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祭壇の角

NO. 1826

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説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1884年3月23日の説教


「彼は、『いやだ。ここで死ぬ。』と言った」。――I列2:30


 私たちは、この物語をあなたに告げなくてはならない。ソロモンはダビデの後に王になるはずであった。だが彼の兄アドニヤの方が、将軍ヨアブおよび祭司エブヤタルのお気に入りだった。それゆえ、彼らは共謀し、死にかけていたダビデを出し抜いて、アドニヤを擁立しようと図った。だが彼らはこのことに完全に失敗した。そしてソロモンが王位についたときアドニヤは、いのちを奪われるのではないかと恐れて、幕屋にあった祭壇の角に逃れて、難を避けようとした。ソロモンは、彼がそこに庇護を見いだすことを認め、その罪を赦してやった。そして、もし彼が立派な人物であれば、これ以上の苦悩を受けることなく生きられると云った。しかし、じきにアドニヤは再び策謀を巡らし始め、二人の老いた父親が死んだ後、卑劣な手段によってソロモンを間接的に攻撃しようとした。それゆえ、ソロモンは、東洋の考えに従えばなおのこと、大鉄槌を下す必要があった。そして、彼はヨアブから始める決心をした。――ヨアブこそ、諸悪の根元だったのである。彼は、ダビデの治世においてアブシャロムに従いはしなかったが、今はアドニヤに従っていた。王がこのことを決意するや否や、ヨアブは良心に責められ、わが身が危ないと逃げ出した。28節を読むがいい。「この知らせがヨアブのところに伝わると、――ヨアブはアドニヤについたが、アブシャロムにはつかなかった。――ヨアブは主の天幕に逃げ、祭壇の角をつかんだ」。思うに彼は、先にアドニヤがこのことを行なって首尾良く赦されたので、自分も同じことができるのではないかと考え、少しは助命の希望をいだいたのかもしれない。むろん彼には、聖所に入ったり、祭壇の角をつかんだりする何の権利もなかった。だが、絶望に駆られた彼は、他に何をすべきか分からなかったのである。彼は白髪頭の男で、三十年かそれ以上前に、2つの残虐な殺人を犯していた。そして、今やそれが彼の心に深く食い入っていた。彼は祭壇の角に逃れる以外の逃げ場を考えつけなかった。それ以前にはめったに近づかなかった場所である。私たちに判断できる限り、彼は存命中、信仰にはほとんど敬意を示したことがなかった。彼は粗野な軍人で、神にも、幕屋にも、祭司たちにも、祭壇にも、大した関心を寄せたことがなかった。だが、危険に陥ったとき、彼は自分が避けてきたものに身を寄せ、それまで無視してきたものを隠れ場にしようとした。彼は、それと同じことをした最初の人物ではなかった。ことによると、この場にいる幾人かの人々も、遠からずして、似たような手段によって差し迫る災厄から逃げようとするかもしれない。

 さて、私があなたに注目してほしいのは、ヨアブが主の天幕に逃げて、祭壇の角をつかんだとき、それは彼にとって何の役にも立たなかったということである。「ヨアブが主の天幕に逃げて、今、祭壇のかたわらにいる、とソロモン王に知らされたとき、ソロモンは、『行って、彼を打ち取れ。』と命じて、エホヤダの子ベナヤを遣わした。そこで、ベナヤは主の天幕にはいって、彼に言った。『王がこう言われる。「外に出よ。」』 彼は、『いやだ。ここで死ぬ。』と言った。ベナヤは王にこのことを報告して言った。『ヨアブはこう言って私に答えました。』 王は彼に言った。『では、彼が言ったとおりにして、彼を打ち取って、葬りなさい。こうして、ヨアブが理由もなく流した血を、私と、私の父の家から取り除きなさい。主は、彼が流した血を彼の頭に注ぎ返されるであろう。彼は自分よりも正しく善良なふたりの者に撃ちかかり、剣で彼らを虐殺したからだ。彼は私の父ダビデが知らないうちに、ネルの子、イスラエルの将軍アブネルと、エテルの子、ユダの将軍アマサを虐殺した。ふたりの血は永遠にヨアブの頭と彼の子孫の頭とに注ぎ返されよう。……』 エホヤダの子ベナヤは上って行って、彼を打ち取った。彼は荒野にある自分の家に葬られた」[I列2:29-34]。

 私は今回ぜひとも2つの教訓を教えたいと思う。第一の教訓のもととしたい事実は、ヨアブが神の家の祭壇の角をつかんでさえも、聖所から何の恩恵も得られなかったということである。ここから私は次のように判断したい。――種々の外的な儀式は何にもならない、と。ソロモンよりも偉大で全知であられる生ける神の御前では、誰が祭壇の角をつかもうと何の効力もないであろう。しかし第二に、1つの祭壇――1つの霊的な祭壇――がある。そこでは、もし人がその祭壇の角をつかんで、「いやだ。ここで死ぬ」、と云いさえすれば、決して死ぬことがない。むしろ、正義の剣に対しても永遠に安全となるのである。というのも、主は、ご自分の愛する御子イエス・キリストというお方のうちに1つの祭壇を指定し、いかに邪悪な罪人たちであれ、もし本当にそこにやって来てつかみさえすれば、避け所があるようにされたからである。

 I. それでは、まず第一に、《種々の外的な儀式は何にもならない》。祭壇の文字通りの角――現実につかめるもの――をつかんでも、ヨアブには何の役にも立たなかった。今も多くの人々が――おゝ、それはいかに多くの人々であろう!――自分は救われるものと希望しているが、それは彼らが、彼らの考えるところ、聖礼典によって、祭壇の角をつかんでいるからである。不浄な生き方をしている人々が、それにもかかわらず、聖餐の卓子のもとに来ては、祝福を期待して待つ。そうした人々は、自分がこの卓子の汚れとなっていることを知らないのだろうか? 何の権利もなしに神の民に入り混じることによって、重大な罪を犯しつつあること、神への悪事を行ないつつあることを知らないのだろうか? だがしかし彼らは、この極悪な行為を犯すことによって、自分に安全を確保しているものと考える。この町では、それがいかにありふれたことであろう。無宗教の人々が死にかけているとき、誰かがこう云うのである。「おゝ、何の心配もありませんとも。聖職者がやって来て、この人に秘跡を授けてくれましたからね」。神のしもべと自称する者たちが、このようにあえて主の定めの神聖を汚せることに、私はしばしば驚かされる。彼は、この主の晩餐というほむべき記念を、一種の迷信的な臨終の聖餐にしようとしていたのだろうか? 不敬虔な人々が最期の最期により頼めば、罪を取り去ることができるものなどにしようとしていたのだろうか? 私は、こうしたあわれな、無知で迷信深い人々が、その臨終の時に聖礼典を求めることを責めるよりは、それより格段にものを知っているはずの人々が、紛れもなく迷信めいたものに迎合することを、倍増しで責めるものである。その迷信ぶりは、ローマ教会から出てきたいかなるものにも、あるいは、その点に関しては、最も迷妄なアフリカ土人部族の呪物的な礼拝から出てきたものにも劣っていない。あなたは、恵みがパンのひと口や、葡萄酒の雫によって人々にもたらされると思い描いているのだろうか? これらは、主イエス・キリストの記憶を私たちに銘記させるためのものであり、そうする限りにおいては、また、主を思う私たちの思念を活性化する限りにおいては、私たちにとって有用である。だが、この2つの象徴には、恵みの1つの形を魔法的に、あるいは、呪術的に伝えるような、いかなるものも結びついていない。もしあなたがこうした事がらにより頼んでいるとしたら、それは、次のように云う迷信と同一だとしか云えない。「わがバプテスマにおいて、われはキリストの肢体、神の子、また、天国の世継ぎとされたり」。この言明は完全に偽りである。その上これは、その迷妄の上塗りとして、神の生きた子どものためのものとして意図された1つの儀式を卑劣な目的に供し、それを不敬虔な者、無知な者、迷信深い者に与えるのである。あたかも、それが彼らを天国に入るにふさわしい者にできるかのように。私は、主の御前にいるのと同じ思いで、あなたに命ずる。この迷信を洗い落とすがいい。主イエス・キリストを信ずる信仰を抜きにして、いかなる救いもない。そして聖礼典に信頼するくらいなら、自分のもろもろの罪に信頼するも同じである。事実、聖礼典は、それらに信頼する人々にとって罪となる。というのも、こうした人々は、主の儀式に対して罪を犯し、それらを決して置かれてはならない所に置き、それらによって反キリストを作り出し、自らの洗礼や弥撒によってキリストをそのおるべき地位から追放しているからである。たといあなたがたが聖礼典のパンを口にしながら死ぬとしても、あなたがたの信仰が主イエス・キリストにだけ置かれていない限り、あなたがたは失われるであろう。迷信的に祭壇の角に置かれたあなたの手は、あなたの反逆の武器に置かれているも同然であろう。外的な象徴は、あなたが世的な者であり続ける限り、あなたに何の善も施さない。キリストに対する信仰がなければ、神の儀式でさえもあなたを罪に定めるものとなる。もしみからだをわきまえないで飲み食いするなら、あなたの飲み食いがあなたを審くことになる[Iコリ11:29]。それが正しいとしたら、いかにして未回心の未信の者が、自分の全くあずかる資格もない外的な儀式に信頼を置くなどということをあえてするのだろうか?

 他の人々は、自分の信頼を多種多様な宗教的義務の遵守に置く。彼らの目に見える祭壇の角は、彼らが非常に適正で正しいと信じているものである。そしてそれらは実際、賢く用いられれば確かに適正で正しいものである。合法的に用いられれば良いものだからである。だが、もしそれがしかるべき場所から外れたところに置かれると、それは彼らの破滅となるであろう。例えば、疑いもなく、ある人々は、自分が説教を聞きに常に通っているから、万事問題ないと思っている。さて、このことにおいてあなたは立派なことをしている。「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによる」[ロマ10:17]からである。だが、もしあなたが、単に説教を外的な耳で聞くだけで救われることができると考えているとしたら、あなたは真実でないことを考えているのであり、自分の希望の家を砂の上に建てているのである。「おゝ、先生。私は、この長年の間、会衆席に着いては、私たちの主イエス・キリストのまことの福音を聞いてきたのですよ」。しかり。そして、その長年の間、あなたは福音を拒絶してきたのである。神の国はあなたの近くに来ていたが、残念ながら、これはあなたの不信仰ゆえに、あなたの断罪に役立つことになるのではないかと思う。というのも、それはあなたにとって死から出た香り[IIコリ2:16]となるからである。残念ながら、最後の大いなる日には、私があなたがたの中のある人々にみことばを語ったことが、あなたを害していたことが明らかになるのではないかと思う。だがもし私がみことばの宣言において忠実であったとしたら、その責任は私にではなく、あなたにあることとなるであろう。おゝ、願わくは神が、あなたがたの中のいかなる人々をも、単にみことばを聞くことに些少の信仰も置かないようにしてくださるように! あなたがたがそれを信仰によって受け入れるのでない限り、あなたがたは自分の魂を欺いているのである。もしあなたがただ聞くだけの者[ヤコ1:22]であったとしたら、そこからいかなる善が生じるだろうか?

 「おゝ、ですが」、と別の人は云うであろう。「私は祈祷会に出席しています」。私も、偽善者がみな祈祷会に定期的にやって来ようとするものでないことは認める。だが、そうする者もいる。そして、あなたがいかに祈祷会を好んでいようと、それでも、私の愛する方々。あなたについて、「見よ。彼は祈っている」[使9:11 <英欽定訳>]、と云われることができない限り、あなたは必ずしも自分の安泰を確実にしたことにはならない。祈りが常にささげられている場所にあなたがいても、それは、恵みの真のしるしでないことがありえる。「あゝ、ですが、私はそれ以上のことをしています。私は自分の家で家庭礼拝をしているのですから」。しかり。それも、非常に天晴れなことである。願わくは、すべての人が同じようにしてほしいと思う。誰かが家庭礼拝という定めをないがしろにしていることは私を嘆かせる。だがしかし、もしあなたが、一定の形式の祈りを自宅で読み上げることを、あるいは、自由形式の祈りをささげることでさえ、救いのためにより頼むべきことと考えているとしたら、それは大変な間違いである。「信じる者は永遠のいのちを持ちます」[ヨハ6:47]。だが、主イエス・キリストを信じていない者は、神に対して不信の祈りしかささげていない。そして、それは神が受け入れることのおできにならない、むなしいいけにえでなくて何だろうか? おゝ、外的な礼拝の習慣により頼んではならない。さもなければ、あなたは葦によりかかることになろう!

 「しかし、私は規則正しく聖書を一章ずつ読んでいます」、とある人は云うであろう。私は、あなたがそうしていることを非常に嬉しく思うし、願わくは神がその章をあなたにとって祝福としてくださるように! 私は、あらゆる人が規則正しく聖書を読み通し、それを理解するよう努めてほしいと思う。だが、もしあなたが自分の聖書通読を救いの根拠としてより頼むなら、単なる石鹸の泡により頼んでいるのであり、それはあなたの重みの下ではじけるであろう。主イエス・キリストを信ずる信仰は、魂の中で心を一新させ、神に対して新しく生まれさせるものだが、これこそ求められるものである。そして、それを抜きにして、あなたがいかに聖書を読んでいようと、それはいかなる善もあなたに施せない。「あなたがたは新しく生まれなければならない。あなたがたは新しく生まれなければならない」*[ヨハ3:7]。もしそこにこの内的な変化がないとしたら、いかなる外的な恭順もむなしい。あなたは死体を洗い、その死体に、これまで織られた中で最も純白の屍衣を着せることはできるが、すべてがなされたときも、それがいのちを持つことはない。そして、肉的な人が外的に行なう信心の勤めなど、罪の中に死んでいる人々に対しては、何のいのちももたらさない死んだ事がらでなくて何だろうか?

 一部の人々は実に愚かなことに、自分の信頼を教役者たちにかけている。私にとって世界中で最も狂気じみたふるまい、それは自分の救いを助けるものとして少しでも私に信頼を置くことである。そして私は、誰もそのような愚か者ではないものと信じたい。私は自分自身すら救えないのに、他の人々のためになど何ができようか? 「油を少し私たちに分けてください」[マタ25:8]、と云って私のもとに来てはならない。というのも、私は、自分の分すら絶えず供されるよう願い求めていなければ、到底足りなくなるからである。外国によくいるような、誰かが頼りにしている司祭たちを見ると、彼らは非常に立派な徒輩かもしれない。だが彼らの中の何人かには、私の魂はおろか、半クラウン銀貨も預けたいとは思わない。ほとんどの司祭たちの風采を見ると、彼らがいかにして民衆の心を鷲掴みにしていられるのかが不思議でならなくなる。彼らは非常に多くを知っているかもしれないが、分別に満ち満ちているようには見えない。私は、これまで生きたことのある最上の叙任を受けた司祭や司教の手にも自分の魂をゆだねるくらいなら、赤い外套を着た流浪民の手にねだねたいと思う。神と人との間の仲介者は唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスである[Iテモ2:5]。そして、それ以外の仲保者を立てる者は魂の敵である。私たちの魂の問題をゆだねられるお方はひとりしかいない。すなわち、主イエス・キリストである。災いなるかな、もし私たちが自分の信頼を人々にかけるとしたら! 叙任されていようがいまいが、頭髪を剃っていようがいまいが、人は私たちの助けとならない。だが私は人々が愚かきわまりないしかたで教役者たちを信頼することを知っている。何年も前のことになるが私は、今は取り壊されてしまった、ロンドン橋鉄道駅からさほど遠くない所にあった家の中に、午前三時に立っていた。ひとりの相当な資産家の紳士が、日曜にブライトンの海水浴場で過ごした後で自宅に帰るや、突如として虎列剌に罹り、人事不省となったのである。彼は死の苦しみにあえいでいたが、ぜひとも私を呼んでくるように云った。それで私は自分に何が求められているかも知らずに出かけた。しかし、私がそこに着いたとき、私に何ができただろうか? 彼にほとんど意識はなかった。そして私は彼にイエスについて語った。私は彼に聖書を持っているかどうか尋ねた。家の者たちは、家中を捜したが、そのようなものは見つからなかった。じきにその精神は、それ以上何も理解できない混濁に陥ってしまった。その家を辞去する際、私は尋ねた。「この方は、礼拝所に一度でも来たことがありますか?」 否、一度もなかった。――そのようなことには決して関心を払ったことがなかった。しかし、病を得るや、「おゝ、スポルジョン先生を呼んで来てくれ!」 スポルジョン先生が来なくてはならない、他の誰かであってはならない。そして、そこに私は立っていた。だが何ができただろうか? また、さほど遠くない昔に、ロンドン市中で、ひとりの富裕な商人が死んだ。そして、死期が近づいたときに彼は、それまで一度も面識のなかった私を執拗に呼び寄せたのである。私には行くことができなかった。弟が彼に会いに行った。そして、彼の前で救いの道を述べてから、こう尋ねた。「なぜ兄に会いたいと願われたのですか?」 「そうですな」、と彼は答えた。「知っての通り、わしは医者を必要とするときには、最上の医者に診てほしいのですよ。弁護士を雇うときには最高に腕利きの者を雇いたいのです。金に糸目はつけません。わしは、あたう限り最高の助けを得たいのです」。あゝ! 私はそのようにみなされていることに、ぞっと身震いした。彼に得られる最高の助けとは! その最高とは無なのである。――無にも劣る者、空なのである。もしあなたが私たちの《救い主》を得ていないとしたら、話をお聞きの愛する方々。私たちがあなたに何をできるだろうか? 私たちは突っ立って、あなたのために涙し、あなたが主を拒絶したことを思って心痛めることはできる。だが、私たちに何ができるだろうか? おゝ、もしあなたを天国に入れることのできる力が私たちにあったとしたら、もし私たちがあなたの心を新しくできたとしたら、いかなる喜びをもって私たちはその奇蹟を行なうことであろう。だが、私たちはそのような力を持っていると申し立てはしない。そのような影響力はない! キリストのもとに行くがいい。そして、この真の祭壇の角をつかむがいい。だが、私たちを、あるいは、他のいかなる教役者たちをも信頼するほど愚かになってはならない。

 「あゝ、よろしい」、とある人は云うであろう。「私はそうしたことにとらわれてはいません。私は信仰を告白する者ですし、ある教会の教会員として、もう二十年になりますよ」。あなたはある教会の教会員として五十年になるかもしれないが、キリストのからだとなっていない限り、最後には罪に定められるであろう。たといあなたが教会の役員や、執事や、長老や、牧師や、主教や、カンタベリー大主教でさえあっても関係ない。たといあなたが使徒であっても、あなたの心が神と正しい関係にない限り、自分の《主人》を裏切ったユダと同じくらい確実に滅びるであろう。私は切に願う。自分の信仰告白に何の信頼も置いてはならない。あなたが自分の心にキリストを有していない限り、信仰告白は、地獄に行く魂が身にまとう、けばけばしい虚飾でしかない。死体が、風に揺れる羽飾りをつけた馬たちによって墓場まで引かれていくように、あなたも、外的な信仰告白という華美なものを身につけたまま、永遠に失われることがありえる。神が私たちをそれから救ってくださるように!

 「いいえ」、とある人は云うであろう。「ですが私は、単に信仰告白により頼んでいるのではありません。私は正統信仰に大きな信頼をいだいているのです。私には健全な教理があります」。それは正しい。愛する方よ。私はあらゆる人々に真理を尊んでほしいと思う。「私が頼みの綱としているのは、自分が健全な教理を信じているということです」。それは私の頼みの綱ではない。愛する方よ。そして、ほどなくあなたのものでもなくなることを願う。というのも、多くの失われた魂たちは、正統的な教理を堅く信じていたからである。事実、私は問いたい。いかなる者が悪魔以上に正統的であるかを。というのも、悪霊どもも信じて、身震いしているからである[ヤコ2:19]。サタンは決して懐疑主義者ではない。そうなるにはあまりに多くの知識を有しすぎている。悪霊どもは信じて身震いしている。だがしかし、それでも悪霊なのである。あなたが正統信仰を有しているという単なる事実に決して信頼を置いてはならない。あなたはキリストを信ずる信仰を持たなくてはならない。さもなければ、あなたが自分の手を置いている、この正確な信条という祭壇の角は、あなたに何の救いももたらさないであろう。

 私はこの話題をこれ以上詳しく述べるまい。キリストの血と義を抜きにして、あなたが何により頼んでいようと、そのようなものは失せよ! 失せよ! たといあなたがより頼んでいるものが、あなた自身の悔い改め、あなた自身の信仰であってさえ、それらは失せよ! もしあなたが自分自身の祈りや慈善に依存しているとしたら、私はもう一度叫ぶしかない。――そのようなものは失せよ! イエスの血だけである。かの贖罪の犠牲だけである。もしあなたがやって来て、その上にあなたの手を置くならば、あなたは祝福されるであろう。

 II. 確信は、私たちの講話の第二の部分である。そのことについては手短に語ることにしよう。《霊的な祭壇のもとに来て、自分の手をその上に置くことによって、私たちは救われる》

 さて、最初に注意したいのは、この行為そのものである。ヨアブは幕屋の内側に入った。そのように、あわれな魂よ。来て、キリストのうちに身を隠すがいい。ヨアブは、祭壇の四隅から突き出している角をつかみ、引き離されまいとした。来るがいい。おののいている罪人たち。そしてキリスト・イエスをつかむがいい。

   「わが信仰は 手を置きぬ
    汝れが尊き みかしらに。
    悔いる思いを もちて立ち
    われはわが罪 告白(あらわ)さん」。

あなたの信仰の手をもって、あなたの主の上によりかかり、云うがいい。「このキリストは私のものです。この罪のためのいけにえは私のものです。私はそれを神から私への賜物として受け入れます。全くふさわしくない私ですが」、と。

 それがなされたならば、猛烈な要求があなたに突きつけられるかもしれない。敵はおそらくこう叫ぶであろう。「外に出よ! 外に出よ!」 自分を義とする者は云うであろう。「お前のような罪人がキリストにより頼む何の権利があるのか? 外に出よ!」 ぜひとも彼らにはこう云うがいい。「いやだ。ここで死ぬ」、と。あなたのもろもろの罪と、あなたの咎ある良心は、あなたにこう叫ぶであろう。「外に出よ! 外に出よ! お前がキリストをつかんではならない。見るがいい。お前が今まで何をしてきたか、今のお前がどのような者か、これからのお前がどのような者になるかを」。こうした声にも答えるがいい。「いやだ。ここで死ぬ。絶対にキリストを手放したりするものか」、と。サタンがやって来て、怒鳴りつけるであろう。「外に出よ! お前が主イエス・キリストに何の権利を持っているのか? お前ごとき失われた者のところにキリストがやって来るなどと考えることができるものか」。耳を貸してはならない。悪魔が怒鳴るたびに、こう自分に云い聞かせるがいい。「いやだ。ここで死ぬ」、と。私は神に祈るものである。この場にいるあらゆる罪人が、この必死の決意へと至らされるようにと。「もし私が滅びるとしたら、私はイエス・キリストの血と義に信頼しながら滅びよう」。というのも、疑いもなく、私たちはそれ以外のどこにあっても死ぬに決まっているからである。もし私たちがイエス以外の何かを信頼するとしたら、滅びなくてはならない。「だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできない」[Iコリ3:11]。「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は」、――他の何を頼りにしていようと、――「神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている」[ヨハ3:18]。ならば、この必死の決意を固めるがいい。――

   「われ死ぬべくば ここにて死なん、
    この十字架の かげにぞおらん。
    誰(た)ぞ、また何処(いずこ)ぞ、われ逃ぐべきは、
    余(ほか)のいずくに われは頼らん?」

あなたを呼んで引き離そうとするあらゆる者に云うがいい。「いやだ。ここで死ぬ」、と。というのも、いかなる者もイエスを信頼しながら滅びたことはないからである。ある魂が、咎にまみれ地獄に値するものでありながらもやって来て、キリストを自らの救いとして受け取った後で、投げ捨てられたという事例は、この代々の世紀を通じて、ただの1つもなかったからである。もしあなたが滅びるとしたら、あなたは自分の手でキリストをつかみながら滅びた最初の者となるであろう。だが主の愛と力は、決して罪人の信頼を裏切ることがありえない。それゆえ、願わくは聖霊なる神があなたを導き、こう決心させてくださるように。「われ死ぬべくば ここにて死なん」、と。よく聞いてほしい。魂よ。この群衆の中にいるあなたがいかなる者であろうと、男であろうと女であろうと、また、これまでいかなる人生を送ってきていようと、たといそれが遊女や盗人、酔いどれ、放蕩者の人生であろうと、もしあなたがいま主イエス・キリストを信じるなら、あなたは救われる。というのも、そうでない場合、神ご自身がその最も偉大なご計画を仕損じることになるからである。神がイエスをお与えになったのは、罪人たちを救うためでなくて何だっただろうか? 神が罪をイエスの上に置かれたのは、それを罪人から取り除くため、また、罪人を自由にし、解放するためでなくて何だっただろうか? ならば、もしキリストが失敗するとしたら、神の壮大きわまりない手段が頓挫したのである。主が、ご自身の全能の恵みに何ができるかを示す手段にしようと決意されたものが、もし信ずる罪人が救われなければ、失敗品になるのである。そのようなことがありえると、あなたは思うだろうか? エホバが敗北を喫しうるなどと考えるのは冒涜である。キリストを信ずる者は救われるはずである。否。救われているのである。

 もしあなたがキリストを信じても救われないとしたら、キリストご自身に不名誉が帰される。おゝ、地の底の、あの堕落した霊たちの暗黒の住まいで、それがいったん知られたとしてみるがいい。ある人がキリストを信頼したが、救われなかったと知られたとするがいい。あなたに云うが、こうした霊どもは、サムソンの目がえぐられるのを見て囃し立てたペリシテ人と同じくらい、キリストについて大喜びするであろう。彼らは自分たちが《栄光の君》を打ち負かしたと感ずるであろう。主の血を足で踏みにじり、人々の《救い主》であるとの主の主張を嘲るであろう。もしいずれかの魂が死後、真実にこう云えるとしたらどうであろう。「私はキリストのもとに行ったが、キリストは私を拒んだのだ」。その場合、キリストはこう仰せになるとき真実を語っていないのである。「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」[ヨハ6:37]。では主は、ご自分の性質を変えてしまい、ご自分の約束を忘れ、偽証したことになる。しかし、それもまたありえないことである。それゆえ、愛する心よ。イエスにしがみついて、やはり云うがいい。われ死ぬべくば ここにて死なん」、と。

 さらに、もしあなたがキリストに信頼しながら滅びうるとしたら、あなたによって、神の聖徒たち全員が落胆させられてしまう。というのも、もしキリストがあるひとりの人に対して御約束を破ることがありえるとしたら、なぜ別の者に対して破らないことがあろうか? もしある約束がかなえられなかったとしたら、なぜすべての約束が確かでありえようか? もしかの血がその効力を失ったとしたら、いかにして私たちの中の誰かが天国に入ることなど望めるだろうか? 私は云うが、もしそれが本当だとしたら、それはあらゆる人々の心に大きな落胆を生むことであろう。というのも、あなたの同胞たる罪人たちの上に、いかに白けきった気分が広がることか! たとい彼らがキリストのもとに来つつあるとしても、彼らは後ずさりして云うであろう。「こんなことをして何になるのか? ここにいる人はキリストのもとに行ったのに、キリストは救わなかったのだ。尊い血とやらに信頼したのに、その罪は本人に置かれたのだ」、と。もしひとりがしくじったとしたら、なぜ残りの者がそうならないだろうか? 私は、誰かひとりでもイエスを信頼していたのに救われなかった人がいると一度でも聞いたとしたら、福音の説教をやめるに違いない。というのも、今しているような大胆さをもって語ることが怖くなるはずだからである。

 もし自分の信頼をキリストに置いたあわれな魂が1つでも捨てられるとしたら、それは天国そのものをだいなしにしてしまうであろう。真実で、契約を守られる神の約束がなかったとしたら、栄化された霊たちがその光輝を永遠に輝かすべき、いかなる聖域があるだろうか? ならば、もしも彼らがその天界の持ち場から見下ろしている前で、大いなる御父がその約束を破り、神の御子がそのために死んだ者たちを救うことがおできにならなかったとしたら、彼らは云うであろう。「私たちは、私たちの立琴を脇へ置き、私たちの棕櫚の枝をしまい込もう。私たちも結局は滅びるかもしれないのだもの」。ならば、見るがいい。おゝ、人よ。天と地が、左様。神とそのキリストが、その信用とその栄光にかけては、あらゆる信ずる罪人の救いによって立ちも倒れもするのである。もし私が今晩あなたの立場にあるとしたら、私は神がこの件をこれほど平易に私に対して示してくださったことで、神をほめたたえるはずだと思う。もし私が、何年も前の、自分が罪意識の下にあったときに、このようにあわれな説教でさえ聞いていたとしたら、私はその喜びに躍り上がり、たちまちキリストに自分を賭けていたはずである。来るがいい。あわれな魂よ。今すぐ来るがいい。あなたは十分に長く福音を聞いてきた。今それに従うがいい。あなたは十分に長くキリストについて聞いてきた。今キリストに信頼するがいい。あなたは招かれ、懇願され、切々と訴えられてきた。いま主の恵みに屈するがいい。主に信頼することによって、喜びと平安に屈するがいい。主は、ご自分にあなたがより頼むや否や、その2つをあなたに与えてくださるであろう。

 仰ぎ見よ! 罪人よ、仰ぎ見よ! あなた自身からイエスに目を向けるなら、あなたは救われるであろう。あなたのあらゆる行ない、祈り、涙、感情、教会出席、会堂出席、聖礼典、教役者たちから目を離すがいい。ただイエスを仰ぎ見よ。ただちにイエスに目を向けよ。血塗られたあの木の上で、罪の償いを成し遂げてくださったお方に。あなたに仰ぎ見よと命じておられるお方に。そうすれば、あなたは生きる。

 願わくは神が、この現在の時を、あなたの新しい誕生の時期としてくださるように。私は祈るし、神の民も祈っている。主が私たちのとりなしに耳を傾けてくださるように。キリストのゆえに。アーメン。

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説教前に読まれた聖書箇所――詩篇61篇、62篇


『われらが賛美歌集』からの賛美―― 560番、589番、514番


スポルジョン氏からの手紙

 愛する方々また兄弟たち。――私は毎週報告することが期待されているが、そうするための余地がここしか残っていなかったために、この近況報告は短いものとなるであろう。天候は不順、快復は順調なれども速やかならずである。私は些細なことですぐに抑鬱してしまい、自分の将来の働きについて悲観的に感じてしまう。ということは、休養によって具合は相当に良くなってきているが、まだまだ完治までには遠いと思われる。とはいえ、これまでの三週間がこれほど驚くべきことを成し遂げたからには、私はしかるべきときには完全な活力とともに復帰できるものと希望している。

 タバナクルの特別集会のことは、絶えず心に覚えている。そのため、あらゆる読者の方々に毎日祈ってほしいと願うものである。

C・H・スポルジョン
マントン、1886年2月21日。

 

祭壇の角[了]

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