心:神への贈り物
NO. 1995
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---- 1887年12月11日の主日朗読のために 説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル「わが子よ。あなたの心をわたしに与えよ」。――箴23:26 <英欽定訳>
これは、知恵の名によって語るソロモンの言葉である。その知恵とは、主イエス・キリストの別名にほかならない。主は神によって、私たちにとって知恵となられた[Iコリ1:30]。もしあなたが、「地上最高の知恵とは何ですか?」、と尋ねるとしたら、それは神が遣わされたイエス・キリストを信ずること、――このお方に従う弟子となり、このお方を信頼し、このお方にならうことである。神こそ、その愛する御子の名によって、私たちひとりひとりに対して、こう云っておられるお方である。「わが子よ。あなたの心をわたしに与えよ」。あなたは、「主よ。私の心はあなたにささげられています」、と云えるだろうか? ならば、私たちは神の子どもたちである。「アバ。父よ」、と叫ぼうではないか。また、その子どもである高い特権について主をほめたたえようではないか。「私たちが神の子どもと呼ばれるために、――事実、いま私たちは神の子どもです。――御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう」[Iヨハ3:1]。
I. この戒め、「わが子よ。あなたの心をわたしに与えよ」、に目を向けて、まず第一にこのことに注意しよう。《愛によってこそ、この知恵はこうした要求を行なっているのである》。
愛だけが愛を追い求める。もし私が、誰か他の人の愛を欲するとしたら、確かにそれは、私自身がその人に対する愛をいだいているからにほかならない。私たちは、自分が愛してもいない人々から愛されたいとは思わない。むしろ、愛し返したくない人々から愛を受けるのは、好ましいことというより、困惑させられることであろう。神が人間の愛をお求めになるとき、それは神が愛だからである。火花が火の塊である太陽に向かって上るように、私たちの愛は、あらゆる純粋で聖なる愛の主たる源泉たる神へと立ち上るべきである。神のこのことば、「わが子よ。あなたの心をわたしに与えよ」、は、無限のへりくだりを示す一例である。これが、神と人をいかに奇妙な立場に置いているかに注意するがいい。普通であれば、被造物が神に対して、「私にお与えください」、と云うのが当然のあり方である。だがここでは、《造り主》がか弱い人間に、「わたしに与えよ」、と叫んでおられる。かの《大いなる恩恵者》ご自身が《請願者》になられる。――ご自分の被造物たちの扉の前に立って、乞い求めておられる。ささげ物でも、賛美の言葉でもなく、彼らの心を求めておられる。おゝ、神がこのような立場に身をへりくだらせてくださるのは、神の大いなる愛ゆえに違いない。そして、もし私たちが正しい考え方をしているとしたら、即座にこう反応するであろう。「あなたが私の心をお求めになるのですか? 主よ、さあここにあります」。しかし、悲しいかな! そうした反応をする者はほとんどおらず、そのようにする者はといえば、ダビデのように、神の心にかなった[使13:22]者たちしかいない。そうした者たちに神が、「わたしの顔を、慕い求めよ」、と仰せになるとき、彼らはたちまち答える。「主よ。あなたの御顔を私は慕い求めます」、と[詩27:8]。だが、この答えは天来の恵みによって吹き込まれるのである。愛を追い求めるのは愛だけでしかありえない。
さらに、ただ至高の愛によらない限り、私たちのようにあわれなな代物の心が追い求められることはありえない。いかにすぐれた聖徒たちもあわれな代物である。そして、それほどすぐれていない私たちの中のある者らについて云えば、これは何とあわれで、あわれな代物であることか! いかに愚かであることか! いかに物覚えが悪いことか! 知恵は生徒がほしくて私たちを求めているのだろうか? だとしたら、これは最もへりくだった種類の知恵に違いない。私たちはことのほか咎ある者でもある。もし知恵が私たちの入学を認めるとしたらそれは、知恵の校庭に誉れよりも不名誉をもたらすはずである。だが知恵は私たちひとりひとりに云われる。「あなたの心をわたしに与えなさい。来て、わたしから学びなさい」。ただ愛にしか、私たちのような生徒を招くことはできない。残念ながら、私たちは決して神の栄光を大して現わさないのではないかと思う。私たちにはそもそも乏しい才能しかなく、世に知られない無名の者でしかない。だが、何の変哲もない庶民ではあるが、私たちひとりひとりに神は云っておられるのである。「わが子よ。あなたの心をわたしに与えよ」、と。ただ無限の愛だけが、私たちのように情けない心に求愛しつつやって来ようとはしないであろう。
というのも、神は何を得ることになるだろうか? 兄弟姉妹。もし私たちが全員自分の心を神に与えたとしても、いかなる点で神はより大いなるものとなるだろうか? 「銀と金はわたしのもの」、と神は仰せられる[ハガ2:8参照]。「千の丘の家畜らもわたしのものだ。わたしはたとい飢えても、あなたに告げない」[詩50:10、12]。神は偉大すぎて私たちが何を与えても今以上に大いなるお方にはならず、いつくしみ深すぎて私たちが何をしようと今以上にいつくしみ深くはならず、栄光に富んだお方でありすぎて私たちが何をしても今以上に栄えあるお方になることはありえない。神が求愛の思いをもってやって来て、「あなたの心をわたしに与えよ」、と叫ばれるとき、それは私たちの益のためであって、神ご自身のためではないに違いない。確かに、与える私たちの方が、受ける神よりもずっと祝福されるはずである。神は何も得をしないが、私たちはその贈り物を差し出すことですべてを得る。だが主は子どもを得られる。これは甘やかな考えである。神に自分の心を与えるあらゆる人は神の子どもとなり、父親は自分の子どもたちを宝とみなすものである。そして、思うに神は、ご自分の子どもたちを、他の御手によるみわざの何にもまして重んじられる。この《大いなる父》の似姿は、あの放蕩息子の帰還の物語に見られる。あの父親は、戻って来た息子を、他の自分の所有物のすべてよりも高く評価した。「おまえの弟は」、と彼は云った。「死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか」[ルカ15:32]。おゝ、私は云う。あなたがた、主を知らない人たち。もしあなたが自分の心を神に与えるなら、あなたは神を喜ばせるのである! 《永遠の父》はご自分の失われた子を取り戻し、ご自分に対する熱い愛情に燃える心を、ご自分の胸に押しつけることを喜ぶであろう。その心も、以前は冷たく、神に対して石のようであった。「あなたの心をわたしに与えよ」、と神は言われる。あたかも、私たちの愛を慕い求め、子どもたちから自分のことを忘れ去られたことに耐えられないかのようである。あなたは、神が語っておられるのが聞こえるだろうか? 神の御霊よ。お語りください。そして、あらゆる人にあなたがこう云われるのを聞かせてください。「あなたの心をわたしに与えよ!」、と。
あなたがた、すでに神の子どもとなっている人たちは、本日の聖句を1つの召しとして受け取れよう。すなわち、あなたの心を新しく神に与えよという召しである。というのも、――なぜかは分からないが――今では人々が驚くほど僅かであり、心を有する人々はまれだからである。もし説教者たちに今よりも大きな心があるとしたら、彼らはより多くの人々に話を聞かせることであろう。愛なしに語られる説教は、全く心の琴線に触れず、感動を呼ばない。私たちの聞いたことのあるある説教は、組み立ては賞賛すべきもので、教理的には素晴らしいが、ロシアの女帝がネヴァ川河岸に氷で建てた宮殿のようである。これほどまばゆく輝き、これほど鋭利に刻まれ、これほど魅力的なものはないが、だが、おゝ、いかに冷たく、冷え冷えとしていることか! その美しさそのものが、魂にとっては霜である! 「わが子よ」、と神はあらゆる説教者に云っておられる。「あなたの心をわたしに与えよ」。おゝ、教役者よ。たといあなたが雄弁な舌で語れなくとも、少なくともあなたの心は、あなたの唇から燃える溶岩のようにあふれ出させるがいい! あなたの心を間欠泉のようにし、あなたに近づくあらゆる人に火傷を負わせるがいい。誰ひとり無関心なままにさせておいてはならない。あなたがた、日曜学校で教えている人たち。何らかのしかたで神のために働いている人たち。それを徹底して良いしかたで行なうがいい。「あなたの心をわたしに与えよ。わが子よ」、と神は云われる。神のための良い働き人の資質は一にかかって、自分の仕事に心から打ち込むかどうかにある。私は何人かの女主人が、卓子を磨いているしもべたちに向かって、そうした働きは力を入れて磨くのが何よりです、と告げているのを聞いたことがある。そして、それは正しい。勤勉な労働は素晴らしいことである。それによって川の下にも道が通り、アルプスを貫いて道ができる。勤勉はほとんどあらゆることを行なうであろう。だが神への奉仕は、勤勉であるばかりでなく、熱のこもった労働でなくてはならない。心が燃え立っていなくてはならない。その意図することに心が注がれていなくてはならない。子どもがいかに泣くか見るがいい。私は、それを聞くのが好きではないが、それでも、一部の子どもたちが満身の力をこめて泣くことに注目する。何かを欲しがるとき、彼らは足の爪先から髪の毛の先まで泣き叫ぶ。それこそ説教すべきしかたであり、それこそ祈るべきしかたであり、それこそ生きるべきしかたである。全人が心から聖なる働きに携わらなくてはならない。愛によって、この知恵はこうした要求を行なっている。神は、ご自分に対する奉仕において私たちが心を完全に携わらせない限り、みじめになることをご存知なのである。説教が重い務めだと感じるとき、また、六日働いてきた後で《日曜学校》で教えるのは難儀だと感じるとき、また、小冊子をかかえてある地区を回るのは辛気くさい務めだと感じるとき、――そのときの私たちには、何事もうまく行なうことができない。心をこめて自分の奉仕に打ち込むがいい。すると、すべては喜ばしいものとなる。だが、それ以外のことによっては無理である。
II. さて、本日の聖句を別のしかたで眺めてみたい。《知恵は私たちを説得して、この愛に満ちた要求に従わせようとしている》。私たちの心を取り上げて、それらを神にささげることは、私たちが行なえることの中でも最善のことである。もし私たちが以前にそうしていたとしたら、それをもう一度やり直し、この神聖な預かり物を再びこの愛しい御手に引き渡すべきである。この方は、私たちがその守りの配慮にゆだねるものを確かに守ってくださるであろう。「わが子よ。あなたの心をわたしに与えよ」。
知恵が私たちにそうさせようと説得しているのは、他の多くの者どもが、私たちの心を渇望しているからである。また、私たちの心が確かにどちらか一方に行かざるをえないからである。私たちは、自分の心が滅ぼされるような所に行かないように気をつけようではないか。次の節を読み上げようとは思わないが、多くの人は肉の様々な欲によって自分の心と魂を永遠に失ってきた。その人の破滅のもととなった女は、「強盗のように待ち伏せて、人々の間に裏切り者を多くする」[箴23:28]。幸いなのは、心を決して悪徳で汚されたことのない青年である! 不潔から守られるには、心を聖なる主に与えるしかない。このような町においては、いかにきよい思いをした者も、無数の誘惑に取り囲まれている。そして、多くの人々は、自分でも気づかぬうちにその足を滑らせ、押し流されてしまう。なぜなら、じっくり考える時間もないうちに、誘惑によって地べたに投げ倒されてしまうからである。「それゆえ、わが子よ」、と知恵は云う。「あなたの心をわたしに与えよ。誰もがあなたの心を盗もうとしている。だから、それを私に預けておくがいい。そうすれば、あなたは見知らぬ女の魅惑を恐れる必要はない。わたしがあなたの心を握り、それをわたしが現われる日まで無事に守る[IIテモ1:12]からである」。何にもまして賢いのは、イエスに私たちの心を与えることである。誘惑者たちがそれを追い求めているのだから。
他にも魂を滅ぼす者たちがいる。それについて多くは語らないが、この文脈がそれについて何と云っているかを読み上げることにしよう。――「わざわいのある者はだれか。嘆く者はだれか。争いを好む者はだれか。不平を言う者はだれか。ゆえなく傷を受ける者はだれか。血走った目をしている者はだれか。ぶどう酒を飲みふける者、混ぜ合わせた酒の味見をしに行く者だ。ぶどう酒が赤く、杯の中で輝き、なめらかにこぼれるとき、それを見てはならない。あとでは、これが蛇のようにかみつき、まむしのように刺す。あなたの目は、異様な物を見、あなたの心は、ねじれごとをしゃべる」*[箴23:29-33]。この章の残りを注意深く読んで、知恵がこう云うのを聞くがいい。「わが子よ。もしあなたが、酩酊や暴食、好色や淫乱、また心が傾きがちなすべてのものから守られたければ、あなたの心をわたしに与えよ」。
あなたの心を保護するため、知恵が供することのできるあらゆる手立てを用いるのは良いことである。あなたにとって罠となるものを完全に差し控えるのは良いことである。だが、私はあなたに命ずる。節制により頼んではならない。むしろ、あなたの心をイエスに与えるがいい。というのも、真の敬虔さに達さないいかなるものもあなたを罪から守ることはなく、神の御前で、あなたを傷のない者として、この上もなく大きな喜びをもって立たせる[ユダ24]ことはないからである。もしも欠点のない者として保たれ、最後まで誉れある者でありたければ、わが子よ。私は命ずる。あなたの心をキリストに与えるがいい。
知恵が即座の決断を促しているのは、心はただちにキリストによって取り上げられ、占領されるのが良いからである。悪魔が入るのは、からっぽの心である。ご存知のように、悪童たちは常に空き家の窓を破るものである。そして、悪魔は心がからっぽの場合は常に石を投げつけるのである。だがもしあなたが誘惑されても、悪魔にこう云うことができるとしたら、――「もう遅い。私は私の心をキリストに与えてしまった。私はお前の申し入れに耳を傾けることはできない。決して破れることのない愛の絆で、《救い主》と婚約しているのだ」、――いかにほむべき防衛手段をあなたは有していることか! 私の知る限り、この危険な時代にあって何にもまして青年を守れるのは、こう歌うことができることである。「神よ。わが心(み)は定まれり。定まれり! 余人あてなく飛び回り、舞い降る先を求むれど、などわれ逸れん、汝が甘露(めぐみ)より」! 「わが子よ」、とこの聖句は云う。「あなたの心をわたしに与えよ」。それはキリストがそこに宿り、サタンがやって来るとき、この武装した強い人[ルカ11:21]よりももっと強い者がその家を守って、この敵を撃退できるようにするためである。
愛する方々。イエスにあなたの心を与えるがいい。知恵があなたに即座にそうするよう命じているのは、それが神を喜ばせるからである。あなたは、友人に贈り物をしたいだろうか? ならば、あなたがすることは決まっている。あなたはその友人が尊ぶものを突きとめようとするであろう。というのも、あなたはこう云うからである。「彼には、彼を喜ばせるようなものを与えたいものだ」。あなたは、神を確実に喜ばせるものをささげたいと思うだろうか? ならば、並ぶものもない見事な構造の教会を建てる必要はない。――私には神が石や木にそれほど関心があるかどうか分からない。あなたは、一連の救貧院に寄付すべき金銭を蓄えるまで待つ必要はない。貧者を恵むことは良いが、イエスは、ほんの一コドラントにしか当たらないレプタ銅貨を2つささげた者の方が、献金箱にその富を投げ入れていた金持ちたち全員よりもたくさん投げ入れたと云われた[マコ12:42-43]。私の御父である神は、私が何を与えることを好まれるだろうか? 神はお答えになる。「わが子よ。あなたの心をわたしに与えよ」。神はそれをお喜びになる。神ご自身がこの贈り物を求めておられるからである。
もしこの場に誰か、きょうが誕生日だという人がいるとしたら、あるいは、結婚記念日か、その他の喜ばしい機会の記念日だという人がいるとしたら、神に贈り物をするがいい。自分の心を与えるがいい。神がそれをこう言葉で云い表わしておられるのは素晴らしいことである。「わが子よ。あなたの心をわたしに与えよ」。もし神がそう仰せになっていなかったとしたら、私はあえてこのようなことを云わなかったはずである。だが、神はそれをこう表明しておられる。このことは、角と割れたひずめのある若い雄牛[詩69:31]にまさって、また、銀の香炉から立ち上る香にまさって、また、あなたが才知の限りを尽くして考案できる一切のもの、富によって購入できる一切のもの、美をもって設計できる一切のものにまさって、神に喜ばれるのである。「わが子よ。あなたの心をわたしに与えよ」。
というのも、やはり注意するがいい。もしあなたが心を神に与えないとしたら、あなたは全く神を喜ばせることができないからである。あなたは神に好きなものを与えるかもしれないが、あなたの心なしにはそれは神にとってことごとく忌み嫌うべきものとなる。心の伴わない祈りは、とんでもないまがい物である。心の伴わない歌はうつろな音である。心を伴わずに教え、労することは、《いと高き方》への侮辱である。心を与えない限り、いかなる奉仕も神に対して行なうことはできない。あなたはここから始めなくてはならない。そうするとき、あなたの手や財布は、それらが与えたいものを与え、あなたの舌や頭脳はそれらが与えることのできるものを与えるであろう。だが、まずあなたの心を――まずあなたの心を――あなたの内奥の自我を――あなたの愛を――あなたの愛情を与えるがいい。あなたの心を与えない限り、神に何も与えたことにはならない。
また、神はそれに値するではないだろうか? 私はこの論理を用いるつもりはない。なぜなら、いかにしてか、もしも人に何かを与えるように強要するとしたら、結局のところそれは贈り物ではなく租税となるからである。神に対する私たちの献身は、疑いもなく、その自由さになくてはならない。キリスト教信仰は自発的なものであって、さもなければ、偽りである。もし私があなたの心は神に当然与えられるべきものであることを立証したとしたら、何と、そのときあなたは、それを贈るのではなく、まるで借金を払いでもでもするかのように与えることになるであろう。それで、私はこの弦には非常に軽く踏めるだけにしよう。音楽を引き出そうとして、和弦を断ち切ることになってはいけないからである。このように云い表わしてみよう。確かに、心に対しては心を与えるのが良いであろう。かつてひとりの《お方》がやって来られて、人間の性質を身に帯び、人間の心を胸のうちにまとわれた。そして、その人間の心は、悲しみによってさんざんに踏みにじられ、この方が涙を流したと記されるほどであった[ヨハ11:35]。それは、苦悶によって一段と蹂躙され、「汗が血のしずくのように地に落ちた」、と記されるほどであった[ルカ22:44]。この方はさらに悲嘆によって圧倒され、ついにこう口にしたほどであった。「そしりが私の心を打ち砕き、私は、ひどく病んでいます」[詩69:20]。そして、こう書かれている。「兵士のうちのひとりが彼のわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た」*[ヨハ19:34]。1つの心があなたに与えられたのである。あなたは自分の心を与えないのだろうか? これ以上は何も云うまい。
私は危うくこう云うところであちった。すなわち、この場に私の《主人》を連れて来て、この演壇に立たせ、あなたがこの方を見ることができたなら良いのに、と。だが、信仰は見ることからではなく、聞くことから始まる[ロマ10:17]と私は承知している。それでも私は、十字架につけられた主を、あなたがたの目の前に、はっきり示し[ガラ3:1]たいと思う。おゝ、ならば、この方の心には心を与えるがいい。そして、あなた自身をこの方に明け渡すがいい! あなたの霊の中にはいま、甘やかな囁きがしていないだろうか? 「あなたの心を引き渡しなさい」、と云っていないだろうか? そのかすかな細い声に耳を傾けるがいい。そうすれば、私がこれ以上語る必要は全くないであろう。
嘘ではない。愛する方々。知恵を得るには、あなたの心を知恵に与える以外にないのである。十字架につけられたキリストという科学――これはありとあらゆる科学の中で最も卓越したものだが――それを理解するには、あなたの心をそれに与えることによるしかない。あなたがたの中のある人々は、キリスト教信仰を身に着けようとしてきた。救われようとしてきた。だが、それを気の抜けたようなしかたで試みてきた。「わが子よ。あなたの心をわたしに与えよ」。知恵は、そうするようにあなたに示唆している。というのも、あなたの全心がそこにつぎ込まれない限り、決して生き生きとそこで成長することはないからである。一部の人々は決して仕事で成功することがない。自分の商売を好んでおらず、そのため決して繁盛しないのである。そして確かに、キリスト教信仰という問題においても、それを愛さない限り、また、心底からそれに打ち込まない限り、誰ひとり生き生きと成長することはない。ある人々は、自分をみじめにするに足るだけのキリスト教信仰を有している。それすらなければ、この世を楽しんでいられるであろう。だが、彼らはこの世を楽しむにはキリスト教信仰を持ちすぎている。だがしかし、来たるべき世を楽しむほどには、それを持ち合わせていない。おゝ、あなたがた、あわれな二股膏薬たち。――あなたがた、マホメットの棺のように地と天の間で宙吊りになっている人たち。――あなたがた、蝙蝠のように鳥でも獣でもない者たち。――あなたがた、飛魚のように空中でも水中でも棲もうとしながら、どちらの元素内にも敵を見いだす人たち。――あなたがた、これでもなければ、あれでもなく、別の何かでもない人たち。神の国では余所者でありながら、悪魔と和合していられもしない人たち。――あなたは実に憐れむべき存在である。おゝ、あなたをぐいっと引っ張って、その境目の国のこちら側へ来させることができればどんなに良いことか! 私の《主人》は私に、あなたを無理矢理にでも入って来させよと命じておられる。だが、私はこの聖句の使信を繰り返すほか何ができるだろうか? 「わが子よ。あなたの心をわたしに与えよ」。これ以上、遅疑逡巡していてはならない。あなたの心にどちらか一方を行かせるがいい。もし悪魔が愛するに値するなら、悪魔にあなたの心を与え、彼に仕えるがいい。だが、もしキリストが愛するに値するなら、主にあなたの心を与え、ためらいとは縁を切るがいい。すっぱりとイエスに向かうがいい。おゝ、願わくは主の御霊があなたの向きを変えさせ、あなたが向き直り、主の御名がほめたたえられるように!
III. さて今しめくくりとして第三の所見を述べたい。《賢い者となり、今すぐこの知恵の訓戒に耳を傾けよう》。いま私たちの心を 神に与えようではないか。「わが子よ。あなたの心をわたしに与えよ」。
いつか? 今すぐである。神が少しは私たちを待ってくださるなどとは全く示唆されていない。私は、もう少しだけ待ってからと思っている人々がなるなら、いつ待つことをやめるのか、その時を定めてほしいと思う。彼らは常に明日になったらちゃんとするつもりである。それは何月の何日だろうか? 暦を調べてみても、明日などとという日は見つからない。聞くところ、世の中には馬鹿の暦というものがあるという。そして、そこには、その明日があるのだという。だが、あなたは馬鹿ではないし、そんな暦を持ってはいない。明日、明日、明日、明日、明日、明日、明日。それは鴉の鳴き声のような凶兆である。きょう、きょう、きょう、きょう、きょう。これは救いを告げる銀の喇叭であって、それを聞く者は生きるのである。願わくは、私たちが永遠に「明日!」と叫んでいることがなく、ただちに私たちの心を神に与えることができるように!
いかにしてか? この訓戒に注意を払うと、それが私たちに、自由に行動することを求めていることが分かるであろう。「わが子よ。あなたの心をわたしに与えよ」。枷につないで引きずってくる必要はない。すでに述べたように、このことを当然なすべき責務であることを、あまりに押しつけがましく証明すると、それは贈り物ではなくなってしまう。これは当然の責務ではあるが、神はそれを、あたかも今回に限っては自由意志によるものであるかのように云い表わし、自由な意志作用にゆだねておられる。神は云っておられる。「わが子よ。あなたの心をわたしに与えよ。あなたがわたしから受けている一切のものは、無代価の恵みによる贈り物である。今あなたの心を自発的にわたしに与え返すがいい」。覚えておくがいい。私たちが恵みの力について語るとき、私たちは物理的な力を意味しているのではなく、自由な意志者、また、理性のある存在に当てはめることのできる力のことだけを意味しているのである。主はあなたに懇願しておられるのは、あなたが打ち砕かれて、粉砕されて悔い改めに至らされることでも、鞭打ちや、拍車によって聖なる生き方に蹴り立てられることでもない。むしろ、「わが子よ。あなたの心をわたしに与えよ」。聞くところ、葡萄の最も濃厚な果汁は、最初の一触れでごく微かな圧力をかけたときに出てくるものだという。おゝ、神に私たちの最も自由な愛を与えることができたならどんなに良いことか! あなたもこの古い格言を知っているであろう。志願兵一人は徴用兵二人の価値がある。私たちはみな、ある意味では徴用兵であるが、それでも、こう書かれている。「あなたの民は、あなたの力の日に喜んで仕える」[詩110:3 <英欽定訳>]。願わくは、あなたがただちに喜んで進んで仕える者となるように!
「わが子よ。あなたの心をわたしに与えよ」。人が罪の生活を長く続けない限り、罪が割に合わないことを学ばないというのは、残念なことに思われる。人が骨折だらけになっから神のもとに来て、青春時代のすべてを費やして悪魔に仕え、ぼろぼろになった後で天来の軍隊に入隊するというのは悲しい事態である。キリストは、その人が来ればいつでも受け入れてくださるであろう。だが、あなたがまだ年若い頃から、こう云うとしたら、いかにいやまして良いことであろう。「さあ、主よ。私はあなたに私の心を差し上げます。あなたの甘やかな愛に取り囲まれて、私は人生の明け初めのうちに、自分をあなたに引き渡します」、と!
さて、これがこの聖句の意味である。あなたの心をただちに神に与え、心から進んでそうするがいい。
徹底的にそうするがいい。「わが子よ。あなたの心をわたしに与えよ」。あなたはキリストに心の一片を与えることはできない。半分に切られた心は死んでいるからである。ほんのひとかけらでも取り除かれた心は死んだ心である。悪魔はあなたの心の半分しか持てなくとも頓着しない。彼はそれで全く満足する。彼は、あの子どもの本当の母親ではない女のようだからである。彼はそれが半分にされようが全然構いつけない。だが、その子の本当の母親は云った。「おゝ、その子を殺さないでくださ! 2つに切らないでください」[I列3:26参照]。そのようにキリストは、真に心を《愛しまつるお方》であって、心が分割されることをお許しにならない。もしそれが一方に行かなくてはならないとしたら、それが誤った方向でも、そちらへ行かせるがいい。だが、もしそれが正しい方向に来るとしたら、主は喜んでそれを受け入れ、きよめ、完璧にしてくださる。ただし、それにはその心がことごとくやって来て、分割されていないことが条件である。「あなたの心をわたしに与えよ」。
誰かこのように云っている人がいるだろうか? 「私は、喜んで神に私の心を与えたいと思います」。それは結構。ならば、それを実際的なしかたで眺めてみよう。それは今どこにあるだろうか? あなたは、自分の心がどこにあるか見いだすまでは、それを与えられない。私の知っていたある人は自分の心を失っていた。彼の妻はそれを持っていなかったし、彼の子どもたちも持っていなかったし、彼自身、それを持っているようには見えなかった。「それは妙なことだ」、とあなたは云うであろう。よろしい。彼は年中腹ぺこにしていた。腹一杯食べたことがほとんどなかった。彼の服はすりきれてみすぼらしかった。彼は自分の回りの者らをみな腹ぺこにしていた。彼には何の心もないように思われた。ひとりの貧しい女が彼に少額の家賃を払えないでいた。彼女は表通りに叩き出された。彼には何の心もなかった。ひとりの男が彼から金を借りていたが、返済が少々遅れた。その債務者の子どもたちはパンを求めて泣いていた。だがこの男は、誰が飢えて泣こうが、その子たちがどうなろうが構わなかった。自分の金を取り戻すのだ。彼は心を失っていた。それがどこにあるのかようやく分かったのは、ある日、彼の家に出かけて、大きな箱を見たときであった。それは、いわゆる鉄金庫というものだったと思う。それは、奥の間の扉のかげにあった。そして、彼が重たげな鍵でそれを開き、差し錠が滑らされ、その中身が開いたとき、その内側にはかび臭い、細々としてものがあった。それは七年前の胡桃の芯ほどにも干からび、枯れ果てていた。それが彼の心であった。もしあなたが自分の心を鉄金庫に閉じ込めているとしたら、それを取り出すがいい。できる限りすみやかに取り出すことである。心を手の切れるようなポンド紙幣の札束に詰め込んだり、金や銀の山の埋めるのはぞっとするほど恐ろしいことである。健康な心というものは、決して硬い金属に覆われたりはしない。あなたの金銀は、あなたの心がそこに縛りつけられているとしたら、腐食している。
私の知っているある若い婦人は、――今の私は、そうした種類の婦人たちを幾人か知っていると思うが――その心を一度も見せたことがない。彼女がこれほどまでに蓮っ葉で、浮ついていて、軽薄な理由を私が初めて見てとったのは、彼女がその心を衣装箪笥にしまっているのを発見したときであった。不滅の魂にとって、それはあわれな牢獄ではないだろうか。しみがそれを羊毛のように食いつぶす前に、それを取り出すに越したことはない。私たちは、洋服を自分の心の偶像とするとき、心を持っているなどとは到底云えない愚かな代物に成り果てている。そのような愚かな心とはいえども、それは衣装箪笥から出してやって、キリストに与える方が良い。
あなたの心はどこにあるだろうか? 私の知っているある人々は、それを居酒屋に置きっぱなしにしている。またある人々が心を置きっぱなしにしている場所は、――慎み深さのゆえ頬を朱に染めないために――私が口にもしないような場所である。しかし、あなたの心がどこにあろうと、それがキリストとともにないとしたら、間違った場所にあるのである。云って、それを取って来るがいい。ここに持ってきて、それを買い取られたお方の御手に渡すがいい。
しかし、それはいかなる状態にあるだろうか? 「左様。それが問題なのだ」。というのも、先に述べたように、あの守銭奴の心はかび臭い、細々としたものとなっていたし、人々の心は、それを置いていた場所の臭いがしみつき出しているからである。ある婦人たちの心は、衣装箪笥の中に置かれていたことにより、かびたような、ぼさぼさのものになっている。ある人々の心は、自分の金の間に置いていたために腐食しており、ある心は、悪徳に浸していたために、徹底的に腐敗している。酔いどれの心はどこにあるだろうか? それは、いかなる状態になっているに違いないだろうか? 悪臭を放つ不潔なものである。それでも神は、「あなたの心をわたしに与えよ」、と仰せになる。何と! こんな代物を? しかり。あなたに云わなかっただろうか? 神があなたの心をお求めになるとき、それはあなたへの愛のためであり、あなたから得られる利得のためではない、と。というのも、愛する方々。そのような場所にあって、そのような状態に落ちぶれ果てたあなたの心が、何ほどのものだろうか? だが、それでも、それを神に与えるがいい。神が何をなさるかあなたに教えよう。あなたの心に奇蹟をもたらしてくださるのである。錬金術師のことは聞いたことがあるであろう。卑金属を取り上げては、それを金に変えると触れ込むのである。主はそれ以上のことをなさる。「あなたの心をわたしに与えよ」。あわれで、不潔で、汚れて、汚染され、堕落した心を!――それを神に与えよ。それは今は石のようで、今は腐敗している。神はそれを取り上げられる。そしてその心が、かのキリストの神聖な御手の中に横たわっているうちに、そこに肉の心が出現するのが見えるのである。きよく、清潔で、天的な心が。「おゝ」、とあなたは云うであろう。「私は、自分のかたくなな心をどうして良いものか全然見当もつきません」。それを今キリストに与えるがいい。そうすれば、変えてくださるであろう。それを主の無限の恵みという甘やかな力に引き渡すがいい。そうすれば、ゆるがない霊をあなたのうちに新しくしてくださるであろう[詩51:10]。神があなたを助けて、あなたの心をイエスに、それも今、与えさせてくださるように!
これから諸処の病院のための募金がなされることになる。少し待った。係の方々。最後に一言だけ云わせてほしい。あなたがたは何を与えることになるだろうか? 私は、あなたがたが何を募金箱に入れるかには頓着しない。だが私は、目に見えない皿を私の主のために回したいと思う。それを、あなたがた全員に回したいと願う。そして、あなたが自分の金銭を献金箱に入れるときには、自分に向かってこう云ってほしい。「私は、私の心を目に見えないささげ物の皿に入れ、それをイエスに差し上げよう。私にはそれだけしかできないのだ」、と。では、係の方々。献金箱を回してほしい。そして、おゝ、神の御霊よ。人から人へと行き巡り、すべての心をあなたのものとしてください。私たちの主イエスのために! アーメン。
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説教前に読まれた聖書箇所――箴言8章
『われらが賛美歌集』からの賛美―― 428番、522番、797番 ---- 心:神への贈り物[了]
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