HOME | TOP | 目次

「九人はどこにいるのか」、あるいは、ないがしろにされた賛美

NO. 1935

----

----

1886年12月20日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1884年10月7日、木曜夜の説教


「そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった。そこでイエスは言われた。『十人いやされたのではないか。九人はどこにいるのか』」。――ルカ17:15-19


 あなたは、しばしばらい病についての描写を聞いたことがある。それは、身の毛もよだつ業病であったし、肉体が受け継ぐべき最悪の運命だと思う。このすさまじい病が、この恵まれた国でほとんど知られていないことについて、私たちは、今よりずっと感謝すべきである。また、あなたはやはり聞いたことがあるであろう。それが、人の魂における罪の有り様を、いかに教えに富むしかたで、人のからだにおいて象徴しているかを。いかに罪が魂を汚染し、損壊するものかを。そうした悲しい主題に立ち入る必要はない。しかし、ここには《救い主》が目にした1つの光景がある。――らい病にかかった十人の人である! 実に悲しみの塊である! いかなる光景を私たちの主は今なお、この罪に汚れた世の中で日々ご覧になっていることか! 世界中に見いだされるのは、罪人となっている十人ではない。単に一千万人ですらない。この地上では、何十億もの人々が魂に病をかかえているのである。神の御子が、このような癩病院に足を踏み入れてくださること自体、へりくだりの奇蹟である。

 だが、らい病にかかったこの十人に対する、私たちの主の勝利に満ちた恵みに注目するがいい。らい病人をひとりでも癒すことができたとしたら、人は一財産を作り、一生の栄誉を冠せられることであろう。だが、私たちの主は一度に十人のらい病人を癒された。主には恵みの泉が満ち満ちており、その恩顧を主は惜しみなく分かち与えてくださったため、この十人は、行って自分を祭司に見せるよう命じられた。それは彼らが癒されたからであり、祭司のもとへ行く途中でそのことに気づいた。自分たちが癒されたことを悟ったとき、彼らが感じた喜びは、私たちの中の誰にも想像できない。おゝ、自分たちの肉が幼子のそれのようにきれいなものとされたことを悟るのは、彼らにとって一種の新生であったに違いない! この十人が息せききって戻ってきて、イエスの足元にひれ伏し、十重の詩篇に声を張り上げたとしても、何の不思議もなかったであろう。悲しいことは、彼らのうちの九人は、癒されたにもかかわらず、実に冷淡きわまりないしかたで祭司のもとへ道を急ぎ続けたということである。私たちは彼らが戻ってきたとは全く聞かない。彼らは物語から完全に消息を絶ってしまう。彼らは1つの祝福を受ける。自分の道に向かって行く。そして、それが彼らの終焉となる。

 彼らのうちでは、ただひとり、あるサマリヤ人だけが、その感謝を表わすために戻ってきた。悲惨は多くの者らを呉越同舟にする。それでイスラエルの子孫である九人のらい病人たちと、落ちこぼれのサマリヤ人が仲間になっていたのである。そして、云うも奇妙なことながら、その彼こそは、ただひとり、突如として感謝の衝動にとらえられるや、自分の《恩人》のもとへとやってきて、その足元にひれ伏し、神に栄光を帰し始めた者であった。

 もしあなたが、極上の香料を求めて世界を探し回るとしても、感恩という乳香に出会うことはほとんどないはずである。それは、早朝の生け垣の上に宿っている露の雫ほどもありふれたものであるべきだが、悲しいかな、世界は神への感謝という点では干からびている! キリストへの感謝は、主ご自身の時代においてすら見ることまれであった。私は思わず、十対一の割合で、主を賛美する者はいないと云いそうになった。だが、少し訂正しなくてはならない。それは九対一であった。七日のうち一日は主への礼拝のためのものである。だが、十人のうちひとりとして主への賛美に献身しはしない。本日の主題は、主イエス・キリストに対する感謝ということである。

 I. 最初に取り上げたい点は、すでに触れたこと、すなわち、《感謝の珍しさ》である。

 ここで注意するがいい。多くの人々は幾多の恩恵を受け取っていながら、それについて賛美することが全くない。九人の者が癒され、ひとりの者が神をほめたたえる。九人の者がらい病を癒されるが、読むがいい。たったひとりしかイエスの足元に膝まずき、そのことゆえに感謝してはいない! もし、これほど卓越した恩恵のためにも――おしをも歌わせたであろう恩恵のためにも――人々が九対一の比率でしか主に感謝しないとしたら、いわゆる神の普通のあわれみの数々について私は何と云うべきだろうか?――普通といっても、それは神が彼らに対してごく優渥なお方であるからにすぎず、その1つ1つは測り知れないほど貴重なものなのである。いのち、健康、視力、聴力、家庭内の愛、友人関係の持続、――私は、自分たちが毎日受け取っている恩恵の数々を逐一あげようとすることさえできない。だがしかし、それらのために神を賛美する者が、九人のうちひとりでもいるだろうか? 「感謝なことだ!」、と云い捨てるだけで終わってしまう。私たちの中の他の者らは、こうした恩恵ゆえに神を賛美してはいるが、それは何と貧しい賛美であろう! ウォッツ博士の賛美歌は悲しいほどに真実である。

   「我が舌の上(え)に ホサナはしおれ
    われらが献身(ちかい) 死に果てん」。

私たちは主をふさわしく、見合うべきしかたで、力強く賛美していない。私たちは打ち続くあわれみの数々を受けているのに、切れ切れの賛美しか返していない。神は私たちに毎朝新しい祝福を与え、それは夜ごとに新しい。神の真実は力強い[哀3:23]。だがしかし、私たちはただ歳月を巡り来させては、賛美のために一日を守ることもめったにしない。悲しいことだが、見れば神はことごとく恵みであられ、人はことごとく恩知らずなのである! 幾多の恩恵を受けた部族は、「私の名はレギオンです」[マコ5:9]、と云ってよい。だが、神を賛美する者たちは、子どもでもその数を書けるくらい少ない。

 しかし、そこには、このことよりも尋常ならざることがあった。祈りをささげる者の数は、賛美をささげる者の数よりも多い。というのも、らい病人であったこの十人はみな祈りをささげたからである。病のためにその声音は、あわれで、か細いものとなっていたが、彼らは声をあげて願いをささげ、一斉に叫んだ。「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください!」[ルカ17:13] 彼らはみな、この連祷に唱和した。「主よ。我等をあわれみ給え! キリストよ。我等をあわれみ給え!」 しかし、彼らが感謝頌に達して、神をほめたたえ賛美する段になると、その中のたったひとりしか歌声をあげないのである。人は、願い事をした全員が賛美するだろうと考えるであろうが、そうではない。大抵の場合、嵐の中では船の乗組員全員が祈るが、嵐が凪になるとそうした乗組員の誰ひとり神への賛美は歌わないものである。私たちの同胞市民の大多数は病気になって死にかけると祈りをささげるが、峠を越すと、彼らの賛美は病んで死に至る。彼らの戸口の前に立って耳をすませている、あわれみの御使いは、何の愛の聖歌も、何の感謝の歌も聞いたことがない。悲しいかな、あまりにも痛ましい真実ではあるが、祈りの方が賛美よりも多いのである!

 私はこのことを神の民であるあなたに、別の形で云い表わしたい。――私たちの中のほとんどの者は、賛美するよりもずっと多く祈りをしている。残念ながら、あなたの祈りはごく乏しいものではないかと思う。だが、賛美は、どこにあるだろうか? 私たちの家内の祭壇で私たちは常に祈るが、めったに賛美しない。私たちの密室の中で、私たちは絶えず祈るが、しばしば賛美しているだろうか? 祈りは賛美ほど天的な務めではない。祈りは時の間のためのものだが、賛美は永遠のためのものである。それゆえ、賛美は第一にして最高の場所に値する。そうではないだろうか。私たちは、天界を占めているこの仕事を始めようではないか。祈りは、物乞いのためのものである。だが、施し物を受けるときに賛美をささげない物乞いは、見下げ果てた物乞いだと思う。賛美は自然と祈りの直後に起こるのでなくてはならない。天来の恵みにより、祈りに先立つことがないとしてさえ、そうである。もしあなたが苦しめられているとしたら、金銭を失っているとしたら、貧困に陥っているとしたら、あなたの子どもが病気にかかっているとしたら、何らかの形で懲らしめの訪れを受けているとしたら、あなたは祈り始めるだろうし、私もそのことであなたを責めはしない。だが、そこにあるものが、祈りしかなく、何の賛美もないということで良いだろうか? 私たちの生活が、塩しか含んでおらず、何の甘味もなくて良いだろうか? 自分自身のためにこれほどしばしば祝福の岩から飲ませていただきながら、これほど僅かしか《いと高き方》主への注ぎの供え物を注ぎ出さなくて良いだろうか? さあ、私たちは、多すぎるほどの祈りを賛美にまさってささげていることを認めて、自らを責めようではないか!

 同じ項目として指摘させてほしいのは、儀式に従う者の方が、キリストを賛美する者よりも多いということである。イエスが、「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい」、と仰せになったとき、彼らは、十人が十人とも出発し、ひとりも後には残らなかった。だが、たったひとりしか、《救い主》ご本人を目にして、その御名を賛美しようと戻っては来なかった。今日もそれと同じである。――あなたは教会に行くであろう。会堂に行くであろう。本を読み、外的な宗教的行動を行なうであろう。だが、おゝ、神を賛美することはいかに少なく、また、その御足元にひれ伏して、これほど大きなことを私たちのためにしてくれた、おびただしい数の感恩に、魂も消し飛ぶほど歌えると感ずることのいかに少ないことか! 外的な宗教的勤行はごく容易で、ごくありふれたものである。だが、内的な物事、感謝に満ちた愛にある心を引き出すことの、いかに希少なことか! 九人が儀式に従う際に、たったひとりしか主を賛美しないのである。

 さらにいやまして、ずっと心に迫ることとして、信ずる者の方が賛美する者よりも多い。というのも、この十人は確かに信じはしたが、ただひとりしか主イエスを賛美しなかったからである。彼らの信仰はらい病に関するものであり、彼らの信仰の通りに彼らの身には起こった。この信仰は、単に彼らのらい病に関わるものでしかなかったが、それでも非常に素晴らしい信仰であった。主イエスは、「癒されよ」、と云わず、そうした意味のことばを一言も発しておられず、ただ単に、「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい」、と云われただけであったにもかかわらず、それでも彼らが主を信じたことは尋常ならざることであった。かさかさになった肌、心に焼き入った死をかかえながら、彼らは、イエスが本当に自分たちを祝福しようとしておられるに違いないと確信して、雄々しく出発した。それは称賛されるべき信仰であった。だがしかし、このように信じた九人のうち、受けたあわれみゆえにキリストを賛美するため戻ってきた者はひとりもいなかった。残念ながら、世には多くの信仰があり、それは彼らの信仰にまさる、霊的な事がらに関する信仰でありながらも、しかし実際的な感謝として花開かないのではないかと思う。ことによると、それは菊のように、その年の終わりに開花するのかもしれない。だが、確かにそれは、桜草や水仙のように春に咲くことはないに違いない。それは、賛美という花をほとんど咲かせない信仰である。時として私も、自分がカルメル山上のエリヤのように祈りにおいて神と格闘した後で、ナザレのマリヤのように主の御名をほめたたえなかったことで忸怩たる思いになることがあった。私たちは、受けた恩恵に応じて私たちの主をほめたたえることがない。神の宝物庫は、もしその感謝の歳入がもっと正直に払われるとしたら、はみ出すほどにあふれるであろう。もし私たちの信仰に全く応じた賛美がありさえしたら、宣教のために献金を募ったり、神の民を自己否定へとかき立てたりする必要はないであろう。私たちは天国と永遠については信じているが、地上と時間については、しかるべきほど主をほめたたえていない。それは真実の信仰であると思いたい。――私がそれを判断すべきではない。だが、その結果には欠陥がある。このらい病人たちの中にある信仰は、彼らのらい病に関する部分に限ってのみ本物であった。彼らは私たちの主の神性も、永遠のいのちも信じていなかった。それと同じように私たちの中のある人々も、キリストから種々の恩恵を受け、自分が救われていると希望してさえいながら、主を賛美してはいない。彼らの人生は、自分たちの肌を調べて、自分たちのらい病がなくなっているかどうかを見ることに費やされている。彼らの信仰生活は、絶えず自らを探り、自分が本当に癒されているかどうかを見てとろうとすることとしか思えない。こうしたことに自分の精力を費やすのは情けないことである。この人は、自分が癒されたと分かった。彼はその点について完全に確信した。そこで、彼の霊の次の衝動は、自分の栄光に富む《医者》となられたお方が立っている所に急いで取って返し、その足元に身を投げ出し、大声でこのお方を賛美し、神に栄光を帰すことであった。おゝ、私の話を聞いている小心で、疑いに満ちた人々がみな、同じことをすればどんなに良いことか!

 感謝の乏しさについては、すでに十分に語ったと思う。もう一度そうした点をさらっておこう。多くの人々は種々の恩恵を受けることの方が、それらのゆえに神を賛美するよりも多い。祈る方が賛美するよりも多い。儀式に従う方が心で神を賛美するよりも多い。そして、信仰を持ち、信仰によって種々の恩恵を受ける方が、そうした恩恵の《与え主》を正しく賛美するよりも多い。

 II. 私には語るべきことが多々あるが、それを語るための時間がほとんどない。それゆえ、《真に感謝に満ちた心の特徴》については手短に指摘するにとどめよう。この男の単純な行為は、賛美の性格を示している。それは、誰しも同じ形を取るわけではない。キリストに対する愛は、生きた花々のように多種多様な形をとる。どれを取っても同じなのは造花だけである。生きた賛美は個性によって特徴づけられる。この男は、らい病人だったときは十人の中のひとりであった。だが、神を賛美するために戻ってきたときは、ひとりきりであった。あなたは大勢の者らとともに罪を犯すことができる。大勢の者らとともに地獄に行くことができる。だが、救いを得るとき、あなたはひとりきりでイエスのもとに行くであろう。そして、救われたとき、確かにあなたは、あなたと一緒になる人々が他にもいれば、その人々とともに神を賛美することを喜ぶだろうが、たとい彼らがそうしようとしなくとも、喜んで感謝の独唱を歌うであろう。この男は、他の九人と同行することをやめてイエスのもとにやってくる。もしキリストがあなたをお救いになったとしたら、また、あなたの心が正しくなっているとしたら、あなたはこう云うであろう。「私は主を賛美しなくてはならない。主を愛さなくてはならない」。あなたは、以前の自分の仲間であった、十人のうちの九人の冷ややかな状態によって引き止められはしないであろう。自分の家族の俗っぽさによっても、教会の冷淡さによっても引き止められないであろう。イエスに対するあなたの個人的な愛は、たとい天が、地が、また、海がみな沈黙に包まれているときでさえ、あなたを語らせるであろう。

 あなたの心は、あがめたたえる愛に燃えており、あなたは、それが天下で唯一、キリストへの愛を宿している心であるかのように感じている。それゆえ、あなたはその天的な炎をつのらせなくてはならない。その願望をかなえてやらなくてはならない。その切望を表現させてやらなくてはならない。その火はあなたの骨の中にあり、そのはけ口を有さなくてはならない。真の賛美には個性がある以上、さあ、キリストにある兄弟たち。私たちはそれぞれ、自分なりのしかたで神を賛美しようではないか!

   「おゝ、甘く妙なる この調べ
    満たせ、万人(すべて)の 心と舌を、
    はては異邦人(よびと)も 汝が御名 愛し
    聖き賛歌(みうた)に 声あわすまで!」

 この男の感謝に見られる次の特徴は、その素早さである。彼はほとんど即刻キリストのもとに戻ってきている。というのも、《救い主》がその日、その村の入り口で何時間も愚図愚図しておられたとは思われないからである。主は一箇所に長くとどまっておられるには忙しすぎた。《主人》は巡り歩いて良いわざをなしておられた[使10:38]。この男はすぐさま取って返した。そして、あなたが救われたときは、あなたが感謝を表わすのが素早ければ素早いほど良い。事を行なう前には念には念を入れよと人は云う。だが、キリストへの愛で心が満ちている場合にはそうではない。あなたの心に浮かんだ最初のことを行なうがいい。考え直してはならない。実際、そうすべきでない唯一の場合は、最初の思いを焼き尽くすほどに燃え上がる、第二の思いが心に浮かんだときだけである。ただちに行って、《救い主》を賛美するがいい。あなたがたの中のある人々は、何と壮大な計画を、神への将来の奉仕として考えてきたことか! だが、何と小さな結果しか生じなかったことか! あゝ、きょう一個でも煉瓦を積む方が、来年には王宮を建てますと提案するよりもましである! 現在の救いのためには現在、あなたの主をほめたたえるがいい。なぜ神の種々のあわれみを隔離しておくべきだろうか? なぜあなたの賛美を、百年経って初めて花開く蘆薈のようにしておくべきだろうか? なぜ賛美を一晩でも扉の前に待たせておくべきだろうか? マナは朝ごとに新たにやって来た。そのように、あなたの賛美も遅くならないうちに立ち上らせるがいい。ただちに賛美する者は二度賛美するが、ただちに賛美しない者は決して賛美しない。

 この男の賛美に見られる次の特質は、それが霊的なものであったということである。このことは、彼が祭司のもとに行く途中で立ち止まったという事実から察しがつく。祭司のもとに行くことは彼の義務であった。彼はそうするよう命令を受けていた。だが、物事すべてには釣り合いというものがある。そして、ある義務は他の義務よりも大きいのである。彼は自分に向かってこう云った。私は祭司のもとに行くよう命ぜられた。だが、私は癒された。そして、この新しい状況によって、私の義務の順番は一変したのだ。私が第一になすべきことは、後戻りして、人々に証しをし、彼らすべてのただ中で神の栄光を現わし、キリストの足元に身を投げ出すことだ。釣り合いという聖なる律法を守るのは良いことである。肉的な精神は儀式的な義務を第一に取り上げる。外的なことが、彼らにとっては霊的なことよりも重い。しかし、愛がたちまち察するのは、実質は影よりも尊く、この偉大な大祭司の足元で頭を垂れることは、それに劣る祭司たちのもとに行くよりも重い義務に違いないということである。それで、この癒されたらい病人は最初にイエスのもとに行った。彼の中では、霊的なことが儀式的なことに優先した。彼は自分の主たる義務が、自分を自分の恐ろしい病から解放してくださった、あの天来のお方をじかに崇めることだと感じた。まず最初にイエスのもとに行こうではないか。《主の》前で、霊において頭を垂れようではないか。あゝ、しかり! 私たちの礼拝式に来るがいい。定期的に礼拝に参加するがいい。だが、もしあなたが主を愛しているなら、あなたはこれ以外のことを欲するであろう。あなたはイエスご自身のもとに行くこと、また、いかに自分が主を愛しているか申し上げることを恋い焦がれるであろう。自分ひとりで主のために何かを行なうことを切に願うであろう。そのことによって、神のキリストに対するあなたの心の感謝を明らかに示したいと切望するであろう。

 真の感謝は、また、その強烈さによっても現われる。この場合には、強烈さが感じとれる。彼は戻ってきては、大声で神をほめたたえた。彼はもう少し静かなしかたで賛美することもできたではないだろうか? しかり。だが、あなたがらい病を治されたとしたら、また、かつてはか弱かったあなたの声が回復させられたとしたら、あなたは自分の賛美を囁くことはできない。兄弟たち。あなたも知っているであろう。自分が新しく救われたとき、冷淡に威儀を正していることなどできないと! この男は大声で神をほめたたえた。そして、あなたもこう叫ざざるをえないのを感じる。――

   「われ、そを高く 響かせまほし、
    あめつち共に 聞きうるほどに」。

私たちの回心者の中のある者たちは、時として非常に荒々しく、度外れなことをする場合がある。彼らを責めてはならない。そうさせてやろうではないか。それであなたが傷つくわけでもあるまい。私たちはみな、あまりにも謹厳で端正でありすぎるため、時たま私たちの間に度外れな者たちがいても問題はありえない。おゝ、神がそうした類の者をもっと多く送り、教会を目覚めさせてくださればどんなに良いことか。そして、私たちもみな、心と声をもって、また、魂と実質をもって、神を賛美し始めることができればどんなに良いことか! ハレルヤ! 私の心はその赤熱を感じている。

 真の感謝には、次のこととして、へりくだりがある。この男は、イエスの足元にひれ伏した。彼は、そこに身を伏せるまでは、完璧に自分のしかるべき立場にあるとは感じなかった。「私は何者でもありません、主よ」、と彼は云っているかのようであり、それゆえ、彼は地に顔を伏せた。しかし、彼が平伏した場所は「イエスの足もと」であった。私は、他のいかなる場所で大立者になるよりも、イエスの足元で無になりたいと思う! イエスの足元にうずくまるほど栄誉ある立場はない。あゝ、そこに常に横たわり、ただ主を全く愛するだけで、自己を死に絶えさせることができるとしたら、どんなに良いことか! おゝ、キリストをあなたの上に圧して立ち、あなたの人生をこれ以後、永遠に覆う唯一のお方としていただけるとしたらどんなに良いことか! 真の感謝は、主の前に低く横たわる。

 これに加えて、そこには礼拝があった。彼はイエスの足元に平伏し、神をほめたたえ、主に感謝した。私たちの《救い主》を礼拝しよう。他の人々はイエスについて好きなことを考えるも良い。だが、私たちは自分の指をあの釘のところに差し入れて、「私の主。私の神!」[ヨハ20:28]と云おうではないか。もし神がおられるとしたら、私たちにとってそれはキリスト・イエスのうちにおられる神である。私たちは、決してやめないであろう。罪というらい病から私たちを解放することによってその《神格》を証明されたお方を称賛することを。あらゆる礼拝が、神の至高の威光にあるように!

 この男の感謝について私はもう1つ注目したいことがある。そしてそれは、他の人々への非難に関して彼が守った沈黙である。《救い主》が、「九人はどこにいるのか」、と仰せになったとき、私はこの男が何の答えもしていないことに気づく。《主人》は、「九人はどこにいるのか。神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか」、と云われた。しかし、そこで崇敬していたこの外国人は決して立ち上がってこうは云わなかった。「おゝ、主よ。彼らはみな祭司のもとに行ってしまいました。私は、彼らが戻ってきてあなたを賛美しないことに全く呆れてしまいました!」 おゝ、兄弟たち。私たちは、心の中に神の恵みを感じるとき、しなくてはならないことが多すぎるあまり、他人のことなど構っている暇はない! もし私が自分の賛美の奉仕をやり遂げることができさえしたら、私は、あなたがたの中の恩知らずな人々を非難する気はない。《主人》は、「九人はどこにいるのか」、と云われるが、その足元にいる、このあわれな、癒された人は、あの心の冷たい九人に反対して一言も云うことはない。彼は、自分の個人的な崇敬にあまりにも頭が一杯なのである。

 III. 私は半分も話し終えていないが、あなたは到底指定された終わりの時間を越えて留まることはできないであろう。それゆえ私は、私の第三の区分をできる限り圧縮しなくてはならない。――《この感謝の幸いさ》について考察しよう。この男は、あの九人よりもはるかに幸いであった。彼らは癒されたが、この男ほどの幸いは得なかった。感謝のうちには大いに幸いなものがあるのである。

 第一に、それが正しいことだからである。キリストは賛美されるべきではないだろうか? この男は自分にできることをした。そして、正しいことのためできる限りのことを行なっていると感じるとき、あなたには常に良心の安らぎと、霊の安息があるのである。それが、自分の願う程度よりはるかに劣っているとしても関係ない。この瞬間に、私の兄弟たち。主をほめたたえるがいい。

   「正しく良きかな、ほめうたを
    いついずこにも あぐことは。
    天(あま)つ王にぞ 栄光(さかえ)あれ
    真理(まこと)と恵みの かみにこそ。

    ならば我等も こころ寄せ
    もろびと加え 感謝せん!
    聖く聖なる、聖なる、主よ、
    とわの賛美(たたえ)ぞ 汝れにあれ」。

 次に、感謝にはこの幸いがある。それが個人的な愛の現われだということである。私は恵みの諸教理を愛している。神の教会を愛している。安息日を愛し、種々の定めを愛している。だが、イエスを最も愛している。私の心は、個人的に神の栄光を現わし、個人的にキリストに感謝をささげるまで決して安息を得ることがない。キリストに対する個人的な愛を思う存分に表わすことは、天国の外にあるものの中で最も甘やかなことの1つである。そして、あなたが何にもましてその個人的な愛を存分に表わす道は、心と口と、行為と行動との双方によって個人的な感謝をささげることである。

 感謝にはもう1つの幸いがある。それは明確な視野を有している。感謝に満ちた目は、はるかな遠くと深みを見てとる。らい病をいやされたこの男は、神をほめたたえ続ける前に、イエスに感謝をささげた。もし彼がイエスに感謝し、それで終わったとしたら、私は彼の目はまだ、あまり開かれていなかったと云ったであろう。だが、彼がキリストのうちに神を見てとり、それゆえ、キリストがなさったことで神をほめたえたとき、彼は霊的真理に対する1つの深い洞察を示した。彼は、ほむべき主の神としての、また、人としてのご人格という奥義を発見し始めていたのである。私たちは祈りによって多くを学ぶ。ルターはこう云わなかっただろうか? 「よく祈ったとは、よく学んだということである」、と。私はあえてルターのこの明言に添え書きをつけ足したいと思う。すなわち、よく賛美したとは、さらによく学んだということである、と。賛美は偉大な教授者である。祈りと賛美は、人が自分の小舟をキリストの知識という深い海へと漕ぎ出していく際の二本の櫂である。

 賛美に伴う次の幸いさは、それがキリストに受け入れられるということである。主イエス・キリストは明らかに喜ばれた。主は他の九人が戻ってこなかったことを思って悲しまされたが、このひとりの男には、彼が引き返したということで喜ばされた。「九人はどこにいるのか」、の問いは、その中に、このひとりに対する賞賛が込められている。キリストをお喜ばせすることは何であれ、私たちによって注意深く涵養されるべきである。もし賛美が主にとって喜ばしいものだとしたら、私たちは絶えず主をほめたたえようではないか。祈りは麦わらだが、賛美はその穂である。イエスは、葉が育つのを見て嬉しく思うが、さらに嬉しく思われるのは、賛美という収穫が熟したとき、その黄金の穂を抜き取ることである。

 次に注意したいのは、感謝の幸いさは、それが最も大きな祝福を受けるということである。というのも、《救い主》はこの男に対して、他の者たちには仰せにならなかったことを云われたからである。「あなたの信仰が、あなたを直したのです」[19節]。もしあなたがより高い生活を送りたければ、大いに神を賛美しているがいい。あなたがたの中のある人々は、この男がそうであったように、まだ最も低い状態にある。彼はサマリヤ人だったからである。だが、神を賛美することによって、彼は一介の外国人ではなく、ひとりの傑出した詩人になることになった。いかにしばしば私は、最大の罪人が最大の賛美者となることに注目したことか! 救われたときには、キリストからも、希望からも、きよさからも、最も遠く離れていた者たちは、自分ほど大きな恩義をこうむった者はいないと感じ、それゆえ、最も多く愛するのである。願わくは、このことが、私たちの中のあらゆる者の大望となるように。たとい私たちが、元々は邪悪の限りをきわめた者らのひとりでなかったとしても関係ない。その大望とは、自分がイエスに最も大きな恩義をこうむっていることを感じ、それゆえ、最もイエスを賛美するようになること、また、そのようにして、イエスの御手から最も豊かな幸いを受けとることである!

 もう3つのことだけ語って、話を終えることにしよう。まず、これらすべてから私たちは、賛美を高く位置づけることを学びとろう。私たちは賛美の集会を開こう。賛美をないがしろにすることは、祈りを抑えつけるのと同じくらい大きな罪であると考えよう。

 次に、私たちの賛美をキリストご自身にささげよう。私たちが祭司たちのもとに行こうが行くまいが、キリストのもとに行くことにしよう。個人的に、また、熱烈にキリストを賛美しよう。個人的な《救い主》に対する個人的な賛美こそ、私たちの人生の目的でなくてはならない。

 最後に、私たちがイエスのために働き、回心者たちを見ることになった場合、たとい彼らが私たちの期待した通りの者とならなかったとしても、そのことで意気消沈しないようにしよう。もし他の人々が私たちの主を賛美しないとしたら、私たちは悲しく思おう。だが、失望しないようにしよう。《救い主》は、「九人はどこにいるのか」、と仰せにならなくてはならなかった。十人のらい病人が癒されたが、たったひとりしか主を賛美しなかった。私たちの回心者たちの多くは教会に加入しない。幾多の人々が回心したが、彼らは前に進み出てバプテスマを受けようとはしない。あるいは、主の晩餐を受けようとはしない。大勢の人々が祝福を受けるが、それを認めるだけの愛を感じはしない。私たちの中にいる、魂の獲得者たちは、自分の信仰を隠そうとする臆病な霊たちによって、自分たちの報いの多くを奪われてきた。私は、最近多くの者たちが自分の回心を認めたことについて神に感謝している。だが、もし他の九人がやってくるとしたら、私たちは九つのタバナクルを必要とするであろう。悲しいかな、自分の信仰を告白した後で逆戻りした多くの人たちは! 九人はどこにいるのか?

 それで、あなたがた、農家で集会を開いている人たち。あなたがた、小冊子をかかえて巡り歩いている人たち。あなたがたは、自分が耳にするだろうことよりも多くの善を施しつつあるのである。あなたは、その九人がどこにいるかを知らない。だが、たといあなたが十人のうちのひとりしか祝福しないとしても、あなたは神に感謝すべき理由があるであろう。

 「おゝ」、とある人は云うであろう。「私はあまりにも僅かな成功しか得てきていません。私は、たったひとりの魂しか救ったことがありません!」 それは、あなたが値する以上のことである。もし私が、一週間ずっと漁をして、ほんの一匹しか魚を捕まえられなかったとしたら、私は悲しく思うべきだろうが、もしそれが王室の魚、蝶鮫だったとしたら、その質によって、量の欠けが補われたように感じるはずである。あなたが一個の魂を獲得するとき、それは大きな戦利品である。ひとりの魂がキリストのもとに連れて行かれる。――あなたに、その価値が評価できるだろうか? もしある人が救われるとしたら、あなたはあなたの主に感謝すべきである。そして、屈せずにやり抜くべきである。あなたがもっと多くの回心を願うとしても、ごく数人でも救われる限りは意気阻喪してはならない。そして、何よりも、彼らの中の何人かが、あなたに個人的に感謝しないとしても、あるいは、あなたとともにある教会の交わりに加わろうとしなくても、怒りを発してはならない。忘恩は、魂の獲得者たちが往々にして受けるものである。いかにしばしば、ある教役者は罪人たちをキリストに導き、その若い時代に群れを養ったことか! だが、老年になって力が衰えると、彼らは彼を取り除き、よりきれいに掃き清めることのできる、新品の箒を試したがる。「あわれな、老いた紳士よ、彼は全く時代遅れさ!」、と彼らは云い、そのようにして彼をお払い箱にしてしまう。それは流浪民たちが老馬を追い放ち、入会地の中で物を食うも飢えるも勝手にさせるようなもので、彼らは少しも気にしない。「幸いなるかな、何も期待しない者は。彼らは失望させられないからである」。私たちの《主人》でさえ、あの九人からは賛美されなかった。それゆえ、もしあなたが他の人々を祝福し、他の人々があなたを祝福しなくとも驚いてはならない。おゝ、どこかのあわれな魂が今晩キリストのもとに行き、どこかのらい病人が罪の病を癒されるとしたらどんなに良いことか! もしその人が癒しを見いだすとしたら、出て来るがいい。そして、大声で主をほめたたえるがいい。これほどまでに自分を恵み深く扱ってくださった主を。

「九人はどこにいるのか」、あるいは、ないがしろにされた賛美[了]


HOME | TOP | 目次