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エリヤの嘆願

NO. 1832

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説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1884年11月9日の説教


「あなたのみことばによって私がこれらのすべての事を行なったということが、……明らかになりますように」。――I列18:36


 エリヤの行為は非常に目覚ましいものであった。世界の基が置かれて以来、ひとりの人が三年もの間、雨の扉を閉ざしたなどということは知られていなかった。だがエリヤは突如として登場するや、主の審きを宣告し、それからしばらくの間、姿を消した。そして主に命ぜられて再び現われると、彼はバアルの祭司たちを集めるようアハブに命令する。本当に神なのは果たしてバアルか神かを試すように云うのである。雄牛が殺され、火を点けることなく、たきぎの上に載せられなくてはならない。そして、火をもって答える神こそ生けるまことの神、イスラエルの神であると決されなくてはならない。私たちは内心こう疑問に思うかもしれない。いかなる権利があってこの預言者は雲を引き留めたり、神の栄誉を試させたりするのか、と。かりに主が火をもって答えることをお望みにならなかったとしたらどうだったであろう。彼は、神の栄光を自分が提案したような条件によって決させるいかなる権利があったのか? その答えはこうである。彼は、これらのすべての事を神のことばに従って行なった。干魃によってこの国を懲らしめたのは、彼の気まぐれではなかった。奇跡的な火によっていけにえが焼き尽くされるかどうかで、エホバの《神格》かバアルかを試させたのは、彼の頭の中で作り上げた、彼のたくらみではなかった。おゝ、否! もしあなたがエリヤの生涯を読み通してみれば、彼が何らかの行動を取るとき、そこには常に、まず「ティシュベ人エリヤに……主のことばがあった」[I列21:17、28; II列1:3]ことが分かるはずである。彼は決して自分から行動しはしない。神が彼の後ろにおられる。彼は、天来の意志に従って動き、天来の教えに従って語る。そして彼はこのことを《いと高き方》に嘆願している。――「私は、あなたのみことばによってこれらのすべての事を行なったのです。今そうであることを明らかにしてください」。これはエリヤの人格を、無鉄砲な向こう見ずとしてではなく、慎みの霊[IIテモ1:7]の人として際立たせている。神を信ずる信仰は真の知恵であり、子どものように神のことばに信頼することは最高の形の常識である。偽りを云えないお方を信じ、失敗することのないお方により頼むことは、愚か者のほか誰も一笑に付さないだろう種類の知恵である。最も賢い人々は、確実に正しいとされるだろう所に常に自分の信頼を置くことが最上であること、また、到底偽りではありえないものを信じることが常に最上であることに同意するに違いない。

 エリヤはそのように信じ、自分の信ずるところに立って行動した。そして今、当然ながら自分の行なってきたことについて、身の証しが立てられることを期待している。一国の大使は、公認された自分の行為が自分の国王から否認されるとは決して夢にも思わない。もしある人があなたの代理人として行動し、あなたの命じたことを行なうとしたら、彼の行動の責任はあなたにあって、あなたは彼を支持しなくてはならない。実際、あるしもべを使いに出し、彼が忠実にそれを一字一句違わずに実行した後で、あなたが彼を遣わしたことを否認するのは卑劣きわまりないことである。神はそのようなお方ではない。もし私たちが、ただ神を信頼し、神から命ぜられたことを行ないさえするならば、神は決して私たちをお見捨てにならない。逆に神は最後まで私たちの面倒を見てくださる。地と地獄が立ちはだかろうと関係ない。それはきょうではないだろうし、明日でもないであろうが、主が生きておられる限り確実に、やがて来たるべきとき、神により頼んだ者は、自分の信頼の喜びを得るはずである。

 私が思うに、このエリヤの嘆願は、従順な聖徒たちにとっては、堅固な祈りの土台であり、神のことばに従って行動してきたと云えない者たちにとっては、問われるべき厳粛な問題である。

 I. まず第一に、これは《堅固な祈りの土台》である。あなたは、神に仕える教役者であるか、キリストの御国の進展のために労する働き人である。そして、あなたは多くの涙と祈りとともに、出て行っては福音を宣べ伝える。そして、あなたは、キリストがお定めになったような、あらゆる手段を用い続ける。あなたは自分に向かってこう云うだろうか? 「私は、これらすべての実を得られると期待して良いのだろうか?」 もちろん期待して良い。あなたは、つまらぬ遣いに出されているのではない。決して芽を出すことのない、死んだ種を蒔くよう命じられているのではない。しかし、そうした不安があなたの心に重くのしかかるときには、贖いの蓋のもとへ行き、このことを、あなたの議論の1つとするがいい。「主よ。私はあなたのみことばによって行なってきました。今それが見てとれるようにしてください。私はあなたのみことばを宣べ伝えてきました。そして、あなたは、『わたしのことばは、むなしく、わたしのところに帰って来ない』*[イザ55:11]、と云われました。私はこの人々のために祈ってきました。そして、あなたは云われました。『義人の祈りは働くと、大きな力がある』*[ヤコ5:16]、と。これが、あなたのみことばの通りであることが見てとらせてください」。あるいは、もしあなたが日曜学校の教師だとしたら、こう云えるであろう。「私は、自分の生徒たちを祈りの中であなたの前に連れて来ました。また、あなたのみことばを学んだ後で、私の能力の限りを尽くして、救いの道を彼らを教えに出て行きました。いま、主よ。私はあなたの真実にかけてお求めします。私の教えと期待を正しいものと認めさせてください。あなたによって私の生徒たちの魂が、あなたの御子イエス・キリストを通して救われることによって、そうしてください」。あなたには見てとれないだろうか、もし主があなたをこの働きにつけてくださったとしたら、あなたには確かな論拠があるということが。主は、いわば、その事実そのものによって、このことを行なうあなたを支持するよう縛られているのである。そして、もしあなたが、聖なる勤勉さと注意深さによって、こうしたすべての事を主のみことばによって行なったとしたら、あなたは自信をもって恵みの御座に来て、主にこう申し上げることができる。「あなたの約束通りに行なってください。あなたは、こう仰せにならなかったでしょうか? 『種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る』[詩126:6]、と。主よ、私はそうしました。私に私の束をお与えください。あなたは云われました。『あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう』[伝11:1]、と。主よ、私はそうしました。ですから、あなたの約束を私にかなえてくださるようお頼みします」。あなたは、そのようなしかたで嘆願して良い。エリヤがこの民全員の前でこう云ったのと同じ大胆さによってそうして良い。「あなたのみことばによって私がこれらのすべての事を行なったということが、きょう、明らかになりますように」。

 次に、私はこの教えを全教会に適用したい。残念ながら、キリストの教会の多くは生き生きと成長していないのではないかと思う。会衆はまばらで、教会は減退しつつある、祈祷会に集う者はほとんどなく、霊的いのちは低調である。もし私の思い描く、そうした状態にある教会が、それにもかかわらず、神に向かって、「あなたのみことばによって私たちはこれらのすべての事を行ないました」、と云えるとしたら、私はその教会が祈りへの答えとして、じきに息を吹き返すのを見ると期待して良いであろう。一部の教会が生き生きと成長していない理由は、彼らが神のことばによって事を行なってこなかったからである。彼らは、神のことばが何と云っているかを知ろうとさえしてこなかった。別の本が彼らの基準なのである。霊感された神のことばの代わりに、人間が彼らの指導者であり立法者なのである。一部の諸教会は、罪人たちの回心のためにほとんど、あるいは、何も行なっていない。しかし、いかなる教会の、いかなる人であれ、神の前に行って、こう云えるとしたらどうであろう。「主よ。私たちは、私たちの間で福音を宣教してきました。そして、私たちは熱心に祝福を祈ってきました。私たちはあなたに仕える教役者の回りに集まり、その祈りと信仰の腕を支えてきました。私たちは、個々のキリスト者として、ひとりひとり自分の特定の奉仕を追求してきました。ひとりひとりが出て行って、魂をあなたのもとに連れて来ようとしました。また、あなたの恵みの助けによって敬虔な生活を送ってきました。それゆえ、今、あなたの御国を大いに進展させてください」。その人は、この嘆願が聞き届けられることを知るであろう。キリストの支配に従って歩み、キリストの教えに従い、キリストの御霊に満たされているとしたら、いかなる教会にも本物の生きた成長がやって来るに違いない。私は、今は貧弱な有り様にある諸教会の会員全員に勧告したい。すべての事がらが神のことばの通りになされるように気をつけ、その後で、聖なる自信をもって期待するがいい。天からの火はやって来ざるをえない。祝福が差し止められることはありえない。

 同じ原則は、正しいことを行なったがために苦難に遭っている個々の信仰者たちにも当てはまるであろう。ある人が次のように感じることは往々にしてある。「私はひと儲けすることもできるだろう。だが、そうするわけにはいかない。私の前に示された道は誤ったものとなるだろうからだ。そうした状況は開かれているが、そこには私の良心が賛成しないものが含まれている。私は、疑わしいことを何か行なって得をするよりは、苦しみに甘んじよう」、と。あなたは、まさに神に従順であるがために、非常な苦難に陥っていることもありえる。その場合、あなたこそは、他のすべての人々にもまして、《いと高き方》の前にこの訴えを申し立てて良い人である。「主よ。私はこれらのすべての事をあなたのみことばによって行なったのです。そして、あなたはこう云われました。『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない』[ヘブ13:5]、と。私はあなたに乞い願います。どうか私のために介入なさってください」。どうにかして神はあなたに必要なものを供してくださるであろう。たといあなたがさらに試みられることを神が望まれるとしても、神はあなたにそれを耐えるだけの力をお与えになるであろう。だが、おそらくは今や神はあなたを試し終わったので、あなたを黄金のように火から取り出されるであろう。

   「善きことを為し 恐るるな、
    そは、かく汝れは 地に住みて、
    神は汝が糧 供(たま)わらば」。

 もう一言だけ云うが、私はこの原則をこうした求めつつある罪人に当てはめたいと思う。あなたはぜひとも救われたいと思っている。あなたはみことばに一心に注意を払っている。そして、あなたの心はこう云っている。「私に教えてください。この救いがいかなるものか、そして、いかにすればそこに達することができるのかを。私はその途中に何があろうと、それを得たいのですから」。あなたはイエスがこう云われるのを聞いたことがある。「努力して狭い門からはいりなさい」[ルカ13:24]。主がこう命ぜられるのを聞いたことがある。「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい」[ヨハ6:27]。あなたは狭い門から入りたい、いつまでも保つ食物を食べたいと切望している。そのような恩恵が得られるとあらば、全世界と引き替えにしても良いと考えている。愛する方よ。よくぞ云われた。では、聞くがいい。――あなたは、あなたの行ないによって、功績の問題として天国を有することはできない。あなたが功績を積むことは不可能である。というのも、あなたは罪を犯してきており、すでに罪に定められているからである。しかし、神は、いくつかの方針を規定しておられる。それによって神はあなたと会い、あなたを祝福しようと約束しておられる。あなたはそうした方針に従ったことがあるだろうか? というのも、そうしたことがあるとしたら、神はあなたに対して偽りではあられないだろうからである。こう記されている。――「信じてバプテスマを受ける者は、救われます」[マコ16:16]。――あなたは神の御前に来て、こう云えるだろうか? 「私は信じてバプテスマを受けました」。ならば、あなたは、堅い土台に立って懇願できる。こうも記されている。――「自分のそむきの罪を告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける」*[箴26:13]。あなたがそれを告白して捨てたとき、あなたは神のこの約束に対して正しい権利を有しているのであり、神にこう申し上げることができるのである。「主よ。あなたのしもべに対して、このみことばを果たしてください。あなたが私に希望を持たせてくださったこのみことばを。私の信仰にも、私のバプテスマにも、私の悔い改めにも、私が罪を捨てることにも功績は全く何もありません。それでも、あなたがこうした事がらの隣り合わせにあなたの約束を置かれているので、また、私がそこであなたに従順であったため、私は今、あなたのもとに来て、こう云います。『あなたご自身の真理を立証してください。というのも、私はあなたのことばによってこうしたすべての事を行なったからです』」。いかなる罪人も最後になって神の前に来て、こう云うことはできない。「私は、あなたが信頼せよとお命じになった通りに信頼しましたが、しかし私は失われています」。それは不可能である。あなたの血の責任は、もしあなたが失われているとしたら、あなたの頭上に帰する[エゼ33:4]。だが、あなたは決してあなたの魂の断罪を神のせいにすることができない。神は偽り者ではない。あなたこそ偽り者である。

 では、あなたも見てとるであろう。この原則がいかに祈りにおいて妥当なものであるかを。「私はこれらのすべての事をあなたのみことばによって行ないました。それゆえ、おゝ、主よ。あなたの約束どおりに行なってください」。

 II. 私たちは、同じ地面をもう少し越えて進み、あなたが自らの足取りを《自己吟味》してみるよう求めたい。果たしてあなたは、これらのすべての事を神のことばによって行なってきただろうか?

 最初に、この場にいる、あまりに実を結んでいない、あらゆる働き人は、この問いに答えるがいい。――あなたはこれらのすべての事を神のことばによって行なってきただろうか? さあ、あなたは福音を宣べ伝えてきただろうか? それは福音だっただろうか? あなたが宣べ伝えたのはキリストだっただろうか? それとも、単にキリストに関する何かでしかなかっただろうか? さあ、あなたは人々にパンを与えただろうか、それとも、パンを載せる皿や、パンを切る卓上刀を与えただろうか? あなたは彼らに飲み物を与えただろうか、それとも、水の近くに置いてあった杯を与えただろうか? ある種の説教は福音ではない。それは乾酪の香りがする卓上刀ではあるが、乾酪ではない。このことに注意するがいい。

 もしあなたが福音を宣べ伝えたとしたら、あなたはそれを正しく宣べ伝えただろうか? つまり、愛情をこめて、真剣に、明瞭に、平易に述べただろうか? もしあなたがラテン語がかった言葉遣いで福音を宣べ伝えるとしたら、一般庶民はそれが何を意味するか分からないであろう。――また、もしあなたが大仰な学術用語や、辞書を引かないと分からないような言葉を用いるとしたら、市井の人々はあなたが何をやっているのか見当もつかずにいる間に途方に暮れてしまうであろう。神に祝福してほしければ、福音をごく単純なしかたで宣べ伝えなくてはならない。あなたは真理を愛に満ちて、心を尽くして宣べ伝えたことがあるだろうか? ありとあらゆることにもましてあなたが願うのは、あなたが教えている人々の回心であるかのように、自分のすべてを打ち込んで宣べ伝えたことがあるだろうか? 祈りはそれと混ぜ合わされていただろうか? あなたは祈りもなしに講壇に立ったことがあるだろうか? 祈りもなしに《日曜学校》に行ったことがあるだろうか? 祈りもなしにそこから立ち去ったことがあるだろうか? そうだとしたら、あなたが祝福を求めなかった以上、祝福を受けないとしても不思議がってはならない。

 また、別の問いを発したい。――あなたの教えを裏打ちする模範がそこにはあっただろうか? 兄弟たち。あなたは自分の説教通りに生きてきただろうか? 姉妹たち。あなたは自分の学級での教え通りに生きてきただろうか? これらは、私たちが答えるべき問いである。なぜなら、ことによると、神は私たちにこう答えることがおできになるからである。「否。あなたはわたしのことばによって事を行なってこなかった。あなたが宣べ伝えたのはわたしの福音ではなかった。あなたは思索家であった。そして、あなた自身の思想を編み出した。だが私が祝福すると約束したのは決してあなたの思想ではなく、わたしの啓示した真理だけである。あなたは愛情もなく語った。自分の雄弁によって自分の栄光を現わそうとした。魂が救われようと救われまいと気にも留めなかった」。あるいは、かりに神があなたにこう指摘して云うことがおできになるとしたらどうだろうか? 「あなたの模範はあなたの教えとは逆だった。あなたは一方を見ていながら、別の方向へ引っ張ったのだ」。ならば、祈りには何の懇願もないではないだろうか。さあ、変わろうではないか。神の御霊の助けによって、最高度の従順へと上ろうではないか。私たちが成功に値する者となれるからではなく、ただ神の命ぜられた通りに行なうなら成功を意のままにできるからである。パウロが植えて、アポロが水を注ぐ。しかし、成長させるのは神である[Iコリ3:6]。

 さて今、ある教会に目を向け、その教会にいくつか問いを発させてほしい。いくつかの教会は生き生きと成長していない。私が願うのは、あらゆる教会がこの問いをその会員層のすべてに行き渡せることである。私たちは教会としてキリストのかしら性を認めているだろうか? かのキリストの《法令全書》、かの唯一の《書》を認めているだろうか? それだけが、また、それそのものが、キリスト者である人の信仰であるところの《書》を認めているだろうか? 私たちは教会として神の栄光を求めているだろうか? それは私たちの主要な、また、唯一の目的だろうか? 私たちは身近で暮らしている人々の魂のために産みの苦しみをしているだろうか? 私たちは、彼らを福音の光によって照らし出すため、あらゆる霊的手段を用いているだろうか? 私たちは聖い民だろうか? 私たちの模範は、私たちの隣人たちが従うだろうようなものだろうか? 私たちは、飲み食いにおいてすら、何をするにも、ただ神の栄光[Iコリ10:31]を現わすために努めているだろうか? 私たちは祈り深くしているだろうか? おゝ、祈りが自分たちの中にないからといって祈祷会をやめてしまった多くの教会たち! いかにして彼らが祝福を期待できるだろうか? 私たちは一致しているだろうか? おゝ、兄弟たち。教会員同士が、友人というよりは敵ででもあるかのように、互いに悪口を云い合い、中傷すら云い合うのはぞっとするほどひどいことである。神がそのような教会を祝福できるだろうか? この陣営の中を徹底的に探るがいい。どこかにアカンのごとき者がいて、自分の天幕の中に隠してある盗んだ延べ棒とシヌアルの外套[ヨシ7:21]によって《全能者》の御手を縛り、ご自分の民のため戦えなくするといけない。あらゆる教会はこの点に留意するがいい。

 次に私は、神に仕えることによって苦難に陥っているキリスト者である人々に語りかけよう。彼らにあれこれ説明する前に、いくつか問いを発したい。あなたは、自分がこのことにおいて神に仕えたと全く確信しているだろうか? 知っての通り、ある人々は種々の奇想や、酔狂や、幻想にふけっている。神は、あなたの酔狂においてあなたを支持すると約束しておられない。一部の人々は意固地で、このような世にあって、あらゆる人々が自分のパンを稼ぎ出すために忍ばなくてはならないものに屈そうとしない。もしあなたがただの騾馬であって、鞭を受けるとしたら、私はあなたがあなたの報いを受けるままにしておかなくてはならない。だが、私は悟りのある人々に語りかけよう。一切の不正に対して、清教徒のように断固たる者であるがいい。むしろ、あなたの側における自己否定を含むあらゆる事がらに対して柔軟で、よく従う者であるがいい。神は、もしその争いが神の争いであるなら、私たちを支え通してくださるが、もしそれが私たち自身の争いだとしたら、何と、そのとき私たちは自分で何とかしなくてはならないであろう。強情っ張りの石頭であることと、志操堅固であることとは大違いである。神のことばで教えられている真理における原則問題として、志操堅固であることと、何か奇天烈な観念を頭にいだいていることとは全くの別物である。

 それに加えて、一部の人々は、ある特定の事がらについて良心的だが、全般にわたる良心は有していない。ある人々は、少なく取らないことについては良心的だが、少なく与えることについては良心的でない。一部の諸兄は、安息日に休息することには良心的だが、この戒めの残り半分は、「六日間、働かなければならない」*[出20:9]、なのであって、彼らは律法のその部分を覚えていない。私が好ましく思うのは、公正で偏りなく働く良心である。だがもしあなたの良心があなた自身の利得や快楽のためにくじけるとしたら、この世はそれをまがいものと考えるであろう。そして、その考えは当たらずとも遠からずであろう。しかし、もし良心的な誠実さによってあなたが苦しみを受けるなら、神はあなたを耐え抜かせてるであろう。ただ吟味し、見てとるがいい。あなたの良心が神の御霊によって光を受けていることを。

 そして今、しめくくりとして私は、求めつつある罪人に語りかけたいと思う。ある人々は平安を見いだすことを切望しているが、それに達することができない。そこで私が彼らに見てとってほしいのは、果たして彼らは、いくつかの点について無頓着であっために、エリヤとともに、「あなたのみことばによって私はこれらのすべての事を行なった」、とは云えなくなっていないか、ということである。

 あなたが、行ないによって救われることはできないと云う必要などあるだろうか? あなたの行なう何物もあわれみに値するものではありえない、と何度も何度も繰り返す必要があるだろうか? 救いは神の無代価の賜物でなくてはならない。しかし、ここが肝心なことである。神が罪人に赦罪を、また、悩める心に平安をお与えになるのは、いくつかの方針に沿ってのことなのである。あなたはそうした方針に完全に沿っているだろうか? そうだとしたら、あなたは平安を得るであろう。そうした平安を得ていないとしたら、何かが省かれているのである。まず最初に、真っ先にあるべきことは信仰である。あなたはイエス・キリストが神の御子であると信じているだろうか? あなたは、主が死者の中からよみがえられたことを信じているだろうか? 自分自身を全く、単純に、心から、決定的に主にゆだねているだろうか? ならば、こう書いてある。――「御子を信じる者は永遠のいのちを持つ」[ヨハ3:36]。行って、そう嘆願するがいい。「私には平安がありません」、とあなたは云うであろう。あなたは真心をこめて罪を悔い改めただろうか? あなたの精神は完全に罪について様変わりしており、かつてあなたが愛していたものを今は憎み、かつて憎んでいたものを今は愛するほどになっているだろうか? そこには罪を心から嫌悪し、見限り、放棄することがあるだろうか? 自分を欺いてはならない。あなたは、自分のもろもろの罪の中で救われることはできない。あなたは、あなたのもろもろの罪から救われるべきである。あなたとあなたのもろもろの罪は分かれなくてはならない。さもなければ、キリストとあなたは決して結ばれることはないであろう。このことに注意するがいい。努力してあらゆる罪を捨て、あらゆる偽りの道を見捨てるようにするがいい。さもなければ、あなたの信仰は死んだ信仰でしかなく、決してあなたを救わないであろう。もしかするとあなたは、ある人に不正を行ない、その賠償を全くしていないのかもしれない。ムーディ氏は、賠償について説教したとき、非常に大きな善を行なった。もし私たちが他人に不正を加えたことがあるとしたら、その人に償いをしなくてはならない。私たちは、盗みの罪を犯していたとしたら、盗んだものを返すべきである。人が良心の平安を期待したければ、同胞の人々に対して行なってきたいかなる不正についても、できる限りの償いをしなくてはならない。このことに注意するがいい。さもなければ、ことによると、この石があなたの扉に置かれることになるかもしれず、その石が転がされないために、あなたが決して平安に入らないことになりかねない。

 愛する方々。もしかすると、あなたは祈りをおこたってきたかもしれない。さて、祈りは、それなしには誰も主を見いだすことのできないものの1つである。これこそ私たちが主を求める方法であり、もし私たちが求めないとしたら、いかにして主を見いだせば良いだろうか? もしあなたがこの祈りという件においておこたってきたとしたら、あなたは、「あなたのみことばによって私はこれらのすべての事を行なった」、とは云えない。願わくは主があなたを力強い祈りへとかき立て、あなたを祝福するまで主を去らせないまでとならせてくださるように! 主を待ち続ける中で、主はあなたの魂に対する安息をあなたに見いださせてくださるであろう。

 しかしながら、もしかすると、あなたはキリストを信じていながら、不敬虔な人々と親交を持っていて、彼らとともにその愚劣な生き方を続けているがために、何の平安も得ていないのかもしれない。あなたも知る通り、人は神にも仕え、また富にも仕えるということはできない[マタ6:24]。そう主は云われる。「彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる」*[IIコリ6:17-18]。私は、この場所に座っているひとりの人を知っている。その人はおそらく今晩ここにいるであろう。そして、その人について、私が確信するところ、その人をキリストから引き離している唯一のものは、その人が入り混ざっている仲間の人々である。私は、その人の仲間たち自身が悪だとは云わないが、その人にとっては悪である。そして、たといそこに何かそれ自体としては善いものがあるとしても、それでも、もし私にとって破滅的なものとなるとしたら、私はそれをやめなくてはならない。私たちは、いくつかのいぼや、こぶを切り落とすよう命令されているのではない。イエスは私たちに、右腕を切って捨て、右の目をえぐり出すよう命じておられる。――それ自体では良いものである。――もしそれらが私たちの道をふさぐつまずきの石となり、私たちをキリストに達することができないようにしているとしたら、そうである[マタ5:29-30]。この世の中にあるいかなるものであれ、もしそれが私を絡め取って私の魂を失わせるとしたら、それを取っておくべきいかなる価値があるだろうか? そのようなものは、なくなってしまうがいい。こういうわけで、ことによると他の人にとっては正当かもしれないものが、あなたにとっては有害であるため不都合なものであることがありえる。多くの事がらは、大多数の人々には何の害も引き起こさないが、しかし、あるひとりの人にとって、それは最も危険な事がらであり、それゆえ、その人はそれらを避けるべきである。自分自身にとって1つの律法となるがいい。そして、あなたを《救い主》から遠ざけておくあらゆるものに近寄らないようにするがいい。

 しかしながら、ことによると、あなたは云うであろう。「よろしい。私の知る限り、私はあらゆる悪いつき合いを実際に避けており、主に従おうと努めています」、と。1つ心に突き入る問いをあなたに強く訴えさせてほしい。――あなたは、あらゆることでイエスに従順になろうとしているだろうか?

   「そは、知れよ、――その条件につぶやかず――
    イエスの来るは 王なるためぞ」。

もしあなたがキリストに《救い主》となっていただきたければ、主を《王》としても受け入れなくてはならない。それゆえにこそ、主はあなたにこう述べておられる。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます」[マコ16:16]。バプテスマはあなたを救うだろうか? 決して救いはしない。というのも、あなたはイエス・キリストを信ずる信仰によって救われるまで、バプテスマを授かる何の権利もないからである。だが、覚えておくがいい。もしキリストがあなたに命令をお与えになるとしたら、――もしあなたが主を《王》として受け入れるとしたら、――あなたは主に従う義務がある。もし、「バプテスマを受けよ」、と云う代わりに主が、「あなたの帽子に羽根飾りをつけよ」、と仰せになったとしたら、あなたは、「私の帽子に羽根飾りをつけることで私は救われるのでしょうか?」、と問うたであろう。答えは否である。だが、主があなたに命じておられるがゆえに、あなたにはそうする義務があるのである。もし主が、「石ころを一個あなたのかくしに入れて、それを持ち運べ」、と仰せになったとしたら、――もしそれがキリストの命令だったとしたら、あなたがその石を取り、持ち運ぶことは必要なのである。ある命令に重要性がないように思えれば思えるほど、往々にして、そこにかかっていることは大きい。私が目にしたことのあるひとりの反抗的な少年は、彼の父親からこう云われた。「さあ、あの杖を取ってきなさい。あの杖を取ってきなさい」。その命令に大して重要なことはない。それで、その若者は口も聞かずに従うのを拒絶した。「聞こえないのか? あの杖を取ってきなさい」。否。彼は取り上げようとしない。さて、もし彼が行なうよう云いつけられたのが大きなこと、彼の力を越えたことだったとしたら、彼がそれを行なうのを拒んだとき、彼の反抗心はそれほど明らかに証明されはしなかったであろう。それが小さな、取るに足らないことであるのに、それでも彼が従うのを拒むときにこそ、それは明らかになるのである。それゆえ、私はこのことを大きく強調したい。――イエス・キリストを信じているあなたが、そのみことばに従って事を行なうことを。云うがいい。「主よ。あなたは何を私が行なうことをお望みですか? それが何であろうと、私はそれを行ないます。私はあなたのしもべなのですから」。もしあなたがキリストのものになりたければ、まさにバラクラヴァを騎馬で突撃した、あの勇敢な人々のようになってほしい。

   「汝れは理由(わけ)問う べきにはあらず、
    ただ行ないて 死ぬが汝が道」――

もし必要とあらば、もしイエスがそこへとあなたをお召しになるなら。これをあなたの歌とするがいい。――

   「火水(ひみず)越ゆとも イェスみちびかば、
    われ従わん、主の行く方向(かた)へ」。

のっけから、「私はそれを行なおうとは思いません。それは本質的なことではありません」、と叫び、次いでこのように云いつのるような種類の信仰はどうであろう。「私はそれには同意しません。そして、別のことにも同意しません」。それは信仰では全くない。その場合、あなたが主人なのであって、キリストではない。主ご自身の家の中で、あなたは主の命令を変更しようとし始めるのである。「おゝ」、とある人は云うであろう。「ですが、バプテスマについて云えば、私はバプテスマを受けましたよ。知っての通り、何年も前に、私が幼児だった時に」。あなたはそう云うのだろうか? あなたは、自分の女主人からこう云われたときのメアリーについて聞いたことがあるであろう。「メアリーや。応接間に行って、箒をかけて、埃とりをしておくれ」。彼女の女主人が応接間に行くと、それが埃っぽいことに気づく。彼女は云った。「メアリー。お前はこの部屋に箒をかけも、埃とりをしもしなかったのかい?」 「いいえ、奥様。いたしましたとも。ただ、最初に埃とりをして、それから箒をかけただけです」。それは間違った順番であって、すべてをだいなしにしてしまったのである。そして、キリストの命令を逆さまにすることは決して役に立たないであろう。なぜなら、そのとき、それらは何も意味しないからである。私たちは、主が私たちに命ぜられることを、主が私たちに命ぜられる通りに、主が私たちに命ぜられるときに、主が私たちに命ぜられる順番で行なうべきである。私たちは単純に従順になるべきであり、そうするとき、私たちはこのことを思い起こすであろう。すなわち、キリストを信じることと、キリストに従うこととは同じことであり、聖書の中ではしばしば、「信じる」と読める同じことばが、「従う」と読むこともできるということを。主は、ご自分に従うすべての者たちにとって永遠の救いの《創始者》であられ、それは、ご自分を信ずるすべての者たちにとって、ということである。ならば、ただ主を心から信頼し、ただ主に喜んで従うがいい。そうすればあなたは臨終のときに主のもとに行き、こう云うことができる。「主よ。私は、あなたのみことばによってこれらのすべての事を行ないました。私は何の功績も申し立てません。ですが、私に対するあなたの恵み深い約束をあなたがお守りになることを求めます。というのも、あなたはご自分がお語りになった一言すらも撤回することがおできにならないからです」。

 愛する方々。神があなたを祝福したまわんことを。キリストのゆえに。

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説教前に読まれた聖書箇所――第一列王記18:17-40


『われらが賛美歌集』からの賛美―― 417番、515番、514番

 

エリヤの嘆願[了]

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