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聖餐式のための恵み

NO. 1941

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マントンにて数人の友人たちとともに行なった聖餐式執行の辞
説教者:C・H・スポルジョン
1887年1月2日、主日午後


「北風よ、起きよ。南風よ、吹け。私の庭に吹き、そのかおりを漂わせておくれ。私の愛する方が庭にはいり、その最上の実を食べることができるように」。――雅4:16


 信仰者の魂は、主の庭である。その中には、稀少な植物、例えば、「かおり」高い香料や「最上の実」がある。かつてはそこも荒野の頃があり、おどろや茨が伸び放題だった。だが今や、それは「閉じられた庭」[雅4:12]、「ざくろの園」[雅4:13]なのである。

 時としてその庭の中は、ほとんど動きがなく、静まりかえっている。実際、少々よろしくないほどに動きがない。花々は咲き誇っているが、香りがないように思われる。その芳香を漂わせるそよ風が吹いていないからである。香料は至る所にあるが、庭の中を歩いてもそれには気づかない。何の微風もその香気を翼に乗せて運ばないからである。そうしたこと自体が悪い状況かどうかは分からない。それは、「主がその愛する者に、眠っている間に、このように備えて」[詩127:2]くださっているのかもしれない。労働のためくたくたになった人々にとって、安息は甘やかである。幸いなことよ、魂の《安息日》に恵まれている人は!

 この聖句の中の愛されている女性は、彼女の主とともにいることを願っていた。そして、沈滞したような状態は、主をお迎えするのに全くふさわしくないものと感じた。彼女は、最初は自分の庭について、それが彼女の《愛する方》を迎える用意ができるようにと祈った。それから、この花婿自身に向かって、どうかご自分の庭に入って、その最上の実を食べてくださいと願っている。彼女は、天の息と、天の主を求めて嘆願しているのである。

 第一に彼女は、自分の心に垂れこめている無風状態を《天の息》が打ち壊すことを求めて叫んでいる。彼女は、香料の宝石箱を開錠することも、その甘やかな香りを流れ出させることもできない。彼女自身の息は、そのような役には立たないであろう。彼女は自分自身から目を離し、目に見えない神秘的な力に向き直る。そして、この真剣な祈りを云い表わす。「北風よ、起きよ。南風よ、吹け。私の庭に吹いておくれ!」*

 この祈りには、明らかに内なる眠りが感じられる。彼女は北風が眠っていると云うのではない。これは、彼女自身に目覚めが必要であることを、詩的なしかたで告白しているのである。また彼女は、うわのそらな状態をも感じている。「南風よ、吹け」、と叫んでいるからである。もし南風が来るとしたら、この忘れっぽい芳香は正気に戻って、大気全体を甘美なものとするであろう。何に責任があるにせよ、それが風にあるはずはない。私たち自身の中にあるのである。

 すでに述べたように、彼女の訴えは、かの大いなる御霊に対するものである。風が、その思いのままに吹くのと同じように[ヨハ3:8]、御霊もご自分のみこころに従って働かれる。彼女は、決して「風を起こそう」、すなわち、何らかの騒ぎを起こそうとはしていない。――それは、世俗的な事がらについての、地上的な云い回しである。だが、悲しいかな、それは、多くのまがいものの霊性に、ぴったり当てはまる! 私たちは、「信仰復興を起こす」ことについて聞いたことがないだろうか? だが実は、私たちが聖霊に命令を下すなどということは、風を東に吹かせたり西に吹かせたりするのと同じくらい不可能である。私たちの力は祈りに存している。花嫁はこう祈っている。「北風よ、起きよ。南風よ、吹け!」 彼女はこのようにして、自由な御霊に完全により頼んでいることを認めている。この歌の比喩的表現の下では、天来の《働き手》への信仰を覆い隠しているとはいえ、それでも彼女は、ひとりの人格に対するように語った。私たちは聖霊の人格性を信じている。それで、このお方に向かって、「起きよ」、また、「吹け」、と願うのである。私たちの信ずるところ、私たちは御霊に祈って良いし、いやでもそう祈らされる。

 注意したいのは、この天来の訪れがいかなる形を取るかについて、この花嫁が頓着していない、ということである。そこに力が感じられる限りは構わない。「北風よ、起きよ」。たとい、その一吹きが冷たく、切りつけるようなものであっても、それは結局、悔い改めと謙遜という形の魂の芳香をとらえ、香らせることになるであろう。いくつかの尊い恵みは、稀少な香料のように、涙の形で流れ出るのが普通である。また、別の恵みは、傷ついた木から樹脂がにじみ出るように、悲しみの時にしか見られない。荒々しい北風は、私たちの中のある者らにとって、内なる最上の恵みを喚起するというしかたで大きな善を施してきた。だが、主はそれよりももっと優しく、朗らかなものをお送りになることがある。そのとき私たちは、「南風よ、吹け」、と叫ぶであろう。天来の愛が心を暖めるとき、そこには人間性の最上の部分を発達させる素晴らしい力がある。私たちが大切にしているものの多くは、聖なる喜びという太陽によって発育させられるのである。

 こうした御霊の動きは、いずれであれ、私たちの内なるいのちを十分に奮起させるであろう。だが、この花嫁はその双方を願っている。自然界では、北風と南風が同時に吹くことはありえないが、恵みにおいてはありえる。聖霊は、全く同一の時に嘆きと楽しみを生じさせ、謙遜と喜びを引き起こすことができる。私はしばしば、2つの風が同時に吹いているのを意識することがある。それで、自我に対して死ぬ覚悟を固めさせられる一方で、神に対して生きた者とさせられてきたのである。「北風よ、起きよ。南風よ、吹け!」 霊的精力のあらゆる形が感じられるとき、いかなる恵みも睡眠状態ではなくなるであろう。いかなる花も、荒々しい風、優しい風の双方によって揺り起こされるとき、眠り続けることはできない。

 この祈りは――「吹くこと」、その結果は――「漂うこと」である。主よ。もしあなたがお吹きになれば、私の心はあなたに向かって漂い流れます! 「私を引き寄せてください。私たちはあなたのあとから急いでまいります」[雅1:4]。魂に恵みを有していながら、動きを全く感じないということがどういうことか、私たちは重々承知している。私たちは、大きな信仰を有していながら、いかなる信仰も実践していないことがありえる。それを活動させるような機会が全くないからである。多くの悔い改めを有していながら、意識的には何の悔い改めも行なっていないことがありえる。多くの愛の火がありながら、いかなる愛も燃え立たせず、心には多くの忍耐がありながら、当座はそれを表に出していないことがありえる。内側の種々の情動をあちこちへとかき立てる摂理的な出来事が起こっていない場合、私たちの種々の恵みが活発な実践へと至らされる唯一の方法は、聖霊が私たちの上に吹いてくださることである。御霊には、私たちの種々の精神機能や恵みを生かし、かき立て、揺り動かす力がある。それで、私たちの内側の聖なる実は、私たちにも、霊的な識別力を有する他の人々にも悟られるようになるのである。大気は、その状態によっては、花々の芳香を格段に方々にふりまくことがある。にわか雨の後では、豆畑でさえいかに甘やかなことか! 私たちには、敬神の念という多くの香料があるかもしれないが、聖霊の生きた御力がせき立てない限り、ほんの少しの芳香しか放たないであろう。森の中には、多くのしゃこや、鮮やかな色の雉がいるかもしれない。だがしかし、道行く者の足が下生えを踏みつけて、鳥たちを飛び立たせるまで、その一羽さえも目にしないかもしれない。主はこのように、多くの使者によって私たちの恵みを明らかにしてくださる。だが、より厳選された、より霊的な美徳には、風のように神秘的で、至る所に勢力をふるう行為者が必要である。――事実、主の御霊が、それらを目覚めさせるために必要である。聖霊よ。あなたは、私たちがあなたのもとに行けないときも、私たちのもとに来ることがおできになります! ありとあらゆる方面から私たちに達して、私たちを私たちの暖かい側、あるいは、冷たい側に連れて行くことがおできになります。私たちの心、それは私たちの庭ですが、あらゆる点であなたに開かれています。それを囲んでいる壁は、あなたを閉め出しません。私たちはおいでを待ちます。そのことを考えるだけで、嬉しく感じます。その嬉しさこそ、私たちがかき立てられる手始めです。香料はすでに漂い流れ始めているのです。

 この祈りの後半は、私たちの中心的な願いを云い表わしている。私たちは、《天の主》が私たちを訪れることを切に願っている。この花嫁が、自分の庭の香料の香りがかぐわしいものとなることを求めたのは、彼女自身の楽しみのためでも、赤の他人の楽しみのためでも、エルサレムの娘たちの喜びとするためでさえなかった。それは、彼女の《愛する方》のためであった。が、彼自身の庭に来て、彼の最上の実を食べるべきである。私たちは、このお方の楽しみとなる庭である。私たちの最高の願いは、イエスが私たちのうちに喜びを得られることである。残念ながら、私たちはしばしば、聖餐式の卓子に着くとき、自分を楽しませようという考えをいだいているのではないか。あるいは、むしろ、私たちの主を喜ぼうという考えをいだいているのではないかと思う。だが、私たちが、主に喜びを与えようという考えにまで高まることはない。もしかすると、それは増上慢のようにすら思われるかもしれない。だが、主は云っておられる。「わたしは……人の子らを喜んだ」[箴8:31]。見るがいい。この次の章で主がいかに喜ばしく叫んでおられることか。「私の妹、花嫁よ。私は、私の庭にはいり、没薬と香料を集め、蜂の巣と蜂蜜を食べ、ぶどう酒と乳を飲む」[雅5:1]。私たちの天的な花婿は、その愛のうちに安らがれ、高らかに歌って私たちのことを喜ばれる[ゼパ3:17 <英欽定訳>]。しばしば主は、私たちが主を喜びとするにもまさって、私たちを喜びとされる。私たちは、主がそこにおられたことも知らずに、主が来られるように祈ってきた。だが、その間ずっと主は私たちの近くにおられたのである。

 この花嫁が、この言葉によって、何とその《愛する方》に対して語りかけているかよく注意するがいい。彼女は彼を自分のものと呼んでいる。――「私の愛する方」。主が私たちのものであることを確信するとき、私たちは主が私たちのもとへ、私たちのものとしてやって来られ、私たちのものとしてご自分を現わしてくださることを願う。「私の愛する方」というこの言葉は、散文の詩である。桂冠詩人のあらゆる十四行詩の中にあるより豊かな音楽がここにはある。私の恵みがいかにまどろんでいようと、イエスは私のものである。私のものとしてこそ、主は私を生かしてくださるであろうし、私に私の心の芳香をふんだんに放たせてくださるであろう。

 彼が彼女のものである一方で、彼女も全く彼のものである。そして、彼女の持ち物はすべて彼に属している。最初の節で彼女はこう云っている。「北風よ、起きよ。南風よ、吹け。私の庭に吹き、そのかおりを漂わせておくれ」。だが今や彼女はこう願っている。「私の愛する方が彼の庭にはいるように」 <英欽定訳>。彼女はたった今、彼女の果実について語ったばかりであった。だが今や、それらは彼の果実なのである。彼女は最初に語ったとき間違ってはいなかった。だが、今やそれよりも正確になっている。私たちは自分自身のものではない。自分で実を結ぶのではない。主は云われる。「あなたはわたしから実を得るのだ」[ホセ14:8]。この庭は私たちの主がご自分で獲得し、垣根で囲み、植物を植え、水で潤しておられるものである。そして、その果実はみな主に属している。これは、主が私たちを訪れてくださる強力な理由である。人は自分自身の庭に入って、自分自身の実を食べるのが当然ではないだろうか? おゝ、願わくは聖霊が私たちを、私たちの主を迎えるにふさわしい状態にしてくださるように!

 この花嫁の祈りはこうである。――「私の愛する方が来るように」。私たちも云わないだろうか? 「アーメン。主よ、来てください」、と。たとい《再臨》によって栄光をもっておいでにならないとしても――ことによると、そう考えない方が当然かもしれないが――、それでも、主よ、来てください。たといその審きの御座にお着きにならなくても、それでも、その庭には来てください。たとい御前にすべての国々の民を集める[マタ25:32]ためにおいでにならなくとも、私たちのうちにある、その贖いの実を集めるためには来てください。私たちの小さな輪の中に来てください。各人の心の中に来てください。「私の愛する方が来るように」。下がっているがいい。主を妨げようとする者ども。おゝ、《愛する主よ》。私の罪深く、ものぐさで、さまよいがちな思いによって、あなたのおいでが邪魔されるようなことがないようにしてでください! あなたは、「戸が閉じられていた」[ヨハ20:26]にもかかわらず、弟子たちを訪れてくださいました。では、扉という扉が開かれて、あなたを歓迎しているというのに、おいでにならないというのですか? ご自分の庭以外のどこにおいでになるというのでしょう? 確かに私の心はあなたを大いに必要としています。その中の多くの植物には、あなたの世話が必要です。おいでください、おいでください、おいでください! おゝ、愛する主よ。天国も私の心が今しているほど心からあなたのおいでを喜ぶことはできません。天国は、私ほどあなたを必要としてはいません。天国には主なる《全能の神》の絶えざる臨在があります。ですが、もしあなたが私の魂の内側に宿ってくださらないとしたら、それはむなしく、うつろで、荒れ果てています。では、私のもとに来てください。私は切に願います。おゝ、私の《愛する方》!

 花嫁は、さらに叫んでいる。――「私の愛する方が……その最上の実を食べることができるように」。私はしばしば、単にこう考えるだけでも圧倒されるのを感じたことがある。すなわち、私がこれまでに行なったいかなることも、私の主の心を楽しませるのである。これまでに私が主にささげたいかなるささげ物も、主が受け入れるにふさわしいものであると考えられるなどということがありえようか? あるいは、私がこれまでに感じたこと、口にしたことの何かが、主にとって喜びであるなどということがありえようか? 主が私の香料の何らかの香りをかぎとり、あるいは、私の果実の何らかの風味を味わうなどいうことがありえるだろうか? これは多くの世に匹敵する喜びである。これは、主のへりくだりの最高のあかしの1つである。遠国の《王》が、えり抜きの果実がたわわに実っている、その麗しい国からやって来るとは! 荒野にあるこの貧しい囲い地に入り、私たちの実のような実を食し、そして、それらを快いものと呼ぶことまでなさるとは! おゝ、主イエスよ。私たちの心に今お入りください! おゝ、聖霊よ。私たちの心に、いまこの瞬間にお吹きください! 信仰は、愛は、希望は、喜びは、忍耐は、あらゆる恵みは今、かぐわしい菫のようです! あるいは、大気をその芳香で一杯にしている薔薇のようです!

 私たちは自分自身に満足していないが、それでも私たちの主が私たちを喜んでくださるように! おゝ、主よ。ぜひ私たちのもとに来てください! あなたが私たちの《愛する方》であられることは、あなたが私たちのもとに来られることにまさって大きな不思議です! あなたが私たちを、あなたの庭とされたことは、あなたが私たちの果実をお食べになることにまさる、大きな愛顧です。私たちに、この恵み深い約束を果たしてください。「わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」[黙3:20]。というのも、私たちは確かにあなたに対して開かれているからです。あなたはあのサマリヤの女に、「わたしに水を飲ませてください」[ヨハ4:7]、と云われました。では、私たちからの愛の一飲みをいま受け入れてくださらないでしょうか? 彼女には夫がありませんでしたが、あなたは私たちの《夫》であられます。あなたは、私たちが今あなたに差し出している杯から飲んでくださらないでしょうか? 私たちの愛を、私たちの信頼を、私たちの献身をお受け取りください。また、私たちが今あなたに喜びを見いだしているように、私たちに喜びを見いだしてください。私たちはあなたに大きなことを願っていますが、あなたの愛は、図抜けた求めをすることのできる裏づけです。私たちは今あなたのうたげに参ります。あなたが私たちの食物となり飲物となられる所です。ですが、私たちの香料をこの祝宴の香りとならせ、私たちひとりひとりにこう云わせてください。「王がうたげの座に着いておられる間、私のナルドはかおりを放ちました」[雅1:12]。私たちの魂のこの願いをかなえてください。天来の主また《主人》よ! アーメン。

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----私たちの主の死の奇蹟[了]
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