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展望――「神が保ってくださる」

NO. 1883

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説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さった者たちを、あなたの御名によって保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。わたしは彼らといっしょにいたとき、あなたがわたしに下さっている御名の中に彼らを保ち、また守りました。彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。それは、聖書が成就するためです」。――ヨハ17:11、12 <英欽定訳>


 贖いという問題において、御父と御子の間には、いかに素晴らしい交流と交わりが互いに存在していることか! 御父こそ御子をお与えになったお方であられ、御子こそご自分をお与えになったお方であられる[ヨハ3:16; Iテモ2:6]。御父こそ私たちを御子にお与えになったお方であり、御子こそ代価を払って私たちを買い取り、ご自分の手元に保っておられるお方である。この聖句において、お与えになった御父は御子から返されている。御子は御父にこのようなことばで祈っておられる。「聖なる父。あなたがわたしに下さった者たちを、あなたの御名によって保ってください」。御父と御子の人格性を疑うことはできないし、双方の本質的な一致を疑うこともできない。三人の神々がいるのではなく、ひとりの神がおられる。御父と御子は、ある意味ではふたりだが、別の意味ではひとりである。私は、あらゆる恵みの行為の中に《三位一体》の跡を見てとって嬉しく思う。契約の愛の最初のやりとりから、恵みによって選ばれた者すべてが集められ、選民が栄光に導き入れられるときに至るまで、古にこう語ったあの御声の響きを私たちは聞くのである。「われわれは人を造ろう」*[創1:26]。3つの神聖な《位格》が、絶対的に一致してともに働き、1つの壮大な結果を生み出されるのである。「父、御子、聖霊に栄えあれ。初めにそうありしごとく、今もそうあられ、これより常に、とこしえまでも! アーメン」。

 本日の聖句がすべて保つことに関わっていることに注目するがいい。三回か四回も、ここには何らかの時制によって、「保つ」、という言葉が記されている。「聖なる父。……保ってください」。「わたしは彼らといっしょにいたとき、……彼らを保ち、また守りました」。私たちには、保たれることが大いに必要である。あなたは贖われているが、なおも保たれなくてはならない。新生しているが、保たれなくてはならない。天来のいのちで生かされ、最も聖なる事がらへの熱望を有しており、キリストに対するあなたの愛は強いが、あなたは保たれなくてはならない。あなたは深い経験をしてきたし、敵の種々の誘惑もわきまえているが、それでも保たれなくてはならない。天の陽射しがあなたの栄えある額に宿っており、あなたは栄光の門の間近にいるが、あなたは保たれなくてはならない。あなたを買い取ったのと同じ御手があなたを保たなくてはならない。また、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持つようにしてくださった[Iペテ1:3]のと同じ御父が、ご自分の永遠の御国と栄光まであなたを保たなくてはならない。私たちを転落から保つことがおできになるお方に、すべての栄光があるように! 神の御力によって保たれているすべての者は、声を合わせて歌おうではないか。ここに私たちの主題があり、私たちはここから遠くにさまよい出しはしないであろう。

 第一に私たちが注意したいのは、一部の神の民が恵まれてきた、えり抜きの牧会である。第二に私たちが注目したいのは、このえりぬきの牧会が、結局は一時的な特権でしかなかったということである。そして第三に見てとりたいのは、それを享受していた者たちが、次第次第に、私たちが常にあるべき正確な場所へと連れて行かれ、それゆえ、1つのほむべき祈りの対象とされたということである。「聖なる父。あなたがわたしに下さった者たちを、あなたの御名によって保ってください」。

 I. 第一に、ここには《1つのえり抜きの牧会》がある。日曜学校の小さな子どもたちはこう歌う。

   「思えば昔 イェスきみの
    人の子らともに ありしとき
    幼子召しぬ、小羊(ひつじ)よと。
    そこにてわれも あらまほし!」

云々。あなたや私も、あの十二弟子とともに数えられたり、マリヤたちの間にいたかったと願わないだろうか? 使徒たちのひとりとなることは確かに、えり抜きの特権であった。彼らはキリストの側近の者、イエスの護衛の者たちだったからである。この人々は主の身辺に接し、主の曖昧なことばも理解し、主の御心を読んでいた。その特権は私たちのものではない。ねたみを抜きにして彼らのことを考え、彼らから何がしかを学ぼうではないか

 あなたが注意するのは、《救い主》が、ご自分の回りにいた十二弟子のために何をされたかということである。――「わたしは彼らといっしょにいたとき、……彼らを保ち、また守りました」。その配慮は継続的なものであった。主はこのことを、他のあらゆることにまして行なわれたかのように思われる。主はこのことを、ご自分の生涯の主要な仕事とされた。巡り歩いて良いわざをなし[使10:38]、さまよう者を改心させながらも、それでも主は決してご自分の民への心配りからそらされなかった。ご自分のものとして彼らを愛された主は、その愛を残るところなく示された[ヨハ13:1]。この章の中には、「死においても強き支配的情熱」*1が記されている。主は生において彼らを保ってこられた。そして今こう云われる。「わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります」。主の心にかかっていた1つの思念はこうである。「彼らはどうなるだろうか? わたしが彼らとともにいた間は、わたしが彼らを保ってきた。だが、わたしが彼らから取り去られてしまったら、彼らはどうするだろうか? 彼らは誰からも自分たちの疑いを解決してもらえず、誰からも自分たちの不和を弱めてもらえず、誰からも自分たちの敵に答えてもらえず、誰からも聖なる確信へと励ましてもらえないであろう。このあわれな赤子たちは、その《乳母》がいなくなるとき、どうするだろうか? この学業半ばの生徒たちは、彼らの《教師》が彼らの中から取り上げられたら、どうするだろうか?」 主は、地上におけるご自分の生涯を閉じるに際して、天におられるご自分の御父の守りに彼らをゆだねられた。

 確かに、兄弟たち。このことによって私たちは、この配慮が常に必要とされていることを教えられるに違いない。羊がいくら成長しても、決して羊飼いによって保たれる必要がなくなることはない。もしこの十一人が常に保たれる必要があったとしたら、確かにあなたや私にもその必要があるはずである。私たちは、トマスや、ペテロや、ヨハネにまさる者ではない。私たちの間には、あり余るほどの証拠がなければ信じようとしない、多くのトマスたちがいる。せっかちで衝動的な多くのペテロたちがいる。敵たちが御国の進展を妨げようとすると天から火を降らせたがる多くのヨハネたちがいる。私たちは欠点や失敗だらけではないだろうか。主が私たちを保ってくださらなければ、粉々に砕けてしまうであろう。私たちの中に、永遠のいのちが絶えず自分に流れ込んでこなくとも生きられる者がいるだろうか? ひとりもいないに違いない。

 私たちはみな、私たちの主から絶えず保っていただくことに大きく依存している。それで私は、喜びをもって、常に個人的な心配りをしていただくことを期待している。読むと嬉しくなることに、主ご自身が、地上におられた全期間、御父から与えられた者たちを保っておられた。この十一個の、値もつけられないほど尊い宝石は、常に主ご自身の保護下にあった。主の御名をほむべきことに、彼らは、非常に優しく個人的な牧会を享受していた。「わたしは彼らといっしょにいたとき、……御名の中に彼らを保ち、また守りました」。主はご自身の個人的な心配りを強調しておられる。――「わたしは……保ち、また守りました」。《良い羊飼い》は、代理人によってではなく、自分自身の手で羊を保つ。子どもにとって何ともくらべものにならないような栄養は、自らの母親の乳房から出たものである。そして、神の子どもが生き生きと成長するのは、ただキリストご自身に頼って生きるときである。私たちの中の、羊飼いの代理である者たちは、私たちの主とくらべれば、非常に貧困な牧会しか実践していない。だが少なくとも自分の有する最上のものを与えたいと思う。夜も昼も、涙とともに[使20:31]、自分の力の限りを尽くし、否、それすらをも越えて、弱った者を助け、疲れた者を元気づけたいと思うはずである。もしも、何らかの手段で、私たちが、自分たちの不完全な管理へと任せられた神の羊たちを守ることができるとしたらそうである。あなたは、キリストを自分の牧師にしたいと願わないだろうか? そう望むのは当然であろう。しかし、主が昇天された以上、それはありえない。まことに、この十一人にとって、キリストからこう仰せられることができたのは、えり抜きの特権であった。「わたしは彼らといっしょにいたとき、……御名の中に彼らを保ち、また守りました」。

 この十一人に対するキリストの人格の効果はいかなるものに違いなかったことであろう? ある人々は、他の人々に対してすさまじい影響力を振るう。それは、より良い言葉がないために、「魔術的」と呼ばれるようなものである。歴史が私たちに告げる何人かの武人は、大部隊の統率において勇敢かつ妙を得ており、部下の兵士たちに無類の忠誠心を吹き込んでは、彼らを鉄の鉤で自分にひっかけた。何人かの英雄たちは、その同胞たちにまさって絶対にして無上の者となった。彼らには、進んで忠誠の誓いがささげられた。キリストが、現実にご自分と起居をともにしていた者たちに対して有しておられた影響力は、至高のものであったに違いない。考えてみるがいい。そこには、ほんの十一人しかいなかったが、主によって陶冶された後の彼らは、一握りの種に過ぎなかったのに収穫を生じさせ、その実りはレバノンのように豊かだった[詩72:16]のである。主の御手に入ったときの彼らは、ただの田舎者でしかなかったが、その御手から離れたときの彼らは、新時代の父祖たちとなっていた。彼らは、新しいイスラエルをなす十二部族の族長であった。イエスとともにいた後の使徒たちは、より卓越した性質の者らとなっていた。人間的な学識こそほとんどなかったが、地上で最高の教育を受けていた。彼らのひとりひとりは、一個の君主以上の者であった。《神性》のすそに触れたことがあり、自らの顔に永遠の《神格》の輝きを帯び、神の《ことば》ご自身のように全く抵抗不可能な言葉を語るのである。彼らは、自分の同胞たちを越えた油注ぎを受けた者らであった。人間性のきわみに達した者らであった。人が種々の学校によって訓練されうる最高の高みをも越えた者らであった。イエスご自身を自分個人の《家庭教師》にできたとは、何という特権であろう!

 私たちの主の世話は最も功を奏するものであった。十一人のうち、ひとりたりとも失われなかった。私たちの主の恵み深い御力を抜きにすれば、十一人全員が逆戻りしていたとしても、全く驚くことなどなかったはずである。彼らは最初は非常に移り気で、極度に無知であった。また、それと同時に、強く誘惑されていた。ある者たちを逆戻りさせ、もはやイエスとともに歩かなくさせた[ヨハ6:66]種々の影響力は、もしイエスが保ってくださらなかったとしたら、彼らの上にも当然同じ力を振るっていたことであろう。主の驚嘆すべき牧会はその奏功の余り、主が、「彼らのうちだれも滅びた者はなく」、と仰せになれたほどであった。トマスも、ヨハネも、ペテロも、ヤコブも、彼らはみな保たれた。この《主人》の訓練は、各人を、その高尚な職務に対して適任とした。おゝ、あなたや私が、天来の恵みによって、神が私たちに与えられた魂すべてを私たちとともに保つことができたとしたら、そして最後に私たちの話を聞くすべての人々についてこう云うことができたとしたら、どんなに良いことか! 「見よ。私と、あなたが私に下さった子たちとは」*[イザ8:18]、と。私たちの主の牧会は素晴らしいものではなかっただろうか。

 しかし、それにもかかわらず、そこには途方もない悲しみが伴っていた。というのも、主はこう云われるからである。「彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。それは、聖書が成就するためです」。私たちの《救い主》は決してユダが、御父によって主に与えられた者たちのひとりであったと理解させようとしておられたのではない。主は決してそのことで間違いを犯されたのではない。ごく初期の頃から主はこう云っておられた。「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかしそのうちのひとりは悪魔です」[ヨハ6:70]。主はユダの性格と末路について、前から明確に語っておられた。ある人々はこう問うてきた。「いかにしてイエスはすべての知識を有していながら、ユダのような人間が十二弟子のひとりになることを許したのか」、と。兄弟たち。主は、熟慮の上で、あらかじめ考え抜いた上でそうされたのである。というのも、主は、来たるべき時代に人々がこう云うであろうことを知っておられたからである。「このキリスト教が真実だというなら、どうしてこのように不誠実な裏切り者どもがその真中にいたり、このように《主人》を売る人間どもが、その指導者たちの間にさえいるなどということがありえようか?」、と。主は、そうした反論がごく初めのうちに姿を現わすことを許し、貪欲な裏切り者が十二弟子のひとりとなるようになさったのである。《救い主》は時としてユダに向かって、彼がご自分のもののひとりであるかのように語ることがあったが、そのとき主は一般的なしかたで、通常の会話形式に従ってお語りになっていたのである。主は、《福音書記者》がユダを「十二弟子のひとり」[マタ26:14]と呼ぶことを許された。それは、あたかも私たちにこう感じさせようとされたかのようである。すなわち、人々は、天国への路を非常に遠くまで行き、本質的なものを除くすべてを有していても、それでも滅びることがありえるのだ、と。ユダが悪霊どもを追い出し、キリストの御名によって多くの不思議なわざを行なったとき、全知の神以外の何物も、彼と、十二弟子の他の誰彼との間に何らかの違いをも見いだすことは不可能であったろう。いくつかの点でユダは他の使徒たちをしのいでいた。おそらく彼はペテロの半分も欠点がなかったし、トマスの半分も疑い深くなかったであろう。彼の内側には見事な資質がいくつもあった。だが、それらはみな、この上もない貪欲さによって影響を及ぼされていた。その貪欲さが彼を支配し、滅びの子としたのである。彼は、あってしかるべき理想の人物となる間際にあるかに見えたが、《主人》は彼をこの祈りの中で、滅びることになるだろう者としてではなく、すでに滅びた者として述べられた。「彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました」。主は彼を「滅びの子」と呼んでおられる。そして確かに、主が彼にその名を与えたときには大きな悲しみを有しておられたに違いない。人々の子らの《見張りの者》は、ユダすらも、深い哀惜の念なしには失うことがおできにならなかった。主は吐息をつかれる。「わたしのパンを食べている者が、わたしに向かってかかとを上げた」[ヨハ13:18]。主の過越の苦菜の中でも、何にもまさって苦よもぎや毒草に似ていたいたのは、このことばであった。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ります」[ヨハ13:21]。聖徒の最終的堅忍という教理には云うに云われぬ甘やかさがあるように、それを濫用から守る諸教理には言葉に尽くせない恐ろしさがある。例えば、私たちの主がこのことばで規定しておられるような教理である。「もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです」[マタ5:13]。最終的堅忍は、天国自身の庭園に咲く一輪の薔薇だが、それにはいくつものとげがある。そして、そのとげとは、後戻りして滅びに至ったユダやその他の者たちの事例である。

 II. 第二に、そしてごく手短に語らせてほしいのは、《1つの一時的な特権》についてである。この十一人は、いつまでもキリストを有しているわけにはいかなかった。主は昇天し、ご自分の御座に上ることになっており、そのとき彼らは、あらゆる聖徒たちと同じような、別の生き方に頼るべきであった。

 さて、そもそもなぜキリストは彼らとともにおられたのだろうか? それは、彼らが非常に弱かったためであった。彼らは世話を受け、養われる必要があった。兄弟たち。あなたがたを見てみるがいい。あなたは初めの頃は大きな喜びを有していた。その頃は、歓喜して恍惚となることがあった。最近のあなたには、もしかするとそうしたことがないであろう。というのも、あなたはより堅実な足取りで天国に向かって旅をしているからである。私の母は、私が赤子だった時には膝の上で私を揺すってあやしてくれた。だが、私が成人したときには、決してそのように私の守をしようとは考えなかった。ある種の霊的な喜びは、私たちの信仰的な幼児期の特権であり必要であり、私たちの成長とともになくなるのである。主は、この十一人が幼年期にあるときには彼らをかかえ、この世で一緒にいたときは彼らを保ち、守られた。ならば、なぜ主は去って行かれたのだろうか? 何と、その理由は、彼らが霊的な成年へと成長するためである! もし主がずっと彼らとともにとどまり、奇蹟を行ない、ずっと親しく付き添っておられたとしたら、彼らはいつまでもただの子どもでしかなかったであろう。だが、主が去ることは彼らにとって好都合であった。というのも、そのとき聖霊が彼らに臨み、彼らは成人の完全な活力へと大きく達したからである。イエスが彼らとともにおられたとき、彼らは小児だったが、イエスがおられないとき、彼らはキリストにある成人となり、その御名のために勇敢に自分を捨てる者となった。多くの感覚的な喜びが、震えおののく聖徒たちには許されるが、それらは、彼らが主にあって強くされるときには取り去られる。

 愛する方々。あなたも有益な牧会者の働きを享受してきたし、今やそれを失おうとしている。あなたはキリストの個人的な教えに接してきたわけではない。それはありなかった。だが、神が非常に大きく、そのみことばの宣教において祝福してこられた者の教えの下にあった。悲しいかな、あなたは今、その大いに愛された恵みの手段からはるかに遠くに行こうとしている! 願わくはあなたが今、より強くなるように。今やその植物が寒気の中に出された以上、それが霜にも耐えるだけの強さと活力を持てるように! 私は、私の園丁が若木を寒気にさらして強くするのを見ることがある。主はあなたにも同じことをしようとしておられるのであろう。造船所にある船は次第に完成へと近づきつつあり、非常に多くの手間暇をかけて美しく仕上げられきた。だが、それは進水させられなくてはならなかった。強力な海に洗われなくてはならない。嵐による損耗を知らなくてはならない。イスラエルは、常にゴシェンで肥え太っていてはならない。すべての部族が荒野へと連れ出され、岩地の上を導かれなくてはならない。というのも、そのようにして主はご自分の選民を、約束された彼らの安息へと連れて行かれるからである。

 ぜひ注目してほしいのは、イエスご自身を自分たちの牧師とするということはえり抜きの特権ではあっても、神の恵みがなければ、この特別な恩恵それ自体には何の力もなかったということである。主イエス・キリストがいかに説教しようと、滅びの子の心に触れることはできなかった。主がペテロを見つめられると、ペテロは外に出て、激しく泣いた[ルカ22:61-62]。だが、主が《世の終わりの日》までユダを見つめておられたとしても、ユダの目には悔悟の涙が全く浮かばなかったであろう。悲しいかな! ユダはキリストが行なったあらゆる説教を聞き、あらゆる力あるみわざを見た。ゲツセマネの園では主の御顔に浮かぶ血の汗すら目にし、裏切りの唇で御顔に口づけした! いかなる牧会活動もそれ自体では石の心を肉の心に変えることはできない。「あなたがたは上から生まれなければならない」*[ヨハ3:7]。神の御子ご自身が説教者であっても、会衆が出て行くときには、その中の十一人のうちには神の恵みがあったが、滅びの子は以前と変わらないままであった。――最後までかたくなであった。みことばが忠実に宣べ伝えられても、益を受けない者たちは、このことを警告とするがいい。あなたがたが福音のもとで滅びないように、復讐とともに滅びないように用心するがいい。しかしながら、もしえり抜きの牧会活動があなたがたの中の誰かから取り除かれようとしているとしたら、こう考えて、ある程度は慰めを受けるがいい。すなわち、結局において、本質的なことはあなたから取り去られないのである。というのも、最上の外的な牧会活動がなくなったとしても、神の御霊はあなたを祝福することがおできになる。だが、その神の御霊がおられなければ、地上におられた際のキリストご自身による牧会活動でさえ、あなたにとって有効なものとはなりえなかったであろう。

 III. さて今、私が最後のこととしてあなたに示したいのは、《主人》はその弟子たちをどのような状態に残されたか、私たちがみなどのような状態にあるか、何に私たちは満足すべきか、ということである。私たちはみな、《1つのほむべき祈り》の対象である。「聖なる父。あなたがわたしに下さった者たちを、あなたの御名によって保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです」。この天来の嘆願の下に、私たちはみな隠れ家を見いだすのである。

 主がどのように語り出されたかに注意するがいい。――「父」。おゝ、しかり。御父こそ、私たちを保ってくださるお方である! 神の子どもたち。あなたを保って、守られるお方として、あなたの御父以上の方がありえようか? あなたが、いかなる者に対するよりも大きな確信をもって叫ぶことができるのは、天におられるあなたの御父ではないだろうか? いかなる者にもまして、たちまちあわれみの心をわななかせ、すぐさま耳で聞きつけ、たちまち足で救いに駆けつけるのは、あなたの御父ではないだろうか? 主イエスはいかにも優しくこの偉大な神にこの称号を選ばれ、「エホバよ」とも、「主よ。あなたの御民を保ってください」、と云わず、「父よ。彼らを保ってください」、と仰せになった。また、そのとき主はそれを「聖なる父」と云い表わされたが、これはなぜだろうか? 何と、御父が保つということは、私たちを聖く保つことだからである。そして、私たちを聖く保つことのできるお方は、聖なる神でなくて誰だろうか、また、私たちを聖く保つことのできるお方は、自ら聖いお方でなくて誰だろうか? 私たちが聖潔に成長することに誰にもまして強い関心を寄せるべきお方は、その御名が《聖なる父》であられる《お方》ではないだろうか? 愛する方々。私はこの称号をこよなく愛している。これは私の信仰を引きつけ、私の魂に確証を生み出す。もしイエスのほむべき御手が、私が保たれるようにと私を《聖なる父》のふところに入れてくださったとしたら、何と、私は確実に、また、確固として保たれるであろう! 《聖なる方》は決して私たちが汚染されることも汚されることも許さないであろう。

 さらにこの祈りに注意深く目を留めるがいい。――「保ってください。保ってください」。あなたや私はどのように保たれる必要があるだろうか? 私は、教会としての私たちが願って良いだろう、様々な形の保たれ方のことを考えていた。私たちは不和から保たれる必要がある。「聖なる父。彼らを保ってください。彼らが一つとなるためです」*。十数人の者たちが、十数週間も一致しているのは非常に驚くべきことである。私たちは、あまりにも半端な者たちであるため、――私は、取り立ててあなたがたのことを意味しているのではなく、キリスト教会に属するあらゆる者たちのことを意味しているが、――実際、私たちが意見を異にするのも全く不思議ではない。驚きなのは、私たちがこれほど長く、これほど心から一致してきたということである。私は、私たちがともにしてきた霊的調和の歳月について神を賛美しほめたたえる。私たちは、これほど不完全で、これほどうぬぼれに走りやすく、また、これほどたやすく誤解し合いがちで、これほど人を怒らせ、ゆえなく怒りを発しやすい者であるにもかかわらず、何のいさかいも、分裂もなかった。これは私にとって実に不思議なことと思われる。「聖なる父。私たちを保ってください」。この祈りを頻繁に祈ろうではないか。私たちは、自分たちがいかに素早く四分五裂してしまうか分からない。私たちの幸いな楽園に、不和という蛇たちが入り込んで、私たちが衝突し合うことにならないよう神に祈ろうではないか。

 しかし、兄弟たち。一致の中に保たれるだけでは十分ではない。この世には偽りの教理があふれている。これは、その災いの日のエジプトに蛙がうじゃうじゃあふれたのと変わらない。あなたが扉から頭を出せば常に、あなたの回りを幾多の異端がブンブン飛び回っているのである。欧州大陸のいくつかの都市に虎列剌が蔓延しているように、この町は「現代思想」で一杯になっている。そして私は、両者のどちらがより悪いか決めようとは思わない。しかし、新奇な物に対する愚かな愛から保たれること、また、昔ながらの信仰に忠実であり続け、昔ながらの十字架にすがりつき続けるよう助けられるのは、大きなあわれみである。幸いなことよ。イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは何も知らないことに決心している人[Iコリ2:2]は。「聖なる父。私たちを保ってください」。私たちはある者らが東へ行き、ある者らが西へ行き、ある者らが月へ行き、ある者らが星々へ行き、ある者らが完全へ行き、ある者らが放縦へ行くのを見ている。私たちを保ってください、聖なる父よ。あなたの真理の中に最後まで揺るぎなく保ってください。

 しかし私たちは、一致し、真理に堅く立った者たちとして保たれるだけでは十分ではないであろう。私たちは罪からも保たれる必要がある。聖徒たちは、保たれなければ即座に罪人たちとなるであろう。いかに私は、光輝く人々が不潔きわまりない種々の情欲で汚されるのを見てきたことか! いかに私は、素晴らしい力をもって聖潔を宣べ伝えた人々が、自分の個人的な生活の中で不浄なことを実践していることを知って嘆き悲しんできたことか! あなたや私は、突如襲いかかる誘惑の局部的突風によって、たやすく転覆させられがちである。特に帆ばかり張っていて、底荷がほとんどない場合はそうである。それゆえ、私たちはみな自分のためにこう祈り、それから、自分の兄弟たち全員のためにこう祈る必要がある。「聖なる父よ。私たちを保ってください。あらゆる悪から私たちを保ってください」、と。

 それだけでも十分ではない。というのも、世には完璧に道徳的に保たれ、外的には破綻なく謹厳そのものでありながら、その心は次第に霊的な死へと陥没しつつあるということがありえるからである。あなたは、そうしたことを一度も見たことがないだろうか? そこに腐敗はなかった。青ざめてさえいなかった。その死体は洗われていた。――薔薇色の水で洗われ、頬と唇には紅まで差されていて、ほとんど死のしわざを覆い隠していた。きちんと服を羽織り、顔には微笑みを浮かべているそれは、あなたを喜び迎えているように見えたが、それは一個の死体だったのである。あなたはそれを想像できるだろうか? おゝ、神の教会よ。生きた見せかけを受け入れることに用心するがいい。スペイン人とムーア人との間の連戦の中で、かの伝説的戦士シッド――ロドリゴ・ディアス――が戦場に斃れたとき、スペイン人は彼のからだをその乳白色の軍馬に真っ直ぐに乗せ、彼の死体を先頭にして戦いへと進発した。いかにしばしば彼の存在は、その戦友たちに勝利を確保してきたことか! ムーア人たちは、その偉大な腕が死によって麻痺していることを発見するまで、偉大なるシッドの剣の前で逃げ散った。だが、いったん掲げ上げられた剣が死んだ手で握られていたことを知ると、彼らは元気を取り戻した。そのように、あなたも死んだ教会を鞍上に真っ直ぐに座らせ、甲冑一式をまとわせることはできよう。また、主の大剣を高く構えさせることはできよう。そして、しばらくの間、その死は全く疑われもしないかもしれない。だが、いったんこの世にこの恐ろしい秘密が知れてしまえば、敗北の時が来たのである。死んだ教会は、死んだ獅子のように、子どもたちにもてあそばれるものとなる。霊的いのちに欠けている教会は、悪霊どもの笑い草である。神が私たちを保ち、私たちが決して霊的に腐敗した状態に陥らないようにしてくださるように! あなたも心の底から祈るがいい。私たちの生きた、愛に満ちた主のこの甘やかな祈りに唱和するがいい。「聖なる父。あなたがわたしに下さった者たちを、あなたの御名によって保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです」、と。

 さらに注目してほしいが、私たちの主イエス・キリストが願っているのは、私たちが神ご自身の御名によって保たれることである。ひとりのキリスト者を保つには、神の御名そのものが必要なのである。

 「御名」という言葉は、時として、神のご性格全体、神の王たる権力と大権のすべてを意味することがある。しばしば「御名」という言葉では力が意味される。神の聖い御名がその力のすべてを振るって私たちの敵を遠ざけるのでない限り、私たちの船の乗組員全員はおろか、そのひとりたりとも保つことはない。《救い主》はこの懇願でしめくくっておられる。「聖なる父。あなたがわたしに下さった者たちを、あなたの御名によって保ってください」。私は、このことがあなたの心を打つかどうか知らないが、これは私を非常に感動させることである。主はこう云っておられるかに思われる。「父よ。あなたは、この者らをわたしに与えてくださいました。彼らはわたしにとって非常に大事な者たちです。わたしの掌中の玉です。今、わたしは去ろうとしており、そのため彼らを残して行かなくてはなりません。おゝ、わたしの父よ。わたしのために、あなたご自身のわたしに対する愛の形見を保ってください! この者らはあなたの忘れな草であり、私は彼らを尊んできました。ですから、あなたに願います。わたしが彼方にある血塗られた木に上って死ぬときも、また、その後であなたのもとに行き、わたしの永遠の安息を楽しむときも、あなたがわたしにお与えになったこの者たちの面倒を見てください」。それは、自分の花嫁を獲得した夫が、今や彼女から離れて出かける必要があると見いだしたときのようである。彼は彼女を、もともと彼に彼女を与えた彼女の父親へと返して、こう云う。「私のために彼女の面倒を見てください。あなたが私を愛しているように、彼女の面倒を見てください」。私たちはあなたのついて語っているのである。あなたがた、キリストを信ずる信仰者たち。それゆえ、熱心に聞くがいい。「父ご自身があなたがたを愛しておられる」[ヨハ16:27]。御父があなたをイエスに与えたのは、イエスを愛しておられたからである。御父は、イエスが最も嬉しく思うだろうものをイエスに与えたいと思われた。それで、あなたをイエスに与えられたのである。そして今、イエスは、その肉体的な臨在によってはあなたとともにいることがおできにならないため、あなたをこの偉大な御父に引き渡される。もともと、その愛に満ちた御手から、あなたを受け取られたお方のもとに。そして主は云われる。「聖なる父。彼らを保ってください」。あなたは御父が御子の要請にお答えになると思うだろうか? 私はお答えになると確信している。イエスが私を置かれた、かの《全能の》御手の中で私は安泰に感じる。

   「われ知る、神に 安泰(やすき)あり、
    その御力に 守らるる、
    イェスに属(つ)く者 すべてには、
    かの定めの日 至るまで」。

ヨハネ10:28、29でイエスが語っておられる二重の安全のことを思い出すがいい。「彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません」。

 話をお聞きの愛する方々。あなたはキリストに属しているだろうか? あなたは、この王なる《所有者》のものとなっている以上ひとりきりではない。私たちの中の多くの者らは、主の群れの羊であり、主の愛の子どもたちである。私たちは私たちの主の卓子の回りに集まろうとしている。あなたは去って行くだろうか、それとも、私たちとともに来て、こう云うだろうか? 「私たちは主に属しており、主の愛の饗宴にあずかりたいと思います」、と。もしあなたがこのたびは去って行かなくてはならないとしたら、急いで正しい状態に至るがいい。将来、あなたの主にあなたが従えるようになるために。あなたの死に給う主をこのように忘れることはもうやめるがいい。私は切に願う。あなたをイエスにささげるがいい。そうすれば、それは御父があなたをイエスにお与えになったことを示す最上の証拠となるであろう。というのも、神の永遠の目的の結果でなければ、また、内側における御霊の働きの結果でなければ、ある心が自らをイエスに引き渡したことは決してないからである。話をお聞きの愛する方々。《愛する方》に自分を明け渡すがいい。その愛はこれからあなたの喜び、あなたの護衛、あなたの完全、あなたの至福となるのである! いま一刻の遅れもなしに、あなた自身を明け渡すがいい!

 主の民はいま出て来て、喜びと楽しみをもってこの祝いを守るがいい。まどろむこともなく、眠ることもない、イスラエルの《偉大な守り手》[詩121:4]の御名に賛美を歌いつつ、そうするがいい。

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展望――「神が保ってくださる」[了]


*1 英国の詩人アレグザンダー・ポープ[1688-1744]、『道徳論集』の一節。[本文に戻る]

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