アブラハムは、霊においてはわが子をすでにささげてしまっていた[ヘブ11:17]。そしてあなたは、私たちがどなたのことを、また、どなたのために宣べ伝えているか知っていよう。それは、罪人たちのためのいけにえとして、ご自分のいのちをお捨てになった[Iヨハ3:16]イエスである。主は、全焼のいけにえとして、すでに神にささげられている。おゝ! その御傷にかけて、また、その血のような汗にかけて、私はあなたに尋ねたい。どこで私たちは、主と結婚するにふさわしい心を探せば良いだろうか? これほど驚くばかりの、これほど天来の愛、また、十字架による刑死すら忍ばれたお方の愛に報いるだけの価値ある男女をいかにして見いだせば良いだろうか? また、イサクは、1つの型として、死者の中からよみがえらされたことがあった[ヘブ11:19]。彼の父親にとって彼は、使徒が云った通り、「死んだも同様」[ヘブ11:12]であったが、彼は死者の中から取り返されたのである。しかし、私たちのほむべき主は、現実の死から現実によみがえり、死の《勝利者》、また、墓の《破壊者》として、この日、私たちの前に立っておられる。誰がこの《勝利者》と結ばれるべきだろうか? 誰が、この栄光に富む《お方》とともに、栄光に包まれて住むにふさわしいだろうか? 人はこう思ったであろう。あらゆる心はそうした幸福を熱望し、そのような無類の栄誉を予想して躍り上がるだろう。また、そうした幸福、栄誉から尻込みする者がいるとしたら、それは、自分の非常な無価値さを感じとることによってでしかないであろう、と。悲しいかな! そうではない。そうあって当然であるのに、そうではない。
私たちは、何と重大な用向きを果たさなくてはならないことか。私たちが見つけなくてはならないのは、この約束の《相続者》、すなわち、犠牲としてささげられ、よみがえられた《お方》と永遠に聖なる契りで結ばれるべき人々なのである! アブラハムはイサクにこう告げていたであろう。「私のものは、全部おまえのものだ」[ルカ15:31]。私たちのほむべき主についても、それと同じである。この主を神は万物の《相続者》[ヘブ1:2]とされた。また、この主によって神は世界を造られた。そして、「みこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ」[コロ1:19]られた。あなたがたの中の、キリストとめあわされている人には、いかなる威厳が着せられることであろう! あなたは、イエスと1つになることによって、いかに卓越した高みへと引き上げられることであろう! おゝ、説教者よ。あなたはきょう、いかなる働きを有していることか。あなたは、あなたが腕輪を与え、その顔に宝石をかけるべき者たちを見つけ出さなくてはならないのである! 誰に対して私はこう云えば良いのだろうか? 「あなたは、あなたの心を私の主にささげますか! イエスをあなたの救い、あなたの信頼の的、あなたのすべてのすべてとしますか? あなたは喜んで主のものとなり、主をあなたのものとしますか?」
私は、このことを喜ばしいが、重大な用向きと云わなかっただろうか? 事実、主人の息子の花嫁と定められるべき者が、いかなる者でなくてはならないかを思うときそうである。少なくとも、彼女は喜んで結ばれようとする、美しい者でなくてはならない。神の御力の日に、心は喜んで仕えさせられる[詩110:3 <英欽定訳> 参照]。愛の心なくしてイエスとの結婚はありえない。この、喜んで結ばれようとする心をどこで私たちは見いだせば良いのだろうか? ただ神の恵みがそれを作り出された所においてのみである。あゝ、ならば、人々の子らの間で、いかにして美しさを見いだすことができるかも分かるであろう! 私たちの性質が罪によって損なわれている以上、ただ聖霊だけが聖潔の美しさを分け与えることがおできになる。その聖潔の美しさによって、主イエス・キリストはご自分の選ばれた者のうちに麗しさを見てとれるであろう。悲しいかな! 私たちの心には、キリストを忌避するもの、キリストを受け入れたがらないものがあると同時に、恐ろしいほどふさわしくないもの、卑しむべきものがある。だが神の御霊は、天的な起源を有する愛を植えつけ、上からの新生によって心を更新してくださる。そのとき私たちは、イエスと1つになることを求めるようになるが、それまでは決してそうならない。では、見てとるがいい。いかに私たちの用向きに神ご自身の助けが必要とされることか。
イサクと結婚する者が、いかなる者になるか考えてみるがいい。彼女は、彼の喜びとなる。彼の愛する友、愛する連れ合いとなる。彼の富すべてを分かち合う者となる。特にあの、アブラハムとその一族に限って受け継がれるべき大いなる契約の約束にあずかる者となる。ひとりの罪人がキリストのもとに来るとき、キリストはその人をどうお思いになるだろうか? 主はその人を喜びとする。その人と親しく話を交わす。その人の祈りを聞き、その人の賛美を受け入れる。その人の中で、その人とともに働き、その人によってご自分の栄光を現わされる。主は、その信ずる人をご自分の持てるすべてのものについてご自分との共同相続人[ロマ8:17]とし、契約の宝物蔵に案内してくださる。そこには、神の富と栄光が、その選民のために蓄えられているのである。あゝ、愛する方々! 一部の人々の評価によると、福音を宣べ伝えることは、ごく小さな務めである。だがしかし、もし神が私たちとともにおられるとしたら、私たちの奉仕は、御使いのそれをもしのぐものである。あなたは自分の受け持ちの学級で、ぱっとしないしかたでイエスのことを少年少女に告げている。また、ある人はあなたを、「《日曜学校》の教師ふぜい」として蔑むであろう。だが、あなたの働きに伴っている霊的な重みは、枢密顧問官らの秘密会議にも知られておらず、皇帝たちの計画にも見当たらないものなのである。あなたが語ること次第で、死が、地獄が、未知の世界が決まるのである。あなたは不滅の霊の運命を紡ぎ出し、魂を滅びから栄光へ、罪から聖潔へと向き直らせているのである。
「取るに足らざる、こは、わざならじ、
汝れが手塩の 責任(つとめ)要求(もと)むは。
むしろ天使(つかい)の 心(むね)よく満たし
救主(きみ)の御手をば 満たせしものなり」。自分の任務を実行するに当たり、このしもべは、いかなる尽力も惜しんではならない。彼は、大まかな方角を指示されただけで、道も知らぬまま、長大な距離を旅することを求められるであろう。彼には天来の導きと守りがなくてはならない。その場所に達したとき、彼は非常な常識を働かせると同時に、神のいつくしみ深さと知恵とに全幅の信頼を置かなくてはならない。選ばれたその女人に出会うようなことがあるとしたら、奇蹟中の奇蹟であったろう。主だけがそれを実現することがおできになった。彼にはありったけの配慮と信仰が要求されていた。先ほど私たちは、彼の行なった旅と、祈りと、嘆願とについて朗読した。私たちは、こう叫んでしかるべきであった。「このような務めにふさわしい者は、いったいだれでしょう」[IIコリ2:16]、と。だが、見ての通り主なるエホバは彼をふさわしい者としてくださり、彼の使命は幸いな結果に至った。私たちは、いかにすれば罪人たちに手の届く正しい所に身を置き、彼らをイエスのためにかちとることができるだろうか? いかにすれば正しい言葉を語れるようになるだろうか? いかにすれば私たちの教えを彼らの心の状態に沿ったものにできるだろうか? いかにすれば彼らの種々の感じ方や、偏見や、悲しみや、誘惑に、私たち自身を合わせることができるだろうか? 兄弟たち。私たち、福音を宣べ伝える者は絶えずこう叫んで良い。「もし、あなたご自身がいっしょにおいでにならないなら、私たちをここから上らせないでください」[出33:15]、と。海底で真珠を探すことも、この邪悪なロンドンの中で魂を追い求めることにくらべれば子どもの遊びである。もし神が私たちとともにおられなければ、私たちがいくら目を凝らし、いくら声を嗄らそうと無駄である。《全能の神》が導き、案内し、感化し、影響を与えてくださる時にのみ、私たちは自分の厳粛な責務を果たすことができる。天来の助けによってのみ、私たちは、主に選ばれた者を連れて、喜びをもって帰って来ることができる。私たちは《花婿》の友人であり、彼が喜ぶとき大いに喜ぶ。だが、彼が喜びとし、彼がご自分の御座へと引き上げてご自分とともに座らせることになる、選ばれた心たちを私たちが見いだすまで、私たちの吐息と叫びは続く。
II. 第二に私があなたに願いたいのは、《ここで言及されている、無理もない恐れについて考察する》ことである。アブラハムのしもべは云った。「もしかして、その女の人は、私についてこの国へ来ようとしないかもしれません」。これは非常に深刻で、容易ならぬ、だが、ありがちな困難であった。その女人がその気にならなければ、何事も行なうことはできない。力ずくで、また、適当に云いくるめて連れて来ることなど論外である。そこには真に自発的な心がなくてはならない。さもなければ、この場合、何の結婚もありえない。ここに困難があった。ここに、扱うべき1つの意志があった。あゝ、私の兄弟たち! これは今なお私たちの覚える困難である。この困難を、このしもべが想定したような、また、私たちも想定する通りのしかたで、詳細に述べさせてほしい。
彼女は私たちの伝える話を信じないかもしれない。あるいは、それに感銘を受けないかもしれない。私が彼女のもとに行き、私はアブラハムによって遣わされた者ですと告げても、彼女は私をにらみつけて、こう云うかもしれない。「最近は人をたぶらかす人が多いのよ」。たとい私が彼女に、わが主人のご子息はこの上もなく容姿端麗にして、富裕であり、あなたを喜んでめとろうとしておられますと告げても、彼女はこう答えるかもしれない。「近頃、奇妙な話や恋愛物語ならいくらでもあるけど、分別のある人間なら自分の家を捨てたりしないものだわ」。兄弟たち。私たちの場合も、これは悲しい事実である。かの偉大な福音的預言者[イザヤ]は古くから、「だれが私たちの知らせを信じましたか」[ロマ10:16]、と叫んでいた。私たちも同じ言葉で叫ぶものである。人々は、反逆する人の子らに対する神の大いなる愛という知らせになど関心を持たない。無限に栄光に富む主が、この貧しく卑しい人間の愛を求めており、それをかちとるためにご自分のいのちをお捨てになったなどということを信じはしない。カルバリは、その豊かなあわれみと、悲嘆と、愛と、功績をもってしても、等閑視されている。実際、私たちは摩訶不思議な話を告げているのであり、本当だとしたら話がうますぎると思われても無理はない。だが、これは実に悲しいことである。おびただしい数の人々は、愚にもつかないものを手に入れるためには出かけて行くくせに、こうした壮大な現実のことはただの夢物語とみなすのである。私は、落胆のあまり打ちひしがれる。私の主の大いなる愛、人々のため死にまで至った主の愛を、あなたは、信ずることはおろか、耳を傾ける価値すらほとんどないものと考えているのである。ここには天的な婚姻が、また、まさしく王家の結婚式が、あなたの手の届くところに置かれているのである。だが、あなたは冷笑して背を向け、罪の魔力の方を選ぶのである。
別の困難もある。彼女は、一度も見たことのない人物に対して愛を感じることを期待されている。彼女は、イサクなどという人物がいることを聞かされたばかりであった。だが彼女は、自分の近親の者たちを離れて、遠国へ出立していくほどに彼を愛さなくてはならないのである。このようなことがありえるとしたら、それは彼女が、この件におけるエホバの意志を認める場合しかなかった。あゝ、話をお聞きの愛する方々! 私があなたに告げるすべてのことは、まだ見ていない事がら[ヘブ11:7]である。そして、ここに私たちの困難がある。あなたには目があり、あなたは何もかも目で見たいと思う。あなたには手があり、何もかも手で触れたいと思う。だが、ここにはあなたにまだ見えないお方がおられるのである。この方は、この方に関して私たちが信じていることゆえに、私たちの愛をかちとられた。私たちはこの方について真にこう云うことができる。「私たちはこの方を見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています」*[Iペテ1:8]。私は、あなたが私たちの要求に対してこう答えることを承知している。「それはあんまりです。一度も見たことのないキリストを愛せだなんて」。私にはこう答えるしかない。「だが、そうなのである。私たちがあなたに求めているのは、私たちも期待しないほどのことを受け入れることなのである」。聖霊なる神があなたの心の上で恵みの奇蹟を行なってくださらない限り、あなたは、私たちの説得を受け入れ、あなたの古い縁者知人と断絶して、私たちのほむべき主と結ばれようとはしないであろう。だがしかし、もしあなたが主のもとに来て、主を愛するなら、主はあなたにこの上もない満足を与えるであろう。というのも、あなたは主のうちに、自分の魂に対する安息と、人のすべての考えにまさる平安[ピリ4:7]を見いだすからである。
アブラハムのしもべは、こう考えたかもしれない。彼女は、アラム・ナハライムを捨ててカナンに行くほど大きな変化を招くことを拒否するかもしれない。彼女は平穏な国で生まれ育っており、彼女の縁者知人はみな彼女の父の家の近くにいた。イサクと結婚するには、ただひとり見知らぬ人々の間に行かなくてはならない。それと同じように、あなたはイエスとこの世を一挙両得するわけにはいかない。罪との関係を絶たない限りイエスと結ばれることはできない。あなたは、放縦な世を後にし、当世流行の世を後にし、科学的な世を後にし、(いわゆる)宗教的な世を後にしなくてはならない。キリスト者になるなら、あなたは種々の以前からの習慣、以前からの動機、以前からの野心、以前からの快楽、以前からの自慢、以前からの考え方をきっぱり捨て去らなくてはならない。すべてが新しくならなくてはならない[IIコリ5:17]。あなたは、あなたが愛してきた物事から離れて、これまで蔑んできた物事の多くを追い求めなくてはならない。そこには、さながらあなたがいったん死んで、もう一度人生をやり直すのと同じくらい大きな変化がやって来なくてはならない。あなたは答えるであろう。「そこまで我慢しなくてはならないのですか? 一度も見たことがない《人》のために、また、一歩も足で踏んだことのない相続地のために」。そうなのである。私は、あなたが顔を背けることを悲しく思いはするが、いささかも驚きはしない。多くの人々は、目に見えない方を見たり[ヘブ11:27]、いのちに至る小さく狭い道[マタ7:13-14]を選んだりする気を起こすものではないからである。神の使者に従って、これほど奇妙な《花婿》と結婚しようとするのは、相当に奇特な人々である。
さらに、リベカが何か1つでも困難を有していたとしたら、次のことこそ大きな困難であったであろう。すなわち、それ以後の自分が寄留の生活を送らなくてはならないと考えることである。彼女は、天幕と放浪生活のために、家と農地を引き替えることになろう。アブラハムとイサクは、住むべき町へ行く道を見つけず[詩107:4]、各地を転々とし、ひとり離れて住み[民23:9]、神のもとに居留する者[レビ25:23]であった。彼らの外的な生活様式は、信仰の道の特色を示していた。この世の中で生きながら、この世のものではないというあり方である。あらゆる点から見て、アブラハムとイサクはこの世から離れ、この世とはいかなる永続的な絆も有さず、この世の表層でのみ暮らしていた。彼らは主に属する者らであり、主が彼らの所有地であった。主はご自分を彼らのためにお取り分けになり、彼らは主のために取り分けられた。リベカがこう云っても当然であった。「それが私の何の得になるでしょう。私は自分から流浪の身になることなどできません。一箇所に落ち着いていれば気楽で便利な暮らしができるのに、それを捨てて、家畜の都合にまかせて原野をほっつき歩くことなんてできません」。この世の中にありながら、この世のものとならないことは、人類のほとんどにとって良いこととは思われない。彼らはこの世では決して旅人にならず、その「社会」に完全に認め入れられることを切望する。彼らは、地上にいながら天国に宝を有する他国人には決してならない。彼らは地上でまとまった金を手に入れ、それを享受し、自分の家族を豊かにすることで自分の天国を見いだしたいと願う。地虫である彼らには、地が満足のもとなのである。もし誰かが脱俗し、霊的な物事を唯一の目的とするようになると、彼らはその人を幻想にふける熱狂主義者であると蔑む。多くの人々の考えるところ、キリスト教信仰に属する事がらは、単に読まれるだけ、説教で聞かされるだけであれば良いが、そうしたもののために生きることは、夢のような、非実際的な生活を送ることとなるのである。だが、結局のところ、霊的なことこそ、唯一現実的なものにほかならない。物質は、詰まるところ夢幻のような、実質のないものなのである。それでも、人々が聖なる戦いの辛苦のゆえに、また、信仰に生きる生活の霊的なあり方のゆえに顔を背けるとき、私たちはそれを異とはしない。それ以外のことはほとんど期待できないからである。主が心を更新してくださらない限り、人々は常に、来世という藪の中の鳥よりも、現世という手中の鳥を好むものである。
さらに、その女人は、約束の契約に関心を持とうとしないかもしれなかった。もし彼女がエホバとその啓示されたみこころに対する尊敬の念を全く有していなかったとしたら、この男とともに行き、イサクと結婚する見込みはなかった。イサクは、数々の約束の《相続者》であり、あの、主が誓いをもって約束された契約の、種々の特権を受け継ぐ者であった。彼に選ばれた女性は、神があらゆる代々にわたり世界を祝福する基として定められた、かの選びの子孫の母となることになっていた。その子孫こそメシヤであり、女の子孫であり、蛇の頭を踏み砕く者である[創3:15]。
ひょっとすると、その女人は、この契約の価値を見てとることも、この約束の栄光を評価することもないかもしれなかった。私たちが宣べ伝えなくてはならない物事、例えば、永遠のいのちや、キリストと結び合わされることや、死者の中からの復活や、主とともに永遠に支配することは、人々の鈍い心にとっては、たわごとと思われる[ルカ24:11]ものである。彼らに自分たちの金銭の高金利のことや、広大な地所を手に入るための投機のことや、たやすく手に入るだろう栄誉のことや、考案できる発明品のことを告げてみるがいい。彼らはその目と耳を開くであろう。そこには知るに値することがあるからである。だが、神に関すること、永遠の、不滅の、無窮の事がら――これらは彼らにとって全く重要ではない。いくら彼らを説得しようと、永遠のいのちだの、天国だの、神だのといった些事のために、ウルから出て行かせることはできないであろう。
ならば、私たちの困難が分かるであろう。多くの人々は全く信ずることをせず、他の人々はあらを探したり、反対を唱える。それよりも多くの人々は、私たちの話に耳を貸すことすらしない。そして、耳を傾ける人々の中でも、ほとんどの人は無頓着であり、他の人々はそれをもてあそび、真剣な考察を先送りにする。悲しいかな! 私たちは、その気もない耳に向かって語っているのである。
III. 第三のこととして私が行ないたいのは、《彼のごく自然な申し出について詳しく語る》ことである。この思慮深いしもべは云った。「もしかして、その女の人が、私についてこの国へ来ようとしない場合、お子を、あなたの出身地へ連れ戻さなければなりませんか」。もし彼女がイサクのもとへ来ようとしなければ、イサクが彼女のもとへ行くべきだろうか? これが現在の時の申し出である。もしこの世がイエスのもとに来ようとしなければ、イエスがその教えをこの世に合わせて引き下げるべきだろうか? 言葉を換えると、もしこの世が教会まで上ろうとしないとしたら、教会がこの世まで下って行くべきではないだろうか? 人々に向かって、回心せよ、罪人たちの間から出て行き、彼らから分離せよ、と命ずる代わりに、私たちが不敬虔な世に加わり、世と結合しようではないか。私たちの影響力で世に浸透するため、世が私たちに影響を及ぼすにまかそうではないか。キリスト教的な世界を手に入れようではないか。
そのためには、私たちの諸教理を修正しよう。その一部は古くさくて、厳格で、峻厳で、人気がない。そうしたものは省略してしまおう。正統信仰にこだわる者らを喜ばせるために昔ながらの云い回しは用いることにするが、それらには新しい意味を伴わせて、そこらをぶらついている哲学的な不信心者たちをかちとるがいい。不愉快な真理の角は削り取り、無謬の啓示といった独断的な響きは和らげるがいい。云うがいい。アブラハムやモーセは間違いを犯したのだ、と。長年の間尊崇されてきた幾多の書物にも、過誤が満ちているのだ、と。昔ながらの信仰の土台を掘り崩し、新しい疑念を持ち込むがいい。というのも、時勢は改まっており、時代の精神は、熾烈に正しすぎるもの、神から出たことが確かすぎるものはみな放棄することを申し出ているからである。
このように陰険なしかたで教理を粗悪なものとすることには、経験を偽りのものとすることが付き物である。いま告げられているところによると、人間は生まれながらに善良である。あるいは、幼児洗礼を受けることよって善良にされるという。そこで、「あなたがたは新しく生まれなければならない」[ヨハ3:7]、という大宣言は有名無実にされている。悔い改めは無視され、信仰は「誠実な疑念」とくらべられる形で市場で売り出され、罪のための悲嘆や神との交わりはお払い箱にされ、種々の娯楽や《社会主義》や種々雑多な政策に取って代わられている。キリスト・イエスにあって新しく造られた者[IIコリ5:17]は、頑迷な清教徒たちの不快なでっちあげとみなされている。確かに、そう云った舌の根も乾かぬうちに、彼らはオリヴァー・クロムウェルを絶賛する。だが、そうした後で、1888年は1648年とは違うのだという。三百年前には有益で偉大であったことも、今日では勿体ぶったお題目にすぎない。それこそ、「現代思想」が私たちに告げていることである。そして、こうした指導の下で、あらゆるキリスト教信仰は調子を引き下げられている。霊的なキリスト教信仰は蔑まれており、その後釜に当世流行の道徳が据えられている。日曜日にはきりりと盛装し、神妙にふるまうがいい。何にもまして、聖書に記されていること以外のあらゆることを信ずるがいい。そうすれば、万事大丈夫である。流行を追いかけ、科学的であると公言する人々の考え方にならうがいい。――これが現代派の大切な第一の戒めである。「風変わりなことをせず、あなたの隣人と同じように世俗的であれ」、という第二の戒めも、それと同じように大切である[マタ22:38-39]。このようにして、イサクはパダン・アラム[創25:20]へと下って行きつつあり、このようにして、教会はこの世へと下って行きつつある。
人々はこう云っているように思われる。――昔からのやり方を踏んで、大群衆のこちらからひとり、あちらからひとりを引き込んでいても何にもならない。もっと迅速な方法が必要である。人々が新しく生まれて、キリストに従う者となるのを待つなど、気の長い話である。新生した者と新生していない者の間の区別を撤廃しようではないか。回心した者も、未回心の者も、教会に入り込むがいい。あなたには幸福を願う気持ちがあり、行ないを改めようという決心がある。それなら問題はない。それ以上心配することはない。確かにあなたは福音を信じてはいないが、私たちも信じてはいないのだ。あなたは、とりあえず何かを信じてはいる。さあ来るがいい。たとい何も信じていないとしても構いはしない。あなたの「誠実な疑念」は、信仰よりも断然すぐれている。「しかし」、とあなたは云うであろう。「誰もそんなふうに云ってはいませんよ」。おそらく同じ言葉は使っていないであろう。だが、これが今日のキリスト教信仰の真に意味するところなのである。これが時代の大勢なのである。私が今、きわめて露骨なしかたで口にしたばかりの言明には十分な裏づけがある。それは一部の教役者たちの言動である。彼らは、私たちの聖なるキリスト教信仰をこの進歩的な時代に適合させるという隠れ蓑のもとで、それをよこしまなしかたで裏切っている。その新計画は、教会をこの世に同化させ、そうすることによって教会の枠内により大きな領域を包み込もうとすることにある。なかば芝居じみた芸当を行なうことで、彼らは祈りの家を劇場めいたものにしている。彼らは、自分たちの礼拝式を音楽会に変え、自分たちの説教を政治演説か、哲学的な随想にしてしまっている。――事実、彼らは神の宮を劇場と取り替え、神に仕える教役者を役者と取り替えている。その務めは、人々を面白がらせることにある。そうではないだろうか。主の日は、日増しに気晴らしをするか、ぶらぶらして過ごす日になりつつあり、主の家は、種々の偶像に満ちた支那の寺院か、政治倶楽部になりつつあるではないだろうか? そこでは、神に対する熱心よりも、何らかの政党に対する熱心の方が顕著に見られる。あゝ! 垣根は打ち破られ、城壁はぺしゃんこにされている。そして、多くの者らにとって、これからは、教会といえばこの世の一部でしかなく、神といえば、自然法則を働かせる不可知の力でしかないのである。
さて、これが提案である。この世をかちとるために、主イエス・キリストはご自分と、御民と、そのみことばとをこの世に従わせなくてはならない。私は、これほど厭わしい提案についてこれ以上詳しく語ることはすまい。
IV. 第四のこととして、《彼の主人がいかに明確に、また、いかに信仰によってこの提案を拒絶しているかに注目するがいい》。彼はきっぱり云い切っている。「私の息子をあそこへ連れ帰らないように気をつけなさい」。主イエス・キリストは、この世のただ中から出て来た、かの一大移民団を率いておられる。ご自分の弟子たちに語りかけて、主はこう云われる。「わたしがこの世のものでないように、あなたがたもこの世のものではありません」*[ヨハ17:16]。私たちは、生まれにおいてこの世のものではなく、生き方においてこの世のものではなく、目当てにおいてこの世のものではなく、精神においてこの世のものではなく、いかなる点においてもこの世のものではない。イエスは、また、イエスのうちにある者らは、新しい種族を成している。この世に立ち戻れという提案は、私たちの最上の本能にとって憎悪すべきものである。しかり。私たちのいのちの最も高貴な部分にとって致命的なものである。天から1つの声がこう叫ぶ。「私の息子をあそこへ連れ帰らないようにせよ」。主がエジプトが連れ出した民を、奴隷の家へと立ち戻らせてはならない。むしろ、奴隷の家の子どもたちを出て来させ、分離させるがいい。そうすれば、主なるエホバが彼らの御父となるであろう。
アブラハムがこの問題をどのように言明したかに注目するがいい。実質上、彼はこのことを次のように論じている。これは、天来の命令を捨て去ることとなるであろう。「というのも」、とアブラハムは云う。「天の主なる神は、私を、私の父の家、私の生まれ故郷から連れ出されたからだ」。ならば、神がアブラハムを連れ出された以上、なぜイサクが戻って行かなくてはならないのか? そのようなことはありえない。これまでのところ、ご自分の教会に対する神の道は、ある民をこの世から断絶させ、ご自分の選民――ご自分のために形作られ、ご自分をほめたたえるべき民――とすることであった。愛する方々。神のご計画に変更はない。神は今なお、あらかじめ定めた人々[ロマ8:30]を召し続けておられる。この事実に食ってかかり、私たちの方がもっと大規模に人々を救えるのだなどと考えたりしないようにしよう。そうするために罪の中で死んでいる者らとシオンで生きている者らとの区別を無視しないようにしよう。もし神が元々、パダン・アラムにいる一族を祝福するために、ご自分の選ばれた者たちを彼らの間に住まわせようと意図していたのだとしたら、そもそもなぜアブラハムを召し出されたのだろうか? もしイサクがそこに住むことによって善を施すことができるとしたら、なぜアブラハムが離れて行ったのだろうか? もし分離した教会がいま必要ないとしたら、これまでの全時代を通じて私たちは何をしてきたのだろうか? 殉教者たちの血は、単なる愚劣さのために流されてきたのだろうか? あの信仰告白者や宗教改革者たちは、気狂いのために、重要でも何でもない――と思われるであろう――諸教理を守ろうとして戦ったのだろうか? 兄弟たち。世の中には二種類の子孫があるのである。――女の子孫と、蛇の子孫である。――そして、その違いは最後まで保たれるであろう。私たちも、人々を喜ばせるためにその区別を無視してはならない。
イサクが妻のためにナホルの家まで下って行くことは、神よりも妻を優先することとなったであろう。アブラハムは真っ先に「天の神」、エホバに対する言及によって始めている。というのも、エホバこそ彼にとってすべてだったからである。イサクにとってもそうであった。イサクは決して生ける神との歩みをやめてまで妻を見つけようとはしなかった。だが、近年、この種の背教はざらに見られるものとなっている。敬虔であると告白する男女が、自分の信ずると告白しているものを捨てても、自分自身のためか、自分の子どもたちのために、より金持ちの妻あるいは夫を迎えようとしたがるのである。こうした欲得ずくのふるまいに、弁解の余地はない。「より上流の社会へ」。これが合言葉である。――つまり、より富と流行を得たいという意味である。真実な人にとっては、神が第一である。――しかり、すべてのすべてである。だが、卑俗な信仰告白者にかかると、神は残り屑のような所に置かれ、神ならざる一切のものが神に先立つ。神の御名によって、私はあなたがた、神とその真理に忠実な人たちに要求する。いかなるものを失おうとも、堅く立ち、いかなるものを得られる見込みがあろうとも、わきへそれてはならない。キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトのあらゆる宝にまさる大きな富と思うがいい[ヘブ11:26]。私たちの内側にはアブラハムの精神が必要である。そして、それは、私たちがアブラハムの信仰を持つときに得られるであろう。
アブラハムは、このことが契約の約束を放棄することになると感じた。「私を、私の父のから連れ出された神は、私に誓って仰せられた。『あなたの子孫にこの地を与える』、と」。ならば彼らは、その地を離れ、主に召されて出て来た元の場所へと帰って行くべきだろうか? 兄弟たち。私たちもまた、まだ見ていない事がら[ヘブ11:7]を受け継ぐ約束の相続人なのである。このことゆえに私たちは信仰によって歩むのであり、こういうわけで私たちは回りの人々とは分離した者となるのである。私たちは、アブラハムがカナン人の間で暮らしていたように人々の間で暮らしている。だが私たちは別個の民に属している。私たちは、新しい誕生によって生まれ、異なる法のもとに生き、異なる動機から行動する。もし私たちが世俗の者らの行き方に立ち戻り、彼らとともに数えられるとしたら、私たちの神の契約を放棄してしまっているのである。その約束はもはや私たちのものではなく、あの永遠の相続財産は別の者が手に入れるのである。あなたは知らないのだろうか? 教会は、「私はこの世のようになろう」、と云う瞬間に、自らをこの世とともに[Iコリ11:32]破滅に遭うものと定めてしまうのである。神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした[創6:2]。すると洪水が起こり、彼らを一掃してしまった。この世が教会を抱きかかえるならば、それと同じことが起こるであろう。そのときには、何らかの圧倒的な審きが到来する。それは、むさぼり食らう火焔の洪水かもしれない。私たちがこの世とともに下って行き、主ととともに寄留することをやめるならば、契約の約束と契約の相続財産は、もはや私たちのものではない。
それに、愛する方々。この世にならおうと試みることによっては、いかなる善も生じることがありえない。かりに、このしもべの方針が採用されることがありえたとし、イサクがナホルの家に下っていったとしよう。その動機は何だっただろうか? リベカが、その友人と別離する苦痛も、旅をする難儀も経験せずにすむようにするためである。だがもし彼女が、この程度のことで引き留められるようなことがありえるとしたら、彼女はイサクにとって、どれだけの有難味があっただろうか? 分離という試験は健全なものであり、決して省くべきではなかった。自分の夫のもとへ行くまでの旅すらしようとしない女は、情けない妻である。そして、教会がその教えを軟弱にすることによって、また、自ら世俗的になることによってもうける回心者は、一山いくらにしようと一銭の値打ちもない。私たちが彼らを得た後で、次に問うべきことは、「どうすれば、奴らを追い出せるのか?」、となるであろう。彼らは、私たちにとって地上的には全く役に立たないであろう。イスラエル人がエジプトから出て来たときには、おびただしい数のエジプトの下層階級の人々がともに出て来た。それにより、イスラエル人の人数は膨れ上がった。しかり。だが、その烏合の群衆は、荒野におけるイスラエルにとって疫病神となった。「混じってきていた者が、激しい欲望にかられ」た[民11:4]、と書かれている。イスラエル人だけでも十分よこしまであったが、この混じってきていた者らこそ、つぶやきに先鞭をつけた者らであった。なぜ今日は、これほど霊的に死んだ状態にあるのだろうか? なぜ偽りの教えが諸教会に蔓延しているのだろうか? それは、教会内に、また、教役者層に、不敬虔な人々がいるからである。大人数を擁したいという渇望、特に地位や名誉のある人々を擁したいという渇望こそ、多くの諸教会の純度を落とし、その教理と実践とを締まりないものとし、愚にもつかない娯楽を愛好させているものである。こうした人々こそ、祈祷会を蔑み、むしろ、日曜学校の教室で、「生きた蝋人形館」を見るために殺到するような人々にほかならない。願わくは神が私たちを、基準を低下させ、教会の霊的栄光を曇らせることで得られた回心者たちから救ってくださるように! しかり、しかり。もしイサクが自分にふさわしい妻を得ることになるとしたら、彼女はラバンや他の者らを離れてやって来るであろうし、らくだの背に乗っての旅など意に介さないであろう。真の回心者たちは、決して真理によっても、聖潔によってもひるまない。――事実、真理と聖潔こそ、彼らを魅惑するものなのである。
それに加えて、アブラハムには、イサクをそこへ下らせるべき何の理由があるとも感じられなかった。主は確実にイサクに妻を見いだしてくださるだろうからである。アブラハムは云った。「主は、御使いをあなたの前に遣わされる。あなたは、あそこで私の息子のために妻を迎えなさい」。あなたは、福音を宣べ伝えても魂がかちとられないのを恐れているだろうか? あなたは、神の道によっては成功がおぼつかないと意気消沈しているだろうか? だからあなたは才気あふれる雄弁術に恋い焦がれているのだろうか? だからあなたは、種々の音楽や、建造物や、花々や、婦人帽の類を有さなくてはならないのだろうか? 結局において事は、神の御霊にはよらず、権力によって、能力によってなるのだろうか?[ゼカ4:6参照] 多くの人々の意見によれば、その通りである。私には、他の礼拝者たちが行なうことは許しても、私自身がこの会衆の礼拝を導く際には決して行なわないであろう数多くのことがある。私は長年の間、あなたがたの眼前で1つの実験を行なってきた。イエスの福音が、何の助けを借りなくとも魅力的なものであることを示すという実験である。私たちの礼拝式は峻厳なほど簡素である。いかなる人も、自分の目を美術で喜ばせ、自分の耳を音楽で喜ばせるためにここにやって来ることはない。私はあなたがたの前に、この幾多の年月の間、十字架につけられたキリストと、福音の単純さのほか何も示してこなかった。だが、今朝ここに集っているほどの群衆を、どこであなたは見いだすというのだろうか? 三十五年間もの間、安息日ごとに集ってきた、この集会のような大群衆を、あなたはどこで見いだすというのだろうか? 私たちはあなたに、十字架のほか何も示してはこなかった。花々も雄弁も伴わない十字架、迷信や興奮といった青白い光を伴わない十字架、金剛石や高位聖職者たちを伴わない十字架、自慢たらたらの科学といった控え壁に支えられていない十字架である。それだけでもこの十字架は、有り余るほどの魅力をもって、人々をまず自らに引きつけ、その後で永遠のいのちに引きつけている! この建物の中で、私たちはこの長年月の間、この偉大な真理を十分に証明してきた。簡素に宣べ伝えられた福音は聴衆を獲得し、罪人を回心させ、教会を建て上げて持続させるのである。私たちは、神の民に切に願う。疑わしい便法や、怪しげな方法を試す必要など全くないことに注目するがいい。この由緒ある宝刀は、人間の背骨を切り裂き、岩をも真っ二つにする。なぜそれが、古のような征服の働きをごく僅かしか行なっていないのだろうか? 教えよう。あなたには、この芸術的な造りの鞘が見えるだろうか? 素晴らしく精緻に仕上げられた鞘である。恐ろしいほど多くの人々が、その剣をこの鞘に入れている。それゆえ、その刃は一度もまともな切れ味を見せることがないのである。その鞘から抜き放つがいい。そのご立派な鞘はハデスに放り投げ、それから、主の御手にあって、この栄光に富む剛刀が人々という畑をいかに薙ぎ払うか見るがいい。それはあたかも、草刈り人がその大鎌で草を薙ぎ倒すようなものである。助けを求めてエジプトに下る必要はない。悪魔にキリストの手助けを求めるのは恥である。神のお許しさえあれば、私たちはこれから教会の繁栄を目にするであろう。神の教会が、神ご自身のしかた以外の何物によっても決してそれを求めない決意を固めるときそうなるであろう。
V. そして今、第五のこととして注目してほしいのは、《彼がいかに正当に自分のしもべの責任を免除しているか》である。「もし、その女があなたについて来ようとしないなら、あなたはこの私との誓いから解かれる。ただし、私の息子をあそこへ連れ帰ってはならない」。
私たちが臨終の床に横たわるとき、もし私たちが福音を忠実に宣べ伝えてきたとしたら、私たちの良心は、自分がずっとそうし続けて来たからといって、私たちを非難しはしないであろう。私たちは、自分たちの会衆を増加させるために、道化や政治家のような役を演じなかったからといって嘆くことはないであろう。おゝ、しかり! 私たちの《主人》は、私たちの責任を完全に免除してくださるであろう。私たちが主に対して真実でありさえするなら、たとい集め入れられる者がほとんどいなくとも関係ない。「もし、その女があなたについて来ようとしないなら、あなたはこの私との誓いから解かれる。ただし、私の息子をあそこへ連れ帰ってはならない」。キリスト教信仰を卑しくするような小細工を弄してはならない。単純な福音を守り続けるがいい。そして、たといそれによって人々が回心させられないとしても、あなたに責任はないであろう。話をお聞きの愛する方々。いかに私はあなたが救われることを大いに切望していることか! しかし私は、あなたの魂をかちとるためであろうと、自分の主に背こうとは思わない。たといそれであなたが救われるようなことがありえるとしても、そうはしない。神の真のしもべには、勤勉かつ忠実に仕える責任がある。だが、成功するかしないかの責任は負っていない。結果は神の御手の中にある。あなたの日曜学校の学級にいる、愛するその子が回心しないとしても、もしあなたが、愛のこもった祈り深い真剣さをもって、イエス・キリストの福音をその子の前に示してきたとしたら、あなたが報いにもれることはないであろう。もし私が精魂を傾けて、自分の話を聞く方々に向かって、主イエス・キリストを信ずる信仰による救いという壮大な真理を宣べ伝えているとしたら、また、もし私がイエスを信じて永遠のいのちに至れと説得し、懇願しているとしたら、たとい彼らがそうしようとしなくとも、彼らの血の責任は彼ら自身の頭上に帰される[エゼ33:4]。私が私の《主人》のもとに帰るとき、もし私がその代価(かた)なき恵みと死に給う愛という使信を忠実に語ってきたとしたら、私に責任はない。私はしばしば祈ってきた。私もいまわの時には、ジョージ・フォックスがあれほど真実に云えたこの言葉を云えるようになりたい、と。「私に責任はない。責任はない!」 私のこの上もなく高い大望は、いかなる人々の血についても責任を問われないことである。私は、自分の知る限りにおいて神の真理を宣べ伝えてきたし、その種々の特色について恥じることはなかった。私は、自分の証しを無意味にしないために、信仰を踏み外す者らとはすっぱり縁を切ってきた。また、そうした者らと交わりをともにしている人々とさえ絶縁してきた。私は、これ以上何をすればあなたに対して誠実でありえるだろうか? 結局において、もしも人々がキリストを受け入れず、その福音も、その支配も受け入れないとしたら、それは彼ら自身の問題である。もしもリベカがイサクのもとに来なかったとしたら、彼女は、あの聖なる家系における彼女の地位を失ってしまっていたであろう。話をお聞きの愛する方々。あなたはイエス・キリストを受け入れるだろうか、受け入れないだろうか? 主は罪人を救うためにこの世に来られたし[Iテモ1:15]、誰をも決してお捨てにならない[ヨハ6:37]。あなたは主を受け入れるだろうか? 主に信頼するだろうか? 「信じてバプテスマを受ける者は、救われます」[マコ16:16]。あなたは主を信じるだろうか? 主の御名につくバプテスマを受けるだろうか? もしそうだとしたら、救いはあなたのものである。だが、そうでないとしたら、主ご自身がこう云っておられる。「信じない者は罪に定められます」[マコ16:16]。おゝ、この断罪に自分をさらしてはならない! あるいは、たといあなたがそうする決意をしているとしても、かの大きな白い御座[黙20:11]が彼方の天空に見え、御怒りの日がやって来たときには、私を正当に扱って、次のように認めてほしい。私はあなたに対して、イエスのもとに逃れるように命じたし、あなたを新奇な種々の理論で面白がらせることはしなかった、と。私は、あなたの耳を喜ばせるために、決して横笛や、立琴や、三角琴や、六弦琴や、打弦琴や、その他のいかなる種類の音楽をも導入したことがなかった。むしろ私は、あなたの前に十字架につけられたキリストを示し、信じて生きよとあなたに命じてきた。もしあなたがキリストの代償を受け入れることを拒否するとしたら、あなた自身の種々のあわれみを拒否したのである。その日には、私が決して、迷妄に惑わされた人々の種々の新奇なでっちあげと連坐しないようにしてほしい。私の主について云えば、私は主に恵みを乞い求めるものである。主の真理と、あなたがたの魂との双方に対して、最後まで忠実であり続けることのできる恵みを。アーメン。
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説教前に読まれた聖書箇所――創世記24章
『われらが賛美歌集』からの賛美―― 166番、928番、884番 ----
----妥協はしない[了]
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