HOME | TOP | 目次

信仰を堅く保つ

NO. 2007

----

----

1888年2月5日、主日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「また、ペルガモにある教会の御使いに書き送れ。『鋭い、両刃の剣を持つ方がこう言われる。「わたしは、あなたの行ないと、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。しかしあなたは、わたしの名を堅く保って、わたしに対する信仰を捨てなかった」。――黙2:12、13 <英欽定訳>


 これから特に注意を向けたいのは、この言葉である。――「あなたは、わたしの名を堅く保って、わたしに対する信仰を捨てなかった」。

 愛する方々。今朝のみことばを思い巡らすにあたって、まず格別に注目してほしいのは、主イエス・キリストが、ご自分をいかなる性格のお方として、ペルガモの教会に示しておられるか、ということである。「鋭い、両刃の剣を持つ方がこう言われる」。主イエスは、そのようなしかたでご自分の教会のもとに来られるのだろうか? 教会の門口に剣をもって来られるのだろうか? 抜き身の剣――鋭い剣――鋭い、両刃の剣をもって来られるのだろうか? しかり。私たちの主イエス・キリストは、目に見えるご自分の教会に対してすら、このようなしかたで現われなさる。主は、ご自分の霊的な者、忠実な者らのひとりひとりには、言葉に尽くせぬ優しさと愛に満ちた夫であられる。だが、目に見える教会は、最上の状態にあってすら決して完全にきよくはない。そうした教会に対して主は、ずっと峻厳な姿で現われる。主の軍の将としてやって来て、鋭い、両刃の剣をふるう。バプテスマのヨハネも、主について、よく似たことを語っている。「その方は……手に箕を持って脱穀場をことごとくきよめ、麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます」[ルカ3:17]。そのあおぎ分けの箕は、決して主の手から離れることがない。常に必要だからである。私たちの主は、恵みに満ちてはいるが、真理(まこと)にも満ちておられる。ご自分のしもべらに対する主の愛は、悪を我慢できない燃えるようなねたみによって如実に示される。「この方は、銀を精練し、これをきよめる者として座に着き、レビの子らをきよめ、彼らを金のように、銀のように純粋にする」[マラ3:3]。私たちは、私たちの主の来臨を喜びと祝福として考えているが、おゝ、この問いかけを思い出すがいい。「だれが、この方の来られる日に耐えられよう。だれが、この方の現われるとき立っていられよう」[マラ3:2]。主は剣を帯びており、それを無意味に帯びてはいない。それは、いくら経ってもなまくらにならない、「鋭い」剣である。昔ながらの両刃の剣である。しかし主は、教会に対してその剣で何をなさるのだろうか? その点には何の疑いも残っていない。教理と生活をいいかげんにしている一部の者らに言及して、主はこう云っておられる。「悔い改めなさい。もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう」[黙2:16]。主は、教会にいる資格もないくせに教会内にいる者らに、その剣を向けられる。教会員になることは、あだやおろそかにできることではない。私は、ある種の信仰告白者らが、教会の一員になっていなかったとしたらどんなによいかと本気で思うことがある。というのも、もし彼らが教会外にいたとしたら、教会内にいるよりも、はるかに危険は少なかったであろう。外部では彼らのふるまいも大目に見られたかもしれない。だがそれはイエスの弟子であると公言する者にはそぐわない。私はこれを深い悲しみとともに云う。おゝ、えせ信仰告白者よ。たとえキリストの教会に加入しても、あなたの右の手に偽りがあるなら、それ以上何が悪くなくとも、あなたはするりと地獄に落ちて行くであろう。あゝ、心においてキリスト者でないのに、そう告白する人々! 主ご自身が鋭い剣を手にして教会に迫りくる光景に震え上がるがいい。確かに、「罪人たちはシオンでわななき、神を敬わない者は恐怖に取りつかれる」[イザ33:14]。だが、真摯な人々にとって、この神々しい武士(もののふ)の姿には慰めがある。彼は、ご自分の聖なる大義の敵である者どもを打ち殺すが、外側からご自分の民を攻撃する者どもをも打ち払うであろう。彼の剣は、忠実な者を守るためのものである。それが鞘から抜かれるのは、小心な、震えている者らを守護するためである。イエスは私たちのヨシュアとして来られ、私たちの前から敵を追い散らし、私たちを前進させ、勝利の上にさらに勝利を得られる。この両刃の剣は、主の前で心正しい人々の最も小さな者をも守り抜く。私はこの主題を、御霊ご自身が提示するようなしかたで提示しよう。この説教は、聖徒たちにとって甘やかなものとしたいが、何の権利もない者らが、慰めをひったくったりしないように、前置きを鋭くしておかなくてはならない。過越の小羊は常に苦菜を添えて食されるべきであって、その苦菜を私は食卓に置いているのである。御使いたちの歌であり、聖徒たちの宝であるイエスの御名には、彼を拒む者らにとって恐怖が含まれている。その御名を帯びているお方は、生きている人と死んだ人とを審き、正しくない者を断罪なさるからである。このほむべき救い主が、何1つ見逃さない目で教会を見ておられることに注意するがいい。主はペルガモの教会を眺めて、こう云っておられる。「わたしは、あなたの行ないと、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある」。主はペルガモの教会の立場と危険を見てとっておられる。「そこにはサタンの王座がある」。おそらく、その町では忌まわしい秘儀を伴う総毛立つような邪神崇拝がなされていたか、町全体が甚だしい放縦の場所であったか、格別に激しい迫害の地であったのであろう。これほど時を隔てていると、それが何であったか正確にはわからない。だが主は、それをサタンの要塞とみなされた。今日の世界にも、罪が著しくはびこっている場所、過誤と不信仰が猖獗をきわめている場所がある。まるで悪魔がそこに居を構え、おのれの首都としているかに見えるほどである。これは、キリストの教会にとって厳しい環境だが、教会が最も必要とされる場所でもある。愛する方々。あなたが暮らしているのは、かの悪い者が傍若無人にのさばっている場所かもしれない。あなたは、同じキリスト者仲間の近くに住む恵みが与えられておらず、自宅に帰れば玄関先から、種々の冒涜的な事がらと鼻つきあわさなくてはならない。一週間の間中、目と耳に襲いかかる光景と音声によって、ソドムでのロトのような気分になる。実にお気の毒だと思う。だが、こう思って慰められるがいい。あなたの主は、それをすべて知っておられ、あなたをその辛い立場から別の場所へと移すことができる。あるいは、一層ご自分の恵みの栄光を高めるため、あなたをその中で支え、敵に勝利させることがおできになる。主は、「サタンが、あなたを麦のようにふるいにかけることを願って」いるのを知っており、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈っておられる。あなたの危険を知っており、あなたの試みを思いやっておられる。いかにサタンがあなたをまず誤り導き、次いで告発するかを熟知しておられる。かの古い蛇の狡猾さを理解しておられる。信仰を堅く保とうとするあなたの苦闘、あなたの失敗、あなたの絶望的な努力を見ておられる。夜になってあなたが自分の数々の欠陥を御前に告白するとき、いかにあなたが悲嘆にくれているか、知っておられる。だが主は、あなたが置かれている独特の状況のことも知っており、大きなあわれみによってあなたのことを判断してくださる。もしあなたが主の御名を堅く保って、信仰を捨てないでいるとしたら、それすらも、主にとっては、あなたの心の忠実さを証しするものとなる。他の場合における労働や忍耐の働きにまさる確かな証しとなる。あなたの結んでいる房は、他のぶどうの木よりも少ない。だがイエスは、あなたが非常にやせた一片の土地に育っていることを知っており、あなたの僅かな実りも高く評価してくださる。一日が終わってみれば、あなたの働きは大したものには見えない。だが、いかなる農夫も、鋤先に刃こぼれさせるほどの岩地で馬たちが鋤いているときに、柔らかな黒土を軽々と鋤き起こすのと同じくらいのことができるなどと期待しはしない。主イエスは、私たちの四囲の状況をことごとく考慮に入れてくださる。私たちに罪の云い訳を許すほど下らない愛し方はなさらないが、それでも、主の方から、私たちの行ないの情状を酌量するような状況について口にしてくださる。それは、あの最初の弟子たちが眠り込んでいるのをごらんになったとき、彼らのためにこう云われたのと全く同じである。「心は燃えていても、肉体は弱いのです」[マコ14:38]。おゝ、神の愛する子どもたち。もしあなたが、ことさらに試みと困難の伴う立場に置かれているとしたら、また、多すぎる妨げのため願う一割も成し遂げられないとしたら、イエスがそれを何と云っておられるか聞くがいい。「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある」。もしあなたが、自分の主に忠実を尽くし、主に対する信仰を堅く守るなら、主はあなたを誉めて、云うであろう。「あなたは、わたしの名を堅く保って、わたしに対する信仰を捨てなかった」、と。果たしてこの慰めの言葉は、この場にいるだれかのためのもの、あるいは、この説教を読むであろうだれかのためのものであろうか。きっと、そうに違いないと思う。私たちの主の愛する人々の多くは、苦悩に満ちた今の境遇の中で、かつて平穏な日々に常々行なっていたよりも多くのことを、神の御目にとってはなしつつあるのである。彼らは、10ポンド預けられたときには、2ポンドのもうけをもたらした。だが今は、たった1ポンドしか持っていないのに、1ポンドのもうけをもたらしている。つまり、以前よりもずっと大きな割合でものを生み出しているである。これが主の計算法である。正義によって主は計算なさるからである。私たちが僅かな力しかなく、非常な困難を伴う立場に置かれているとき、主は私たちが生み出すものを、いやがうえにも高く評価し、一層確かな忠実さの証しとみなされる。ベルゼブル自身の首府のかくも近くに住み、地獄の玉座が作る影の下のかくも近くに住んでいながら、このようなお誉めのことばをかちとったこと、それは、この聖句のペルガモの教会にとって十分すぎる賞賛である。「あなたは、わたしの名を堅く保って、わたしに対する信仰を捨てなかった」。

 この賞賛に真剣な注意を払おうではないか。おゝ、願わくは私たちが、自分でもそれをかちとれるように! また、もしすでにかちとっているとしたら、聖霊の助けによってそれを堅く守り、だれからも自分の冠を奪われることがないように!

 I. まず最初の項目として、《この事実を考察しよう。》 私は、これがペルガモの人々にとって事実であったのと同じくらい確かに、この場にいる多くの人々にとっても事実であってほしいと思う。私は、この教会とその教会員についても、こう云えると信ずるものである。――「あなたは、わたしの名を堅く保って、わたしに対する信仰を捨てなかった」。

 愛する方々。キリストの御名がここでキリストに対する信仰と同一のものとされていることに注意するがいい。「あなたは、わたしの名を堅く保って、わたしに対する信仰を捨てなかった」。聖書信仰は、キリストがその中心であり、キリストがその円周であり、キリストがその中身である。その御名――すなわち、キリストの人格と、性格と、みわざと、教え――、これこそキリスト者の信仰である。福音の偉大な諸教理は、みな私たちの主イエス・キリストご自身と密接に関わっている。教理は日差しであり、主は太陽である。信仰を正しくとらえたければ、絶対に主イエスがその中心となるようにとらえなくてはならない。私たちの選びから始まって私たちの栄化に至るまで、キリストはすべてであり、すべてのうちにおられる。ユダヤ人にとって律法は、契約の箱の中に安置され、贖いのふたで覆われるまで、決してしかるべき場所に落ちついたとは云えなかった。そして私の確信するところ、信仰者にとって律法は、それがキリスト・イエスによって成就されていると認められるまでは、決して正しく認識されているとは云えない。もし律法についてそれが真実だとしたら、福音については、その何倍も真実ではなかろうか。福音は黄金の指輪だが、キリスト・イエスはその指輪に嵌め込まれた金剛石である。イエスは私たちの信仰の創始者であり完成者である。その精髄であり実質であり、その頂点であり基部である。私たちの主の御名を堅く保つとき、私たちは信仰を捨てていないのである。

 しかし、人は何をするとき信仰を捨てたと云えるのだろうか? いくつかのしかたがある。まず、細心の注意を払いつつ、だが非常に厳粛に云いたい。ある人々が信仰を捨て、イエスの御名を手放すのは、それを決して告白しないことによってである。主がこのことを福音書の中でいかに云われたか思い出すがいい。「だれでも、わたしを人の前で認める者は、人の子もまた、その人を神の御使いたちの前で認めます。しかし、わたしを人の前で知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます」[ルカ12:8-9]。ここで明らかなように、知らないと云うのは、認めない[告白しない]のと同じことである。私の知るある人々は、自分の中立的な立場を誇らしげにしている。彼らは云う。「私は自分の舌を押さえます。たとえキリストとベリアルの間に争いがあろうと、私は口出しも、関わり合いになることもしません」、と。あなたもそう云うだろうか? ならば、私たちの主ご自身のことばを思い出してほしい。「わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です」。また、こうも云われる。「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません」[マタ12:30; ルカ14:27]。この聖句は、二股をかけようとはしないが、何の股もかけようとしない人々に、確かに重くのしかかってしかるべきである。彼らは、君子危うきに近寄らずを決め込んでいるが、こういう君子が受け取る報いは永遠の蔑みである。こうした生き方で、あなたは安楽に暮らせると思っている。だが、こうした類の安楽な暮らしは、非常に暗鬱な死に終わるであろう。キリストの十字架を避けて通る人生を送った人は、栄光の冠を取り逃すことになるであろう。

 キリストは、偽りの教理によっても捨てられる。もし私たちが、キリストの人格か、みわざか、教理について間違った考えを信奉し、イエスが教えなかったことを信じ、イエスが教えたことを拒むならば、私たちはその御名と信仰を捨てているのである。キリスト者に絶対に必要なこと――それがない限り、いかなる生き方をしていても神に受け入れられないという主要な点――の1つは、その人にとってイエスが「道であり、真理であり、いのち」である、ということである。信仰生活の実践と、教理と、体験のすべてを、私たちはイエス・キリスト、私たちの主のうちに見いださなくてはならない。さもなければ主を正しい立場に置いていないのである。中心が正しくない限り、またイエスがその中心でない限り、私たちはいかなる部分においても正しくありえない。願わくは私たちが、聖徒にひとたび伝えられた信仰から決してそれることがないように! むしろ、あらゆる偽りの哲学に抵抗し、堅く立ち、動かされることがないように!

 しかしここで非常にありがちなのは、聖くない生き方をすることによって御名と信仰を捨てる、ということである。正統的な信条がありさえすれば、非正統的な生活をしていても大した問題ではない、などとは夢にも思わないようにしよう。否、キリスト・イエスは、《教師》として信じられるだけでなく、《主人》としても従われるべきである。弟子たる者は、注意深く教えられやすい心をしているのと同じくらい、実践において従順であるべきである。「聖くなければ、だれも主を見ることができません」[ヘブ12:14]。使徒パウロはある箇所でこう云っている。「もしも親族、ことに自分の家族を顧みない人がいるなら、その人は信仰を捨てているのであって、不信者よりも悪いのです」[Iテモ5:8]。すなわち、道徳的な欠陥は、信仰を捨てていることになりかねず、信仰を全く告白していない場合にまして、悪人となりかねないのである。願わくは神が、聖くない生き方から私たちを救い出してくださるように!

 悲しいかな! 私たちは、実際に信仰を放棄し、神の民から身を退くことによっても、信仰を捨てることがありえる。ある人々は熟慮の上でそう行ない、他の人々は世の魅力に征服されたためにそうする。ある人々は、私たちの主の教えのために主から離れていったと記されている。彼らは、「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか」、と声を上げた[ヨハ6:60]。愛する方々。あなたは、ひどいことばを受け入れる覚悟がないとしたら、イエスの弟子であると告白する必要はない。「何と恐ろしい教理だ!」、と叫んだ人がいる。だが、たとえ恐ろしい教えだとしても、それも真実ではないだろうか? 私たちの周りでは、だれも事実であることを否定できない、多くの恐ろしいことが年中起こっている。「何と恐ろしい!」、と叫ぶだけでは知らなかったことにできない真実は、いくらでもある。私たちは、自分の意見で私たちの主の教えを審くべきではなく、信仰によって受けとるべきである。主は悪人の破滅についてすさまじいことを語っているが、それは誇張ではありえない。主イエスのことばは確実である。主は「忠実で、真実な証人」だからである[黙3:14]。それゆえ、私たちは、主の教えがいかなるものであれ、主から離れて行きはしない。おゝ、願わくは、最後まで耐え忍ぶ恵みが与えられるように! おゝ、忠実さと貞節さが与えられ、この世の得失や気分の上下によって私たちの救い主から離れ去るようなことがないように! 主の聖なる御名を堅く保ち、何があろうと決して信仰を捨てないようにしよう。願わくは、聖霊が私たちを堅く保ち、私たちがイエスの御名を堅く保つことができるように!

 では私たちは、何をすればキリストの御名とキリストに対する信仰を堅く保っていると云えるだろうか? 答えよう。私たちの間で堅く信じられていることに自分の知性を完全に同意させ、精神を明け渡し、それを考察し、受け入れることによってである。私たちは、健全なことばを手本にし、神が啓示なさったことは、神が啓示なさったという理由によって何であれ受け入れる。私たちの座右の銘は、「すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです」、である[ロマ3:4]。キリストがお語りになるとき、私たちは自分の精神と心の底から同意し、それによりキリストが宣言なさるすべてのことを承諾するのである。

 もし私たちがイエスの御名を堅く保っているとしたら、私たちは、信仰を愛することによって、信仰を保っているに違いない。私たちは、私たちの主の教えておられるすべてのことを心に蓄えておかなくてはならない。主のことばが見いだされたなら、それを食べるべきである。それは蜜のように甘い。イエスが語られるとき、私は答えるであろう。「そうです。主よ。あなたがそう仰るのであれば、それは本当に決まっています。私は、あなたの教えに何の不服もありません。魂の底からあなたを愛し、あなたが啓示なさったすべてのことを受け入れます」、と。真の信仰者は、聖書で啓示されている教理のために命をかけ、命を捨てる。この心の愛によって私たちは、キリストの御名を堅く保つのである。

 また私たちは、いかなる反対に逆らっても御名を高く掲げることによっても、それを堅く保つ。私たちは、しかるべき時と時期には、常に信仰を告白しなくてはならない。決して自分の旗幟を曖昧にしてはならない。私たちには、前線に突撃し、敵との対決を求めなくてはならないときがある。自分の《指揮官》の名誉を守るため、そうせざるをえないときがある。それを決して恥じも恐れもしないようにしようではないか。私たちの主イエスのためとあらば、喜んで自分をいけにえとして捧げ、主に対する信仰を守るべきである。安楽さも、世間体も、命そのものすらも、イエスの御名と、その信仰のためには捨て去らなくてはならない。もしも激戦の最中で、自分の評判か命を危険にさらさなくては勝利を得られないとしたら、こう云おうではないか。「この戦いでは、だれかが倒れなくてはならないのだ。それがなぜ私であってならないのか? 私はわが《君主》の側につき、わが君と運命をともにし、わが君のための非難を身に受けよう」。私たちの偉大な主には、勇敢な兵士だけがふさわしい。安逸をむさぼろうとして、こっそり後衛にもぐり込むような輩は御国の面汚しである。私たちの《指揮官》は、すべての忠実な者らに恩賞を分け与える日が来たとき、臆病者どもについて何と仰るだろうか? 兄弟たち。キリストのためには嘲笑をも甘受しなくてはならない。いわゆる「文化人」がしばしば私たちに浴びせかける、ことさらに悪意に満ちた嘲笑すら、甘受しなくてはならない。イエスのためとあらば、大馬鹿者と考えられることにも甘んじなくてはならない。私たちの中には、反対者の多くよりもはるかに博学な人々がいるのに、彼らは私たちを無知と決めつける。勇気をもって自分の確信を主張しているがために恥辱を忍んでいるのに、私たちを臆病者呼ばわりする。私としては、わが愛する主なる《君主》のためとあらば、喜んで一万人分の馬鹿となろう。私の心の臓そのものに書き記された、この大いなる昔からの真理のためとあらば、あらゆる栄誉をはぎとられ、あらゆる非難を身に受けても、それを自分に与えられる最大の誉れとみなそう。イエスを司令官として航海する船団は、嵐に遭う覚悟をしなくてはならない。彼が乗っておられた帆船は、大波をかぶり、沈むばかりであったからである。主を愛しているという人間が、いばらの冠をかぶったイエスの姿は喜んで見るくせに、自分のためには月桂冠を焦がれ求めるなどということがあってよいだろうか? イエスが十字架によってその御座に上られたというのに、自分は歓呼する群衆の肩車に乗ってそこまでかかえられていくなどと期待できるだろうか? 妄想にふけるのはよすがいい。その代価を計算し、もしキリストの十字架を負いたくないというのであれば、自分の農地か自分の商品のところに立ち去り、それらを精一杯活用するがいい。ただ一言だけ、あなたの耳に囁かせてほしい。「人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう」[マコ8:36]。 

 II. 事実を考察したので、第二のこととして、《それをさらに詳しく述べてみよう。》

 キリストの御名を堅く保つとはいかなることだろうか? 答えよう。第一に、その御名の《神性》を堅く保つことである。私たちは、私たちの主の、真の《神格》を信じている。「その名は『不思議な助言者、力ある神……』と呼ばれる」[イザ9:6]。主が私たちに啓示された名前の1つはインマヌエルである。「エル」という言葉は、東洋語による大いなる神の御名の1つにほかならない。それはヘブル語のエロヒムにも、アラビア語の「アラー」にも含まれている。私たちの主イエスはインマヌエル、すなわち、私たちとともにおられる神なのである。そして私たちは主をそのようなお方と信じている。主は、私たちのだれにも劣らず真実に人間である。原罪の汚染なしに処女からお生まれになった人間である。しかし主は、《神格》のあらゆる完全さと栄光をひとかけらも欠いていない、正真正銘の神でもあられる。私たちは釘の傷跡に指を差し込みつつ、それと同時に、「私の主。私の神」、と叫ぶのである。「神の御使いはみな、彼を拝め」。「イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられる」[ヨハ20:28; ヘブ1:6; ピリ2:10-11]。私たちは、私たちの主イエスの《神格》を信ずる信仰を手放すことはできない。私たちは、キリストの《神性》に対する信仰を堅く保たなくてはならないし、堅く保つであろう。

 私たちがイエスの御名と、イエスに対する信仰を堅く保つのは、その御名の王権についてでもある。主は、ユダヤ人の王として生まれた。また、「王の王、主の主」でもあられる[黙19:16]。ピラトが主の十字架の上に書いた言葉――「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」――は正しい。だが、神は、さらに主を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになり、御手のすべてのわざを治めさせなさった。御父はすべてのさばきを御子にゆだねられた。彼はあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼす。その支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからである。「主は、とこしえまでも統べ治められる。……ハレルヤ!」[詩146:10] 私たちが、「御国を来たらせたまえ」、と膝をついて祈るとき、それは神の国のことであり、キリスト・イエスの御国のことでもある。キリストこそ、あの御座の正面にいて、聖徒たちと御使いたちから賛嘆と尊崇を受けておられた小羊である[黙5:12-13]。まもなく第七の御使いがラッパを吹き鳴らし、天に大きな声々が起こるのが聞こえるであろう。「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される」[黙11:15]。おゝ、イエスよ。私たちはあなたのまえにひれ伏すであろう! 「あなたの道は正しく、真実です。もろもろの民の王よ」[黙15:3]。主は、私たちの心の中で、私たちの性質の三重の王国を支配しておられる。私たちの家庭の王であられる。私たちは、主がこの町で王となり、この国で王となり、全世界で王となるのを見たいと願う。そして、人類の贖われたすべての者とともに、主にすべての主としての冠を捧げるときまで決して満足しないであろう。私たちはイエス・キリストの御名の王権を堅く守るものである。

 さらに私たちは、その御名の、最初であり最後である威光を信ずる。新約聖書を開き、マタイの最初の節を読むがいい。それはどのように始まっているだろうか? 「ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」。新しい契約の書はイエスによって始まるのである。それでは最後の節を眺めて、新約聖書がどのように終わっているか見てみるがいい。「主イエスの恵みがすべての者とともにあるように。アーメン」。イエス・キリストは最初の節に現われ、最後の節に現われる。主はこう云われなかっただろうか? 「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である」[黙21:6; 22:13]。恵みの契約の最初の行はイエス・キリストである。恵みの契約の最後の行はイエス・キリストである。そして、その間のすべては主イエス・キリストである。主をAとして始めて、B、C、D、E、F、とずっと下って行ってZまで達しても、それはみなキリスト・イエスである。主はすべてである。主の御名によって私たちは罪の赦しを受けており、主の御名によって義と認められ、主の御名によって聖化され、主の御名によって栄化される。それは、主のうちにあって私たちが世界の基の置かれる前から選ばれていたのと全く同じである。私の舌は、主の偉大さの糸口すら全然告げることができない。彼の時代のことを、だれが話すことができようか。その無限の栄光のへりにあたる衣のふさに、だれがさわることができようか。主は言葉に尽くすことができない。主の栄光については、こう云えるであろう。「私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。あなたはご威光を天に置かれました」[詩8:1]。神がご自分の民を時の間においても、永遠においても富ませようとなさったすべての祝福を一身におさめておられるお方に、願わくは、あらゆる栄光と誉れが帰されるように。

 私たちがキリストの御名を堅く保つのは、その救いに至らせる力を信ずるときである。「その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」[マタ1:21]。私たちは、イエスが十字架上で私たちの咎をご自分の肉体に負ってくださったことにより、自分たちの咎から救ってくださるという信仰の内容を堅く保つ。私たちは、イエスがその義によって私たちを神の前で義としておられることを確信している。イエスの義は私たちのものである。私たちは彼と1つだからである。彼は私たちを罪の罰から救ってくださる。「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし」たからである[イザ53:5]。彼は私たちに代わる犠牲として死なれた。その御霊によって、またその死に対する信仰によって、私たちを罪の力から救ってくださる。私たちは小羊の血によって罪に打ち勝つ。救いは、そのあらゆる部分において――その希望に満ちた夜明けから、それが完成する栄光の絶頂に至るまで――、全くキリスト・イエスによるものである。彼は救い主であり、他にはいない。「世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていない」[使4:12]。彼は無二の救い主である。今も、来たるべき世においても、他のいかなる救いも到底ありえない。あなたはキリストを信じているだろうか? ならばあなたは救いを有している。「しかし、信じない者は罪に定められます」[マコ16:16]。たとえ、自分の好みに合わせてこの言葉を強く云い切ろうが弱くつぶやこうが、結局のところ何も変わらない。――あなたは罪に定められる。絶望的に罪に定められる。イエス・キリストを信じようとしない限りそうなる。キリストは、人々の罪のための唯一のなだめの供え物である。このことを私たちは堅く保つ。愛する方々。むろんあなたは、こうした真理に堅く立っているはずである。自分の生ある限り、それを保とうとし、主ご自身があなたに伝えてくださった信仰を捨てようとはしないはずである。

 さらに1つ、私たちはこの御名をその不変性において堅く保つ。今日の私たちは、今は進歩の時代である、それゆえ改善された福音を受け入れなくてはならない、と告げられている。だれもが自分自身の律法学者となり、自分自身の救い主となるべきなのだ、と。私たちは、煙突の一本一本が自分の煙を処理するのと全く同じように、だれもが自分で自分の罪を始末するという方向に進みつつある。しかし、愛する方々。私たちはこうした与太話を信じはしない。何の新しい福音も、何の現代の救いも必要ない。私たちの確信するところ、イエス・キリストは、「きのうもきょうも、いつまでも、同じです」[ヘブ13:8]。パウロが天国へ行くため辿った道で私には十分である。

   「聖い預言者らの行きし道、
    追放されし後から続く路」

は、私にとって十分に広く、十分に安全である。私は、すでに眠りについた、キリストにある自分の兄弟――死顔に勝利を輝かせて逝った兄弟姉妹を思い起こすとき、彼らを救った救いに全く満足を感ずるものであり、他の何かを試したり、思弁を巡らそうという気は全く起こらない。私たちの完璧な救い主を改良しようなどと語るのは、彼に対する侮辱である。彼は神によるなだめの供え物なのである。それ以上に何をあなたは望むのか? 私は福音を改良するなどという考えに対し、憤りのあまり血が逆流するのを覚える。世にはただひとりしか救い主はおらず、そのただひとりの救い主は永遠に同じである。彼の教理はどの時代にも同じである。「しかり」と同時に「否」であるようなものではない。私たちが天国の大いなる集いに立ったとき、もしもある者らは紀元一世紀の福音によって救われ、別の者らは二世紀の福音によって救われ、また別の者らは十七世紀の福音によって救われ、さらに別の者らは十九世紀の福音によって救われていたとしたら、何と珍妙な結果になるであろう! そこには、こうした時代ごとの受益者らのために、異なる賛美歌がなくてはならなくなり、そのごた混ぜの合唱は、唯一の主への賛美というよりも、人間の文化の栄光をたたえるものとなるであろう。だが、そのようなまだら模様の天国や、そのような不協和音の歌は、決して生み出されるはずがない。世には唯一の教会と、唯一の救い主しかない。私たちは、ひとりの主と、1つの信仰と、1つのバプテスマを信ずる。永遠の栄光に至る道は1つしかない。そこを歩むには、1つの真理を堅く保ち、1つのいのちによって生かされなくてはならない。私たちは、私たちの主イエス・キリストの、混じりけない、不変の、永遠の御名によって堅く立つものである。これこそ、イエスの御名とイエスに対する信仰を堅く保つという意味である。

 III. 第三に、愛する方々。この筋道をさらに辿って先へ至るために、《私たちにとって、その御名と信仰が、実際上いかなる立場を占めているかを示そう。》 その実際的な位置とはこうである。まず最初に、それは私たちの個人的慰めである。――

   「イエス、その御名に 恐れ失せ
    われらが悲嘆(なやみ) ひたとやまん。
    そは罪人の 音楽(しらべ)にて
    いのちと健康(いやし)、平安(やすき)なり。」

私たちの保つ信仰は、私たちの日ごとの、一刻ごとの喜びと望みである。私が、自らの頼みとする天来のお方について信じている諸教理は、私の疲れを癒す枕であり、私の心気を和らげる妙薬であり、私の霊にとっての安息である。イエスは私に、来たるべき天界の事がらを眺め渡させると同時に、感謝とともに過ぎにし年月を振り返させることがおできになる。いついかなる時も、主イエスは私たちの心の満足である。何物も彼の愛から私たちを引き離すことはできず、それゆえ何物も私たちの自信に満ちた希望を奪うことはでなきい。このほむべき御名と、このほむべき信仰を通して、信仰者自身が喜ばされ、強くされる。イエスの御名によって私たちは養われ、その御名によって身を包む。それは私たちの弱さにかわる強さ、しかり、私たちの死にかわるいのちである。

 また、愛する方々。この御名と、この信仰――これらは私たちの使信である。私たちの地上における唯一の務めは、「見よ、この小羊を」、と叫ぶことである。あなたがたの中に、それ以外の使信を携えて神から遣わされている者がいるだろうか? ありえない。神がその御民に告げ知らせるように与えた唯一の使信は、この小羊を通しての救い――イエスの血による救いである。その血によってこそ、汚れた者へのきよめがもたらされる。彼こそ、唯一の偉大ななだめの供え物である。イエスについて語ることこそ、私たちの務めである。キリスト・イエスによって神から与えられた啓示に含まれていないことについては、何も云うことはない。私たちの唯一の慰めであるお方こそ、私たちの唯一の主題である。

 キリストは、聖職者の働きにとって唯一の権威でもある。私たちはイエス・キリスト、私たちの主の御名によって福音を宣べ伝える。もし私たちがそれ以外の名によって福音を宣べ伝えるとしたら、人々には、それを拒否する権利があるであろう。もし霊的に病んだ人が癒されるとしたら、彼らを強くするのはキリストの御名である。もし悪霊どもが私たちの前から逃げ去るとしたら、それはキリストの御名によって追い出されているのである。おゝ、願わくは私たちが、自分の教えと説教のすべてがイエスの御名によってなされなくてはならないことを、より頻繁に思い出すように! その御名によって私たちは礼拝に集まり、その御名によって集会に赴く。もし私たちが自分自身の名によって行くとしたら、それはむなしい。だが、もし私たちが神の使節であり、ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようであるなら、私たちは、キリストに代わって人々に願う。神と和解を受け入れるがいい、と。そして私たちは、自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを期待できるのである。

 これは、説教における私たちの力でもある。実際、それは神の前に生きる私たちの力、私たちの唯一の力である。兄弟たち。悪魔は他のいかなる名によっても決して追い出されないであろう。――この事実を堅くにぎりしめようではないか。もし私たちが雄弁や、才能や、音楽や、その他もろもろによって追い出そうとしても、かの悪い者は云うであろう。「自分はイエスを知っているし、パウロもよく知っている。けれどおまえたちは何者だ」、と。彼の御名だけが地獄のレギオンを、とりついた人の胸から立ち退かせ、泣きわめきながら深い所に逃げ落とさせるのである。これこそ、すべてにまさって高い御名である。これほど力のこもった御名は他に1つもない。霊的な病は、しかり、死そのものが、この御名には屈するであろう。彼の御名こそ、ラザロを墓から出て来させ、あの青年を棺の上で起き上がらせるものである。この御名を用いるならば、あなたの前に立ちはだかれる物はない。私は、これはいのちにおける私たちの力であると云ったし、実際その通りである。神に近づくとき私たちは、何の力によって自分の祈りに効を奏させるのだろうか? それは、イエスの御名によって願うことではないだろうか? もしイエスの御名を云い落とすとしたら、その祈りはやかましいどらや、うるさいシンバル以外の何だろうか? イエスの御名を抜きにした祈りは、神のもとへ天翔る翼がないのである。この黄金の梯子によって私たちは、神の御座までのぼっていき、言葉に尽くせぬ尊いものを《永遠者》の御手からいただくのである。その御名は、あらゆることについて神を説き伏せ、そのようにして私たちが人を説き伏せられるようにする。それゆえ、それを堅く保ち、信仰を捨てないようにするがいい。なぜなら、もし真理とイエスの御名を手放したとしたら、あなたに何ができるだろうか?

 この御名のほかに、私たちの勝利の希望はない。コンスタンティヌスが夢に十字架を見、「汝この印にて勝て」という文字とともに、それを自らの旗印にしたのと同じように、今日の私たちが福音の勝利のためにいだける唯一の希望は、キリストの十字架が福音を現わし、キリストの御名が福音のうちにある、ということにほかならない。私たちには、主の御名がつけられている。主の御名によって私たちは、悪霊を追い出し、多くの力あるわざを行なうであろう。そして、やがて主の御名は、太陽がその行路をひた走り、月が夜番を慰める所では、いずこでも知られ、尊ばれるようになるであろう。

 IV. さて、しめくくりにあたり私は、《イエスの御名と、イエスに対する信仰を堅く保つべき理由を強く主張しよう。》 自分の目の黒い限り、決してそれを手放すことがありえないほど、私たちがそれを堅く保つようになれば、どんなによいことかと私は思う。イグナティウスに関する古いキリスト教の伝承によると、彼は自分の愛するイエスの御名を口にせずに話すことは決してなかった。彼の言葉は、その主に対する愛で浸っていたように思われ、彼が死んだときには、イエスの御名が彼の心臓の上に刻印されていたのが発見されたという。これは文字通りにそうだったわけではないかもしれないが、疑いもなく霊的には真実であった。イエスの御名が、私たちの生き方から分かちがたいほど私たちの心に書きつけられたなら、どんなによいことだろう。他の何がなくなっても、イエスの御名が私たちの思いから離れ去ることは決してありえない。臨終を迎えた人々は、あらゆることを忘れてもこのことだけは忘れなかったといわれる。その人は自分の妻も、子どもたちも、親友も忘れ果て、彼らが赤の他人であるかのように、彼らを認めずに顔をそむけた。だがしかし、イエスの御名が彼の耳に囁かれるや、その目は輝き、顔つきはその尊い御名に反応した。おゝ、記憶よ。たとえお前の銘板に書きつけられた他のいかなる名前が消え失せても、この御名だけは残しておくがいい! 他のすべてを拭い去ろうと、栄光に輝くその御名だけは残しておく、この幸いな忘却よ! そうなるための助けとして、私はその問いをこう云い表わしてみよう。なぜその信仰を手放さなくてはならないのだろうか? 私には何の理由も見当たらない。私はなぜ自分の信仰の内容を変えたり、キリスト・イエス、私の主の御名を堅く保つのをやめなくてはならないだろうか? それは、まるで筋の通らない提案である。「私は道理に服すであろう」、と自分の論拠を知っていたある人は云った。「私は道理に服すであろう。だが、私を納得させられるような人に会ってみたいと私は思う」、と。私たちの主イエスの福音について私は、これと非常によく似た状態にある。私は道理に服すであろう。だが私は、私の経験、私の確信、私の自覚、私の希望、私のすべてを離れ去るように私を納得させられるような人には決して会うことがないであろう。主イエス・キリストの代償的なみわざに対する私の信仰を、また、あの萬具(よろず)備りて鞏固なる永久の契約に対する私の確信を捨て去るようなことがあるとしたら[IIサム23:5 <文語訳>]、その前に私は、粉々にすりつぶされ、ばらばらになった原子一粒一粒が別の組成に変えられなくてはならないはずである。

 人はこの信仰の代わりに何を私たちに与えるのだろうか? そう問うのはたやすいが、答えるのは不可能である。かりに、恵みの教理を跡形もなくし、私たちの希望を取り去ることができたとしても、彼らはそれらの代わりに、現世においても来世においても、何を私たちに与えようというのだろうか? 私は、福音にとってかわるものとして、1秒の考慮に値するような何かが提案されるのも決して見たことがない。あなたはあるだろうか? 不安定さ、疑い、安ぴかの模造品、まがいもの、曖昧さ、――こういったすべてである。だが、そのようなものをだれがほしがるだろうか? 彼らが私たちに差し出すのは、あぶくか汚物であり、そのどちらになるかは、相手がいかなる性格の空論家であるか次第である。だが私たちはそのどちらにも懸想したりしない。私たちは金滓よりは黄金を好む。

 私たちは信仰を大切に守らなくてはならない。というのも、もし私たちの父祖たちがそれを守り抜かなかったとしたら、私たちはどうなっていただろうか? もし信仰告白者や、宗教改革者や、殉教者や、盟約者たちが怯懦にかられてイエスの御名とイエスに対する信仰を裏切っていたとしたら、今日の教会はいかなる状態になっていただろうか? 私たちは、彼らのように男らしくふるまわなくてはならないのではないだろうか? そうしないとしたら、自分の父祖たちをとがめることになるのではないだろうか? ルターと彼の勇敢な行ないについて読むのは、非常に結構なことではある。もちろんルターをほめそやさない人はいない! しかり、全くそうである。だが、だれか他の人が今日同じことをするのを人は望まない。動物園に行けば、人はみな熊をほめそやす。だが、家の中に熊がいるとしたら、あるいは、通りを熊がうろついているとしたら、あなたはどう思うだろうか? そんなことは耐えられない、と云うであろうし、疑いもなくあなたは正しい。そのように私たちは、信仰に堅く立っていた四百年くらい前の人のことはほめそやす。過去の時代は、その人を閉じ込めておく一種の熊の穴か、鉄の檻なのである。だが、今日ではそういう人は厄介者であり、黙らせなくてはならない。そうした人のことは、頑迷固陋と呼ぶがいい。さもなければ、考えうる限りの、もっとひどい悪名をつけるがいい。しかし考えてもみるがいい。そうした過去の時代に、ルターや、ツヴィングリや、カルヴァンや、彼らの同輩たちがこう云ったとしたら、どうなっていただろうか。「世界は滅茶苦茶になっている。だが、もしわれわれがそれを正そうとしたら、大騒動になり、われわれの評判は地に落ちるだろう。ここは1つ寝室にこもって、夜着帽をかぶり、悪い時世は寝て過ごすことにしよう。ひょっとすると目覚めたときには、物事が好転しているかもしれない」、と。彼らがそのようにふるまっていたとしたら、私たちには過誤の遺産が譲り渡されていたであろう。時代は際限なく地獄的な深みに陥って行き、過誤の危険な泥沼がすべてを呑み込んでいたであろう。だが、こうした人々は、イエスに対する信仰とイエスの御名をあまりにも愛していたため、それらが蹂躙されるのを到底看過できなかった。私たちがいかに多くを彼らに負っているかに注目するがいい。そして私たちも、自分の父祖たちに負っている負債を、自分の子孫たちのために支払おうではないか。それは、宗教改革者たちの時代と同じく、今日なされなくてはなくてはならない。決断が必要である。ここには勇者が立ち上がるべき機会がある。では、その機会を受けて立つ勇者はどこにいるだろうか? 殉教者たちの手から福音を渡された私たちは、絶対にそれをいいかげんに扱ったりしないようにしようではないか。あるいは、それを愛するふりをしながら、心の底ではそのあらゆる傾向を忌み嫌っている裏切り者どもによって、それが否定されているのを、黙っておとなしく聞いているようなことはしないようにしようではないか。私のいだいている信仰には、私の先祖たちの血の痕がしみついている。その彼らの信仰を――彼らが生国を捨て、この国に寄留してまで守り抜いた信仰を――私が否定してよいだろうか? 牢獄の鉄格子越しに手渡されたその宝を――スミスフィールドの火炎に焦がされたその宝を――私たちが打ち捨ててよいだろうか? 個人的なことを云うと、私は体の節々がリウマチで激しく痛むとき、ジョブ・スポルジョンのことを思い出す。疑いもなく私の家系に繋がる彼は、チェルムズフィールド監獄に入れられたとき、リウマチの痛みのため横たわることができず、一脚の椅子を与えられなくてはならなかったほどであったという。そのクエーカー教徒のつば広帽子は、私の額に影を落としているのである。もしかすると私のリウマチは彼譲りのものかもしれない。だが、もし私が、神の真理は一言半句たりとも放棄すまいとする彼の頑強な信仰をも譲り受けているとしたら、私には何の文句もない。他の人々が信仰のためいかに苦しんできたかを思うとき、ちょっとした軽蔑や意地悪など、口にする価値もない、つまらぬ些事としか思われない。信仰を愛した人々の血筋によって私たちは、父祖たちの主である神の側にとどまり、彼らが生き抜いた信仰の側にとどまるように、大きく心動かされてしかるべきである。私について云えば、私はこの昔からの福音を保たずにはいられない。それ以外には何もできない。神の助けがあれば私は、世間で強情さの報いとされるものをも、耐え抜くであろう。

 先のことを考えてみるがいい。方々。やがて来たるべき時代があるのである。もし主がすみやかに現われてくださらないとしたら、じきに別の世代が生まれ、その次の世代が生まれるであろう。そして、こうしたすべての世代は、私たちが今日、神とその真理に忠実でなければ、毒され、傷つけられることになるのである。私たちは道の分岐点に達している。もし私たちが右に曲がれば、私たちの子どもたちや、子どもたちの子どもたちも、その道を行くことになるかもしれない。だが、もし私たちが左に曲がれば、まだ生まれていない数々の世代が、私たちの名を、神とそのみことばに不忠実であったゆえに呪詛するであろう。私は、あなたの先祖のためばかりでなく、あなたの子孫のためにも、あなたに命ずる。あなたの創造者の賞賛をかちとるように努めるがいい。たとえあなたの住んでいる所にサタンの王座があろうと、主の御名を堅く保ち、主に対する信仰を捨てないようにするがいい。願わくは神が、私たちの周囲の魂のために、私たちに忠実さを与えてくださるように! 教会がその主に不誠実であったとしたら、世がいかにして救われるだろうか? 私たちの梃子が外されているとしたら、いかにして私たちは大衆を持ち上げることができるだろうか? 私たちの福音が不明確だとしたら、つのりゆく悲惨と絶望のほか何が残るだろうか? 私の愛する方々。神の御名において、堅く立つがいい! キリストにあるあなたがたの兄弟である私は、あなたがたに懇願する。真理にとどまるがいい。男らしく、強くあるがいい。主があなたがたをイエスのゆえに支えてくださるように。アーメン。

信仰を堅く保つ[了]

-------

HOME | TOP | 目次