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聖書の無謬性

NO. 2013

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1888年3月11日、主日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「と、主の御口が語られた」。――イザ1:20


 ということは、イザヤの云ったことは、エホバによって語られていたのである。それは耳で聞く分には一個の人の発言であったが、実は主ご自身の発言であった。この言葉を伝えた唇はイザヤの唇であったが、それを「主の御口が語られた」ことはまぎれもない真実であった。聖書はすべて、御霊によって霊感されたものであり[IIテモ3:16]、神の御口によって語られている。この聖なる《書》は、たとい近年いかなる扱いを受けていようと、決して私たちの《主人》にして主なる、主イエス・キリストによって蔑まれるべきもの、おろそかにしてよいもの、疑わしいものとして扱われはしなかった。主がいかにこの書かれたみことばを崇敬されたかは注目に値する。神の御霊は、個人としての主の上に無限にとどまっており[ヨハ3:34]、主はご自分の思いを神の啓示として自由に語ることがおできになった。だがしかし、主は絶えず律法と預言者と詩篇を引用された。また常に、強い崇敬の念をもってこの聖なる書物を扱われた。「現代思想」の不敬な言行とは強烈に対照的である。兄弟たち。確かに私たちが、その聖書に対する崇敬において、私たちの天来の主の模範にならうことは間違っているはずがない。聖書は廃棄されるものではない[ヨハ10:35]。私は云うが、もし主が、――もしこの、御霊の油を注がれ、神の御口として自ら語ることもおできになったお方が、――それでもご自分の教えの中でこの聖なる書物を引用し、この聖なる《書》を用いておられたとたら、いかにいやまして私たちは、――預言の霊を決して自らの上にとどめてもおらず、新しい啓示を語ることもできない、この者どもは、――おしえとあかしに[イザ8:20]立ち返るべきだろうか? いかにいやまして、「主の御口が語られた」一言一句を尊ぶべきだろうか? 主のみことばに対するこれと同様の評価は、私たちの主の使徒たちのうちにも見られる。というのも彼らは、この古の聖書を至高の権威として扱い、自分たちの言明を《聖なる書》の数々の箇所によって裏書きしたからである。旧約聖書に対しては、新約聖書の記者たちによって、これ以上ないほどの敬意と尊崇が払われている。どの使徒を見ても、あれやこれやの書の霊感の程度について疑問を唱えたりしてはいない。イエスの弟子たちのうち誰ひとりとして、モーセ五書や預言書の権威を疑っている者はいない。たといあなたが揚げ足を取ったり、疑問視したりしようとしても、イエスの教えの中にも、その使徒たちのいずれのうちにも同調するものを見いだせない。新約聖書の記者たちは、旧約聖書の前にうやうやしく座し、いかなる疑問も持たずに神のことばをそのまま受け入れている。あなたや私は、今もそれと同じように行ない続けている派に属している。他の人々が、いかに好き勝手な態度でふるまおうと関係ない。私たちと私たちの家は[ヨシ24:15]、この千金に値する《書》を、私たちが生きてある限り、自分の信仰の基準とし続け、自分の希望の根拠とし続ける。他の人々は、自分たちの気に入った神々を選び、自分好みの権威に従っても良い。だが、私たちにとっては、栄光に富むエホバこそが私たちの神であられ、私たちは、聖書全体の教え1つ1つについて、それを「主の御口が語られた」と信ずるのである。

 I. さて、本日の聖句、「と、主の御口が語られた」、をさらに詳細に吟味するに当たり、私たちの第一の項目はこうなるであろう。――《これは、私たちが聖書の真理を教えるための根拠である》。私たちが聖書の教えを宣べ伝えるのは、それを「主の御口が語られた」からである。もしイザヤが語ったことの中に、イザヤの思想以上のものがまるでなかったとしたら、それを私たちが語る価値などないであろう。また、もしパウロの書き物の中にパウロを越えたものが何もなかったとしたら、私たちはそれらについて何時間も何時間も沈思黙考したいとは思うまい。人間によって語られたことであれば、それを何としても解き明かし、強く主張すべきだなどという使命感を私たちは一切感じない。だが、「主の御口が語られた」以上、もし福音を宣べ伝えなかったら、私たちはわざわいに遭う![Iコリ9:16] 私たちは、「主はこう仰せられる」、との言葉をもってあなたのところへ赴く。この使信を有していないとしたら、私たちには、人生のすべてをかけてまでみことばを宣べ伝えるべき正当な動機が全くないはずである。

 真の説教者は、――神が任命された人は、――畏怖とおののきをもって自分の使信を伝える。なぜなら、それは「主の御口が語られた」からである。彼は主の宣告をにない、その下で身をへりくだらせる。私たちの語る主題は、決してどうでも良いようなものではなく、私たちの全霊を揺さぶるものである。人がジョージ・フォックス[1624-91]のことを《震える人》[クエーカー]と呼んだのは、説教する際の彼が途方もなく震えるのが常であったからである。彼が完全に理解しきった真理の力はそれほどのものだったのである。ことによると、あなたや私も、いま以上に神のことばを明確に見てとり、より固く握りしめるとしたら、また、その威光をより強く感じるとしたら、私たちも震えることになってしかるべきかもしれない。マルチン・ルターは決して人の顔を恐れなかったが、説教するため立ち上がる時には、しばしば膝ががくがく震えるのを感じると言明していた。それほど大きな責任を感じていたのである。おゝ、もし私たちが主のみことばを語る際に全心を尽くさず、全霊を尽くさず、全力を尽くさなかったとしたら、私たちはわざわいである! おゝ、もし私たちがみことばを扱う際に、それを自己顕示の機会ででもあるかのようにふるまうとしたら、私たちはわざわいである! もしそれが私たち自身の言葉だったとしたら、私たちも大いに雄弁に磨きをかけて良いかもしれない。だが、これが神のことばである以上、私たち自身について考える余裕などない。それを語る際には、「キリストの十字架がむなしくならないために、ことばの知恵によってはならない」[Iコリ1:17]。もし私たちがみことばを崇敬しているとしたら、それを私たち自身の巧みな口舌で改善できるなどという考えは思い浮かばないであろう。おゝ、神の聖霊の支えがないとしたら、説教者になるよりも、路上でどん底の生活をする方がはるかにましである。それほどに私たちの責務は厳粛であり、私たちの責任は重い。神のために語る者の心と魂は、いかなる安逸も知ることがないであろう。その耳に、あの警告の訓戒が聞こえるからである。「見張り人が彼らに警告しなければ彼らは滅び、わたしはその血の責任を見張り人に問う」*[エゼ33:6]。もし私たちが国王の言葉を復唱するように任命されたとしたら、私たちは、国王が損害をこうむらないように、見苦しくないしかたでそれを行なわなくてはならない。だが、もし私たちが神の啓示を復唱するとしたら、深甚な畏怖が私たちを捕えるべきである。神の使信を告げる際に、それを損なうのではないかという敬虔な恐れが捕えるべきである。この世のいかなる働きにもまして重要なもの、あるいは、栄誉あるものは、私たちの主イエスの福音を告知することである。そして、まさにその理由によってこそ、そこには厳粛きわまりない責任が負わされているのである。軽々しくこの務めに乗り出すことは許されない。また、大きな恵みがない限り自分の職務は正しく果たせないとの圧倒的な感覚なしに事を進めることは許されない。「主の御口が語られた」、と確実に云える福音を宣べ伝えている私たちは、非常な重圧の下で生きている。私たちは、時間の中というよりは、むしろ永遠の中で生きている。私たちは、あたかも、かの大きな白い御座[黙20:11]と、天来の《審き主》を目にしたかのように、あなたに向かって語っている。このお方の前で私たちは、自分が何と云ったかばかりでなく、いかにそれを云ったかについても、申し開きをしなくてはならないのである。

 愛する兄弟たち。私たちは神の真理を、主の御口が語られたがゆえに、絶対的な忠実さをもって宣べ伝えようと努めるものである。私たちは、子どもが学課を復習して繰り返すようにみことばを繰り返す。私たちは天来の啓示を訂正するのではなく、むしろ、単にそのまま繰り返すべきである。私は、自分の職務が私自身の新奇で独創的な思想をあなたにもたらすことだとは思わない。むしろ、こう云うことだと思う。「あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わした父のことばなのです」[ヨハ14:24]。これを「主の御口が語られた」と信じる私の義務は、それを聞き、自分の魂の内側でそれを感じた後で、できる限り正確にそれをあなたに向かって繰り返すことである。私は福音を修正したり、改作したりすべきではない。何と! 神が啓示されたことを改善しようなどとして良いだろうか? 《無限の知恵あるお方》――この方を、一日で消え失せる被造物たちが訂正すべきだろうか? 無謬のエホバの無謬の啓示を、現代の流行や嗜好に合わせて切り詰めたり、和らげたり、それに手心を加えたりすべきだろうか? もし私たちが意図せずしてみことばを改変したようなことがあったとしたら、神よ、私たちを赦し給え。だが私たちは、意図してそのようなことをしたことはないし、したいとも思わない。神の子どもたちは御足もとに座って、みことばを受ける。それから、その御霊の力によって立ち上がっては、主がお与えになったみことばを近くでも遠くでも公に広める。「わたしのことばを聞く者は、わたしのことばを忠実に語らなければならない」[エレ23:28]。これこそ私たちに対する主の命令である。もし私たちが、主イエスのしかたに習って、自分の量りに応じて御父とともにとどまり、それから御父との交わりから出て来て、御父がみことばにおいて教えてくださったことを告げることができたとしたら、私たちは説教者として主から受け入れられるはずである。また、主の生きた民からも受け入れられるはずである。それは、私たちが科学の深遠な深みに飛び込んだり、修辞学の最も高遠な高みへと舞い上がったりした場合よりも、はるかにまさってそうであろう。もみがらなど、麦にくらべれば何であろう! 人間の種々の発見など、主の教えにくらべれば何であろう! 「主の御口が語られた」。それゆえ、おゝ、神の人よ。神のことばにつけ加えてはならない。神がその《書》に書いてある災害をあなたに加えられるといけないからである[黙22:18]。また、そのことばを少しでも取り除いてはならない。神があなたの名をいのちの書から取り除かれるといけないからである![黙22:19]

 また、愛する方々。「主の御口が語られた」からには、私たちは勇気と完全な確信とをもって天来の真理を語るものである。慎み深さは美徳だが、主のために語る際にためらうのは、大間違いである。もしも、ひとりの偉大な王がある大使を外国の宮廷に派遣し、自分の威光を代表させようとした場合、その大使が自分の職務を忘れ、自分自身のことしか考えないとしたら、彼は謙遜になりすぎて自分の君主の威厳を低めることになりかねない。臆病になりすぎて自国の栄誉を裏切ることになりなねない。彼は、自分個人がいかなる者であるかを思い出すよりも、自分が誰の代理であるかを思い出すべきである。それゆえ彼は、自分の職務に、また、自分が代表している宮廷に似つかわしい威厳をもって大胆に語らなくてはならない。一部の東洋の専制君主たちには、諸外国の大使たちを自分の前で地べたに這いつくばらせる習慣があった。一部の欧州人は、貿易上の利益のために、この、品位を落とすような儀礼に服した。だが、英国の代表者にそれが要求されたとき、彼はそのように自国をおとしめることをてんで受け入れようとはしなかった。神のために語る者も、へなへなと人に屈従することによって《王の王》の誉れを失わせることが決してあってはならない。私たちは、あなたの許しを乞うて福音を宣べ伝えているのではない。私たちは、人の寛恕を求めようとも、人気を得ようともしない。私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝え[Iコリ1:23]、語るべきことを大胆に語る[エペ6:20]。なぜなら、これは神のことばであって、私たち自身の言葉ではないからである。私たちは独善だと非難される。だが、主の御口が語られたことを繰り返すときには、独断的に述べざるをえない。私たちは、「たぶん」などと云うことはできない。私たちが扱っているのは、何かが「なる」と、また、何かを「する」と神が仰せになっていることだからである。もし神がそう仰せになるとしたら、それはそうなるのであって、もはや四の五の云うことはない。エホバがお語りになるとき、論争はやむ。

 私たちの《主人》の権威を振り捨てる者たちが私たちの証しを拒絶するのは、ごく当然である。彼らがそうしても私たちは満足する。しかし、もし私たちが主の御口によって語られたことを語っているとしたら、みことばを聞いてそれを拒否する者は自らその責任を取らなくてはならない。その罪は、大使に対してではなく、《王》に対してなされるのである。私たちの口に対してではなく、その真理が発された大元である神の御口に対してなされるのである。

 私たちは、けちくさいことを云わず寛容になれと云われる。私たちは寛容である。だが、それは自分の金銭を扱う場合に限る。私たちには、自分に信託されていて、自分の自由にならないものをただでくれてやる何の権利もない。神の真理に関わらなくてはならないとき、私たちは家令なのであって、自分の主の財産は、人々の種々の意見に寛容になる線に沿ってではなく、神の真理に対する厳格な忠実さに従って扱わなくてはならない。私たちは、主が啓示されることを大胆に、完全な確信をもって宣言する。エレミヤに対する主のこの記憶すべきことばは、現代の主のしもべたちに必要とされている。「さあ、あなたは腰に帯を締め、立ち上がって、わたしがあなたに命じることをみな語れ。彼らの顔におびえるな。さもないと、わたしはあなたを彼らの面前で打ち砕く。見よ。わたしはきょう、あなたを、全国に、ユダの王たち、首長たち、祭司たち、この国の人々に対して、城壁のある町、鉄の柱、青銅の城壁とした。だから、彼らがあなたと戦っても、あなたには勝てない。わたしがあなたとともにいて、――主の御告げ。――あなたを救い出すからだ」[エレ1:17-19]。私たちは、主に代わって過誤を非難するとき、自分の口調を和らげはしない。むしろ、雷鳴のような威嚇を口にする。私たちは、偽りの科学に出くわすとき、旗を降ろして降参したりしない。尻尾を巻いて逃げ出す?――否。一瞬たりともそうはしない。神のことばの一言には、幾棟もの人間知識の書庫にまさる価値がある。「と書いてある」。これは、あらゆる人間思想の砲列を沈黙させる巨砲である。イスラエルの神エホバの御名によって語る者らは勇敢に語るべきである。

 この項目の下で、もう一言語っておこう。すなわち、私たちは、「主の御口が語られた」がゆえに、神のことばを勤勉に、自分にできる限り頻繁に、また、自分のいのちが続く限り忍耐強く語らなくてはならないと感じる。確かに、講壇上で死ぬのは幸いなことに違いない。最期の一息を、主の御口として行動するために費やすのである。安息日に押し黙っていなくてはならないのは、真の説教者にとって苛酷な試練である。ジョン・ニュートンのことを思い出すがいい。彼は、寄る年波による衰えのため、まるで説教できるような状態でなくなり、幾分とりとめすらなくなった時にも、かたくなに説教し続けた。人々が思いとどまらせようとすると、彼は熱を込めて云い返した。「何と! この老いぼれたアフリカの冒涜者が、息の根も止まらぬうちからイエス・キリストを宣べ伝えるのをやめて良かろうか?」 それで彼らは、この老人をかかえて再び講壇に立たせ、彼がいま一度代価(かた)なき恵みと死に給う愛について語れるようにしたという。もし私たちの有しているのがありきたりの主題だとしたら、疲れ切った弁護人が法廷から去るように私たちも講壇を去って良かろう。だが、これを「主の御口が語られた」以上、私たちには主のみことばが骨の中にある火[エレ20:9]のように感じられ、それを証しするよりも、語るのをやめることによってずっと疲れ切ってしまう。おゝ、私の兄弟たち。主のみことばは、あまりにも尊いものであるため、私たちは朝、このほむべき種を蒔かなくてはならなず、晩にも私たちの手を控えることができない。これは生きた種であり、いのちの種である。それゆえ、それは勤勉に撒き散らさなくてはならない。兄弟たち。もし私たちが福音の真理について正しく理解しているとしたら、――それを「主の御口が語られた」ものと理解しているとしたら、――私たちはそれを非常な熱烈さと情熱とをもって告げ知らせるように仕向けられるであろう。私たちは、眠りこけた一握りの人々に向かって、福音をものうげに唸りはしない。あなたがたの中の多くの人々は説教者ではない。だが、あなたは青年たちの教師であるか、他の何らかのしかたで、主のみことばを公にしようとしている。――ぜひともそれを、大いに御霊に燃えてそうするがいい。熱狂主義は、主のあらゆるしもべのうちに、はっきり目立ったものたるべきである。あなたの話を聞く人々には、あなたが一心に打ち込んでいることを、はっきり分からせるがいい。あなたが単に口先だけ、うわべだけで語っているのではなく、魂の深奥から語っていること、また、あなたが《王》に関する事がらを語っているときには、あなたの心そのものが良い内容であふれかえっていることを分からせるがいい。永遠の福音は宣べ伝えるに値する。たとい人が燃える薪束の上に立ち、炎の講壇から群衆に語りかけているとしてもそうである。聖書で啓示された諸真理は、いのちを賭け、死を賭すに値する。私は、この昔ながらの信仰のために責めを負っていることで、自分をこの上もない果報者だと思っている。それは、私としては勿体なさすぎるほどの栄誉である。だがしかし、まぎれもない真実として私は、私たちのこの賛美歌の言葉を用いることができる。――

   「などて不浄(けが)るる 群衆(よ)をなだめんと
    真理(まこと)柔らげ 舌なめすべき。
    など世の金箔(ひか)る 玩具(なぐさみ)を得て、
    主よ、汝が忍べる 十字架を避くや?」

   「キリストの愛 われをば囲み
    彷徨(まよ)うたましい 追い求めさす。
    叫びと懇願(ねが)いと 涙で救い、
    掠(かす)め取りたし、燃える波浪(なみ)より」。

   「生涯(いのち)とわが血 ここにささげん、
    汝れが真理(まこと)の ために用いよ。
    成就(なしと)げ給え、汝が主権(たか)き計画(みち)!
    御旨をなさせ、御名を崇(たか)めよ!」

私はこの主題に関して私の思うところを語り尽くすことはできない。これは、それほどまでに私にとって尊い主題なのである。だが、私はあなたがた全員をかき立てて、時が良くても悪くても[IIテモ4:2]、福音の使信をしっかり告げさせたいと思う。次のような言葉を特に繰り返すがいい。――「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」[ヨハ3:16]。また、「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」[ヨハ6:37]。こうしたことを大胆にはっきり告げるがいい。あらゆる場所ではっきり告げるがいい。あらゆる人にはっきり告げるがいい。「主の御口が語られた」からである。いかにしてあなたは、天的な知らせを押し隠しておくことなどできるだろうか? 「主の御口が語られた」のである。――あなたの口は、それを繰り返すのを喜ぶべきではないだろうか? 病者の耳にそれを囁くがいい。街角でそれを叫ぶがいい。あなたの書字板にそれを書きつけるがいい。新聞雑誌からそれを送り出すがいい。だが、いずこにおいても、このことをあなたの大きな動機とし、根拠とするがいい。――あなたが福音を宣べ伝える理由、それは、これを「主の御口が語られた」からなのである。主が、ご自分の愛する御子によってみことばを与えておられるとき、声を有するいかなる者も沈黙していてはならない。

   「運べや、運べ。風よ、御物語(みこと)を。
    また海洋(わたつみ)よ、汝れもうねれや。
    それが栄光(さかえ)の 海のごと
    極点(はて)から極点へ 広まるまでに」。

 II. さて、ここでひととき私たちは、別の方向に舳先を向けようと思う。第二のこととして、「主の御口が語られた」。これは、《神のことばには、あなたの注意を当然のこととして要求できる権利がある》ということである。

 神がこの《書》の中で私たちに与えておられる一言一句は、当然のように私たちがそれに注意を払うことを要求している。なぜなら、それを語ったお方には無限の威光があるからである。私は今、国王たち、君主たち、賢者たち、枢密顧問官たちが居並んだ、1つの《議会》を目の当たりにしている。私は、能弁なクリュソストモスたちが次々と、かの「黄金の口」のごとき雄弁を注ぎ出すのに耳を傾ける。彼らは語る。見事に語る。だが突如として、厳粛な静寂が訪れる。何という沈黙であろう! 今度は誰が語るのだろうか? 彼らが口をつぐんでいるのは、主なる神がその御声をあげようとしておられるからである。彼らがそうするのは正しくはないだろうか? 神はこう仰せになっていないだろうか? 「島々よ。わたしの前で静まれ」[イザ41:1]。その御声のような声があろうか。「主の声は、力強く、主の声は、威厳がある。主の声は、杉の木を引き裂く。まことに、主はレバノンの杉の木を打ち砕く。主の声は、荒野をゆすぶり、主は、カデシュの荒野を、ゆすぶられる」[詩29:4-5、8]。語っておられる方を拒まないように注意するがいい[ヘブ12:25]。おゝ、話をお聞きの方々。あなたについて、このようなことが云われないようにするがいい。あなたがこの世で生きていた間、神はその《書》であなたに語りかけておられたのに、あなたは聞くのを拒み続けていた、と! あなたが私に耳を傾けるかどうかは、ごく些細なことである。だが、あなたが神に耳を傾けるかどうかは非常に重大なことである。神こそあなたを造ったお方、あなたの息はその御手に握られている。そこで、私は切に懇願する。神がお語りになるときには、あなたの耳を開くがいい。反抗的になってはならない。聖書の各行は無限の威光を帯びているが、特に主がご自分を啓示し、その愛する御子イエス・キリストによる救いの恵みへと至らせる、栄光に富むご計画を啓示しておられる聖書箇所はそうである。キリストの十字架には、あなたの注意を要求できる大きな権利がある。かの木からイエスが何と宣べ伝えておられるか聞くがいい。主は云われる。「耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる」[イザ55:3]。

 あなたが耳を傾けることを要求する神の権利は、神があえて身をへりくだらせて私たちに語りかけておられるという事実のうちにも存している。神が世界を造り、ご自分の御手のわざを眺めるよう私たちに命じておられるというだけでも大したことである。被造世界は子ども向けの絵本である。しかし、神が定命の人間の言語でお語りになるということは、考えてみると、いやまさって驚異に富むことである。私は、神が預言者たちによってお語りになったことに驚嘆する。だが、神がご自分のことばを書面に書き記されたことは、いやまさって嘆賞する。それは取り違えようのない言葉遣いであり、あらゆる国語に翻訳することができる。それで私たちはみな、主なる神が私たちに何と語られたかを、自分で見てとることができ、自分で読めるのである。そして実際それは、神が今も私たちに語り続けておられることである。神はすでにお語りになったことを、今なお私たちに語っておられるからである。それは、初めてお語りになったときと変わらないほど清新である。おゝ、栄光に富むエホバよ。あなたが定命の人間にお語りになるのですか? あなたのことばを聞くことをないがしろにするような者があって良いでしょうか? もしあなたが、天から身をかがめて、あなたの罪深い被造物たちと言葉を交わすほど恵みとあわれみ深さに満ちておられるとしたら、あなたに聞く耳を持たないというような者らは、牛やろばにも劣る獣じみた者ら[イザ1:3]でしかないでしょう!

 こういうわけで、神のことばにあなたの注意を要求できる権利があるのは、その威光とそのへりくだりのためである。だがしかし、さらにあなたがみことばに耳を傾けなくてはならないのは、そこに本然と備わる重要性のためである。「主の御口が語られた」。――ならば、それは決してどうでも良いことではない。神は決して無駄口を叩かない。その書物の一行たりとも、一日で過ぎ去るような、つまらぬ主題を扱ってはいない。ほんの一時間足らずで忘れ去られるようなことは定命の人にはふさわしくとも、永遠の神にふさわしくはない。主がお語りになるとき、その話は神々しく、その主題は、無限と永遠を住まいとされるお方に恥じないものである。方々。神はあなたをもてあそびはしない。あなたは神を軽くあしらうというのだろうか? あなたは、神があなたと等しい者[詩50:21]ででもあるかのように、神を扱おうというのだろうか? あなたに向かって語られるとき、神は真剣である。あなたは真剣に耳を傾けようとしないのだろうか? 神はあなたに重大な事がらについて語られる。あなたの魂とその運命に関することである。「これは、あなたがたにとって、むなしいことばではなく、あなたがたのいのちである」[申32:47]。あなたの永遠の存在は、また、あなたが幸福になるか悲惨になるかは、主の御口がお語りになったことをあなたがどう扱うかにかかっている。主があなたに語っておられる永遠の現実にかけて、私はあなたに願う。聞く耳を持たぬほど無分別になってはならない。主とその真理が自分にとって何事でもないかのようにふるまってはならない。主のことばを二の次、三の次として扱ってはならない。暇な時が来るまで待ち、他に何もすることがなくなってから注意すれば良いことででもあるかのようにみなしてはならない。他の何をおいても、あなたの神に聞くがいい。

 嘘ではない。もしこれを「主の御口が語られた」としたら、そこには緊急の、差し迫った必要があるのである。神が沈黙を破ってお語りになるのは、別段云わなくとも良いことを云うためではない。主の御口は、非常に緊要なことを示唆している。きょう、もし御声を聞くならば[ヘブ3:15]、それを聞くがいい。神は即座に注意を払うことを要求しておられるからである。神は、あふれるほどの理由がなければお語りにならない。そして、おゝ、話をお聞きの方々。もし神がそのみことばによってあなたにお語りになるとしたら、私は切に願う。それには、圧倒的な原因があるに違いないと信ずるがいい! 私はサタンが何というか承知している。彼はあなたに告げるであろう。神のことばになど耳を傾けなくとも何も困ることはないさ、と。私はあなたの肉的な心がどう囁くか承知している。それは云うであろう。「仕事の声、快楽の声には耳を傾けよ。だが神に耳を傾けてはならない」。しかし、おゝ! もし聖霊があなたの理性に物の道理を教えてくださるとしたら、また、あなたの精神に真の知恵を思い出させてくださるとしたら、あなたは認めるであろう。あなたが行なわなくてはならない第一のことは、あなたの《造り主》を心に留めることである、と。他の者らの声を聞くことは別の時にもできる。だが、あなたの耳はまず第一に神に聞かなくてはならない。神は第一であられ、神がお語りになることは第一に重要であるに違いないからである。愚図愚図せずに、急いで神の戒めを守るがいい。何の留保もなく、神の召しに答えて、こう云うがいい。「主よ。お話しください。しもべは聞いております」[Iサム3:9]。私は、《福音》を宣べ伝えるためにこの講壇に立つとき、決して穏やかな心持ちで、数ある主題の1つにあなたの注意を引けば良いのだなどと感じはしない。また、もしあなたの頭が別のことでふさがっているとしたら、しばらくの間この主題のことは放っておいて良いとは決して思わない。しかり。あなたは、再び私の話を聞く前に死んでいるかもしれない。それで私は、今すぐ注意を払うように懇願するのである。私は、主の御口が語られたことに注意を向けるよう嘆願することによって、あなたを何か他の重要な務めから引き離すことになるのではないかなどと恐れはしない。これとくらべれば、いかなる務めもまるで重要ではないからである。これは、他を圧して主立った主題である。これに関わっているのは、あなたの魂なのである。あなた自身の魂なのである。あなたの永遠に不滅の魂なのである。また、あなたに語りかけておられるのは、あなたの神なのである。どうか神のことばを聞いてほしい。私は懇願する。私は、主のことばを聞くようあなたに求めるとき、あなたの好意にすがっているのではない。これは、あなたがあなたの《造り主》に当然支払うべき負い目なのである。しかり。さらにこれは、あなた自身の自我に親切にすることでもある。利己的な物の見方からしてさえ、私はあなたに、主の御口が語られたことに聞くよう促したい。そのみことばの中には救いがあるからである。あなたの《造り主》が、あなたの《救い主》が、あなたの最上の友が、あなたに語ることを勤勉に聞くがいい。「御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない」[ヘブ3:15]。むしろ、「耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる」[イザ55:3]。「信仰は聞くことから始まり、聞くことは神のみことばによるのです」[ロマ10:17 <英欽定訳>]。

 このようにして私は、本日の聖句を2つのしかたで扱ってきた。これは、説教者がよってもって立つべき根拠であり動機である。また、聞く者が注意を払うことを当然のこととして求める要求である。

 III. さて今、第三に、《これは神のことばに、非常に特別な性格づけを行なう》。私たちがこの神聖な《書》を開き、ここに記録されていることについて、それは「主の御口が語られた」ことだと云うとき、これはその教えに、1つの特別な性格づけを行なう。

 神のことばにおけるその教えには、独特の威厳がある。この《書》は、他のいかなる本にも当てはまらないようなしかたで霊感されており、現在はあらゆるキリスト者がこの確信を公言すべき時である。私は、先に亡くなった私たちの親愛な友、ジョージ・ムーアについてスマイルズ氏が書いた伝記を、あなたがたが読んだかどうか分からないが、その中にはこう記されている。ある晩餐会の席上で、ひとりの学識ある人が、こう言及したという。聖書の霊感を信じている知識人を見つめるのは容易ではないでしょうね、と。すると即座にジョージ・ムーアの大胆な声が卓子の向こう側から聞こえたというのである。「わしは、信じとる」。それ以上何も云われなかった。私の愛する友は、私がよく覚えているように、強烈な物云いをする人であった。というのも、私たちは時折、カンバーランドにある彼の自宅を訪問したとき、互いに大声を張り上げ合うことがあったからである。私は、彼の有無を云わせぬ口吻が聞こえるような気がする。――「わしは、信じとる」。この昔ながらの、不人気な立場を支持することを尻込みしないようにしようではないか。そして、腹蔵なく、「わしは、信じとる」、と云おうではないか。もし私たちの聖書が消え去ってしまうとしたら、私たちはどうなるだろうか? もし聖書など信用するなと教えられるとしたら、どうなるだろうか? もしも私たちが、どこの箇所が霊感されていて、どこの箇所が霊感されていないかについて、あやふやにされるとしたら、聖書など全く有していないのと同じくらい困窮するであろう。私は決して何らかの霊感説を奉じているのではない。聖書の霊感を事実として受け入れているのである。こうした聖書観を有する者たちとともにいることを恥じる必要はない。というのも、最上にして最高の学識を有する人々の一部が、これと同じ考えをいだいてきたからである。かの大哲学者ロックは、その晩年の十四年間を聖書の学びに費やした。そして、ひとりの若い紳士からキリスト教信仰を理解するための最短の道を尋ねられたときには、聖書を読むように命じて、こう述べた。「そこには、永遠のいのちの言葉がおさめられているのだ。神こそ、その著者であり、救いこそ、その目的であり、真理こそ、その――いかなる過誤も入り混じっていない――内容なのだ」。神のことばの側には、知性や学識という件において、あなたが決して恥じることのない人々がいる。たといそうでないとしても、だからといって落胆すべきではない。思い起こせば、主はこれらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださったからである[マタ11:25]。私たちは、使徒ととともに、「神の愚かさは人よりも賢」い[Iコリ1:25]、と信ずる。神の御口から出たことを信じて愚か者と呼ばれる方が、哲学者たちの口から出たことを信じて、そのため賢者とみなされるよりもまさっている。

 同じように、やはり主の御口によって、絶対確実であると語られてきたことがある。人が云ってきたことは、たとい真実であっても、実質がない。それは霧をつかむようなものである。その中身は何もない。しかし、神のことばの場合は、しっかりと掴めるもの、持てるもの、握れるものがある。これは実質であり実体である。人の種々の意見については、こう云えよう。「空の空。すべては空」[伝1:2]。だが、たといこの天地が滅び去ろうと、神が語られたことの一点一画でも決して破れはしない[マタ5:18; 24:35]。私たちはそのことを知り、安心している。神が思い違いをすることはありえず、神が偽ることはおできにならない。これは、誰も異論を唱えることができない公理である。「主の御口が語られた」。これは知性や理性が役に立たないところで争いをやめさせる審判である。それ以後、もはや疑問を呈する者はない。また、もしこれを「主の御口が語られた」としたら、この言葉の中には、特に、二度と変わることなく最終的に固定されたという性格があるのである。ひとたび神によって語られたことは、単に今そうあるだけでく、常にそうあり続けるに違いない。《万軍の主》が語られたのである。誰がそれを無効にするだろうか? 神のことばという岩は、現代の科学的神学という流砂のように移り変わりはしない。ある人が自分の教役者にこう云ったという。「愛する先生。確かに先生は、科学の進歩にご自分の信仰内容を合わせるべきですよ」。「そうですな」、と彼は云った。「ですが、きょうはそうする時間がなかったのですよ。まだ朝刊を読んでませんのでね」。人は、朝刊を読み、常に最新の版を取り入れていなくては、科学的神学が今どこに立っているか分からないであろう。というのも、それは常に意見をコロコロ変えるからである。この時代の偽りの科学について唯一確かなことは、それがすぐに論破されるということである。今日大威張りで開陳されている種々の理論は、明日には鼻で笑われるであろう。大科学者たちは、自分に先立つ人々を抹殺することを人生の指針としている。彼らが知っている唯一確実なことは、先人たちが間違っているということである。この短い人生においてさえ、私たちは思想体系に次ぐ思想体系が――雨後の竹の子、否、むしろ、毒茸のように――勃興しては滅び去るのを見てきた。私たちは、自分のキリスト教の信仰内容を、月よりも目まぐるしく変化するものに適合させることはできない。そうしたい者はそうするがいい。私としては、これを「主の御口が語られた」以上、この1888年という恵みの年にいる私にとって、これは真理である。そして、たとい私が1908年の半ばには白髪の人間になってあなたがたの間に立っているとしても、あなたは私が天来の根本原理の上で全く何の進歩もしていないことに気づくであろう。「主の御口が語られた」以上、私たちは主の啓示の中に、決して変転することのない福音を見ている。その福音の啓示するイエス・キリストは、「きのうもきょうも、いつまでも、同じ」[ヘブ13:8]である。兄弟姉妹。私たちは、光輝く《熾天使》も膝をかがめる永遠の御座の前で、永久にともにいることになると希望している。そして、その時の私たちは、きょう私たちの神の御手から与えられて自分たちの糧としている同じ真理を公言することを恥じはしないはずである。

   「主は いと恵み 深ければ
    そのあわれみは 永久(とわ)に堅けし。
    常に確かに 立ちし真理(まこと)は
    窮(はて)なき代々も 尽きずあらん」。

 ここで、云い足させてほしいが、神のことばに独特のものがあるのは、そこに全能の力が伴っているからである。「王のことばには権威がある」[伝8:4]。神のことばがあるところには、全能の力があるのである。もし私たちが、「主の御口が語られた」ものとして、神のことばをいま以上に大きく扱うとしたら、私たちは自分の説教に、はるかに大きな結果を見てとるはずである。神のことばに対する私たちの論評ではなく、神のことばこそ、魂を救うものなのである。魂を斬り殺すのは剣であって、剣の鞘でも、その柄を見栄え良くする飾り房でもない。もし神のことばが、その本来の単純さのまま持ち出されるとしたら、何者もそれに刃向かえない。神の敵どもは、火の中で消滅するもみがらさながらに、みことばの前で破滅するに違いない。おゝ、主の御口が語られたことに、いやまして近づいていく知恵があればどんなに良いことか!

 私はこの点についてはもう語るまい。とはいえ、この主題は非常に広大で心そそるものではある。特に、もし私が「主の御口が語られた」ことの深さ、高さ、適応、洞察、自らを証明する力について詳しく語ることになればそうである。

 IV. 第四に、また、ごく手短に云いたいのは、《このことによって神のことばは、多くの人々にとって大きな警告の根拠となる》ということである。私は、この節全体を読んで聞かせるべきだろうか? 「『しかし、もし拒み、そむくなら、あなたがたは剣にのまれる。』と、主の御口が語られた」。神が語られたあらゆる脅かしは、神が語られたがゆえに、途方もなく恐ろしいものを伴っている。神の脅かしは、一個の人に対するものであれ、一国に対するものであれ、不敬虔な人々という種別全体に対するものであれ、もし彼らが賢明であれば、思わずおののきを覚えるようなものであろう。なぜなら、それは「主の御口が語られた」からである。神がある脅かしを語ってそれが水泡に帰したことは一度もない。神は、ご自分がなさるであろうことをパロに告げたとき、それを行なわれた。災厄が彼に押し寄せ、彼を押し潰した。主は、いかなる時であれご自分の預言者たちを遣わして国々に審きを宣言させたときには、そうした審きを実現された。バビロンや、ニネベや、エドムや、モアブや、バシャンについて旅行者たちに尋ねてみるがいい。彼らはあなたに廃墟の山のことを告げるであろう。これは、主がその警告をいかに文字通り実現されたかを証明するものである。歴史に記録された最もすさまじい事件の1つは、エルサレムの攻囲戦である。確かにあなたも、ヨセフスの本か何かでそれについて読んだことがあるに違いない。思うだに血も凍るような出来事である。だが、それはことごとく預言者たちによって予言されており、彼らの予言は最後のきわみまで成就した。あなたは、「愛」なる神について語る。だが、もしあなたがそれによって意味しているのが、神は峻厳に罪を罰するようなお方ではない、ということだとしたら、私はあなたに尋ねたい。エルサレムの破壊をあなたはどう理解するのだろうか。思い出すがいい。ユダヤ人が神の選びの民族であったことを。また、エルサレムの町には、神の臨在という栄光を授けられた神の宮があったことを。兄弟たち。もしあなたがエドムからシオンへ、また、シオンからシドンへ、またシドンからモアブへ歩き回るとしたら、あなたは廃墟と化した町々の中で、審きに関する神のことばが確かである証拠を見いだすであろう。ならば、このことは間違いないことである。すなわち、「もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬ」[ヨハ8:24]、とイエスが仰せになるとき、これはその通りになるであろう。主は決して人々を怯えさせて面白がるお方ではない。そのみことばは、人々を枯れ尾花で怖がらせるような大げさな言辞ではない。主が仰せになることの中には、断固たる真理がある。主は常にご自分の脅かしを正確無比に実現してこられた。そして、嘘ではない。これからも主は、そのように行ない続けられる。それは「主の御口が語られた」からである。

 あぐらをかいて、神の性質について推測を逞しくし、こう論じていても何にもならない。「神は愛です。ですから、悔悟しない者に対する刑罰など執行されませんよ」。神は、あなたに推測できるよりも、ご自分が何をなさるかよくご存知である。また、私たちを推測するままに放り出してはおられない。というのも、神は明白かつ平易に語っておられるからである。神は云われる。「信じない者は罪に定められます」[マコ16:16]。そしてこれは、その通りになるであろう。「主の御口が語られた」からである。そうしたければ、神のご性質をもとに好きなだけ推測するがいい。だが、もし神がお語りになったことに反するような推測を引き出すとしたら、あなたは偽りを推測したのであり、やがてそのことを思い知るであろう。

 「何ということでしょう」、とある人は云うであろう。「私は、神のそんな刑罰の厳しさには身震いします」。左様か? それは結構! 私は心からあなたに共感する。大いなるエホバが不義に復讐するのを見るとき、いかなる者がおののかずにいられよう! 主への恐怖は鋼鉄をも蝋にして当然である。思い出そう。真理の尺度は、私たちの快楽でも私たちの恐怖でもない。私が身震いするからといって、主の御口が語られたことが論破されることはありえない。それは、その真実さの証拠でさえありえる。いかなる預言者も神の現われには震えたではないだろうか? そのひとりがいかに叫んだか思い出すがいい。「私は聞き、私のはらわたはわななき、私のくちびるはその音のために震える。腐れは私の骨のうちに入」る[ハバ3:16]。油注がれた予見者たちの最後のひとりは、主の足もとに倒れて死者のようになった[黙1:17]。だが、彼らの天性がいかに縮み上がろうと、決して彼らはそれを盾にとって疑いをいだく論拠にしようとはしなかった。おゝ、話をお聞きの、まだ回心しておらず、信じていない方々。ぜひ覚えておくがいい。もしあなたがキリストを拒み、エホバの剣の鋭利な刃先に突進して行くとしたら、いくらあなたが永遠の審きを信じていなくとも、それが変更されることも、あなたがそこから救われることもない。私は、あなたがなぜこの恐ろしい脅かしを信じないか承知している。それはあなたが、自分のもろもろの罪の中でぬくぬくと過ごしていたいためである。かつて、ある懐疑主義者の作家が投獄されたとき、ひとりのキリスト者の訪問を受けた。彼は善意からやって来たのだが、作家はキリスト教信仰について一言も聞こうとしなかった。訪問者の手に聖書があるのを見て彼はこう云った。「あんたは、ぼくがその本を信じるだろうなんて期待しちゃいないだろうね。何と、もしその本が真実だとしたら、ぼくは永遠に失われることになるじゃないか」。まさにその通りである。そこにこそ、この世の不信心の半分の理由があり、私たちの会衆の不信心のすべての理由がある。自分を罪に定めるようなことをどうして信じられようか? あゝ! 愛する方々。もしあなたがこれを真実であると信じて、それに従って行動しようとするなら、あなたは、主の御口が語られたことのうちに、必ず来る御怒りから逃れる道をも見いだすであろう。というのも、この《書》は、恐怖よりも、はるかに多くの希望で満ちているからである。この霊感された巻物には、あわれみの乳と、恵みの蜜が流れている。これは、御怒りの《閻魔帳》ではなく、恵みの《聖約》である。だが、たといあなたがその愛に満ちた警告を信じず、その正しい判決を顧慮しないとしても、それにもかかわらず、それらは真実である。たといあなたが無謀にもその数々の雷鳴に立ち向かおうとしても、また、たといあなたがその数々の約束を踏みにじるとしても、また、たといあなたがそれを憤りにまかせて焼くようなことさえしても、それでも、この聖なる《書》は何の変更もこうむらず、何の変更もありえないものとして立っている。これは「主の御口が語られた」のである。それゆえ、私はぜひとも願う。この神聖な聖書は敬意をもって扱うがいい。そして、覚えておくがいい。「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである」[ヨハ20:31]、と。

 V. 時間もないため、こう云って、しめくくりとしなくてはならない。第五のこととして、《このことは、主のみことばを私たちの信仰の理由とし、支えとする》。「主の御口が語られた」。これは私たちの確信の基盤である。赦しはある。神がそう云われたからである。見よ、愛する方々。あなたはこう云っている。「私のもろもろの罪が洗い流されるなんて信じられません。私はそれほど無価値に感じます」。しかり、だが、これは「主の御口が語られた」ことなのである。あなたの無価値さの頭越しに信じるがいい。「あゝ」、とある人は云うであろう。「私はあまりにも弱くて、考えることも、祈ることも、他の何も、しかるべきほどにはできないように感じます」。だが、こう書かれていないだろうか? 「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました」[ロマ5:6]。これは「主の御口が語られた」のである。それゆえ、あなたの無能力の頭越しに、それでも信ずるがいい。これは真実であるに違いないからである。

 私には、神の子どもの誰かがこう云っているのが聞こえる。「神は、『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない』[ヘブ13:5]、と云われました。ですが、私はたいへん苦しい目に遭っています。私の人生のあらゆる状況はその約束と矛盾しているように思われます」。それでもこれは、「主の御口が語られた」ことであり、その約束は決して無効にはならない。「主に信頼して善を行なえ。そうすればあなたはこの国に住んで、まことに養われる」[詩37:3 <英欽定訳>]。いかなる状況にあろうとも神を信じるがいい。たとい逃れの道や、助けの手段が何も見えなくとも、それでも見えない神を信じ、神が真実ともにおられることを信じるがいい。「主の御口が語られた」からである。私は孤立無援のまま現下の苦境に立ち至っている。――いずれにせよ、当面はそうである。――だが、いかなる状況が約束を否定しようと、それでも私は約束を信じる。たとい友人たちが私を見捨て、敵たちが私を中傷し、私自身の霊が零以下に降り、ほぼ絶望にせんばかりに抑鬱するとしても、私はなおも主のむき出しのことばに望みをかける決心をしている。みことば自体がすべてを満ち足らす支柱であり、土台であることを証明する決心をしている。私は、地獄にいるすべての悪魔に逆らっても神を信ずる。アヒトフェルや、ユダや、ダマスや、そうした変節漢たちの全員に逆らっても神を信ずる。しかり。そして私自身の悪しき心に逆らっても神を信ずる。神のご計画は堅く立つ。「主の御口が語られた」からである。立ち去れ、あなたがた、それを否認する人たち。私たちの信頼は、十分な根拠のある信頼である。「主の御口がそれを語られた」からである。

 やがて私たちは死ぬことになる。臨終の汗が私たちの額ににじみ、ことによると、私たちの舌はほとんど物の役に立たなくなるかもしれない。おゝ、そのとき、かの古の立派なドイツ皇帝のように、私たちがこう云うことができたらどんなに良いことか。「私の目はあなたの御救いを見ました」[ルカ2:30参照]。また、「神は私を御名によって助けてくださいました」、と。私たちがかの川々を渡るとき、神は私たちとともにおられ、大水は私たちを押し流さない。「主の御口が語られた」からである。私たちが死の陰の谷を歩くときも、私たちは災いを恐れない。神が私たちとともにおられるからである。神の鞭と神の杖が私たちの慰めである[詩23:4]。「主の御口が語られた」。あゝ! 現世のもろもろの束縛から解き放されて、栄光に上って行くのはいかなることとなるであろうか? 私たちはじきに《王》の美しい御姿を見るであろう。そして、私たち自身、その栄光によって栄化されるであろう。というのも、そう「主の御口が語られた」からである。「信じる者は永遠のいのちを持つ」[ヨハ3:36]。それゆえ、喜ばしい永遠が私たちのものである。

 兄弟たち。私たちは、うまく考え出した作り話に従ったのではない[IIペテ1:16]。すぐに割れてはじけるような「浮袋に乗って泳ぐ腕白坊主」ではない。むしろ私たちは、確固たる大地の上に基礎を置いている。私たちがとどまっているのは、天と地が安んじている所である。全宇宙がよりかかっている所である。永遠の事がらがその基を置いている所である。すなわち私たちは、神ご自身に基礎を置いているのである。もし神が私たちを見捨てられるとしたら、私たちは全宇宙とともに壮大な破滅を迎えよう。しかし、何も不安になることはない。それゆえ、信頼して恐れないようにしよう。神の約束は立つ。「神の御口が語られた」からである。おゝ、主よ。それで十分です。あなたの御名に栄光があらんことを。キリスト・イエスのゆえに! アーメン。

聖書の無謬性[了]
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