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追想――「主が祝福された」

NO. 1882

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説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1881年7月7日の説教


「主が今まで私を祝福されたので」。――ヨシ17:14


 異なる要求者たちの間で土地を分割するのは容易な仕事ではない。ヨシュアは、カナンを厳格な公正さによって分割した。彼は神の人であったが、その数多くの演説からも推察されるように、明敏な知恵者でもあった。しかし、そうしたすべてにもかかわらず、彼は万人を満足させることはできなかった。万人を喜ばせようとする者は、不可能なことを試みているのである。神ご自身にさえ文句をつける者たちがいるのである。もし人々を喜ばせることが摂理の目的だとしたら、それは陰鬱な失敗である。私たちは、自分の境遇に不満をいだく人々を至る所で見いださないだろうか? この人は、今の自分と違う運命にあったとしたら嬉しく思うであろう。あの人は、もう少し物持ちだったとしたら完璧に満足するであろう。ある人は、自分の持っているものを常に保っていられたとしたら満ち足りるであろう。一方で別の人は、人生が短くされることがありえるなら、ずっと喜ぶであろう。満足な人はどこにもいない。私たちは、いま開いている章のヨセフ部族のようで、何かあるとすぐに自分の割り当てについて不平を云う。そうあるべきではない。私たち、罪の荒野でやつれ果てていた者らは、自分が約束の国に入ったことを喜ぶべきであり、主の民の間で受け継ぐ地を有することを嬉しく思わなくてはならない。満ち足りた心は、神の御霊によって生まれた者たちにとって自然なもののはずである。しかり。私たちは満ち足りた心を越えて進み、こう叫ぶべきである。「ほむべきかな。日々、私たちのために、重荷をになわれる主」[詩68:19]、と。

 兄弟たち。あなたがたの中のひとりひとりに私が与えることのできる最上の忠告は、神が自分に与えられた地を最大限に活用するよう努めることである。というのも、結局ヨシュアは、でたらめなしかたでエフライムとマナセの相続地を指定したのではなく、それらは神の定めによって彼らのものとなっていたからである。彼らの相続地は、ヨシュアよりも高い御手によって、はるか以前に区画されていた。あなたや私はこう信じなくてはならない。――

   「われらが涯(はて)を 形成(つく)る御手あり、
    いかにわれらが そを荒削(けず)るとも」。

私たちは予定を拠り所とし、この大いなる真理を受け入れようではないか。「人の歩みは主によって確かにされる」[詩37:23]。全知の神は、その主権の意志に従ってご自分の民の処遇をお決めになる。私たちは、自分の運命を変えることを求めようとはせず、自分の状況の中で最善を尽くすよう努めよう。これこそヨシュアがエフライムとマナセに与えた勧告である。「あなたがたには森が生い茂る山地がある。それを伐採するがいい。あなたがたの肥沃な低地はカナン人に占領されている。今の住民を追い出すがいい」。おゝ、方々。私たちは、神が私たちにふんだんに与えてくださったものを徹底して楽しもうとしさえすれば完全に幸せになり、天国の喜びさえ予期するはずである。恵みの契約には、種々の楽しみの深い川があるが、私たちはその水辺で水をはね散らかして遊ぶだけで満足しているのである。私たちの中のほとんどの者らは、「泳げるほどの水」[エゼ47:5]があるというのに、足首までしか水につけていない。永遠の愛という偉大な太陽は、私たちの人生という地球を熱帯的な力で照らしているが、私たちは疑い恐れの北極へと逃げて行き、それから日に当たってもほとんど暖かくならないだの、太陽が地平線からほとんど出て来ないだのと文句を云うのである。暖炉の近くに行こうとしない者は部屋が寒いと云うべきではない。もしも私たちが心から、主が食卓に並べてくださったものを食べ、主が私たちの指のために用意された指輪を受け入れ、主が私たちを心地よくするために供しておられる衣を着るなら、この地上においても、主の御前で音楽を奏して、踊るであろう。

 私は本日の聖句についてこう語りたいと思う。第一に、ここには1つの告白がある。それは私たちの中の多くの者らが非常に幸いに告白できるものであると思う。「主が今まで私を祝福されたので」。第二に、ここには理詰めで述べられた議論がある。「主が今まで私を祝福されたので」、ですから云々かんぬん、と。

 I. では、本日の聖句でまず第一に眺めたいのは、《1つの告白》である。――「主が今まで私を祝福された」。

 私は今回、あなたがたの中にいる、神の祝福が一度もとどまったことのない人々に語りかけるつもりはない。覚えておくがいい。話をお聞きの愛する方々。あらゆる人は呪いの下にあるか、祝福の下にあるかのどちらかである。律法の行ないによる人々は呪いの下にある[ガラ3:10]。自らの罪を載せている人々は呪いの下にある。というのも、呪いは常に罪に伴うからである。私たちは決して神罰を厳かに告知しはしないし、エバル山とゲリジム山からあなたがたに祝福と呪いをもって語りかけはしない[ヨシ8:30-35]が、こう確信しておくがいい。生ける神の前では、尊い者と卑しい者が分離されており、日ごとに審きが下されているのである。その審きは、神の御思いの中で、ある者らを御座の右に置いて、「さあ、祝福された人たち」*[マタ25:33]、と云われるようにし、別の者らを左に置いて、「のろわれた者ども。離れて行け」*[マタ25:44]、と云われるようにしている。これは最終的には、「余の日々すべての目当てなる、かの日の中の日」においてなされるであろう。話をお聞きの方々。今のこの時、もしあなたが主に祝福されていなければ、あなたは呪いの暗い影の下にいるのである。その下からあなたが即座に逃れ出られるよう私は神に祈るものである。私たちのために呪われたものとされたお方[ガラ3:13]を信ずる信仰こそ、祝福への唯一の道である。

 しかし、私たちは主イエス・キリストをすでに信じている方々すべてに語りかけたい。そうした人々について主は、「わたしは必ずあなたを祝福する」*[ヘブ6:14]、と云っておられる。

 あなたは、今の時、こう云えよう。「主は今まで私を祝福された」、と。主は、イスラエルの全家に共通した祝福であなたを祝福してこられた。エフライムとマナセは、神がアブラハム、イサク、ヤコブを祝福されたとき、1つの祝福を受けとっていた。彼らはアブラハムの腰にいたからである。キリストにあるあなたや私は、キリスト・イエスにあるすべての契約の祝福にあずかっている。「もし子どもであるなら、相続人でもあります」[ロマ8:17]。そして、もし私たちが神の子どもたちなら、私たちは万物の相続人である。私は、古のひとりのスコットランド女について考えることを好んでいる。この女は、自分の食べる粥について神をほめたたえるだけでなく、自分がその粥に契約の権利を有していることについて神に感謝していたのである。日ごとの種々のあわれみは、契約の権利によって主の家に属している。そして、私たちを上の天へと認め入れるのと同じ契約の権利が、下界で私たちにパンと水を与えるのである。家の中にある取るに足らないものも、家の中にある宝石も、等しく子どもたちに属している。私たちは摂理の一般的な種々のあわれみにあずかることも、恵みの並外れた種々のあわれみにあずかることもできる。王家の珍味佳肴のいずれも、その子らがあずかれないよう厳重に保管されていたりしない。主は信仰者ひとりひとりにこう仰せになる。「おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ」[ルカ15:31]。「あなたがたはキリストのものであり、キリストは神のものです」。それゆえ、「すべてはあなたがたのものです」*[Iコリ3:22-23]。

 あなたはこう云えるではないだろうか?――「主は今まで私を祝福された」、と。これまでに主が、契約の家族に共通する祝福のうち1つでもあなたに拒まれたことがあるだろうか? あなたは祈ってはならないとか、信頼してはならないとか、お告げになったことがあるだろうか? あなたの重荷を主にゆだねることを禁じられたことがあるだろうか? ご自分との交わり、また、ご自分の愛する御子との交わり[Iヨハ1:3]をあなたに拒まれたことがあるだろうか? こうした約束のどれか1つでも差し止めたことがあるだろうか? ご自分の愛による備蓄のどれか1つからでもあなたを閉め出したことがあるだろうか? もしあなたが神の子どもだとしたら、そうではないことを私は知っている。むしろ、あなたは心からこう叫べるであろう。「主は今まで私を祝福された」、と。「それは、すべての聖徒の誉れである」[詩149:9]。その、恵み深い愛の過去によって、主はご自分の贖われた者たちに、等しい祝福の未来を保証しておられる。というのも、主の恵みは決してそれが照らす者たちから離れないからである。

 しかし、このとき、愛する方々。これに加えて、エフライムとマナセには特別の祝福があった。ユダにも、ルベンにも、イッサカルにも属していなかった、ヨセフ独特の祝福である。創世記の最後であなたが見てとる通り、ヤコブはヨセフの二人の子を祝福した。そしてあなたは、いかに惜しみない祝祷をもって彼が彼らを自分の子らの間で豊かなものとしたかに注目するであろう。「ヨセフは実を結ぶ若枝、泉のほとりの実を結ぶ若枝、その枝は垣を越える」[創49:22]。モーセも、その死の前に、ヨセフの部族について言及する番が来た際には、また、いくつかの点でその兄弟たちにまさって彼を祝福した際には、天来の熱情で燃えているように思われる。さて、あなたがたの中の多くの人々はこう云えるだろうと思う。「私はすべての聖徒たちのうちで一番小さな者ですが、それでも、ある点で主は今まで私を特別に祝福してくださいました」、と。私の信ずるところ、賢い園丁によって育てられている、庭園のあらゆる花は、園丁が自分に払ってくれる何らかの特別の配慮について語ることができるであろう。彼は、向日葵に対しては行なわないようなことを天竺牡丹には行なうであろう。薔薇に必要なことは、百合には余計なことであり、天竺葵に対して特に払われた注意が、忍冬には払われない。それぞれの花は、園丁から特別なしかたで栽培される。葡萄の木は独特の整枝を受けるし、林檎の木はやはり特有のしかたで刈り込まれる。マナセの家の祝福があり、エフライムの家の祝福がある。そして、そのように、神のあらゆる子どもには特別の祝福がある。あらゆる部族の名前は、胸当てに刻まれていたが、それぞれの部族に割り当てられた宝石は別々の色をしていた。そして、私の信ずるところ、神のあらゆる子どもには独特の恵みがある。この世の中からの選びばかりでなく、選民の中からの選びもある。弟子たちから十二人が取られた。その十二人の中から三人が取られた。ひとりの大いに愛された者がその三人の中から取られた。愛が等しく与えられるからといって、その働きが多様であってならないことにはならない。水晶が多くの結晶からなっているように、恵みは多くの恵みからなっている。恵みという1つの光箭には、七つの色彩がある。それぞれの聖徒は、自分の仲間に、相手が知らないことを告げることができる。そして天国において、その豊かな栄光の一部となるのは、それぞれの者が自分しか持っていない独特のものをやりとりし合うことであろう。私はあなたにはならないし、あなたも私にはならないであろう。また、私たち二人は、別の二人に似た者にはならないであろうし、私たちは四人は別の四人に似た者にはならないであろう。私たち全員が、キリストのありのままの姿を見るときには、キリストに似た者となる[Iヨハ3:1]としても関係ない。私は、あなたがたひとりひとりに、今この時こう感じてほしい。――「主は今まで私を祝福された」、と。個人的に、私はしばしばひとり座して、こう云うことがある。「なぜ私にこのような祝福が?」[ルカ1:43参照] 私は、私に対する私の主の特別のいつくしみをあがめざるをえない。姉妹よ。あなたは一度も同じことをしたことがないだろうか? 深いへりくだりをもって、自分自身にこう云ったことはないだろうか? 「確かに、私は大いに恵まれた女でした」、と。私の兄弟。あなたはしばしば、ダニエルに与えられた名前、「神に愛されている人」[ダニ10:11]が自分にも与えられて良いように感じてはいないだろうか? ことによると、あなたは大きな試練を受けているかもしれない。だがそれでも、あなたは恵み深く支えられてきている。ことによると、あなたは苦難を免れているかもしれない。ならばあなたは、なだらかな通り道ゆえに主をほめたたえるべきである。愛の独特の色合いが、恵みのうちにある個々の人生には伴っている。神は真実どこにでもおられるが、特にある特定の場所場所におられる。そのように、神はご自分の愛を御民すべてに明らかに示されるが、各人は特別な恵みを享受している。「主は今まで私を祝福された」。

 これに加えて、ヨセフの家をなす、この2つの部族は、このように云おうとしたのだと思う。すなわち、単に神は、イスラエルに共通する種々の祝福をもって、また、彼らの部族特有の祝福をもって彼らを祝福してこられただけでなく、現実に種々の祝福をもって祝福してくださった、と。彼らが歩を進めた限りにおいて、彼らはカナン人を追い出し、その国を所有してきた。彼らは約束されたすべてを受けはしなかったが、神はこれまで彼らを祝福してくださった。さあ、兄弟たち。私たちはまだカナン人を追い払い尽くしてはいない。だが、私たちはその多くを追い払ってきた。私たちは、自分が希望している通りの者ではないが、かつての姿のままでもない。私たちはまだすべてを明瞭に見てとることはできないが、かつてのような盲人でもない。私たちはあらゆる罪深い傾向に打ち勝ってはいないが、いかなる罪も私たちを支配してはいない。なぜなら、私たちは律法の下にはなく、恵みの下にあるからである[ロマ6:14]。私たちは、主が私たちに教えてくださるであろうすべてを知ってはいないが、二万もの世界と引き替えにしても、いま私たちが知っていることを失いたいとは思わない。私たちは、まだ私たちの主のありのままの姿を見たことはないが、主を見たことはある。そして、その眺めの喜びは、決して私たちから取り去られないであろう。それゆえ、主と、主の集会との前で、私たちは喜びをもってこう宣言するものである。「主は今まで私たちを祝福された」、と。

 この告白をもう少し敷衍して、このように語らせてほしい。

 最初に、私たちが受けているあらゆる祝福は神から出ている。いかなる祝福をも私たち自身に、あるいは、同胞の人間たちに由来させないようにしよう。というのも、神に仕える教役者は、私たちに清新な流れをもたらす導管かもしれないが、私たちの清新な泉のすべては神にあり、人間にはないからである。云うがいい。「主が今まで私を祝福された」、と。あらゆる流れをその水源まで、あらゆる陽射しを太陽まで辿って、云うがいい。「私は生きている限り、主をほめたたえる。主は私を祝福してくださったから。私のもとに来たすべての良い贈り物は光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません[ヤコ1:17]」、と。この思想は、云い古されたものであるとはいえ、私たちはしばしば神の民にこの告白を思い起こさせなくてはならない。――契約のあらゆる祝福は、契約の神から来る、と。

 主は、私たちひとりひとりに、おびただしい数の祝福を与えてこられた。主は私たちをその数々の約束で祝福してこられた。おゝ、私たちがいかに豊かな者か知ることができさえしたなら! 神は私たちをその摂理において祝福してこられた。――その光と闇、その凪と嵐、その収穫と飢饉において祝福してこられた。神は私たちをその恵みによって祝福してこられた。私は、こうした主題について詳しくは語るまい。そのようなことをしたら、この説教には一世紀もかかるであろう。しかし、愛する方々。主はキリスト・イエスにある一切の天的な祝福であなたを祝福してくださった。神はあなたを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選んでくださった[エペ1:3-4]。あなたは決して――永遠においてすら――神が約束において、摂理において、恵みにおいて、あなたに授けてくださった祝福のすべてを合算することはできないであろう。神はあなたに、キリストにおいて「すべての祝福」を与えておられ、それは舌足らずな云い方である。神はあなたに、あなたの知るところ、あなたの願ってきたところ、あなたの思い量ることのできるところを越えて与えてこられた。神はあなたに、多くの事がらだけでなく、キリスト・イエスにおいて、すべての事がらを与えてこられた。そして、こう宣言しておられる。「主は……正しく歩く者たちに、良いものを拒まれません」[詩84:11]。実際、主は今まで私たちを祝福してくださった。

 そして、よく聞くがいい。この祝福は継続してきた。神は、私たちを祝福しては一休みするということをされなかった。むしろ、「今まで」私たちを祝福してくださった。一本の銀の糸のような祝福が、揺りかごから墓場まで伸びている。「主は今まで私たちを祝福された」。私たちが主を怒らせたときも、私たちが主への信仰において後退したときも、主の祝福を悪用していたときも、なおも主は、驚くべき愛の堅忍によって私たちを祝福し続けられた。私は聖徒の堅忍を信じている。なぜなら、神の愛の堅忍を信じているからである。さもなければ、私はそれを信ずるべきではない。主ご自身がそう云い表わしておられる。――「主であるわたしは変わることがない。ヤコブの子らよ。あなたがたは、滅ぼし尽くされない」[マラ3:6]。神の愛には、何物も打ち勝つことのできない不撓不屈さがある。神の恵みは挫かれることも、裏をかかれることも、脇へ置かれることもありえない。むしろ、私たちのいのちの日の限り、神のいつくしみと恵みとが、私たちを追って来るであろう[詩23:6]。

 この継続性に加えて、主のお取扱いには喜ばしい一貫性がある。「主は今まで私たちを祝福された」。いかなる呪いも間に差し挟まれなかった。主は私たちを祝福してこられ、祝福することだけをしてこられた。神には、「しかり」と同時に「否」はない[IIコリ1:19]。霊的祝福で私たちを富ませておきながら、私たちを捨てるようなことはなさらない。確かに、私たちに渋面をお向けになることはある。だが、神の愛は微笑みにおいても渋面においても変わらない。神は私たちをいたく懲らしめられたが、決して私たちを死に引き渡すことはなさらなかった。

 また、それだけでなく、本日の聖句が、「主が今まで私を祝福された」、と云うとき、そこには一種の預言がある。というのも、「今まで」には、後ろ向きの窓だけでなく、前向きの窓もついているからである。あなたが時として見かけるように、鉄道の客車か貨車は前に進んで行くものにしっかり固定されているが、その後ろにも大きな連結器があるのである。それは何のためだろうか? 何と、他の何かを後ろで固定して、列車を長くするためである。神のいかなる1つのあわれみも、それに先行する一切のあわれみにつながっている。だが、さらなる祝福を加えるための備えもなされているのである。来たるべき一切の年月は、過ぎ去った時代によって保証されている。あなたは今まで、聖書がどのように完結しているかに注目したことがあるだろうか? その結末は、結論という結論の中でも最も幸いなもの、結婚と幸福である。《小羊》の婚礼がやって来て、その花嫁の準備が整う。無限の慶福が、啓示された歴史の巻き物を閉じる。数々の地震や、星々の落下、また怒りの鉢がぶちまけられることが矢継ぎ早に続くが、それらはみな、永遠の至福と永久の結合において幕を閉じる。私たちについても、全くそれと同じであろう。というのも、主は今まで私たちを祝福されたからである。

 今まで――今まで――主は私たちを祝福された。そして、そこには、主が常に私たちを祝福してくださるとの含みがある。決して主の愛という銀の流れは途絶することがないであろう。決して主の恵みという大海は、私たちの人生という浜辺を洗うことをやめはしないであろう。主は、ご自分の民にとって、ほむべき祝福の神であられ、それ以外のお方ではありえない。「わたしは必ずあなたを祝福する」*[ヘブ6:14]。このエホバのことばは、永遠永久に堅く立つ。ここまでが、私たちの感謝の告白である。

 II. さて私たちは《議論》に至る。それを私は、キリストにある私の愛する兄弟姉妹の心に深く突き入れたいと願っている。ヨセフ部族は云う。「主が今まで私を祝福されたので」、と。

 この事実から何が推論されるだろうか? ヨセフ族が引き出したがった議論は、いかにもユダヤ人的である。それは商売上の推論であった。自分たちにはこれだけ多くのものがあるのだから、さらに多くを持つべきだという申し立てであった。彼らには1つの相続地がある。それゆえ、彼らは約束の国に2つの割り当て地を有するべきであった。私はいかなる人にもこうは推論してほしくない。すなわち、神が自分を摂理において祝福してこられたからには、自分はさらに多くの富、さらに多くの快楽を得ることを期待すべきである、と。あゝ、否! この人生の中にあなたの割り当て地を持とうと願ってはならない。そうすることによって、不敬虔な人々と同じようになってはならないからである。

 彼らの議論は、また、不平不満による議論でもあった。彼らが、「主が今まで私たちを祝福された」、と云ったが、それはこう云うも同然であった。「もし私たちが2つの割り当て地を得ないとしたら、私たちは神がなおも私たちを祝福しておられるとは云いません。ですが、ここで一本の線を引いて、今までは、と云いましょう」。神には、多くの不埒な子どもたちがいる。彼らは、天におられる自分の御父に文句をつける。「愛しいあの子が死んでから」、とある人は云う。「私は二度と神に対して同じ感情をいだくことがありませんでした」。「母が取り去られてから」、と別の人は叫ぶ。「私は常に感じていました。もう二度と以前のようには神を信頼できないと」。ひどい云い草である。こうした言葉とはすっぱり縁を切るがいい。もしあなたが神に文句を云うなら、神はあなたにこう云われるであろう。「とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ」[使26:14]。幸福は完全な服従にしかない。明け渡せば、万事はめでたく終わるであろう。だが、《いと高き方》に逆らい立つなら、あなたをずきずき痛ませるのは神の鞭ではなく、あなたが自分で作り出した鞭である。こう云って、この戦いを放棄するがいい。「その方は主だ。主がみこころにかなうことをなさいますように」[Iサム3:18]、と。こう云ってはならない。「彼は私をある特定の時点までは祝福してきた。だが、それからその手を変えたのだ」。これはも主を中傷する偽りである。

 むしろ、こう云おうではないか。「主は今まで私を祝福されました。これは、聖なる不思議と驚嘆のもとです。なぜ主が私を祝福しなくてはならなかったのでしょうか?」

   「とまれ、わが魂(たま)、あがめ驚(きょう)せよ!
    問えや、なぜ汝れ かく吾(わ)を愛すか。
    恵みぞ我れを 数に入れたり、
    救いのぬしの 家族の数に。
    ハレルヤ! 感謝す、永久(とわ)にぞ汝れに」。

第二サムエル7:18、19にこう記されている。「ダビデ王は行って主の前に座し、そして言った。『神、主よ。私がいったい何者であり、私の家が何であるからというので、あなたはここまで私を導いてくださったのですか。……神、主よ。これが人の定めでしょうか』」。このように、私たちの中のひとりひとりは、主の大いなる恵みに驚嘆しようではないか。

 聖なる感謝にあふれるがいい。「物事の明るい面を眺めることにしよう」、と云ってはならない。愛する方々。私たちに対する主の路はことごとく明るいのである。「神の跡を辿れないときも、神を信頼しよう」、と云ってはならない。むしろ、あらゆる所に神の跡を辿るがいい。敬虔なタウラーにとって非常な祝福となった、あの貧しい男と同じ状態になるがいい。タウラーがその男に良い一日をと祈ると、その男は答えた。「先生。あっしには一日も悪い日はありませんでしたよ」。「おゝ、だが私は、あなたに良い天気を祈りましょう」。「先生、天気はいつだって良い天気でさあ。降っても晴れても、それは神様のみこころの天気ですから、神様のみこころならあっしは嬉しいんで」。

 私たちの種々の悲しみは、主として私たちの利己心に根ざしており、私たちの自己本位さが掘り起こされると、そうした悲しみは大方消え去ってしまう。ならば、今晩この聖句を口にしようではないか。「主が今まで私を祝福されたので」、と。主の聖なるみこころすべてに対する、心からの感謝をこめてそうしよう。損と得、喜びと悲しみを一括りにして、ヨブとともに云おうではないか。「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」[ヨブ1:21]。

 また、聖なる自信とともに、やはりこう云おう。「主は今まで私を祝福された」、と。あなたが見いだす通りに語るがいい。もし誰かが、「神はあなたにとっていかなるお方でしたか?」、と問うならば、「主は今まで私を祝福された」、と答えるがいい。悪魔は、「あなたが神の子なら」[マタ4:3]、と囁くであろう。それから、こうほのめかすであろう。「神のあなたに対する仕打ちはないですよ。あなたがどんなに苦しんでいるかご覧なさい。あなたがどんなに暗闇の中に取り残されていることでしょう!」 彼に答えるがいい。「下がれ。サタン。というのも、私のいのちの日の限り、いくつしみと恵みとは、確実に私を追って来るからだ。たとい神が一切の地上的な善を私から取り去られるとしても、私は幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか[ヨブ2:10]」。ここに立てる人は、堅固な土台の上に立っている。「ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった」[ヨブ1:22]。しかし、ここから離れる人が、どこにさまよい流れるか私には分からない。さあ、私たちはひとりひとり主をほめたたえて、云おうではないか。「たとい主が将来私につらい取扱いをなさろうと、それでも私は、今まで主がしてくださったことのために主を賛美するでしょう」、と。私は、罪ゆえの悲しみに沈んでいたとき、自分に向かってこう云ったことを覚えている。すなわち、もし神が私の罪を赦し、私を絶望から安らぎへと至らせてくださるとしたら、残りの一生の間ずっと私が地下牢の中でパンと水だけで生きることになるとしても、私は神への賛美を歌う以外に何もしないであろう、と。残念ながら、私はその約束を果たしてこなかったのではないかと思う。だが、そうしてこなかったことで私は間違ってきたと告白する。あなたがた、私の兄弟たちも、おそらく、神と同じ霊的契約を結んだであろう。そして、あなたはそれを守ってこなかったであろう。私たちは、私たちの罪の告白を合わせて、互いにこう云おうではないか。「主が今まで私を祝福された。それゆえ、主の御名はほむべきかな」。

 さらに、もしそれが正しければ、私たちは、より拡大した事業に携わる決心を固めよう。もし主が今まで私たちを祝福されたとしたら、なぜ主は何か新しいことで私たちを祝福してくださらないことがあろうか? 愛する方々。私は、教会としてのあなたがたに云いたいことがある。というのも、この聖句は教会の聖句であり、ここの「私を」は、ヨセフ部族の全員を含んでいるからである。教会として私たちは喜ばしくこう云おう。「主は今まで私たちを祝福された」。この相当長い年月の間、主が私たちのためになさったことについて、私たちがほんの少し互いに喜び合うことを教会外の方々は許してほしい。私たちの最初期の時代、私たちがごく一握りの信徒たちでしかなかった頃から私とともにいた人たちは、喜んで良いであろう。主は、あれほど数少なく、か弱かった私たちに祈ることを教え、信頼することを教え、その後で、恩顧をもって私たちを訪れ、大いに私たちを増やしてくださった。そして、それ以来主は、何の間断もなく私たちを祝福し続けてくださった。この三十三年間、主は私たちとともにおられ、私たちは決して回心の起こらない時がなく、決してキリストのための清新な労を、また清新な企図を行なわないことがなく、決して失敗することも、決して分派が起こることも、決して心が分裂することもなかった。私は主のいつくしみに驚嘆し、へりくだらされている。私たちは、主の働きにおいて力から力へと[詩84:7]進んできた。私は最近からだが大いに衰え、残念ながら今もそのままではないかと思う。だが主は私とともにいるあなたがたによって働くことをやめてはおられない。よろしい。それは何だろうか? 《学校》、《孤児院》、《信仰書籍行商協会》、《伝道者たち》、数々の《宣教会館》――それは三十四箇所もある――、《日曜学校》その他。それから何だろうか? 「やめてくれ」、と悪魔は云う。お前は私たちにやめてほしいというのか、薄汚い悪鬼よ。しかし、私たちはそうした類のことは何もすまい。お前がこの町のどこにいようと、おゝ、悪鬼よ。私たちの務め、私たちの願いは、お前と戦い、お前を追い出すことなのだ! 私たちは、活動的であることをやめることはできない。というのも、主が今まで私たちを祝福されたからである。「お前たちはあまりにも多くのことに手出しをし、手をつけた仕事で首が回らなくなるぞ」。それはお前の首ではあるまい、おゝ、サタンよ! 兄弟たち。私たちはもっと多くの仕事に、もっと多く取り組まなくてはならない! 私は切に願う。いかなるしかたでも手を抜かず、仕事を続行するがいい。より多くを行なおう。どこかに石膏の壺[マタ26:7]はないだろうか? それが放置されていないだろうか? ことによると、その香りはしみ出し始めているかもしれない。それは抽斗の中にあっては安全ではない。ひびが入って、割れてしまうかもしれない。それを自ら割る特権を私に与えてほしい。そして、私の《主人》の足にそれを注ぎ出させてほしい。私の有している最も尊いものを御足に注ぎ出すためである。あなたは、イエスのために、ひとりひとり個人的にできることを何か考えつけないだろうか? 教会全体が自らに対してこう云えないだろうか? 「私たちは、私たちの諸機関を、より急調子でキリストのため働かせ続けなくてはならない」、と。この世は非常に暗く、より大きな光を必要としている。貧者は非常に飢えており、パンを必要としている。そして無知な者は、より多くを知ろうとする気持ちが非常に乏しい。

 あなたはこう云っただろうか? 「もう何も企画しないでくれ」、と。私は自分が企画するかどうかは分からない。だが、それと同時に、企画しないとも確信が持てない。主が今まで私たちを祝福された以上、もう少し先に進もうではないか。何人かの兄弟たちは、一個の石をエベン・エゼル[Iサム7:12]に立てると、その上に腰を下ろしてしまう。これは、その石のしかるべき役目ではない。私の任務は、その石の天辺に、忍び返しとして、鋭い大釘を何本も突き刺しておくことである。あなたは、その上に腰かけることを夢見てはならない。――「ここまで主が私たちを助けてくださった」。御座からの御声はこう云う。「イスラエル人に前進するように言え」[出14:15]。うねる海はあなたの前に広がっているが、前進せよ! 前進せよ! 神の御名によって! アーメン。

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追想――「主が祝福された」[了]

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