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入り混じった感慨

NO. 1937

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説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう」。――詩51:7


 いかなる心の状態で、私たちは聖餐の卓子のもとにやって来るべきだろうか? これは決して軽い問題ではない。いかなるしかたで私たちは、かくも神聖な定めにおいて主の御前に出るのが良いだろうか? この神聖な晩餐の性質そのものによって、私たちは、そこにはいくつかの情緒が混ぜ合わされているべきだと教えられる。苦々しさと甘やかさ、喜ばしさと嘆かわしさがここには混ざり合っている。罪のためのキリストのいけにえ――その悲しみと喜びとの、どちらを重く受けとめるべきだろうか? 私たちは十字架を仰ぎ見て、罪を嘆かずにいられようか? それを眺めて、血により買い取られた赦罪を喜ばずにいられようか? 聖餐の卓子のもとにやって来るための心の状態として最もふさわしいのは、まさにこのことではないだろうか?――私たちのそむきの罪のための嘆きと、この大いなる救いのゆえの喜びである。この聖なる儀式には、二重の性格がまつわりついている。それは、いのちの祝祭であるが、しかし、死の記念である。ここに杯がある。そこには葡萄酒が満たされている。これは確かに楽しみを示している。だが私に聞くがいい。この葡萄酒は血の象徴なのである! これは確かに悲しみを示している。また私の手にはパンがある。――食されるべきパン、人の心を支える食物[詩104:15]である。私たちは感謝をもってパンを食べるのが良いではないだろうか? しかし、そのパンは裂かれており、それは痛みと苦悶で苛まれた1つのからだを表わしている。そこにはその激しい苦しみゆえの嘆きがなくてはならない。過越の夕食において、主の過越の子羊は、その中に特別の甘やかさを有していた。だが、その戒めははっきりとこう記している。――「苦菜を添えて食べなければならない」[出12:8]、と。この卓子においてもそれは同じである。ここで私たちは喜びとともに世の罪を取り除く神の《小羊》[ヨハ1:29]を記念する。だが、深い悲しみをもって罪を想起する。それは取り除かれているとはいえ、思い起こすたびに私たちを、大きな心の苦々しさをもって悔い改めさせるのである。

 本日の聖句を云い表わした人物は、罪を深く自覚しているが、しかし、神がその罪を取り去ることがおできになると絶対に確信している。このようにして、この1つの文章の中には二重の意味の筋道が掲げられている。ここには悲しみの深淵があり、それよりも大きな希望に満ちた喜びの深淵がある。「淵が淵を呼び起こす」*[詩42:7]。それで私は思ったのである。私たちはこうした悲喜こもごもの感情表現によって、この聖なる祝祭における自分たちの情緒において良い手ほどきを受けられるであろう、と。

 I. 私はこの聖句を扱うに当たり、3つの所見を述べることにしよう。第一のことはこうである。《時には、罪人が口にすべき言葉遣いが、神の子どもにとって最もふさわしいものとなることがある》。ある時期には、それだけが、神の子どもの用いることのできるほぼ唯一の言葉遣いとなる。そのとき、その人はそうした言葉遣いの中に閉じ込められ、それを用いるときも、それが自分の唇の上にあるのは場違いだなどはほぼ全く疑わない。実際、それは全く場違いではない。あらゆる人が同意するだろうと思うが、この詩篇におけるダビデの言葉遣いは、彼の状態にこの上もなく適したものであった。彼はこう祈った。「ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう」。このとき、彼は適切な祈りをささげていたではないだろうか。確かにいかなる人も、この嘆願についてダビデに文句をつけようとはしないであろう。だがしかし、そうとも云えない。現代における聖書の扱い方は、ここでは修正を加え、そこでは訂正し、びりびりに引き裂いては、この一片をユダヤ人に、その一片を異邦人に、この一片を教会に、その一片をあらゆる人に与え、それから、時として神の古のしもべたちは途方もない大失敗をしたのだ、などとしたり顔で云うからである。現代のわれわれは、ずっと霊的なのだ。旧約時代や新約時代の、霊感を受けた聖徒たちよりもはるかに進歩しているのだ、と思いみなされている。しかしそれでも私は、ダビデが間違っていたなどと云おうとする者がいるとは思わない。そして、もし誰かがそう云うとしたら、私はこう答える。これは霊感された1つの詩篇である。また、その中の言葉遣いに何らかの不正確さがあるとか、ダビデが誇張的な感情の状態の下でこうした言葉遣いをしたとか示唆するものは、ほんのひとかけらもない。そうした状態は、神の子どもには真には当てはまらない。いかなる人も、ダビデが神の子どもであったこと、また、たとい彼が自らを汚したときでさえ、なおも大いなる御父の御心にとって愛しい者であったことは疑わないだろうと思う。それゆえ、私はこう結論する。――そしてそのことを確信する。――彼は、この詩篇51篇のような言葉遣いで祈り、こう云うことにおいて全く正しかった、と。「神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください」[1-2節]。だが、これはまさしく、未回心の人が祈るべきしかたである。まさに、神のもとにやって来るあらゆる魂が祈って良い祈り方である。これは、あの取税人の、「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」[ルカ18:13]、という祈りを敷衍したものでしかない。この言葉遣いは、罪人にとって実にふさわしいものではあるが、信仰者にもふさわしいものである。否、それどころか、進んだ信仰者であり、年季を積んだ信仰者であり、霊感を受けた信仰者であり、他の人々の教師であり、その一切の欠点にもかかわらず、二度と見ることまれな類のひとりであった人物の口にあってさえ、場違いなものではなかった。しかり。聖徒たちの中でも最も高貴な者らの間にあってさえ、少なくともそのひとりにとっては、最も下等な言葉遣いが自分の状態について適切な時期があったのである。今の世ではびこっている精神は、こう云うであろう。神の子どもたちは自分のもろもろの罪について赦しを求めるべきではありません。すでに赦されているのですから。罪人たちにはふさわしくとも、彼らがこうした言葉遣いを用いる必要はありません。彼らは全く異なる立場にあるのですから、というのである。だが私が知りたいのはこのことである。私たちはどこで線を引くべきだろうか? もし、ある特定の罪ゆえにダビデが、あわれな、まだ赦されていない罪人と同じようなしかたで神に訴えることを完璧に是とされたとしたら、私がそのようにすることは決して是とされないのだろうか? 人がへりくだらされる必要とされるのは、ある特定の形の罪だけによってだけだろうか? その人は一度も姦淫その他のはなはだしい罪に陥ったことはないかもしれない。だが、ある特定の量の罪を犯せば、神の子どもである人も、このように祈って良くなるなどということがあるだろうか? また、そうした罪の最高水位点に達さないものはみな、取るに足らないものにすぎず、行って、特にその赦しを求めたり、それについて罪人のように祈ったりする必要が全くないのだろうか? ほとんどいかなる罪の下にあっても、私は神の子どもとして、すでに赦された者として、自信たっぷりな口の利き方をして良いのだろうか? 私が何か間違ったことをするとしたら、それは尋常ならざる状況であって、それでも決してそれは何ら深刻な惨事にはならないというのだろうか? 私はそうした線を引くいかなる人にも挑戦する。そして、もし彼らが本当にそれを引くというなら、それを抹消する。彼らにそのような線を引く権利は全くないからである。ある特定の量の罪については、ある様式の祈りがあり、それ以下の特定の量の罪については別の様式の祈りがある――そのようなことは、神のことばのどこにも示唆されていない。

 さらに進んで、兄弟たち。私はあえてこう云おうと思う。――この言葉遣いが確かにダビデの口に適切なものであり、かつ、ここからはそれが適切でなくなるなどという、いかなる線を引くことも不可能である以上、あなたや私にとって最も安全で、最もふさわしい考え方はこうである。――私たちは、罪人であるからには、たといダビデほど大きく信仰後退することが許されなかったとしても、それでも彼と同じようなしかたでやって来なくてはならない。私たちは、最も低い立場を取り、最も下等な嘆願を申し立て、そのようにして、自分の救いを確かなものとしなくてはならない。最も安全なのは、考えうる限り最大の必要を想定しておくことである。私たちは天的な恵みの御座の前で、最も卑しい立場につき、こう叫ぼうではないか。「神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください!」、と。

 しかし、神の人は赦されているではないだろうか? 左様。赦されている! その人は義と認められていないだろうか? 左様。認められている。「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか」[ロマ8:33]。こうしたすべては、考えうる限り最も高い意味において真実であるとしておこう。だが、そうしたすべてにもかかわらず、罪人の叫びは沈黙に追い込まれてはいない。神の真の子どもたちは叫ぶ。そして、私に云わせてもらえば、他の子どもたちよりもずっと強い調子で叫ぶ。彼らはその罪の告白を行なう。それは、他の人々のものよりもずっと深く、ずっと痛烈である。私たちがいかなる信頼をいだいていようと、私たちの主イエス・キリストは決して私たちにこう祈るようお告げにはならなかった。「主よ。私は自分が赦されており、それゆえ、告白すべき何の罪もないことを感謝します。私は罪人としてあなたのもとに来る必要がないことを感謝します」! むしろ、主はその弟子たちの口に、このような言葉をお授けになった。「私たちの父よ。私たちの罪をお赦しください。私たちも、私たちに罪を犯す人たちを赦しました」*[マタ6:12]。私は《主の祈り》を決して時代遅れだとはみなさない。私は、自分が天国の間際にいるときもそれを祈れるだろうと予期しているし、たとい自分が完全な程度にまで聖化されることがあるとしても、決して《救い主》に向き直ってこう云うべきではないはずである。「さあ、私の主よ。私はあなたの祈りを越えました! 今や、《救い主》よ。私は、天におられる私の父に、このような言葉遣いで語りかけることはできません。私は成長して、あなたの祈りがいらなくなったのですから!」 兄弟たち。このような考えは、私には冒涜のように聞こえる。私は決して自分の《救い主》に対してこう云うべきではない。「私は今やあなたの尊い血のもとに来る必要はありません。あるいは、あなたに向かって、『私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう』、などと云う必要はありません」、と。聞くがいい。兄弟たち。「もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち」、次は何だろうか? 何と、そのときでさえ、「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」[Iヨハ1:7]。私たちは、神ご自身が光の中におられるように光の中を歩んでいるときでさえ、なお血を必要とするのである。

 私たちは、この下界にいる間は、ダビデのような言葉遣いを用いる必要がある。本日の聖句は罪人にとって適切なものではあるが、それは聖徒にも等しく適切であり、聖徒は天国に行くまでそれを用い続けて良い。注意するがいい。兄弟たち。私たちの心がこうした言葉遣いを正直に用いることができなくなるとき、私たちは自分が信仰によって持ち上げられているのだと考えるかもしれないが、増上慢によって膨れ上がっていることもありえる。私たちが、ちりそのもののなかにひれ伏して、《救い主》の御足に口づけし、それを自分の涙で洗わなくなるとき、それは自分が恵みにおいて成長しているからだと考えるかもしれないが、それよりはるかにありがちなのは、うぬぼれで一杯になっている場合である。人は聖くなればなるほど謙遜になる。真に聖化されればされるほど、自分の罪について、それが何であれ、こう叫ぶものである。――「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか!」[ロマ7:24] あなたが可能な限り最も明瞭に神を見てとったとき、その結果はどうなるだろうか? 何と、あなた自身の霊はこの上もなく深く下降するのである。ヨブを見るがいい。彼は自分の埒もない告発者たちには答えることができる。だが、神を見るとき、――あゝ、そのとき彼は、ちりと灰の中で自分を蔑んでいる![ヨブ42:6] ヨブは心において誤っていたのだろうか? 私は、私たちの中の誰かがヨブの半分ほども善良かどうか疑問に思う。確かに、私たちの中のほとんどの者は、彼がその悲しみの下にあって行なったほど男らしくふるまうことはできなかったに違いない。その忍耐の破綻のすべてにもかかわらず、聖霊はそれを破綻とは呼んでいない。というのも、御霊はこう仰せになるからである。「あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています」[ヤコ5:11]。御霊は、「彼の忍耐のなさのこと」とは云わず、「彼の忍耐のこと」と云っておられる。だがしかし、このほむべき忍耐強い人物、神ご自身の証言によってすら忍耐強かった人物は、神を見たとき、自分を蔑んだのである。また、イザヤを眺めるがいい。これほど雄弁で、これほど聖別され、これほどきよい舌があっただろうか? 何者にもまして神に対する割礼を受けていた唇は、この力強い福音的預言者の唇だったではないだろうか? だがしかし、彼が主の栄光を見てとり、主のすそが神殿に満ちているのを見たとき、彼は云った。「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる」[イザ6:5]。あなたがたの中で、そうすることができる者は、私の《主人》の卓子のもとへ聖徒として来ても良い。だが私は罪人として行くであろう。あなたがた、自分が恵みにおいて成長していることを喜びながらそこに行けると感じている人たちは、そうしたければそのように来ても良い。だが私は、自分は無であると、無以下であると感じながら行くであろう。私は、十字架のもとに最初に行ったときと同じように今も行くように努めよう。というのも、私は、信ずる罪人という立場を越えたところに達するなら、危険な状態に陥ることを見いだしているからである。安全は、真理に従うことに存しており、真理は私たちの中のいかなる者をも、神の前で誇ることを許さない。私は、主を知れば知るほど、また、主との交わりの中で生きれば生きるほど、主の御足元に横たわり、主を私のすべてのすべてとして仰ぎ見ることを幸いに感じる。私は無となろう、そしてキリストにすべてとなっていただこう。このことを三十五年間以上、福音の説教者であった者、また、恥じるところのない、魂の獲得者であった者から受け取るがいい。――私はこの日、今までの私がそうであったのと同じくらい、主の無代価のあわれみに完全により頼む者であり、私は、あの十字架上の強盗と同じようなしかたで救われることを望んでいる。

 II. 第二に、別の所見を述べさせてほしい。それはこうである。《いかに途方もない咎の感覚も、この上もなく強い信仰と全く両立する》。この2つが相伴うのは素晴らしいことである。ダビデは、途方もない罪意識の下にあり、また、それは当然のことであった。彼は実にはなはだしいそむきの罪を犯してきたからである。彼は、人に対して非常に重い不正を行ない、主の前ですさまじく邪悪な行為を犯した。そして、神の御霊が、ナタンの叱責を通してとうとう彼の良心を目覚めさせたとき、彼が自らの咎深さの感覚の下で打ちひしがれたのも不思議ではない。彼には咎があった。深甚な咎があった。――彼自身が知っていたよりもずっと咎があった。あなたや私は、ことによると、神の恵みによって深い罪意識を恵まれているかもしれない。しかし、私はある人々がこう云うのが聞こえる。「先生、私は何か誤解したのでしょうか。それとも、聞き間違いでしょうか? 深い罪意識を恵まれるですって?」 しかり。私はそう云った。というのも、確かに罪はぞっとするようなものだが、それを徹底的に意識することは、苦くはあるが、神がご自分の選民を祝福される最大の恩顧の1つだからである。私が確信するところ、神の子どもたちの中のある者らは、底の浅い、浅薄な経験しか有していない。彼らは贖いの愛の高みも深みも知らず、恵みの諸教理において確立してもいない。それはひとえに、決して鋭利な罪意識で深く耕されたことがないからである。こうした人々は、下層土を掘り起こされることも、そのようにして心の奥底を、律法の鋭い鍬刃の下で引っくり返されることも全く知らない。しかし、罪が何を意味するかを知り、鉄の焼きごてでそれを自分の霊の核心に焼き入れられた者は、恵みが何を意味するか知っている人、また、その無代価さと完全さを理解する見込みのある人である。罪の悪を知っている人は、かの尊い血の価値を知る見込みが大きい。私があなたがたの中の誰かのために願い求めることができる最上のことの1つは、あなたが自分自身の霊の中で、罪のぞっとするほどの恐ろしさを、あなたの精神がその緊張に耐えられる限り完全に知ることである。

 ダビデは自分の咎について痛切に意識していたため、自分自身をらい病人にたとえるほどであった。この聖句の言葉遣いが言及しているのは、らい病人のきよめであると思う。ヒソプが血に浸され、それからきよめの血が汚れていた個々人に振りかけられると、彼らはきよくされた。ダビデは、自分がらい病の人間だと感じた。らい病という、あのぞっとするほど恐ろしく、汚染する、不治の病にかかっている者であるかのように感じた。彼は自分を、神に近づくにふさわしくない者、否、自分の同胞たちと人交わりすることすらふさわしくない者であると感じた。彼は自分の咎が、人々の集まりから追い出され、締め出されるべきものだと告白した。彼の咎は、一国全体を汚染してしまった。彼がその代表であり、その模範たるべき者だったからである。あなたは今までそのように感じたことがあるだろうか? あなたに云うが、あなたは自分自身を汚れ果てた存在だと感じさせられたことがない限り、罪の汚染についてすべてを知ってはいないのである。もしあなたが五十ものらい病にかかっていたとしても、それらは罪ほどあなたを汚しはしないであろう。というのも、あわれならい病人は本当には汚染されていないからである。その人は、腐敗しつつあるからだの内側に、威厳ある、高貴な魂を有していることもありえる。罪だけが真の汚染、地獄的な汚染、忌み嫌うべき汚染なのである。地獄には、罪より悪いものは何1つない。悪魔でさえ、罪が彼を悪魔にしたというだけのために悪魔となっているのである。それで、罪こそは、人の霊に降りかかることのできる、最も恐ろしく、最も耐えがたい悪である。ダビデはそのすさまじい真理を感じた。だがしかし、注意するがいい。罪というこの病の恐ろしさを感じてはいたものの、彼の信仰はこの聖句の確信ある言葉遣いを用いさせるに足るほど強かった。「ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう」。私の罪はどす黒く、それは不潔なものですが、もしあなたが私をきよめてさえくださるなら、おゝ、私の神よ。私はきよくなることでしょう。

 しかり。ダビデは、神が自分をきよめることがおできになると確信していた。彼は、神に向かって、この件について何の疑念もない者のように訴えている。彼の祈りはこうである。――「ぜひ私をきよめてください。そうすれば、私はきよくなることでしょう! 偉大な《いけにえ》の尊い血を私に振りかけてください。おゝ、神よ。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう!」 このヘブル語には、次のように云う以外に、到底あなたに示せないだろうような意味がある。「あなたは私を、罪なくしてくださるでしょう」。あたかも、神が彼の罪をただちに取り去り、彼を罪のしみ1つない者とし、それがひとかけらも残らないものとしてくださるかのようにである。神は彼を、彼が全く一度も罪を犯したことがないかのようにすることがおできになった。心に及ぼされる神のきよめのみわざが有する途方もない力は、神が私たちに無罪性を回復し、私たちを、まるで全く一度もそむきの罪で汚されたことがないかのようにできるほどなのである。あなたはそれを信じるだろうか? 信じるだろうか? おゝ、幸いなことよ、考えうる限り最も深甚な罪意識の下にあっても、あなたがなおもこう云うことができるとしたら。「しかり。私は信じます。神が私を洗い、私を雪よりも白くすることがおできになると!」

 しかし、私がもう一段階先に進んでも、あなたは私について来ることができるだろうか? 本日の聖句の言葉は、ヘブル語においては未来形をしており、このように読めるのである。「あなたは私をきよめてくださいます。そうすれば、私はきよくなります」。それでダビデは、単に自分をきよめることができる神の力について確信していただけでなく、神がそうなさるだろう事実についても確信していたのである。「あなたは私をきよめてくださいます」。彼は、自分の罪を告白しながら、自分の神の御足元に身を投げ出した。そして云った。「私の神よ。私は信じています。かの大いなる《贖罪》により、あなたが私をきよめてくださることを!」、と。あなたには、ダビデのような信仰があるだろうか? このことを信じているだろうか? 愛する方々。あなたがたの中のある人々は大胆にこう云うことができる。「ええ。それを私たちは信じています。私たちは、神が私たちをお赦しになれると信ずるだけでく、神が赦してくださることを信じています。ええ。私たちをすでに赦してくださったと信じています。それで私たちはいま神のもとへ行き、こう訴えるのです。神がかの、キリストの御脇から流れた尊い血と水とのきよめのみわざを私たちの内側で更新してくださるように、そのようにして、私たちを完璧にきよくしてくださるようにと! しかり。私たちは信じています。神がそのことをしてくださると。そうしてくださると確信しています。そして私たちは信じます。私たちに何のきよめも必要なくなるまで、神は私たちをきよめ続けてくださると。ハートの賛美歌は、この尊い血についてこう歌っています。――

   『よし除(のぞ)かるる 咎 戻り来(く)も
    御力 果てなく 証明(あかし)されん』。

この証しは真実です。そして私たちは、それに自分たちの証印を押します」。

 この《詩篇作者》ダビデの信ずるところ、たとい彼の罪があのようなものであったとしても、それでも神はそれをたちまちきよめることがおできになった。彼はその件について、即座に、また迅速になされるものとして語っている。らい病人をきよめるには七日間かかったが、ダビデはその型に従ってはいない。この現実はそれを越えているのである。彼は云う。「ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう」。それはすぐさまなされる。たちどころになされる。――洗われれば、雪よりも白くなる。七年間の罪を拭い去るのに七日間もかからない。しかり。もしある人が七十年間、罪の中で生きてきたとしても、自分の神のもとにへりくだった告白とともに行きさえするなら、また、イエスの尊い血がその人に振りかけられさえするなら、その人のもろもろの罪は一瞬のうちに姿を消すであろう。この2つの事実が同時にやって来る。「私をきよめてぐたさい。私はきよくなりましょう。私を洗ってください。私は雪よりも白くなるでしょう」。それは即座になされる。このきよめの敏速さに注意するがいい。この浄化の効果的な性格に注目するがいい。「私をきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう」。「私はきよくなると思います」、ではなく、「私はきよくなりましょう。らい病から完璧に癒された人のようになりましょう」、である。このような人は、理論の上で浄化されたのではなく、現実に浄化された。それで、その人は主の宮の内庭に上り、イスラエルの残りの者たちの間で自分のいけにえをささげることができた。そのように、もしあなたが私を洗ってくださるなら、主よ。私は現実にきよくなりましょう! 私はあなたに近づくことができ、あなたの聖徒たちすべてと交わりを持てましょう。

 さらにまたダビデは、神が自分に内的なきよめを与えることがおできになると信じていた。「私の心の奥に」、と彼は云う。「知恵を教えてください」[6節]。私はこの聖句のこの部分を嬉しく思う。それは、「ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう」、である。どこがきよくなるのだろうか?――手だろうか? しかり。足だろうか? しかり。頭だろうか? しかり。そのすべては良いことである。だが、心についてはどうだろうか? それは、あなたや私にはきよめられないが、神にはきよめることがおできになる部分である。想像、良心、記憶、あらゆる内的な機能、これらすべてにおいて主は私たちをきよめることがおできになる。「ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう」。これは人間全体を含んでいる。そして、この宣言を自らの口で発した人物は、自分が、可能な限り最低に汚れ果てており、らい病人そのものであり、ただ何軒かある自分の家に叩き込まれ、他の人々を汚染することを恐れてそこに閉じこもっているしかふさわしくないと知っていた者なのである。彼は大胆に云っている。「もし主が私を洗ってくださるなら、私はきよくなる。私はそれを確信している。私は完璧にきよくなり、神ご自身と交わりを持つにふさわしくなる」、と。

 この点について、もう一言だけ注意してほしい。すなわち、ダビデは、このように自分のもろもろの罪を意識してはいたが、神に対する信仰に満ちていたため、神のあらゆるきよめの力を自分のものとしている。「私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。ヒソプをもって私をきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう」。1つの節の中に、四つの個人的な言葉がある。神が一般的に罪を赦すことができると信じることはたやすい。だが、神が特に私の罪を赦すことがおできになること――それが肝心な点である。左様。神が人間を赦すことがおできになると信ずるのはたやすい。だが、私のような人類のあわれな見本を赦してくださると信ずることは、全くの別物である! 天来の祝福を個人的につかめるのは、最もほむべき機能である。それを行使しようではないか。あなたにそれができるだろうか? 兄弟姉妹。あなたにそうできるだろうか? あなたがた、自分を兄弟姉妹とは云えない人たち。あなたがた、遠く離れている人たち。あなたはキリストのもとに行けるだろうか? 黒いしみも汚れもみなつけたままで、単純にキリストを信ずることができるだろうか? 自分が健やかにされると信じられるだろうか? この《大いなる罪人たちの友》を信じすぎるということはない。愛する方々。あなたの信仰の通りになるように[マタ9:29]。

 III. ここから私たちの第三の、そして最後の点に入る。ここでは、ごく手短に語ることにしたい。注意してほしいのは、《深い罪意識と神への確固たる信仰は、主の御名とご栄光をこの上もなく際立たせることになる》、ということである。神は、私たちが前にしている聖句において、偉大な行為者であられる。神がきよめ、洗われる。他の誰でもなく神がそうなさる。この罪とこのきよめは、どちらともあまりにも大きなものであるため、それ以下の者のいかなる手出しも許さない。

 「私をきよめてください」。彼はそれをすべて神のみわざとしている。彼は、アロン的祭司については何も云わない。魂が罪意識の下にあるとき、祭司とは何とあわれでみじめな者であろう! あなたは、真に心を打ち砕かれた後で司祭のもとに行った人に出会ったことがあるだろうか? あるとしたら、その人は人間に頼った自分を恥じていたことであろう。というのも、相手が水をためておけない、こわれた水ためてあることを見いだしたからである。何と、私の兄弟たち。私たちは、たといこの演壇を無数の教皇でびっしり埋め尽くし、罪意識の下にあるひとりのあわれなな魂を慰めさせようとしても、彼らが総掛かりになろうと、その罪人の傷に触れることもその心の出血を止めることもできないであろう! 否、否。最上の人々の言葉も私たちの必要には不十分である。あの死に行く修道僧が、「Tua vulnera, Jesu!」――「汝が御傷よ、イエスよ!」、と叫んだ通りである。御傷は癒すことができるが、他の何物にもできない。神ご自身が私たちを洗わなくてはならない。神の個人的なご介入に満たない何物も十分ではないであろう。

 さて、次の言葉に注意するがいい。「ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください」。私たちには信仰がなくてはならない。それを表わしているのがヒソプである。ダビデはいかに信仰を小さなものとしていたことか! 彼は信仰のことをただの、あわれな「ヒソプ」として考えている。多くの人々は、ヒソプが何であったかについて疑義をあげている。私は誰かが答えを知っているとは思わない。いずれにせよ、それは多くの苗と葉を有する植物であった。というのも、それが適していたのは、血がその多くの枝の間によくしみこむことにあったからである。その用途は、それが血をたっぷり含んで、その小枝の一本一本にその紅玉の滴を保っておかせることだった。そしてそれは、この特定の役目に対して、特に信仰が適していることである。これは、それ自体で非常にすぐれたものである。だが、信仰の特定の美質はこのことにある。――それが血を含ませて、塗りつけられるようにすることである。きよめの儀式には、緋色の羊毛が用いられた[レビ14:4]。そして、緋色の羊毛が有用だったのは、それが血に浸され、血を内側に染み込ませるからであった。だが、ヒソプはいやまさって役に立った。なぜなら、それは血を含むだけでなく、それをぽたぽたと滴らせることができたからである。それこそ、信仰がこの大いなる《犠牲》を受け取っているしかたである。それは、贖罪の血をあらゆる小枝で受けとめ、苦悶する良心にふんだんに振りかける。信仰は、滴をしたたらせるヒソプである。それ自体では何物でもないが、それは、私たちのきよめであり、私たちのいのちであるものを魂に塗りつけるのである。

 さらにダビデは、こう云っていると私には思われる。「主よ。もしあなたが私をこの大いなる《犠牲》の血できよめてくださるなら、それがどのようになされても問題ではありません! その壁から突き出している小さなヒソプでなさってください。その植物がいかに小さく、取るに足らないものであっても、それはこの尊い滴を含んで、それを私の心にもたらすことでしょう。そして私は雪よりも白くなりましょう」。これは神である。見ての通り、――最初から最後まで神である。

 「そうすれば、私は」――それだけが、彼自身についての言及である。だが、彼自身とは何だろうか? 何と、「私は受けとる者です。私はきよくされるでしょう」。「私は」。この強調形の「私」についてはどうだろうか? 「私は雪よりも白くなりましょう」。――私はあなたのなすがままの素材です。――咎を赦された者、――汚れをきよめられた者、――、らい病から健やかにされた者、あなたの宮に上ることを許された者です。

 それこそ、私が私の主に今晩求めることのすべてである。――主が私を、ご自身の卓子のもとに来させてくださり、私が受けとる者、食べる者、飲む者、きよめられた者、負債を負った者、破産した負債者、天的な《債権者》に対して頭も耳も債務漬けになっている者となることである。おゝ、無となること、御足元に横たわる者となること! おゝ、無となること、だが、洗われた者――血で洗われた者となること! もはや乗馬することはなく、神をあなたのすべてのすべてにできるとは、何と甘やかなことであろう。もはや手に剣を持って出て行き、自分の力を豪語し、自分に何ができるか誇るのではなく、イエスの御足元に座って、イエスだけが勝ちとることのできた勝利を歌えるとは何と甘やかなことであろう! さあ、心の底から祈ろうではないか。「ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう」、と。神があなたを祝福し給わんことを。イエスのゆえに! アーメン。

入り混じった感慨[了]


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