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愛に加わる愛

NO. 1943

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マントンにて数人の友人たちとともに行なった聖餐式執行の辞
説教者:C・H・スポルジョン
1887年1月9日、主日午後


「私の妹、花嫁よ。私は、私の庭にはいり、没薬と香料を集め、蜂の巣と蜂蜜を食べ、ぶどう酒と乳を飲む。友よ、食べよ。飲め。愛する人たちよ。大いに飲め」。――雅5:1


 花嫁が、「私の愛する方が庭にはいるように」*[雅4:16]、と云うや否や、彼女の主は答えておられる。「私は、私の庭にはいる」*。「彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く」[イザ65:24]。私たちの主イエス・キリストに、自分たちのもとへ来ていただきたいと私たちが願うとき、主は、すでにある程度まで来ておられる。私たちの願いは、主が来られた結果なのである。主は、私たちのすべての願いにおいて私たちを満たしてくださる。いつでもあわれもうと待ち受けておられるからである。私たちの「お入りください」が口にされるや否や、それは主の、「見よ。わたしはすぐに来る」[黙22:7]のうちに呑み込まれてしまう!

 《花婿》が来られたことに気づくとき、私たちは、この方が願われたことをその通りに行なわれたことにも気づく。私たちの思いが主の思いと調和していることを見いだすのは、何と心励まされることであろう! 私たちの心は、「私の愛する方が庭にはいり、その最上の実を食べることができるように」[雅4:16]、と云う。主の心はこう答えられる。「私は、私の庭にはいり、没薬と香料を集め、蜂の巣と蜂蜜を食べ、ぶどう酒と乳を飲む」。「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」[詩37:4]。主イエスは、ご自分の聖徒らの願いを、ご自分の行動の予兆としてくださる。「主の秘密はご自身を恐れる者とともにある」[詩25:14 <英欽定訳>]。主の隠されたご計画は、聖霊によって吹き込まれた願いによって、信ずる魂のうちに明かされているのである。

 この花婿が親切にも、庭の中にあるすべてをご自分のものとしてお取りになっていることに、よく注意するがいい。彼の花嫁は、「彼の最上の実」*について語っていた。そして彼は、その最も小さく、最も素朴なものをもご自分のものと認めている。彼は、所有格の接頭辞――「私の」――を繰り返している。「私の没薬、私の香料、私の蜂の巣、私の蜂蜜」、と<英欽定訳>。彼は、自分の花嫁が実を結ばせた何物をも見下さない。主は共同相続人[ロマ8:17]という観念を好んでおられる。別の箇所でこう云われた通りである。「わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神」[ヨハ20:17]。また私たちは、数々の個人的な所有代名詞をも尊ぼうではないか。約束の甘やかさは、そこに存している。それこそ、約束を抱きしめる私たちの腕である。キリスト・イエスにある愛する兄弟たち。これは魅惑的な眺めではないだろうか? 私たちの主は、私たちをご自分のものとされ、私たちのあり方すべてをご自分のものとされ、私たちの持てるすべてのもの、私たちの内側で育つすべてのもの、ご自分の恵みの多彩な形のすべてをご自分のものとされるのである。そうした種々の恵みは、私たちの心の内側で主ご自身がなされたみわざの成果である。私たちの内側にあるいくつかのものは苦いが健康に良い。そこで主は、「わたしの没薬」と云われる。あるものは素朴だが甘い。そこで主は、「わたしの蜂蜜」と云われる。あるものは希少な種類である。そこで主は、「わたしの香料」と云われる。一方、他のものは全くありふれたものである。そこで主は、「わたしの乳」と云われる。私たちの主は、この庭から真に生え出たいかなるものをも、没薬であれ乳であれ、例外とはなさらない。また、その庭に期待されて良いもの以外の何物もお求めにはならない。主は、牛の凝乳がなくとも、肥えた家畜の肉がなくとも満足しておられる。巣箱から取れたばかりの蜂蜜で満足なさる。

 私が大きな喜びとともに注意するのは、完璧とはそぐわないように見える物事が、この天来の花婿によって拒絶されていないということである。主は、初穂の祭において、パン種の入った焼き菓子のささげ物を拒まない[レビ23:17]のと同じように、この場合もこう仰せになる。「わたしは、蜂の巣と蜂蜜を食べる」*。蜂蜜は、蜂の巣がない方が純粋であろう。だが、それが混入しがちであるため、主はそれらを双方ともお取りになる。主は恵み深くも、私たちの心の願いばかりでなく、私たちの弱さがその願いに向けて努力するあり方そのものをも受け入れてくださる。それはあたかも主が私たちの祈りの精髄だけでなく、私たちの祈りの言葉をも喜ばれ、私たちの歌の意味だけでなく、その歌の音程をも尊んでくださるかのようである。しかり。私の信ずるところ、私たちの主は、私たちの悲しみだけでなく、私たちの涙をもご自分の皮袋にたくわえ[詩56:8]、私たちの願いだけでなく、私たちの呻きをも聞いてくださる。蜂蜜を含んだ蜂の巣は、主にとって尊いものなのである。墓からよみがえられた後で主は、一口の蜂の巣を召し上がられた[ルカ24:42 <英欽定訳>]。そして、疑いもなく主には、その食物を選ぶ理由があった。甘いものから集められた甘いものだが、蜜蝋が入り混ざらざるをえないもの。私たちの主は、私たちの奉仕に伴う弱さを神経質に注意したり、批判的に拒否したりすることなく、それらを受け入れてくださる。

 私がまた注意するのは、主はご自分が楽しまれるものを、ご自分でお集めになるということである。「私は没薬と香料を集める」*。多くの聖なる事がらを、私たちは一定の形式で事細かに主におささげしていはないが、主はそれらがひとくくりにしてささげられたことを知っておられる。そして主は、ひとまとめの契約でご自分に引き渡されたと知っているものを、ご自分の御手で取り上げてくださる。いかに甘やかに主は、私たちの隙間を埋めて、私たちの献身を信じてくださることか! 私たちがその文言を繰り返さなくとも関係ない。

 さらに主は、私たちの果実から混合物をお作りになる。というのも、主は 没薬と香料を集め、ぶどう酒と乳を飲み、このようにして、稀少なものと、よりありふれたものとを合わせてお取り上げになるからである。主は、ご自分の民の種々の恵みから聖なる化合物を調合し、そのようにして、それらのすぐれた部分を増し加えるすべをご存知である。主は、何が賞賛すべきものであるかについての最上の鑑定者であり、最高のしかたで性格を適応させ、混合させるお方である。主はその手腕を私たちの上に振るっておられる。しばしば、私たちの入り混じった経験によって、主は私たちのうちにある美徳を増加させてくださる。一部の恵みは、労働と知恵との結果である。それは、葡萄酒が葡萄の房を踏みつけることによって得られなくてはならないのと同じである。他の恵みは自然なものであって、人の技巧なしに生きた泉から流れ出る乳のようなものである。だが、主はその両者を受け入れ、それらを混合し、それらをひときわご自分にとって快いものとされる。単純な信仰と、経験に基づく思慮深さは、神聖な乳と葡萄酒を作り上げる。また、歓喜きわまる愛と穏やかな忍耐においても同じことが見られるであろう。それらは最もかぐわしいしかたで混ざり合うのである。主は私たちを愛しておられ、私たちを存分に楽しまれる。主は、ご自分の恵みから真に生み出されたすべてのものを喜び、そこに何の欠陥も見いださず、逆にこう云われる。「わたしは、わたしの蜂の巣と蜂蜜を食べる」。

 花嫁の祈りを主がかなえてくださることについて、こうした所見を述べた上で、この聖句については次のようないくつかの指摘をしたいと思う。

 明らかに、主イエスは私たちによって幸福になられる。この詩的な文章は、主がご自分の民の種々の恵みと働きとを尊ばれると意味しているに違いない。主が彼らの没薬と香料を集めるのは、それを尊んでおられるからである。その蜂蜜と乳をお飲みになるのは、それが主にとって快いからである。主イエス・キリストが私たちを喜びとされるというのは、考えれば不思議なことである。私たちは主に大きな苦悶をしいた。死にすら至らせた。だのに、いま主は私たちのうちにその報奨をみいだしておられるのである。これは、愛に欠けた思いには小さなことと思われるかも知れないが、この《愛する方》を賞賛する心を恍惚とさせて良いことである。私たちが神の御子、インマヌエルの君に喜びを供するなどということが本当にありえるのだろうか? 《王》はそのふさふさした髪のとりこになっている[雅7:5]。私たちに魅了されている。私たちの最初の悔い改めを見て、主はその友だちや近所の人たちを呼び集めた[ルカ15:6]。私たちの中に信仰の最初の微光を見たとき、主の心は喜びを覚えた。そして、それ以来、主が私たちのうちにご覧になったご自分のかたちのすべて、主の恵みによって作り出されたものすべてによって、主はご自分のいのちの激しい苦しみのあと[イザ53:11]を見せられてきたのである。いかなる農夫が自分のえり抜きの植物の生長を好ましく思うにもまさって、私たちの主は私たちを好ましく思われる。「主を恐れる者と御恵みを待ち望む者とを主は好まれる」[詩147:11]。これは、甘露のように舌で転がすべき考えである。しかり。主の教会は、そのヘフツィ・バハとなる。主は、「わたしの喜びは、彼女にある」、と云われるからである[イザ62:4]。

 第二に考えたいのは、このことである。主イエス・キリストは、ご自分だけで幸福にはならず、なることもできない。主は私たちをあずからせてくださる。この言葉が何と云っているか注意するがいい。――「わたしは食べる」。「友よ、食べよ」。「わたしは飲む」。「愛する人たちよ。大いに飲め」。主と御民との結びつきは、あまりにも緊密であるため、主の喜びは彼らにあり、彼らの喜びが満たされることにあるのである。主はひとりで喜ぶことができない。次の賛美歌の奇抜な一節は常に正しい。――

   「されど、われ知る、われとわが主の 堅き絆を、
    主われを残し 栄光(さかえ)に入るは 不可能(あたわぬ)ほどに」。

主は、いずこにおいても私たちを抜きにしては幸福にならない。私たちが食べるのでなければ食べず、私たちが飲むのでなければお飲みにならない。主はこのことを黙示録で別の言葉によって仰せになっていないだろうか?――「だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」[黙3:20]。この内輪の交わりは完全なものである。この楽しみは双方のものである。私たちの主イエスを幸福にするには、私たちも幸福にならなくてはならない。自分の花嫁が悲しんでいるとしたら、いかにして《花婿》が喜んでいられるだろうか? 肢体がやせ衰えているのに、《かしら》が満足していられるだろうか? この交わりの卓子において主が最も心を配っておられるのは、私たちが飲んだり食べたりすることである。「取りて食べよ」。「ありったけを飲むがいい」。主が今しもこう云っておられるような気がする。――「わたしは食べたし、わたしは飲んだ。そして、神の国で新しく飲むその日まで、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはないが[マコ14:25]、あなたがたは食べるがいい。おゝ、友よ。飲むがいい。しかり。大いに飲むがいい。愛する人たち」。このように、私たちの見るところ、第一にキリストは私たちによって幸福にされ、第二に、私たちがご自分とその喜びをともにすることを強く求めておられるのである。

 もし私たちがすでに主との幸いな交わりに恵まれてきたとしたら、主イエス・キリストは私たちがさらに幸いになることを求めておられる。私たちはもう食したと云うかもしれないが、なおも主は云われるであろう。「友よ、食べよ!」 主は、あなたが主にあずかることを新たにし、繰り返し、増し加えることを強要される。確かに私たちは主の愛の杯から飲んできた。だが主は再び私たちを招いて云われる。「飲め。愛する人たちよ。大いに飲め!」 他の葡萄酒については、「大いに飲め」、と云うのは間違いであろう。だが、この葡萄酒については、主は力を込めて云われる。「愛する人たちよ。大いに飲め!」 おゝ、かつての楽しみのすべてを、沸き立つような興奮とともに、また、一段と深く心揺さぶるようなしかたで新たにできる恵みが与えられればどんなに良いことか! それは、舌先で味わい、一口すするだけでも甘美であった。それを大いに食べて飲むとしたら、いかなることに違いないだろうか?

 それは次のことを意味せざるをえないではないだろうか? 私たちは、確かに主イエスを知ってはいるが、いやまして主のことを 知るように努めるべきである。しかり。人知を越えたその愛について、知りうる限りのことを知るよう努めるべきである。瞑想により、黙想により、知性により、敬虔な単純さにより、《主のことを》より多く、そのご人格と愛に関する一切の真理を含めて、悟るよう努力すべきではないだろうか? 何事も放り出したままにしておいてはならない。この愛の饗宴のあらゆるたくわえを食べ尽くし、飲み尽くそうではないか。

 それを食べる口が信仰である以上、《救い主》はこう叫んでいるとは思われないだろうか? 「わたしを信ぜよ。わたしに信頼を置け。大いにわたしに信頼せよ」、と。大いなる食欲さをもって食べ、かつ飲むがいい。あなたの心の信ずる思いの中に、受けうる限りのものをみな受け入れるがいい。おゝ、キリストのすべてを、また、キリストの中にたくわえられている愛と恵みと栄光をことごとく自分のものにできる恵みがあればどんなに良いことか!

 また、これはこのことも意味していないだろうか?――天来の事がらをより多く楽しむがいい。惜しげなくそれらにあずかるがいい。主イエスを糧とすることに、何か行き過ぎでもあるかのように自分を抑制してはならない。主にあって幸福になりすぎることを恐れてはならない。あるいは、主の救いを確信しすぎたり、あまりにも強すぎる信仰を持ったり、敬虔すぎる情緒を感じすぎたりすることを恐れてはならない。キリストとの交わりから出た興奮を恐ろしく感じてはならない。イエスに対する愛を魂の中で力強く感じることに行き過ぎがあると信じてはならない。主にある聖なる愛の急流とうねりが全くあなたを押し流すままにするがいい。それに屈することに危険は何もないであろう。「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」[ピリ4:4]。

 愛する方々。いまキリストを思う存分に受け取ろうではないか。信仰を有する者である私たちは、一段と遠慮なく信じようではないか。いま楽しんでいるとしたら、より完全に楽しもうではないか。今いのちを得ているとしたら、より大いにいのちを得ようではないか。この場合、私たちは食べて良いのである。私たちの魂は生きるであろう。私たちは飲んで、自分の悲惨を忘れるだけではない。もう一度飲んで、至福に入って良いのである。私たちの主は、私たちを岸辺から大海へと差し招いておられる。私たちを下座から、より上座へと招いておられる。私たちが一段と喜びを感じ、強くなり、充実し、聖い者となることを望んでおられる。ご自分の愛の備蓄を私たちに押しつけておられる。招待客がたらふく食べている姿を見るのを喜ぶ主人とそれは変わらない。尻込みしてはならない。小さな信仰で、また、なけなしの喜びで、また、冷たい感情で満足してはならない。むしろ、私たちの主の喜びをともに大いに喜ぼうではないか。

 確かに私たちは無価値なものではあるが、主は私たちを招いておられるのである。この愛に満ちた圧力に屈する方が賢明である。私たちは、このような祝宴に集ったことは到底ないかもしれない。また、もしかすると、この食事から得た力を頼りに、これから四十日間、荒野に出て行かなくてはならないかもしれない。それゆえ、このうたげを心から祝おうではないか。私たちの主は、その招きによって、私たちの友情と、私たちの愛に挑戦しておられる。主は云われる。――「友よ、食べよ!」、と。もしこういうしかたで主が私たちを試しておられるとしたら、愚図愚図せずにそれを受け入れよう。私たちの愛を明らかにして、主が私たちを喜ばれるように主を喜ぼう。アーメン。

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----愛に加わる愛[了]
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