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公の証し:神と人への負債

NO. 1996

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説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「彼らは話し合って言った。『私たちのしていることは正しくない。きょうは、良い知らせの日なのに、私たちはためらっている。もし明け方まで待っていたら、私たちは罰を受けるだろう。さあ、行って、王の家に知らせよう』」。――II列7:9


 サマリヤの門の外にいた、この四人のらい病人が、アラムの陣営はもぬけの殻であるという大発見をしたとき、まず自分たち自身の飢えと渇きを満たしたことに驚く人はいないであろう。またそれは、しごく正しいことでもあった。誰がそうしなかっただろうか? 確かに彼らには、行って他の飢えた人々に告げる義務があった。だが、それを大声で行なえたのも、自分の告げる真実について大きな確信を持つことができたのも、まずは自分たちが元気を取り戻していたからであった。それは妄想だったかもしれなかった。賢明にも彼らは、自分たちの発見を試してみてから告げることにした。包囲されて飢えている市民たちのもとに行って告げるのは、自分たちの元気を取り戻し、また、自分たちの懐を肥やしてしてからにしようと思いついた。私は、すでにキリストを見いだしているあらゆる魂に助言したい。この点で、このらい病人たちを真似るがいい、と。あなたが《救い主》を見いだしたことを確かめるがいい。主を飲み食いするがいい。主によって自らを肥やすがいい。それから、行って、この喜ばしい知らせを公に告げるがいい。私は、あなたができるだけ早く行くことに反対はしない。だが、それでも私は、あなたが行って他の人々に請け合う前に、自分で完全に確信する方が好ましいと思う。望ましいのは、あなたが個人的な証しを携えて行くことである。というのも、それが他の人々に対するあなたの主たる力となるからである。もしあなたがあまりにも早く走り出し、まず最初に主がいつくしみ深い方であることを味わいも[Iペテ2:3]、見てとりもしていなければ、あなたが他の人々に向かって、「陣営の中には豊かなものがありますよ」、と云っても、彼らは答えるであろう。「なぜ、あなたは自分でそれを食べなかったのか?」 このようにあなたの証しは、打ち破られはしないまでも、弱められるであろう。そして、あなたは口を開くのではなかったと思うであろう。より賢明な道は、あなたがまず最初に自らを脂肪で元気づかせ[イザ55:2]、それから、その饗宴の事実を告げ知らせることである。あなたの信仰が、尊い素晴らしい約束[IIペテ1:4]をつかむのは良いことである。そうするとき、あなたは、良い知らせを運ぶ者として走る際、自分が見たことを証しするであろう。もし誰かがあなたに、「それが本当だと確信していますか?」、と云うとき、あなたは答えるであろう。「むろん確信していますとも。私は、その素晴らしいいのちのことば[Iヨハ1:2]を味わったし、手でさわったからです」、と。私たちは、真の敬虔さを自分個人で楽しむことによって、真理と恵みについて証しする際の助けが得られるのである。

 しかし、私が引き出したいと願う点はこのことである。もし、このらい病人たちが陣営の中に一晩中とどまっていたとしたら、また、アラムの寝椅子の上に寝そべって、「われらが喜ぶたましいは/かくなる場所にとどまらん」、と放歌高吟していたとしたら、また、もし彼らが決して、町の城壁の中に閉じ込められて飢えていた同国人のもとに全く行かなかったとしたら、彼らのふるまいは残忍で冷酷なものとなっていたであろう。この時点で、私はある人々に話をしたい。(そうした種類の人々がこの場にどのくらいいるか分からないが)自分は《救い主》を見いだしたと考え、救われていると信じ、真にキリスト教信仰を楽しんできたとみなし、今や自分の唯一の務めは愉快に過ごすことしかないと想像している人々である。そうした人々は、みことばから養われることを喜んでおり、そのことに私は全く反対はしない。だがそのとき、もしそれが養われるだけで、そこから何も生じてこないとしたら、私は問いたい。その人たちは、何のために養われたのか? もし私たちのキリスト教信仰の唯一の結果が、自分たちのあわれでちっぽけな魂の慰めでしかないとしたら、また、もし敬神の念が最初から最後まで、ある人の自己の内側にとどまるものだとしたら、何と、それは、あれほど非利己的であったイエスと関わりあるものとしては、また、主の恵み深い御霊の実としては、異様なものである。確かに、イエスがやって来て私たちを救われたのは、私たちが自分のために生きるためではなかった[IIコリ5:15]。主がやって来られたのは、私たちを利己主義から救うためであった。

 残念ながら、話をお聞きの中のある人々は、自分の魂のうちにおける神のみわざを一度も告白したことがないのではないかと思う。彼らは、自分は盲目であったのに、今は見える[ヨハ9:25]と感じている。だが彼らは、主が自分たちの魂になさったことを語ろう[詩66:16]としたことが一度もない。これはみな、彼らの個人的な楽しみのために、片隅で起こった[使26:26]ことだろうか? 私は、こうした人々に発破をかけたいと思う。また、自分たちが主から恵みを受けた目的は、神が自分たちを通して他の人々に恵みを伝えるためであることを、まだ考えたことがないという、他のすべての人々に発破をかけたいと思う。誰ひとりとして自分のために生きている者はない[ロマ14:7]。誰ひとりとして、そうした生き方をしようとすべきではない。

 これから語る主題は、次のようになるであろう。第一に、恵みの大発見を隠すのは全く不正なことである。第二のこととして、もし私たちがそうした発見をしたとしたら、私たちはそれを告げ知らせるべきである。そして、第三に、この告げ知らせは絶えずなされるべきである。それは、一度限りの厳粛な機会となるべきではなく、私たちの全生涯が、キリストのうちに自分が見いだした力と恵みに対する証しとなるべきである。

 I. さて第一に、愛する方々。《天来の恵みを発見したことを隠すのは不正なことである》

 本日の聖句の前後関係を思い出してほしい。神はアラムの陣営にやって来て、ただおひとりで全アラム軍を総崩れにされた。彼らはひとり残らず逃走し去っていた。サマリヤの飢えた市民たちはそのことを知らなかったが、主は彼らの一切の飢えを満たす糧食を供しておられたのである。それも、町の門から目と鼻の先に、それはあった。主がそれをなされた。主ご自身の右の御手と、その聖なる御腕とが、主に勝利をもたらし[詩98:1]、イスラエルの必要を満たしていた。彼らはそれを知らなかったが関係ない。このらい病人たちは、その喜ばしい事実を見いだし、自分たちの発見を利用して貴重な品々をわがものとした。彼らは、この喜ばしい事実を知らせるために任命された。そして、もし彼らがそれを隠していたとしたら、彼らは咎ある者となっていたであろう。

 というのも、まず最初に、彼らが沈黙していたとしたら、それは彼らを導いてこの発見をさせた天来の目的に反することとなったであろう。なぜこの四人のらい病人は、この陣営の中に導かれ、万軍の主が敵軍を背走させていたことを悟らされたのだろうか? 何と、主として彼らが帰って行き、自国人の残りに告げるためであった。残念ながら、一部の人々が選びの教理を説教するしかたは、あまりにもしばしば、利己主義を助長しがちだとして、思慮深い人々の反対を招くようなものではなかったかと思う。いずれにせよ、人はその教理を好まない。だが、必要もなくそれを醜い形で云い表わしても役に立たない。選びは事実であるが、他の事実と関わり合う事実である。主が世からある人々を、ご自分の所有の民とすべく召し出されるのは、彼らが他の人々をも集めるようにさせるためである。イスラエルが、国々のための光を保つため選ばれたのと同じく、主が信仰を有する御民を選ばれたのは、彼らが、その囲いに属さない他の羊[ヨハ10:16]を導き入れるようにするためであった。私たちは、狭い建物の中に閉じこもり、そこに座ってこう歌っているべきではない。――

   「われらは囲まる 庭園(にわ)にして
    選ばれ、御神の 土地とぞなる。
    ちさき所を、恵みは仕切る、
    そとの広けき 荒れ地より」。

あるいは、たとい私たちがそう歌うとしても、私たちは自分を主のみわざと知恵の目的であり絶頂であるとして何度も何度も喜ぶべきではない。しかり。むしろ私たちは、囲まれた庭園であればこそ、私たちを所有するお方に果実を結ぶべきである。私たちは苗床となるべきである。私の知っている一片の土地では、何百万もの樅の木が栽培されていた。それらは後で、スコットランドの様々な山々に移植されたのである。私たちの諸教会もそのようなものたるべきである。私たちの弱々しさからすれば、山々の頂にある一握りの穀物に比すべきだが、私たちが期待するのは、その実りがレバノンのように豊かで、町の人々が地の青草のように栄えることである[詩72:16]。私たちが救いに選ばれているのは、やがては行って、暗黒に座る者たちにとって光となり、滅びようとしている者たちにとって霊的な助けとなるためである。この四人が、神のなされたことを見るのを許されたのは、目的があってのことであった。彼らがこの幸いな知らせを急ぎ持ち帰るためであった。もし彼らがこの知らせを携えてサマリヤに行かなかったとしたら、彼らは天来の目的を裏切ることになっていたであろう。そして、私の兄弟たち。あなたも、自分の口をつぐみ続けるとしたら、同じことになるであろう。私の姉妹たち。もしもあなたが、「主は私のために大いなることをなされ、私は喜んだ」*[詩126:3]、と全く云わないとしたら、あなたも同じことになるであろう。あなたは、あなたが日々神をあがめる理由とすべき神の目的を豊かに果たすようにするがいい。そして、神があなたを選んでキリストを知る者とされたのは、あなたがキリストを他の人々に知らせるためであることを示すようにするがいい。

 この人々は、単に天来の目的を裏切るばかりでなく、正しく行なうことがなかったであろう。彼らは話し合って云った。「私たちのしていることは正しくない」。あなたがたの中のある人々は、思い浮かべたことがあるだろうか? 愛する方々。これが、あなた自身に対して持ち出される非常に重大な非難であるということを。「私たちのしていることは正しくない」。残念ながら、多くの人々はこう云えるからといって満足しているのではないかと思う。「われわれは酒を飲まない。悪態をつかない。賭博をしない。嘘をつかない」。あなたがそうしているなどと誰が云っただろうか? そうした事がらのいずれかをを行なったとしたら、あなたは自分を恥じるべきである。しかし、それで十分だろうか? あなたは現実には何を行なっているだろうか? 「なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です」[ヤコ4:17]。私は、完全な人々がいると聞いたことはあるが、そうした人を見たことがない。もしそれが、積極的に罪を犯す行為についてであれば、私も、もしかするとそうした兄弟たちと意見を交換し合うことができたであろう。というのも、私は非難されることがないように心がけてきたし、自分はそうした者であると思うからである。だが、不作為の罪が現実に、まぎれもなく罪であることを思い出すとき、私は完全という一切の概念に、「さらば」と云う。というのも、自分の数多くの短所が私を圧倒するからである。いかなる人も、自分に行なえたはずの、また、行なうべきであった、すべての善を行なったことはない。たとい誰かが私に、自分は自分に可能であっただろうあらゆる善を行なってきました、などと請け合うとしても、私はその人を信じない。私はもはや何も云うまい。だが、私たちは不作為の罪を努めて避けるようにしよう。愛する方々。もしあなたが主を知っていながら、一度も主の御名を告白したことがないとしたら、あなたのしてきたことは正しくない。もしあなたが人々の間にいて、はっきりキリストのために語ったことがないとしたら、あなたのしてきたことは正しくない。もしあなたが子どもたちに対してさえ福音をはっきり告げる機会を有していながら、そうしてこなかったとしたら、あなたのしてきたことは正しくない。ある人が、自分の良心によって、他の人々とともに、「私たちのしていることは正しくない」、と云わざるをえないとき、それは結局において、良心が重い非難を持ち出しているということである。こういうわけで、あの実を結んでいない無花果の木は刈り倒されたのである。あの葡萄園の番人は、「これを切り倒してしまいなさい。この木の実は酸っぱすぎます」、とは云わなかった。それは全く何の実も結んでいなかった[ルカ13:7]。それが肝心な点である。それは土地ふさぎだった。用心するがいい。おゝ、用心するがいい。あなたに積極的な善を行なわせないようなキリスト教信仰に! もしあなたがキリスト教信仰を有している成果が、所詮、あなたに悪を行なわせないことどまりだとしたら、それはイエス・キリストのもたらされた信仰の成果としては小さすぎる。主は尋ねておられる。「どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか」[マタ5:47]。願わくは神が私たちを助けて、その御霊がひそかに私たちに教えられたことを公然と告げ知らさせてくださるように!

 その上さらに、このらい病人たちがその口をつぐんでいたとしたら、彼らは現実に悪を行なっていたであろう。かりに彼らが二十四時間その沈黙を守っていたとしたら、何百人もの人々がサマリヤ城市の内側で餓死していたかもしれない。もしそうした人々がそのように死んだとしたら、このらい病人たちは彼らの血を流した罪があることにならなかっただろうか? あなたはそれに同意しないだろうか? 無視は、剣の一刺しや、一撃ちと同じくらい真実に殺人となりえないだろうか? もしもあなたの住む町通りで、誰かが《救い主》を知らないために滅びるとしたら、そして、あなたが一度もそうした人々を教える努力をしたことがなかったとしたら、いかにしてあなたは最後の大いなる日に罪なしとされえようか? もしあなたの手の届く範囲内に、誰かキリストの知識に欠けていたために滅びに沈む人がいるとしたら、そして、あなたがその知識を与えることができたはずだったとしたら、かの大いなる審判が開かれ、神がキリストの血のゆえの審理を行なわれる日、あなたの衣のすそには血がついていないと云えるだろうか? 私はこのことを多くの沈黙せるキリスト者たちの良心に突きつける。神が自分のために何をしてくださったかを一度も他の人々に知らせたことがない人々に突きつける。――いかにしてあなたはこの件で罪を免れるだろうか? 「私は、自分の弟の番人なのでしょうか?」[創4:9]、と云ってはならない。というのも、もしそうするとしたら、私は身の毛もよだつ答えをあなたに返さなくてはならないからである。私はこう云わなくてはならないであろう。「否。カインよ。あなたは自分の弟の番人ではない。自分の弟の殺人者だ」、と。もしあなたが、努力して彼の善をはからなかったとしたら、また、あなたの無頓着によって彼を滅ぼしたとしたらそうである。もし私が泳げるとして、あなたがたの中の誰かが流されているのを見た場合、単にあなたを眺めただけで、また、あなたが川に転げ落ちるような馬鹿なことをしたのを非常に遺憾に思っただけで、決してあなたを救うための手を差し伸ばさなかったとしたら、あなたの死の責任は私にあるであろう。そして、私が確信するところ、キリスト教信仰の楽しみについて語りながら、それを自分だけのものにし、決して滅び行く人々を救おうとしない人々についてもそうなるに違いない。厳粛な、これは真理である。この真理を、それが突き入るべきところに突き入らせるがいい。そして、願わくは聖霊なる神がそれを祝福してくださるように!

 また、このらい病人たちは、もしその口をつぐんでいたとしたら、最も時宜を得ないしかたで行動したことになったであろう。それを彼ら自身がどう云い表わしているかに注目するがいい。彼らは云う。「私たちのしていることは正しくない。きょうは、良い知らせの日なのに、私たちはためらっている」。おゝ、兄弟よ。イエスはあなたのもろもろの罪を洗ってくださったではないだろうか。だのに、それについて沈黙しているのだろうか? 私は、自分が、かの尊い血によって最初に神との平和を見いだした日のことを覚えている。そして私は宣言するが、私は誰かにそのことを語らずにはいられなかった。自分の内側の声を抑えつけることができなかった。何と、私の愛する兄弟! あなたは主にあって、永遠の救いによって救われているのに、その祝福をひとりじめにしておけるのだろうか? あなたは、自分の家の材木すべてがあなたに向かって呻き声を上げず、地面そのものがその口を開いてあなたを叱責しないのを不思議に思わないだろうか? あなたは、驚くばかりのあわれみを味わいながら、しかし、それを告白するために一言も語らないほど、恩知らずな卑劣漢でありえるのだろうか? さあ、兄弟よ。さあ、姉妹よ。あなたの、その内気な精神に打ち勝つがいい。そして叫ぶがいい。――「私は他にしようがありません。私はそれに駆り立てられています。私は証しせざるをえません。証ししたいと思います。世には、私たちのために戦って私たちを救い出す《救い主》[イザ19:20]がおられる、と」。個人的に、私は自分の口をつぐむことができないし、この口が利ける限り決してそうはすまい。

   「血潮したたる みきずの流れを
    信仰により 仰ぎ見しより
    贖いの愛こそ わが調べなり、
    今より後も 死ぬるときまで!」

おゝ、神があらゆる沈黙せるキリスト者を奮起させ、自分の主のためにはっきり語らせてくださるとしたらどんなに良いことか! 私たちはこれまで十分すぎるほどにおしの霊を有してきた。おゝ、火の舌のようなかたちをした御霊を有せるとしたらどんなに良いことか!

 もう1つのことがある。沈黙は危険なこととなりうる。この人々は何と云っただろうか? 「もし明け方まで待っていたら、私たちは罰を受けるだろう」。その明け方の光は、あなたがたの中のある人々にとっては非常に間近である。もしあなたが明日の朝までキリストについて語るのを待っていたら、あなたは罰を受けるかもしれない。私はこのことを、さらにはるか彼方を越えたものとして、より壮大な規模で云い表わすことができよう。まもなく1つの明け方の光が、お前たち、暗黒の陰惨な山々の上に見えるはずである。どれだけまもなくかは、分からないが、私たちの《主人》は私たちに、絶えずそれを待ち構えているよう命じておられる。主は、思いがけない時においでになるであろう[マタ24:44]。そして、主が来るとき、それはご自分の忠実なしもべたちに報いをお与えになるためであろう。ある聖句は、主の来臨のときに私たちが恥じ入らないことについて語っている[Iヨハ2:28]。何と素晴らしい聖句であろう! もし今晩、主が来られるとしたらどうだろうか? 私たちは恥じ入ることにならないだろうか? 主は、まだ形をなさない言葉が私の唇を離れる前に、あるいは、あなたの耳に届く前に来られるかもしれない。御使いのかしらの甲高く、喨々たる喇叭が死者をその墓の中から飛び上がらせ[Iテサ4:16]、私たちの間では、キリストがその大きな白い御座[黙20:11]に着かれるかもしれない! かりに主が今晩おいでになるとしたら、あなたがた、自分は主を知っており、愛していると思ってきた人たちが、これまで一度も主のために魂を獲得しようとしてこなかったとした場合、――あなたは、どのように主と対面するだろうか? あなたの主に、あなたが一度も自分の主だと認めたことのない主に、あなたは何と答えるだろうか? あなたは救いの道を知っていたが、それを隠していた。罪人たちの傷のための香膏を知っていたが、彼らが血を流して死ぬのを放っておいた。彼らは渇いていたが、一口も生ける水を与えなかった。彼らは飢えていたが、いのちのパンを全く与えなかった。方々。私はそのような汚れを魂につけたまま主の審きの座に出ることなどできない! あなたにはできるだろうか? 兄弟よ。あなたにはできるだろうか? 姉妹よ。あなたにはできるだろうか? 何と! あなた自身の愛する子どもたち――あなた自身の血肉――彼らとともにあなたは一度も祈ったことがなく、彼らをイエスのもとに連れて行こうともしなかったのだろうか? 何と! あなたの家の召使いたち――彼らにあなたは一度も《救い主》のことを語ったことがないのだろうか? あなたの妻、あなたの夫、あなたの年老いた父、あなたの兄弟、――そして、あなたは一度も自分の口を開いてこう云ったことがないのだろうか? 「イエスは私を救ってくださいました。私はあなたも救われてほしいのです!」、と。あなたは、そこまではしたことがあるかもしれない。それよりも大胆なことでさえ、世俗的なことについてなら彼らに云ってきたであろう。おゝ、神の愛にかけて、あるいは、それよりも低い動機にかけてさえ、あなたの同胞愛にかけて、あなたの枷を千切り飛ばし、キリストのためはっきり語るがいい。さもなければ、たといあなたの信仰告白が真実であるとしても、あなたのしていることは正しくないし、あなたのキリスト教信仰は疑わしいものとなる。

 ここまでが第一の点である。――このほむべき発見を隠しておくのは、このらい病人たちにとって正しくないことであったし、私たちにおいても正しくないであろう。

 II. 第二に、もし私たちが、私たちの敵を敗走させ、私たちの必要を供されるキリストの恵み深いみわざを幸いにも発見したとしたら、また、もし私たちがその栄光に富む勝利の果実を自ら味わったとしたら、《私たちはその発見を非常に明白に告白すべきである》。それは非常に厳粛に告白されるべきであり、主ご自身が指定されたしかたで告白されるべきである。私たちがすべての正しいこと[マタ3:15]を明らかに示すしかたとして、キリストの命令に従い、バプテスマにおいてキリストとともに葬られるにまさることがありえようか? また私たちは、主イエス・キリストの教会に加入し、そこで聖なる奉仕に協力すべきである。これは、非常に断固たるしかたでなされるべきである。なぜなら、私たちの主がそれを要求しておられるからである。私たちのほむべき主イエス・キリストは、常に信仰と、その告白とを一緒にしておられる。主を心に信じて、口で告白する者が救われるのである[ロマ10:10]。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます」[マコ16:16]。この2つは常に相伴って記されている。人を救う信仰は、ひそかな隠れた信仰ではない。その道に近寄らず、垣根の裏からもぐり込むことによって天国に行こうとする信仰ではない。真の信仰は、この道の真中を歩み、こう感ずるものである。「これが《王》の道であり、私はここにいるのを見られても恥じはすまい」、と。 これこそイエスがあなたに期待する信仰であり、こう叫ぶ信仰である。「私は主に対して自分の手を上げました。そして、それを引き込めはしません」。

 次に、もしあなたがキリストを見いだしたとしたら、あなたをキリストに導く手段であった人は、あなたからそのことを知らされる権利を有している。おゝ、先日、私の心はいかなる喜びを感じたことか! その日、私は自分の霊的な子どもたちを二十四人も目にしたのである! そのとき私は、《主人》の御手から大きな報酬を受けとっているのを感じた。多くの人々は教役者から善を受けとるが、決して彼にそれを知らせようとしない。これは、自分がしてほしいように行なうことではない。むしろ、それは、私たちの牧会伝道活動の報いを私たちから騙し取るようなものである。神が私たちを祝福しておられると知ることは、大きな慰めであり、激励である。穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない[Iコリ9:9]。

 次に、私が思うに、イエスの大いなる愛を発見したあなたがたの中のすべての人々に対して、神の教会は要求する権利がある。来て、あなたの同胞キリスト者たちに告げるがいい。《王》の家にこの良き知らせを告げるがいい。神の教会をしばしば大いに清新にするのは、新しい回心者たちの物語である。残念ながら、私たち五十の坂を越した者たちは、徐々に頭が古くなりつつあるのではないかと思う。それで、恵みにおける幼子たちの泣き声を耳にし、新しい回心者たちの清新で、生き生きとした証しに耳を傾けるのは大きな祝福なのである。それは私たちの血を湧かせ、私たちの魂を生かし、そのようにして神の教会は利益を得る。もしあなたがたの中の年輩の人々が、先日の月曜夜の教会集会に出席していたとしたら、また、五人ほどの小さな子どもたちが次々と、自分たちの魂に主がなさったこと[詩66:16]を私たちに告げてくれたのを聞いたとしたら、あなたは私に同意していたことであろう。自分でも、あれほど上手に語ることはできなかったであろう、と。あなたはより多くのことを知っているかもしれない。だが、あなたは、自分の知っていることを、あの愛しい子どもたちほど単純に、甘やかに、心をつかむようなしかたで述べることはできなかったであろう。そのうちのひとりは、ほんの九歳かそれ以下であった。だがしかし、彼女は代価(かた)なき恵みと死に給う愛について、八十歳か九十歳ででもあるかのように明確に告げた。主は幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち建てられた[詩8:2]。あなたがたの中のある人々は、主を知ってから長い歳月を経てきたが、一度も主を告白したことがない。それは何という間違いであろう! それは教会にとっていかに大きな損害であることか!

 それに加えて、キリストのための断固たる証しは、この世に当然与えられるべきものである。もしある人が十字架の兵士でありながら、自分の旗幟を鮮明にしていないとしたら、彼の戦友たち全員は、彼の優柔不断さによって敗者となる。ある人がキリストに導かれるとき、何にもまして良いことは、決然と自分の信仰を表明し、自分の回りにいる人々に自分が新しい者であることを知らせることである。自分の旗を広げるがいい。キリストと聖潔につくとの決意によって、あなたは多くの危険から救われ、多くの誘惑を撃退するであろう。妥協は、生き方をみじめにする。私は、自分のキリスト教を隠そうとするキリスト者になるくらいなら、砕土機の下の蟾蜍になる方がましである。この時代にあって、ある人が自分の良心の命じるところに従うのは困難なことがある。というのも、あなたは流れに乗ることを期待されているからである。だが、私はこういう意見である。――自由人として生きるのでなければ死んだ方が良い。別の人の許可を得なくては考えることもできないのは、人生ではない。もしもキリスト者であることによって何か誤伝があったり、何か蔑みがあったり、何か軽蔑があったりするとしたら、私はその一端にあずかろう。というのも、私はキリスト者であり、残りの人々と同様に扱われたいと思うからである。

 もしあらゆるキリスト者が自分の立場を表明し、主が自分たちの魂になさったことを語る[詩66:16]としたら、この世はキリスト教の力を感じるであろう。また、いま人々がしているようにキリスト教をちゃちな迷信だとか、自らの信奉者も恥じるようなものだとか考えはしないであろう。もし実際あなたがたが十字架の兵士だとしたら、自分の盾を日の光の中で掲げ、自分の《指揮官》を恥じないようにするがいい! このような主に仕えることにおいて、私たちを赤面させるような何がありえるだろうか? 恥じることを恥じるがいい。そして、男らしくふるまうがいい!

 あなたの公然たる告白は、周囲すべてに対して当然なされるべきであり、特にあなた自身に対して当然なされるべきである。もしも主があなたのために何かをしてくださったとしたら、感謝をもってそれを認めること、それはあなたの霊的な勇ましさにとって当然のことである。また、他者に対する愛からしても当然のこと、――そして、他者に対する愛は、キリスト教の真髄に含まれるが、――それはあなたが、自分は主の側につくとはっきり宣言することである。これ以上、私は何と云えば良いだろうか? これ以上、何を云う必要があるだろうか? 私は喇叭を吹いて、私たちの主の旗の下に、善かつ真実なすべての人々を召集したいと思う。

 III. 《この宣言は絶えずなされるべきである》。ここで私が語っているのは、すでに公にキリストを告白したことがあり、その御名を恥じてはいない人々についてである。愛する方々。私たちは常にキリストを知らせるべきである。私たちが一度行なった信仰告白によってだけでなく、頻繁にその信仰告白を支持する証しを行なうことによってそうすべきである。私は、私たちがこのことをもっと神ご自身の民の間で行なっていたらと願う。ハヴァーガル女史は非常に称賛すべきしかたでこう云っている。「《王》の家は、この良い知らせについて教えを必要とすることが最もありえなさそうな人々でした。――そのように、最初は思われます。しかし、第二に、このらい病人たちは、《王》の家の教師となるには最もありえなさそうな者たちでした。ですが、彼らはそれをしたのです」。あなたや私は、こう云うかもしれない。――キリスト者である人々に対しては、私たちの主とそのみわざについて語る必要はない、と。彼らは私たちよりもよく知っている。もし彼らがそれを必要とするとしても、私は何者だろうか? 私たちの《主人》の家のあらゆる者のうちで一番小さなこの者が、僭越にも彼らを教えるべきだろうか? このように、謙遜さえも、ある種の集団の中で私たちが自分の証しをするのを抑えるかもしれない。もしあなたが教えを受けていない人々のただ中にいるとしたら、彼らに対してあなたは善を施せるであろう。語る義務があると感じるかもしれない。だが、キリスト者たちの間で、あなたは黙りこみがちである。あなたは自分に向かってこう云ったことがないだろうか? 「私は、この善良な老人に向かって語ることはできないでしょう。彼は私よりも信仰においてずっとよく教えられています」。その間、あなたは、先に述べたこの善良な老人が何と云っていると思うだろうか? 彼は自分に向かって云う。「彼は立派な青年だ。だが、私は彼に向かって語ることができないであろう。というのも、彼は私よりもずっと才能豊かだからだ」。このようにして、あなたがたはふたりとも、互いに徳を建て合うことができるはずなのに、しんと黙りこくっているのである。それより悪いことに、ことによると、あなたがたは愚にもつかない話題について語り始めるかもしれない。あなたは天気について、あるいは、最新のひどい醜聞か、政治について語る。かりに私たちがこうしたすべてを変えて、互いにこう云うとしたらどうであろう。「私はキリスト者である者だ。ならば、この次に私が兄弟キリスト者に会うときには、その人が私の目上の人であろうとなかろうと、私たちに共通する《主人》について語ることにしよう」。もしふたりの子どもたちが会うとしたら、父や母について語り合うのが賢明である。もし一方がとても小さな子であるとしたら、その子は自分の父親について、姉が持っている知識にくらべて、ごく僅かしか知らないかもしれない。だが、そのときその子は、最近自分の父親に口づけしたことがあり、自分の成人した姉よりも、ずっと優しくなでてもらって喜んだことがある。年長の子は父親の知恵や摂理についてずっと語ることができる。だが、年下の者は父親の優しさや愛についてずっと生き生きとした感覚を持っている。それで、彼らは熱烈な称賛をともにできるのである。

 なぜキリスト者である人々は、これほどしばしば、主イエスについて、ほんの二言三言も交わすことなく会ったり別れたりするのだろうか? 私はあなたがたの中の誰をも断罪してはいない。私は、他の誰にもまして自分をとがめている。私たちは、私たちの主のために十分な証しをしていない。私は確信しているが、先日私は、ある軽馬車の御者からこう云われたとき、全く虚を突かれた。「先生は信じとられるでしょう、主がその民の道を導きなさると」。私は云った。「信じているとも。そのことについて何か知っているのかね?」 「へえ」、と彼は云った。「何と、今朝あっしは主に自分の道を導いてくだせえと祈っておりやした。すると、先生があっしを予約なさったんで。それで、これは幸先の良い一日だと感じたっちゅうわけでさあ」。私たちは、すぐさま神のみこころのことについて話を始めた。その御者が話の口火を切るべきではなかった。福音の教役者として、私が最初に言葉を発すべきであった。私たちは、この点で大いに非難されるべきである。私たちは、ある一言がどう受けとられるか分からないからといって、口をつぐんでいる。だが、それは試してみた方が良い。試してみるだけなら何の害も生じるはずがないであろう。かりに、あなたが、病気や死にかけている人々がいる場所に行くとしよう。そして、その人たちを癒すだろう薬をかかえているとしよう。あなたは、彼らにそのいくらかを与えたいと切望するではないだろうか? あなたは、それがどう受けとられるか知れないからといって、それについて何も語ろうとしないだろうか? その申し出をしない限り、それがどのように受けとられるか、いかにしてあなたに分かるというのか? あわれな魂たちにイエスのことを告げるがいい。主の恵みがどのようにあなたを癒したかを告げるがいい。すると、彼らはこう答えるかもしれない。「あなたこそは、私の必要とするまさにその人です。あなたは私が心から聞きたいと願っていた知らせをもたらしてくれました」、と。

 私の知る限り、ロンドンのいくつかの地区では――特に郊外部では――、ある人が戸を叩き、キリストについて一言でも語り始めると、そのあわれな人々がこう答えるという。「誰も、私たちを訪問して私たちにどんな善を施そうともしてくれしません。私たちは滅びるよう見捨てられているのです」。こうしたことは、恥ずべきことであり、実際に恥である。人々は、キリスト教国であるこの国で生きては死んでいきながら、あたかもコンゴに住んでいるのと同じくらい福音の知識に欠けているのである。もし彼らがコンゴに住んでいたとしたら、私たちはみな寄付を約束して、その川上へと宣教師を派遣し、彼らにイエスとその愛について告げるはずである。たとい熱病で死ぬ危険があろうと、彼らに宣教師を遣わすはずである。だがしかし、私たちの家々の隣に住んでいる人々、あるいは、私たちの雇い人たちさえもが、救いについて無知なまま放置されている。日雇いの雑役婦としてやって来る女や、町通りで泥を掃いている男――こうした人々は、ホッテントット部族ほどもキリストについて知っていないかもしれない。だがしかし、私たちは彼らに向かってキリストのことを話さないのである。ひどい話ではないだろうか? 私たちは、自分自身の飢えを満たした。だのに、いま他の人々を飢えさせたままでいるのである! もし私が、主が恵み深いことを味わったことのある、この場の兄弟をひとりでも、あるいは、この場の姉妹をひとりでも説得して、罪深い惰眠を振り捨てさせるとしたら、私は良い奉仕を行なったことになるであろう。愛する方々。ぜひ無関心な態度はやめようではないか。そして、イエスのための働きに着手しようではないか。私は、自分が福音を宣べ伝えるだけでは足りない。ぜひともあなたがた全員を、それを布告する任務につかせたい。おゝ、この場に集まっている何千人もの人々がロンドン中に出て行き、キリストを告げ知らせるとしたらどんなに良いことか! そうした十字軍の結果は、永遠だけが明らかにできよう。私はかつてこの講壇から、クリケット競技には長じているが、罪人の心を扱うことが不得手なキリスト者の青年たちについて語ったことがある。その日、出席して私の話を聞いていたひとりの紳士は、こう云った。「これは私に当てはまることだ。私は、働き人としてよりも、クリケット選手としてずっと良く知られている」。彼は、心を尽くして自分の主に仕え始め、この日、最も良く用いられている人として有名になっている。おゝ、私がそのような人をもうひとり獲得できるとしたらどんなに良いことか! ロンドンの大群衆は暗闇の中で死につつある。私はあなたに切に願う。彼らのもとに携えて行くがいい。あなたの有するありったけの光を! この連合王国では、至る所でおびただしい数の人々が滅びつつある。彼らの救出に急行するがいい! 世界もまた悪の力のもとにとどまっている。それを立ち直せてほしい!

 「私は何も知ってはいません」、とある人は云うであろう。ならば、あなたが知らないことを云ってはならない。「おゝ!」、と別の人は叫ぶであろう。「私は自分がキリスト者だとは思うのですが」。では他の人々に、あなたがどのようにして信仰者になったか告げるがいい。そうすれば、それが福音となるであろう。あなたは、何かの本と首っ引きで、3つの項目と1つの結末を有する説教を作ろうとする必要はない。むしろ、家に帰って、あなたの長男に云うがいい。「ジョン。お前に父さんがどうやって《救い主》を見いだしたか教えてやりたいんだ」、と。家に帰って、あなたの可愛い小さな娘に云うがいい。「大好きなセアラ、あなたにお話ししたいの。イエス様が私をどんなに愛しておられるかを」、と。明け方の光が射し込む前に、あなたは自分の愛する子どもたちが《救い主》に導かれるのを見る喜びを得ているかもしれない。もし今晩、あなたが彼らに自分の心にあふれるままに語りかけるとしたら、そうなるかもしれない。

 ただこのことだけをあなたに云いたい。もしあなたが私の《主人》を愛していないとしたら、あなたがたの悪の道から立ち返るがいい。もしあなたがイエスを信頼したことがないとしたら、今すぐイエスに信頼し、完全にして無代価の救いを見いだすがいい。あなたがその救いを見いだしたときには、その知らせを公に広めるがいい。十字架の上で血を流されたお方の愛にかけて、――その刺し貫かれた心臓の血の一滴一滴にかけて、奮起して、あなたの力を尽くして主に仕えるがいい。舌によってか、筆によって、イエスの愛について告げるがいい。

   「告げよ知らせよ 異教民(とつくにびと)に、
    主は統治(す)べ給う 十字架の上(え)より、と」。

それを、彼方の蒼穹の下にある至る所で響かせるがいい。イエス・キリストは、罪人を救うために世に来られたのだと[Iテモ1:15]。そして、こう云い足すがいい。「主は私を救われました」、と。神があなたを祝福されんことを!

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説教前に読まれた聖書箇所――II列7:3-16、詩篇34

 

公の証し:神と人への負債[了]

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