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現在の時のための説教

NO. 1990

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1887年10月30日、主日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「その日、エルサレムはこう言われる。シオンよ。恐れるな。気力を失うな。あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。例祭から離れて悲しむ者たちをわたしは集める。彼らはあなたからのもの。そしりはシオンへの警告である」。――ゼパ3:16-18


 聖書は、その内的な意味において、素晴らしく豊かで、長持ちするものである。それは、湧きあふれる泉であり、そこであなたは、汲み上げても、さらに汲み上げることができる。というのも、あなたが汲み上げるにつれて、それは永久に新しく、清新に湧き上がって来るからである。それは永遠に湧きいずる水の泉なのである。天来の約束が成就したということは、その約束が枯渇したということではない。人があなたに何か約束をして、それを果たすとき、それは、その約束の終わりである。だが、神にとってそうではない。神がそのおことばを完全に果たされるとき、それはようやく始まりでしかない。神は、それを常に守ろうとしておられ、それを守り、未来永劫に守ってくださる。もしこのような人がいたとしたら、あなたは何と云うだろうか? その人は自分の納屋の床に小麦を置いていて、それを脱穀しては、その黄金なす穀物の最後の一粒まで、もみから出したとする。だが、翌日になると、また出かけて行っては脱穀し、前日と同じだけの穀物を持ち帰る。そして、その翌日にも、やはり自分の殻竿を持って同じ脱穀場に行き、初めの時と同じくらい自分の量りを満たして戻って来る。そして、こうしたことが一年中続くのである。これは、あなたにとって妖精物語と思えるではないだろうか? それは確かに、驚くべき奇蹟にほかならない。しかし、もしこの奇蹟が、長い人生の間ずっと続くことがありえたとしたら、私たちは何と云うべきだろうか? それでも私たちは、信仰を初めて与えられたとき以来、神の約束を脱穀し続け、自分の受ける分をもれなく毎日持ち出し続けてきた。この輝かしい事実について、私たちは何と云えばよいだろうか? 代々の聖徒たちは、最初の日から今に至るまで、同じことをしてきたのである。また、それと同じくらい真実なことがある。すなわち、地上に困窮する魂がある限り、約束の扉を殻竿で打ち叩くと、最初の人が自分の量りを満たして喜びながら帰っていったときと同じほどの、最上の小麦があふれるほどに与えられるのである。私は、いま私たちが前にしている聖句の特定の適用について詳しく語るつもりはない。疑いもなく、このことばは、本来意図された通りの具体的なしかたで成就したに違いない。また、もしこの箇所が暗示している、さらに何か特別の歴史的部分が残っているとしたら、やはりそれも、しかるべき時点で成就されるであろう。だが私はこのことを知っている。すなわち、それらの合間に生きてきた者たちも、この約束が自分たちにとって真実であることを見いだしてきたのである。神の子どもたちは、あらゆる種類の状況のもとにあって、こうした約束を用いてきたし、そこから最高の慰めを引き出してきた。そして今朝、私は、この聖句が現在の折のために新たに書き下ろされていたものであるかのように感ずる。というのも、その一語一語は、私たちの眼前にある危機的状況にとって、まさにぴったりあてはまるからである。もし主が、ご自分の教会のまさに今の状況に御目を据えて、西暦1887年の本年のために、この箇所だけをお書きになっていたとしても、これほど、この折にかなったものはほぼありえなかったであろう。私たちの務めは、このことを示すことにある。だが私は、それよりもさらに多くのことを目指したい。こう祈ろうではないか。私たちが聖なるみことばのこの素晴らしい部分を楽しみ、そこに熱烈な喜びを見いだせるように。神がその愛のうちに安らがれるとき、私たちも今朝、そのことによって安らげるように。また、神が高らかに歌って私たちのことを喜ばれるとき、私たちも、私たちの救いの神への喜ばしい詩篇をほとばしり出すことができるように、と。

 私は、この聖句の最後の節から始めて、そこから前の方へさかのぼって行こうと思う。最初の項目は、神の民にとっての試練の日である。彼らは悲しんでいる。なぜなら、彼らの例祭の上には暗雲があり、そしりが彼らの重荷となっているからである。第二に私たちが注意したいのは、栄光に富む慰めの根拠である。17節にはこう記されている。「あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる」。そして、第三に、ここには、これによって示唆される勇敢なふるまいがある。「その日、エルサレムはこう言われる。シオンよ。恐れるな。気力を失うな」。

 I. 18節から始めるときに注目したいのは、《神の民にとっての試練の日》である。例祭は、そしりの的となっていた。イスラエルの例祭は、その栄光であった。その大いなる祭礼と犠牲をささげる日々は、その国の喜びであった。真実な者らにとって、彼らの聖なる日々は祭日であった。しかし、その例祭はそしりの的となっていた。そして私は、それが現在の瞬間にも同じであると思う。私たちの厳粛な集会において、福音の光の輝きが過誤によって曇らされているとき、それは悲しく悩ましいことである。疑わしげな声が人々の間で口々に発されているとき、また真理を――真理の全体を――ほかならぬ真理だけを――宣べ伝えるべき者たちが、教理にかえて人間の想像や、時代の考案したものを公言しているとき、明瞭な証しは損なわれる。私たちは、啓示にかえて、偽って哲学と呼ばれるものを有している。天来の無謬性にかえて、憶測や、野放図な望みを有している。きのうもきょうも、いつまでも同じイエス・キリストの福音は、進歩の産物であると教えられ、成長していくべきもの、年々改正され修正されるべきものであると教えられている。喇叭がはっきりした音を出さない日、それは、教会にとっても世にとっても悪い時である。そんなことでは、だれが戦闘の準備をするだろうか?[Iコリ14:8]

 もしもこれに加えて、教会の厳粛な集会に、生気のなさや、無関心や、霊的力の欠如が忍びよっているのを見るとしたら、これは、ひときわ痛ましいことである。キリスト教信仰の活力が蔑まれ、祈りのための集会がないがしろにされるとき、私たちはいかなる事態に立ち至ろうとしているのだろうか? 教会史における現在の時期は、ラオデキヤの教会によってまざまざと描写されている。熱くも冷たくもないので、キリストの口から吐き出されてしまった教会のことである[黙3:16]。その教会は、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと誇っていたが、実は、その主は外におられて、ご自分を閉め出している戸を叩き続けておられた[黙3:17、20]。この箇所は、未回心の人々にあてはめられるのが常だが、彼らとは全く関係がない。それが関係しているのは、生ぬるい教会であり、自らをことのほか順調な状況にあると考えていながら、その生ける主が、その贖罪の犠牲という教理においてお入りになるのを拒んでいる教会である。おゝ、もし主がお入りになる許しを得ていたとしたら――そして、主はそれを切に望んでおられた――、教会はたちまちその想像上の富を振り捨てて、炉で精錬された金を与えられ、白い衣を着せられていたことであろう[黙3:18]。悲しいかな! 教会は、その主を抜きにして満足している。自分には教育と、雄弁と、科学と、その他ありとあらゆる安ピカの玩具があるからである。シオンの例祭は、まことに暗雲に覆われている。イエスとその使徒たちの教えが、教会から、大して重要でないものとされているのである。

 もしもこれに加えて、教会内で、この世への同化がはびこっており、この世の下らない娯楽に聖徒たちがうつつを抜かしているとしたら、そこには、エレミヤがこう叫んだように悲嘆に暮れるべき理由が十分にある。「ああ、金は曇っている」*![哀4:1] そのナジル人たちは雪よりもきよく、乳よりも白かったのに、すすよりも黒くなってしまった[哀4:8]。「私たちの敵はみな、私たちに向かって口を大きく開き」[哀3:46]。もし教会と世との間にもはや明確な違いがなく、信仰を告白してキリストに従う者たちが不信者と手を組んでいるとしたら、まことに私たちは嘆いて当然である! ああ、その日よ![エゼ30:2] 教会にとっても、この世にとっても、悪しき日が生じている。大いなる審きが予期できよう。主は確かにこのような民に復讐なさるからである。あなたがたは、古の時代のことを知らないのだろうか。神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、彼らと入り混じり[創6:2]、その結果、洪水が来て彼らを一掃してしまったのである。もっとも、この主題をこれ以上述べる必要はない。ここに重きを置きすぎて、慰めについて語る時間がなくなってしまうといけない。

 この聖句を見ると、そのそしりが重荷となっていた人々がいたことがわかる。彼らは、罪をもてあそぶことができなかった。まことに、多くの人々は悪など全く存在していないと云っていたし、他の人々も、取り立てて問題にするほどの悪などないと断言していた。しかり。そして、さらにかたくなな人々は、そしりと考えられているものは、実は誇るべきことであり、世紀の栄光であるとさえ宣言していた。このようにして彼らは事を軽く考え、良心の敏感な人々の嘆きを物笑いの種にした。しかし、そのそしりが警告[重荷 <英欽定訳>]となっている、残りの民がいた。こうした人々は、そのような惨禍を見るに忍びなかった。彼らを主なる神は気遣われる。預言者を通して語られた通りてある。――「町の中、エルサレムの中を行き巡り、この町で行なわれているすべての忌みきらうべきことのために嘆き、悲しんでいる人々の額にしるしをつけよ」[エゼ9:4]。多くの人々は、鉢から酒を飲み、最上の香油を身に塗るが、ヨセフの破滅のことで悩んではいなかった(アモ6:6)。だが、こうした人々は、霊に圧迫を受け、十字架を負い、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富とみなしていた[ヘブ11:26]。神の民は、キリストの贖罪の犠牲が辱められることに我慢できない。彼らは、主の真理が路上の汚泥のように踏みにじられることに耐えられない。真の信仰者たちにとって順境とは、聖霊がみことばを祝福し、罪人たちを回心させ。聖徒たちを建て上げることを意味する。そして、そうしたことを目にしていないと、彼らは柳の木々に立琴を掛けてしまう[詩137:2]。真にイエスを愛する者たちは、花婿がその教会とともにいないときには断食する[マタ9:15]。彼らの栄光は、主の栄光のうちにあり、その他の何物にもない。エリの子ピネハスの妻は、瀕死の苦悶の中で、「栄光はイスラエルを去りました」、と叫んだ。彼女がその理由としたのは、一度目は彼女の夫と義父の死であったが、二度目には、「神の箱が奪われたから」であった[Iサム4:20-22]。それゆえに彼女は、生まれたばかりのわが子をイ・カボテと名づけたのである。――「栄光はイスラエルを去りました。神の箱が奪われたから」。この敬虔な婦人の最も苦い痛みは、教会のためのもの、また私たちの神の誉れのためのものであった。神の真の民もそれと同じである。彼らは、真理が拒絶されることを痛切に感じる。

 このように霊が重荷を負うことは、神に対する真の愛のしるしである。主イエスを愛する者たちは、主が傷つくときに傷つき、主の御霊が悩まされるときに悩む。キリストが辱められるとき、その弟子たちは辱められる。教会に対して愛情をいだいている者たちは、パウロとともにこう云うことができる。「だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか」[IIコリ11:29]。神の教会のもろもろの罪は、教会の生きた肢体たち全員の悲しみである。これは、健全な感受性、生きた霊性の目印でもある。霊的でない者たちは、真理にも恵みにも全く頓着しない。彼らの関心事は財政であり、人数であり、体裁の良さである。全く肉的な人々は、こうした事がらのいずれにも頓着しない。そして、非国教徒の政治的目標が進展しつつある限り、また社会的立場が向上しつつある限り、それで十分なのである。しかし、神から出た霊を持っている人々は、真実な者が真理を捨て去るのを見るくらいなら、彼らが迫害されるのを見たいと思う。富裕な諸教会が世俗性の中で死んでいくくらいなら、諸教会が貧困のどん底の中にあっても聖なる熱心に満たされている姿を見たいと思う。霊的な人々は、教会が邪悪な立場にあるときでさえ教会のことを気遣い、その敵たちによって心くじかれる。「まことに、あなたのしもべはシオンの石を愛し、シオンのちりをいつくしみます」[詩102:14]。主の家は、私たちの中の多くの者らにとっては、自分自身の家であり、主の家族は自分の家族である。主イエスがほめたたえられ、主の福音が勝利するのでない限り、私たちは、自分の個人的な利益も損なわれていると感じ、私たち自身が辱められていると感じる。それは私たちにとって小さなことではない。それは、私たちのいのちである。

 こうして私は、神の民にとって、その厳粛な集会が汚されるのは悪い日であるという事実を扱ってきた。それに対するそしりは、《新しいエルサレム》の真の市民たる者にとって重荷である。そして、このことのゆえに、彼らの悲しむ姿が見られる。主はここで云われる。「例祭から離れて悲しむ者たちをわたしは集める」。彼らは、このような重荷に心がのしかかられているときには、悲しんで当然であろう。さらに彼らは、自分たちの嘆いている悪が、百通りものしかたで悪い影響を及ぼしているのを見ている。多くの人々はびっこになり、満足に歩けない。このことは、19節の約束の中でほのめかされている。「わたしは、足なえを救う」*。シオンへの路を辿る巡礼たちは、預言者たちが「ずうずうしく、裏切る者」[ゼパ3:4]であるため、途中で足なえにされてしまった。純粋な福音が宣べ伝えられていないとき、神の民は、その人生行路で必要とする力を奪われてしまう。パンを取り上げれば、子どもたちは飢える。羊を有毒性の牧草地か、砂漠のように不毛な野に連れて行けば、やせ衰えて、足がふらふらになり、日々その羊飼いについて行くことができなくなる。教理上のことは、すぐに実際上の事がらに影響を及ぼす。私の知っている、わが国各地にいる神の民の多くにとって、安息日はほとんど安息を得られる日にはなっていない。というのも彼らは、安息が見いだされるべき真理を全く聞くことがなく、神の栄光を現わすことも、人々の魂を益することもないような新奇な見解の数々で悩まされ、うんざりさせられているからである。多くの場所で、羊たちは上を見上げるが、食物を与えられることがない。これによって多くの不安な状態が引き起こされ、疑いと猜疑が生み出され、このようにして力は弱さに変じ、信仰の働き、愛の労苦、望みの忍耐[Iテサ1:3]はみな、片ちんばな状態に押さえつけられているのである。これは嘆かわしい悪であり、それが私たちの回りに蔓延している。そして、悲しいかな! 多くの人々は「散らされている」。彼らについて、19節はこう記している。「わたしは、散らされた者を集める」*。偽りの教理によって、多くの人々は囲いの中から、さまよい出させられてしまっている。有望な者たちは、いのちの通り道からそらされており、罪人たちは、神から離反した生来の状態のまま放置されている。人々に罪を確信させるであろう真理が宣べ伝えられていない一方で、求道者たちを平安に至らせるであろう他の真理は曇らされており、魂は必要もない悲しみの中に置かれている。恵みの諸教理と、栄光に富む贖罪の犠牲とが、人々の思いの前に明確に提示されず、彼らがそれらの力を感じとれないとき、ありとあらゆる種類の悪が生じるのである。このすさまじい葉枯れ病が私たちの諸教会に襲いかかっている事態に、私は憂悶せざるをえない。というのも、ためらう者は破滅へと追いやられ、弱い者はよろめかされ、強い者でさえ困惑させられているからである。今日のにせ教師たちは、できるものなら、選民たちさえ騙そうとしている。これによって私たちの心は悲しみに暮れている。どうしてそうならずにいられようか?

 だが、愛する方々。神の民がこうした邪悪な状態にいるときでさえ、なおも彼らに望みがないわけではない。というのも、こうしたことの間近に、ご自分のさまよう者たちを回復しようという主の約束が来るからである。そうした意味の言葉が二度記されている。「わたしは彼らの恥を栄誉に変え、全地でその名をあげさせよう」。「わたしがあなたがたの目の前で、あなたがたの捕われ人を帰すとき、地のすべての民の間であなたがたに、名誉と栄誉を与えよう、と主は仰せられる」[ゼパ3:19-20]。敵たちが、永遠の証言を沈黙させることはできない。彼らは私たちの主ご自身を木にかけた。主のからだを取り下ろし、それを岩の墓に埋葬した。そして、墓所の口に転がした石に自分たちの封印を貼った。確かに今やキリストとその御国の進展には終止符が打たれたのだ、と。だがあなたがた、祭司やパリサイ人たちよ。誇ってはならない! 番兵も、石も、封印もむなしかった! 定められた時が来たとき、生けるキリストが出て来られた。主が死の綱で拘束されたままになることはありえなかった。いかに彼らの夢想のはかなかったことか! 「天の御座に着いておられる方は笑う。主はその者どもをあざけられる」[詩2:4]。愛する方々。このそしりは、やがて例祭から蹴り飛ばされるであろう。神の真理は、やがて再び喇叭のごとき大声で宣告されるようになり、神の御霊はその教会をよみがえらせ、やがて刈り入れの束のように数多くの回心者が集め入れられるであろう。真実な者たちがいかに喜ぶことか! 重荷を負い、悲しんでいた者たちは、そのときその喜びと麗しさの衣を身にまとう。そのとき、主に贖われた者たちは、喜び歌い、その頭にとこしえの喜びをいただきながら帰って来る[イザ35:10]。この争闘はあやふやなものではない。この戦闘の帰趨は決定しており、確かである。私は今でさえその叫びが聞こえるような気がする。「万物の支配者、神である主は王となられた」*[黙19:6]。

 II. 第二に考えたいのは、暗闇の中に星のように光るものについてである。この聖句の二番目の節には、《栄光に富む慰めの根拠》が提示されている。この箇所は、広漠たる海のようである。一方、私は、その無窮の大水のへりにある砂浜で、池を作っては遊んでいる小さな子どものようである。この一節からは、一連の講話をいくつも語れるであろう。私が云いたいのは、17節のことである。

 最悪の時期における私たちの大きな慰めは、私たちの神のうちにある。私たちの契約の神の御名そのもの――「あなたの神、主」――が、大きな歓喜に満ちている。「主」という言葉は、実は《エホバ》である。自存されるお方、変わることのありえないお方、永遠に生きておられる神、変わることも、その永遠の目的から動かされることもないお方である。神の子どもたち。たといあなたに何がなくとも、あなたには大いに誇ることのできる神がおられる。神を有していれば、あなたは、万物を手にするよりも多くのものを有している。なぜなら、万物は神から出ているからである。また、たとい万物が消滅させられたとしても、神はみこころ1つで万物を回復させることがおできになるであろう。神がお語りになれば、それはなされる。神が命令をお下しになれば、それは堅く立つ。幸いなことよ。ヤコブの神を自分の頼りとし、エホバに望みを置く人は[詩146:5; エレ17:7参照]。主なるエホバにだけ、正義と力はある[イザ45:24]。いつまでも主に信頼しようではないか[イザ26:4]。幾星霜を経ても、私たちの神には何の影響も及ぼされない。困難が嵐のように私たちに押し寄せようと、神が私たちの守りである今や私たちに近づくことはない。ご自分の教会の神、エホバは、その教会の一員であるあらゆる個々人の神でもあられ、それゆえあらゆる者が神を喜ぶことができる。私の兄弟よ。エホバは、あなたの神である。全宇宙の中で、他のだれも、その契約の御名を使うことができないほどに、あなたの神なのである。おゝ、信仰者よ。主なる神は、完全に、全く、あなたの神であられる! 神のすべての知恵、すべての洞察、すべての力、すべての不変性――神ご自身のすべてが、あなたのものである。神の教会について云えば、教会は、最低の境遇にあるときも、それでも可能な限り最高の意味において確立しており、豊かである。――天来の聖定によって確立しており、すべてを満ち足らす神を有することによって豊かである。ハデスの門もそれには打ち勝てない[マタ16:18]。自分の所有するものに、小踊りして喜ぼうではないか。私たちは貧しくとも、神を有することにおいて無限に富んでいる。私たちは弱くとも、《全能のエホバ》が私たちのものであられる以上、私たちの力には何の限界もない。「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」[ロマ8:31]。神が私たちのものであるなら、それ以上に何が必要だろうか? 悲しむ者よ。元気を出し、しっかりするがいい。もし神があなたの神であられるなら、あなたは望みうる限り最高の状態にあるのである。神の栄光ある御名に包まれているとき、私たちは現世のためにも永遠のためにも、地上のためにも天国のためにも、あらゆるものを見いだすのである。それゆえ私たちは、エホバの御名により旗を高く掲げ[詩20:5]、戦闘へと進軍するであろう。神は、ご自分の目的と、契約と、誓いとによって、私たちの神であられる。そして、この日、神は、私たち自身が神を選んだこと、私たちがイエス・キリストと結び合わされていること、私たちがそのいくつしみを経験していること、そして、私たちを、「アバ。父」と呼ぶ子としてくださる御霊[ロマ8:15]によって、私たちの神であられる。

 この慰めを強めることとして、次に注目したいのは、この神が、私たちのただ中におられるということである。神は遠くに離れてはおられない。もしかして見いだすこともあるかもしれないような、苦労して求めるべきお方ではない。主は、身近におられる神であり、御民をいつでも救いだそうと待っておられる。これは喜ばしい考えではないだろうか? 私たちは海を越えて神に叫ぶのではない。神はここにおられる。私たちは、あたかも神が星々の彼方に住んでおられるかのように、遠くから見上げるのではないし、底知れぬ深淵の下に身を隠しておられるような神について考えるのでもない。むしろ主は、非常に近くにおられる。私たちの神は、「あなたのただ中におられる」エホバである。ベツレヘムでひとりのみどり子が生まれ、ひとりの男の子が、私たちに与えられた[イザ9:6]とき以来、私たちは神を「インマヌエル(訳すと、神は私たちとともにおられる)」として知っている[マタ1:23]。神は、私たちと同じ性質を持っておられ、それゆえ私たちに非常に近くあられる。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」[ヨハ1:14]。その肉体的な臨在が去ったとはいえ、私たちはその霊的な臨在を常に有している。というのも、主はこう云われるからである。「見よ。わたしは……いつも、あなたがたとともにいます」[マタ28:20]。主は七つの金の燭台[教会]の間を歩いておられる[黙2:1]。私たちには、聖霊なる神の間近な臨在もある。御霊は教会の真中におられ、照明し、確信させ、生かし、授け、慰め、霊的な力を着せてくださる。主はなおも、ご自分の恵みの諸目的を成し遂げるため、人々の真中で働いておられる。キリスト教の奉仕に赴くときには、このことを思い起こそうではないか。「万軍の主はわれらとともにおられる」[詩46:7]。あなたが日曜学校の学級を集めるときには、あなたの主に申し上げるがいい。「もし、あなたご自身がいっしょにおいでにならないなら、私をここから上らせないでください」*、と[出33:15]。あゝ、愛する方々! もし神が私たちとともにおられるなら、私たちは人々から見捨てられることにも耐えられるであろう。これは何という言葉であろう! 「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいる」[マタ18:20]。国王そのひとが列伍にいるとき、軍は歓呼の声をあげるではないだろうか? 神が立ち上がってくださるなら、その敵どもは追い散らされてしまう! 神が私たちとともにおられるとき、神を憎む者たちは、神の前から逃げ去るに違いない。決して神の御霊を悲しませないような生き方をしようと心がけるがいい。愛する方々。私たちとともにある神の臨在という事実には、あふれるほどの慰めがある。そして、もし私たちが今の瞬間に、その力を感じることができさえするなら、私たちは安息に入り、私たちの天国は下界で始まることであろう。

 一歩先へ進んで、さらに注目したいのは、私たちの慰めの大部分が見いだされるべき事実、すなわち、私たちのただ中におられるこの神は、救う力に満ちておられる、ということである。「あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ」。すなわち、「あなたの神、エホバは、救うに力強い者だ」、ということである。その御腕は短くなってはいない。主はなおも、「正義の神、救い主」[イザ45:21]であられる。また、主は単に救うことができるだけでなく、その能力を見せつけてくださる。「救いの勇士だ」。さあ、私の兄弟よ。私たちの回りには、心くじかれるようなことがあれこれ見てとれる。だがダビデのように、私たちの神、主にあって自らを奮い立たせようではないか。私たちはあらゆる困難を忘れてしまってかまわない。私たちのただ中におられる神は、救いの勇士だからである。ならば、神が救ってくださるように祈ろうではないか。神がご自分の教会を生ぬるさや、致命的な過誤から救ってくださるように。教会をその世俗性や形式尊重主義から救い、未回心の教役者や不敬虔な教会員たちから救ってくださるように、と。上を見上げて、今にも救おうとしている力を見つめようではないか。そして、主が何千何万という未回心の人々を救ってくださるよう、祈り続けようではないか。おゝ、キリスト教信仰の大いなる復興を見ることができたなら何とよいことか! これこそ私たちが何物にもまして願うことである。これは、私たちの敵の横っ面を殴りつけ、敵対者の歯を砕くであろう。もしも神の主権の恵みによって、何万もの人々が即座に救われたならば、信仰を否定する者たちにとって、それは何という叱責となるであろう! おゝ、私たちの父祖たちの見た、ホイットフィールドとその助力者たちが、いのちを与えるみことばを最初に宣べ伝え始めた頃のような時代が来たら、何と良いことか! 1つの甘やかな声が明瞭に大きく聞こえたとき、楽園のあらゆる鳥たちが彼に合わせて歌い出し、栄光に富む日の朝が先触れされたのであった。おゝ、もしそれが再び起こったとしたら、私はかの聖い赤子をいだいたときのシメオンのような気がするであろう![ルカ2:28-30] そのとき、シオンの娘たちは敵に向かって首を振り、彼を嘲る。それは起こりえる。しかり。もし私たちがうむことなく祈り続けるとしたら、それは起こるに違いない。「神が私たちを祝福してくださって、地の果て果てが、ことごとく神を恐れますように」[詩67:7]。修辞学の力など求めないようにしよう。いわんや富など求めないようにしよう。むしろ救いの力を求めよう。これこそ私が切望するものである。おゝ、神が魂を救ってくださるように! 私は、この一週間の間、現代思想をいだく人々からしつこく悩まされ、うるさがらされてきた後だが、自分に向かって云う。「私は自分の道を歩み、キリストの福音を宣べ伝え、魂を救おう」。十字架につけられたイエス・キリストをひとたび掲げることの方が、私にとっては、書かれたことを越えて賢くなっている人々のあらゆる揚げ足取りよりもまさっている。回心者たちこそ私たちの、回答不能な議論である。詩篇は云う。「幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は。彼らは、門で敵と語る時にも、恥を見ることがない」[詩127:5]。幸いなことよ。自分の牧会活動のもとで、多くの霊的な子どもたちを神のために生んできた人は。というのも、その人の回心者たちがその人を弁護するからである。いやされた人がペテロやヨハネと一緒に立っているのを見て、彼らは返す言葉もなかった[使4:14]。もし魂が福音によって救われているとしたら、その福音は何よりも確実なしかたで証明されているのである。組織よりも回心について、ずっと気にかけよう。もし魂がキリストと結び合わされつつあるとしたら、私たちにとって、それ以外の結託や連合のことなどどうでもよい。

 さらに進むことにする。――そして、私たちは大いなる深みに達する。ご自分の民に対する神の喜びを見るがいい。「主は喜びをもってあなたのことを楽しむ」*。これを考えてみるがいい! エホバが、生ける神が、愉悦をもってご自分の教会について考えていると述べられているのである。神は、ご自分の愛する御子の血によって贖われた魂が、ご自分の聖霊によって生かされているのを眺めておられ、神の心は喜んでいるのである。神の無限の心でさえ、ご自分の選びの民の姿を見て、常ならぬ喜びに満たされるのである。神の喜びは、その教会、その「わたしの喜びは、彼女にある」[イザ62:4]と呼ばれる者にある。私は、ある教役者が、自分でキリストのもとに導いた魂のことを喜ぶのは理解できる。また、信仰者たちが、罪と地獄から救われた他の人々を見て喜ぶのも理解できる。だが、無限に幸福であられ、永遠に幸いな神が、贖われた魂のうちに、いわば新しい喜びを見いだしていることについて、何と云えばよいだろうか? これもまた、天来の恵みのみわざの回りで鈴なりになっている大いなる驚異の1つである! 「主は喜びをもってあなたのことを楽しむ」*。おゝ、あなたは主の契約の箱のために震えている。だが主は震えてはおられず、喜んでおられる。教会は欠陥のあるものではあるが、主は教会を喜んでくださる。私たちは嘆きはするし、それが当然ではあるものの、他の望みのない人々のような悲しみに沈むことはない。というのも、神は悲しんではおらず、その御心は喜んでおり、神は喜びをもって楽しむ――きわめて強調的な表現である――と云われているからである。主はご自分を恐れる人々を喜ばれる。それらが不完全であっても関係ない。主は彼らを、やがてなるべき姿においてご覧になっており、そのために、彼らが自分自身について喜べないときでさえ、彼らについて喜んでおられるのである。あなたの顔が涙でよごれ、あなたの目が泣き腫らして真っ赤になり、あなたの心が罪のための悲しみに重く沈んでいるとき、大いなる御父はあなたについて喜んでおられる。あの放蕩息子は父親の胸で泣いたが、父親はわが子について喜んだ。私たちは疑問を感じ、疑い、悲しみ、震えている。だが、その間ずっと、初めから最後まで見通しておられるお方は、現在の不安な状態の中から何が生ずるかを知っておられ、それゆえに喜んでおられる。信仰をもって立ち上がり、神の喜びにあずかろうではないか。いかなる人の心も、敵の嘲りゆえにくじけてはならない。むしろ、神の選びの民は勇気を奮い立たせて、たとい例祭がそしりの的となっていようと、決してやむことのない神の喜びにあずかろうではないか。神が、その限りないへりくだりによって、かしこくも私たちに喜びを感じてくださっているのであれば、私たちは神に喜びを感ずるべきではないだろうか? 御国の進展についてだれが絶望していようと、神は絶望しておられない。それゆえ、勇気を出そうではないか。

 こう云い足されている。「主は、その愛のうちに安らがれる」 <英欽定訳>。私は、これほど素晴らしい意味に満ちた聖句を他に知らない。「主は、その愛のうちに安らがれる」。あたかも、私たちの神が、ご自分の民のうちに満足を見いだしておられるかのようである。神は錨地に行き着いておられる。ご自分の願いをかなえておられる。ラケルへの愛に満ちたヤコブは、ついに自分の奉公の年限に達して、最愛の者と結婚したとき、その心が安らいだ。それと同じことが、私たちの神、主のたとえ話の中で語られている。イエスは、御民がご自分のものとなるとき、ご自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足なさる[イザ53:11]。主は、その教会のためのバプテスマによって、バプテスマを授けられてくださった。そして主は、もはや苦しんではおられない。主の願いはかなったからである。主は、その永遠の選びに満足しておられる。その愛する種々の目的に満足しておられる。永遠から発した愛に満足しておられる。神はイエスを喜んでおられる。――ご自分の愛する御子に結びついた種々の栄光ある目的を、また御子のうちにある者たちを喜んでおられる。神は、ご自分の選ばれた民がキリストのうちにあるのを見て、穏やかな満足を有しておられる。これは、私たちが心の深い満足をいだくための、堅固な根拠でもある。私たちは、自分の望む通りの姿をしていない。だが同時に、自分がやがてなるべき姿もしていない。私たちは少しずつしか前進していない。だが同時に、確実に前進してはいる。結果は全能の恵みによって確保されている。私たちが自分自身に不満をいだくことは正しい。だが、この聖なる不穏さによって、キリスト・イエスにある私たちの完璧な平安が奪われるべきではない。もし主が私たちのうちに安らいでおられるとしたら、私たちは主のうちに安らってよいではないだろうか? もし主がその愛に安らいでおられるとしたら、私たちもそこに安らげるではないだろうか?

 私の心は、これらの言葉の中に、変わらざる愛、いつまでも残る愛、永遠の愛をはっきり見てとって、慰められる。「主は、その愛のうちに安らがれる」。エホバは変わることがない。ご自分の民をめとられた神は、「離婚を憎む」[マラ2:16]。不変性は神の心に刻み込まれている。雉鳩は、いったんつがいの相手を選ぶと、一生貞節を尽くし、もし愛する者が死ぬと、多くの場合、彼女を思う悲しみのためにやつれ果ててしまう。というのも、彼のいのちは彼女のいのちと1つにされているからである。それと全く同じようにして私たちの主は、ご自分の愛する者を選ばれた。そして主は決してその選択を変えない。主はご自分の教会のために死なれた。そして生きてある限り、ご自分の愛を、また、それがご自分にとっていかなる代償を伴ったかを覚えておられるであろう。「私たちを、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から引き離すのはだれですか」*[ロマ8:35]。「主は、その愛のうちに安らがれる」。

 私たちに対する神の愛は、乱されることがない。「人のすべての考えにまさる神の平安」[ピリ4:7]が、神の愛とともに宿っている。神は、ご自分の愛に不安を覚えることなく、安らかに愛しておられ、決して動かされることがない。神の静謐さについて沈思黙考するのは素晴らしいことである。無謬の知識、無限の御力をお持ちの神は、決して恐れや疑念に襲われることがない。神は、ご自分の贖われた民についても、真理の進展についても、義の支配についても、何1つうろたえる原因を見ることはない。その真の教会について云えば、神はそれが正しいものであること、あるいは、ご自分がそれを正しくすることを知っておられる。教会はイエスのかたちに変えられつつあり、神はそのかたちがまもなく完成するであろうとの完全な確信のうちに安らいでおられる。神はご自分の目的を、ご自分のしかたで、ご自分の時に実現することがおできになる。種蒔きと同時に刈り入れを見ることがおできになる。それゆえ、「その愛のうちに安らがれる」。あなたは母親がわが子を洗ってやっているのを見たことがあるであろう。顔を洗われるとき、子どもは泣きわめくかもしれない。まだ、きれいにされるのを楽しめないからである。だが母親はその子と悲しみを同じくするだろうか? 彼女も泣くだろうか? おゝ、否! 彼女は自分の赤ん坊を喜んでおり、その愛に安らいでいる。この小さな子の軽い患難は、その本当の益をもたらすことになると知っているからである。多くの場合、私たちの嘆きは、石鹸が目に入った子どもが泣くのと同じくらい浅いものでしかない。教会が艱難や迫害によって洗われている間、神はその愛に安らいでおられる。あなたや私は疲れ切っているが、神は安らいでおられる。

 「主は、その愛のうちに安らがれる」。このくだりのヘブル語は、「彼は、その愛のうちで黙っている」、である。その愛のうちにあって主は、あまりにも大きな幸福を覚えているため、それを表現せず、幸いな沈黙を守っておられるのである。主の喜びは、言葉にするには深すぎる喜びである。いかなる言語も、その愛のうちにある神の喜びを表現することはできない。それゆえ神は、言葉を一切用いない。この場合における沈黙は、無限に雄弁である。古の注解者のひとりは云う。「主は、その愛において耳しいであり、おしである」。あたかも、ご自分の選ばれた者に対する非難の声を全く聞かず、それに対する叱責の言葉を一言も語ろうとしないかのようである。イエスの沈黙を覚えておき、それによってこの聖句を講解するがいい。

 また時として主は、ご自分の民に語ることをなさらない。私たちは、元気づけられるような言葉を全く主から受けることができない。そしてそのとき私たちは、約束を求めて吐息をつき、主の愛の訪れを切望する。だが、たとい主がこのように沈黙しておられるとしても、私たちは主が単にその愛のうちに安らいでおられることを思い出そう。それは怒りによる沈黙ではなく、愛の沈黙なのである。主の愛は、主が私たちを慰めてくださらなくとも変わらない。

   「御意志(みおもい)は高く 愛はかしこく
    たまわる傷も 癒すためなり。
    よし主の常に 微笑(ほほえ)まざるも
    われを最後(すえ)まで 愛したまわん」。

主は、私たちの祈りに答えないときも、その心をもって聞いておられる。私たちの嘆願に対する拒絶は、それをお聞き届けになるのと同じ愛の別の形にすぎない。主は私たちを愛して、時にはその愛をより良く示すために、私たちが求めるものをお与えにならないことがある。それは、耳が聞いたこともないほど甘やかな約束をお語りになるときにおできになることにまさることがある。私は、「主は、その愛のうちに安らがれる」、というこの文章を愛している。わが神よ。あなたは、結局のところ、あなたの教会に完璧に満足しておられます。なぜなら、あなたは彼女がいかなるものとなるかご存じだからです。あなたは、彼女が洗い場から出て、その麗しい衣を身にまとうとき、いかに美しくなるかを見てとっておられます。見よ。太陽は沈み、私たち定命の者は終わりのない暗黒を恐れます。ですがあなたは、大いなる神よ。今朝も見ておられます。知っておられます。暗黒の時にも、あなたの庭を清新にする露が降りることでしょう。私たちの量りは一時のものですが、あなたの量りは永遠の判断です。それゆえ、私たちは、あなたの無謬の知識によって自分たちの近視眼的な判断を修正して、あなたに安らうでしょう。

 しかしながら、最後の言葉は何にもまして最も素晴らしいものである。「主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる」。考えてみるがいい。大いなるエホバが歌っておられるのである! それが想像できるだろうか? 《神性》がいきなり歌を唄い出すのを思い浮かべることが可能だろうか? 父、御子、聖霊が一緒になって、贖われた者たちのことを歌っておられるのである。神は、ご自分の民に対していだく愛において、幸せのあまり、永遠の沈黙を破っておられる。日も月も星々も、神が喜びの賛歌を歌うのを驚嘆しながら聞いている。東方の人々の間には、花嫁を迎える花婿によって歌われる特定の歌がある。それは、彼女に対する彼の喜び、また、自分の結婚するときがやってきた事実に対する彼の喜びを宣言するためのものである。ここには、霊感の筆によって、ご自分の教会をめとられる神の愛が描き出されている。それは、彼女を喜ぶあまり、歌を歌って喜ぶほどの愛である。もし神が歌っておられるとしたら、私たちも歌ってよいではないだろうか? 神は世界を造られたときにはお歌いにならなかった。しかり。神はそれを眺めて、それは良いと仰っただけであった。御使いたちは歌った。この神の子らは喜び叫んだ[ヨブ38:7]。だが、神にとってそれは大したことではなかった。神は、みこころ1つで何千もの世界をお造りになることができたからである。《創造》によっては、神は歌う気を起こされなかった。また私は、《摂理》がこれっぽっちでも喜びの兆しを神から引き出したかどうかわからない。というのも神は、摂理によって一千もの王国を整えることも容易におできになったからである。しかし、救拯ということになると、それは神にとって大きな代償を意味した。ここで神は永遠の思索を費やし、無限の知恵をもって1つの契約を起草なさった。ここで神は、その《ひとり子》をお与えになり、ご自分の愛する者たちを贖うために、御子を大いなる悲嘆に遭わせなさった。すべてが成し遂げられたとき、また主がご自分の贖われた者たちの救いにおいて、そこから何が生じたかをご覧になったとき、そのとき主は神聖なしかたでお喜びになった。ゲツセマネやカルバリを埋め合わせるほどの喜びとは、いかなるものに違いないことか! ここで私たちは大西洋の波浪の間にある。主なる神は、ご自分の贖われた民を思い、その喜びのきわみに達しておられる。「主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる」。私はこのような主題について語りながら身の震える思いをしている。この比類なき神秘を辱めるようなことを一言でも語りはしないかと恐れるからである。だがそれでも、私たちはここに書かれていることに注目して喜ぶものである。また、私たちはそこから慰めを得るべきである。主の喜びに共感しようではないか。それは私たちの力だからである[ネヘ8:10 <英欽定訳>参照]。

 III. しめくくりに私は一言だけ、《これによって示唆されている勇敢なふるまい》について語りたい。自分の負っている重荷の下で悲しむのではなく、神にあって喜ぼうではないか。神は大いなる《重荷の担い手》であり、きょう私たちはこのお方の上に私たちの荷を振るい落とすのである。ここに、それがある。――「その日、エルサレムはこう言われる。シオンよ。恐れるな。気力を失うな」。

 神の民のなすべきことは3つある。第一のことは、幸せになることである。14節を読むがいい。――「シオンの娘よ。喜び歌え。イスラエルよ。喜び叫べ。エルサレムの娘よ。心の底から、喜び勝ち誇れ」。杯に楽しみがあふれているときには、だれでも歌うことができる。だが苦い杯から絞り出された水を差し出されたときに歌えるのは、信仰者たちしかいない。陽光の中では、どんな雀もチュンチュン囀ることができる。だが、暗闇の中で歌えるのは夜啼鳥だけである。神の子どもたち。敵どもがあなたを圧倒しているように見えるときには常に――敵兵の密集した列伍が確実に勝利を得るように思えるときには常に――、歌い始めるがいい。あなたの勝利は、あなたの歌とともにやって来るであろう。悪魔にとって、自分の足で踏みつけられている聖徒たちが歌うのを聞くのは非常に困惑させられることである。それは彼には説明がつかない。彼らに重くのしかかればのしかかるほど、彼らは喜ぶのである。決意しようではないか。敵が私たちを完全に敗走されたと夢想するときには、ますます快活になろう、と。反対があればあるほど、私たちは主にあって喜ぶであろう。落胆すればするほど、確信を強めるのである。ペルシヤ人が何十万もいると告げられたときのアレクサンドロスの勇気は天晴れなものであった。「だが」、と彼は云った。「ひとりの屠殺者は、無数の羊がいても恐れるものではない」。「あゝ!」、と別の者が云った。「ペルシヤ人がその弓を引いたとき、彼らの矢は数が多すぎて、空が暗くなるほどなのです」。「日よけの下で戦えるとは嬉しいことではないか」、とこの英雄は大喝した。おゝ、愛する方々。私たちは自分がどなたを信じているか知っており、勝利を確信している! たとい勝利の確立が一万対一であったとしても、一瞬たりとも、これは難儀だなどと考えないようにしよう。むしろ、それが百万対一であることを願うようにしよう。そうすれば主の栄光は、その確実な勝利によっていやまさって大きなものとなるのである。アタナシオスは、だれもが《キリストの神性》を否認していると告げられたとき、こう云った。「われアタナシオスは、世界に抗する」、と。Athanasius contra mundum[アタナシオス対世界]という言葉は、世に知れ渡った。兄弟たち。主の戦いにおいて孤立無援となることは、素晴らしいことである。かりに私たちとともに六人の者がいたとする。六人では大した戦力の足しにならないし、足手まといの者があれば、弱さのもとにもなりかねない。むしろあなたは、孤立していればいるほど良い。それだけ神の働く余地がある。次々に人々が脱落して行き、その場所ががらんとなり、あなたがひとりの友もなく取り残されるとき、今こそ、あらゆる四隅が《神格》によって満たされることができるのである。目に見える頼りが多くあり、望みをかけられるものが多くある限り、その分だけ、神だけを単純に信頼する余地が少ないのである。だが、今や私たちの歌は、主についてのみ歌われる。「イスラエルの聖なる方は、あなたの中におられる、大いなる方」[イザ12:6]だからである。

 次の義務は、何物をも恐れないことである。「恐れるな」。何と! 少しも恐れてはならないのですか? しかり。「恐れるな」。しかし、確かにちょっとぐらいは震えてもよいでしょう? 否。「恐れるな」。不信仰の喉は、きつい結び目を締め上げるがいい。「恐れるな」。きょうの日にも、あなたの人生のいついかなる日にも、恐れてはならない。恐れがやって来るときには、それを追い出すがいい。何の余地も与えてはならない。もし神がその愛のうちに安んじておられるとしたら、また、もし神が歌っておられるとしたら、あなたは恐れと何の関わりがあるだろう? あなたは、荒天時に船に乗っていた乗客たちが、船長の静穏な立ち居振る舞いによって励まされた話を知らないだろうか? ひとりの無邪気な人が、その友人に云った。「恐れることなど何もないに違いないね。船長が口笛を吹いているのが聞こえたもの」。確かに、もし船長が悠々としているとしたら、そして船長にあらゆる責任がかかっているとしたら、乗客はなおもずっと平安にしていられるであろう。もし舵を取っている主イエスが歌っておられるとしたら、私たちは恐れないようにしよう。おどおどした口調はすっぱりやめにしよう。おゝ、主のうちに安らい、忍耐強く主を待つがいい。「見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る」[イザ35:4]。

 最後に、熱心になろうではないか。「気力を失うな」。今は、あらゆるキリスト者が今まで以上に主のために多くのことを行なうべき時である。神のために大いなることを計画し、神から大いなることを期待しようではないか。「気力を失うな」。今は倍増しで祈りと労苦に励むべき時である。敵たちが忙しくしている以上、私たちも忙しくなろうではないか。もし彼らが私たちの息の根を止めるのだと考えているとしたら、私たちは彼らの偽りと迷妄の息の根を止めるのだと決意しよう。キリスト者たる者ひとりひとりは、キリストの敵たちの挑戦に対して、昼夜兼行で働くことによって答えるべきだと思う。より多くの財を神の御国の進展のためにささげ、より神の栄光のために生き、より几帳面な従順さを示し、より真剣に努力し、より執拗に祈ることによって答えるべきだと思う。聖なる奉仕のいかなる部分においても、「気力を失うな」。恐れは、すさまじい怠惰を生み出すもとである。だが、勇気は私たちに不屈の堅忍を教えてくれる。神の御名によってやり抜こうではないか。私は、この教会の会員たちを、また私のあらゆる兄弟たちを奮い立たせて、神と人々の魂とのために燃える熱心をいだく者にしたいと思う。「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから」[Iコリ15:58]。

 願わくは神が、この大きな集会の中の全員をして、キリストの側に立つようにしてくださるように! おゝ、願わくはあなたがたが、キリストのもとに来て、キリストに信頼し、この曲がった邪悪な世代の中にあっても、キリストのために生きる者となるように! 主が私たちとともにあらんことを。アーメン。

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説教前に読まれた聖書箇所――ゼパニヤ3章


『われらが賛美歌集』からの賛美―― 46番、731番、18番

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現在の時のための説教[了]

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