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神の忍耐:良心への訴え

NO. 1997

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1886年秋の説教
説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい」。――IIペテ3:15


 イエスはまさに「私たちの主」と呼ばれて良いお方である。冒頭に当たり、主をあがめようではないか。各人が、「私の主。私の神」[ヨハ20:28]、と主に叫ぼうではないか。すでに私たちの主が天に上られてから久しいが、主は再びおいでになると云われた。明らかに、主を最も良く理解していた人々の何人かは主を解しており、自分たちの生きている間にさえ主が再臨するに違いないと考えていた。むろん主は再び来ると云われたし、あらゆる時代の忠実な者たちは主を待ち望んできた。また、私たちの主が私たちを騙すようなことがあったはずがない。主がかくも甘やかに私たちの主であられる以上、代々の兄弟たちは必ずや主は約束をお守りになると確信してきたし、主も確かにその約束をお守りになるであろう。しかし、彼らの一部は主の約束を越えて進み、主がいつおいでになるかが確実に分かっていると感じたあげくに、苦い失望を味わってきた。自分たちの定めた日時が過ぎても主は現われなかったからである。だからといって、主がおいでにならないという証拠にはならない。その日は確かに近づいているし、時々刻々、主の来臨は早められている。「見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目……が、彼を見る」[黙1:7]。

 しかし、なぜ、主の車の歩み[士5:28]は遅々としているのだろうか? なぜ主は遅れているのだろうか? 世界は、年齢を重ねたためばかりでなく、不義のためにも灰色になりつつある。だがしかし、《解放者》はおいでにならない。私たちは真夜中に主の足音を待ち受け、朝の門越しに主を見張って待ち、昼の最中に主を期待し、もう一度日没となる前に主はおいでになるかもしれないと思う。だが、主はここにおられない! 主は待っておられる。非常に非常に長く待っておられる。主はおいでにならないのだろうか?

 忍耐こそ主のおいでを引き留めているものである。主は人間たちを忍んでおられる。まだ雷電の時ではない! まだ天が裂け、地がよろめく時ではない! まだ、かの大きな白い御座[黙20:11]と最後の審判の日ではない。主は非常に情け深く、人間たちを長いこと忍んでくださる! 日夜叫んでいるご自分の選民たちの叫びに対してさえ、あわててお答えにはならない。――主は非常に辛抱強く、怒るのにおそく、恵み豊かである[詩103:8]からである。

 しかし、主の辛抱は、時として私たちを非常に当惑させることがある。私たちにはそれが理解できない。十八、九世紀も経というのに、世界は回心していない! 十九世紀を経ても、サタンはなおも大手を振ってのし歩き、ありとあらゆる形の不義がなおもこのあわれな、血を流しつつある世界を傷つけ続けている! これはどういうことだろうか? おゝ、神の御子よ。これはどういうことでしょうか? 女の《子孫》[創3:15]よ。いつあなたは、かの蛇の頭の上に御足をお載せになるのですか? 私たちは、これほどうんざりするような遅れを引き起こしている忍耐に当惑させられる。

 その1つの理由は、私たち自身にあまり忍耐がないからである。私たちは、反抗的な者に対して怒っても当然だと思い、そのようにしてイエスよりはヨナに似た者となってしまう。ごく僅かながら、不敬虔な人々に対する辛抱強さと憐れみを身につけている人々もいるが、それよりずっと多くの者らは、ヤコブやヨハネのような精神をしている。《救い主》を拒絶するような者どもには天から火を呼び下したがるのである[ルカ9:54]。私たちは、それほどに性急なのである。私たちには、神のような永遠の余裕がない。蜻蛉のように、僅かな日数を生きるしかない。それゆえ、遮二無二すべてのことが日没までに成し遂げられるのを見たがる。私たちは、存在という森に茂る木の葉のようなものである。もし何かがすぐに、また、急速になされないと、色褪せて、過ぎ去って、見果てなかった希望だけが残る。それで辛抱できないのである。それで、《主人》から七度を七十倍するまで赦せと告げられると愕然とするのである。それで、主が七度を七十倍するまで赦し、なおも待ち、なおもその雷鳴を引き留められるとき、驚嘆するのである。なぜなら、私たちの思いは、この《無限に辛抱強い》神の思いと調和していないからである。

 また、それにもまして私たちがみな当惑するのは、不敬虔な者がこの神の忍耐を手ひどく悪用し、さらに大きな罪を犯す云い訳にしたり、神がおられることを完全に否定する根拠としているからである。神が彼らに悔い改めの余地を与えておられるため、彼らはそれを不義を犯す余裕としている。そして、神がその審きを迅速に下さないために、彼らは云うのである。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか」[IIペテ3:4]、と。

 私たちは、神が沈黙を破られれば良いのにともどかしがる。私は、自分の心の奥底でこう叫んでこなかっただろうか? 「おゝ、主よ。いつまでですか? このようなことが、これ以上続くことがありえるでしょうか? あなたにこれが耐えられるのでしょうか? 鉄の杖をもってあなたはやって来て、あなたの敵どもを打ち砕かれないのでしょうか。雄々しい神の御子よ」。冒涜の時代、私たちに対する非難の声が増し加わり、敵が至る所で、「彼らの神は、いったいどこにいるのか」[詩115:2]、と云うのを聞くのはつらいことである。だが、愛する方々。こうした蛇どもの歯擦音に動ずるべきではない。確かに私たちは、人間たちが愚かな嘲罵を発しているからといって、私たちの神にその目的を変えていただきたいとは思わない。ある人は云った。「もし神がいるとしたら、俺様を打ち殺してみるがいい」。だが神は彼を打たれなかった。それで、このことから彼は神などいないと論じた。だが私は、同じ事実から神はおられると論じるものである。この神は、まことに神であられる。というのも、もし神がまことに天来のお方でないとしたら、彼を打ち殺していたであろうからである。だが、無限に辛抱強くあられるため神は、なおも彼を忍ばれたのである。この小さなしみは何者なのか? 神の御手や御足を動かして自分を踏みつぶさせてやろうなどというこの小粒は? 神は簡単には動かされない。不敬虔な者がいかに冒涜しようと関係ない。いずれそのうち、神は怒りを発される。忍耐にも限りがあるからである。だが、しばらくの間、主は憐れみによって立ち止まっており、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられる[IIペテ3:9]。

 愛する兄弟たち。咎ある世に対するご自分の忍耐を、神が私たちに説明しなくてはならない義理は全くない。この世には私たちが説明を求めてはならない多くのことがある。私たちは大水の中に、また、すさまじい苦難の中に陥ると、ぜがひでもすべての説明をしてもらわなくてはならないと思う。だが私としては、自分の理性を越えた偉大な真理を信じたい。何の神秘もないキリスト教信仰など、私からすれば、見ただけで偽りと思われる。もし無限の神がおられるとしたら、あわれな私が、この有限の精神をもって、このお方についてすべてを理解できるなどということはありえない。もし主が何千年も過ぎ去るまで、しかり、何百万年も経過するまで事を引き延ばそうというのであれば、お望みのままに行なって構わない。神は無限に賢く、いつくしみ深くあられないだろうか? そして、私たちは何様だからといって神を難詰しようというのか? 神はお好きなだけ遅れて構わない。ただ私たちは油断せずに、待っていよう。というのも、主はやがて来られ、主を待っている者たちは報いを受けることになるからである。

 私は今回この点について少しく語りたいと思う。第一に、神の忍耐を賞賛しよう。そして第二に、それを正しく判断し、それを救いであると考えよう。

 I. 第一に、あなたがたの思いを、いくつかの点について足早に案内したい。それらはあなたが、《神の忍耐を賞賛する》助けとなるであろう。

 神の忍耐を、具体的なもろもろの罪について賞賛するがいい。見よ、兄弟たち。人々は木や石で像を作っては、「これが神だ」、と云い、こうしたしろものを天地を造られた神の座に据えている。いかにして神は、理性を有する存在が偶像の前、呪物の前、下劣きわまりない物の前にひれ伏しているのを忍ばれるのだろうか? いかにして神は、人々がけがれの象徴をさえ礼拝し、それを神と云っていることに耐えられるのだろうか? いかにして耐えられるのだろうか?――天の御座に座し[詩2:4]、私たちの息と、私たちのすべての道をその手に握っておられる[ダニ5:23]お方が。

 他の人々は、この国においてさえ、神を冒涜している。この町では、どれほどの神聖冒涜が神の御前に注ぎ出されていることか! 町通りを歩けば、身の毛もよだつほど恐ろしい言葉を聞かずにすますことはほとんどできない。ある種の悪態はしばしば私を骨の髄までぞっとさせる。――いかに例外的な状況であれ決して弁解できないような悪態が、人の口から日常茶飯的に転がり出てくるのである。今日のこの国には、冒涜にかけては悪魔にも匹敵する者らがいる。それほど口汚く語るのである。そして、おゝ、いかにして神は、彼らが自分のからだと自分の魂に神の呪いあれと祈っているとき、それをお耐えになるのだろうか? おゝ、御父よ。いかにしてあなたはそれにお耐えになるのですか? いかにしてあなたは、こうした、面と向かってあなたを侮辱する卑俗な者どもを忍ばれるのですか?

 それに加えて、ある人々は立派な言葉遣いをしながらも、最も耐えがたいしかたで冒涜を行なっている。教育のある、科学知識を有する人々は、しばしば一般庶民にも劣っている。なぜなら彼らは、恐ろしい深慮をもって冒涜し、神に逆らい、御子に逆らい、その尊い血潮に逆らい、聖霊に逆らって厳粛に語るからである。いかにしてこの《三重に聖なるお方》が彼らをお耐えになるのだろうか? おゝ、《恵み深い神》のくすしい忍耐よ!

 それから他の人々は、口にすることもできないような汚辱と汚れの中を転げ回っている。しかり。私はいかなる描写も試みはすまい。人々が考えただけでも赤面するだろうような事がらに、あなたを思い及ばせたいとは思わないからである。だが彼らは、赤面もせずにそれを行なっているのである。月は、不潔と不品行と姦淫の世を見ている。だがしかし、おゝ、神よ。あなたはそれにお耐えにな! 世界の面にはりついたこの大きな汚点、ロンドンというこの巨大な町はその不浄さで煙っている。だがしかし、あなたは沈黙を守っておられる!

 それから、私の思いを別の方面に向け、貧者への抑圧を取り上げよう。いかに激しく働いても、からだや魂を守るに足る糧を稼ぐことがほとんどできない人々が、いかに虐げられていることか。いかにして《正義の神》[イザ45:21]がそれをお許しになるのだろうか? 私が人による人の抑圧に気づくとき――というのも、野生動物の間には、人が人に対して行なうような残虐さに等しいものは全くないからである。――いかにして《あわけみに富み給うお方》がそれを耐えられるのだろうか? 主の剣はしばしばその鞘の中でカタカタ揺れているに違いないと思う。そして、主はそれを抑えつけて、仰せになっているに違いない。「主の剣よ。休んで静まれ!」*[エレ47:6]、と。

 これ以上は云うまい。切りがないからである。不思議なのは、《恵み深い神》がこうしたすべてを耐え続けておられるということである! 偽りの教えに伴う罪について考えみるがいい。ある日、私はローマで「ピラトの階段」の下に立ち、そこを両膝で這いずって上り下りしているあわれな人々を見たことがある。彼らはそれが、主イエス・キリストがピラトの前に立たれた、まさにその階段であると教えられていたのである。見ると種々様々な司祭たちが眺めており、彼らもそれが詐欺であると知っていることはまず間違いないという気がした。もしも主がその雷電を、五分間でも私に貸し与えてくださるとしたら、私はそこら一帯をきれいに一掃していたであろう。だが、神はそうした類のことを全くなさらなかった。私たちのように性急ではないのである。時として、さっさと片づけてしまいという思いが、短気な精神をした者の心に浮かぶことがある。だが、主は辛抱強く、情け深い。

 特に次に注意したいのは、神のこの忍耐が具体的な個々人のうちに見られるということである。ある人々の場合、その罪は、別の人々の場合よりも重いものとなる。彼らは、繊細な良心や、良い指導に恵まれてきたため、彼らが罪を犯すときには、徹底的な罪を犯すのである。私の知っているある人々は、神の祭壇のもとに立っていながら、その宮から出て来てはそむきの罪を犯すのだった。彼らは神の聖所のレビ人たちであったが、無頼漢の中でも頭株であった。

 神のこのような忍耐が不思議に思われるのは、ある人々が罪を犯す具体的な状況を眺めるときである。一部の人々は神に対して故意に罪を犯す。何の誘惑にもさらされておらず、いかなる必然性も申し立てることができないとしても関係ない。もし貧しい男が盗みをするとしたら、私たちは半ば彼を赦してやるであろう。だが、ある人々が盗みをするときには、心の願いうる限りのものを有しているのである。ぎりぎりの所まで追いつめられた男が、真実ではないことを口にしたとき、私たちは半ば彼を勘弁してやった。だが一部の者らは故意の嘘つきで、それによって何の得や利益がなくともそうするのである。ある人々は純然と罪を愛するがゆえに罪を犯す。罪ゆえの快楽のためでも、罪によって得られると期待される利益のためでもなく、単なる放埒さからそうする。敬虔な両親のもとに生まれ、あなたのような敬虔さの学び舎で訓練を受け、自分の良心の中でも分かっている通り、主イエスが神の御子であると知らされたあなたが主に対して罪を犯すとき、あなたのもろもろのそむきの罪は、痛ましいほど重いものとなっているのである。私が語りかけているある人々は、これほどはなはだしく重い罪を犯してきた後でも、なおも自分が生きていることを不思議に思って良い。

 ある人々が神の忍耐を非常に不思議なしかたで明らかに示すのは、彼らが罪を犯すことを許され続ける時期の長さにおいてである。多くの人々は一度でも背かれると怒りを発し、それを忘れるようなことがあると、自分を忍耐の驚異であると考える。しかし多くの者は神を五十年、六十年、七十年、ことによると、八十年も怒らせ続けてきたのである。あなたは、ほんと些細な背反でも八十回は我慢できないであろうが、主はあなたを一生の間ずっと堪忍してくださった。あなたは神の家に今晩よろめき入ってきた。自分にはりついた罪の重さを思い出していたとしたら、いやまさってよろめいていたことであろう。だが、神のあわれみはあなたを容赦している。なおも、両腕を大きく延ばして、無限のあわれみはあなたに命じている。ここに来て、イエス・キリストの血で買い取られたあなたの赦罪を神の御手から受け取るがいい、と。この神の忍耐は驚嘆すべきである。

 思い出すがいい。神の側ではあなたを取り除く方が事は簡単なのだということを。ある聖句で神は云っておられる。「ああ。わたしの仇に思いを晴らそう」*[イザ1:24]。ある人々が耐えるのは、そうするしかないからである。彼らは屈伏するしかしようがない。だが神はそうした状態にはおられない。一瞬そう望みさえすれば、その罪人は二度と再び神を怒らせることはなくなる。二度と神のあわれみを拒否することはなくなる。彼は希望の土地からいなくなるであろう。それゆえ、私は云うが、神の忍耐がその不思議さを高められるのは、神がそうした忍耐を行使する必然性の下に全く置かれていないという事実によってである。その忍耐は、ただ神ご自身の愛からのみ発しているのである。

 私は、あなたがたの中の、いまだ回心していないすべての人々に懇願する。あなたに対する神の忍耐について真剣に考えてほしい。神はあなたがここにいることを許し、なおもキリストの十字架からこの招きを聞くことを許しておられる。「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ」[イザ45:22]。

 II. 第二に取り上げたいのは、《神の忍耐を正しく判断すること》である。「私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい」。これは、どういう意味だろうか?

 これは、まず最初に、多くの人々の救いのことを意味しているではないだろうか? 主イエス・キリストは、私の信ずるところ、何者にもまさる立場をお占めになる。主は、失われる者らの数とくらべた際の、救われる魂の数においても優位を占められると思う。そしてそれは、時の流れの中で多くの人々がキリストへと導かれなくては、まず実現が不可能である。しかしながら、私はいかなる思弁を論じているのでもない。私はこのように見ている。このくたびれた廃船が岩礁に向かって航行を続けている限りは、また、この船が完全にあの火の海に落ち込んでしまわない限りは、それは人間の救いを意味しているのだ、と。「救命艇を出せ! 救命艇に乗り組んで、できる限り多くの人数をあの船から救い出して、岸に連れて来い」。神は私たちに呼びかけておられる。この世が全く火で滅ぼされてしまうまで、私たちの渾身の力を込めて人々を救い出し続けよ、と。巡り来る一年一年は、救いの年と意図されている。私たちが、一年一年を「主の年」と呼ぶのは正しい。罪人たちをキリストの十字架に導くべき、いやまさる真剣な努力によって、よりそうしようではないか。この世が容赦されているのが、その断罪を増し加えるためだとは考えられない。キリストは世を滅ぼすためにではなく、世がキリストによって救われるために来られた。そのように私たちは、一年一年が経巡るたびに、それを救いと考え、あらゆる手段によって幾人かでも救えるとの希望によって、財を費やし、また自分自身をさえ使い尽くそうではないか。

 また、もしキリストの御国が来て、おびただしい数の人々が救われ、神を知ることが海をおおう水のように地を満たす[イザ11:9]はずだという、さらに明るい希望にふけることが許されるとしたら、そうなるがいい。しかし、常にこのことは前面に置いておくがいい。――すなわち、この神の忍耐は救いを意味しており、それをこそ私たちは目当てとすべきなのである。

 それで、愛する方々。第二のこととして、この聖句の次の意味はあなたがたの中のまだ回心していないあらゆる人々に対するものである。私は、あなたにこう考えてほしいと思う。あなたを容赦しておられる神の忍耐は、あなたにとって救いを意味している、と。あなたはなぜ今晩ここにいるのだろうか? 確かにそれは救いである。何年か前に、バラクラヴァの突撃の際に騎兵隊の一員であったという兵士に出会ったことがある。彼は、右や左の鞍上から、自分ひとりを残して人影が消えていく中で生きて戻った数人のひとりであった。私は片隅に行って、彼にこう云わずにはいられなかった。「あなたはこう思いませんか。あれほど多くの人々が戦場に斃れた中であなたが容赦されたことには、あなたに対する神の何らかの愛のご計画があるのだと。あなたは、神にあなたの心をおさげしていますか?」 私はそのことは云う権利があると感じたのである。ことによると、私が語りかけている中には、何年か前に難破船の中から救い上げられた人がいるかもしれない。なぜそうなったのだろうか? それは、あなたが救われるためであったと希望したい。最近あなたは熱病にかかり、ほとんど表に出ることができなかった。あなたは今晩、まだ弱っていて、ほとんど回復していないままここに来た。なぜあなたは、他の人々が切り倒されたあの熱病から救われたのだろうか? 確かにそれは救いを意味しているに違いない。いずれにせよ、あなたの命を救うほど情け深かった神は、今あなたに云っておられるのである。「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう」[詩50:15]。バニヤン師匠が子どもだったとき、彼は無鉄砲きわまりないことに、一匹の蝮が鎌首をもたげて襲いかかったとき、その頭を掴み、その口から牙を抜き取ったが、命に何の別状もなかったという。ノッティンガム包囲戦の折、彼が歩哨に立つ番になって出て行こうとしたとき、別の男が交代しようと申し出てくれたところ、その男は撃たれ、バニヤン師匠は難を逃れたという。私たちが『天路歴程』を読めるのは、こうしたことがあったからなのである。神は、彼が救われるように、あえて彼を守られたのではないだろうか? 世には、天来の摂理が特別に介入することがある。それによって神は不敬虔な人々の命をお救いになる。とうの昔に土地ふさぎ[ルカ13:7]として切り倒して良かったはずの人々をである。私たちはそれを、意図的なものとみなすべきではないだろうか? 不毛の木がもしや実を結ぶのではないかと、もう一年だけ面倒を見られいるということではないだろうか? 今晩この場にいるあなたがたの中のある人々は、今なお生者の国にいることがあなた自身にとっても不思議なはずである。――ぜひ願いたい。神の忍耐は救いであると考えてほしい。そこに救いを見るがいい。キリストを仰ぎ見るよう励まされるがいい。キリストを仰ぎ見るとき、あなたは救いを見いだすはずである。というのも、「十字架(き)の上(え)を仰がば いのちあり」だからである。神の忍耐を、他の誰のためでなくとも、あなたにとっての救いと考えるがいい。神の忍耐は、神がその選びの民の救いを働かせられる大いなる手段の1つである。神は、まず彼らが神に対して生きた者となるまで彼らを死なせることをなさらないであろう。まずご自分の無限の愛が、キリストの義によって彼らを義と認めるまで、彼らが永遠へと過ぎ去ることをお許しにならないであろう。

 このように私は、ここに出席しているある人々によって受け入れられると希望することを述べてきた。

 しかし、しめくくらなくてはならない。この聖句は、私には、神の民にも伝えるべきことを有しているように思われる。実際、それは彼らのためにこそ記されているのである。「私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい」。

 私は、この聖句の下に本当に横たわっているものを示さなくてはならない。神は、ご自分の選民から1つの叫びが立ち上っているのをお聞きになっておられる。こう書かれている。「神は、選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれるのでしょうか?」*[ルカ18:7] この神の長い忍耐は、神ご自身の民に大きな苦難と、苦痛と、悲しみと、大きな驚きと、魂の苦悩をもたらす。兄弟たち。あなたは、これを救いとみなすことを学ばなくてはならない。「それはどういう意味です?」、とあなたが云うのが聞こえる気がする。こういうことである。咎ある人々への神の忍耐によってあなたが呻かされ、叫ばされているという事実そのものは、あなたをキリストに共感させ、キリストに結び合わせるのである。キリストは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた[ヘブ12:3]。こう思うがいい。あなたは天来の忍耐の結果を耐えなくてはならないがゆえに、キリストとの調和と、共感と、一体性とに至らされることによって、救いを見いだすのだ、と。ひとりの人にとって救いとは、キリストと結託した者とされることである。もしあなたが不敬虔な人々の嘲りや冷やかしに耐えなくてはならないとしたら、――もし神が彼らの命を守り、彼らがあなたを迫害することを許しておられるとしたら、それを喜ぶがいい。また、それを救いとみなすがいい。というのも、今やあなたはキリストの苦難をともにしている[ロマ8:17]からである。それ以上のいかなる救いをあなたは願うだろうか?

 また、覚えておくがいい。不敬虔な者が義人を迫害するとき、彼らは救いの目印を与えてくれるのである。というのも、昔からそうだったからである。肉によって生まれた者は、御霊によって生まれた者を迫害した[ガラ4:29]。もしあなたが一度もののしられなかったとしたら、また、もし一度も中傷されたり、そしられたりしなかったとしたら、あなたがキリスト者であるなどと誰に分かるだろうか? しかし、不敬虔な者に対する神の忍耐ゆえに、あなたが苦しむとしたら、それをあなたの救いの目印と考えるがいい。「喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました」[マタ5:12]。

 もう一言。神の忍耐が不敬虔な者にあなたを中傷させ、傷つけさせることを許すとき、それを救いと考えるべきなのは、それがあなたを主の間近に追いやることによって、あなたの救いに役立つからである。そのことによってあなたは、自分の故郷をこの世に設けることが妨げられる。そのことであなたは、いやでも旅人、また寄留者とさせられる。それによってあなたは、キリストのはずかしめを身に負って、門の外に出て行かざるをえない[ヘブ13:13]。そして、このようにして、これほど耐えるのがつらく思われたことは、あなたに救いをもたらすのである。

 それゆえ、神の愛する子どもたち。互いに慰め合うがいい。主がそのおいでを遅らせているからといって、あまりに打ちひしがれたり、悩んだりしてはならない。というのも、いずれ主はあなたを助けてくださり、あなたは解放されるからである。

 もし主があなたがたの中の誰かに忍耐を示しておられるというのに、あなたがまだ一度も悔い改めず、主に立ち返ったことがないとしたら、今晩そうするがいい。「刈り入れ時は過ぎ、夏も終わった。それなのに、あなたがたは救われていない」*[エレ8:20]。しかし、おゝ、この礼拝式が終わる前にあなたが救われるとしたらどんなに良いことか! 木の葉は木々から落ちて厚く、また、すみやかに積もりつつある。では、この定命の生からあなたが落ちる前に、あなたの神について考え、神に向き直り、そして生きるがいい。「主イエス・キリストを信じなさい。そうすれば、あなたも救われます」*[使16:31]。願わくは主があなたを、燃える火から掠め奪ってくださるように! アーメン、アーメン。

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説教前に読まれた聖書箇所――IIペテロ3章


『われらが賛美歌集』からの賛美―― 174番、529番、513番


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 『剣とこて』誌上で私は愛する方々に、真のキリスト教信仰の復興のため、祈りに心を合わせてほしいと熱心に願った。このことは、私の説教を読む方々にも、衷心から懇願したいと思う。聖霊の訪れは、わが国の諸教会にとって、眠り込んでいる球根や葉のない木々にとっての奔流のようなものとなるであろう。偽りの教理と世俗性という狼どもは、生気を失ったキリスト教という冬の間には羊の囲いに激しく襲いかかるが、明瞭で輝かしい恵みが見てとれる時期には、もはや姿を見せなくなるのである。主が福音にその御霊の力をまとわせてくださるとき、過誤は大っぴらに立っていられず、罪はその顔を見せることを恐れる。ならば、これこそ私たちに必要なものであり、祈りはそれを獲得するための大きな、また効果的な方法である。

 いかにして私たちは、現在の危機について切なる祈りを押し進めることができるだろうか? 各人が常にもまして熱心に、主ご自身が御国を進展させてくださるように嘆願しようではないか。おゝ、主が腰に剣を帯び、真理と正義のため戦場へと馬を進ませてくださるとしたらどんなに良いことか! 私たちは、ふたりでも三人でもともに集まるときには、このことのために膝をかがめるのを忘れないようにしよう。このことにより、より大きな集会を開くべきだと思わされるであろうし、それから――何よりも良いことに――牧師たちが教会を呼び集めて、こう云うと期待されるであろう。「今は聖霊のバプテスマと、過誤の転覆とを願い求めるべき特別な必要があります」。もしこのことが、あらゆる忠実な教役者によってなされるとしたら、教会は時をおかずに天的な清新の時を迎えるであろう。

 個人的には、私は愛する兄弟たちに、私とともに神をほめたたえてほしいと思う。神は最近、厳しい試練の中にあった私に、非常に尋常ならざる助けを送ってくださったからである。また、私のために主に懇願してほしいとも思う。現在の厳しい争闘の独特の状況の中にあっても、私が常に堅固で、穏やかで、賢くふるまうことができるようにと。私がこれまで行なってきたことはみな、忠実な者であれば誰しも決して抵抗できないような必要に迫られて行なってきたことである。私に後悔することは何もなく、いかなることについても、疑問の影すらいだいていない。私は、自分が行なった以外のしかたで事を行なうことはできなかった。最後の大いなる日に、キリストの十字架の敵たちとともに罪と定められたいと願うのでもない限り、沈黙を守ったり、福音を空虚にする人々と悪しき徒党を組み続けることはできなかった。私はいかなることにも耐えることができるが、自らを責める良心には耐えられないからである。 C・H・S

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神の忍耐:良心への訴え[了]

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