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見張られざる葡萄畑、あるいは、ないがしろにされた個人的務め

NO. 1936

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1884年9月19日、主日夜の説教
説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「私をぶどう畑の見張りに立てたのです。しかし、私は自分のぶどう畑は見張りませんでした」。――雅1:6


 この聖句は第一人称単数形で語られている。「私を……させたのです」。それゆえ、愛する方々。今晩の説教をあなたに対する個人的なものとさせてほしい。まず説教者に対して個人的なものとし、それからこの、様々に入り混じった群衆のひとりひとりに対して個人的なものとさせてほしい。願わくは私たちが、今の時は、他の人々のことよりは自分自身のことについて考えるように。願わくはこの説教が、私たち自身の心にとって実際的な価値を持つものとなるように! 私は、これが心地よい説教になるとは思わない。むしろ逆に、悲しみに沈ませるものになりかねない。私は不快になるような記憶をあなたの前に持ち出すかもしれない。だが、魂にとって健康となるような、聖なる悲しみを恐れないようにしよう。この聖句の花嫁は自分についてこう云っている。彼らは「私をぶどう畑の見張りに立てたのです。しかし、私は自分のぶどう畑は見張りませんでした」、と。ならば私たちひとりひとりも、彼女の模範を真似て、私たち自身について考えようではないか。

 この聖句は、不平を云っている。私たちはみな、とかくするとすぐに不平を云う。特に他の人々についてそうする。他人の人格のあら探しをして大きな善が施されることはめったにない。それにもかかわらず、多くの人々は多大な時間を、そうした役に立たない仕事に費やしている。この時、私たちにとって益となるのは、私たちの不平を、この聖句のように、自分自身に関わるものとすることである。もしも家の中に何か悪いものがあるとしたら、父親は自分を責めるがいい。もし子どもたちに何か良くない点があるとしたら、母親は彼らの導き手である自分の個人的なふるまいに目を向けるがいい。自分たちの耳を外に貸し出したりせず、手元に置いて自分の用に供そうではないか。私たちの心に至る通路をきれいにしておき、語られたすべてのことを霊に下らせ、私たちの内なる人をきよめさせるがいい。心からこう告白しようではないか。――彼らは「私をぶどう畑の見張りに立てたのです。しかし、私は自分のぶどう畑は見張りませんでした」。

 この聖句を実際的なものにしよう。不平を口にしただけで満足するのではなく、自分が遺憾に思っている悪を取り除こう。もし私たちが間違っているとしたら、正しくなるように努めよう。自分の葡萄畑をないがしろにしていたとしたら、それをしかるべく恥じて告白しよう。自分への哀悼から、聖なる結果が流れ出るように神に求めよう。日ならずして、私たちが、神の恵みによって自分の葡萄畑を注意深く見張ることを始めるようになるためである。そして、そのとき私たちは、他人の葡萄畑の見張り人の職務をより良く果たせるようになるはずである。そうした仕事に召されていたとしたら、そうである。

 今回、私は2つのことについて詳しく語りたいと思う。まず第一に、キリスト者である多くの人々は――私は彼らのことをキリスト者であると思いたいが――こう告白せざるをえないであろう。すなわち、自分たちの人生の大部分は、最高の種類のものではなく、しかるべき意味で自分自身のものとは云えないような労働に費やされている、と。私は、自分の天的な召しを忘れてしまっている働き人を見いだすはずである。そして、この場合について話し終えてから、――そして、残念ながら、そこには私たちの中の多くの者らの心を痛切に打つものがあるのではないかと思うが、――私は、もう少し一般的な見方を取って、ある人々について扱おうと思う。他の働きを引き受けて、自分自身の働きをないがしろにしている人々のことである。

 I. まず第一に取り上げたいのは、《キリスト者ではあるが、自分の高貴で天的な召しを忘れてしまっている人》のことである。私の兄弟たち。あなたや私が新しく生まれた日、私たちは神のために生まれた。私たちが、キリストは自分のために死んでくださったのだと見てとった日、私たちはそれ以後、世に対して死んだ者となるべきであった。私たちが聖霊によって生かされ、いのちにあって新しい歩みをする者[ロマ6:4]とされた日、そのいのちは聖別されたものとなるべきであった。「あなたがたは、もはや自分自身のものではない……。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです」[Iコリ6:19]。理想的なキリスト者とは、生きた者とされた上で、そのいのちによって神のために生きている者である。その人はこの世と肉と悪魔の支配地の外へとよみがえっている。その人はこう考える。すなわち、「ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです」[IIコリ5:14-15]、と。これを、あなたは否定しようとはしないであろう。キリスト者である方々。あなたは認めるはずである。あなたには高貴で、聖い、天的な召命があるのだと!

 さて、振り返ってみよう。私たちは自分の人生を無為に費やしてはこなかった。私たちは、種々の葡萄畑の見張り番を無理矢理させられてきた。この場で私が語りかけている方々の中には、いかなる種類の仕事も労働もせずに生きようとしてきた者など、ひとりもいないはずだと思いたい。しかり。私たちは働いてきたし、激しく働いてきた。ほとんどの人々は、自分の給料のことを「汗水たらして手に入れた」ものだと云うし、多くの場合それはあからさまな真実であると思う。一日のうち多大な時間が、私たちの職業のために費やされなくてはならない。私たちは朝起きると、自分が何をしなくてはならないかを思う。夜、寝床に就くときには、それまでしてきたことによって、くたくたになっている。これは、そうあってしかるべきことである。というのも、神が私たちをお造りになったのは、私たちが、海の深みで遊び戯れるレビヤタン[詩104:26]のようになるためではなかったからである。パラダイスにおいてすら、人は園を耕すよう命じられていた[創2:15]。おのおのの人にはなすべき何かがある。特に、キリスト者である人ひとりひとりはそうである。

 先に話しかけた所に戻ってほしい。私たちは、――私たちの中にいる、キリスト・イエスにあって新しく造られた者[IIコリ5:17]たちは、――自分が新しく生まれた日、自分のためにではなく、神に対して生きることを始めた。私たちはその生き方を実践してきただろうか? 私たちは働いてきた。激しく働くことさえしてきた。だが、この問いが私たちのもとにやって来る。――何のために私たちは働いてきたのだろうか? 誰が私たちの主人だっただろうか? 何の目的のため私たちは、艱難辛苦してきたのだろうか? もちろん、もし私がキリスト者としての自分の告白にもとることがなければ、私は神のため、キリストのため、天国のために生き、働いてきたはずである。だが、そうだっただろうか? また、今そうだろうか? 多くの人々が非常に激しく働いているのは富のためである。それは、もちろん、自分のためということである。自分が金持ちになるためである。一部の人々が働いているのは単に、ちょっとした小金を作るためである。それは、もしそこで終わってしまうとしたら、やはり自分のためということになる。他の人々は自分の家族のために働く。それなりに十分健全な動機ではあるが、やはり結局は、自分という意味をやや大きくしただけでしかない。キリスト者には、いかに広大な意味の自分よりもはるかにまさって、ずっと高く、ずっと深く、ずっときよく、ずっと真実な動機がなくてはならない。さもなければ、やがて来たるべき日、その人は自分の人生を振り返って、こう云うことになるであろう。――「彼らは私をぶどう畑の見張りに立てたのです。しかし、私は自分のぶどう畑は」――つまり、ご自分の血によって私を買い取ってくださったキリストに対する奉仕の方は――「見張りませんでした」、と。私にとって、すさまじい災厄と思われるのは、二十年の歳月を振り返った後で、こう云うことである。「この二十年の間、私はキリストのために何をしてきただろうか? 私の精力のどれほどが、主の栄光を現わすために費やされただろうか? 私には数々の才質があった。そうした才質のどれほどが、それを私に与えられたお方のために用いられてきただろうか? 私には富があった。あるいは、影響力があった。その金銭のいかほどを私は、はっきり私の主のために費やしてきただろうか? その影響力のどれだけを主の御国の進展のために用いてきただろうか?」 あなたが忙しくしているのは、この考えや、あの動機や、また別の活動のためである。だが、あなたは、主の燦然たる栄光のただ中で、主の御座の右側に立つときに、そう生きていれば良かったと願うだろうような生き方をしているだろうか? あなたの主であり《主人》であるお方がやって来きて、あなたに弁明をお求めになるだろうとき、自分でもよく生きてきたと判断するだろうような行ないをしているだろうか? 自分に問うがいい。「私は、神の熱心な協力者[Iコリ3:9]だろうか? それとも、結局は、懸命な怠け者、勤勉な何事も行なわない者なのだろうか? 自分の主のためにだけ生きるべきときに、自分が働くべき類の目的では全くないもののために奮励努力しているだろうか?」 私は、自分のしもべ仲間たち全員に勧めたい。過去を振り返り、果たして自分の葡萄畑を見張ってきたかどうか見てみるようにと。あなたは懸命に働いてきたと思う。私はただこう問いたいのである。――あなたは自分の葡萄畑を見張ってきただろうか? あらゆることにおいて主に仕えてきただろうか?

 私は、もう一歩先へ進むことを半ば恐れている。非常に大きな程度において、私たちは自分自身の信仰告白に対して誠実ではない。私たちの最も高貴な働きはないがしろにされている。私たちは自分の葡萄畑を見張ってこなかった。振り返って見るとき、いかに僅かな時間しか私たちは神との交わりに費やさなかったことか! 私たちの思念のいかに僅かな部分しか、瞑想、黙想、崇敬その他の静思の務めのために費やされなかったことか! いかに僅かしか私たちはキリストの種々の麗しさ、ご人格、みわざ、御苦しみ、ご栄光を詳しく検分してこなかったことか! 私たちは、キリストとの交わりは、「地上での天国」であると云う。だが、私たちはそうしているだろうか? 私たちは、贖いの蓋のような場所はどこにもないと告白している。その贖いの蓋のもとでどれだけ過ごしているだろうか? 私たちはしばしば、神のことばは尊いと云う。――そのあらゆる頁が天的な光で輝いている、と云う。それを学んでいるだろうか? 愛する方々。あなたは聖書の学びに、どれだけの時間を費やしているだろうか? あえて云えば、大部分のキリスト者たちが神のことばを読むために費やしている時間は、新聞を読む時間よりも少ないであろう。そう云っては厳しすぎるはずだと信じたいが、残念ながら、非常に残念ながら、そうではない。最新刊の本が、ことによると、最新刊の感傷的な本でさえ、一心に読まれている一方で、天来の、奥義に関する、言葉にすることのできない天的な知識の深みの方は私たちからないがしろにされている。私たちの清教徒の祖先たちは強靱な人々であった。なぜなら、聖書を糧として生きていたからである。その時代、彼らに対抗できる者はいなかった。彼らが健全な食べ物を糧としていたからである。しかるに、彼らの堕落した子孫たちは、あまりにも不健全な食物を好みすぎている。作り話というもみがら、各種季刊誌というふすま飼料は、聖書という古き良き麦や、霊的真理という極上の小麦粉の貧弱な代用品である。悲しいかな、私の兄弟たち。あまりにも多くの人々は、サタンの葡萄畑から産出された熟してもいない果実を食べる一方で、主の葡萄の木に生る実は全く蔑んでいる!

 私たちが、いかに私たちの神をないがしろにしているか考えてみるがいい。また、果たして私たちが、神に対して実にはなはだしく不当な扱いをしてないかどうか見てみるがいい。私たちは商店にいた。取引所にいた。市場にいた。畑にいた。公共図書館にいた。講義室にいた。公開討論会にいた。だが、自分の密室や書斎は、また、自分の神とともに歩むことや、自分のイエスとの交わりは、あまりにもひどくないがしろにしてきた。

 さらに、神に対する聖なる奉仕という葡萄畑を、私たちは放置しすぎて、荒れ放題にしてきた。私はあなたに問いたい。――あなたの神があなたに行なうよう召しておられる働きは今どうなっているだろうか? 人々は死に向かいつつあるが、あなたは彼らを救っているだろうか? この大きな町は煮え立った大釜に似ており、忌まわしい不義がぼこぼこと泡立っている。その大釜に混ぜ合わされている私たちは、この地獄汁に対する解毒剤として何かを行なっているだろうか? 私たちは実際に義のために働く力だろうか? どれだけ多くの善を私たちは施してきただろうか? この炎の中から燃えさしを取り出すために私は何をしてきただろうか? 私の《救い主》がそのためにいのちを投げ出した、失われた羊を捜し出すために何をしてきただろうか? さあ、この問いを発し、正直に答えてみるがいい! 否、後ずさりして出て行き、「私には何の能力もないんだ」、などと云ってはならない。残念ながら、あなたには、あなたが最後の大いなる日に喜びをもって弁明するだろうものよりも多くの能力があるのではないかと思う。私が覚えているひとりの青年は、自分が責任を持っていた小さな教会がほんのちっぽけなものであることに不平を云っていた。「私には大した善を行なうことができません。私の聴衆は二百人にも満たないのです」。そこで年長の人物が答えた。「二百人の聴衆といったら、最後の大いなる日に弁明をしなくてはならない人数としては、たいへんな多さですよ」。今晩、そこの扉から入ってきた私は、この何千人もの顔をのぞき込んだとき、震えを抑えることできなかった。この厳粛な責任について、この莫大な数の群れについて、いかにして私は、かの大いなる最後の日に釈明すれば良いのだろうか? あなたがたにもみな、大なり小なり何らかの種類の群れがある。あなたがたはみな、キリスト者である者として、やがてその人のことで弁明しなくてはならなくなる誰かを有している。あなたは、そうした、あなたにゆだねられた者たちについて、自分の《主人》の働きを行なってきただろうか? おゝ、方々。あなたは他の人々が底知れぬ所に下っていくのを救おうとしてきただろうか? あなたには天来の治療薬がある。あなたはそれを、病んで死にかけている人々に手渡してきただろうか? あなたには、彼らを滅びから救い出すことのできる天的なことばがある。あなたはそれを彼らの耳の中に語り入れ、その間ずっと、神がそれを彼らの魂にとって祝福としてくださるように祈ってきただろうか? あなたがたの中の多くの人々は、自分に向かってこう云えるのではないだろうか? 「私は仕立屋をしてます」、とか、「私は小売業をしてます」、とか、「私は機械工をしてます」、とか、「私は商人をしてます」、とか、「私は医者をしてます」、とか。そして、「私はこうした職務に気を遣ってきましたが、自分の葡萄畑、つまり私の《主人》の葡萄畑は――私が真っ先に見張っていなくてはならない畑は――見張りませんでした」、と。

 よろしい。では何がこうしたあり方を正すための薬だろうか? 私たちの欠陥についてこれ以上語る必要はない。各人が自分で自分の罪の告白を行ない、それから心を改めようとするがいい。私の信ずるところ、その薬は非常に甘やかなものである。良薬が口に甘いことはめったにないが、今回私があなたに処方するのはうっとりするような一服である。それは、本日の聖句に続けて次の節に進むことである。それを読むがいい。――「私は自分のぶどう畑は見張りませんでした。私の愛している人。どうか教えてください。どこで羊を飼い、昼の間は、どこでそれを休ませるのですか。あなたの仲間の群れのかたわらで、私はなぜ、顔おおいをつけた女のようにしていなければならないのでしょう」。あなたの主のもとに行くがいい。そうすれば、主によってあなたは、自分の自堕落さから回復させられるであろう。主に、どこでご自分の羊を飼っておられるかを問い、それから主とともに行くがいい。キリストと交わる者たちは、暖かな心をしている。主との交わりを楽しんでいる人々は、機敏に義務を行なう。私はこれまで何度も語ったことのあることをあなたに思い出させないわけにはいかない。すなわち、私たちの主がラオデキヤの教会に対してどのように仰せになったかである。その教会は、あまりにも良くない状態になっていたため、主が、「わたしの口からあなたを吐き出そう」[黙3:12]、と云われるほどであった。だがしかし、その教会にとっては何が治療薬だっただろうか? 「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」[黙3:20]。キリストとともに食事をした後のあなたは、なまぬるくはないであろう。主とともにいた後では誰も、「私は冷たくも熱くもありません」、とは云えない。むしろ、彼らはこう自問するであろう。「道々お話しになっている間……私たちの心はうちに燃えていたではないか」[ルカ24:32]。もし、ミルトンが歌うように、太陽の中にウリエルという名の御使いが住んでいるとしたら、請け合っても良い。彼は決して冷たくはないはずである。そのように、キリストのうちに生き、キリストとともに歩む者は、決して冷えることなく、天来の奉仕において愚図つくことはない。ならば、あなたの主のもとにさっさと行くがいい!

 あなたの主のもとに急ぐがいい。そうすれば、あなたはすぐに自分の葡萄畑を見張り始めるであろう。この花嫁は自分の葡萄畑をたちまち見張り出し、それを最上のしかたで行なうようになった。ごく僅かな間に、彼女はこのように云っていることが分かる。「私たちのために、ぶどう畑を荒らす狐や子狐を捕えておくれ」[雅2:15]。見よ、彼女は自分の数々の罪や愚かさを狩り立てている。さらに先に進むと、彼女が自分の主とともに葡萄畑の中にいて、こう叫んでいるのを見いだす。「北風よ、起きよ。南風よ、吹け。私の庭に吹き、そのかおりを漂わせておくれ!」[雅4:16] 彼女は明らかに自分の葡萄畑を見張っており、天来の影響力によって、香料や花々がその香りを放つことを願っている。彼女は下って行き、葡萄の木が生き生きと成長しているか、無花果の木につぼみがついているかを調べている。別の折に彼女は、その愛する方とともに早朝に起き出しては葡萄の木のもとに行き、この植物の生長を見守っている。さらに先の方では、彼女が、自分の愛する方のために蓄えたありとあらゆる種類の果実について語っているのが見いだされる。このようにして、キリストとともに歩むことこそ、あなたの葡萄畑を見張り、あなたの主に仕える道であることが分かるのである。来て、主の御足元に座るがいい。主の御胸に頭をもたせ、主の御腕に安らぎ、主をあなたの霊の喜びとするがいい。願わくは、愛する兄弟たち。主がこの優しい言葉を――私があなたに対してと同じくらい自分に対しても語ってきた言葉を――私たち全員にとって祝福してくださるように!

 II. さて私は、この会衆全般に目を向け、こういう人に語りたい。《何らかの場所で他の働きを担ってはいるが、自分の働きをないがしろにしてきた人》である。その人はこの聖句の言葉を用いることができよう。――彼らは「私をぶどう畑の見張りに立てたのです。しかし、私は自分のぶどう畑は見張りませんでした」、と。

 私たちの知っている多くの人々は、常にたいへん多くのことを行なっているが、しかし何事もしていない。こせこせした人々、何かあるといつでも前に飛び出してくる人々、全世界を正しくすることができるだろうが、自分自身は正しくない人々。総選挙の直前になると、最も尋常ならざる人々がわらわらと現われる。――それは、概して、いかなることも知らざるはなく、それよりもう少し多くを知っている人々、もし議会に送り込まれたならば、全世界を引っくり返し、伏魔殿すら秩序立たせることができるだろう人々である。彼らは六箇月以内に 国債を償還し、その他の彼らに起こり来るいかなる些末事をもこなすであろう。実に卓越した人々である! 私はとてもありえないほど偉大な人々にでくわしてきた。この世のいかなる人にもまして偉大なのは、自分がそうだと思い込んでいる人々である。彼らは非常に優越した人種である。改革者か、哲学者であって、他の誰も知らないことを知っているが、ただ幸いにも、彼らはその秘密の特許を取らず、喜んでそれを他者に告げようとしており、それにより私たち全員を啓蒙してくれるのである。

 私が、こうした天分豊かな友人たちに示唆したいのはこのことである。すなわち、人は非常に多くの事がらの世話を焼いていながらも、自分自身の葡萄畑のことはないがしろにしていることがありえる、と。1つの葡萄畑があり、それを非常に多くの人々はないがしろにしている。そして、それは彼ら自身の心である。才質を有するのは良いことである。影響力を持っているのは良いことである。だが、さらに良いのは、自分の内側が正しくあることである。人が自分の家畜の世話をすのるは、また、自分の羊の群れや牛の群れの面倒をよく見てやるのは良いことである。だが、あの地の一画を忘れてはならない。その人の存在の中心に横たわっている部分を。自分の頭を教育し、あらゆる知識に手を出すのは良い。だが、心、人格と呼ばれる小さな地所があることを忘れてはならない。そちらの方がずっと重要なのである。正しい原則は霊的な黄金であり、それを有している人、それによって支配されている人こそ真に生きている人なのである。それ以外に何を有していても、心が涵養されず、正しくもきよくもされていない人は、いのちを持っていない。あなたは今まで自分の胸の奥にあるものについて考えたことがあるだろうか? おゝ、私が問うているのは、あなたに心悸亢進があるかどうかではない。私がいま語っているのは、道徳的、霊的な面から見た心のことである。あなたはいかなる人格をしているだろうか、それを涵養しようとしているだろうか? あなたは、私たちがみな大いに茂らせている雑草を掘り起こすことがあるだろうか? 芽生え始めた、善という小さな植物に水をやっているだろうか? それを荒そうとしている子狐を近づけないよう見張っているだろうか? いずれ神がご覧になってよしとしてくださるような、人格の収穫があることを希望しているだろうか? 願わくは私たちがみな自分の心に気を配るように。「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく」[箴4:23]。日々祈るがいい。「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください」[詩51:10]。というのも、もしそうしないと、あなたは、この世で浮き沈みを経験し、多くのことを行なうだろうが、最後になったとき、自分の最も高貴な性質をないがしろにしていたことになるであろう。そして、あなたのあわれな、飢えた魂は第二の死を味わうことになるであろう。それは永遠の死であるだけに、いやまさってすさまじいものである。魂が、ないがしろにされたあげくに死ぬとは何と恐ろしいことか! この素晴らしい救いをないがしろにする者が、いかにして逃れることなどできようか?[ヘブ2:3] もし私たちが自分のからだに一切の注意を払い、自分の内奥の魂に全く注意を払わないとしたら、いかにして私たちは自分の愚かさを正当化できようか? 神よ、私たちを怠慢による自殺から救い給え! 願わくは私たちが永遠にこう嘆かざるをえないようなことがないように。彼らは「私をぶどう畑の見張りに立てたのです。しかし、私は自分のぶどう畑は見張りませんでした」!、と。

 さて、その点は通り越して、別の葡萄畑について考えるがいい。ある人々は、自分の家族をないがしろにしていないだろうか? 私たちの心に次いで、私たちの家族の者たちこそ、最も私たちが耕さなくてはならない畑である。私は、若い頃に知っていたある人のことを決して忘れることができない。彼は、私に付き添って、私が説教することになっていた村々まで歩いていくことがよくあった。どんな晩でも、喜んで私とともに行くのだった。だが私から彼に頼む必要はなかった。彼は自分から申し出たからである。とうとう私は、はっきり彼がそうすることをやめさせた。彼は自分でも説教することを好んでいた。他の人々はそれほど彼の説教を聞きたがっていなかったが関係ない。できるものなら真っ先に名乗りをあげるのが彼だった。たとい人が彼を吹き消しても、彼には自らに再び火をともすすべをこころえていた。彼は人が良く、押さえつけることができなかった。私の信ずるところ、彼には善を施そうとする真摯な熱意があった。しかし、彼のふたりの息子を私は良く知っていたが、ぞっとするような冒涜的な悪態をつくのが常だった。彼らは悪徳という悪徳に走り、全く何の干渉も受けていなかった。そのひとりは、まだ少年でありながら、火酒を飲んでは死んだような状態になっていた。私は彼の父親が、そうした酩酊の習慣について一言でも彼に語ったとは思わない。彼自身は確かに酒を飲まず、高徳であったが関係ない。私は彼にはほとんど何の欠陥も見いださなかったが、ただ1つ、このはなはだしい欠陥があった。――彼はほとんど自宅にいることがなく、家の主人ではなく、自分の子どもたちを制することができなかった。その家庭の中では、夫婦のどちらとも何の影響力ある立場も占めていなかった。彼らは自分の子どもたちの奴隷にすぎなかった。彼らの子どもたちは自らをよこしまな者としていたのに、彼らはわが子を抑えなかった! この兄弟は祈祷会で自分の子どもたちのために祈るのが常だったが、彼が一度でも家庭礼拝を行なったことがあるとは思わない。こうした人々を見いだすのはひどく不快なことである。彼らは流暢なしかたでキリスト教信仰について語っていながら、しかし自分たちの家がキリスト教に泥を塗っているのである。私は、あなたがたの中の誰もここまでひどくはないと思う。だが、もしそうだとしたら、この聖句をよくよく考えてほしい。彼らは「私をぶどう畑の見張りに立てたのです。しかし、私は自分のぶどう畑は見張りませんでした」。最も注意深く、祈り深い父親は、自分の最善を尽くして息子たちを教え導いてきたとしたら、その子たちがよこしまな者になったとしても責任を問われることは決してない。最も真面目で涙に満ちた母親は、自分の最善を尽くして娘を正しい道にしつけようとしてきたとしたら、その子が家名を汚すようなことをしても決して責めを負うことはない。しかし、もしその両親が自分たちは最善を尽くしてきたと云えないとしたら、その子どもたちが正道を踏み外した場合、彼らは責めを負うべきである。もしもそうした誰かが今晩このタバナクルに来ているとしたら、そして、自分の息子や娘がどこをほっつき歩いているか知らないというのであれば、今すぐ家に帰るがいい。そして彼らを探し出すがいい。もし私の話をお聞きの誰かが、親として何のしつけも行なおうとも、わが子をキリストに導こうともしていないとしたら、私は彼らに切に願いたい。まず、家庭における自分たちの働きをなし終えるまでは、一切の種類の公の奉仕を退いてほしい。あなたは、誰かによって教役者にさせられてはいても、自分自身の子どもたちを救おうとはしていないだろうか? 方々。私はあなたに云う。私は神があなたを教役者にしたとは信じない。というのも、もし神がそうされたとしたら、神はあなたをあなた自身の家族にとって教役者とすることからお始めになっただろうからである。彼らは「私をぶどう畑の見張りに立てたのです」。その「彼ら」はもっと分別があるべきであった。また、あなたも、そのような召しを受ける前に分別を働かせるべきであった。いかにしてあなたは、自身の家を治めることもできないでいるときに、主の大家族の管理者となることができようか? ある《日曜学校》の教師は、他人の子どもたちを教えていながら、自分の子どもたちに祈りを全く教えていない! これは悲しいことではないだろうか? 青年たちの大学級を教えている人が、自分の息子や娘たちのためには一度も学びの時を設けない! 何と、やがて年月が経って自分の子どもたちが悪徳と罪にのめりこむ姿を見るようになったとき、また、自分が全く彼らのことをないがしろにしてきたことを思い出すとき、その人はどうするだろうか? これは率直な直言である。だが、私は説教するとき、決して歯に衣を着せはしない。私は、この短刀がどこを切り裂くか知らない。だが、もしそれが傷をつけるとしたら、あなたがその切っ先を鈍らせないことを願う。あなたは、これが「まさに個人攻撃だ」と云うだろうか? これは個人をめがけたものなのである。そして、もし誰かがこれに腹を立てるとしたら、その人は自分自身に腹を立て、自分の生き方を改めるがいい。こうしたことが、もはや私たちの中の誰についても当てはまらないようにするがいい。彼らは「私をぶどう畑の見張りに立てたのです。しかし、私は自分のぶどう畑は見張りませんでした」。

 それに加えて、主を知っている者は誰でも、自分の葡萄畑が自分自身の家の回りにも横たわっていることを感じているべきである。もし神があなたの子どもたちを救ってくださったとしたら、それからは、愛する方々。あなたの隣人たち、あなたの労働者たち、あなたが日ごとの労働で関わり合っている者たちのために何かを行なおうとするがいい。神はあなたが、そうした、家庭に最も近い人々の面倒を見るよう任命しておられる。俗に紺屋の白袴という。それを本当のこととしてはならない。家から始めて、家に最も近い人々へと進むがいい。あなたの隣人にキリスト者の愛を明らかに示すがいい。非常に残念きわまりないことに、向こうにいるあのキリスト者は、ロンドンの非常な暗黒地区に暮らしていながら、タバナクルにやって来て、私たちの集まりの中では善を行なっているのに、自分の居住している付近では一言もイエスのために語っていない。何とお粗末な、役立たずよ。塩壺の中にある時しか塩でないようなものが塩と云えるものか! そんな塩は投げ捨てるがいい! 私たちが欲する塩は、それが触れるいかなる肉片にも食い入り始める類のものである。それを、あなたの好むどこにでも置いてみるがいい。もしそれが良質な塩であれば、それは自らに最も近い部分に働きを及ぼし始める。一部の人々は、壺の中では第一級の塩である。彼らは甘焼き菓子の中でもすぐれている。彼らは見るからに美しい白色をしていて、飾り用の形に切り整えることもできる。だが、彼らは決して使われない。ただ見せ物として取っておかれるだけである。もし塩が何も保存しないとしたら、投げ捨てるがいい。農夫に向かって、それを自分の畑にほしいかどうか訊いてみるがいい。「うんにゃ」、と彼は云うであろう。「そんなもんには何の値打ちもないさな」。何の塩気も含んでいない塩は何の役にも立たない。あなたはそれで、庭園の小道を作れるであろう。それは人々が足で踏みつけるには良いものであろう。だが、それだけが、あなたがそれを供せる用途である。おゝ、私の愛する同信のキリスト者たち。あなたについて、こう云わせてはならない。あなたが住んでいる所で、あなたは全く何の善も施していない、と。私は確信するが、もしもキリスト者たちが自分の住んでいる地域でそれぞれに個人的な働きを行なうとしたら、聖霊なる神は、ご自分の熱心な、生きた教会の一致した行動を祝福してくださり、ロンドンはじきに自らの真中に神が1つの民を有しておられることを知るであろう。もし私たちが大衆から遠ざかっているなら、――もし私たちがある地区が卑しすぎるとか、貧困すぎるとかいう理由で、そこで労働することを考えられないとしたら、――私たちは自分の使命を見失い、ついにはこう嘆かざるをえなくなるはずである。彼らは「私をぶどう畑の見張りに立てたのです。しかし、私は自分のぶどう畑は見張りませんでした」、と。

 あなたや私は聖霊に向かって大声で叫ばなくてはならない。私たちを助けて、本当に、真実に、私たちの信仰告白が要求している通りの生き方をさせてくださるようにと。やがて来たるべきある日、あらゆる教会出席者、また、会堂出席者、また、説教、賛美、霊的は、くだらない、無用のしろものに見えることになるであろう。もしそれらが、私たちのキリスト教信仰のすべてにおいて、キリストのために真に生きることの実質がないとしたらそうである。おゝ、私たちが天来の真剣さといったものへと自ら奮起するとしたらどんなに良いことか! おゝ、私たちが自分の天的な環境の壮大さを感じていたとしたらどんなに良いことか! 私たちは決して普通の人間ではない! 決して普通の愛で愛されているのではない! イエスは私たちのために死なれた! 主が私たちのために死なれた! 私たちのために死なれたのである! では、この私たちの貧弱な生き方が、しばしば鈍重で世俗的なものであるこの生き方が、私たちの唯一の返報だろうか? その一片の土地を眺めるがいい! それを買い取ったお方は、そのために自分のいのちを支払い、血の汗でそれを潤し、天来の種をそこに蒔かれた。では、その収穫はいかなるものだろうか? 私たちは当然大きなものを期待する。多くの信仰告白者たちのあわれな、やせこけた生き方が、キリストの心血を注がれた収穫としてふさわしいものだろうか? 父なる神、子なる神、聖霊なる神のすべてが働いておられる。――その結果は何だろうか? 全能が愛と手を結び、恵みの奇蹟を行なっているのである! そこから何が生ずるだろうか? 中途半端なキリスト教の信仰告白者である。これがその結果のすべてだろうか? おゝ、主よ。これほど大きな原因から、これほど僅かな成果しかあがらなかったことなどあるでしょうか? 顕微鏡でもなければ、ある人々の生き方の中に恵みの働きを見いだすことはできない。そうあってしかるべきだろうか? そうあって良いだろうか? 生きており、かつ、死んだお方[黙1:18]の御名にかけて、そのままにしておけるだろうか? おゝ、神よ。私たちを助けて、生きることを始めさせてください。そして、あなたご自身が私たちに、見張りをするようお与えになった葡萄畑を見張らせてください。私たちが、最後には、悲嘆ではなく喜びをもって自分の勘定書を提出できるように! アーメン。

見張られざる葡萄畑、あるいは、ないがしろにされた個人的務め[了]


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