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すべてか無か。あるいは、拒絶された妥協案:
五つの聖句による説教

NO. 1830

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1885年3月29日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1883年11月25日の説教


 私は五つの聖句について語りたいと思う。――そのうちの1つは良いものだが、他の四つは悪いものである。第一の聖句は良いもので、神の聖句である。

   出10:26――「ひづめ一つも残すことはできません」。

これは神の聖句である。そして、この説教の全体は、この聖句を例証するために、それが出会ったいくつかの妥協案を明らかにするであろう。

 他の四つは、パロの聖句である。あるいは、こう云って良ければ、悪魔の聖句である。というのも、それこそまさに、悪魔が人々に語ることだからである。出8:25――「さあ、この国内でおまえたちの神にいけにえをささげよ」。これが彼の最初の提案である。それから、彼は28節でこう云っている。「私は、おまえたちを行かせよう。おまえたちは荒野でおまえたちの神、主にいけにえをささげるがよい。ただ、決して遠くへ行ってはならない」。これが彼の二番目の妥協案である。10章8節には、三番目のものがある。彼は彼らに云った。「行け。おまえたちの神、主に仕えよ。だが、いったいだれが行くのか」。そして、それにこうつけ足している。「さあ、壮年の男だけ行って、主に仕えよ」[11節]。そして、パロの四番目の、そして最後の提案は、同じ10章の24節にある。「パロはモーセを呼び寄せて言った。『行け。主に仕えよ。ただおまえたちの羊と牛は、とどめておけ』」。

 サタンは、人々に対する自分の支配力を緩めることに非常に強く抵抗する。その抵抗は、パロの抵抗と全く同じくらい強く、力ずくでそうさせられなくては従おうとしない。つまり、天来の恵みの力に迫られなくては、神の民を手放そうとはしない。堕落により、また、人々の罪により、また、彼らの心の強情さにより、いったん彼らを自分の支配下に置いた彼は、なるべく自分の臣下を失いたがらない。むしろ、奸知と全力を傾けては、可能な限り、彼らを自らの呪われた統治下に置いておこうとする。サタンの奴隷たちの多くは、神の御声に全く耳を貸さない。彼らにとっては、何の安息日も、何の聖書も、何のキリスト教信仰もない。実質的に彼らはこう云うのである。「エホバとはいったい何者か。私がその声を聞かなければならないというのは」*[出5:2]。さて、神が人々を救おうとするとき、――すなわち、かの永遠の計画が実行に移され、天来の決定が成し遂げられることになるとき、神はすみやかにそうしたことに終止符を打たれる。人には全くうかがい知れない何らかの理由により――それは全く思いもよらないことでありうる――、その人は落ち着かないものを感じる。心のざわめきを覚える。礼拝所に行こうかと思うような朝もある。礼拝に大した関心を覚えるわけではないが、ひょっとしてそこに行けば少しは気が楽になるかも知れないと考えるためである。だが、少しも気が楽にはならない。主題聖句が真っ向から睨みつけるからである。それは銛のように魂に打ち込まれ、到底それを引き抜くことができない。その人は、以前にまして悩むこととなる。多少は神のみこころのことを調べ始める。今や、ある程度は表面的な関心をキリスト教信仰に対していだいている。その人は相当に変わってくる。

 しかし、みわざが成し遂げられたと想像してはならない。私たちのほむべき《主人》は、人間の心の中で獲得する地歩の一寸一寸を戦い取らなくてはならない。その愛という無類の砲兵隊によって、主は一歩また一歩と敵を後退させ、その上でようやく征服なさるのである。だが、その過程はしばしば長期間にわたるゆっくりしたもので、無限の知恵がなかったとしたら、匙を投げておしまいになるであろう。しかし、主がある人をこの世から出て来させて救おうと決意しておられる場合、その決意は実行に移されざるをえず、実際に実行される。そして、それまでのところは神に関しても、永遠に関しても軽く考え始めたにすぎないその人は、それをはるかに越えた先まで進まなくてはならなくなる。

 座って神のみことばを聞いているその人が見える。ことによるとサタンは今こう云っているかもしれない。「よろしい。お前は立派な男だ。日曜ごとに祈りの家で席に着いているではないか。悪習慣も大半はやめてしまった。今のお前は全く別人だ。さあ、お前は神を非常に喜ばせることを行なっているのだ。それで安心していいだろう」。人々が、そうした類の貧弱な行ないから出て来るような、つまらぬ希望で安心してしまうのは、非常に悲しいことである。しかし、それでも彼らは、できるものならまさにそこで止まってしまうであろう。サタンは、人々が罪の領土の下に留まり、キリストのもとに行くことを拒否する限り、彼らがどこで立ち止まろうと気にはかけない。

 さて、主はその人を、ことによると患難や苦難によって取り扱い始めるかもしれない。その人の細君が病を得る。子どもがひとり死ぬ。その人自身がからだを壊す。その人は自分が死ぬことになるのだと恐れ、目の前で義が雲散するような気がする。そして、今や、もっとすぐれたものを求めなくてはならないに違いないと思う。そのときサタンがやって来て、こう云う。「まだ時間は十分あるぞ。あわてふためくこともあるまい」。

 それでも主がある人を、その魂の上に及ぶ御霊の厳粛な動きによってそこから突き動かされると、悪魔はその人にこう云うであろう。「どうしてお前は、これがみな本当だと分かるのだ?」 そしてその人は、さほどしないうちに、自分の不信仰を助長するような不信心者たちを見いだす。こう云うのは残念なことながら、その人は講壇の上にも、そうした輩をしこたま見いだすことができる。自分たちの不信心を「進歩思想」として宣べ伝える人々である。それであわれな魂は困惑させられ、右左もほとんど分からなくなり、再び無関心の状態へと逆戻りし、以前にいた所に留まってしまう。

 神をほむべきことに、もし神がそのような者を救おうとしているとすると、神は槍の一突きで、また、銃剣の切っ先で、勝利を得られる。こうした人々は、自分の居場所で安住しない。なおも主の右の御手は伸ばされており[イザ9:12]、主は悪のパロにエホバが自分よりも強いことをお知らせになる。恵みは天性よりも強大であり、永遠のご計画は、鉄面皮な良心のいかなる決意にもまさって確実に成就する。それで、とうとう事はここに至る。――その人は神に屈伏するよう駆り立てられる。だがその点まで駆り立てられると、サタンが再び現われ、その数々の約束を持ち出してくるのである。

 私たちは今晩こうした四つの妥協案について語りたいと思う。第一の妥協案は、8章25節に見いだされる。

   「この国内でおまえたちの神にいけにえをささげよ」。

「しかり」、と悪魔は云う。「お前はキリスト者にならなくてはならない。それは明らかだ。お前はこれ以上持ちこたえられない。自分のもろもろの罪の中で、心が騒ぎすぎている。お前はキリスト者にならなくてはならないだろう」。「しかし」、と彼は云う。「キリスト者になっても、この世にとどまっているがいい。今いる所にそのままいるのだ。『この国内でおまえたちの神にいけにえをささげよ』」。これは、時としてこういう意味である。罪の中で生き、かつ、信仰者であれ、と。自分自身をキリストにゆだねよ。その上で、お前の心が願う何にでもふけるがいい。お前もキリストが罪人たちの《救い主》であることは知っているだろう? だから、お前の罪の中にとどまれ。だがしかしキリストには信頼せよ。おゝ、私はあなたに命ずる。生ける神にかけて、決してこうした危険な嘘にかつがれてはならない。というのも、罪の中に生きている限り、いかなる安息や救いを見いだすことも不可能だからである。私の愛する方々。キリストが来られたのは私たちを、私たちのもろもろの罪から救うためではあるが、私たちのもろもろの罪の中で救うためではない。主は、お建てになったあわれみの病院に、いかに悪い病状の者も受け入れてくださる。誰でも歓迎される。だが主が彼らをお受け入れになるのは、彼らが病気のままでい続けるためではなく、彼らを癒し、健やかな者とするためである。主イエス・キリストがひとりの盗人をつかまれるとき、その人はもはや盗人ではない。その人の心の奥底が正直になる。主は、遊女に出会うとき、彼女の不義を拭われる。それで彼女は、自分の数々の罪悪に対する深い悔い改めに襲われ、自分の《救い主》へと向き直ると、これからは一生の間きよさのうちを歩みたいと願うようになる。あなたが神に仕えながらも、それと知っている罪にふけり続けることは不可能である。酒を飲んでもキリスト者でいられるとか、商売でごまかしをしてもキリスト者でいられるとか、あらゆる点で不敬虔なこの世と似たような行動をしていてもキリスト者でいられるとか考える者の、何と愚か者であることか! そのようなことはありえない。マルクス・アントニウスは、二頭の獅子をくびきでつなぎ、それを駆ってはローマの街路を引き回した。だが彼も、決して底知れぬ所から出た獅子と、ユダと呼ばれる部族から出た獅子[黙5:5]とをくびきでつなぐことはできなかったであろう。両者の間には、不倶戴天の憎しみがある。無理矢理そうさせられたなら、善の原理が悪の支配を滅ぼしてしまうであろう。両者の間に交わりはありえない。だれも、ふたりの主人に仕えることはできない[マタ6:24]。二人の人に仕えることはできるかもしれないが、その二人がどちらとも主人になろうと決意している場合には無理である。サタンはできれば主人になろうとし、キリストは主人になろうとしておられる。それゆえ、あなたはこの両者に仕えることができない。自分の罪を赦されたければ、自分の罪を離れなくてはならない。ジョン・バニヤン殿が、日曜の朝にエルストウ緑地で棒打ちをしていたときにやって来た声を思い出すがいい。彼は、1つの声がこう云うのを聞いたと思ったのである。「あなたはあなたの罪を離れて天国に行きたいか、それとも、自分の罪をかかえて地獄に行きたいか?」 もしあなたがまだ回心することも、決断することもしていないとしたら、この問題はあなたに突きつけられている。しかし、あなたのもろもろの罪を保ちつつ天国に行くという考えには、論外として締め出すがいい。そうしたことは、あってはならず、あることができず、あるはずがないからである。それはサタンによって提示された妥協案であるが、主はそれをお許しにならない。

 しかり。だがそのときサタンは、多少退却してから、こう云う。「よろしい。では、もちろん、私も、お前がはなはだしく重い罪を手放すべきでないなどと云ったつもりはない。だが、私はもう少し良いことを告げるつもりだったのだ。世を愛するがいい。そして、世の子らとともに生き、彼らの間で仲間と楽しみを見つけ、その一方でキリスト者でいるがいい。確かにお前だって、誰も彼も放り出すつもりではないだろう? 変人になってはならないことは分かるだろう? 完全に変わり者になってはならない。お前には沢山の陽気な仲間がいる。彼らをとどめて覚えておくがいい。もしかすると彼らは、あまりお前に善を施さないかもしれないが、よろしい。お前もあまり気難しく、杓子定規になってはならない」。それで彼は云う。「この世の中にい続けて、それでキリスト者になるがいい」。私は、この件に関する神のことばをあなたに告げるべきだろうか? 「もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません」[Iヨハ2:15]。これは、甘くはないが、生一本である。ある人は云うであろう。「よろしい。私はキリスト者になることにしよう。だが、私は自分の主たる楽しみと娯楽を、この世がそれを見いだす所で見いだすことにしよう」。左様か? 「私はキリスト者になることにしよう。だが、二兎を追って二兎を手に入れよう。日曜には教会で過ごすことにする。だが平日には、誰にも知らせずに、根っからのこの世の子らとつき合うことにしよう。私は、片方のかくしには賛美歌集を突っ込み、もう片方には骨牌札を突っ込んでおけるではないだろうか? そうすれば、この世を友としていながらも、天国へ行けるではないだろうか?」 否。それは不可能である。「わたしの民を行かせ、彼らをわたしに仕えさせよ」[出8:20]。これが神のことばである。「彼らをこの国内にとどめて、なおもあなたに仕えさせ、わたしにも仕えさせよ」、ではない。それはありえない。「世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか」[ヤコ4:4]。この聖句は、もう1つの鋭利な抜き身の剣であって、骨髄まで切り裂く。一部の信仰告白者たちは、それを自分の心臓そのものにまで感ずるべきである。というのも彼らは、あらん限りの手を尽くしても、なるべく境界線の近くまで行き、それでも希望を保っておこうとしているからである。あなたは、自宅がどのくらいの火事に耐えられるか試したいというだけで、できる限り自分の家を焼け落ちる寸前へと近づけようとする人についてどう思うだろうか? あるいは、致命傷を負うことなしにどれだけ耐えられるか見てみるために、自分を短刀で切り裂く人についてどう思うだろうか? あるいは、自分がどれだけの量の毒を飲めるか実験する別の人についてどう思うだろうか? 何と、こうしたことは愚劣のきわみである。だがそれも、どれだけ多くの罪にふけっても救われることができるかを試している人の愚劣さほど大きくはない。私は切に願う。そのように危険な実験を試みてはならない。「彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ。汚れたものに触れないようにせよ」*[IIコリ6:17]。おぞけを振るってサタンの昔ながらの妥協案を避けるがいい。この世を愛し、それでいて御父の愛を自分の中に有していられるなどと夢見てはならない。

 この手で成功しないと、敵は少し後退し、こう叫ぶ。「それは実に結構。今回はお前も、非常に忠実な教えを聞いているのだな。だが私の云うことも聞け! お前は自分ひとりで生きていても、キリスト者でいられるのだ。世俗的な連中の中に出かけて行ってはならない。むしろ、自宅で愉快に過ごすがいい。お前は自分の魂が救われることが望みなのだろう? よろしい。そのために生きるがいい」。これは、いやまさって陰険で、いやまさって醜い形の利己主義でしかない。全くましなものではない。「見るがいい」、とサタンは云う。「私はお前に、自分の金銭で放蕩しろとは云わない。金は使わず貧乏にしているがいい。けちけち倹約するがいい。誰もがお前の肩を叩いて云うだろう。『この人は自分のためになることをしてますな。正しいことをしてますな』。さあ、来るがいい。そして、キリスト教信仰のうまい汁を吸うがいい。もちろん、イエス・キリストを信ずるがいい。お前自身が救われるようにな。それからは、残る一生の間、お前を養うだろう説教を聞くように努め、お前を慰めるだろう信仰書を読み、信心深い連中の間で大物になるがいい」。何と憎むべき助言であろう! あなたは知らないのだろうか? 愛する方々。キリスト教の真髄は、人が自分を否定することにあるということを。自己は決して本来的には、人間の存在の究極の目的にも最大の目的にもなりえない。自己は実際、キリスト教信仰にとっては、霊的な形を吹聴する肉以外の何物でもない。もしある人が自分自身のために生きるとしたら、その人は、公然たる罪に繰り出した場合と全く同じくらい悪の霊の支配下にあるのである。それで、あなたはその中から出て来なくてはならない。利己主義は役に立たない。あなたは心を尽くして主を愛し、同胞の人々を愛さなくてはならない。この命令に対する従順がなくてはならない。「心を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。また、あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」*[ルカ10:27]。さもなければ、安全に出て来たことにはならない。このようにして、第一の妥協案は、全く通用しないことになる。

 第一の妥協案から押し返されたパロは、第二の妥協案を提示した。そして、これは8章28節に見いだされる。――

   「ただ、決して遠くへ行ってはならない」。

サタンは云う。「しかり。私もお前の良心の云うことは分かる。お前はこの世から出て行き、罪から出て行かなくてはならないのだな。だが、あまり遠くへ行ってはならない。お前は後戻りしたくなるかもしれない。それにはまず、それを公にしないことだ。教会に加わってはならない。羽目板の陰の鼠のようになるがいい。夜に食べ物をひとかけら手に入れる時以外には、表に出て来てはならない。バプテスマを受けて、教会に加入することで肩入れしてはならない。それほど深入りしてはならない。できるものなら、ほんのちょっと試すだけにして、ひた隠しにした信仰によって、必ず来る御怒りから救われるがいい。だが、誰にもそれを知らせてはならない。実際、『私はキリスト者です』、などと現実に云う必要はありえないのだ」。愛する方よ。これはサタンの奸知である。ある兵士が兵舎室に行ったとき、もしその人が神の子どもだとしたら、こう云うかもしれない。「私は膝まずいて祈らないことにしよう。なぜなら、仲間たちは私に、兵舎室でよくあるように、長靴を投げつけるだろうからだ。私のキリスト教信仰は私の心に秘めておこう」。その場合、この人は道を誤ることになるであろう。しかし、もしこの人が大胆にこう云うとしたらどうであろうか。「私は自分の旗幟を鮮明にしよう。私はキリスト者である。そして何が降りかかろうと、その点は決して譲るまい」。この場合、その人はしっかりと立つであろう。屈服の初めは水が吹き出すようなものである。誰も、いかなる洪水がやって来るかは分からない。これこそサタンがあなたがたの中のある人々に仕掛けることである。あなたが少しずつ倒れるようにするのである。それゆえ、彼の目論見を挫くがいい。大胆に出て来るがいい。あなたの十字架を取り、イエスに従うがいい。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます」[マコ16:16]。

 誘惑者は、こうも云う。「そんなに几帳面で杓子定規に構えすぎてはならない。清教徒じみた聖人君子よ。――よろしい。人々はお前たちに後ろ指を差すではないか。だから、お前がそれほど厳格にしている必要はない」。これは、こういう意味である。――あなたは、礼儀正しさに違背しない限り、好きなだけ罪を犯してかまわないのだ。つまり、あなたは徹底的に神に従うべきではなく、自分に好ましく思われるときだけ従うべきだ、ということである。これは神に対する全くの反逆である。これは決して通用しない。

 「よろしい」、と彼は云うであろう。「たとい相当几帳面になる必要があるとしても、それほど死物狂いに真面目になってはならない。そこを下ったタバナクルにいる連中たちの何人かときたら、四六時中、他人の魂に気を配り、誰にでもキリストを宣言しようとしているのだ。だが知っての通り、奴らは非常に独善的な連中で、随分とでしゃばりすぎの、狂信者だ。奴らに同調してはならない」。全くその通り。これはこういう意味である。立って主に仕えるがいい。なぜなら、お前はそれ以外にあえてできないというのだから。だが、決して主にお前の心をささげてはならない。決してお前の魂を主の御国の進展のために投じてはならない。これがサタンの云い草である。では、あなたは、このように反逆的な奉仕があなたを救うと思うだろうか? もしモーセが、ほんの少し荒野に入るだけでイスラエルは救われると考えていたとしたら、彼らをほんの少し荒野に入らせて、そこで一巻の終わりとなっていたであろう。しかしモーセは知っていた。神のイスラエルの利益をはかる唯一の道、それは、できる限りすっぱり遠くに出て行き、深い葦の海を彼らとエジプトの間に置くことしかない、と。彼は、何が起ころうとも、彼らが二度と再び後戻りすべきではないと知っていた。それでモーセは遠方まで出て行くことを強硬に要求した。それは私が、いかなる形で妥協するよう誘惑されている人にも、神の御名によって完全にキリストに肩入れせよ、と強く要求したい気持ちと同じである。

 「おゝ、しかし」、とサタンは云うであろう。「熱心でもありたいだと? よかろう、熱心になるがいい。もちろん、それは正しいに決まっているとも。お前のあらゆる行動において几帳面であることもだ。だが、いつも密室で祈っているような人々のひとりになってはならない。表立ったキリスト教信仰の告白には、特段に個人的な祈りだの、心を探ることだの、神との交わりだのは必要ないのだ。こうした事がらを続けるのは、骨が折れるからだ」、と彼は云う。「お前は内的な生活を保ち、きよい心と、揺るがない霊を持ち続けるのが困難だと分かるだろう。こうしたことは、なしですませるがいい。形式的な面にだけ注意を払い、忙しく活動的にしているがいい。それで通用するのだから」。しかし、それは通用しない。というのも、心と魂が神の御霊によって更新されない限り、あなたの形式面がどうあろうと大した問題ではないからである。あなたの魂そのものが、決して忘れられることのない永続的な契約によって神に結びついていない限り、あなたは神の前で失格者である。ある人がこう云えるとき、それは何という祝福であろう。――私はこうした妥協案とは関係を断っています。私は神に仕えつつ、この世の気に入られたいとは思いません。私が欲するのは、この世からほんの少しばかり出て行くことではありません。私は神に祈っています。私を永遠の離婚によってこの世から分離してくださるように。こう云ったときのパウロのようにです。「世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです」[ガラ6:14]。「これからは、だれも私を煩わさないようにしてください。私は、この身に、主イエスの焼き印を帯びているのですから」[ガラ6:17 <英欽定訳>]。幸いなことよ。天来の導きの下で截然と出て来て、永遠のカナンを求めるようになっている人は! その人の道は、安全で受け入れられる通り道である。だが、日和見をし、罪とサタンと談合を重ねる人々は、そこから災いが生ずることに気づくであろう。

 そこからも押し返された敵は、10章8節と11節で別の妥協案を示唆する。――

   「行け。おまえたちの神、主に仕えよ。だが、いったいだれが行くのか。……さあ、壮年の男だけ行って、主に仕えよ」。

しかり。これが彼の次の論点である。「しかり」、と彼は云う。「これで分かった。煎じ詰めればどうなるかはな。お前は、もはや決定的に追い詰められているのだな。――徹頭徹尾キリスト者でなくてはならないというのだな。だが、今」、と彼は云う。「それでお前の細君を煩わせてはならない。それを家庭に持ち込んではならない」。あるいは、彼はその婦人に云うであろう。「お前はキリストに従うべきだろう。そうしなくてはならないことは私にも分かる。お前はそうするように切迫しているようだ。だが、このことについて、お前の夫には決して何も話してはならない」。それは、パロの絶妙な考えではなかっただろうか?――成人の男だけを全員出かけさせ、女と子どもたちを自分の奴隷として残しておくのである。そして、それこそまさにサタンの考えである。「お前は自分のことなら、いくらでもあれこれ面倒を見るがいい。だが、お前の細君は――よろしい。彼女には彼女なりの生き方をさせておくがいい。お前の亭主は――その無宗教を続けさせておくがいい」。彼にはこのように答えよう。――「私と私の家とは、主に仕える」[ヨシ24:15]。そう古のヨシュアは云った。そして、この場にいるあらゆる人は云うがいい。あのピリピの看守に対するパウロの言葉を思い出すがいい。「主イエス・キリストを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」[使16:31 <英欽定訳>]。私たちは祈ろうではないか。私たちの家族全員がキリストのものとなることを。家人に対するあなたの影響力に応じて、自分の内側で云うがいい。「私の主よ。私は、家族の者がみなあなたの御足元に導かれるまで決して休みません。主よ。妻をお救いください。夫をお救いください。父をお救いください。兄弟たち、姉妹たちをお救いください! この者たちを奴隷状態から連れ出してください!」 これがあなたの心からの願いとなっていない限り、あなたはキリスト者ではありえない。自分の家の者らを心にかけていない者は、異教徒や取税人よりも悪いのである。

 そして、それから子どもたちである。「おゝ」、とパロは云う。「子どもたちは置いて行け!」 あなたには見てとれないだろうか? もし彼らがそうしたならば、彼ら自身が再び戻って来るであろうことを彼はよく知っていたのである。私たちの間にいる誰が、自分の妻子を奴隷の身にしたまま、荒野の中へ逃げて行くだろうか? 私たちは、彼らのもとに戻りたいと思うではないだろうか? 彼らの泣き声が聞こえるように思うではないだろうか? 彼らの愛しい顔をもう一度のぞき込みたいと思うではないだろうか? 彼らを奴隷のまま残しておく? おゝ、そんなことはできない! だがしかし、悲しみながら云わせてほしい。信仰を告白するキリスト者の多くは、あたかも自分自身は主のものとなろうと決心しているが、彼らの子どもたちはパロと悪魔に属すべきであるとでもいうかのように見える。例えば、ある男の子がそろそろ一定の年齢になろうとしているとする。うちの子は外国の学校に送ることにしよう。望むらくは、ローマカトリックの学校が良いだろうな。だが、それはその子のキリスト教信仰にとって有益だろうか? だが、もしその子がカトリック教徒になるとしたら、彼の愚かな父親は心が張り裂けんばかりとなるであろう。それは全部彼のせいではないだろうか? よろしい。女の子たちは、むろん社会に出なくてはならない。むろん「社交界に入らなくてはならない」。それで、あらゆる手を尽くして危険な場に送り込まれる。彼女たちが回心しそうもない場所、十中八九は陽気で、浮薄で、軽薄になるような場所へである。それから、男の子のためには1つの地位が世話される。いかにしばしば、主人がキリスト者であるかは何の問題にもされないことか! それは、その子が自分の品性に何の害も受けずに従事できるような職業だろうか? 「いいえ。でも、それは非常に活況を呈している業種ですし、激しい競争中の会社です。あれはそこで抜け目ない商売人になるでしょう。あれには、そこに行かせましょう」。左様。では、もし彼が永遠の破滅に行くことになったら? 悲しいかな、一部のキリスト者たちはそのことを考えない! 一部の信仰告白者たちの子どもたちは、この世のモレクにささげられている。私たちは、異教徒たちが自分の子どもたちを偶像への生け贄にすることを身の毛もよだつことだと考える。だがしかし、多くの信仰告白者たちはその子どもたちを、九分九厘破滅に至らせるような所に置くのである。そのようにしてはならない。悪魔によって、あなたがたの中のひとりでも、そうした妥協案に巻き込まれてはならない。むしろ云うがいい。「否、否、否。私の家は、神の助けがある限り、子どもたちの行く手に何の誘惑も置かないように営むことにする。私は彼らを罪の通り道に導くことをすまい。もし彼らが、彼らの父親の勧告や彼らの母親の涙にもかかわらず身を誤るとしたら、何と、それはしかたがあるまい。だが、いずれにせよ、私は彼らの血に責任を負うまい。というのも、私は彼らを邪道に導くような場所には置かないからだ」。確かに、こうした言明には非常に大きな重要性があるに違いないし、もしこれが誰かの心を非常に痛烈に切り裂き、その人が、「それはひどい個人攻撃です」、と云うとしたら、それこそ私が意図していることにほかならない。――それこそまさに私の目当てにほかならない。私は、このことをあらゆるキリスト者ひとりひとりの前に突きつけ、すべての人が、このことの是非を見てとり、こう決意するようにしたい。「私たちは、自分の妻たちも、私たちとともに神を礼拝しに行かせよう。彼女たちをも、私たち自身と同様にこのエジプトから出させよう。神の恵みが私たちを助けてそのことを成し遂げさせる限り、そうしよう」、と。

 さて悪魔はぎりぎりまで追い詰められている。ここでは、その人の全家がまっすぐ神に向かうと云い、その人は自分をささげて徹底的なキリスト者になろうというのである。今度は何だろうか? 「よろしい」、と敵はその10章24節でこう云う。

「行け。主に仕えよ。ただおまえたちの羊と牛は、とどめておけ」。

全くその通り。モーセはそれに対して何と云うだろうか? 「あなた自身が私たちの手にいけにえと全焼のいけにえを与えて、私たちの神、主にささげさせなければなりません。私たちは家畜もいっしょに連れて行きます。ひづめ一つも残すことはできません。私たちは、私たちの神、主に仕えるためにその中から選ばなければなりません。しかも私たちは、あちらに行くまでは、どれをもって主に仕えなければならないかわからないのです」[出10:25-26]。これこそ、天来の「徹底抗戦」の方針であったし、私はこれをあなたがたにも求めたい。サタンは云う。「お前の財産を神のために用いてはならない。お前の才質やお前の能力を用いてはならない。特にお前の金銭を主イエスのために用いてはならない。それはお前自身のために取っておけ。もしかすると、そのうちそれが必要になるかもしれない。お前自身の楽しみのためにそれを取っておけ。別の事がらにおいては神のために生きるがいい。だが、このことについては、お前自身のために生きるがいい」。さて、純粋なキリスト者は云うであろう。「私が私自身を主にささげたとき、私は主に私の持てるすべてをささげたのだ。頭の天辺から足の裏まで、私は主のものだ。主は私に命じておられる。あらゆる人々の前で正直に物事を手に入れ、家族の面倒を見るようにと。それで私はそのように行なうつもりだ。だがしかし、私は私自身のものではない。私は代価を払って買い取られているからだ。それゆえ、私には、こう感じることがふさわしいのだ。すなわち、私の有する一切のもの、あるいは、これから手に入れることになる一切のものは、主にささげられたもの、主に属するものであり、私はそれを主の家令として用いても良いが、自分の持ち物であるかのようにではなく、主の裁量により、主の命令によって用いるべきなのだ。私は自分の資産を悪魔のものとして残しておくことはできない。それは私とともに来なくてはならず、すべて私の主のものとならなくてはならない。それは、私と全く同じく、主のものだからである」。キリスト者はモーセが示唆したのと同じ方針を取る。「私は、自分が何をささげるよう求められるか分からない。私は、自分が主なる私の神にささげものをすべきであることは知っているが、それがどのくらいになるかは分からない。私は、貧者の必要、国中のキリスト教会の必要がどれほどであるか分からない。私は知らない。だが、このことは知っている。私の持てるすべてのものは、いつでも明け渡す用意ができている。もし私の《贖い主》がそれを欲しさえすれば、私はそれをささげるであろう。だがサタンがそれを欲しても、そのうち一銭たりとも有させはするものか。もし私に求められるもののうち、良いわざをもたらさないだろうもの――神の御前で正しいことを押し進めることにならないようなもの――が何かあるとしたら、私はそれを与えずにおく。しかし、もしキリストの栄光と、人々の善のためになる何かがあるとしたら、私に対する主の御助けに応じて、それを惜しみなく与えるであろうし、税金ででもあるかのように出ししぶりはしないであろう。私という存在のすべて、また、私が有するもののすべてを、ご自分の尊い血で私を買い取られたお方にささげることは、私の喜びであり私の楽しみとなろう」。

 さて、兄弟姉妹。あなたがた、キリスト者であると告白している人たち。来るがいい。正々堂々と、自分の持ち場に立ち、自分は完全に、全く主のものであると認めるがいい。

   「成し遂げられぬ、大いなる取引(わざ)、われは主のもの、主はわれのもの」。

「私の家は主のもの、私のすべては主のもの。私が生きようと死のうと、――働こうと苦しもうと、私という存在のすべて、また、私の持てるものすべては、永遠に私の主のものである」。これが平安に入るということである。これは実際、サタンの力からきれいに解放されることである。主の自由人となることである。そして、そこに残されているのは、カナンへ向かって前進する喜ばしい足取りのほか何があろうか? その足に履く靴は鉄と青銅、その糧は天からのマナ、その導き手は主ご自身であり、主の燃える雲の柱であり、その楽しみは主のうちにあるすべてのもの、そして、あらゆることに主を見いだすことである。これこそ真実な種類のキリスト者となることである。願わくは主があなたを、ご自分の愛する御子を信ずる信仰によって、そのような者としてくださらんことを! アーメン、アーメン。

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説教前に読まれた聖書箇所――出エジプト記8章、10章の抜粋。


『われらが賛美歌集』からの賛美―― 645番、656番、658番

 

すべてか無か[了]

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