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悩みのときの私の慰め

NO. 1872

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説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1881年7月7日の説教


「これこそ悩みのときの私の慰め。まことに、みことばは私を生かします」。――詩119:50


 ほとんど云わずもがなのことであろうが、いくつかの点で、あらゆる人には同じ出来事が同じように起こるものである。――確かに悩みという問題においてはそうであるに違いない。私たちは誰しも、試練を逃れると期待することはできない。もしあなたが不敬虔であるなら、「悪者には心の痛みが多い」[詩32:10]。もしあなたが敬虔なら、「正しい者の悩みは多い」[詩34:19]。もしあなたが聖潔の道を歩んでいるなら、敵が道の途中に投げ入れた数々のつまずきの石を見いだすであろう。もしあなたが不義の道を歩んでいるなら、罠にかかり、死ぬまでそこにつながれているであろう。苦難を避ける道はない。私たちは生まれると苦しみに会う。火花が上に飛ぶように[ヨブ5:7]。私たちが二度目に生まれるとき、確かに無数のあわれみを受け継ぎはするが、確かに別の一連の苦しみにも生まれつく。というのも、私たちは霊的な試練、霊的な争闘、霊的な苦痛その他に入るからである。そして、このようにして私たちは二重のあわれみと同じく、二重の苦しみを得る。この詩篇119篇を書いた人物は善良な人だったが、確かに苦しめられていた人であった。何度となくダビデは悲しんだ。いたく悲しんだ。この、神の心にかなう人[Iサム13:14]は、懲らしめにおいて神ご自身の御手を感じた。ダビデは王であった。それゆえ私たちの方では、自分たちより富裕で権力のある人々は、ずっと悩みから守られているだろうと考える向きがあるであろう。だが全く正反対である。山は高ければ高いほど、猛烈な疾風にさらされる。嘘ではない。アグルが、「貧しさも富も私に与えないでください」*[箴30:8]、と祈った中道の状態こそ、総じて云えば最上である。権勢、高名、人気、貴種、王権は、試練を全く軽くせず、むしろ、増し加える。自分自身の慰めを顧慮するいかなる人も、これほど多くの労苦と辛苦を伴う位階を得たいとは思わないであろう。神の子どもよ。覚えておくがいい。善良さも偉大さも、あなたを悩みから救い出すことはできない。人生におけるあなたの持ち場がいかなるものであろうと、あなたはそれに直面しなくてはならない。それゆえ、たじろがず勇気をもってそれに立ち向かい、それからの勝利をゆすり取るがいい。

 だが、たといそれに立ち向かっても、それから免れることはないであろう。たといあなたが神の助けを叫び求めようと、神は苦難を通してあなたを助けはしても、苦難をあなたからそらすことはおそらくなさらないであろう。あなたを悪から救出しはしても、それでもあなたを試練の中に導かれるであろう。主の約束によれば、主は六つの苦しみからあなたを救い出し、七つ目のわざわいはあなたに触れない[ヨブ5:19]。だが、六つであれ七つであれ、試練があなたに近づかないようにするとは約束しておられない。神の御子のようなお方が、三人の聖い少年たちと火の中におられたが[ダニ3:25]、この方は彼らが火に入るまではおられなかった。――少なくとも目に見える形では。また、この方がそこにおられたのは、その炎を消すためでも、彼らがそこに投げ入れられるのを妨げるためでもなかった。「イスラエルよ。あなたが火の中を歩いても、わたしはあなたとともにいる」*[イザ43:2参照]。これは、契約の確証を良く描写している。もし私たちが火によってしか天来の臨在を悟ることができないとしたら、その火を実感できるように! もしそこで神の御子が私たちとともにおられることを見いだせるとしたら、私たちは喜んで火の炉を受け入れるであろう。あなたがたの中にいる、神の子どもであるあらゆる人は、この《詩篇作者》とともに、私の悩みについて語ることができよう。あなたは、私の地位、私の相続財産、私の富、私の健康について語ることはできないかもしれないが、誰しも、私の悩みについては語ることができよう。かの暗黒の悲しみの一飲みのうち、ある部分は、他の者らのために残されている。その杯から私たちはみな、多かれ少なかれ飲まなくてはならない。神の定められた通りにそこから飲まなくてはならない。ならば、とりあえず1つの出来事は、あらゆる者に起こるのである。

 今回の私の目当ては、その悩みにおけるキリスト者とこの世の子らとの間の違いを示すことである。第一に、信仰者たちはその悩みにおいて、独特の慰めを有している。「これこそ悩みのときの私の慰め」。第二に、その慰めは独特の源泉からやって来る。「まことに、みことばは私を生かします」。そして第三に、その独特の慰めは、この文脈の中で言及されているような、非常に特別な数々の試練の下で価値あるものである。

 I. では第一に、信仰者たちは、悩みの下にあっても、彼らに独特の慰めを有している。「これこそ」、とダビデは云う。「悩みのときの私の慰め」。「これ」――というこの言葉をよく考えてみるがいい。「これ」は他の人々の数々の慰藉とは違う。酔いどれは自分の杯を手に取っては、ソロモンを引用する。「強い酒は滅びようとしている者に与え、ぶどう酒は心の痛んでいる者に与えよ」[箴31:6]。吝嗇家は自分の黄金を隠し、自分の財布を取り下ろすと、それをチリンチリン云わせる。おゝ、この黄金の妙なる調べよ! そして彼は叫ぶ。「これこそ悩みのときの私の慰め」、と。大概の人々は、何らかの慰めを有している。ある人々は、副次的な性質のものでしかなくとも、正当な慰めを有する。そうした人々は、人々の同情や、家庭内の親切さ、哲学的な反省や、素朴な満足に慰めを見いだす。だが、そうした慰めは普通は破綻する。試練がこの上もなく峻烈なものとなるときには常にそうである。さて、悪人や世俗的な人があれこれのことを「これこそ悩みのときの私の慰め」と云えるのと全く同じように、キリスト者も前に進み出て、数々の豊かな約束でなみなみと満ちた神のことばをかかえてきてはこう云う。「これこそ悩みのときの私の慰め」、と。あなたは自分の慰めを下に置き、私も自分の慰めを下に置いて、「これこそ悩みのときの私の慰め」、と云う。――彼は明らかにそれを恥じてはいない。明らかに自分の慰めを他の人々のものよりも好ましいものとして述べる気持ちがある。そして、他の人々が、私はこれから慰藉を引き出すとか、あれからだとか云っている一方で、ダビデは聖書を開いて、朗らかにこう叫ぶのである。「これこそ悩みのときの私の慰め」、と。あなたは同じことが云えるだろうか? 他のあらゆるものと対立する「これ」――この神の約束、この神の恵みの契約、「これこそ悩みのときの私の慰め」である、と。

 さて、「これ」を別の意味に読んでみるがいい。そう云うからには、彼はそれが何か分かっていたのである。「これこそ悩みのときの私の慰め」。彼はそれが何であるか説明できる。多くのキリスト者である人々は、神のことばから、また、キリストを信ずることから、また、キリスト教信仰の実践から慰めを得るが、その慰めが何であるかほとんど告げることができない。薔薇は、その品種名を知らない人にとっても甘やかに香る。ある薔薇栽培家が私にこう告げた。「これがマーシャル・ニールですよ」。これは痛み入る。だが、私はマーシャル・ニールがどなたか、あるいは、いかなる過去の人物だったか、あるいは、なぜこの花が彼の軍人としての階級名をつけているのかを知らない。それでも、私にはこの薔薇の香りをかぐことができる。そのように、多くの人々は、種々の教理を説明できないが、それを享受している。結局、経験は解き明かしにまさるのである。だが、その両者が相伴うとしたら素晴らしいことである。そのとき、信仰者は自分の友にこう云えるであろう。「聞いてくれ。君に教えてあげよう。『これこそ悩みのときの私の慰め』なのだ」、と。

 「愛する友よ。私は、あなたが苦難に遭っていたとき、あなたがどんなに幸せそうか見ていました。先日あなたが病んでいたのを見ましたが、あなたの忍耐に気がつきました。私はあなたが中傷されているのを知っていましたが、いかにあなたが平静にしているかを見てとりました。なぜあなたがそれほど平静で、落ちつき払っていられるのか教えてくれませんか?」 もしもそのキリスト者が向き直って、こうした問いに完全に答えることができるとしたら、幸いなことである。私はその人が自分のうちにある希望について、いつでもこのように云って、優しく、慎み恐れながら弁明できる用意をしているとしたら嬉しく思う[Iペテ3:13]。――「これこそ悩みのときの私の慰め」なのです、と。私があなたに望むのは、もしあなたが神からの慰めを享受しているとしたら、それを友人に伝えられるような形でまとめておくことである。あなた自身でもすっきり理解できるものとしておくがいい。そうすれば、あなたは他の人々にそれが何か告げることができ、そうした人々は神があなたを慰めておられる慰藉を味わうことができるであろう。若い初信者たちに対して説明する用意をしておくがいい。――「これこそ悩みのときの私の慰め」、と。

 また、「これ」は別の意味で用いられている。すなわち、すぐ手元に有しているものとしての意味である。私は神からの私の慰めについて語りながら、あれが私の慰めですとか、あれは私がずっと以前に享受した慰安ですとか云いたくはない。おゝ、否、否! あなたに必要なのは自分の胸に押しつけて、「これこそ私の慰め」、と云える慰めである。私がここに今この瞬間に有しているこれがそれです、と。「これ」は近さを示唆する言葉である。「これこそ私の慰め」。あなたはそれをいま享受しているだろうか? かつてあなたは非常に幸せだった。今あなたは幸せだろうか?

   「いかに安けき 時のありしか、
    その追憶の いかに甘きか!」

しかり。クーパーよ。それは非常に良いことである。だが、こう歌える方がずっと良いであろう。――

   「いかに安けき いまは時なる、
    この楽しみの いかに甘きか」。

これこそ私の慰め」。私はそれを今なお有している。私の悩みが私とともに今あるのと同じように、私の慰藉もいま私とともにある。あなたは、あのロードス島の住民の古典的な話を聞いたことがあるであろう。彼は、自分はこれこれの場所で何米もの跳躍をしたことがあると云っていた。さんざん自慢しているところへ、あるギリシヤ人がやって来て、その距離を白墨で区切ってから、こう云った。「その半分の距離でも、いま跳んでみてくれませんかね?」 そのように私は、人々がかつていかなる楽しみ、いかなる喜びを得たかを聞くことがある。私が聞いたことのあるある人は、堕落が自分の中から根こそぎ取られたという。そして、罪について云えば、それがいかなるものかほんど忘れてしまったというのである。私は、その兄弟がリウマチの影響の下にあるときの姿を見てみたいと思う。長いことそうあってほしくはないが、その激痛を一度か二度は経験してみてほしい。そして、腐敗の根が多少とも残っていないかどうか見てみたいと思う。思うに、そうしたしかたで試みに遭うとき、あるいは、全くそれと同じでなくとも、何か別のしかたで試みられるとき、そうした人々は、その土壌の中に一本か二本は細根があることに気づくであろう。もし嵐がやって来て吹きつけたとしたら、私たちの勇敢な陸上の水夫殿は、自分の錨が、いま考えているほど簡単には船外に放り込めないことに気づくであろう。あなたは、現代持ちきりのキリスト者の完全に関する話を憫笑しているし、私もそうである。だが、私はうんざりしてもいる。私はそうしたことを信じていない。それは私が日ごとに学ばなくてはならない自分自身の無価値と全く正反対であるため、蔑みたい気になる。あなたの慰めを常に手元に置いておくがいい。神に祈るがいい。何年も前に慰藉であったものが、今も慰藉であるようになり、あなたがこう云えるようにと。「これこそ悩みのときの私の慰め」。

 また、この「これ」という言葉は、祈りにおける申し立てとして意味されていると思う。前節を読ませてほしい。「どうか、あなたのしもべへのみことばを思い出してください。あなたは私がそれを待ち望むようになさいました」。それはあなたが私に待ち望ませてくださった、あなたの約束なのです。主よ。それを私に対して成就してください。というのも、このあなたの約束こそ、悩みのときの私の慰めであり、私はそれを祈りにおいて申し立てているのですから。かりに、兄弟たち。あなたや私が1つの約束から慰めを取り出すことができるとすると、この事実のうちには、神に嘆願すべき堅固な根拠があるのである。私たちはこう云えよう。「主よ。私はあなたのこの約束を信じてきました。それで私はこう確信しているほどです。自分は、その中で自分に約束されている祝福をもはや自分の所有にしているのだ、と。ならば今、私はこの自分の望みによって恥を見させられて良いでしょうか? あなたは、私をこのみことばにより頼ませたというのに、それを尊ばれないのでしょうか?」 これは、説得力ある申し立てではないだろうか? 「どうか、あなたのしもべへのみことばを思い出してください。あなたは私がそれを待ち望むようになさいました。というのも、これはすでに私の慰めだからです。そして、もしあなたのみことばが成就しないとしたら、あなたは私に偽りの慰めを与え、私を過誤に陥らせたことになります。おゝ、私の主よ。あなたがなさろうとしておられることを期待し、その中から私が私の慰めを吸い出してきた以上、確かにこのことによって、あなたはこうする言質を与えておられ、あなたのしもべに対してその義務があるに違いありません。――あなたがみことばをお守りになるという!」。こういうわけで、「これ」という言葉は、非常に包括的な言葉であると思われる。願わくは神の御霊が私たちひとりひとりに、自分の、この値もつけられないほど尊い聖書についてこう云うことを教えてくださるように。「これこそ悩みのときの私の慰め」、と。

 II. 私たちは第二のことに進んでこう注意したい。この慰めは、《独特の源泉》から生じている。――「これこそ……私の慰め。まことに、みことばは私を生かします」。ならば、この慰めは部分的には外的なものであり、神のことばから生じているのである。だが、これは、主として、また、何にもまして内的なものである。というのも、これは、魂の内側でその生かす力について経験された神のことばだからである。

 最初に、神のことばこそ、慰めを与える。なぜ私たちは、神のことば以外の他のところに慰藉を求めるのだろうか? おゝ、兄弟姉妹。私はこう云わなくてはならないことを恥ずかしく思うが、私たちは自分の隣人や、親戚のもとに行って、こう叫ぶ。「あなたがた、私の友よ。私をあわれめ、私をあわれめ」[ヨブ19:21]。そして、結局はこう叫ぶことになるのである。「あなたがたはみな、煩わしい慰め手だ」[ヨブ16:2]。私たちは自分の過去の人生の頁に目を向け、そこに慰めを見いだそうとするが、これもまた期待外れなものである。経験は、慰めの根源として正当なものだが、空が暗く雲が垂れ込めている場合、経験は清新な苦悩を分け与えがちである。もし私たちがすぐさま神のことばのもとに行き、現状に適した約束を見いだすまで慰めを求めるなら、私たちは、はるかに早く救済を見いだすはずである。すべての水ためは干上がっており、ただ泉だけが残っているのである。この次あなたが苦難に遭うときには、手を伸ばして聖書を取るがいい。あなたの魂に向かって云うがいい。「魂よ。静かに座して、主であられる神の仰せを聞くがいい。主は、御民に平和を告げられるからだ」[詩85:8参照]。あなたは1つの約束を読み、こう感じる。「否。これは到底いまの状況には当てはまらない。ここに別のものがある。だが、これは特定の人物に対して与えられたもので、残念ながら私はそうした人物ではないのではないかと思う。ここには、神よ、感謝します、私にうってつけのものがある。鍵が鍵穴の刻み目にぴったり当てはまるように」。そのような約束を見つけたなら、すぐさまそれを用いるがいい。ジョン・バニヤンは、ひとりの巡礼について美しく描き出している。彼は巨人絶望者の城の土牢に閉じ込められ、そこで林檎樹の棍棒でさんざんに殴りつけられていたが、ある朝、自分の懐に手を入れて、兄弟キリスト者に向かってこう叫ぶのである。「私は何と馬鹿だったことか。このような悪臭のする土牢に横たわって朽ち果てつつあるとは。私はずっと懐に《懐疑城》のどんな扉も開ける鍵を持っていたのだ!」 「兄弟よ、あなたがそう云うなら」、とキリスト者は云う。「それを取り出して、試してごらんなさい」。この鍵は「約束」という名だったが、最初の錠に差し込まれると、扉はさっと開く。そこで次の錠にも、その次の錠にも試されるが、たちまち結果が出る。大きな鉄の扉の錠はさびついていたが、その鍵は、その摩擦で大変なきしり音を立てたが、それを開いた。それで囚人たちは、自分たちの不信という卑しむべき監禁から自由の身となった。《約束》は常にその扉を、また、あらゆる扉を開いてきた。――左様。絶望の扉という扉は、《約束》というその鍵で開くのである。人がその鍵をいかにして堅く握るか、また賢明にそれを、閂がもどるまで回すかを知っていさえすれば、そうである。「これこそ悩みのときの私の慰め」、と《詩篇作者》は云う。――神ご自身のみことばがそれである。愛する方々。苦難のときには常に、この慰めのもとに飛んで行くがいい。神のことばに慣れ親しみ、そうできるようになるがいい。私は、『クラークの尊い約束』を自分のかくしに持ち歩くことが有用であることに気づいた。試練の折にはそれを参照できるからである。もしあなたが市場に行き、即時払いの仕事をしたければ、あなたは常に小切手帳を持って歩くであろう。そのように尊い約束の数々を持ち歩くがいい。自分の場合に当てはまるみことばを申し立てることができるためである。私は病気になるときには常に、病者のための数々の約束に目を向けてきた。あるいは、自分の状況に応じて、貧者のため、意気阻喪した者のため、疲れ切った者のため、といった数々の約束に目を向けてきた。そして、常に何らかの聖句が自分の状況に当てはまることを見いだしてきた。私は、からだの調子が万全のときには、病者のための約束を欲さない。魂が主にあって喜んでいるときには、打ち砕かれた心のための香膏を欲さない。――だが、必要が生じたとき、心を励ます適切な言葉がどこにあるか知っているということは非常に便利である。このように、キリスト者の外的な慰めは神のことばである。

 さて、彼の慰藉の内的な部分についてである。「これこそ悩みのときの私の慰め。まことに、みことばは私を生かします」。おゝ、私たちの真の慰めは文字ではなく霊である。私たちは、これこれのしかたで製本された、これこれの紙とこれこれの墨からなっているその《書》に心を向けはしない。だが、その《書》の中にある生きた《証し》に心を向ける。聖霊は、こうしたほむべき言葉にご自分を具現化しておられ、私たちの心に働きかけてくださる。そのようにして私たちはみことばによって生かされるのである。これこそ、魂の真の慰めである。

 あなたが約束を読んで、それが力をもってあなたに当てはめられるとき、また、あなたが戒めを読んで、それが強くあなたの良心に働きかけるとき、また、あなたが神のことばの何らかの部分を読んで、それがあなたの霊にいのちを与えるとき、――そのときこそ、あなたはその慰めを得るのである。聞くところ、ある人々は一日に何章も読んで、一年で聖書を通読するという。――疑いもなく、非常にあっぱれな習慣である。だが、それはあまりにも機械的に行なわれすぎて、そこから何の善も生じてこないこともありえる。あなたはみことばについて、それがあなたを生かすものとなるように熱心に祈る必要がある。さもなければ、それがあなたにとって慰めとなることはないであろう。私たちは、悩みのとき、主によって魂が生かされることの何が自分の慰めとなるかを考えてみよう。慰めはこのようにして生ずる。神のことばは、過去の日々に私たちを生かしてきた。それは死者の中からのいのちのことばであった。それゆえ、悩みのとき私たちは、いかに神が私たちを霊的な死から連れ出し、自分を生かしてくださったかを思い出し、そのことによって励まされる。もし私たちがこう云えるとしたらどうだろうか。「いかなる痛みに私が苦しもうと、いかなる悲嘆を私が忍ぼうと、それでも私は神の生きた子どもなのだ」。そのとき、あなたには慰めの水源がある。最も苦しめられている神の子どもである方が、最も陽気なこの世の子らであるよりもましである。神の犬となるとも、悪魔の愛児となるなかれである。神の子どもよ。このことをもって慰められるがいい。たとい神が私に柔らかい頭を与えず、完全な肌を残さなかったとしても、それでも神は私をそのみことばによって生かされたのであり、これはえり抜きの恩顧である。このようにして、私たちが最初に霊的死から生かされたことは明るい記憶である。

 私たちは、生きた者とされた後で、義務において生かされ、喜びにおいて生かされ、あらゆる聖なる実践において生かされる必要がある。そして私たちは、もしみことばによって、このように度重なって生かされてきたとしたら、幸せになる。愛する方々。もし振り返ってみるとき、あなたがこう云えるとしたらどうだろうか。「あなたのみことばは私を生かしてきました。私はあなたのみことばを聞くことに大きな喜びを得てきました。あなたのみことばを通して、活力に満たされてきました。あなたのみとこばを通して、あなたの戒めの道を走ることができる者とされてきました」。こうしたすべては、あなたにとって大きな喜びであろう。あなたはそのとき、こう申し立てることができる。――「おゝ、主よ。あなたは私に、ある人々が有しているような喜びの大部分を与えることを拒んでこられたかもしれませんが、それでも、あなたはしばしば私を生かしてこられました。おゝ、もう一度そのようにしてください。というのも、これこそ、私の慰めだからです!」 私が話しかけている人々の中には、多くの年季を積んだキリスト者の方々がいると思う。そうした人々は云えるであろう。神のことばは、自分たちが苦悩の淵にいたとき非常にしばしば自分を清新にし、墓の門から自分たちを引き戻してくれた、と。そして、そうした人々は、こうした証言ができるとしたら、神のことばの生かす力にいかなる慰めがあるかを知っており、そうした生かす影響力を再び感じさせてほしい、そのようにして良き慰めを得られるようにしてほしい、と願うであろう。

 兄弟姉妹。非常に奇妙なことながら、神は、ある1つのことをしようとするとき、しばしば別のことをなさる。私たちを慰めたいと思うとき、神は何をなさるだろうか? 私たちを慰めてくださるだろうか? しかり、そして、否である。神は私たちを生かし、そのようにして私たちを慰めてくださる。時として、回り道が真っ直ぐな道となる。神は私たちが求める慰めを、明確な行為によっては与えないが、私たちを生かし、そのようにして私たちが慰めを得られるようにしてくださる。ここにある人がいる。非常に落ち込み、抑鬱している。賢明な医師は何をするだろうか? 相手の精神を一時的に元気づけるような強い酒を与えたりしない。それは結局、この人がさらに深く落ち込むような反動を引き起こすだろうからである。むしろ強壮剤を与えて、彼の気を引き締めさせる。そして、この人は、より体力が強くなると、より幸せになり、自分の神経質さを振り捨てることになる。主はご自分のしもべたちを活性化することによって慰められる。「これこそ悩みのときの私の慰め。まことに、みことばは私を生かします」。

 私が話をしている人々の一部は、長い悩みに耐えてきた人々であり、あなたが今晩また出て来ているのを見ることができるのは喜びである。神のことばはしばしば悩みのときにあなたを生かしてこなかっただろうか? ことによると、あなたは健康なときは怠惰だったかもしれない。だが、悩みによってあなたは、約束の値打ちを感じ、契約の祝福の値打ちを感じ、神にそれを叫び求めてきた。あなたは、以前はこの世の心遣いに悩んできたかもしれないが、悩みのとき、それらを取り落とさせられ、あなたの唯一の心遣いはキリストにより近づき、あなたの主の御胸にもぐりこむこととなった。

 時として、富み栄えていたときのあなたは、めったに祈れなかった。だが私が請け合うが、今にも滅びそうだったとき、死の扉の前でやつれ果てていたとき、あなたは祈った。あなたの悩みが、あなたの祈りを活性化させた。そこにいるひとりの人は、羽軸筆でものを書こうとしている。それは太い一筆しか書けない。だが、そうした人々は短刀を取り出し、その羽軸を猛烈に削り、それで立派に記せるようにする。そのように私たちも、悩みという鋭利な短刀で削られなくてはならない。というのも、そのとき初めて主は私たちをお用いになることができるからである。園丁たちがその葡萄の木をいかに鋭く刈り込むか見るがいい。彼らはありとあらゆる若枝を下ろし、その葡萄の木を乾いた杖のようにしてしまう。秋や冬にこの刈り取りがないと、春には何の葡萄の実も生らないであろう。神は、私たちの悩みのとき、ご自分のみことばを通して私たちを活性化される。私たちの悲しみは、私たちの魂に有益な処置を施すものとされ、私たちはそれによって霊的な復興と健康を受ける。このようにして慰めが私たちに流れ込むのである。いかに好ましくとも、試練から完全に助け出されるように祈るのは賢明ではないであろう。天国への通り道のすべてが草の茂る道で、その路に石ころ一個もなかったとしたら、快適であろう。だが、快適ではあっても、安全ではないであろう。もしその道が立派な芝生で、毎朝芝刈り機で刈られ、天鵞絨のように滑らかにされていたとしたら、残念ながら私たちは決して天国に行き着くことがないのではないかと思う。というのも、私たちはその路の上であまりにも長くぐずぐずしてしまうだろうからである。ある種の動物たちの足は、平坦な場所には向いておらず、兄弟たち。あなたや私は、非常にすべすべした足をした種族に属しているのである。私たちは路がつるつるしていると滑ってしまう。丘を下ることは簡単だが、つまずくことなしにそうすることは容易ではない。ジョン・バニヤンの告げるところ、基督者が《屈辱の谷》を通り抜けたときに、アポルオンと一戦交えたのは、その谷に至る丘を下って行った際に彼が足を滑らせたことに、非常に多くを負っていた。幸いなことよ。《屈辱の谷》にいる人は。というのも、「下にいる者は落ちる憂いはない」からである。だが、その人の幸いは、いかに下りてきたかに大きくかかっている。穏やかに下りるがいい。あなたがた、楽しみと繁栄という丘の頂にいる人たち。穏やかに下りるがいい。ひょっとしてあなたが足を滑らせて、害悪が生ずるといけない!

 生かされることこそ私たちが欲することである。そして、もしそれを得るとしたら、たといそれがいかに激越な患難によって私たちのもとにやって来るとしても、私たちは喜んでそれを受け入れることができよう。「これこそ悩みのときの私の慰め。まことに、みことばは私を生かします」。

 III. 最後に、そしてごく手短に、この独特の慰めが特にすぐれたものとなるような、いくつかの《独特の試練》がある。

 よろしければ、この詩篇を眺めて、49節に注目してもらえるだろうか。《詩篇作者》は延期された望みによって苦しんでいた。「どうか、あなたのしもべへのみことばを思い出してください。あなたは私がそれを待ち望むようになさいました」。約束の成就を長いこと待っていると、魂は倦み疲れることがある。そして、延期された望みは心の具合を悪くする。このようなとき、これが私たちの慰めとなるべきである。「まことに、みことばは私を生かします」。私たちはまだ、私が祈り求めてきたものを獲得していません。ですが、私は祈っている間に生かされてきました。私はずっと求めてきた祝福を見いだしていません。だが確かに私はそれを得るでしょう。というのも、すでに祈りの実践は私たちにとって有益なものとなっているからです。これこそ私の望みが遅れている際の私の慰めです。あなたのみことばがすでに私を生かしているということが。

 次の節に注目するがいい。ここで《詩篇作者》は嘲りという大きな試練に苦しんでいる。「高ぶる者どもは、ひどく私をあざけりました」。嘲弄は、非常に痛烈な試練である。高ぶる者どもが私たちに逆らって何かを云えるときには、それはひどく痛む。彼らが笑うとき、左様。大笑いして、私たちを町通りの泥のように扱うとき、それは非常に厳しい悩みとなり、その中で私たちには豊かな慰めが必要である。もしもそうしたとき私たちが、たとい人の言葉はひどく痛むとしても、神のことばが生かすのだと感じるとしたら、慰められる。もし私たちが人々から嘲られることによって、より神へと追いやられるとしたら、私たちは彼らの軽蔑を非常に朗らかに受け入れて、こう云うことができるであろう。「主よ。私は、この迫害ゆえにあなたをほめたたえます。これによって私は、キリストの苦しみにあずかる者となれるのです」。私は云うが、不敬虔な者たちが私たちを蔑むとき、みことばによって生かされることは、私たちにとって1つの慰めとなる。

 そして、53節であなたが見てとるように、ダビデは非常な冒涜者たちの間で生きるという苦難の下にあった。彼らは公然と邪悪なことを行なっていた。「あなたのみおしえを捨てる悪者どものために、激しい怒りが私を捕えます」。彼は、彼らの悪徳にぞっとされられた。自分をこれほど苦悩させたものから逃れて、それを決して見ることも聞くこともなければ良いのにと願った。しかし、もし罪の光景や音そのものが私たちを祈りへと駆り立て、いやでも神に叫び求めさせるとしたら、その結果は良いことである。その過程がいかに痛ましいものであっても関係ない。もし人々が決して町通りで悪態をつかないとしたら、私たちはあれほどしばしば、彼らの冒涜を赦したまえと神に叫ぶよう駆り立てられないはずである。もしあなたや私が常に硝子箱の中に閉じこもっていることができ、決して罪を見聞きすることがないとしたら、それは私たちにとって良くないであろう。だが、もし私たちが人々の邪悪さをいやでも見させられ、彼らの悪態や罵りを聞かされるとしたら、やはり私たちは神のことばが自分を生かしつつあることを感じるであろう。たとい、それが罪に対する厭わしさのためであったとしても、それは私たちにとって良いことである。私たちは、この特定の種類の悩みのうちに大きな慰めを有している。それが、優しい心をした、きよく、繊細な、神のそば近くに住んでいる精神にとっては、この上もなく嘆かわしいものであっても、そうである。

 さらに54節を読んでほしい。そこにはダビデの試練がもう1つ示唆されている。「あなたのおきては、私の旅の家では、私の歌となりました」。彼には多くの変化があった。彼は、旅人暮らしのあらゆる試練を受けていた。――永続的な町を持たない所で、あちこちへ旅して行く不快さを受けていた。しかし、「これこそ」、と彼は云う。「悩みのときの私の慰め」。あなたのみことばは、私に、堅い基礎の上に建てられた都[ヘブ11:10]について告げてくれました。あなたのみことばは、もし私が地上で旅人なら、天国の市民でもあることを確証してくれました。「まことに、みことばは私を生かします」。私は、あなたのみことばによって非常に強められたために、ここが私の安住の地でないと感じて嬉しく思うほどです。私は、自分がよりすぐれた国に去らなくてはならないと感じて嬉しく思います。それで私の心は幸せになりまた。そして、「あなたのおきては、私の旅の家では、私の歌となりました」。

 最後に、55節では、ダビデが暗闇の中にいると示されている。彼は云う。「主よ。私は、夜には、あなたの御名を思い出し、また、あなたのみおしえを守っています」。夜にさえ――私たちが暗闇と悲しみに包まれているときでさえ――、彼は聖書から魂のもとにしばしばやって来る、生かす影響力から慰めを引き出すことができた。私は、この土地をもう一度行き巡るつもりはないが、確かに私たちの魂が苦悩に覆われるとき、それはしばしば、繁栄の日光に浴しているときにまさって活発になり、恵みに満ちるようになる。ならば、愛する方々。最初からずっと、あなたの、そして私の慰めは神のことばなのである。聖霊なる神が私たちの心の深みに置かれ、私たちを生かして霊的いのちを増進させるみことばなのである。あなたの苦難から逃れようとしてはならない。あなたの思い煩いの下で苛立ってはならない。この世が、とげのついていない薔薇を咲かせると期待してはならない。茨やおどろが芽を出すのを妨げらせると希望してはならない。むしろ、生かされることを願い求めるがいい。その活性化が来ることを願い求めるがいい。新しい啓示によってでも、狂信的な幸福によってでもなく、神ご自身のみことばが、神ご自身の御霊によって静かに適用されることによってそうなることを願うがいい。そのようにしてあなたは、あなたの一切の苦難に打ち勝ち、あなたの種々の困難に勝利し、主に勝利をもたらした、その右の御手と、その聖なる御腕[詩98:1]にハレルヤを歌いながら天国に入ることであろう。

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説教前に読まれた聖書箇所――詩篇119:49-64


『われらが賛美歌集』からの賛美―― 481番、119番(第三の歌)、482番

 

悩みのときの私の慰め[了]

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