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愛による変容:聖餐式の瞑想

NO. 1871

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説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1881年9月4日


「あなたがたは、もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを喜ぶはずです」。――ヨハ14:28


 愛に満ちたイエスは、ご自身の出立について十二弟子に話をしていた際、彼らの顔が悲しみに翳るのをご覧になった。そこで主は、これから死のうとしていたにもかかわらず、いつものようにご自分のことを忘れて彼らのことだけをお考えになった。そして、彼らを慰めることを欲された。――ご自分が出立することによる当面の悲しみについて彼らを慰めたいと願われた。見るがいい。主がいかに巧みに、また、いかに賢明に彼らの愛を自分たちの慰めへと導いておられるかを。たいがいの場合、また常々、私たちの慰めの源となるのは、私たちに対するキリストの愛である。だが、この場合に最もふさわしく、また、最も大きな影響を及ぼす慰めの源は、主に対する彼らの愛であった。それゆえ、主は彼らに云われた。「あなたがたは、もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを喜ぶはずです」。これは、この折にあたって適切に、また、賢く語られたことばであった。というのも、主は彼らの内側にある非常に繊細な点に触れられたからである。もし何かが彼らを慰めへと動かすことができたとしたら、それは彼らの忠実な愛に訴えることであった。主は先にもそこに訴えて、こう云われた。「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです」[ヨハ14:15]。主は私たちにも同じ泉から飲み物を与えることがおできになるであろう。これは、主ご自身の甘やかな愛という上の泉にくらべれば下の泉である。だが、主はそこからも、この上もなく尊い流れを引き出して、私たちが上流の流れを飲むほど大胆になれないときにも、この流れは味わうことができるようにしてくださる。もし私たちが、「あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります」[ヨハ21:17]、と云えるとしたら、私たちはこの真理によって心励まされて良い。「ではあなたがたは、もしわたしを愛しているというのであれば」、とキリストは云われる。「確かにわたしが父のもとに行くことを悲しむよりも、むしろ喜ぶはずです」。おゝ、いかにほむべき《主人》に私たちは仕えていることか! 主は私たちの愛を引合いに出して、そのか弱さゆえに私たちを非難するのではなく、そこから幸いな推論を引き出してくださるのである! 主は私たちが平安を得て、尊い主ご自身において安らぐことを願われ、私たちが主にささげる愛をさえ私たちに返して、その中に慰めを見いだすよう私たちに命じてくださるのである。

 これを前置きとして、今から私は3つか4つの所見を述べることによってこの聖句について話をしたいと思う。

 I. 第一のことはこうである。《物事をキリストの見方で見ようと努めることは、大いに私たちの慰めとなる》。この云い回しに注意するがいい。「あなたがたは、もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを喜ぶはずです」。

 キリストは彼らに、ご自分が死ぬことになるとお告げになっていた。以前、ある折には、明白きわまりない言葉でこう云われた。「人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは人の子を死刑に定めます。そして、あざけり、むち打ち、十字架につけるため、異邦人に引き渡します」[マタ20:18-19]。しかし、いま主はこの問題を別の見方から眺めておられる。主の現在の見方によると、それは、「わたしが父のもとに行くこと」なのである。彼らの見方は、「イエス様は死ぬんだ」、であった。主の見方は、「わたしが父のもとに行くこと」、であった。おゝ、私たちが物事をキリストの見方に照らして見ることができるとしたら、いかにしばしば私たちの心は幸いになることか! 努めてそうしようではないか。

 というのも、ここで注目するがいい。キリストは物事の本質を見通しておられる。あなたや私が物事を見ると、そこに見えるのはピラトや、ヘロデや、裁きの座や、鞭や、十字架や、槍や、墓所である。だが、イエスはそれらを見通しておられる。そして、御父の御座と、そこに高く上げられているご自分をご覧になる。私たちも時には、種々の事態の本質を見通すことによって、キリストと同じ見方で見ようと努めることができないだろうか? さあ、兄弟たち。現在は喜ばしいものでなく、かえって悲しく思われる患難も、後になると、平安な義の実を結ばせるのである[ヘブ12:11]。あなたには、「後」のことが見えないだろうか? そして、そのようにして主の目的を見分けられないだろうか? あなたの現在の状態は、あなたが荒海にいるため、波にもまれる、悩み多いものである。だが、あなたは港へ向けてもまれているのであって、その嵐によってすら、願う停泊所へと押し流されているのである。あなたは、イエスがそうされたように、物事を見通せないだろうか? なぜ常に現世にばかりこだわるのだろうか? それがどこに続いているか見えるだろうか? 「みち険しくとも 長くは続かじ」。そして、それから喜びの永遠がやって来る。それを遠望できないだろうか? 主はそうされた。というのも、栄光へと至る主の通り道はあなたのそれより無限に険しかったとはいえ、また、主は血の海を泳ぎ、その死の苦悶においては、地獄そのものの砕浪をかき分けて進まなくてはならなかったとはいえ、それでも主は、そのすべてを見越して、「父のもとに行く」、と云われたからである。キリストの見方に照らして物事を見るがいい。発端や中間のみならず結末をも見てとるがいい。そうすれば、あなたは慰められるであろう!

 また、あなたにはこのことも見てとれないだろうか? キリストが物事を見てとる見方は、そこから生ずる成果に注意するものである。実質的に主はこう云っておられるのである。「もしあなたがたがわたしの死をわたしが見るように見る――御父にもとに行くこととみなす――ことができたとしたら、あなたがたは喜ぶであろう」。主は物事の究極的な結果と成果をご覧になる。おゝ、もし私たちが常に同じようにし、自分の現在の悲しみから何が生ずるか、また、それがどこへ向かっているか、また、そこから神が何をもたらそうとしておられるかに気づくとしたら、私たちは火よりは、そこから出て来る純金の塊の方にずっと目を留めるであろう! それから私たちは、鋤で耕すことや、種を蒔くこと、また、霜や雪に埋もれることに目を向けるよりは、収穫の歓声を耳にし、黄金色の麦束が倉に集められることを見るであろう。おゝ、種々の摂理をキリストの見方で見ることができればどんなに良いことか!

 しかし、私はこのことについて長々と語ろうとは思わない。私がこの考えを持ち出したのは、悩みのうちにある人々が誰でもいま自分の状況を、キリストがお考えになるように考えることができるようにするためである。あなたが悲しみをかかえているとしたら、キリストは、それがご自分のものであった場合、この悲しみをどのように扱われるだろうか? あなたが今まさに暗闇の中にいるとしたら、信仰の窓から眺めるキリストの視野はどのようなものとなるだろうか? この患難から主は何が出てくることをご覧になるだろうか? キリスト者が身を処すしかたとして、「イエスならどうなさるだろう?」、にまさる規則はない。私は、この問いが私たちの女子孤児院の学校に吊り下げられているのを見たとき、非常に心を打たれた。――「イエス様ならどうなさるでしょうか?」 愛する方々。それこそあなたがすべきことである。イエスは試練についてどうお考えになるだろうか?――というのも、私の兄弟。あなたの耐えきれる程度に応じて、これこそ、あなたが試練について考えるべきことだからである。この聖なる規則を試して見るがいい。そうすればあなたは、自分の種々の悲しみの大きな部分が喜びへと変容することに気づくであろう。私たちの試練の性質について明確に理解することによって、私たちは患難をも喜ぶことができるようになる[ロマ5:3]。イエスと関わりのあるすべてのことは、イエスの見方によって見るとき喜ばしいものとなる! もしあなたが主の受難を理解しているとしたら、あなたは主の栄光を見るであろう。もしあなたが主の墓を理解しているとしたら、あなたは主の復活を見てとるであろう。もし主の死を理解しているとしたら、主の王座を見てとるであろう。

 II. 私たちの第二の所見はこうである。《私たちの愛は、私たちの主のご人格へと向かうべきである》。「あなたがたは、もしわたしを愛しているなら……喜ぶはずです」。さあ、愛する方々。少し考えを集中してほしい。私はあなたに思い起こさせたいが、私たちの有する愛の最たる部分は、イエス・キリストご自身に向かうべきである。主の救いにではなく、主ご自身に向かってこそ、私たちの心は飛んで行かなくてはならない。「あなたがたは、もしわたしを愛しているなら……喜ぶはずです」。私たちがキリストの家を愛するのは良い。主の日を、主の書を、主の教会を、主の礼拝を、主の血潮を、主の御座を愛するのは良い。だが、私たちは、こうしたすべてのことにまして、主のご人格を愛さなくてはならない。これこそ事の急所である。「私たちは主を愛しています」[Iヨハ4:19 <英欽定訳>]。その上で、主にある他の事がらを愛するのである。私たちは主のゆえに主の教会を愛する。主の真理であるがゆえに主の真理を愛する。主が私たちのため負われたがゆえに主の十字架を愛する。そして、主の血潮によって獲得されたがゆえに主の救いを愛する。私はあなたに忠告する。あなたの愛の水門を引き上げて、その流れ出す奔流をイエスに向かわせるがいい。《主を愛せよ》

 というのも、まず、主はあらゆる恩恵の源泉だからである。それゆえ、主を愛することにおいて、あなたは種々の恩恵を尊ぶが、それらはその根源へと辿るがいい。贈り物の方を贈り主にまさって愛するべきだろうか? 妻は自分の宝石類を、それらの与え手である愛する夫にまさって愛するべきだろうか? そうであってはならない。イエスのご人格そのものを愛するがいい。――この神を、この人を、インマヌエルを、私たちとともにおられる神を愛するがいい。主を明確な実在として認めるがいい。いま主をあなたの前に立たせるがいい。先ほど私たちが歌ったように、「誉れの負傷(きず)帯び 目に勝利(かち)浮かぶ」お方として立たせるがいい。あなたの希望、あなたの赦罪、あなたのいのち、あなたの将来の栄光の源泉として主を愛するがいい。

 主を愛するとき、私たちは主の一切の賜物をより重んずることを学ぶ。というのも、贈り主を愛する者は、その贈り主のゆえに、いかに小さな贈り物をも尊ぶからである。イエスのご人格に対するあなたの愛は、主がお授けになる種々の恩恵をみくびらせはしない。むしろ、無限に尊く思わせるであろう。的の中心を射抜くがいい。主を愛するがいい。そして、主を愛する中で、あなたは主のお与えになるすべてを尊ぶようになるであろう。

 主を愛するとき、私たちは主を私たち自身のものとしていだく。そして、これは大きな祝福である。人は黄金を愛していても、それを持たないことがある。名声を愛していても、それを持たないことがある。しかし、キリストを愛する者は、キリストをいだく。というのも、確かにこれまでにキリストをいだこうとして差し伸ばされた愛の手が不当なものであったことは一度もなかったからである。主は、自分の心で主をつかんだあらゆる者の財産なのである。

 主を愛するがいい。そうすれば、そのときあなたは主の思いを自分のものとするであろう。主の働きはあなたの最大の関心を喚起するであろう。主の御国の進展が衰えるように思われるとき、あなたは主とともに嘆くであろう。また、主が勝利を得られるとき、あなたは主とともに凱歌を上げるであろう。主を愛するがいい。そうすれば、あなたは人々の魂を愛するであろう。主を愛するがいい。そうすれば、あなたは罪人たちを主のもとに連れて来ることを求めるであろう。他の何にもまして大きな善をあなたに施し、何にもましてあなたを主への奉仕にふさわしいものとすること、それは主ご自身を愛することである。主を愛するがいい。そうすれば、あなたは主の民を愛するであろう。というのも、これまでキリストを愛した心のうちで、主の教会を憎んだものは決してなかったからである。《かしら》を愛する者は肢体をも愛する。「生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します」[Iヨハ5:1]。私たちは、兄弟たちを愛しているとき、自分がイエスを愛していると分かる。

 キリストを愛するがいい。そうすれば、あなたは永遠に残る財産を手に入れるであろう。というのも、他の物事は消えるが、愛は決して絶えることがないからである。「預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます」[Iコリ13:8]。だが、愛する者は天空の上でも通用する貨幣を所有するのである。その人は永遠に愛し続ける。太陽が暗くなり、星々が枯れ葉のように天から落ちるときも、イエスを愛する者はなおも愛し続け、その愛のうちに自分の天国を見いだすであろう。

 覚えておくがいい。もしあなたが御子を愛するなら、御父はあなたを愛してくださるであろう。それがヨハネ16章に見いだされる、主の尊いことばである。信仰者と御父との間には、共通する愛の対象がある。あなたがキリストの栄光を現わすとき、御父はあなたが行なうことに、「アーメン」、と仰せになる。御父にかなうほどキリストを愛する者はいない。「父は御子を愛しておられ、万物を御子の手にお渡しになった」[ヨハ3:35]。それゆえ、御子を愛し、すべての誉れを御子にささげるがいい。御父がそうしておられるように。

 もしあなたが主を愛しているとしたら、それは良いことである。あなたが自分の主を愛することは必要である。――絶対に必要である。というのも、私はあなたに、1つの隠れたことを教えよう。ただ信仰を有する耳にだけ囁かれるべきことである。――あなたは主とめあわされている。――では、愛のない結婚状態とは何だろうか? もし教会がキリストを愛していないとしたら、教会とはキリストにとって何だろうか? 魂と、それが結び合わされているキリストとの間に何の愛もなかったとしたら、この結び合いは何という茶番劇となることか! あなたは主のからだの一肢体なのである。手は《かしら》を愛するべきではないだろうか? 足は《かしら》を愛するべきではないだろうか? 私たちがイエス・キリストに対する愛を、この全く麗しいキリストご自身への愛を有さないなどということは決してあってはならない。願わくは聖霊なる神が私たちのうちに大いに働き、イエスを愛させてくださるように。優しくもこう云われたイエスを。「あなたがたは、もしわたしを愛しているなら……喜ぶはずです」。

 III. 私の第三の所見はこうである。《時として私たちの悲しみは私たちの愛に疑問を投げかけることがある》。あなたは注意しているだろうか? 彼らが非常に悲しんでおり、《主人》の見方で物事を見ていなかったからこそ、イエスは、「あなたがたは、もしわたしを愛しているなら……喜ぶはずです」、と云われたのである。私たちは今晩、今このときに私たちの胸に宿っているかもしれない悲しみを調べてみよう。それがキリストに対する私たちの愛に、「もし」を投げかけかねないからである。

 注意するがいい。もし地上的な物の喪失についての悲しみがあなたの心に食い入っているとしたら、それはキリストに対するあなたの愛に、「もし」を投げかけているのである。多くの嘆きの声が上がる。「あゝ! 私は財産を失ってしまった。先祖代々住んでいた古い家を失ってしまった。職を失ってしまった。最愛の友を失ってしまった!」 それゆえ、その喪失のために、あなたに何の喜びも残っていないというのは本当だろうか? あなたは、あなたの《救い主》を失っただろうか? 私は、あなたがこのお方を自分の《最も愛するお方》と呼んでいたし、あなたのすべてであると云っていたと思った。この方も、やはりいなくなったのだろうか? 私はあなたがこう云うのを聞かなかっただろうか? 「天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません」[詩73:25]。それは本当だろうか? おゝ、大いに悩まされている心よ! おゝ、重苦しい霊よ! あなたはイエスを愛しているだろうか? ならば、なぜ鬱々として楽しまないのか? あなたの絶望について考えると、1つの「もし」が浮かび上がる。

 それと同じく、私たちはあまりにも個人的患難の下で不平を云いすぎているときも、1つの疑問が思い浮かぶ。あなたは今晩病んでいるかもしれない。あるいは、病になることを恐れているかもしれない。痛みや弱さのうちにあるかもしれない。自分が肺病に冒されつつあるのではないかと恐れているために、あなたの心は非常に重苦しくなっている。確かに、病気にかかるのは悲しいことである。だが、誰があなたにそれを送ったのだろうか? そうなったのは、どなたのみこころだろうか? 誰がその家の主だろうか? その嘆きはあなたの主のみこころ、あなたの《救い主》の意志ではないだろうか? あなたは主を愛していると云うが、しかしあなたは主の思い通りにさせようとしていない。主に対してむくれて、こうした患難を送ることにおいて主の愛を文句をつけようとする! 兄弟よ。あなたはそうしているだろうか? あなたのそのつぶやきは、ほむべき主ご自身に対するあなたの愛に疑問の「もし」を投げかけてはいないだろうか?

 またあなたは、自分は主を信頼してきたと云っている。だがしかし、あなたは種々の困難や苦境に陥ってきた。あなたはどうすれば良いか見当もつかない。それであなたは、主の摂理が賢明ではないと疑っている。あなたはそう思っているだろうか? もしあなたがしかるべきほどに主を愛していたとしたら、あなたはそう考えようとするだろうか? そこには、どこかに「もし」がないだろうか? 私が意味しているのは、あなたが主を愛していることについての「もし」ではない。だが、あなたがしかるべく主を愛しているかどうかについての「もし」である。思うに、もしあなたが当然そうして良いほどに主を愛しているとしたら、あなたはこう云うであろう。「《王》が間違いを犯すはずがありません。私の《王》は親切で、賢明で、愛に満ちておられます。私はすべてをこのお方のほむべき御手に明け渡します」。

 また、そのようにあなたの悲しみは、死の恐れによって引き起こされている! あなたは日々、死のことで悩まされているではないだろうか。それは、《愛するお方》に対する賛辞としては情けないものである。私はあなたが主を愛していると思っていた! 主を愛している。――だのに、主の御顔を見たいとは願わない? 行く道が暗いというのだろうか。おゝ、たといその道が今より暗かったとしても、その向こう端に主がおられるからには、歌いつつそれを通り抜けようではないか。主のいる所に主と一緒にいるようになること[ヨハ17:24]――それにあなたは気が進まないのだろうか? 主の御顔を眺めることに気が進まないのだろうか? 永遠に主のふところにいることに気が進まないのだろうか? そのどこかに「もし」はないだろうか?

 否。あなたの嘆きは自分の死についてのものではない。それは、すでに死んだ、あなたが愛していた者たちについてである。あなたは、自分があれほど愛していた人々を神が取り上げたことで神を赦せないでいる。だが、いま誰が彼らを持っているだろうか? 愛する方々。誰が彼らを持っているだろうか? 教えよう。それは、地上におられたとき、こう云われた《お方》である。「父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください」[ヨハ17:24]。このお方は彼らのために祈られた。彼らのために死なれた。そして今、ご自分のものをお持ちになっているのである。だのに、あなたはなおも不愉快に感じ、キリストがご自分のものをお持ちになっているからといって苛立っているのだろうか? 何と! あなたは、主がしばらくの間あなたに貸し与えていたものを取り返されたからといって拗ねているのだろうか? あなたの愛する者たちはいついかなる時も、あなたのものであるよりは、主のものではなかっただろうか? ならば、あなたは主を愛していながら、あなたの子ども、あなたの赤子をイエスに与えしぶるのだろうか? あなたの母上、あなたの兄弟、あなたの妻、あなたの夫を、ご自分の血潮で買い取られたお方に与えしぶるのだろうか? おゝ、もう一度私は云うが、それはあなたの愛に「もし」を投げかけるものである。――それが存在していることにではなく、その程度に投げかけるものである。もしあなたが主を愛しているとしたら、あなたは主がご自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て[イザ53:11]、ご自分の聖徒たちを栄光の中でご自分とともにいさせておられることを喜ぶであろう。

 IV. それによって私はしめくくりの言葉に至る。それはこの聖句の骨子を含んでおり、他のすべてがここに至るべく意図されていたことである。すなわち、《私たちの天来の主に対する愛は、主が高く上げられることによって自分が損失をこうむろうとも、それにもかかわらず、私たちを心から嬉しがらせるほどのものであるべきである》。私はこのことを非常に単純にあなたの前に云い表わそうと思う。あなたがたの中には、キリストにあるひとりの娘がいる。彼女は肺病によって衰弱しつつある。だが彼女は、主にあって非常に幸福であり、喜びに満ちた期待をいだいている。彼女はまもなく死ぬ。そして、あなたがたはみなその寝床の回りにいる。とりわけ彼女の愛する母親であるあなたは、涙に暮れながらそこに立っている。さて、あなたの娘は、本日の聖句の説明をあなたに供するであろう。彼女は云う。「母さん。分からないの? あたし、じきに天使たちと一緒になって、神様のお顔を見るのよ、間違いなしに。あたしのこと愛してるなら、母さん。自分の子どもがご栄光の中にいるんだって思って、喜んでくれるでしょ」。娘さんの甘やかな言葉は、イエスが意味されたことをあなたに教えるであろう。主はこう意味されたのである。「もしあなたがたがわたしを非常に愛しているなら――あなたがたが、もしわたしを愛しているなら――単にわたしがともにいることや、わたしがあなたにもたらす慰めや、わたしがあなたがたの地上の生活にまとわせている魅力だけでなく、わたしを愛しているとしたら、あなたがたはこう云うであろう。『ほむべき主よ。私たちは喜んで自分たちがあなたのおともをできなくなること、そこからもたらされる喜びのすべてを失うことを受け入れます。なぜなら、あなたにとって御父のもとに行かれることの方が良いからです。あなたにとっては、下界より天国におられる方が栄光に富んだことです。ですから、私たちはあなたが高くあげられることを本当に喜びます』、と」。この弟子たちがどういう状況であったか、あなたには分かるであろう。彼らの場合について長々と語る必要はない。イエスは、死んでからよみがえり、その弟子たちから離れて行かれたとき、かつて放棄された栄光をまとわれた。世界が存在する前に、神とともにいて持っていたあの栄光[ヨハ17:5]である。主は、天に入ったとき、それを再びご自分のものとされた。また、やはりそのとき主は、《神-人》として、新しい光輝をまとわれた。御父は云われた。「神の御使いはみな、彼を拝め」[ヘブ1:6]。そして彼らは主をあがめた。新しい歌が、あらゆる黄金の街路から上がり、天国全体が、「ホサナ! ホサナ! ホサナ!」の声で鳴りどよめく中を、キリストはその御座に上られた。その御座に主は上り、そこに着座される、永遠の《王》かつ《祭司》として、その敵どもがご自身の足台になるまで[ルカ20:43; ヘブ10:13]御座に着いておられる。もはや血の汗はない。もはや残虐な槍はない。もはや暗く孤独な墓はない。主は、あらゆる高みを越えて高く上げられ、地上の王たちより高く、あらゆる主権や権威たちをはるかに越えて、唱えられるすべての名の上に高く置かれておられる[エペ1:21; ピリ2:9]。私たちはこのことを喜ぶべきである。――喜び踊るべきである。この弟子たちは、もしキリストを愛していたなら、喜ばなくてはならなかった。というのも、確かに彼らはもはや主とともに過ごす恵みを受けられなくなり、主とともに食事の席に着くことも、主とともに町通りを歩くことも、もはやできなくなったが、主にとって栄光のもとへと去ることは良いことだったからである。それゆえ、彼らは喜ばなくてはならなかった。

 最後に私は、あなたがた自身にも実際的に当てはまる、一、二の具体的な事例を描き出したいと思う。

 愛する方々。かりに、あなたを暗闇の中に放置しておくことがキリストの栄光のためになることがあるとしよう。あなたはそうなることを喜ばないだろうか? 少し前に私はそういう状況にあった。確か数年前、私はあなたがたに、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」[マタ27:46]、という聖句から説教した。そして、もし定命の人間の中で、その叫びの悲痛な意味を知った者がひとりでもいたとしたら、それは私であったと思う。私は説教したが、あなたがたに向かって語りかけている間、私自身の枷がゴトゴト鳴る音を聞いていた。それは悲しい務めであった。その夜、帰宅する前に私はその理由を知った。人間として可能な限り狂気に近づいた、ひとりの人が牧師室にやって来たのである。彼の顔つきには絶望が雲のように貼りついていた。そして私の手を掴むと云った。「いまの私がどんな有り様か分かってるような人に会ったのは初めてです。どうか話をしてください」。私は翌日も彼と会い、それからも何日か彼と会い、神の助けによって、彼を自殺から救い出した。そのとき私は喜んだ。キリストの栄光が現わされたからである。私は喜んで私の《主人》とともにいられなくなることも甘んじよう。確かに、そうなる日は私にとって暗いものとなるであろうが、――また、左様、一箇月もまとまってそうなるとしても甘んじよう。――もしそれが、ひとりのあわれな、打ちひしがれた男の心の中で、主を栄光に富むものとすることになるとしたら、あるいは、罪人をひとりでも主の足元に導くことになるとしたら、喜んでそうしよう。兄弟たち。同じことを喜んで云ってほしい。キリストを愛するがいい。そして、キリストが、その口づけを与える代わりに、あなたを冷たくあしらうとしても、もしそれでキリストの栄光がいやまして現わされるとしたら、喜んでそれを受け入れるがいい。神よ。願わくは私たちを導いて、そうした自己否定の状態に至らせ、御使いたちさえ思い焦がれるような、天国最大の悦楽――主の臨在――をも喜んで手放させ給え。もしそのことによってイエスにより大きな奉仕がなされるとしたら、そうさせ給え。

 さて今、かりにあなたが寝たきりになり、苦しめられ、危難を覚えるとする。そして、神のみこころは、このことによって、あなたがご自分に対する奉仕においてより用いられ、よりふさわしい者となることであったとする。もしあなたが神を愛しているなら、あなたはこのことに喜ぶであろう。あなたは感謝をもって懲らしめを受け入れ、こう云うであろう。「その鞭を叩きつけてください。その針を増やしてください! ただ私を、あなたのご栄光を現わせるようにしてください! このこと以外は何もお考えにならないでください。――私が生きるにしても死ぬにしても、この定命のからだにおいて、あなたが高く上げられることだけを!」

 愛する方々。あなたは、あなたがこれまで神から与えられた光よりも、格段に輝かしい光を有する者によって、影が薄くなり消失してしまうこともありえる。私たちの中の誰もそれを好ましく思いはしない。誰かが前に進み出て、あなたよりも上手な説教を行なうであろう。その《日曜学校》教師は、あなたよりも上手に教えるであろう。あなたの身近にいる誰かが、あなたよりも大きな恵みと、大きな賜物を披瀝するであろう。ではどうなるだろうか? もしあなたがイエスを愛しているなら、あなたはそうなることを喜ぶはずである。

 パウロがいかに行なったか思い起こすであろう。一部の人々は、党派心や悪意をもってキリストを宣べ伝え[ピリ1:16]、パウロを負かしてやろう、使徒たちを越えて自分の名前が連呼されるようにしようとしていた。「あゝ!」、とパウロは云う。「キリストが宣べ伝えられている限り、私は喜びます。そうです、今からも喜ぶことでしょう」*[ピリ1:18]。パウロよ、よくぞ云った! 私は、自分の死体で溝を埋めて、自分の指揮官が勝利へと更新できるようにした兵士の豪胆さを好ましく思う。あなたを忘却へと投げ込み、イエスが勝利を得られるようにするがいい。たとい全教会が殉教の死を遂げたとしても、イエスさえ人々の間で一吋でも高められるとしたら、それは小さな犠牲であろう。私たちは、愛から生まれた自己否定の精神を披露しようではないか。「あなたがたは、もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを喜ぶはずです」。

 かりに、あなたがたの中の誰かが、外国に行くことになり、福音を耳にする一切の特権を奪われるようなことも起こるとしよう。あなたは極度にみじめな状態になる。だが、イエスが異教徒の間でその栄光を押し進めるためにあなたを用いようとしておられると考えてみるがいい。――それまで一度も御名が知られていなかったところで、御名が唱えられるのである。ならば、あなたは追放されることを喜べるであろう。自分が福音を聞く特権を否定されることを喜び、山によって、川によって、海によって、自分が遠く、また広く散らされることを喜べるであろう。主の栄光のための収穫をもたらせるとあらばそうである。

 兄弟たち。もしあなたが自分の目からしてもずぶずぶと沈みつつあるとしたら、そのことを情けなく思ってはならない。もしキリストがあなたの評価においてますます上りつつあるとしたら、それをみな、得とするがいい。おゝ、自我よ。沈んで死へと、また、奈落へと至るがいい。沈め、沈め。ついには何もお前に残らなくなるまで! 下れ。高慢よ、うぬぼれよ、自己信頼よ、利己主義よ! そうなることで意気消沈するとしても、キリストに冠が戴かされる限り下るがいい! もしあなたがより主を信頼し、より主を愛し、より主をあがめることができるようになるとしたら、そうなるがいい。あなたが主の卓子に来るときには、心の中でこう云うがいい。「主よ。私を喜ばせ給え。あるいは、悲しませ給え。あなたが高く上げられる限りにおいて! 主よ。あなたの臨在を恵ませ給え。それを取り去り給え。あなたが高く上げられ、ほめたたえられる限りにおいて!」、と。

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説教前に読まれた聖書箇所――ヨハネ14章(一部)


『われらが賛美歌集』からの賛美―― 318番、817番、786番

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愛による変容:聖餐式の瞑想[了]

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