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様々な愚か者たちの物語

NO. 1824

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1885年3月1日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1884年7月17日の説教


「愚か者は、自分のそむきの道のため、また、その咎のために悩んだ。彼らのたましいは、あらゆる食物を忌みきらい、彼らは死の門にまで着いていた。この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救われた。主はみことばを送って彼らをいやし、その滅びの穴から彼らを助け出された」。――詩107:17-20


 この詩篇には、四つの画板に描かれた一枚の絵画が含まれている。その絵は、その主要な描線によって単一の経験を例示している。というのも、あらゆる場合において、こう記されているからである。「この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救われた」。だがしかし、それぞれの場合は、他のどの場合とも非常に異なっている。ここには、多様性と類似性がある。神の民の場合も、それと全く同じである。私たちの堕落、私たちの罪、私たちの恵みによる召し、私たちの祈り、その祈りに対するイエス・キリストによる主のお答え、――こうしたすべてにおいて、「顔が顔と同じように、人の心は人と同じである」*[箴27:19]。私たちは、最初のアダムの子どもたちとして、不思議なほど似通っており、第二のアダムの子どもたちになるときも似通っている。だがしかし、神の子どもたちのどの二人も、全く同一ということはない。人間の家族でも、同じ両親の子でありながら、顔の造作が非常に様々に異なるという人々はざらにいる。神の大家族の中における造作の多様さは、実際、非常に不思議なものである。この四枚の絵を眺めてみるがいい。それらは非常に似通っており、実際、一枚の絵を表わしている。だがしかし、そこには際立った多様さが目につくであろう。この二重の教訓を学ぶがいい。――すなわち、あなたの黒子が、神の子どもたちの黒子でない限り、あなたは決して神の子どもではない。だが、また、あなたにあるその黒子と、他の、神の疑う余地なき子どもたちの黒子が全く同一であると期待してはならない。地上においては、すべての肉が同じではなく、また、天上においても、すべての栄光が同じ栄光ではない。太陽の栄光もあり、月の栄光もあり、星の栄光もある[Iコリ15:39-41]。それと同じように、この地上でキリスト者たちが送る通常の生においても、御霊は1つだが、多種多様な働きがある。それゆえ、いかなる人の伝記によっても自分を裁いてはならない。ジョン・バニヤンの『溢るる恩寵』を読んだ後で、「私は一度もこのように暗い場所をくぐり抜けたことがない」、と云って自分を罪に定めてはならない。そうした経験をしなかったことを喜ぶがいい。ガイオン夫人を読んだ後で、彼女の「急流」を聞くことや、彼女の陶酔感を感じることが全くなかったとしても、自分を罪に定めてはならない。そうした経験をしなかったことを残念に思い、そうした事がらを切望するがいい。だが、自分を罪に定めてはならない。ここには四枚の絵があり、あなたは四枚のうちの一枚に、自分の似姿を見いだすであろう。だが、他の三枚にあなたの姿がないからといって自分自身を罪に定めるほど浅はかであってはならない。「私は一度も海に出たことがない」、とある人は云うであろう。「これは私を描いているはずがない」。「私は不毛の砂漠を越えたことなど一回もない」、と別の人は云うであろう。「これは私を描いているはずがない」。「私は暗闇の中の牢獄に入ったことが一度もない」、と三番目の人は云うであろう。「これは私を描いているはずがない」。しかし、愛する方々。あなたが愚か者であったことはありえるであろう。それゆえ、この病んだ愚か者はあなたを描写していることがありえる。あなたが自分自身をこの絵の中の1つに見いだすならば、こう結論して良い。この四枚が同一の主題の変奏でしかないからには、四つのすべてはある程度まで自分に属しているのだ、と。いずれにせよ私は、十二の門によって天国に入ることができない以上、1つの門によって入ることで完璧に満足して良いはずである。

 私は、本日の聖句という素晴らしい箱の中にしまい込まれている、幾千もの事がらの中から2つを引き出そうと思う。その2つとは、――みじめな人々と、あわれみ深い主である。

 I. 《みじめな人々》を最初に取り上げる。私は彼らを描写しよう。そして、その描写における私の目標は、それにもかかわらず、ある者らが救われたと示すことにある。こうした人々は愚か者と呼ばれている。彼らはあらゆる食物を忌みきらい、死の門にまで着いていた。しかし、彼らはそうしたすべてにもかかわらず救われた。というのも彼らは、この苦しみのときに主に向かって叫んだからである。そして主は彼らを苦悩から救われた。ということは、こう推察されよう。たとい私が――たといあなたが――こうした人々とまさに同じ状況にあるとしても、それでも私たちは、神が自分を救ってくださるという希望を持つことができるのである。

 まず、彼らに関する最初の描写はこうである。彼らは愚か者であった。さて、私があなたがたを愚か者と呼ぶわけにはいかないが、あなたがたは全員、自分自身をそう呼ぶ自由を有している。聖書では、自分の兄弟を「ばか者」と呼ぶことが禁じられているが[マタ5:22]、自分自身をそう呼んでならないとはどこにも書かれていない。あなた自身を見つめるがいい。そして、果たして自分がいま愚か者でないかどうか見てとるがいい。――少なくとも、もし神の恵みによって救われているとしたら、あなたはこう認めるはずである。自分はかつて、特筆大書に値する《馬鹿》であった、と。というのも、更新されておらず、新生していないあらゆる人は、愚か者だからである。私たちは、知る必要のある物事について知識が大きく欠けている人々を愚か者と呼ぶ。他の人々が通り抜けることができる所でも、彼らは道に迷ってしまう。他の人々が非常に単純な物事について何をすべきか分かっている場合にも、彼らは全くきょとんとし、いかに行動すべきか分からない。私は、自分が救いの道について知らなかったときのことを覚えている。私は、救いの道を幼い頃からずっと聞いており、また、ごく簡単に説明されるのも聞いていたが、それが分からないでいた。多くの人々も、今ではイエスを信ずる信仰がいかなるものか理解しているとはいえ、かつてそれが腑に落ちるまでは非常に時間がかかったと告白しなくてはならない。信仰という考え方は、恵みにおける赤子も説明できることだが、古典的素養を身につけた賢人たちが受け入れないものである。私はここに立ち、自分の胸を叩きながら、いかにすれば人々が信じて生きるようになるかを何とかして単純に説明しようとするかもしれない。だがしかし、聖霊なる神によって光を与えられない限り、私の会衆の中のひとりとして神のお考えを自分の心に受け入れようとする者はいないであろう。というのも、私たちは愚か者すぎて、天的な真理の最も簡単な事がらすら、全く測り知れないからである。

 やはりまた愚か者とは、何かを知っているときも、自分の知識を正しく用いられない者である。その人は、先の者よりも大きな愚か者である。その人は、それに関する一切合切を知っているが、しかし、それを行なわない。その人は、救われる唯一の道がキリストを信ずることであると理解している。だが、信じない。人々が罪を悔い改めなければ、あわれみを得ることがないと知っている。だが、罪を悔い改めない。人生が不確かであると知ってはいるが、しかし自分の魂を危険にさらしても、自分が生き続けるという見込みにかける。その人は、あたかも自分で自分の人生の賃借権を握っているかのように生き、自分から回心しようとするまで決して死ぬことはないと絶対に確信している。さて、これは愚か者となることである。――自分自身の知識と、まともな判断力に逆らって行動することである。こうした種類の愚か者たちがいかに大勢いることか!

 私たちが愚か者と呼ぶのは、何の得にもならないのに――また、正当化できるような何の理由もなしに――自分自身を傷つける人である。一国を救うため、あるいは、たったひとりの人を救出するためでさえ、いのちを投げ出す人は英雄である。だが、いかなる目的もなしに自分自身を不具にするような人――自分自身の健康を損なう人――自分自身のいのちを捨て去る人――とは何だろうか? この場に、そのような者は誰もいないだろうか? あの酔いどれを見るがいい! 不潔な生活を送っているその人を見るがいい! 来世にまさって現世を好み、愚にもつかない事がらのために人生を棒に振る人を見るがいい! おゝ、方々。多くの人々は、これまで自らを毀傷してきたあまり、自分の罪が自分の骨身に沁みているほどである。今しも彼らは、自分のそむきの罪の結果を感じている。蝋燭の中に飛び込んで来る蛾は愚かである。自分から火傷しておいて、再びその炎の中に突進するのである。私たちは進んで屠殺場に向かう雄牛を愚かとみなすが、おびただしい数の男女は罪を喜びとしている。そして、身の回りのあらゆる杯に毒が盛られているにもかかわらず、不老不死の美酒ででもあるかのようにそれを飲み干すのである。まことに、罪人とは愚か者である!

 私たちが途方もない愚か者となるのは、罪に楽しみを見いだし、反逆で得をすることができると考えるときである。私たちが途方もない愚か者となるのは、自分の神の不興を招くとき、――自分の最上の《友》、自分の永遠の未来がかかっているお方が私たちによって蔑まれ、ないがしろにされ、拒絶されたり憎まれたりさえするときである。愚かさのきわみとなるのは、人が自分を助けることのできるお方の善意を失うとき、――また、優しい母親の愛を、賢い父親の助言を拒絶するときである。ある人々は、自分の敵を自分の友人にし、自分の友人を自分の敵にしようと決心しているかのように見受けられる。闇を光、光を闇としている[イザ5:20]。出て行っては、生きている方を死人の中で捜し[ルカ24:5]、真の助け手を彼らの罪に迎合する連中の中で捜そうとする。このような愚か者があなたや私であった。ひょっとすると、今この場にもそうした愚か者たちがいるかもしれない。

 私が愚か者と呼ぶ人は、玉砂利を集めるために宝石を投げ捨て、汚泥やごみを拾い集めるために金銀を打ち捨てる人である。では、つかのまの喜びや、はかない利得のために天国と永遠のいのちを振り捨てる人は何をしているのだろうか? この世の中に生きている一部の人々は、ただ、いつの日か煙と化すものだけを得ようとしていないだろうか? 彼らはこの大いなる世界が、また、その中にある人の手のわざのすべてが、燃え盛る炎熱の中で溶解するに違いないことを知っている。だがしかし、彼らは自分たちの不滅の魂のための住まいをこの場所に――完全に焼き尽くされることになる所に――建てようと労苦するのである。そして、その間、おゝ、《不滅の愛》なる神の御子よ。あなたは、ただの作り話のように扱われているのです! そして、永遠の恵みの満ち満ちた、大いなる御父よ。彼らはあなたに背を向けるのです! また、おゝ、聖潔と、美徳、不滅の祝福よ。あなたがたすべてが素通りされている一方で、人々は、じきに取り上げられるはずの安ピカ物を追い求めたり、つまらない手回り品を集めているのである。だが、もしあなたが、たまたまこの場に座っている間に、「私は愚か者でした。今それが分かりました」、と告白するとしたら、あなたはこの事実から慰めを得て良い。愚か者たちも救われたのである。知恵のなさのきわみまで突き進んだ者も、なおも知恵の招きを聞くことができるし、キリストの御足元に来て、永遠のいのちのため必要なすべてのことを学ぶことができる。

 こうした人々に関する次のことは、なおも悪い。彼らは単に愚か者であるばかりでなく、罪人であった。この聖句は云う。「愚か者は、自分のそむきの道のため、また、その咎のために悩んだ」。見ての通り、彼らには何種類かの罪があった。――そむきの道と咎である。彼らは、1つのそむきの罪から始まった。そして多くの咎へと進んで行った。最初に彼らの心の中には、神へのそむきがあった。後に、彼らの生活の中には、神に対するものと、人に対するものとの双方の、多くの咎が見いだされた。罪は非常に急速に増え広がる。私たちは、あなたが犯してきたであろうそむきの罪や咎の詳細に立ち入ろうとは思わない。だが、肝心なのはこのことである。――こうした人々は、愚か者であり、そむきと咎に満ちてはいたが、それにもかかわらず、この苦しみのときに主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救われた。あなたの罪はいかなる形をしているだろうか? あなた自身の心の中でそれを考えてみるがいい。しかし、それがいかなる形をしていようと、神はあなたを赦すことがおできになる。「人はどんな罪も冒涜も赦していただけます」[マタ12:31]。「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」[Iヨハ1:7]。いかなる罪も、人々がそれを悔い改める限り、赦されないことはない。赦されない罪とは、いかなる人も悔い改めることを考えなかった罪である。というのも、これは、死に至る罪であり、それを犯すとき、人は霊的に死んでおり、決して悔い改めないからである。だが、たといあなたの上に何らかの罪がのしかかっているとしても、また、もしそれがいかにどす黒く不潔なものであっても、――また、それがぞっとするほど恐ろしすぎる罪で、それをほのめかしただけで慎み深い人々を赤面させかねないため、この場では言及できないようなものであるとしても、――また、それがあなたを覆い、あらゆる想像を越えてあなたを汚染し尽くしているとしても、――それでも、天にいる聖徒たちについては、こう云われえよう。「あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし、……あなたがたは洗われ……たのです」[Iコリ6:11]。あなたは、他の一部の人々よりはさまよい出していない。あるいは、たとい彼ら以上にさまよい出していたとしても、あなたを救うことにおける神の恵みの栄光は、その分だけいやが上にも大きなものとなるはずである。私たちの主についてはこう書かれている。主は、「無知な迷っている人々を思いやることができるのです」[ヘブ5:2]。おゝ、あなたがた、道から迷い出ている罪人たち。これはあなたにとって何と慰めに満ちた言葉であろう! いかなる罪であれ、あなたが罪人の《救い主》のもとに行くならば、あなたを滅ぼすことはない。あなた自身のいかにすぐれた美点も、あなたがこの《救い主》を拒絶するなら、あなたを救うことはない。あなたの一切の罪のまま来るがいい。それが天まで悪臭を立ち上らせていようと関係ない。その腐臭があなた自身の鼻腔にさえ厭わしいものであろうと、それでもキリストのもとに来るがいい。というのも、「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめ」るからである。

 しかし、私たちはこの絵で次に示されていることに進まなくてはならない。この人々は単に愚か者で罪人であったばかりでなく、――それは、2つの悪い事がらだが、――彼らには三番目に悪い点があった。彼らは悩んでいた。「愚か者は、自分のそむきの道のため、また、その咎のために悩んだ」。彼らの悩みは明らかに彼らの愚かさと、彼らのそむきの結果であった。私が話しかけている人々の中には、誰かそれに当てはまる人がいるだろうか? 私は、この場にいる一部の人々に起こったかもしれないことを、到底口にしたいとは思わない。彼らは霊において苦悩し、仕事に携わる際にも全く朗らかになることができない。彼らは、陰鬱な予感や、重苦しい鬱気、そして、過ぎ去った年月における罪のあらゆる結果に苛まれているであろう。彼らは今や、罪の核心に達してしまっている。罪が不思議なほど甘美なのは、その核心に達するまでの間でしかなく、それからは苦くなる。左様。死そのものよりも苦いのである。

 かつて、こうした人々は愚か者で罪人であった。そして今や彼らは、そのために苦しまなくてはならない。彼らは、自分のそむきの道のため、また、その咎のために悩んでいる。ある人々はからだが苦しんでいる。他の人々は財産において苦しんでいる。彼らの資産は今やすべて失せ去ってしまっている。彼らはすべてを使い果たしてしまった。奔放で、愚かで、よこしまなしかたで、それは消え去った。彼らはかつては金銭を有していた。今や何もない。彼らは生活の手段も小金もあった。だが彼らは罪を犯し過ぎたために、今や信頼を失っている。彼らは、大海の上に漂うばらばらの漂流物や浮遊物であって、誰からもほしがられない。そうした状態にある人々に対して、いかに私は慰めの言葉を語りたいと切望することか! もしあなたが悔い改めるなら、もしあなたが立ってあなたの御父のもとに行くなら、なぜあなたの苦悩から解放されないことがあろうか? あなたは神があなたのような者を解放することが分からないだろうか? それが、あなたの前にある聖句で云われていることではないだろうか? 彼らは悩める愚か者だった。悩める罪人だった。地上においてすら、自分の罪の結果の一部を感じ始めていた。彼らは、過ぎ去ったあれほど陽気な年月によって蒔いた、炎の束を刈り取り始めていた。そして、そうした束を自分の胸に納めたとき、いかにして自分がたちまち焼き尽くされずにすむのかと思い惑った。しかし、彼らは現に逃れた。そして、あなたもそれと同じようになりえる。神は今のあなたのような者を救ってこられたし、そうした救われた者たちすべてのことを考えるときあなたは、自分も神によって救われることができるのだと励まされてしかるべきである。

 この絵画は暗黒の度を深めつつあるが、私たちはもう一色塗り重ねなくてはならない。こうしたことに加えて、この人々は、魂の病に陥っていた。その苦難と罪意識によって彼らは、何物の助けも及ばないような状態に陥っていた。最上の食物が彼らの前に持ってこられたが、彼らは手を振ってそれを追い払った。彼らの魂は、ありとあらゆる食物を忌み嫌った。ある人々は、かつて喜びだった種々の娯楽に今やうんざりするような状態にある。あなたは最近劇場に行った。以前には何度となく魅了させられた場所である。だが、あなたはそこが一変してしまっていることに目を白黒させた。それは、あなたにとって退屈きわまりないものとなっていた。あなたは、あなたの陽気な友人たちと愉快な夜を過ごすのを楽しむのが常だったが、今やあなたはひとりで階上に上っていくことを欲している。それほどみじめな気分なのである。ひとりきりになっても、あなたを悩ませる者がひとりいる。その者から逃れることができさえすれば満足するであろうが、その者とはたまたまあなた自身なのである。人中にあろうと、ひとりでいようと、あなたには何の安らぎもないように思われる。あなたの魂は、ありとあらゆる食物を忌み嫌う。私の知っている魂たちは、どれほど面白くて有益な書物も、もはや読めないような状態に陥っていた。彼らはそうした類の何物にも興味を感じなかった。そして、かつてはしごく楽しんでいた詩歌も、いかなる芸術の魅力も、何の楽しみももたらなさなかった。最上の精神的な娯楽もこうした人々には、自分たちの激越で自滅的な思念への歯止めを供することができない。左様。そして彼らは、良質の霊的食物すら拒む。説教者が幼子のための乳を与えようとすると、それは彼らにとって物足りない。説教者が堅い食物[ヘブ5:12]を持ち出すと、それは彼らの歯にとって固すぎる。説教者が彼らに「よくこされたぶどう酒」[イザ25:6]を持ってくると、それは熱すぎる。いのちの水を差し出すと、冷たすぎる。何も彼らの口に合わない。彼らはありとあらゆる種類の教えについて文句を云う。信仰書は彼らの気を引き立てない。聖書そのものでさえ気の抜けた、無益なものと思われる。愛する方々。あなたは恐るべき状態にあるではないだろうか。あなたは病み果てているあまり、あなたにとって最もふさわしい食物が最も気をそそらないものとなっているのである。だが神は、このみじめな道に陥った幾人かの人々を救ってこられた。そして神は、ご自分のもとに来るよう、また、ご自分に信頼するよう、あなたを招いておられる。あなたさえ救ってくださるとの約束をもって招いておられる。あなたがあたう限り最悪の状態にあろうと関係ない。

 しかし、この場合はそれよりも悪かった。というのも、こう記されているからである。「彼らは死の門にまで着いていた」。このあわれな人物は、半分死にかかっていた。彼は死の門、地獄の門をまさに面前にしていた。死の扉の前に横たわり、その表玄関から永遠の滅びと果てしない怒りの中へと、いつ投げ込まれるか知れないと思っていた。私は、私自身の憂悶の中で絶望の奥底に横たわっていたときのことを覚えている。私は、自分が罪ゆえに断罪されていることを知っていたし、私の良心はその断罪に、「アーメン」、と云っていた。私は、自分が即座に取り去られ、自分の罪ゆえの無限の処刑に服させられてはならないいかなる理由をも申し立てることができなかった。そして私は確かに、自分の魂にのしかかりつつある御怒りのすさまじい影を感じた。《だがしかし、私は救われた》。神はほむべきかな! そして、話をお聞きの愛する方々。あなたも同じようになるであろう。あなたが今にも死のうとしていようと、また、今にも罪に定められようとしていようと、イエスを信ずる信仰によって救われるであろう。火の雨が降り注ぐのを感じていようと、また、その恐ろしい雫の最初の一滴がすでにあなたの魂への道を焼いてしまっていようと、それでもあなたは逃れることができる。《救い主》はこうした者たちのもとにやって来られるのである。

    かなしみ恐れの 中に埋められ
    死の昏(くら)き戸の 前にぞ伏せる。

そのような者に主は「救い」をもたらされる。そして、この死にかけた罪人に仰せになる。「きょう、救いがあなたの家に来ました」*[ルカ19:9]。私たちは何と栄光に富む福音をあなたがた、みじめな人たちに対して宣べ伝えることができることか!

 しかし、まだ私たちは、この絵に最後の暗い影を加筆しなくてはならない。この人物は、単に死の門前に横たわり、苦難に満ち、苦悩に満ちていただけでなく、多くの滅びに取り巻かれていた。20節にはこう記されている。「その数々の滅びから彼らを助け出された」<英欽定訳>。何と! 人には多くの滅びがあるのだろうか? おゝ、しかり。非常に多くある! 私の知っているある人は自分の店によって滅ぼされ、別の人は自分の妻によって、また別の人は自分の子どもたちによって滅ぼされている。多くの婦人は自分の衣服によって滅ぼされる。多くの男は自分の食物によって滅ぼされる。おびただしい数の人々は自分の飲酒によって滅ぼされる。私たちの回りにあるすべてのものは、神が私たちをお救いにならない限り、私たちを滅ぼす。地獄に至る門は一千もある。天国へ至る道の方は1つしかないが関係ない。ある人は放蕩乱行によって滅びるであろうし、別の人は体面を重んじることで滅びるであろう。ある人は居酒屋で失われるであろうし、別の人は自分の絶対禁酒主義で失われるであろう。もしその人がそれを1つの神としてしまえばそうである。また、ある人は常識的な礼節がないために地獄に下るであろうし、別の人は自分の高慢、淑女ぶり、自分を義とする思いによって地獄に下るであろう。自分を欺いてはならない。――破滅への道は容易で、多くの者がそこに押し寄せる。もしあなたが天国に行きたければ、よろしい。私たちはあなたに、信ずべき多くのことを告げなくてはならない。だが、もしあなたが地獄に行きたければ、私はあなたに何も告げる必要がない。――「私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにしたばあい、どうしてのがれることができましょう」[ヘブ2:3]。ほんの少しないがしろにしただけで地獄に到着できる。しかし、ほんの少し考えただけで天国に行くことはできないであろう。魂の全体が奮い起こされなくてはならない。――全人を覚醒させて、キリスト・イエスにより神を求めなくてはならない。さもなければ滅びるのである。ならば、数々の滅びに取り囲まれ、――あなたの寝床の回りの罠、あなたの食卓の周りの罠、あなたがひとりきりでいるときの罠、町通りにある罠、あなたの店にある罠、日の出における罠、日の入りにおける罠に取り囲まれ、――あなたはすさまじくも恐ろしい危険の中にいる。だがしかし、幾多の滅びに取り囲まれている人々が救われてきたのである。なぜあなたが救われないことがあろうか? この苦しみのときに彼らが神に向かって叫ぶと、神は彼らをその滅びの穴から助け出された。あなたの叫び声に対しても、神は同じことをなさるではないだろうか? 意気阻喪した霊たちにとって、これは何と魅力的な言葉であろう!

 II. 私にはほんの数分しか残っていないが、もう一時間もほしいところである。《このあわれみ深い主》について語っていきたい。

 実際ごく手短にそうしよう。このあわれみ深い主は、この絵の中の、最初は目につかない所に現われておられる。私は最初の節の中に主を見てとれると思う。主は悩みを送られた。「愚か者は、自分のそむきの道のため、また、その咎のために悩まされた」<英欽定訳>。あゝ! 「悩まされた」。では、誰が彼らを悩ませたのだろうか? 何と! 彼ら自身の御父である。――彼ら自身の《羊飼い》である。彼らがご自分のもとに帰ってくることは、悩まされない限り決してないだろうと見てとられたお方である。私にはあなたが見える。愛する方々。あなたは迷える羊であり、私はあなたを戻らせることができない。さて、あなたは叫んでいる。「あゝ、なんて苦しいんだ!」 私はあなたが苦しんでいることは気の毒に思うが、それを完全に残念だとは思わない。私は憂鬱という黒犬があなたを悩ませているのが見てとれる。これは、あなたをこの《羊飼い》のもとに連れ戻すためのものである。多くの人々は、この犬がその歯をあなたに突き立てない限り、戻って来ようとしないが、もしそれがあなたを確実にこの良い《羊飼い》のもとに追いやるとしたら、これはあなたの真の友である。私は疑問に思う。果たして私たちの中の多くの者らは、もしも何らかのしかたで悩まされなかったとしたら、主イエス・キリストのもとにやって来ただろうかと。私たちのうららかな日々は、私たちをますます罪に導いていた。そこへ暗い日がやって来た。そしてそのとき私たちは方向を転じ始めたのである。「彼が何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こった」*[ルカ15:14]。この飢饉を送られた神はほむべきかな! 「彼は食べるにも困り始めた」。今や彼は、自分の陽気な友人やおべっか使いたちを試さなくてはならないであろう。ひとりの紳士がいた。彼の三鞭酒を飲み、彼からさんざんに歓待された人である。「そうだ、彼にはご馳走してやったものだ。たぶん彼なら貧乏になった私をもてなしてくれるだろう」。「お助けできませんな」、と彼は答えた。「何か勤め口の世話でもしてくれないかい?」 「いいや。あんたに何の価値があるってんだ? よろしい。私の豚を飼うくらいはできるだろう」。それで彼は、「彼を畑にやって、豚の世話をさせた」[ルカ15:15]。これもまた黒犬である。もしこの紳士がこう云っていたとしたらどうだったであろう。「もちろんですとも。お若いお友だち。あなたがたんまりお金を持っていたときには、とても気前よくしてくれましたからね。あなたの身の上はお気の毒に思いますよ。どうか私と一緒に暮らしてください。私にパンがひとかけらでもあるうちは、あなたにお裾分けしましょう」。それは、起こりえた中でも最悪のこととなっていたであろう。放蕩息子は決して家に帰ろうなどとは思いつかなかっただろうからである。私は云うが、あなたの苦難は変装したあわれみなのである。あなたの病、あなたの貧困、あなたの悲惨、――おゝ、それらのゆえに私は神をほめたたえる! 天におられる御父は、こうしたゴロゴロいう荷馬車を送って、あなたをご自分のもとへと引き戻されるのである。おゝ、あなたが御父のもとに来さえするならどんなに良いことか! 見るがいい。神の恵みは、こうした愚かな反逆者たちの悩みそのものの中にも現われている。

 しかし、さらにこのことに注意するがいい。彼らは祈り始めた。そして、ここにも私たちは主を見てとる。神が祈りを心に入れ、新しいいのちを霊に吹き込んでくださらないとしたら、誰も神を求めはしないからである。

 それから彼が祈り出すや否や、主はその祈りを聞かれた。こう記されている。「主はみことばを送って彼らをいやし、その滅びの穴から彼らを助け出された」。それで、愛する方々。私たちを救うために神が行なわなくてはならないすべてのことは、みことばを私たちに送ることなのである。神は、ご自分の愛する御子を遣わすことによってそれをなされた。御子は、受肉した《ことば》であられる。神は、聖書という形でみことばを私たちに送られる。ご自身のしもべたちの説教においてみことばを私たちに送られる。だが、私たちにとって何にもまして必要なのは、聖霊の力によってそのみことばが心に突き入れられることである。「主はみことばを送って彼らをいやし……た」。あなたに今晩必要なことは、ただ主が語られたみことばが、あなたの心中深くで証印を押され、あなたがそれを受け入れ、それを信ずることだけである。「主イエス・キリストを信じなさい。そうすれば、あなたも……救われます」[使16:31 <英欽定訳>]。

 いかに主がこうした人々を救い出されたかに注目してほしい。見ての通り、彼らは食べることができないでいた。病み衰えたあまり、何も摂食できないほどの状態に至っていた。あらゆる種類の食物を忌み嫌っていた。そして、主が彼らに何らかの食物を送られたとは記されていない。否。主はご自分のみことばを送られた。多くの医者たちはその病気を取り扱おうとするが、神はそうされない。神は患者自身を、また、彼の体質をお取扱いになる。根本的なしかたで主は彼らをいやした。それから、主によって癒された後で、彼らには食欲が戻ってきた。彼らは、いったん神が彼らを癒された後では、あらゆる食物を忌みきらわなかった。主は種々の症候群に働きかけるのではなく、その人に働きかけられる。私たちをこの罪やあの罪から救い出すのではなく、罪の生ずる元である古い心を取り去り、新しい心を与えられる。その新しい心から、悔い改めと、信仰と、生き方の変化が生ずるのである。あなたが角灯を持っているとする。さて外が暗くなっている場合、あなたがいくらその外側を磨き立てようとも、そこからは何の光も発されないであろう。最初になすべきことは、その角灯の内側に蝋燭を入れることである。これこそ主が行なわれることである。そして、そのとき、主が蝋燭をその角灯の中にお入れになるとき、私たちは自分に向かってこう云うのである。「この角灯の汚さ加減ときたらどうだ。これは、きれいにしなくては」。それは、光が中に入る前より少しでもよごれが増したのだろうか? 否。それは全く同じ角灯である。だが、そこに蝋燭を入れたとき、あなたはそれがいかによごれているかを、内側から輝いている光によって悟るのである。火のともった蝋燭を中に入れるまで、いくらきれいにしようと、また、磨き立てようと何の役にも立たない。知っての通り、ムーディ氏はこのことを次のように云い表わした。かりに、ひとりの奥方が手鏡を取り出し、それをのぞき込んだとき、自分の顔に1つの黒子を見つけたとする。それが手鏡の役割である。――黒子を明らかに示すことがそれである。だがあなたは、自分の顔を手鏡で洗う奥方の話など一度も聞いたことはない。それがその役割ではないからである。しかり。手鏡は黒子を示すが、その黒子を取り除くことはできない。まず最初に私たちは、律法を用いて、私たちの数々の黒子を見いだす。だが私たちは、福音におけるイエス・キリストのもとに行かない限り、そうした黒子を取り去ることはできない。幸いなことよ、主のもとに行ったことのある人々は!

 「主はみことばを送って彼らをいやし……た」。今このとき、主イエスはわずか一言で、私の前にいる、罪に病んだあらゆる魂を癒すことがおできになる。というのも、《王》の言葉には権威がある[伝8:4]からである。主がお語りになると、古い昔に天は成った[IIペテ3:5]。主がもう一度お語りになると、あなたにとっての新しい天と新しい地が成るであろう。あわれな罪人よ。あなたは死んでいる。だが、キリストがご自分の時代に死人をよみがえらせたときに行なわれたのは、単に彼らに語りかけることだけであった。そして主のことばは、この口によって、主の御霊を通して、あなたを罪の中にあるあなたの死から生き返らせることができる。もしあなたが地獄の悪鬼そのもののようにどす黒く、また、神が忌み嫌われるあらゆる醜行に首までつかっていようとも、それでも、主のみことばがあなたのもとにやって来て、あなたがそれを自分の魂で受け入れるなら、あなたはその場で救われ、あなたの滅びの穴から助け出されるであろう。ここに主のことばがある。それに従ってほしい。ぜひそう願いたい。「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない」[イザ45:22]。また、もう1つある。これに聞き従って、生きるがいい。――「ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え」[イザ55:1]。すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、キリストのところに行くがいい。キリストがあなたがたを休ませてくださる[マタ11:28]。願わくは主があなたを、すぐさま、遅れることなく来させてくださるように。そして、主の御名に賛美が帰されるように。アーメン、アーメン。

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説教前に読まれた聖書箇所――詩篇107篇


『われらが賛美歌集』からの賛美―― 30番、606番、697番

 

様々な愚か者たちの物語[了]

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