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ただ一歩の隔たり

NO. 1870

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1885年11月29日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1885年9月13日


「私と死との間には、ただ一歩の隔たりしかありません」。――Iサム20:3


 このように、ダビデは彼自身の状況を云い表わした。サウル王はダビデを滅ぼそうとつけ狙っていた。この王の、骨髄に達した悪意は、自分の競敵の血以下の何物でも満足しようとしなかった。ヨナタンはそれを知らなかった。彼は父親が、イスラエルの代表戦士で、この勇敢で、真実な心をした若きダビデを平気で殺したいと思うほどの悪人だとは信じられなかった。それで彼はダビデに、そのようなことがあるはずないと請け合ったのである。――自分は、ダビデに対する悪巧みがあるなど聞いたことはない、と。しかし、それより分別のあったダビデは云った。「これは確かなことなのです。あなたの父上は私の血を欲しているのであって、私と死との間には、ただ一歩の隔たりしかありません」。

 さて、ダビデが逃亡したのは、自分の危険を知ったためであった。もしも彼が友ヨナタンのように自分自身の危難について無知のままであったとしたら、彼は虎口に飛び込み、サウルの手に掛かって倒れていたことであろう。しかし、転ばぬ先の杖である。彼は自分の危険を察知し、いのちを救うことができた。かりに誰かがこう云っていたとしたら、それは非常に浅はかな人であったろう。「そんなことはダビデに云ってはなりません。見ての通り、彼はヨナタンと一緒にいて非常に幸せにしています。邪魔してはいけませんよ。それは彼を苛立たせるだけです。サウルの怒りのことなど彼に告げてはなりません」。むしろ、真実で思慮深い友人は、その危険をダビデに伝えて、彼が脱出の機会をつかめるようにしてやるであろう。そのように今晩もある人は云うであろう。「今この場にいる多くの人たちは大きな危険に陥っています。死についてなど考えないでください。そんな不快な主題を彼らに告げないでください」。よろしい。方々。もし私の目的があなたを喜ばせることにあったとしたら、また、私の願いが立派な楽器で陽気な調べを奏でる者のように見られるにあったとしたら、確かに私はあなたに、死や危険について語るべきではないであろう。しかし、その場合、人々が測り知れない危地に立っているのに、彼らにそれを警告しないのは破廉恥なことであろう。また、無頓着に安逸をむさぼっている人々に語りかけ、ためになる真実を彼らに告げるのは親切である。それで彼らが危険に陥るわけではなく、むしろ、神の祝福があるなら、彼らが永遠の破滅から逃れる手段となりうるのである。それで私は切に願う。私がこの主題について語っている間――それは不愉快な主題と思えるかもしれないが――、神に願い求めてほしい。それが、これまで永遠の厳粛さについて考えもせず、運命の崖っぷちで遊び戯れていた人々にとって、大きな祝福になるように、と。

 これは、いささか注目に値する状況ではないだろうか。ダビデの方が危険を自覚し、友ヨナタンに自分は危険に陥っていると告げているのである。このような場合は、めったにあるものではない。もし私がヨナタン側だとしたら、私がダビデに、その危険について口を酸っぱくして警告しなくてはならない。そして私は、自分の友を目覚めさせ、その危険を感じさせるのに非常に難儀するはずである。私は、いつの日か、ダビデがヨナタンの所にやって来て――つまり、危険のうちにある人々が私の所にやって来て――、こう云うのを見たいと思う。「私と死との間には、ただ一歩の隔たりしかありません」、と。私たちは、魂のために懸念し、未来の状態について関心を持っている人を見ると非常に嬉しく思う。神の聖霊が働いているときは、それが常に分かるものである。罪人たちは自分の状態を自覚し始め、私たちのもとにやって来ては、自分の危険について告げ、逃れる道について尋ねるのである。覚醒された罪人に、いかにすれば平安を見いだせるかを告げることは、この世で最も単純なことである。困難は、罪人を覚醒させることにある。恐怖に襲われた者たちを励ますことは、夜を徹してもかまわないほど嬉しい仕事である。それをやりすぎるということは決してありえない。《主人》がご自分の福音を私たちに与えておられるとき、心傷ついた者を包むのは、天国の外にある義務の中で最も心楽しいことである。最悪なことは、私たちが人々に、心傷つく必要があると確信させることも、自分が危険にさらされていると感じるよう導くこともできず、彼らがなおもあらゆる真理に自分の目を閉ざし、がむしゃらに突き進み続け、物を知ろうとしないことである。あまりにも多くの人々が、ほんの数日先を見ることも愚行であるかのように、また、悪を予見することは余計な努力であるかのように、また、永遠について考えることは必要もない悲しみであるかのようにふるまっている。

 今晩、私はこの真理を――それが真実である限り――この場にいるひとりひとりの心に突き入れたいと思う。すなわち、あなたと死との間には、ただ一歩の隔たりしかない、あるいは、ありえない、という真理である。

 第一に、ある意味において、このことは、あらゆる人にとって真実である。「私と死との間には、ただ一歩の隔たりしかありません」。第二に、ある人々にとって、これは特に真実である。多くの人々は――そして、その中のある人々は今晩ここにいるが――力を込めて、こう云うことができる。「私と死との間には、ただ一歩の隔たりしかありません」、と。この2つのことについて語り終えたならば、私はこう云うであろう。「かりに、そうでなかったとしてみよう」。――そして、しめくくりにこう云いたいと思う。「かりに、そうだったとしてみよう」。

 I. まず第一に、ある意味でこの聖句は、疑いもなく文字通りに《あらゆる人にとって真実である》。――「私と死との間には、ただ一歩の隔たりしかありません」。というのも、いのちは、あまりにも短いものであるため、それを、ただの一歩にたとえることは決して誇張ではないからである。かりに私たちの齢が七十年、あるいは、八十年あるとしよう。あるいは、今晩この場にいる数人の方々のように、八十年以上も生きていられるとしよう。だが、いのちは非常に短い期間しか占めないであろう。いのちは、先を見晴らせば長い。だが私はあらゆる老年の方々に訴えたい、それは、振り返って見るとき、非常に短くはないだろうか。私自身の経験を告白するが、一週間は今の私にとってほとんどはっきり感知できないほどの時間である。ある日曜から次の日曜までは、息をつく暇もごく僅かしかないように思われる。ある説教をしたかと思うと、再びあなたに語りかける何か別の言葉の準備をしなくてはならない。年をとるにつれて、時は目に見えてその歩調を速める。これが、この上もなく陳腐な所見であることは承知しているが、いやが上にも熱心にそう云いたい。なぜなら、確実であればこそ、よくよく肝に銘じておくべきだからである。あなたがた、若い人々は、一箇月は相当に長い時間だとみなしているが、四十歳や五十歳、あるいは、六十歳にもなると、一年間も短い合間としか思えなくなるであろう。実際、ヤコブが自分の経てきた年月を僅かであると云ったのも[創47:9]不思議ではないと思う。彼は老人であったため、人生が短く思われたのである。もし彼が青年だったとしたら、自分の辿った年月はそれなりに数多いと云ったことであろう。また、自分も長く生きてきたものだと感じようとしたことであろう。だが、人が年老いると、その人生は実際よりも短く思われ、年老いれば年老いるほど、短い人生だったように思われてくる。時間の数え方はいくつもあり、その長さ、あるいは、短さは、事実よりは考え方次第というところがある。場合によって私は、――これはたぶん、あなたも同じだろうが、――ある一時間が非常に長く思われることがある。特定の精神状態にあるとき、私は何度も何度も時計に目をやっては、これほど長い一時間を過ごしたことは今までなかったのではないかと思った。しかし、こういうことも何度となく起こったことである。私は執筆をし始め、執筆し続ける。そして、ふと頭を上げると一時間も経っているのである。私は内心こう考える。「そんなことはありえない。何かの間違いだ。時計が狂っていたのだ」。それで懐中時計の方を見てみると、時計がきちんと合っていたことを見いだす。だが、その一時間がどこに行ってしまったのか私には分からない。ある人が多忙をきわめているとき、時間という時間は流れるように過ぎ去り、あなたは云うのである。「時間とは、結局は夢にすぎない」、と。時間は、長く思われるのに実は短く、実際に短いかもしれないが、人間の思いはかるところでは長い。しかし、いかなる人も死ぬときになると、自分の人生は短かったと告白する。――それは、ただ一歩であった、と。きのう私は生まれた。きょう私は生きている。明日、私は死なくてはならない。蜻蛉は、日の出と日の入りの間に生まれ、死んでいく。彼らのいのちは、私たち自身のいのちの見事な写し絵である。私たちは影であり、日の出と日の入りとともに去来する。まことに、「私と死との間には、ただ一歩の隔たりしかありません」。おゝ、私の神よ。もし私のいのちがこれほど短いとしたら、その終わりのための備えをさせてください! 私を助けて、そのしめくくりの用意をさせてください。そして自分の決算報告を喜びとともに提出できるようにさせてください。

 しかし、別の意味において、私たちと死との間には、ただ一歩の隔たりしかない。すなわち、いのちは非常に不確かである。いかに予期せぬしかたでそれは終わることか! もしも見たままで判断してよければ、頑丈で健康な人々は、誰よりも先に衰えるように思われる。いかにしばしば私は見てきたことであろう。ほとんど死を望んで良いような病弱の人が、引き続く苦痛の中を延々と生き続ける一方で、人とがっしり握手を交わし、鉄柱のように真っ直ぐに立っていた人がにわかに倒れ伏しては、世を去るのを! いかなる人も、長寿を全うすると見込むことはできない。私たちの中のひとりとして、確実に七十歳に達する当てはない。老年に達することも当てにできない。泡ぶくの方が、人のいのちよりもずっと堅固である。蜘蛛の巣は、私たちの生存の糸にくらべれば大綱のようなものである。私たちと死との間には、ただ一歩の隔たりしかない。

 そしてこれは、このことを考えると、いやが上にも真実である。死に至る門は非常に多い。私たちはどこで、いつ、いかなる手段で死んでもおかしくない。戸外でだけ私たちは危険にさらされているのではなく、自宅で安全にしているときも、なおも危難のうちにある。私はいま自分の講壇に立っているが、この要塞の中にあっても、死の包囲軍すべてから難攻不落ではない。私は、ある田舎町にいた、ひとりの愛する神のしもべのことを覚えている。ある安息日の朝、彼は立ち上がって、その朝の最初の賛美歌を繰り返した。たったいま私が示した、神聖な歌である。

   「父よ、わが目に 見させ給えや
    汝が御住まいの ところをば。
    われは望めり、地の宮殿(みや)を去り
    天つ汝が家へ 逃れんことを」。

そして彼は、そのまま仰向けに倒れると、世を去ったのである。彼の願いはかなえられた。彼は神の御住まいのところを見たに違いないと私は思う。講壇の中にいても、自宅にいても、死は避けられない。常に自分の書斎にいることで知られていたギル博士は、ある日ひとりの友人にこう云った。「よろしい。少なくとも書斎にいる限り、人は安全ですな」。その少し前に、町通りで煙突頭部に付けた通風管によって死んだ人がいただけに、この博士の軽口には実感がこもっていた。しかし、それからまもなくして、たまたま博士が教会員のひとりを訪問しに出かけたとき、博士の留守中に暴風が吹いて、一組の煙突を彼の書斎の中に吹き落としたのであった。それは、もし彼が呼ばれて出かけていなければ、まさに座っていたはずの所に落ちたのである。それで彼は自分の友人に云った。「実際、自分の書斎の中なら安全だなどと自慢してはならないことが分かりましたよ。私たちに安全な場所などないのですからね」。戦闘する際に、人々は木々や壁の陰に身を隠し、小銃弾を避けようとするであろう。だが、どこに行けば死の矢を逃れられるだろうか? あなたがどこへ行こうと、人だかりのする、町通りの雑踏の中だけでなく、あなた自身の二階の私室にいようと、あなたの寝床の端に腰かけていようと、あなたは足を滑らし、転倒し、致命的な怪我をするかもしれない。あなたは自分の食卓でものを食べたり飲んだりしながら死ぬかもしれない。どこにいようと、あなたはこう感じて当然である。「私と死との間には、ただ一歩の隔たりしかありません」、と。

   「危険は地上に ひしめきて
    我らを墓へ 向かわしむ。
    猛(たけ)き疾病(やまい)は 待ちかまえ
    定命者(しせる)を家へ 送るらん」。

それゆえ、この点を離れる前に、私は云いたい。この場にいるいかなる人もいのちを当て込んではならない。今すぐなすべきことを、決して何らかの将来の時点まで延期してはならない。私は、この場にいるいずれかの兄弟が、老ティモシー・イースト氏のことを覚えているかどうか分からない。だが私は、老年の頃の彼をよく知っていた。彼は、注意深い観察力と、ずば抜けた記憶力の持ち主で、老境に達しても、個人的に経験した中で起こった物語をいくらでも話して聞かせることができた。そして、彼はこの話をするのが常であった。――ひとりの婦人が、彼のみことばの奉仕に非常に強い愛着を寄せていた。だが、それでも非常に愚かな女であった。彼女は講壇脇の階段席に定期的に座るのを常としており、それをティモシー・イーストが福音を宣べ伝えていた長年の間続けていた。彼がいかに訴えようと、1つのことが彼女の心を閉ざさせていたように思われた。彼女は隣人にこう告げたというのである。もし彼女が死ぬ前に五分間の猶予があれば、救いの道をこれだけよく理解しているからには、その時間内に万事を正しくすることができるでしょう、と。彼女は自分の教役者にもそう語ったので、ティモシーは彼女に云った。「おゝ、それは通用しないでしょうよ。あなたは事を正しくするための五分間も持てないかもしれません。今すぐに正しくすることです」。実に異様なことに、ある日、イースト氏が町通りを歩いていると、ひとりの子どもが彼のもとにやって来て、「あゝ、先生。おばあちゃんのとこに来て。おばあちゃんのとこに来て」、と云った。彼がその家の中に入ると、そこにその子の祖母がいて、まさに死にかけていた。彼女は、すがるような眼差しで彼を見ると、「あたしは、もう駄目です! もう駄目です!」、と云った。そして即座に死んでしまった。イースト氏が、彼女の救いについて一言も告げる間はなかった。愛する方々。私はあなたに切に願う。この女の愚かさを真似してはならない。むしろ、自分に向かって云うがいい。「私と死との間には、ただ一歩の隔たりしかありません。それゆえ、いま神よ。私を助けてください。私は永遠のいのちをつかみましょう。そして、キリストのうちに救いを求め、見いだしましょう。私を生きるにふさわしくする救い、私を死ぬにふさわしくする救い、私をよみがえるにふさわしくする救い、私を審きの日にふさわしくする救い、そして私を永遠の栄光にとってふさわしくする救いを」。私と死との間には、ただ一歩の隔たりしかない。私とキリストとの間には、ただ一歩の隔たりもあるべきではない。

 II. しかし、愛する方々。私はいま別の点を指摘したい。すなわち、《ある人々にとって、これは特に特に真実である》。云わせてもらって良ければ、これは高齢に達した人々にとって最も確実に真実である。「私と死との間には、ただ一歩の隔たりしかありません」。自然の秩序からして当然、あなたのいのちは長くない。さて、このことについて考えたり、語ったりすることに異を唱えてはならない。死に言及しようとしないのは愚かな者たちでしかない。もしあなたが神と何の問題もないとしたら、年を重ねるにつれて、その分この下界にとどまるべき年数が少なくなっているはずだと思い出すことには、あなたにとって何の不都合もありえない。やはりまた、死との間に、ただ一歩の隔たりしかないのは、何らかの不治の疾患にかかっている人々である。ある人々は、心臓病であると警告されている。もしそれが本当だとしたら、私は公正にこう云えよう。「あなたと死との間には、ただ一歩の隔たりしかない」、と。もしあなたが肺病で、徐々に消え失せつつあるとしたら、あなたも同じような立場にある。この形の死が私たちにその接近を通知してくれるのは何たる祝福であろう。それは、精神を損なわないため、人は平静に永遠のいのちを求め、見いだせるであろう。たといこの病気が自分の獲物としてしるしをつけたとしてもである! しかし、肺病患者と死との間にはただ一歩の隔たりしかない。危険な職業に従事している人々も同様の状況にある。海淵を越えて旅をする者や、漁師や、兵隊や、鉱夫や、他の人々はしばしば死と隣り合わせている。こうした、人々が口を糊する種々の方法すべての詳細に立ち入る必要はなかろう。それらは非常に大きな危険を伴っているため、それに従事する人々と死との間には、ただ一歩の隔たりしかないのである。

 それに加えて、ある人々は、――そして、おそらくこの会衆の中にいるある人々は、――病によるとよらないとに関わらず、数週間のうちに死ぬことであろう。その公算を見積もれば、この場に集っている六千人から七千人の人々の中で、確実に何人かは、当てずっぽうの域を完全に越えて、11月を見ることはなく、来年を迎えることは決してないに違いない。そうした者と死との間には、ただ一歩の隔たりしかない。

 私は、あなたが死について考えることができれば良いと思う。もしあなたがそれについて考えることを全く嫌っているとしたら、愛する方々。あなたには何か間違ったところがあり、あなたは、自分自身の嫌悪を戒めとすべきである。厳粛な事がらを恐れている人は、おそらくそれらを恐れるべき厳粛な理由があるのであろう。私たちの臨終の時について語るのは非常に賢いことである。ある場所に行こうとしている人は、自分の向かいつつある場所について考え、ある程度の準備をしておくべきである。賢明な人ならそうするであろう。私はあなたが、ウォッツ博士が感じたように感じられる状態に達してほしいと思う。博士は、老人になったとき、ひとりの友人にこう云った。「私は毎晩、床に就くとき、自分が目覚めるのが現世であろうと来世であろうと完璧にどうでもよいと思っているのですよ」。これは麗しい精神状態である。あるいは、かの老スコットランド人教役者が、「これは先生にとって命取りの病でしょうか?」、と尋ねられて、こう答えたときのような状態になってほしいと思う。「分かりませんな。それに、分かりたいとも思いませんよ。どちらであっても、大した違いはないと思いますからな。というのも、もし天国に行けば私は神とともにあることになるし、もしここにとどまるとしても、神が私とともにおられるでしょうから」。おゝ! これは、甘やかな事の云い表わし方ではないだろうか? 結局において神とともにいることと、神が私たちとともにおられることとの間に大した違いはない。古のジョージ三世は、その若気の過ちはどうあれ、その老年期には疑いもなく敬虔な人物であった。その彼が、自分と家族のために1つの霊廟を備えさせたいと思った。建築家のワイアット氏は、王じきじきの下命により拝謁に来たとき、老王に向かって、いかにその墓の話をすべきか分からなかった。だがジョージは云った。「ワイアットさん。わしの墓について話をするのを気にすることはありません。わしは、自分が葬られることになる場所の準備について、あなたと自由に話ができますぞ。謁見を行なう接見の間について話すのと同じくらい自由にですな。というのも、神に感謝すべきことに、わしは生きていれば喜んで自分の義務を果たしますし、死ねばキリストにあって眠る覚悟ができておりますからな」。彼のような身分の人々のうち、そのように語れる者はほとんどいないと思う。だが、賢明な人なら誰でも、確実に死ぬことになる以上、その備えをしておくべきである。――神の法廷に立つ備えを。かの水夫は、「準備、ようそろ、準備」、と自分の短剣を研ぎながら云った。ならばキリスト者も同じことを云うがいい。準備、ようそろ、準備、と。非常な高齢に達するまで忍耐強く待つにせよ、あるいは、世を去って御父とともにいる――その方が、はるかにまさっているが――ことになるにせよ、いずれにせよ、神のみこころを行ない、神が遣わされたイエス・キリストに信頼することを十分に天国だとみなすことである。

 このように、私は、このことが特に云える人々の場合に言及してきた。「私と死との間には、ただ一歩の隔たりしかありません」。「おゝ」、とある人が云った。「あなたも六十代の下り坂ですね、ジョーンズさん」。「いいや」、とジョーンズは云った。「六十代の上り坂ですよ。私は天国に近づいていますからね」。そして、それが私たちの年齢を眺めるべきしかたである。私たちは、こう云う。

   「そば近く、主よ、近寄せ給え」。

そして、そのとき私たちは年老いていきたいとは思わない。それは馬鹿げている。しかり。むしろ、私たちは、自分が願い求める天国により近づいていること、自分の永遠の安息に近づいていることを喜ぼう。

 III. しめくくりとして、まずこう云いたいと思う。《かりに、そうでないとしたらどうか》。この場にいる若い方々。かりに、あなたと死との間に、ただ一歩の隔たりしかないわけではないとしたらどうだろうか? そうではないとしてみよう。この場にいるある人々は、非常に長生きをするであろう。私が話しかけている人々の中には、やがてモーゼス・モンテフィオーリ氏と張り合うことになる人がいるであろう。もしかすると、それはあなたかもしれない。よろしい。だとしたらどうだろうか? もしそうだとしたら、私はあなたが聖書の助言に従うよう勧めたい。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」[マタ6:33]。第一のものが第一に来るべきである。最上の事がらが、私たちの考えの最上の部分を占めるべきである。暗殺について警告されたある君主が、陽気に叫んだ。「深刻な話は明日しよう」。だが、明日が来る前に、彼は殺されたのである。だが、たとい彼が殺されなかったとしても、彼の話ぶりは浅はかなものである。というのも、いかに私たちが長生きしようと、私たちは深刻な問題をどこかの片隅に押しやるべきではないからである。もし私たちが生きるとしたら、高貴な目的のために生きようではないか。長い一生はもちろん、ある一年をさえ空費するのは非常に惜しまれることであろう。もしあなたが百歳の生涯を送ることになるとしたら、神とともにそれを始めるがいい。もしあなたが長生きすることになるとしたら、それを神のために費やしてはどうだろうか? かつて海上で嵐が起こったことがあった。そのとき船上には嵐に不慣れなひとりの若者がいた。そして、彼は常ならぬ心理状態に陥った。彼はその恐れのあまり船上では物の役に立たなくなった。彼は片隅にもぐりこむと、膝まずいて祈った。だが、そこに現われた船長は、これに我慢ができなかった。彼は一喝し、「立ちやがれ、この臆病者。祈りなら上天気のときに唱えろ」。若者は立ち上がり、内心こう思った。「あゝ、祈れるような上天気を見られればいいんだが」。陸に上がったときの彼の脳裡には、この船長の言葉がとどまっていた。彼は云った。「あれは全く正しい。祈りは上天気のときに唱えることにしよう」。私は、百歳まで生きたいと希望しているあなたに云いたい。祈りは上天気のときに唱えるがいい、と。この若者は、その言葉に深い印象を受けたあまり、福音を聞きに出かけ、回心し、キリストに仕える教役者となった! ある日曜の朝、彼がニューヨークでも最も著名な講壇に立って説教していたとき、あの船長がその会堂にやって来た。そして説教者は彼を真正面から見据えて云った。「あなたの祈りは上天気のときに唱えるがいい」、と。船長は驚愕した。自分が臆病者だと声をかけた当の本人が、いま講壇から説教しているのである。そして、その説教の冒頭で、彼がかつて与えた助言を断言しているのである。私は、その船長が自らの薬を受け取ったことと思う。私はその助言を、まだ自分は死なないと思っているすべての人々に与えたい。あなたの祈りは上天気のときに唱えるがいい。いま神から始めるがいい。おゝ、さあ、私の主イエスにあなたの若い盛りを、あなたの生涯の最良の部分を与えるがいい。私は十五の時にキリストのもとに行った。十六歳の時に福音の教役者となった。それ以来、キリストを宣べ伝え続けている。だが、それより十六年前から始めることができればよかったのにと思う。私は、主のもとに行くのが早すぎたと悔やんではいない。むしろ、あなたにこう促したい。愛する若い方々。あなたの骨に髄が詰まっているうちに、また、あなたの頭脳が明晰なうちに、また、あなたの目がかすまないうちに、そして、あなたが自分の名誉を汚す前に、また、罪によって自分のからだを衰えさせる前に、来て、自分をイエス・キリストに明け渡すがいい。喜びと平安となる、このほむべき奉仕に一生涯を費やせるようにするがいい。願わくは、主の大いなる愛の聖霊が、この場にいる多くの人々をそうさせてくださるように!

 かりに、あなたと死との間に、ただ一歩の隔たりしかないということが当てはまらなかったとしよう。それにもかかわらず、死が遠くにある間、健康と体力はキリストのもとにやって来る最良の時となる。あなたが病んで死に近づいたときが、立ち返るべき最善の時だと想像してはならない。思い出すのは、かの有名なマシュー・ヘンリーの父、フィリップ・ヘンリーの印象的な言葉である。彼が死の間際にあったとき、その友人たちは彼の寝床を囲んでいた。そこで彼は云った。「何とありがたいことだ。マシュー。わしが、いま神と和解しなくともすむとはな! このからだ中の痛みは、わしの頭をかき乱してたまらん。おゝ!」、と彼は云った。「もしそれが済んでおらず、今そうせねばならんかったとしたら、何としてできただろう?」 この大いなる取引が完成するとき、それはいかなるあわれみであることか! 今や、痛みや衰えが来ようが、長い眠りが来ようが、霊の意気阻喪が来ようが、どうということあろうか? 何の問題もない、何の問題もない。死ぬときに、神と和解しなくてはならないというのは、お粗末なことである。私はその云い回しが好きではない。はるかに好ましいのは、ひとりのあわれな煉瓦積み職人のこの言葉である。彼は足場から転落し、今にも死にそうなほどの大怪我をした。その教区の聖職者がやって来て云った。「お気の毒に。あなたは、もうじき死ぬのではないかと思います。神と和解するのが良いでしょう」。その聖職者を喜ばせたことに、男は云った。「神と和解するですと? それは、千八百年前に、カルバリの十字架の上で済んでまさあ。あっしには、それが分かってます」。あゝ! これである。――その、はるか昔にキリストの血によって作られた平和を有すること。――決して破られることのない平和を有することである。そのときには、いのちが来ようが、死が来ようが、左様。長寿や、非常な高齢が来ようが、どうでも良い。長い人生のための最良の備えは、主を知ることである。際立った高齢による老衰を最も励まし、慰めるものは、キリストによる確かな望みを有することである。それにまさるものはない。何と、私の知っている何人かの老人たちは、不幸せであるどころか、私が会ったことのある中でも最も幸福な人々であったし、確かに長生きをしてはいたが、長寿を追い求めてきたのではなく、世を去ることを望んできたのである。有名な教授であるドワイト博士には、百歳以上になる母親がいた。ある日、息子がひとりの隣人の弔いの鐘が鳴るのを耳にしたとき、この老婦人は目に涙を浮かべて云った。「じきに、あれはあたしのためにも鳴るんじゃないかねえ。じきに、あたしのためにも鐘を鳴らすんじゃないかねえ」。愛するロウランド・ヒル氏は、老年になったとき、朗らかにこう云うのが常であった。連中が、わしのことを忘れとりゃせんといいんだが、と。それこそ、彼が死をみなすようになったしかたである。そして彼は、できるときには、ある老婦人の所に行き、腰を下ろしてこう云うのだった。「さあ、愛する姉妹よ。もしあんたがわしより先に行くことになるとしたら、ぜひともジョン・バニヤンや、他のジョンたちに、よろしく伝えてくだされ。ロウリーは少し遅れとるが、できる限り早く行くつもりだとな」。おゝ! これは甘やかなことである。次第次第に溶け去って行き、この住みかが穏やかに取り壊されて、だがしかし、それについて何も面倒を感じることなく、自分が大いなる御父の御手の中にあると知ることは。あなたはやがて目を覚ますことになるのである。老年も衰えもみな過ぎ去った所、また、永遠の若さのうちに、あなたが愛するお方の御顔を眺めることになる所で。それが、このことが当てはまらない場合のことである。

 IV. しかし、今、《かりに、そうだったとしてみよう》。かりにそうだったとしてみて、また、かりに、あなたがまだ何の確かな望みも有していないとしてみよう。愛する方々。あなたの耳に入れたい1つの言葉がある。もしあなたと死との間に、ただ一歩の隔たりしかないとしても、それでも、あなたとイエスとの間にも、ただ一歩の隔たりしかないのである。あなたと救いとの間には、ただ一歩の隔たりしかない。願わくは神があなたを助けて、その一歩を今晩踏み出させてくださるように。あなたは、天国への道の説明を知っている。「まず最初の角を十字架の所で右に曲がり、まっすぐ歩み続けなさい」。願わくは、あなたが今晩その一歩を踏み出せるように! それは一歩ですらない。それは眼差し1つである。

「十字架(き)の上(え)を仰がば いのちあり」。

なぜそれを遅らせるのか? キリストを信じる信仰があなたを危険の手の届かない所にやるというのに、また、あなたを罪の支配の届かない所にやり、最後まで続く敬虔な人生を送れるようにするというのに、なぜ今イエスを信じないのか? なぜいま主に身を投げかけないのか? というのも、かりにこのことが真実だったとしたらどうだろうか? かりに、こう定められていたとしたらどうだろうか。「あなたは死ぬ。直らない」[II列20:1]。そのときには、ただちにキリストに近づき、主の中に永遠の救いを見いだすのが賢明ではないだろうか?

 かりにこのことが真実で、あなたがじきに死ぬものとしよう。ならば、あなたの家を整理するがいい。あなたの現世的な物事について、用意をしておくがいい。それに留意しておくがいい。自分の遺書を作っておかなかった人々によって、途方もない悲嘆の山がもたらされるのである。万事を整えておくがいい。嵐が予期されるときには、船の釣合いをよくするがいい。用意するがいい。あなたは間もなく死ぬのだから。今は地上的な物事に捕われていてはならない。あなたはすぐに確実にそれらと別れなくてはならないのである。固く握りしめていてはならない。「地上のものを思わないでいなさい」*[コロ3:2]。さもないと、自分の数々の偶像を失うとき泣くことになろう。もしあなたが、心に何らかの怒りをいだいているとしたら、ただちにそれを追い出すがいい。あなたは死のうとしているのだから。もしあなたと誰か他の人との間に何かいさかいがあるとしたら、家に帰って、それを解決するがいい。あなたが生きることになろうと死ぬことになろうと、そうするよう私は助言する。誰に対しても恨みをいだいていてはならない。あなたはすぐにも死ぬことになるのだから。私は、自分の妻を悲しませていたある男の物語をよく覚えている。何が起こったかは知らない。――何かちょっとした不愉快な言葉か行ないだったのであろう。彼は家の外に出た。その日は材木を伐採しなくてはならなかった。だが、彼は戻って来て、こう云った。「なあ、わしが悪かったよ。出かける前に仲直りしようじゃないか。口づけをしておくれ」。悲しいかな、彼女はそっぽを向いた。その日中、彼女は悲しんでいた。彼をとても愛しており、愛の口づけもなしに彼が出ていったと思うと心が痛んだからである。そして彼は二度と生きて戻らなかった。四人の男が、彼の死体を運んできた。もしもあのような別れ方をしなかったことにできたとしたら、彼女は世界をも引き替えにしたであろう。さあ、愛している人とは、いかなる種類のものであれ、もめ事や仲違いをしたまま別れないようにするがいい。そうしたすべてを打ち切るがいい。死は近いからである。もしあなたと死との間に、ただ一歩の隔たりしかないとしたら、――もし《審き主》が門口におられるとしたら、――行ってあなたの小さな面倒事に始末をつけるがいい。あなたがた、家庭で喧嘩をしている人たち。それを一掃するがいい。あなたがた、心に何らかの悪意を有している人たち。それを叩き出すがいい。

 おゝ、もし私たちと死との間に、ただ一歩の隔たりしかないとしたら、ならば、あなたがた、用意ができていない人たちには、ただ一歩の隔たりしかないのである。地獄との間に! 私は切に願う。生ける神によって逃れるがいい。自分の魂を愛しているというなら、いのちがけで逃げるがいい。そして、キリストをつかむがいい。

 しかし、もしあなたがキリストにあるならば、あなたと天国との間には、ただ一歩の隔たりしかない。あなたは、その一歩をすみやかに踏みたいと願って良いであろう。私は、ある夏の午後のことを決して忘れない。その日、私の右手に座っていたひとりの老婦人は、非常な喜びとともに私を眺めていた。ある人々の目は説教者を非常に助けてくれる。私たちの間には一本の電報が発されるのである。彼女は私にこう云っているかに思われた。「あゝ、神を賛美します。それは何と私にとって喜びでしょう!」 彼女は真理を飲み続け、私は永遠の御国と《愛する方》の眺めに関する尊い事がらを、さらにさらに注ぎ続けた。すると、奇妙な光のように思えたものが、彼女の面差しを通り抜けた。私は話を続け、その目は私を見つめ続けていた。彼女は大理石像のように身動きもせずに座っていた。そこで私は語るのをやめて、こう云った。「愛する方々。向こう側にいる姉妹は死んでいると思います」。彼らはその通りだと云い、彼女をかつぎ出した。彼女は世を去っていたのである。私が天国について語っている間に、彼女はそこに行ってしまったのである。そして、私はこう云ったことを覚えている。私も彼女と同じようにして世を去りたい、と。ことによると、そうはならない方が、色々な理由から良いかもしれない。だが、おゝ、私は彼女が羨ましかった! 私は常に、もう一度彼女と会う日のことを楽しみにしている。私は、あの目が分かるはずである。そう確信している。あの顔を思い出すはずである。もし天国において彼女が少しでも現世の面影をとどめているとしたら、あるいは、彼女を特徴づけるしるしを何か帯びているとしたらそうである。私は、あの内なる交わりを忘れはしない。栄光へと向かう翼を大きく広げて立っていた魂と、彼女にくらべればごく僅かしか知らないものについて語ろうとしていたあわれな説教者との間に存在していた交わりを。よろしい、よろしい。じきに私の番は来るであろう。さらば、あわれな世界よ! じきにあなたの番が来るであろう。そしてそのとき、あなたは云うであろう。「おさらばです」、と。栄光の中でまた会おう。栄光の中でまた会おう。イエス・キリストのゆえに。アーメン。

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説教前に読まれた聖書箇所――詩篇90篇


『われらが賛美歌集』からの賛美―― 853番、854番、846番

 

ただ一歩の隔たり[了]

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