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聖徒たちの霊廟のための碑文

NO. 1825

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1885年3月1日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1884年5月8日の説教


「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています」。――ヘブ11:13、14


 「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました」。信仰者たちは、彼らだけで1つの種別をなしている。――「これらの人々」である。彼らはひとり離れて住み、おのれを諸国の民の1つと認めない[民23:9]。この世には数限りない区別が見られるが、それらを神は一顧だにされない。神の御前では、ユダヤ人も異邦人もなく、奴隷も自由人もない[ガラ3:28]。しかし、人々がほとんど考えもしていない1つの区別があり、それに神は大いに注目しておられる。それは、信ずる人々と信じない人々との間の区別である。信仰は、その境界を人に越えさせる最も有効なものである。というのも、それは人を闇の中から驚くべき光の中に、また、サタンの支配から神の愛する御子の御国の中に連れ込むからである[Iペテ2:9: コロ1:13]。天の下で最も重要なことは、自分が神を信じていると知ることにほかならない。聖霊は信仰者たちだけをひとまとめにし、彼らのことを「これらの人々」と語っておられる。

 信仰者たちが彼らだけで1つの種別をなしているのは、死ぬときでさえ変わらない。墓地の中に、聖徒たちのほか誰ひとり眠っていないような区画を設けられると考えても意味はない。だがしかし、そうした愚考の根底には1つの真理がある。死においてすら、義人と悪人はある意味で分離しているからである。主は、ご自分の民のからだが横たわって眠る、1つの霊廟を立てておられるように思われる。そして主は、その正面にこの墓碑銘を刻んでおられる。「《これらの人々はみな、信仰の人々として死にました》」。信仰なしに死んだ人々も、実際に死にはした。だが主の民について云えば、栄光に富む復活が彼らを待っている。

   「イェスにて眠る 幸(さち)いかに、
    そのまどろみぞ げにも嬉しき」。

神の民の特徴は、彼ら独特のものである。彼らはみなこの点において似ている。彼らはみな、信仰の人々として生き、そして死んだ。彼らは全員が同等の信仰者ではなかった。ある者らは信仰において強く、別の者らは弱かった。だがしかし、彼らはみな信仰を有していたし、信仰は最後まで彼らの内側からなくならなかった。それで、例外なしに、――「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました」。

 私たちが第一に語りたいのは、信仰の人々として死ぬということである。第二に、彼らがいかなる信仰によって死んだかということである。第三に、信仰の人々として生きるということについてである。というのも、それがこの聖句で言及されているからである。彼らは、「地上では旅人であり寄留者であることを告白していた」。それから第四に、彼らがいかなる信仰によって生きたかということについてである。――「彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています」。

 I. まず第一に、ここには、《信仰の人々として死ぬ》ことがある。これはどういう意味だろうか?

 それはこういう意味ではないだろうか? 彼らが死に臨んだとき、信仰を探し求めることはなかった。むしろ、生きている間に信仰を有していたため、死ぬときも信仰を有していた。私は、死の床における悔い改めについて何の意見も述べようとは思わない。人々の話を聞くと、審きはあまりにも血生臭いという。判決はあまりにも峻厳すぎるという。私たちがほとんどものを知らないところでは、ほとんどものを云うべきではないが、ただこのことだけは云える。私は、病床に就くとき、いわんや臨終の床に就くとき、そこで《救い主》を探し求めたいとは思わない。種々の苦痛や死の闘争は、人の思念をことごとく塞いでしまうに足るものである。しばしば起こることだが、病気によって頭脳は調子を狂わされ、以前は明晰な判断をしていた人もそのときにはほとんどものを考えられなくなる。あなた自身、人々が口を利こうとしても利けない状態のまま世を去っていくのを目にしたことがあるに違いない。たとい少しは意識があったとしても、それを意識があるとはほとんど云えない。いくら手を握っても、旧友が私を認めてくれた徴候を何1つ示さないことがあったではないだろうか? その耳に言葉を語りかけても、それに耳を傾けることも、答えることもなかったことがあるではないだろうか? 時として、友人たちはこう云ってきた。「先生のことは分かるみたいですよ。他の誰かれの見分けはつきませんけども」。そして、確かに、瞼が持ち上がることや、手が動くことはあったため、私も、精神が引きこもってしまった、この暗い奥底を自分の声が刺し貫いたのだと感ずることはあった。しかし、人がこのような状態にあるとき、私は深い奥義について、否、単純な信仰についてすら、何が云えただろうか? 私たちが、多くの場合にこう歌えたことは、大きな喜びであった。

「成し遂げられぬ、大いなる取引(わざ)」

というのも、そうした折にそれがなされえたという希望はほとんどなかったからである。愛する方々。もしあなたがたの中の誰かが今ぐずぐずしているとしたら、あなたに警告させてほしい。そうしていてはならない! もしあなたについて、信仰の人として生きていると云えないとしたら、いかにして信仰の人として死ぬと云えるだろうか? 先頃、見るからに旺盛な健康の持ち主であった、私の友人のひとりが、この町の人通りの多い通りで倒れて死んだ。別の人は、私たちの教会の集会にやって来たが、その帰り道に、鉄道駅の待合室で死んでしまった。こうしたことが、あなたがたの中の誰かに起こったとしよう。実際にそれは起こっていたかもしれない! では今頃あなたはどこにいただろうか? 主の御名をほむべきことに、あなたはいのち長らえている。さもなければ、あなたはいかなる警告や招きの声も届くことがありえない所にいたことであろう。むしろ、そこでは暗闇と、死と、絶望が永遠にあなたを包んでいたことであろう。

 この聖句で言及されている聖徒たちは、信仰を探し求める必要がなかった。彼らは死に臨んだときには、それを有していた。

 しかしながら、彼らは信仰を有していたが、やはり死んだ。というのも、信仰が私たちに与えられているのは、死を免れるためではなく、信仰の人々として死ぬためだからである。私が出会ったことのある一、二名の友人たちは、自分が決して死なないと信じていた。だが結局は死ぬこととなった。ひとりの兄弟は、しばしば私に親切な手紙を送ってくれては、私が信仰者の死について語ったことに抗議するのだった。というのも、彼が確言するところ、彼は決して死ぬことがなく、もしある信仰者が死ぬとしたら、それはその人自身のせいだ、その人が罪に陥ったに違いないからだ、というのである。だが彼の理論にとっては具合の悪いことに、こうした聖徒たちはみな「信仰の人々として死にました」。私たちの信ずるところ、何千、何万、何千万もの真の、強壮な信仰者たちが死んできた。そして、私たちも、主がおいでにならない限りは、それと同じ暗い死の流れを辿ることになると予期するものである。

 このことによって証明されるのは、必ずしも神は常に、健康回復を願う私たちの祈りをお聞きにはならないということである。私たちが互いに集まって、ある病人のために祈るなら、その人は必ず快復する、といっては真実でない。いかなる信仰者も、死ぬときには死ぬ。というのも、あらゆるキリスト者である人は、自分の快復のために祈ってくれるキリスト者の友人を何人かは見つけられるからである。それゆえ、もし神がこのようにご自分の全能性を脱ぎ捨て、それを私たちに着せかけてくださったとしたら、私たちは自分の愛する友人たちをメトシェラ[創5:27]ほどにも地上に留まらせ、誰も死ぬことはなくなるであろう。私たちの兄弟や姉妹が世を去ことを許すのは、なかば殺人の一種となるであろう。それは、祈りをおこたることによって、いのちを滅ぼすこととなり、ある程度まで殺人となるであろう。感謝すべきことに、神は私たちにそのような力を賦与されなかった。というのも、それは私たちの中の誰が持ち歩くにも非常に危険な特権となったであろうからである。あなたはこう云われたいだろうか? あなたのせいであなたの子どもは、あるいは細君は、あるいは友人は、死んだのだ、なぜなら、あなたは十分彼らのために祈らなかったからだ、と。ある人が友人を喪うとき、それはその人に一種の準殺人の非があることにならないだろうか? わが子を取り去られた婦人はみな、子どもの死ゆえに、信仰の足りなさを責められるべきだろうか? だとすれば、彼女は子どもの死の咎を負うことになる。これは残虐なことである。それは、考えるに値しない狂信主義の一片である。というのも、それを突き詰めれば、冷酷きわまりないものとなる。それが、完璧に無実な男女、それも、何かすることで死者のいのちを救えるとあらば自分のいのちを喪うこともいとわないであろう人々を罪に定めるからである。

 「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました」。聖徒たちは、罪人たちと同じく死ぬ。ダビデはサウルと同じく死ぬ。イエスの胸に頭をもたせていた者は長生きしたが、最後には死んだ。――ユダが死んだのと同じくらい確実に死んだ。ユダよりも良い死に方ではあったが関係ない。「人間には、一度死ぬこと……が定まっている」[ヘブ9:27]。別のしかたで栄光に入った人も二人いたが[創5:24; II列2:11]、たった二人である。来たるべき日に生き残っている私たち[Iテサ4:17]は死を見ることがないはずだが、その日はまだ来ていない。

 「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました」。さらにまた、これはこう意味しているとも思う。これらの人々はみな、最後まで堅忍した。私がしばしば告げられてきたところ、人はある日は神の子どもかもしれないが、次の日には悪魔の子どもとなることがありえるという。私は、いかなる聖書にこの言明が基づいているのか知らない。私はその一言も信じていない。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます」[マコ16:16]。しかし、かりにその人が背教したら? あなたには、神が約束されたことがそうならないと考える権利はない。というのも、神はこう約束されたからである。「わたしは、彼らがわたしから去らないようにわたしに対する恐れを彼らの心に与える」[エレ32:40]。もしある人が本当に信ずるとしたら、その人は救われる。「義人は自分の道を保ち、手のきよい人は力を増し加える」[ヨブ17:9]。私たちはこう主張しているのだと云われてきた。すなわち、もしある人がいったん信仰者となるなら、その人はどれほど好き勝手な生き方をしても決して失われないのだ、と。私たちは決してそのようなことを主張したことはない。それは私たちが宣べ伝えている教理の戯画化である。私たちの信ずるところ、神はご自分の民に永遠のいのちをお与えになる。そして、そのことは真実に違いない。神はこう云っておられるからである。「わたしはわたしの羊に永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません」*[ヨハ10:28]。ということは、彼らは罪から守られ、特に死に至る罪から守られるということである。弱さゆえに罪を犯しはするが、致命的な罪を犯すことも、最終的な罪を犯すこともなく、むしろ、聖さと、神への愛との中に堅忍するのである。たとい彼らがさまよい出すとしても、彼らは回復される。彼らは信仰により、神の御力によって守られており、救いをいただく[Iペテ1:5]。信ずる魂の中に神がお入れになる種は、「生きた、朽ちない種」*であり、「生ける、いつまでも変わることのない」[Iペテ1:23]ものである。「わたしが与える水は」、とキリストはサマリヤの女に云われた。「その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」[ヨハ4:14]。主が与えるのは決してつかのまの救いではなく、むしろ、最初からまさに最後まで信仰者の魂を支えるであろう救いである。「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました」。こうした場合のすべてにおいて、恵みは最後まで生き抜き、最後には勝利をおさめたのである。

 また、このことは、彼らが決して信仰を越えて上らないということをも意味していないだろうか? こうした善良な人々は、――アベル、ノア、エノク、アブラハム、イサク、サラは、――信仰を越えて上ったことが一度もなかっただろうか? 聞くところ、それはあると考える人々もいるという。御霊で始まった彼らは、後には肉によって完成された[ガラ3:3]。最初それは罪人の単純な信頼である。だが、彼らはそれを越え、「第二の祝福」に達するのだ、と。私は彼らがそれをも越えて、第三の祝福に達してほしいと思う。そのとき彼らは、それまで以上に深く、古い性質の根深い堕落ぶりを感じ、いやまさって堅くキリストにしがみつくであろう。第二から第三、そして第四、そして第五、そして第六、そして第七、そして第八、そして第九、そして第十の祝福に進み続けることは、神の子どもがなすべきことである。だが、高慢の状態に至り、自分は第二の祝福を得たのだと叫ぶことは、あわれにも成長を怠けることである。信仰者たちが常に達そうと努めなくてはならない祝福は万の幾万倍もある。だが、何に到達しようと、「義人は信仰によって生きる」[ロマ1:17]。その人は決して、恵み深い神の忠実な約束に信頼することを越えはしない。キリストを基とする自分を脱して生きることはしない。キリストこそ私たちのすべてのすべてでなくてはならない。「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました」。彼らの中でも最上の人々もそうである。彼らは決してそれを越えて行きはしなかった。いかにしてそのようなことができただろうか? 信仰を乗り越えて行くという人々は、梯子を高く上りすぎて、向こう側に転落する人のようである。彼らは善良になりすぎたあまり、主は私たちの正義[エレ23:6]であるにもかかわらず、その主にとどまる代わりに自分自身に信頼するのである。願わくは主が私たちを自己過信から救ってくださるように!

 しかしそれから、彼らが信仰を越えて上らなかった一方で、彼らが決して信仰から下らなかったこともあわれみである。彼らはなおも信仰を有していた。彼らはときには自分自身に対する疑念に悩み、主が本当に自分の魂の中でみわざをなしてくださったのかどうか疑うことがあった。だが、彼らは決して信仰を投げ出しはしなかった。彼らは死において多くの苦痛を得たが、絶望のうちに死ぬことはなかった。あなたがたの中のある人々は叫ぶであろう。「私は死に臨むとき何をすれば良いのですか?」 私はあなたに、もっと重要な質問を告げよう。それは、あなたは今、何をしているのか?である。生も死も、やって来るがままに少しずつ受けとるがいい。あなたも、スパルタ人がいかにペルシヤ軍を撃退しようと努力したか知っているであろう。彼らはテルモピュライの峠を占拠し、そこにこの勇敢な二百人は陣取った。そして、おびただしい数の敵軍を阻止したのである。敵はひとりずつしか進んで来ることができなかった。さて、将来あなたに降りかかる苦難の全軍について考えてはならない。むしろ、その1つ1つに対処するがいい。「労苦はその日その日に、十分あります」[マタ6:34]。祈るがいい。――「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください」[マタ6:11]、と。あなたが死に臨むとき、あなたは年老いる瞬間瞬間に、死に行く恵みを受けるであろう。そして、もしあなたが信仰の人として生きてきたとしたら、信仰の人として死ぬであろうことを疑ってはならない。喜びをこめて、私に残る力をふりしぼって、私の震える唇は、疑ったり呻いたりする代わりに、歌うであろう。信仰は、その完全な結実へと変えられる間際に、ますます強くなるであろう。行くがいい。神の愛する子どもたち。あなたの前の道が暗くあるとも、あなたは次の一歩を見ることはできる。そして、それだけが、あなたに見える必要のあることなのである。同時に二歩進むことはできない。次の一歩に達するときには、次の一歩が見えるであろう。そして、そのように最後まで続くであろう。今まであなたを助けてこられたおられたお方は、最後まであなたを助けてくださるであろう。そして、あなたが墓に横たえられるとき、あなたについても、あなたの前を云ったすべての信仰者たちについてと同じく、こう云われるであろう。「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました」、と。

 ここまでが、信仰の人として死ぬということである。

 II. さて、《彼らが死ぬ際にいだいていた信仰》はいかなるものだっただろうか?

 この聖句に目を向ければ、それが分かる。「約束のものを手に入れることはありませんでした」。彼らは非常に多くのものを受け取りはしたが、約束の満ち満ちた豊かさを受けてはいなかった。アブラハムは、自分の子孫が海辺の砂のように数多くなる[創22:17]のを見ることがなかった。イサクもヤコブも、地のすべての国々に祝福をもたらすシロ[創22:18; 49:10]を決して見ることはなかった。しかり。彼らが約束のものを手に入れることはなかった。そして、あなたや私も約束のすべてを手に入れてはいない。私たちは非常に多くのものをすでに受けたが、私たちがまだ受けとっていないいくつかの約束がある。かの来臨――かの栄光に富む、教会の最も輝かしい希望である来臨――主が「号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られ」[Iテサ4:16]る時――それを私たちはまだ受けとっていない。そして天国そのもの――そして、それに伴う光輝のすべて――その白い衣と勝利の棕櫚を私たちは受けとっていない。私たちはそれらを期待して待っている。私たちが死ぬとき、それらの結実を有してはいない。私たちは信仰の者として死ぬ。こうした約束すべての成就へと入ることを期待して死ぬ。

 しかし、彼らが約束のものを手に入れることはなかった一方で、彼らが何をしたかに注意するがいい。彼らはそれを見た。――はるかにそれを見ていた。信仰はその目に目薬を塗った。それでアブラハムはエジプトにいる自分の子孫を見ることができた。――自分の子孫がツォアンの地[詩78:12]から出てくるのを見た。彼には、この民が荒野を通って旅をするのが見えた。カナンに入国し、その土地を占領するのが見えた。しかり。私たちの主は云われた。「アブラハムは、わたしの日を見た」*[ヨハ8:56]。彼はベツレヘムに赤子を見た。人の子である神の御子が、アブラハムの子でもあられるのを見てとった。そしてあなたや私は、もし持っていてしかるべき種類の信仰を持っているとしたら、すでに御国が来るのを見ている。聖徒たちの集まりを、ずっとすぐれた地の栄光を、「天に登録されている長子たちの教会」[ヘブ12:23]を見ている。信仰によって、私たちはそれを見ている。私たちの信仰には、あたかも私たちがそれを目にしているかのようにする実現力がある。それをそのように見ることは、肉体的な目で見ることにまさっている。というのも、もし私たちがそれを肉的に見たとしたら、私たちは自分の目を疑い出すはずである。だが、信仰は疑いの対極にあるもの、目に見えないものを確信させるもの[ヘブ11:1]である。

 彼らはそれ以上のことをした。彼らは「それを確信した」<英欽定訳>。「何があなたの確信なのですか?」、とある人がひとりのキリスト者である人に云った。彼は答えた。「よろしい。これが私の確信です。私はこう確信しています。今あるものも、後に来るものも、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」*。彼はその約束[ロマ8:38-39]の真理を確信していた。そしてこれは、しかるべき状態にあるあらゆる信仰者も同じである。その人は、こうしたほむべき確信をいだいている。神の約束を全く確信している。「絵に描いた餅さ」、とある人はつぶやくであろう。「ただの作り話だ」、と別の人は叫ぶであろう。だが、「絶対確実なことである」、と聖徒は云う。彼は、他の人々がまるで知らない、内なる確信によって確信しているのである。生ける神の御霊は完全な確証となった信仰を彼に与えておられる。それで彼は疑念を許すことも、疑惑を容認することもしないのである。

 これは、それ以上である。聖徒たちは、約束を「喜び迎え」ていた。このギリシヤ語は、友人を遠方に見たときに「挨拶する」ことを意味する。マントンの澄んだ大気の中で、私は時としてかなり高い山の上に立つことがあった。そして、平野にいる友人を見かけると、彼の名を呼んだ。すると、最初のうち私を驚かせたことに、彼は答えたのである。「どこにおいでですか?」 私は彼と容易に会話することができた。私は現実には長いこと彼のもとに行ったことがなかったが、私は遠くから彼に挨拶した。時として、愛する方々。私たちには神の約束が遠くに見えることがある。そして、私たちはそれらに挨拶する。私たちは、かの栄光の国へと声の届く所にいるのである。そして、私たちは暗闇の中に火矢を放つ。あるいは、もしそれが日中であれば、その岸辺へと合図を送る。あなたは一度もそうしたことがないだろうか? 来たるべき種々のあわれみに一度も挨拶したことがないだろうか? やがて現わされるべき栄光に対して、左様。栄化された者たちに対して一度も語りかけたことがないだろうか? これこそ、これとともに生き、これとともに死ぬべき信仰である。真実な神の約束された祝福を見てとり、確信し、挨拶する信仰である。願わくは主がこの時から私たちに、そうした信仰をより多く授けてくださるように!

 III. さて、ごくごく手短に、私が語りたいのは、《いかなる信仰をもって生きるべきか》――信仰の生活についてである。

 もし私たちが信仰によって生きるとしたら、いかにして生きるだろうか? 答えはこうである。彼らは「地上では旅人であり寄留者であることを告白していた」。私たちも同じである。

 私たちは、生まれながらに旅人である。上から生まれた私たちの生き方は、回りの人々とは違う。「世は私たちを知らない」*[Iヨハ3:1]。私たちは全くこの世に属していない。私たちは、世の中にいるが、世のものではない[ヨハ15:19]。

 私たちは国籍に関しても旅人である[ピリ3:20]。地上で私たちは異邦人であり外国人である。その種々の特権は、地上にではなく、別の都と結びついている。

 私たちは追求するものに関して旅人である。私たちは、この《空の市》を急いで通り抜けつつある旅行中の者である。この市場の人々は、「買いなよ! 買いなよ!」、と叫ぶが、彼らは私たちが買いたいと思うような品物を全く持っていない。私たちは真理を買うが、彼らはその商品を売り買いしていない。私たちはこの市場の仕事と何の関わりもなく、むしろ、できる限りすみやかにそこを通り抜けなくてはならない。いかなる旅行者も、ある町に立ち寄るときにはいくつかの事がらを行なわなくてはならない。彼は宿を探し、しかるべき栄養や休養を取らなくてはならない。だが、もし彼が遠国から故国への旅をしているとしたら、彼はできるだけ早く先に進んでいく。

 私たちは目標において寄留者である。私たちがここに来たのは、遊覧旅行のためではない。神殿で私たちの主の御顔を拝するために旅をしているのである。私たちの顔はエルサレムに向いており、私たちはそこへの道を尋ねている。私たちはこう叫ぶ。「先へ行かせよ! 私が遅れないようにさせよ。私はかの栄光の国へ去らなくてはならない。私の家がある場所、私の神がおられる所へ!」

 私たちは滞留期間にかけて寄留者である。私たちはここに長くとどまることを期待しない。あなたがたの中の誰かはそう期待しているだろうか? あゝ、ならばあなたは大きな間違いを犯している。私たちはじきにいなくなる。私たちは、互いに「おやすみ」を云い合うたびに、全員が再び顔を合わせることはないかもしれないとの疑念とともにそうして良い。この場で、全く同一の会衆が二度集ったことは一度もなかったし、これからも決してないであろう。ほぼ毎週二名、この教会の教会員はかの高地の国へと出立し、この低地に私たちを残していく。最近、私たちの死亡率は大きく増加し、天の軍勢の徴兵は重く私たちにのしかかっている。いかにすみやかに私たちは失せ去ることか! ならば、この次あなたがこの世の苦難について苛立つときは、自分に云い聞かせるがいい。「やがて私はこのことについて苛立つことがなくなるのだ。これは長くは続かないのだ」、と。この次にあなたが地上の宝を喜びとするよう誘惑されるときには、自分に向かって云うがいい。「否。私はこれを喜びとはすまい。これは影にすぎない。私はずっと永続するものを喜びとしよう」、と。

 もしあなたが処遇について旅人であることを見いだしても驚いてはならない。世間は外国人を手荒に扱うからである。そして、本当にキリストのものである人は、誤解され、誤伝されることを予期しなくてはならない。人々は以前の時代、多くの寄留者たちを火刑に付してきた。今はそうすることができない。だがなおも冷酷なからかいという試練はあり、蛇の子孫はなおも女の子孫を憎んでいる。

 ならば、これが信仰者の道である。彼らはこの世で旅人また外国人として生きる。自分自身への国へとできるだけ足早に急いでいる旅人である。自分の国では、彼ら自身の国語が語られているのを聞き、自分自身の御父のもとに永遠にとどまるのである。これこそ信仰の生き方である。

 IV. それでは、《このような生き方を耐え忍ぶために必要な信仰》とはいかなるものだろうか? 何と、この信仰である。「彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています」。

 私たちの信仰は、私たちがあえて公言するものである。私たちははっきりと、自分が故郷を求めていることを明らかにする。私たちはこう云うことを恥とはしない。地上が私たちの安息ではないこと、地上に楽しみを見いだそうと期待していないことを。私たちは、この嵐の海の彼方にある《美しの港》へと急行しつつある。そこで私たちは永遠に錨を下ろすのである。私たちは、他の人々がいかに私たちの希望をあざ笑おうと、そう云うことを恥とはしない。

 また、私たちがそう云うのは、それを信じているからである。キリストが私たちのもろもろの罪を洗い流したあの日、主は私たちに1つのしるしを与えられた。私たちがご自分のいる所に、ともにいることになるというしるしである。それが、祝福された者の目印だからである。――「彼らは……その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです」[黙7:14]。私たちが自分をキリストに引き渡し、永遠の主のものとされたその日、主は私たちに、私たちが栄光の中でご自分とともにいることになる許可証をくださった。というのも、これが主の祈りだからである。「父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。……わたしの栄光を、彼らが見るようになるためです」[ヨハ17:24]。愛する方々。私は、この事実については、いかなる疑いもあなたの脳裡をよぎらないはずだと思っている。すなわち、キリストを信ずるあらゆる信仰者は、確かに栄光の中で永遠にキリストとともにいることになるのである。しかし、もしあなたがそう信じているとしたら、それを強く信ずるように願いたい。それを実感するようにしてほしい。そのようになれば、あなたは時として座っては笑うであろう。そして、隣人があなたに、「なぜ笑っているのですか?」、と尋ねたら、あなたは云うであろう。「私が笑っているのは、こう考えると猛烈な喜びでどうにかしてしまいそうだからです。このあわれな、ずきずき痛む頭が、いつの日か冠を戴くことになるのです。――この埃だらけの服を雪のように白い完璧な衣と交換するのです。――地上ではこんなにも貧弱で、しわがれたこの声をした私が、いつの日か熾天使や智天使とともに歌うことになるのです」。おゝ、寝たきりの病者にとってこれは何たる喜びであろう。彼は、これほど苦しんでいるその寝床を離れて、そこに住む者が誰も「私は病気だ」とは云わない[イザ33:24]場所へと行くことになるのである。そこでは、貧者はもはや貧困と戦ったり、単調な骨折り仕事で日ごとの糧を稼いだりすることはない。というのも、御座の正面におられる《小羊》が、彼らの牧者となり[黙7:17]、誰ひとり欠けを知らないからである。

 それがこれほど短い時の間にそうなることを、いかに私は喜んでいることか! この場に出席しているある人々は、今年が暮れる前にいなくなっているかもしれない。あゝ、ことによると、今あなたがたに語りかけているこの者は、もうじき故国に去っていくかもしれない! それは私たちを少しでも残念がらせるだろうか? 他の人々にとっては、そうかもしれない。というのも、私たちは彼らに善を施すためには喜んでとどまりたいからである。だが、私たち自身にとって、そうした予想は混じりけのない歓喜の1つである。その変化には、いかなる損失も伴っていない。それは言葉に尽くすことのできない得である。私たちは世を去ってキリストとともにいることによって何も失わない。というのも、それは単により良いことであるばかりか、パウロが云うように、「はるかにまさって」[ピリ1:23]いることだからである。

 それで今、私たちは、自分の有していることを思って元気を取り戻し、自分の失ったもののことを忘れようではないか。私たちのために蓄えられているもののことだけを考え、下界の私たちの財産の貧窮さは忘れよう。さあ、私たちの究極の完璧さのことを見越して大喜びしよう。そして、そのようにして私たちの現在の腐敗との葛藤に耐え抜く力を得よう。さあ、いま喜ぼう。そして《愛される方》の御顔を、霧にも顔覆いにも邪魔されずに見つめることができることを思って、喜びの鐘を鳴らそうではないか。そして、しばらくの間は、たとい何の光を見ることがなくとも、暗闇の中を通り抜けることに満足しよう。私たちは会うであろう。私たちは会うであろう。私たちは栄光の国で会うであろう。ひとりの愛する姉妹が先日、私と長い話をしたいと云ってきた。私はそうはしてほしくなかった。私には二十件もの面会予定があったからである。そこで彼女は云った。「わかりましたわ。牧師先生。私たちが二人とも天国に行ったら、先生と長い話をすることにしますわ」。そこで私は云った。「あゝ、そうしましょう。そして私は、できるものならあなたを見つけ出しますよ。そうでなければ、あなたが私を見つけ出すことでしょう。そして私たちは、せかさせることなしに語り合うでしょう」。私たちがそこで話を始めれば、彼女は私に云うであろう。「あなたのお声は何と甘やかなのでしょう」。そこで私は彼女を見つめて、こう答えるであろう。「《何と》あなたは美しくなられたのでしょう!」 私たちは、あの完璧な国で互いに驚嘆し合うはずである。「後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです」[Iヨハ3:2]。私の老いた友は、彼女のリウマチをことごとく忘れており、私もそうであろう。あなたは、この下界にいる間は、海老のように腰が曲がっているかもしれない。だが、天界では真っ直ぐに身を起こしているであろう。このかすんだ目には眼鏡が必要だが、かの御座の前では何の眼鏡も必要ないであろう。びっこをひき、足がなえ、もたもたしているのが今のあなたである。だが、上の世界では、あなたは、すべての幸いな者たちとともに、キリストの勝利を祝う音楽と踊りとに加わることができるであろう。ならば、身を起こして喜ぶがいい! あなたの目をちりと闇から引き上げて、永遠の光を見つめるがいい! 天の門は開かれている! 私たちはまだそこに入っていないとしても、それが閉まる前に入るはずである。そのことを確信しよう。その日はやがて明け初める。そして、その完全な光がやって来る前に、それを予期して喜ぼうではないか。そよ風が吹き始め、影が消え去るころまで、こう叫ぼうではないか。「私たちの《愛する方》よ。あなたは帰って来て、私たちと一緒にいてください」*[雅2:17]、と。主は私たちの愛情のこもった願いを退けることはなさらないであろう。

 願わくは主があなたを祝福したまわんことを。キリストのゆえに。アーメン。

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説教前に読まれた聖書箇所――ヘブル11章


『われらが賛美歌集』からの賛美―― 620番、533番、813番

 

聖徒たちの霊廟のための碑文[了]

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