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勧告――「心を尽くして」

NO. 1884

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説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「今、あなたがたは心を尽くし、精神を尽くしてあなたがたの神、主を求めなさい」。――I歴22:19 <英欽定訳>


 この勧告が向けられるのに最もふさわしいのは、すでに救われた人々であろう。これは最初、イスラエルの長老たちに対して与えられたものであり、私たちは、彼らがすでに善良な者で、真実であったと喜んで期待したい。だが、第二にこの言葉遣いは、未回心の人々に対しても、非常にふさわしく語りかけることができるであろう。この後者の場合には、ほんの少し意味の取り方に無理があるかもしれない。というのも 私たちは、主を彼らの神であるとは、今のところは到底呼ぶことができないからである。だがそれでも私たちは、あえて未回心の人々、神の民とともに上ってきた人々に対してこう云いたい。「心を尽くし、精神を尽くしてあなたがたの神、主を求めなさい」、と。

 1. 第一に、この言葉を《神ご自身の民に対するその言及》において取り上げよう。あなたはすでに主を見いだしている。ある意味で、あなたが主を求める必要はない。すでに主を知っているからである。だが別の意味ではなおも主を求めるべきである。というのも、主を求めるとは、信仰者の人生全体の描写だからである。その人は、自分の救いとしての神を見いだした後で、自分の《友》として、自分の《聖め主》として、自分の《模範》としての神を求めなくてはならない。より良い世界に属する、かの栄光に富む完全に達するまで、キリスト者である人々はなおも求めなくてはならないものを有している。

 私たちが最初に問いたいのは、「何を彼らは求めるべきか?」、ということである。愛する方々。私は、ダビデがイスラエルのつかさたちに云ったように、あなたに云う。「あなたがたの神、主を求めなさい」。そのために、あらゆることにおいて主に従うよう努力するがいい。私たちの行なうあらゆることを、神の聖なることばによって試すよう不断に努力しよう。それは、平明な命令だけでなく、不明瞭な所のある命令も果たせるようになるためである。神への奉仕においては、何事も小さくはない。また、神の偉大な王権に対する忠誠は、小さな事がらについても鋭敏な良心を有することにおいて現われるものである。取るに足らないことで違反する者は、少しずつ堕落していく。道徳生活における最大の災厄は、普通は突然に降りかかるものではなく、ゆっくりと少しずつやって来る。人間の人格という家の材木の下にむれ腐れが入り込み、それが静かにその損害をもたらしていったとき、その家は一度の衝撃で倒壊するのである。それを打ち倒したのは誘惑の風ではない。一見それが手段であったかのように思えるかもしれないが、長いこと進行していた、陰にこもったひそかな腐敗こそ、真の破壊者なのである。それゆえ、私たちは、いやまして油断せずに生きること、あらゆることにおいて私たちの心を尽くし、精神を尽くして主を求めることを神に誓約しよう。――ひとりでいるときも、家族の中でも、仕事においても、神の家でも、そのようにすると。考えもなしに性急に歩く者は確実に身を誤る。だが、神の助言を受け、《主人》の意志がいかなるものでありえるかを知ろうと見つめる者は、正しく、確実に歩むであろう。おゝ、キリスト者よ。このことにあなたの心を尽くすがいい。主イエス・キリストがあなたの絶対的な主、また《主人》となられるように。そして、あらゆる点で、あなたが几帳面に主のみこころを行なうように努力し、あなたの内側におられる御霊の実としての朗らかな従順をささげるように!

 また、特に主を求めることとして、ダビデがこのつかさたちに求めたように、主の宮を建てるようにするがいい。彼は云う。「心を尽くし、精神を尽くして、あなたがたの神、主を求めなさい。立ち上がって、神である主の聖所を建て上げ……なさい」。愛する方々。あらゆるキリスト者の人生における主たる務めは、教会を建て上げることたるべきである。それは私の人生においてそうあるべきであるし、現にそうであると私は希望するものである。また私は、それがこの場にいる私の兄弟姉妹の多くの主たる務めであることを知っている。そのために彼らは多くの余暇をなしで済ませ、そのために自分の最上の才能手腕をささげているからである。私たちがここに遣わされているのは、神の都を立てるためであり、それは神の教会である。その礎はすでに私たちの《救い主》の尊い血という鮮やかな朱色で据えられている。次々と石を重ねて城壁は高くなっている。私たちは、この建設を進める助けをすべきである。石切場で、あるいは森で、鋸か斧を用いてそうすべきである。大きな働きができなければ、掛け布を織るか、飾り針を合わせるか、糸をより合わせなくてはならない。主を求めて、その教会を建て上げることが私たちの人生の主たる目的であるべきである。おゝ、いかに私はすべてのキリスト者がそのように考えているならと願っていることか! 悲しいかな、多くの人々は、教会の働きを、私たちの中の十数人ほどにまかせておくべきだと思い描いている。――教役者は何人かの友人たちとともにその全力を尽くすべきだが、信徒の大多数はほむべき神に奉仕するこの栄光に富む自由を免除されるべきだというのである。さあ、私の兄弟たち。ひとりも残らず、自分の心を尽くし、精神を尽くして主を求めることとして、主の教会を建て上げようとするがいい。タバナクルにおける神の教会には何の欠けもないようにするがいい。それは山の上にある町[マタ5:14]なのである。

 あなたの行なうすべてのことは、それが個人的な従順に関することであれ、教会との関わりにおけることであれ、神の栄光のため、ひたむきに行なうがいい。おゝ、キリスト者である人たち。あなたと世俗的な栄誉に何の関係があるだろうか? あなたと安逸に何の関係があるだろうか? あなたの人生の矢が突き進む先にある的は、あなたを造り、あなたをその尊い血で贖い、あなたを二度創造して、あなたをご自分のためのもの、ご自分おひとりのためのものとされたお方の栄光であるべきである。あなたは、主の割り当て分がご自分の民であることを知らないだろうか? ヤコブは主の相続地なのである[申32:9]。いかに心から私たちは、主が私たちを選んでくださったことに対して応答すべきだろうか? そのため、いかに喜ぶべきだろうか? 私たちがキリストの選ばれたしもべであることを、また、今や私たちの生きる唯一の目的か主のほむべき御名のご栄光を照り輝かせることにあることを! このために、あなたがたは召されているのである。おゝ、あなたがた、《いと高き方》に選ばれ、贖われた人たち! これこそ、あなたの高貴な運命なのである。あなたが天国でそれを成就したいと希望しているのなら、このことに地上で応答するがいい。主を求めるがいい。それがこの聖句で意味されていることである。――従順をささげ、主の宮の建設のため、主の御名の誉れのために労働するがいい。

 次に問いたいのは、いかにして彼らは求めるべきか、ということである。ここにこの聖句がある。「心を尽くし、精神を尽くしてあなたがたの神、主を求めなさい」。それは、目的の不変さを意味していないだろうか? 「心を尽くし、精神を尽くして」。世の中には、軽佻浮薄な生き物がごまんといる。――その人間らしさはとうの昔に雲散霧消してしまっており、「変わり身早く、何につけ長続きせじ」者たちである。こうした者らは人生を空費している。庭先をひらひら舞っている蝶々のように、いかなる場所にも長く留まることなく、えり抜きの花々からすら蜜を集めようとしない。だが純粋な神の人、主に仕えようとしている人は両足をしっかと踏まえている。そして、そうした人を、その選びの領域から動そうとするくらいなら北極点を引き抜こうとする方がましである。その人は前方を見越して、自分がいかなる針路を取るべきか見てとっている。そして、その点に舵柄を向け続ける。山なす波浪を越えようと、大波の谷を通り抜けようと、その人はそれでも自分の道を突き進むであろう。その人は自分の海図に目を据え、脇にそらされようとはしない。あなたがた、人間たる者たちは、今あなたの神に、揺らぐことのありえない決意をもって仕えなくてはならない。神の栄光を現わすために、その真理を堅く保ち、主イエスの足跡について行くよう決心するがいい。というのも、この時代は浮ついており、ただ腹の据わった者だけがそれを制することができるからである。

 見ての通りダビデは、「心を尽くし」、と云う。すなわち、神への奉仕と神の栄光とに対する、強固な情愛を持つということである。人は、心ここにあらずのままでは、決してあることを行なうことはない。大家と呼ばれるようになったいかなる画家も、自分の絵の具を単に筆で混ぜるだけでなく、自分の心血と混ぜ合わせなくてはならなかった。確かに、生ける神に仕えることにおいても同じに違いない。神は暖かな、情愛のこもった意図という鮮血を欠くようないけにえをお受けにはならないであろう。兄弟たち。誰であれ、偶然にすぐれた者となることはない。いかなる人も、たまたま聖くなったことはない。そこには、神に対して従順であろうとする決意と、願望と、慕いあえぎと、憔悴がなくてはならない。さもなければ、決してそれを有することはない。ならば、あなたの心を尽くしてあなたの神、主を求めるがいい。

 あなたの心以外にも、あなたの性質には他の部分がある。あなたの精神の中には、他にも色々あるが、まず知力がある。私が願うのは神に仕えるすべての者が、その知力をもって神に仕えることである。というのも、多くの人々は神への奉仕において、ぐるぐる回り続けたあげくに今や眠りながらその路をのろのろ歩んでいる老馬のように見えるからである。悲しいかな、途上にある最初の大きな石で彼らはばったり倒れてしまう! 私たちは、神の家に来るときは、自分の頭も心も家に置き去りにしてこないように決意しよう。全人がその場にいて、精気にあふれていなければ、神に栄誉が帰されることにはならない。私たちは、自分の商売で利益を上げる算段をするのと同じくらい真剣に、いかにすれば魂をかちとれるかを企画し工夫するべきである。いかにすれば自分の仕事を促進できるかを熟考するのと同じくらい、神の栄光を現わすために思索し計画を練るべきである。私たちの発明の才は、いかに美しい芸術作品を完成させようとするにもまさって、《贖い主》の栄冠に宝石をはめ込もうと願うべきである。私たちの座右の銘をこうしよう。――「すべてはイエスのために」、と。というのも、イエスは私たちを完全に贖ってくださったからである。脈動する頭脳のあらゆる思想、鼓動する心臓のあらゆる愛情、巧緻をきわめる手のあらゆる動き、すべてはその最上の部分において主のためのものであり、主への気高い奉仕を絶えず行ない続けているべきである。キリストのくびきは、単に肩に置かれるだけでなく、私たちの人間性すべてのあらゆる部分、力、情熱の上に置かれているべきである。それが当然である。神がそうさせてくださるように!

 そしてそれから、もし私が再びこのように尋ねられるとしたらどうだろうか。「いかにして私たちは主を求めるべきなのですか?」 答えよう。――私たちのあらゆる才能手腕の団結と集中によってである。私たちの人生は、太陽の光にたとえられるべきである。そして、聖なる熱心は、天日水晶体のように、それを所与の一点に収束させ、そこに火を発させ、成功への道を焼き開かせるべきである。十数人もの主人に仕えようと試みる人は、決して神のために大したことを行なわないであろう。私は先週、何人かの人たちから、政治や、金融や、社会の取り決めだのについての、詰まらない用向きを助けてほしいと要請された。「何と」、と私はそういう願い事をしに来た人々に云った。「こうした事がらには、私と全く同じくらい事に当たれる人がごまんといるではありませんか」。「ええ、先生。でも私たちには先生の重みと影響力が必要なのです」。私は答えた。「私の重みと影響力は《別のお方》のものですよ。私は、私の《主人》への奉仕から私の注意を散らさない限りは、いかなる良いことであれ、あなたがたをお助けしたいと本当に願っています。ですが、私の時間は私自身のものではないのです。私は福音を宣べ伝えなくてはなりません。あなたがたは、あなたがたの候補者のために遊説して回る、どんな盲目の洋胡弓弾きでも手に入れられるはずです。私は、私の《主人》の務めに携わらなくてはなりませんし、死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせます」。私があなたがた、キリスト者である人々に望むのは、正しく、公正で、親切で、適切で、評判の良いあらゆることに携わり、――あなたの同胞たちに恩恵を施すか、自由と正義とを資することのできるあらゆることに携わる一方で、なおもあなたの精神を、脇目もふらずに、あなたの神への奉仕に専念させることである。あなたの人生をキリスト教信仰に埋没させるがいい。《日曜学校》でこのように尋ねられた子どもの父親のようであってはならない。「君のお父さんはキリスト教を信じているかね?」 「はい、先生」、とその子は答えた。「父はキリスト教を信じてます。でも最近は手を抜いてます」。残念ながら、そうした類の人々が多いのではないかと思う。そうした人々は、腕まくりしてそれに立ち向かおうとしていない。自分の全精神を傾注していない。兄弟たち。もしあなたがキリストに従うなら、全く従うがいい。自分がキリスト者であるつもりなら、キリスト者であるがいい。もしあなたが世俗の者だとしたら、あなたの心をこの世にささげるがいい。さもなければ、この世から何も得られないであろう。2つの物事の中途で立ち止まって、その両方とも手に入れられないというのは哀れであろう。もしエホバが神なら、あなたの心を尽くしてエホバに仕えるがいい。あなたの全性質の精力をことごとく最高度に集中させてそうするがいい。見るがいい。キリスト者である人たち。あなたが何に召されているかを。

 しかし、この聖句がやはり私たちに告げているのは、私たちがいつ主を求めるべきかということである。ここには1つ小さな言葉がある。――黄金の単音節語である。これは、暦のすべてを包摂し、あらゆる日を、週を、一年中を包括している。「今、あなたがたは心を尽くし、精神を尽くしてあなたがたの神、主を求めなさい」。今こそ、有するに値する唯一の時である。なぜなら、実際それは私たちの手に入っている唯一の時だからである。それは去ってしまったと私が云っている間に、別の「今」が起こり来る。速やかに運ばれてくるあなたの瞬間を捕えては、飛びかけるその瞬間瞬間を用いるがいい。今、今、今、私たち自身を、心と精神とを、私たちの神、主への奉仕にささげようではないか。

 その「今」によってダビデは何を意味していたのだろうか? 思うに彼がまず意味していたのは、人々が有能な指導者を有しているときということである。「私は死のうとしている」、と彼は云った。「だが、そこにわが子ソロモンがいる。彼は平和の人であり、神はご自分の宮を彼が建てると云われた。それゆえ、立って主を求めるがいい」、と。いかなる教会にとっても、彼らを導くことのできる者を神がお遣わしになるときは素晴らしいことである。その者の回りで彼らが判断において一致し、その者とともに希望をいだきながら争闘へと進軍できるというのは。悲しいかな! 私の知っているいくつかの教会は、忠実な教役者の死によって悲しいほどの混乱をこうむっている。私は切に願う。もしあなたの所属している教会に、神から遣わされた教役者がまだ存命しており、その先頭に立っているとしたら、今、あなたの心を尽くし、精神を尽くしてあなたの神、主を求めるがいい。神があなたを成功へと導くご自分のしもべを生かしておいてくださる間に、聖なる熱情をもって従うよう気をつけるがいい。「今」こそ、活動のときである。

 またダビデが意味しているのは、神があなたとともにおられるときのことでもある。18節を読むがいい。「あなたがたの神、主は、あなたがたとともにおられるではありませんか」*。神があなたとともにおられるときには、働きに取りかかるがいい。神が去られたら、あなたに何ができよう? そして、あなたが神と一緒にいる間に働くのでなければ、いかにたちまちあなたは神を追い出してしまうことであろう! 神は決して怠け者の間に住んだり、無精者とともに交わりを持ったりするために地上に来られたことはない。ふたりの者は、一致していなければ、一緒に歩けない[アモ3:3]。そして、彼らが確実に一致していなくてはならない1つのことは、彼らが歩こうとする歩調である。イエス・キリストは決してゆっくり旅をなさらない。主とともに行くのは速歩行進である。あゝ、あなたがた、怠け者たち。足どりを早めるがいい。さもなければ、主はあなたをはるか後ろに置き去りになさるであろう! いやまさる勤勉さをもって主に仕えるがいい。さもなければ、あなたは主の道における喜びを失ってしまうであろう。神があなたとともにおられる間に、おゝ、恵みを受けている人たち。あなたの心を尽くし、精神を尽くして主を求めるがいい!

 またダビデがこう云っていることにも注意するがいい。「主は……周囲の者から守ってあなたがたに安息を与えられたではありませんか」。それもやはり、私たちが全力をあげて主に仕えるべき定めの時である。私たちが思い煩いからの安息を得ているとき、そのとき私たちが心を遣うべきことは主を喜ばせることである。私の兄弟。あなたは何週間か前にあなたを悩ませていたあの患難すべてから解放されている。それゆえ、主を賛美するがいい。あなたの敵たちは静まり返っており、あなたの幾多の心労は以前ほどはあなたを苛んでいない。それゆえ、あなたの神をほめたたえるがいい。神がその恩顧をあなたに分け与えてくださるときには、全力をあげて神に仕えるがいい。どんよりした空になり、風がやんでいたときには、船乗りはいかに最初のそよ風を歓呼して迎えることであろう! ほんのひとそよぎでもあれば、彼はそれで前進しようと苦心する。手巾をはためかせるようなあらゆる動きをも利用する。神の民もそのようにすべきである。彼らはいかに小さないつくしみをも利益になるようにし、いつくしみが大きければそれだけ大きな利益を得ようとすべきである。神が私たちに安息や、喜びや、平安を与えておられるときには、それを1つの《安息日》とし、この喜ばしい時を神のこの上もなく高い栄光のために聖別しよう。

 しかし、実際、この「今」は、先に述べたように、一般的な意義のものである。今、あなたがた、気力体力の横溢した若者たちは、あなたの心を尽くし、精神を尽くしてあなたの神への奉仕に当たるがいい。私は、私たちの《伝道者協会》により多くの人々を欲している。私たちには説教者が非常に不足している。――戸別に訪問し、宣教会館や、郊外の村々を回っては、人々にキリストを宣言する説教者たちが不足している。ならば今、あなたの心を尽くし、精神を尽くして、まだ若いうちに神への奉仕に当たるがいい。私たちの回りで行なわれている《日曜学校》は、教師不足のため悲鳴をあげている。青年男女の人たち。あなたがたこそ、このような奉仕を引き受けるべき人々である。傍観していてはならない。青年時代に神に奉仕するほど素晴らしいことはない。自分自身が救われるや否や、他の人々をも救出しようとするがいい。自分の生涯の朝を神にささげないようなキリスト者が、その夕暮れの大方を神にささげる見込みは大して多くない。雲雀ととも起きない者が、雲雀のように歌う見込みはないであろう。

 もし私がこのように若者に語るとしたら、私は同じくらいの力をこめて中年の方々に語ろうと思う。さあ、私の兄弟姉妹。私たちにはある程度の経験がある。私たちはもはや子どもではない。私たちはこの良き道について少しは知っており、その少しのうちの幾分かは苦痛に満ちた学び舎で教えられたものであった。私は、単純な上向きの筆遣いや下向きの筆遣いを学ぶだけのためにも、何度となくたしなめられてきたものであった。そしていま私は、私の《主人》の御名をびっしりと書きつらねたいと願っている。もし私が何事かを学んできたとしたら、私たちの心を尽くし、精神を尽くして生ける神に仕えようではないか。恵みが私たちに与えてくれたあらゆる知恵と経験をもってそうしよう。

 あなたがた、頭に多くの冬を経た雪をいただいている方々。――あなたがた、その禿頭により、齢を重ねる猛風がいかにあなたの額に吹きつけてきたかを示している方々。――確かに、これほど短かな余命しかないとあれば、あなたがたは、自分の心を尽くし、精神を尽くして主に仕えるのがふさわしい。もし人々が、自分の寿命の短さを知っていたとしたら、いかに大いにその奉仕に精を出すことであろう。彼らが本当にしかるべきほどにキリストを愛しているとしたらそうである! 今のこのとき、これは、老人と若者、私自身とあなたがたに対する私の共通した使信である。私たちは、忙しく立ち働こう。愛する兄弟姉妹。あなたがた、この多年の間、私とともに過ごしてきた人たち。また、あなたがた、最近私たちの間に加わった人たち。もう一度始めようではないか。私たちの心を尽くし、精神を尽くして、あくまでも頑張ろうと覚悟して、主に仕えよう。その働きが困難だとしても、硬いものは常にそれよりも硬いもので切ることができる。金剛石は金剛石で切ることができる。おゝ、天来の力で硬くされた決意を有し、それがいかなるものもキリストのために切り開くことができるとしたら、どんなに良いことか! 同志たち。私たちはイエスのために魂をかちとるか、そのことで私たちの心が打ち砕かれるかするようにしよう! 神よ、私たちを助け給え。その御名のゆえに!

 II. キリストにある兄弟たち。あなたがたに対する話は、ここまでとしよう。あなたがたは、これから私が他の人々に話をする間、じっと座って、祈ってくれてよい。いま私は《まだ回心していない人たちに向かって話をする》必要があるが、愛する方々。あなたに一言囁いているのである。私は大きな網を広げ、その中に多くの者を捕らえたいと願っている。あなたがたの祈りに答えて聖霊がこの場におられるなら、そうなるであろう。

 あなたがた、まだ回心していない人たちに対して、私は真剣に云いたい。あなたの心を尽くして真のキリスト教信仰を求め、その外的な形で満足していないようにするがいい。ダビデが、この貴族や紳士たちを自分の寝台の回りに集めて、宮を建てるように促していることに注目するがいい。だが、彼は霊的な人であり、宮の建設がすべてではないことを知っていた。神の宮を彼が高く尊んでいたにせよ関係ない。彼は、外的な奉仕にまさるものがあることを知っており、それでこの人々にこう云ったのである。「今、あなたがたは心を尽くし、精神を尽くしてあなたがたの神、主を求めなさい」。ありとあらゆる手段を尽くしても、神の家に集うがいい。あなたがキリスト者でなくとも関係ない。だが、神がみことばを祝福し、あなたをキリスト者としてくださることを願いながら来るがいい。あなたが勤勉に神の家の外的な種々の定めに参加している間、私が祈るのは、あなたがそれらに頼るのではなく、あなたの神、主ご自身を求めることである。バプテスマはあらゆる信仰者の義務だが、信仰者以外の何者の義務でもない。私は、あなたがこのしるしを、それによって象徴されているものの位置につけないように願う。バプテスマにより頼んではならない。何と、たといあなたが単に水に沈められるばかりでなく、一千もの海に沈められたとしても、それはあなたを救いに至らせる助けにはならない! あなたは新しく生まれなくてはならない。主を求めなくてはならない。外的な儀式には何の救いもない。もしあなたがたの中の誰かが主の卓子のもとに来るならば、私が願うのは、あなたがやって来るとき、そのように来ることによって恵みを得られるとか、パンを一口食べ、葡萄酒を一口飲むことによって救いを見いだせるとかいういかなる考え方も持っていないことである。この卓子の上にあるパンと葡萄酒は、あなたの助けにはなりえない。聖餐式は、もしあなたが真の信仰者でないとしたら、あなたにとって有害なものとなるであろう。自分が信仰に立っているかどうか吟味し[IIコリ13:5]、その上でパンを食べるがいい。だが、あなたの心そのものでまず主を知っており、主を養いとしているのでない限り、決してそれを食べようなどとしてはならない。私は、まだ回心していないあらゆる人にこう云おう。賛美歌を歌うこと、教会に通うこと、会堂に通うこと、個人の祈りで膝をかがめること、あるいは、その他あなたから出る一切のことを頼みにしてはならない。あなたの救いは、あなたの外側にある。キリスト・イエスのうちに存している。イエスのもとに飛び去るがいい! いかなる外的なしるしや象徴の中にも愚図愚図していてはならない。ぜひとも宮は建てるがいい。だが、何よりも真っ先に、あなたの心を尽くし、精神を尽くして主を求めるがいい。

 さて、注目してほしいが、私たちがあなたを、神の良き御霊によって説得したいと思う目的は、あなたが主ご自身を求めることである。単に教理を求めたり、戒めを学ぶことを求めてはならない。主を求めるがいい。主なるイエス・キリストというお方がおられるのである。この方を求めるがいい。福音の基調はイエスの口から発されている。「わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」[マタ11:28]。あなたの教役者、あなたの賛美歌集、あなたの祈祷書、あるいは、あなたの聖書のもとにすら、しばしば行ってはならない。そうではなく、主を求めるがいい。ある人々は聖書の中に救いを見いだそうと考え、聖書を読むことが救いの道だと思い描いている。だが、そうではない。キリストはこう云っておられる。「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません」[ヨハ5:39-40]。もしあなたが聖書を読むことを、信仰によってキリストのもとに行くことの位置につけているとしたら、あなたは見当違いなことをしているのである。あなたは、あなた自らが、あなたの信頼をかけることによって、この《救い主》本人のもとに来なくてはならない。イエスに信頼するがいい。教理にでも、命令にでもなく、イエスに信頼するがいい。そのとき、あなたは救われるであろう。あなたは、五つの傷を負ったこの方に信頼し、血の汗を流したこの方に信頼し、茨の冠をかぶったこの方に信頼し、あの死の十字架についたこの方に信頼しなくてはならない。ただちにこの方に信頼するがいい。これだけが救いの道である。「心を尽くし、精神を尽くして主を求めなさい」*。というのも、主は私の口を通してあなたにこう云っておられるからである。「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない」[イザ45:22]。

 しかし、いま注目するがいい。――というのも、私は、神がお助けくださる限り、このことを心に突き入れたいからである。――あなたは今すぐに、あなたの心を尽くし、精神を尽くして主を求めなくてはならない。すなわち、私の信ずるところ、ある人が覚醒するとき、真っ先にすべきことは確証された救いを探すことなのである。私が聞いたことのあるひとりの人は、二階に上って主を求めようした。神と正しい関係になるまで何の仕事もすまいという必死の決意をしていた。その人は自分の店の鎧戸を上げなかった。というのも、《救い主》を見いださない限り、二度と一銭も帳場でやりとりすまいと決意していたからである。私は、その人が、神と聖なる御使いたちの前では、浅はかなことをしていたと判断することができない。というのも、人生において第一に必要なことは、更新された心だからである。私は、自分が重病にかかったと思うなら、治癒不可能になるまで待ったりしないであろう。医者のもとに行き、それが進行する前に手当をしてもらうであろう。あなたもそうしないだろうか? あなたの魂についても、それと同じくらい素早く行動するがいい。おゝ、方々。神のあわれみが介入しない限り、あなたと地獄との間には、ただ一歩の隔たりしかない! いかにして軽く扱うことなどできよう! これは決して些細なことではない。失われた魂――いかなる悲嘆がその悲しみと肩を並べられようか? 天空に荒布を打ちかけ、太陽を暗くし、月を消すがいい。あらゆる浮かれ騒ぎを黙らせるがいい! あらゆる音曲をもみ消すがいい! お前たち、天の立琴よ、静まれ! あなたがた、御使いたち、その十四行詩をやめよ! 失われた魂の葬儀は、考えうる中で最もすさまじく厳粛なことである。このような葬儀が、ほんの一時間のうちに、あなたのために必要になるかもしれない。私は何と云ったか? 一分も残っていないかもしれない。あなたの息が絶えれば、あなたは失われてしまう。おゝ、方々。私は切に願う。あなたが自分の反逆的な遅れをさっさとお払い箱にすることを! 何もかも脇へ置き、心を尽くし、精神を尽くして主を求めるがいい。

 そして、それはこういう意味ではないだろうか? もし何かが妨げとなってあなたに救いを見つけさせないでいるとしたら、あなたはそれと縁を切らなくてはならない。あなたは、ある特定の人づきあいによって、キリスト教信仰について考えることを邪魔されているだろうか? そうした人々の間に入ってはならない。何らかの正当な趣味によって、キリストを見いだすことに不利益がこうむらされているだろうか? そうした趣味はやめなくてはならない。それは他の人々にとっては気晴らしでも、あなたにとっては死かもしれない。あなたはキリストを有さなくてはならない。あなたがキリストを有するように計らうがいい。私たちの賛美歌にあるこの言葉――

   「キリストなくば われは死ぬのみ」

は、あなたの心にも、あなたの唇の上にもあるべきである。この嘆願に答えを得るまで、他のすべてを脇にやるがいい。私がキリストを求めていたときには、扉が開いていさえすれば、いかなる神の家にも行ったものである。ある説教者の話を聞いたが、彼は私の心に突き入るように語らなかった。それゆえ、私は別の説教者を聞きに行った。その説教者が誰で、何をしている人かなどにはかまわなかった。また、自分が立っていようが座っていようが、あるいは、座席に柔らかい座布団があろうが、全く何もかなろうがどうでもよかった。私はキリストを欲していたのである。それで私は断言するが、私はたとい天井桟敷の真前に座らされていたとしても、《救い主》を見いだすことができさえしたら、自分がどこにいようと全く気にしなかったであろう。いかなる屋根裏の乾草置場でも、赦しを見いだすことができたとしたら、私の役に立っていたことであろう。祈祷会、敬虔な人々の小さな集まり、――何と、私は、それらのことを知っていたとしたら、確実にそこに出席するに違いなかった。というのも、私は《救い主》を見いだしたいと欲していたからである。あなたは、あなたの心と精神の全体が《救い主》を求めているときには、《救い主》を有するであろう。覚えておくがいい。主は、あなたが夢を見ていたり、踊っていたりしている間はあなたをお救いにならないであろう。主はアダムが眠っているときに、アダムのわき腹からエバを取られたが、あなたが眠っている間にあなたから罪を取ることはなさらないであろう。あなたはどうにかして目を覚まされなくてはならない。あなたは、ぎょっとして飛び上がらされなくてはならない。雷電によってそうされなくとも、甘やかに心を探るキリストの愛によってそうされなくてはならない。あなたは徹底的に覚醒されなくてはならない。そして、そうなったときには、このしかたで主を求めなくてはならない。ほどなくしてあなたは主を見いだすはずである。

 最後に、いつ私たちは主を求めるべきだろうか? この聖句は、「今」、と云う。私は、きょうが何月何日か忘れていた。それは大したことではない。だがあなたは、自分が主を求めて見いだすのが何月何日かを決して忘れないであろう。私たちの中の誰が、自分の生まれた誕生日を忘れるようなことがあるだろうか? だが、あなたはそれよりも自分が神に対して生きた者となり始める日のことをずっと覚えている見込みが高い。ひとりの友人が私に手紙を寄こして、こう云う。「先生。私の誕生日は何月何日と何月何日です」。一瞬、私はこう考えた。「イヤハヤ! この人は二度生まれたのだろうか?」 それから、彼が何を意味しているか察しがついた。二番目の誕生日の方がはるかにすぐれたものではないだろうか? 最初は悲しみへと生まれついたが、二回目はキリストにあって生まれたのである。最初は堕落した性質で生まれたが、最後はキリストのかたちに生まれつくのである。おゝ、いかに幸いなことよ、その、よりすぐれた誕生日を有している人は! 願わくはこの良き時にそれがあなたを訪れるように! いかなる時にもまして《救い主》を求めるべき良い時は、まさに今である。何を待って愚図愚図していてもならない。「私はもっと良い人間にならなくてはなりません」、とある人は叫ぶ。そうだろうか? あなたが医者を欲するとき、それがあなたのすることだろうか? あなたは云うだろうか? 「医者の所に行く前に、私はもう少し良くならなくてはなりません」、と。あなたは、もっと良くなるまで待つとしたら、決して出かけないであろう。というのも、もっと良くなったなら、あなたは、「もう出かける必要はありません」、と云うであろうからである。それが普通のやり方ではないだろうか? 現在の時にまさる時はない。

 古いことわざに、「半分のパンでもないよりはまし」、という。だが、このことわざは、霊的には正しくない。自分自身のパンを半分有している人は、決して天から下って来たパン[ヨハ6:33]を求めない。全く何のパンも有していない人の方が良い状態にある。というのも、その人の方が天来の恵みの饗宴にやって来る見込みが大きいからである。来るがいい。あなたがた、飢えている人たち。そして、天のパンを食べるがいい。信じて生きるがいい。信仰は神をあなたのもとに連れて来て、あなたを神のもとに連れて行く。それゆえ、信じて求めるがいい。求めて信ずるがいい。

 願わくは主があなたがた全員を、本日の聖句を耳に響かせながら帰路につかせてくださるように。「今、あなたがたは心を尽くし、精神を尽くしてあなたがたの神、主を求めなさい」。

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勧告――「心を尽くして」[了]

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