HOME | TOP | 目次

起こったかもしれなかった、あるいは、ありえる

NO. 1944

----

----

1887年1月30日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「しかし、『盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか。』と言う者もいた」。――ヨハ11:37


 「《イエスは涙を流された》」[ヨハ11:35]。これは、主が涙を一粒か二粒こぼされたという意味ではない。むしろ、主の涙はとめどなく流れていた。それが、原語から汲み取れることである。主はおびただく、また、途切れなく涙を流し、とうとう見る者すべての注目の的となるほどであった。主は深く心を動かされており、主の涙は、その激しい情緒にふさわしい表現であった。愛によって主は涙を流された。他の何物も主を泣かせたことはなかった。どこを見ても、主が耐え忍ばれた一切の苦痛をもってしても、また、鞭打たれたときも、あの残酷な木に釘付けられたときでさえも、主が一滴でも涙をこぼしたとは書かれていない。だが、愛ゆえに、「イエスは涙を流された」。最初、私は、「見よ。主がいかに涙を流されたことか!」、と云いたい気がした。だが、それから自分を抑え、その場にいた人々の叫びから借りた言葉で、こう叫ぶものである。「見よ。主がいかに彼を愛しておられたことか!」 ユダヤ人たちは、その意地悪な目をもってすら認めたのである。主の涙が、愛によってのみ主から引き出されたものであることを。この、私たちの救いの《岩》からは、愛以外のいかなる杖をもってしても、水の流れを出させることができなかった。

 それで私たちが、この涙と、その涙を出させた愛の力とに注意した後で注目したいのは、私たちの現状に鑑みるとき、いかに、涙が私たちに対する主の愛のふさわしい表現であるかということである。あなたが、愛をもってあなたの子どもたちを眺めるとき、あなたの目は喜びで輝く。彼らが健康で元気一杯にしていれば、あなたの愛は、彼らに対する喜びによって表わされるのがふさわしい。しかし、キリストが私たちに対していだいておられる愛は、涙によって最もふさわしく表わされるものである。私たちがいかなる者で、いかに死を免れない者となっているか、また、いかに罪が私たちをこの奴隷状態に至らせたかを思うとき、主は、私たちを愛しておられるため、涙を流さざるをえない。否、死なざるをえない。というのも、主の涙でさえ、主の愛を十分明らかに示すことはできないからである。イエスはご自分の魂を注ぎ出さなくてはならない。単に涙するだけでなく、死に至るまでそうである。それは、万人が、いかに深く主が私たちを愛しておられるかを見てとるためである。

 私は、私の説教を1つの思想をもって始めたいと思う。もし私たちが本当に神の民だとしたら、私たちの霊に深くとどめられている思想、イエスは私たちを愛しておられる――涙を流すほど愛しておられる――という思想である。ラザロが死んで墓に入っていたときも主がラザロを愛しておられたというのであれば、ここに私たちは、主がいかに罪過と罪の中で死んでいた[エペ2:1]私たちを愛してくださったかを見てとろうではないか。見るがいい。いかに主が私たちを愛しておられるかを。たとい私たちの霊が鈍重で死んでいるかもしれなくとも関係ない。また、見るがいい。私たちが死に臨むときも、いかに主が私たちを愛してくださるかを。「主の聖徒たちの死は主の目に尊い」[詩116:15]。主は私たちを愛しておられ、私たちが死ぬときも愛してくださる。それは、主が墓場の入口でもラザロを愛しておられたのと全く変わらない。

 ここまでは序論であって、それはこの文脈の中に見てとれるものである。だが、これから私たちは、この聖句そのものに目を向けよう。ある人々は、キリストの涙を目にしたとき、主の愛のことしか考えなかったが、そこに立っていた他の人々は、もう少し理屈っぽく、こう論じた。「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか?」

 本日の聖句を様々な観点に照らして眺めてみるとき、私が第一に見てとるのは、1つのむなしい議論である。第二に、1つのよこしまな議論である。第三に、1つの公正な議論である。そして第四に、後続の節と結びつけて読まれる際に見てとれる、1つの完全で真実な議論である。

 I. しかし、まず最初にこの聖句の中に見てとるのは、《1つのむなしい議論》である。それは、もしこれこれのことがあったとしたら、何が起こっていたかもしれなかったか、という議論である。人々は、ごく頻繁にそうした言葉を口にする。――「もしかくかくならば、しかじかでしょうに」。だが、こうした言葉は常にむなしい。なぜなら、これは何の実際的な結果にも至らないからである。ラザロがすでに死んでしまっていたとき、このように云うことが、何の役に立っただろうか? 「もしイエスがここにいたとしたら、ラザロは死ななかったであろう」。事は起こってしまったのであり、取り消すことはできない。かつては起こったかもしれなかったが、もはやありえないことについて詮索して何になるだろうか? それでも、こうした推測から奇妙な悲しみがしぼり取られるのを私は見てきた。ことによると、人々が知りうる最も苦い悲嘆の出所は事実ではなく、起こっていたかもしれないと彼らが想像することかもしれない。すなわち、彼らは推測という井戸を掘っては、後悔という不味い水を飲んでいるのである。ラザロの姉妹たちはそうした。それぞれがこう云った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」。それよりも、ずっと不信仰なしかたで、ユダヤ人たちも同じことをして、こう云った。「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか」。しかり。そして、あなたもそう云うであろう。「あゝ、もし私がかくかくの所へ行っていたとしたら、このことは起こらなかったであろうに。また、そうしたら、他のことも起こらなかったかもしれないし、第三のこともおそらく起こらなかっだろうに。その場合、今のこの有様とはいかに異なるものになっていたことか!」 あなたは自分の辿った足取りについて自分を責めている。そうした足取りは、罪のないものであったばかりか、賢明で正しくもあった。だが、あなたは、今やそうした足取りの結果を見てとっており、それらが罪のないものでも、賢明でも、正しくもなかったのではないかと想像し始める。そして、自分がそのような足取りを取ったことを考えては、心を波立たせる。

 私の知っているある人々は、むなしく自分を責めるよりもずっと先に進む。彼らは神をすら非難する。こう云うのである。「なぜ道徳的な悪がこの世に入ることを許されたのか? なぜ人々は、今あるような性質をしているのか? 全能である神は、何の罪も何の悲しみもないように物事を整えることができなかったのだろうか?」 いったんこうした点について論じ始め、別の状況下ではいかなることが起こったかもしれないと憶測し始めるとき、私たちは、何と見事に支離滅裂な羽目に陥ってしまうことか! 見ての通り、愛する方々。今後そうした別の状況が起こることはなく、起こりえないのである。それゆえ、今はなく、これからもありえない物事について気を揉んで何になるだろうか? 私は耕すことをいとわないが、もしそこに畑がないとしたらご免こうむりたい。私は海や霧を耕しはすまい。私は、実際的なことであればいかなるも仕事に取りかかるであろうが、夢まぼろしのような空想で私の心を乱したりはしないであろう。

 もしそれがなされるべきであり、そうすることが正しければ、ただちにやり始めよう。だが、もし今は行なうことができず、単に起こったかもしれなかったことだとしたら、それを捨て去ろう。もしあなたが、「起こったかもしれなかった」あれこれのことにこだわるというなら勝手にするがいい。だが私はもっとまともな仕事をかかえている。これが、わが子についてダビデが身を処したしかたであったし、あなたの愛する者が病んでいるとき、また、すでに世を去ってしまったとき、あなたが身を処すしかたでもあるべきである。ダビデは、その子が生きている限りは断食し、祈り、神に対して叫ぶが、その子が死んでしまったときには、自分の顔を洗い、食事をとる。なぜなら、彼はこう云うからである。「あの子をもう一度、呼び戻せるであろうか。私はあの子のところに行くだろうが、あの子は私のところに戻っては来ない」[IIサム12:23]。それは起こってしまったのであり、起こらなかったことにはできないのである。では、今そのことについて気を揉んで何になろうか? おゝ、あなたが恵みを得て、この愚かしい、自分と摂理を切り刻もうとする理屈を捨て去り、もっとまともなことに理性を用いるならばどんなに良いことか! ラザロは死んだのである。ならば、もしイエスが介入しておられたなら、彼は死ななかったかもしれないなどと云って何になるだろうか?

 次のこととして、私がこれをむなしい議論と呼ぶのは、たとい私たちが起こったかもしれなかったことについての問題を提起し、それを押し進めて、そうあってしかるべきだったと考え始めるまでになろうと、それでも、不信仰は決してその説明を主から得ることがないからである。この章では、盲人の目をあけることができ、この人を死なせないでおくことのできるイエスが、なぜ彼を死なせないでおかなかったかについて、ユダヤ人たちには何の理由も説明されていない。1つの説明が主によってご自分の弟子たちには与えられた。それは神の栄光のためであるという主の確証が与えられた。その説明をあなたも得るであろう。あなたはすでにそれを受けている。もしあなたが神の子どもなのに、あなたに神が与えてよかっただろうとあなたが思うものを神があなたに拒んだとしたら、また、もし神が防ぐこともできただろうとあなたが考えるような災厄のもとであなたが苦しむことを神が許したとしたら、神はあなたに、このこと以外に何の説明もお与えにならないであろう。神がいま全く何の強要もされなくともあなたに与えてくださる説明、すなわち、それが神の栄光のためであるという説明である。もしそれが神の栄光のためならば、それはあなたの得になることではないだろうか? しもべにとって、自分の主人の栄光以上に得になることがありえようか? 私たちの愛の満ちた心にとって、神の栄光が現わされるのを見ること以上に益になることがありえようか? もしあなたがその答えで満足しないとしたら、それ以外の答えを期待してはならない。「なぜ私が子どもたちを亡くしたのだろうか?」 「なぜ私はこれほど長い年月の間、病気にかかっているのだろうか?」 「なぜ富に手が届くと希望していたときに失敗したのだろうか?」 「なぜ学位を獲得できたかもしれなかったとき、試験に落ちたのだろうか?」 避けがたい試練の理由を要求するのは、埒もないことである。もし、そうした別のことがあったとしたらどうなっていたはずだったかと推測するのは、単に夢を見ることでしかない。「今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります」[ヨハ13:7]。これで満足しているがいい。

 もう一言云えば、私がこれをむなしい議論と呼ぶのは、主があなたから隠しておられることを詮索するのは、決してあなたの益になりえないからである。あなたは、神の摂理を自分の法廷に召喚することで、自負心をのさばらせることになる。実質的にあなたは自分が王座に着き、神をあなたの法廷に引き出された囚人としているのである。あなたは、神がすでに知恵の秤で量られたことを量り直しているのである。これは決して役に立たない。難詰する精神よりは、子どものような精神の方が無限に健全であり、かつ、無限に聖い。兄弟たち。私たちは、すべてのことを知ろうと渇望することさえすべきではない。というのも、もしもあることを隠すのが神の栄光となるなら、隠されたままにしておく方が良いからである。だが、起こったかもしれなかった物事について云えば、そうしたことが私たちと何の関係があるだろうか? たとい私たちがこうした垂れ幕を持ち上げ始めても、私たちは、自分がいつの日か何を見ることになるか分からないのである。私の知っているある人々は、この領域にずかずかと踏み込んでは、とうとう自分が決して見るはずのなかった恐怖につまずいてしまった。それは実際、もし彼らが自らの不浄な想像力によって自分で自分のために作り上げなかったとしたら、決して見なかっただろう恐怖である。彼らは摂理を変更し、神が定められた時と季節を変えようという野心をいだき、とうとう病的な状態に陥ってしまったのである。はっきり狂人になったわけでなくとも、狂人になっていた方が幸せだったろうような状態である。というのも、一種の精神状態は、狂気と紙一重であり、今なお罪責感を伴っているため、責任感が破壊された場合よりも悲惨だからである。それゆえ、私は切に願う。兄弟たち。神おひとりに属しているこうした秘密の事がらの詮索は控えるがいい。あなたの益は、そうした思弁を慎む方向に存している。起こったかもしれなかったこと、起こってしかるべきだったことについて語ってはならない。神があなたに与えなかったものを恋い焦がれることによって、神があなたに与えておられる良いことに干渉してはならない。おゝ、神が知っているようにあなたも知ることができたとしたら、また、神が愛しているようにあなたも愛することができたとしたら、神が行なわれる通りにあなたも行なうことであろう! 神を信じるがいい。そして、御足元に座るがいい。神に何ができたはずか、何を行なうこともありえたか、あるいは、あなたの空想によると何を行なうべきであられたかについて、もはや語ってはならない。そこから悪が生じるといけないからである。

 II. 第二に、1つのむなしい議論について語り終えたので、ここから《1つのよこしまな議論》について語りたいと思う。というのも、私の信ずるところ、このユダヤ人たちは、神のキリストに対して、1つのよこしまな議論をふっかけようと意図していたからである。彼らはそれをこのように云い表わした。この《人》は、自分が盲人の目を開けたと云い、誰もが彼はそうしたと考えている。だがもし彼がそうしたとしたら、なぜ彼は、明らかに彼が愛していた自分の友が死ぬのを防がなかったのだ? 彼には力が欠けているか、――それは結局、彼が盲人の目を開けなかったこと、むしろ、それが騙りだったことを証明するだろう。――さもなければ、もし彼にそうした力があり、それを自分の友のために用いないのだとしたら、彼は友を愛しておらず、この涙は空涙にすぎないのだ。彼はこの人のいのちを救うことができたはずなのに、いま彼はここに立って、その死のゆえに涙を流しているのだ。とこのように敵は、私たちの主を信ずる者たちを板挟みの状況に追い込もうとするであろう。だが私たちは、どちらの板にも押しつけられはしない。そこから脱出する道を知っているからである。それでも、あなたは、この言葉の論旨を見てとるし、これがしばしばサタンの議論の論旨なのである。あなたの兄弟、あなたの母、あなたの子ども、あなたの友――こうした人々が死んでしまった。あなたはイエスに使いを出した。神に叫び求めた。尊いいのちのために執拗に求めた。だがしかし、彼らは死んでしまった。よろしい。ならば、神の側には、いのちを救うための力が欠けていたに違いない。ひょっとすると、あなたが喜んでいたあなたの回心は、――あなたが、「ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです」[ヨハ9:25]、と云っていたことは、――もしかすると、結局は、天来の力のみわざではなく、迷妄だったのかもしれない。というのも、あなたの魂を救った者は、あなたの愛する者のいのちを救うこともできたはずだからだ。そして、彼がそうしなかった以上、彼には結局そんな力があるのだろうか? そして、あなたはそうした力を一度でも受けたことがあったのだろうか?

 あなたは、このまことしやかな理屈の論旨を見てとる。これは、よこしまな議論ではないだろうか? その偽りをあばくことにしよう。かりにイエスが盲人の目を開こうと望んで、それをお開きになるとしよう。だがイエスは、だからといって、この特定の死人をよみがえらせなくてはならない義理があることになるだろうか? もしイエスがそれはふさしくないとお考えになるとしたら、それはイエスにその力がないという証拠になるだろうか? たとい主がラザロを死なせるとしても、だからといって、主が彼のいのちを救うことができなかった証拠になるだろうか? そこには何か別の理由がありえなかっただろうか? 《全能》は常にその力を行使するだろうか? 常にその力のすべてを行使するだろうか? キリストが盲人の目を開くが、ラザロの死を防ぐために介入なさらないことには、何か大きな理由がありえるではないだろうか? 私たちは、そこにはそうした多くの理由がありえると見てとることができる。だが、キリストと福音に難癖をつけたがっているとき、多くのことはたやすく忘れられてしまう。あなたは、物を見ることが不都合な場合には、自分の目を閉ざし、狂った雄牛のように盲滅法に突進することがありえる。

 その一方で、彼らがこう云うとしたらどうであろう。「もしキリストがラザロの死を防げたとして、それでもそうしなかったとしたら、主には愛が欠けているのだ」。そうだろうか? それは公正な議論だろうか? 事実問題として、それは真実ではない。私たちの信仰によっても、真実とは考えられないであろう。むしろ無限の愛が、傷つけ、懲らしめ、苦しめているのかもしれない。御父のうちには、鞭を振るうときも、口づけを給うときと同じくらい大きな愛がある。《救い主》のうちには、ラザロが死ぬのを許すときにも、ラザロを墓からよみがえらせてくださるときと同じくらい大きな愛がある。左様。そして、あまり心地よく思われない行為の方が、いやまして大きな愛で満たされていることもありえる! 最大の祝福は、悲しみを装って私たちのもとにやって来る。その死によってラザロが、霊的生活においては、それ以前に享受していたいかなる状態よりも高い状態へと至らされたとしても驚くべきではない。疑いもなく彼は、その死の前から回心者であった。だが、確かに、その死の影の領域(その様子は、聖書が描写していない以上、私も描写しはすまい。)を不思議にくぐり抜けたこと、そして、再び戻ってきたことによって彼は、キリストの御力を鮮明に意識し、そのため彼の内側にあった霊的いのちは以前にまして強靱になり、明瞭になり、無上のものとなったに違いない。私は、こう云われたお方によって死者の中からよみがえらされた人と会いたいと思う。「わたしは、よみがえりです。いのちです」[ヨハ11:25]。彼は、この聖句をもとに、非常に素晴らしいしかたで説教できただろうと思う。彼はそれを、私たちには未知の経験によって理解していたであろう。私は、ラザロがこの上もない程度で、いや高いいのちへと上ったと思うべきである。それで、ラザロを死なせたのは、ラザロに対するキリストの愛だったのであり、彼が死んだのは彼に対するイエスの愛が欠けていたからだというのは、全くいわれのない中傷だったのである。あなたがたの中のある人々を病ませたり、貧しくさせたりするのは、キリストの愛である。あなたが蔑まれ、踏みにじられることを許してきたのは、キリストの愛である。あなたが苦しみの中にとどまることを許しているのは、キリストの愛である。なぜなら、そこから出る天来の恩恵は、それ自体として少々あなたの損失になりうることを越えて、あなたの益となるからである。それで、こうしたよこしまな議論は、私たちの脳裡でいかなる形を取ろうと、叩き出すがいい。

 神が私たちのために恵みとしてなさったことについて、私たちが不信をいだくことは全く正当化されない。それは現実であり、決して夢などではない。そして、神が私たちのために行なえること、また、私たちのために将来行なってくださることについて、いかなる疑いをいだくことも正当化されない。ここまで私たちを助けてきたお方は、最後まで私たちを助けてくださるであろう。私たちのためにこれほどのことを行なったお方は、いかなる良いことを私たちに差し止めることもなさらないであろう。むしろ、今のいのちと敬虔とに必要な、そして来たるべきいのちと永遠とに必要なすべてのことを、私たちに授けてくださるであろう[IIペテ1:3]。

 III. 私たちは、ここで先に進んでごく手短に《1つの公正な議論》がいかなるものかに注意したい。もしあなたがこの聖句を取り上げて、そこから悪意をしぼり出してしまえば、これは真実なものとなる。「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか」。しかり。それは真実である。イエス・キリストは、すでに行なったことにより、何事であれ行なえるご自分の力を証明しておられる。その点について詳細に述べる必要はないが、云い表わしておこう。主が保つことのできないいのちは1つもない。あなたは、愛する者が病んだとき、主に叫び求めて良い。そのようにして構わない。たとい医者が匙を投げても、そうした人々についてイエスのもとに行くよう、私は助言する。医者にかかる前からイエスのもとに行く方がはるかにまさってはいるが。私たちはしばしば薬の使い方について誤りを犯し、薬を最初に用いることをする。だが私たちは、まずイエスのもとに行くべきである。それは、どの薬を最初に用いればよいか、また、いかなる手段を使えばよいか導きを受け、回復のために用いられる手段を祝福してくださるよう神に信頼するためである。

 私たちは、異教徒が木の塊を偶像にするのと同じくらい、医者を偶像にしてしまうことがある。それなりのものとして用いられた薬は、パンが滋養のために正しいものであるのと全く同じく治癒のために十分正しいものである。だが人は、パンだけで生きるのでないのと同じく[マタ4:4]、薬だけで癒されるのではない。パンを食べる前に私たちは、そのパンの上に主の祝福があるように願う。薬を用いるときも常に、その上に祝福を求めようではないか。私たちは医者によって癒されるのではなく、みこころとご計画によってお働きになる神によって癒されるのである。ならば、信じようではないか。他の病んだ人々のためにあのことや、このことを行なわれたキリストは、私たちがみもとに連れて行く者たちのためにも同じことをしてくださると。そして、彼らの症状をキリストの御手にゆだねようではないか。

 しかし、この聖句を霊的に取り上げるがいい。私があなたに信じてほしいのは、キリストが私たちを霊的に死から保つことがおできになるということである。私たちは、仕事柄、不敬虔な人々と交際せざるをえなくされているだろうか? 摂理によって、あなたがたの中の労働者である人々は、不信心な人々と肩を並べたり、同じ長椅子に腰かけたりする必要があるだろうか? 主イエスは、あなたが彼らから害を受けないようにすることがおできになる。あなたに霊的な健康と強さを与えることがおできになる。たといあなたが最も致命的な影響の下にあるように思われても関係ない。あなたが盲目だったときにあなたの目を開いたお方は、あなたが見えるようになっている今、あたを生かし続けることがおできになる。あなたの最終的堅忍について、主に信頼するがいい。自分の罪の赦しのために主により頼んだときと同じ、無条件の信仰によって信頼するがいい。もう一度云う。あなたが暗闇の中にいたとき、あなたの目を開いたお方は、この世と肉と悪魔がこの上もなく致命的な影響をあなたに及ぼしているとしても、あなたが死なないようにすることがおできになる。主が生きるので、あなたがたも生きるのである[ヨハ14:19]。誘惑に遭うときは、主のもとに飛んで行くがいい。必要を覚えるときは、主に叫び求めるがいい。そうすれば、主はあなたを助け、救い出してくださる。あなたは死ぬことなく、かえって生き、そして主のみわざを語り告げよう[詩118:17]。

 愛する方々。これは何というあわれみであろう。私たちはキリストが盲人の目を開けたことを振り返り見て、同じことを私たち自身の中に見てとれるのである! ここには、キリストによって目を開けられたひとりの盲人がいる。それはあなた自身である。主はあなたに視力を与えることがおできになった。では、あなたは、この議論を他の人々に移し替えることはできないだろうか? もし主イエス・キリストがあなたに視力を与えることができたとしたら、主は他の人々にも視力を与えることがおできになる。もし主があなたの盲目の目を開いたとしたら、あなたの子どもたちの目、あなたの未回心の父親の目、あなたの救われていない兄弟たちの目、あなたの救われていない姉妹たちの目を開くことがおできになる。あなたの友人たちについて信じ、彼らについて神に叫び求めるがいい。ただちにこの聖句を取り上げ、そのように読むがいい。「私の盲目の目をあけたこの方が、私の心に重くかかっている人々の盲目の目をも開くことはできないだろうか?」 思い出すがいい。盲人だったが、キリストによってその目を開かれたあの男が生まれつきの盲人だったことを。キリストは原罪を、また、体質的な罪を扱うことがおできになる。ある人々は、普通の人よりもずっと粗暴な性質を受け継いでいるように思われる。彼らの心は肉の心というよりは、石の心のように見受けられる。だがイエスは、この異様な盲人――生まれついての盲人――を扱われたイエスは、この異様な罪人たち、この、緋に染まった罪人たち、その生活の中に、他の人々のうちに見受けられるよりもずっと絶望的な凶悪さを帯びている人たちを扱うことがおできになる。キリストは、暗黒中の最暗黒の者たちをも扱うことがおできになる。彼らを主のもとに連れて行くがいい。彼らのために信じ、完全に確信するがいい。いかなる症状も、この生ける《救い主》の力が及ばないことはない、と。

 私としては、自分の同胞のどのひとりの救いも決して絶望できないし、絶望しようとも思わない。今や私が救われているからにはそうである。私は、自分の性格の中のいくつかの特徴からして、また、自分の気質の中にあるいくつかの要素からして、私がキリストに回心したことは、他の誰彼の回心以上に尋常ならざるものであることを知っている。それで私は、いかに冒涜的な人や、いかに強情な人、いかに不信仰な人についても希望を持っているのである。この栄光に富む《人》は、肉体をもって地上におられた時代、生まれつきの盲人の目を開かれたが、そのようなことは、それまで一度も知られていなかった。このお方はやって来て、罪人たちのかしらその人をも扱うことがおできになる。――左様。罪の中に死んでいる罪人たち――横たわって、自分の情欲の中で腐りつつある罪人たちをも扱い、彼らを聖徒とすることがおできになる! これは1つの公正な議論である。私はそれを確信している。

 IV. しかし、ここで最後に、彼らは決してこの聖句から《完全で真実な議論》を考えつかなかった。彼らが語ったことはせいぜい、――盲人の目を開けたこの《人》なら、ラザロが死ぬのを防ぐことができただろうに、ということであった。それは公正な議論であった。だが、それは完全な議論ではなかったし、彼らはそれよりも先に進んで、こう問おうとは決して思い及ばなかった。「今やラザロは死んでしまっている。この《人》には彼を死者の中からよみがえらせることはできないのだろうか?」 最初の方の議論は十分に突き詰められておらず、いかなる慰めも生み出さなかった。なぜなら、それは単に起こったかもしれなかったこと、そして、もはや起こることがありえなかったことだけしか扱っていなかったからである。残念ながら、私たちのキリスト教信仰の大部分は、そうした類のものではないかと思う。しかし、もし神が三文ほどの常識を一部のキリスト者たちに与えてくださるとしたら、それは何というあわれみであろう! おゝ、もしある人々が、私が真実であると確信していることを信じられさえしたら、どんなに良いことか!――それは、真のキリスト教信仰がきよめられた常識であるということ――イエス・キリストの信仰には、私たちが一生商店を経営して過ごすのと全く同じくらい実際的なものがあるということである。確かに、それは霊的で、天来の、神々しく、崇高なものではあるが、しかしそれは、あたかも私たちが一生の間、計算や統計予測に明け暮れる算数家のほか何者にもなるべきではないかのように精確なものなのである。私たちの聖なる信仰には、高尚で、鷲のように翼をかって上る憧れもあれば、数学的な真実さもある。それで、彼らはこのように議論すべきだったのである。「イエス・キリストが――この盲人の目を開いたお方が――墓に入った屍の前にやって来ている。では彼は、それを生かすことができるだろう」、と。愛する方々。今この時、あなたの精神には、罪過と罪との中で死んでいる、何人かのあわれな罪人のことがのしかかっているだろうか? あなたはその人に手を差し伸ばすことができない。あなたは、どうすればその人に感じさせたり、考えさせたりすることができるか分からない。その人の回りには、生きた火花が何もないように思われ、あなたはその人をどう扱って良いか分からない。だが信じるがいい。福音がそのような場合のためのものであることを、また、生ける神がイエス・キリストにおいて聖霊により、この粘土のように冷たい死んだ心に出会うことがおできになることを。「おゝ、これは、それよりも悪いのです」、とあなたは云うであろう。「これは、それよりも悪いのです。私が考えている人は、社会からつまはじきにされており、口にするも不潔な人間なのです」。ことによると、あなたは堕落した婦人のことを語っているのかもしれない。私たちは常に、堕落した男よりは、堕落した婦人を葬ることに熱心なものである。たとい私たちがマルタとともに、「もう臭くなっておりましょう。」[ヨハ11:39]、と云わざるをえない男であっても、なおも社会の中で容認されることはありえる。だが、もしも、そうした罪を犯しているのが婦人だったとすると、彼らは叫ぶのである。「死んだ者を私のところから移して葬るがいい[創世23:4、8]。その墓の入口に石を転がして置くがいい。あの女のことは二度と話さないし、口にもすまい」、と。もしあなたが、このように社会から締め出されている人について魂に重荷を覚えているとしたら、私はあなたにこう信じてほしい。イエスは葬られて腐っている者をも連れ出すことがおできになる、と。

 「おゝ!」、とあなたは云うであろう。「ですが、私が考えている人は単に葬り去られているだけではないのです。むしろ、それは実際、詳しく語ることもはばかられるほどのものなのです。彼は死んでもう四日になります。彼は、その罪悪が口にすることもできないほどの所まで行き着いてしまっているのです」。私はそうした状況を知っている。それでも、あなたはそれを主の前で口にして良い。主の御前では、そこから何の悪も生じはしないであろう。福音の物語のどこを見ても、ラザロの墓所が開かれたとき、その悪臭を気にした者がいたとは書かれていない。イエスは、「その石を取りのけなさい」[ヨハ11:39]、と云ったとき、ご自分の手元に天来の消毒薬があることを知っておられた。あなたがはなはだしい罪人たちを追い求めるとき、思慮深い人々は云うであろう。「おお、もしあなたがあのような人々を追い求めるとしたら、あなた自身の人格がまもなく損なわれてしまうでしょうよ」。主はいかなる害悪もそこから出て来ないように防がれるであろう。というのも、主は最も腐敗した罪人に対しても、「生きよ」、と仰せになることができるからである。そして、そのとき彼は生き、その腐敗はもはやなくなるのである。それゆえ、ある罪人がキリストによって救われるには遠くへ行き過ぎているなどという考えを私たちの精神から追い払うことにしよう。私は若い頃、「恵みの日」について、また、その恵みの日を通り越した人々について、よく耳にしたものである。だが私はそれを信じていない。あなたがこの世にいる限り、私はあなたに説教するよう命じられている。というのも、福音の使信は、すべての造られた者に宣べ伝えるよう命じられており[マコ16:15]、私はあえて、恵みの日などについて、むなしい区別立てをしようとは思わないからである。たといあなたがある病気にかかり、それが今晩、時計が十二時の鐘を打つ前にあなたのいのちを奪うことになっているとしても、それでも私はあなたに、神のキリストを信じて生きよと命じる。たといあなたが、自分で自分について考えても、地獄の外にいる男、あるいは女で、自分ほど悪辣な者が生きていたことがあるとは思えないほどの悪人だったとしても、それでもイエス・キリストを信じるがいい。私の主は大罪人を救うことを愛しておられる。それは、主が長く死んでいたラザロを墓から連れ出し、彼をその家族の胸に受け入れさせ、一家の喜び、またキリストの栄光とすることを喜ばれるのと全く変わらない。

 私は行き過ぎをしているのではない。私はそうしてはいないと確信している。否。私が行き過ぎをすることはありえない。私の大いなる主の果てしなく、底知れぬ愛――私は、それを告げることのできる人間および御使いたちの舌を持っていたらと願う。あなたは、救いを給う主の能力を越えた罪を犯したことはない。主は大いなる《救い主》、力ある《救い主》であり、主の尊い血はあなたの死と腐敗のすべてを取り除くことができる。私は、主がこれまで救ってこられた者たちについて考えると、こう論ずるものである。「盲人の目をあけた私の主イエスが、これらの死んだ罪人たちを生かさないでおくことができないだろうか?」

 私はあなたに、もう1つ別のことを告げよう。もしあなた自身が今晩、死んだ罪人であるとしたら、私はあなたに、ナザレのイエス・キリストの御名によって云おう。「主の御告げ――主イエス・キリストを信じなさい。そうすれば、あなたも救われます」[使16:31参照]。「できません」、とある人は云うであろう。「私は死んでいます」。私はあなたが死んでいると知っている。だが、もし主があなたに語っておられるとしたら、あなたは生きるであろう。そして、主は私のこの声によってあなたに現に語っておられるのである。私はその御名によってあなたに語る。あなたがた、無頓着な罪人たち。ナザレのイエス・キリストの御名によって、あなたがたの現状をよく考えよ! あなたがた、死んだ罪人たち。イエスの御名によって、生きよ! その御霊は、私がいま語ったばかりの言葉とともにやって来ておられる。私の話をいま聞いたばかりの一部の人々の心において、事はなされている。そして、この言葉を読むであろう別の人々において、事はなされるであろう。御父に、御子に、聖霊に、栄光が永久永遠にあらんことを! アーメン。

----


説教前に読まれた聖書箇所――ヨハネ11章


『われらが賛美歌集』からの賛美―― 319番、844番、631番

 

起こったかもしれなかった、あるいは、ありえる[了]

-

HOME | TOP | 目次