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奴隷の霊と子としてくださる御霊

NO. 1759

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説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父。』と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます」。――ロマ 8:15、16


 この2つの節は、「霊」という言葉で満ちており、霊的な真理でも満ちている。直前の数節には、肉と、肉的なことをもっぱら考える結果――すなわち、死――のことが記されている[ロマ8:5-8]。しかし今、この節で私たちは肉から離れ、ただ私たちの霊に対する聖霊のみわざと、そこから生ずるほむべき特権――すなわち、「私たちが神の子どもと呼ばれる」[Iヨハ3:1]こと――についてのみ考えている。私たちがこの特権にあずかるには、聖霊の力によるしかない。というのも、霊的な真理は御霊によってわきまえられなくてはならない[Iコリ2:14]からである。私たちの目には神の光が必要であり、私たちの霊は聖霊によって生かされることが必要である。私たちは《大いなる霊》に私たちの祈りをささげるものである。どうか私たちに、そのみことばの完全な意味を感じとらせてくださるようにと。

 この聖句には、御霊の四重のみわざが見てとれると思う。第一に、奴隷の霊である。第二に、子としてくださる霊である。第三に、祈りの霊である。――ここにそれがある。「私たちは御霊によって……呼びます」。そして第四に、証しの霊である。「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます」。

 I. まず第一に考察したいのは、《奴隷の霊》である。私たちが自分の堕落した性質によってしばしば至らされる奴隷状態の多くは、神の御霊の働きでは全くない。罪の下における奴隷状態、肉の下における奴隷状態、この世の流行や習慣に対する奴隷状態、人への恐れの下での奴隷状態、――これは肉的な奴隷状態であり、肉や罪や悪魔の働きである。しかし、ある意味における奴隷状態は、――そして使徒は、ここで主にこのことを暗示していると思うが、――神の御霊から出たものである。御霊は、最初は私たちにとって生かす御霊[Iコリ15:45]ではなく、枯らす御霊であられる。――「草は枯れ、花はしぼむ。主の御霊がその上に吹くからだ。まことに、民は草だ」[イザ40:7 <英欽定訳>]。天来の御霊は、癒す前に傷つけ、生かす前に殺す。私たちは通常、律法のわざと福音のわざとを区別するが、律法のわざは神の御霊のみわざであり、ある程度までは真の福音のわざである。それがしばしば、福音による喜びと平安に先立つという限りにおいてそうである。律法は針であり、その後に祝福の絹糸が引き続くのである。そして、針がなければ、ものに糸を通すことはできない。人々がキリストによって解放される自由を受けるには、まず第一に、自分の霊の内側で奴隷であると感じ、この偉大な《解放者》、主イエス・キリストに向かって自由を叫び求めるよう駆り立てられなくてはならない。この奴隷の感覚あるいは霊は、あわれみを求めて私たちを叫ばせるように導くことによって、私たちの救いのためになる。

 ここで注意したいのは、ある種の奴隷状態が、少なくとも部分的には、神の御霊のみわざである、ということである。確かにそれはしばしば陰鬱なもの、暗いものであり、かつ、私たちに益をもたらすつもりなど全くない他の種々の者どもによって相当律法的なものとされてはいるが関係ない。私が今から述べたいと思う部分の奴隷状態は、全く神の御霊のみわざである。それは、まず最初に、人々が罪を確信させられることによって至らされる奴隷状態である。この奴隷状態は、天性のわざではないし、確かに悪魔のわざでは決してない。人間の雄弁のわざでも、人間理性のわざでもない。神の御霊のみわざである。こう書かれている通りである。「真理の御霊が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます」*[ヨハ16:13]。奇蹟が起こらない限り、人は自分が実際に罪人であることが分からない。人はそれを認めようとしない。それに抵抗する。外的なそむきの罪を告白するときでさえ、自分の咎の内的な極悪さを知り、感じることはない。そのため、自分が自分の神に対して反逆者であるという事実によって、魂の内側で唖然とさせられることも、うろたえさせられることも、へりくだらされることもない。さて、いかなる人も、自分が罪人であると分からない限りは、《救い主》を知ることは決してできない。病気があること、それが悪質であることを全く知らない間は、誰も医者を尊ぶことはできない。律法の、殺傷する文章によって、私たちは傷つけられ、打ち砕かれ、微塵に粉砕される。一切の体裁の良さや、自分を義とする点にかけてそうである。私は云うが、これこそ神の御霊のみわざである。御霊は私たちの内側に必要な奴隷の霊を作り出すために、私たちを罪の感覚の下に置かれる。

 神の御霊は常に真理の御霊であり、それゆえ、真実な点についてのみ人々に罪を確信させる。御霊は彼らを何の偽りの、あるいは、空想的な、あるいは、不必要な奴隷状態の下に置くこともなさらない。「真理の御霊が来ると、罪について……世にその誤りを認めさせます」。――なぜなら、世は罪深いからである。御霊が人々を罪人であるがゆえに奴隷状態に陥らせるとき、御霊は単に彼らをその正しい地位につけるにすぎない。御霊が律法によって私たちの中のある者らのもとに来たとき、御霊は私たちが生来いかなる者であるかを感じさせてくださった。そして、私たちが感じたこと、見てとったことは真実であった。御霊は私たちに、物事の真の姿を見てとらせたのである。御霊が来るまで、私たちは苦みを甘み、甘みを苦みとし、闇を光、光を闇としていた[イザ5:20]。だが、真理の御霊が来たとき、罪は罪に見えた。そのとき私たちは奴隷となった。そして、それは決して空想の奴隷状態ではなく、まぎれもない真実であった。

 また、やはり神の御霊が私たちをさらなる奴隷状態に至らせたのは、御霊が、罪の後には刑罰が確実に続かざるをえない、と私たちに感じさせたときであった。神が決して咎ある者を無罪放免することはありえないこと、神が次のように云われたとき、決して私たちをからかってはおられなかったことを私たちに知らせてくださったときであった。「罪を犯した者は、その者が死ぬ」[エゼ18:4]。私たちは自分の内側で死の宣告を感じさせられ、自分を頼ることができなくなった。そのとき私たちは運命の絶壁で震えた。自分がすでに地獄にいるのではないか思い惑った。あまりにも罪を確信したため、その判決がたちどころに自分の上に執行されないことが不思議でならなかった。弁解や自己正当化ということにかけては、私たちは神の前で一言もなかった。正義の刃をそむけさせることができるようなものを何物も差し出せなかった。それが、全能の忍耐という鞘から抜き取られた剣のようにきらめいているのを目にしていたが関係ない。あなたは、それがいかなることか知っているだろうか? あなたが贖罪をありがたく思いたければ、あるいは、血による償いの甘やかさを感じたければ、何にもましてあなたは、自分の魂のいのちが、自分のそむきの罪ゆえに、神に奪われて当然であると感じなくてはならない。私たちは、自分が律法の宣告の下に閉じ込められていると知るのでない限り、決して神の《小羊》の血を通して恵みにより私たちのもとにやってきた自由を喜ぶことがないはずである。この二重の奴隷意識を私たちの中に作り出してくだる神の御霊はほむべきかな。御霊は、まず私たちに自分が咎ある者であることを知らせ、次に、神の正義が私たちを罪ゆえに罰さざるをえないことを感じさせてくださるのである。

 それからさらに、神がお救いになる人々の心の上で、神の御霊が奴隷の霊としてお働きになるのは、彼らに律法の行ないによって自分を浄化しようと望むことが完全に不可能であると感じるように導くことによってである。私たちは、自分の魂の上にこの宣告が轟きわたるのを聞いた。――「律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められない……。律法によっては、かえって罪の意識が生じる」[ロマ3:20]。私たちは、律法の下では私たちの神に向き合えなかった。私たちは、神がご自分を啓示されたシナイの燃える頂を仰ぎ見たが、その峨々たる岩々は私たちのよろめく足で登るには険しすぎた。たとい道がなだらかであったとしても、いかにして、あの漆黒の闇を通り抜け、焼き尽くす火であるエホバ[ヘブ12:29]と交わりを持つことなどできただろうか? 神の御霊は、一度で決定的に私たちから、自分自身の義についての一切の考えを捨てさせた。私たちは律法的な精神からきれいに絶縁させられた。自分の行ないや感情や祈りによって、きよく聖なる神の御前で自分を義としようなどという考えそのものを、否応なしに忌み嫌うように仕向けられた。これは神の御霊のみわざであった。

 こうした結果は常に神のあらゆる子どもの中に生み出されるが、常に同じ程度の奴隷状態によってではない。この監獄では、知恵と思慮の定めるところに従って、異なる重さの枷が用いられる。奴隷の霊は、すべての人に同じようにはやって来ない。というのも、ある人は一瞬にして平安といのちを見いだし、シナイが轟き始めるや否やカルバリのもとに行くからである。

 これまで私が知ってきたところ、この奴隷の霊は、それまで公然とそむきの罪を犯してきた人々には、すさまじい力をもって臨むことがある。他の人々は、神の抑制の恵みによって極端に露骨な罪から守られてきており、それほど奴隷の霊を感じてこなかった。だが、神を冒涜し、安息日を破り、あらゆる聖なることを汚してきた人々は、――罪の感覚の下で神の御前に引き出されるとき、しばしば奴隷の霊によって辛い目に遭う。ジョン・バニヤンの『溢れる恩寵』を読んで、いかに彼が五年間もこの奴隷の霊に屈していたか注目するがいい。彼の場合に注意すべきは、彼の奴隷状態が、何から何まで御霊のみわざであったとは到底云えないということである。というのも、その大部分は彼自身の不信仰から生じていたからである。しかし、それでもその核心と心臓部には神の御霊のみわざがあって、素晴らしいしかたで彼に罪を確信させていた。話をお聞きのある人々は、外的なそむきの罪の中に没入してしまっているかもしれないが、霊的ないのちへと至らされたとき、自分の罪の感覚の下で、非常な悲嘆と不面目を感じさせられるとしても、ほとんど不思議ではない。

 そうした奴隷状態に陥るのは、しばしば、古の著者たちがよく云っていたように、「徹底的な罪人」であった人々である。――自分が罪人であることさえ全く知らずに、自分の道徳性や、生活の几帳面さの結果、神の御前における自分自身の卓越性についてうぬぼれきっていた人々である。それは、あたかも神が各人にこう仰せになるかのようであった。「私はあなたから自分を義とする思いを取り除かなくてはならない。自分の道徳的な生き方に頼ろうとすることをやめさせなくてはならない。それゆえ、わたしはあなたに自分の堕落ぶりの深みをのぞき込ませよう。あなたの、光と知識に背くもろもろの罪、良心に背くもろもろの罪、神の愛に背くもろもろの罪をあなたに悟らせよう。あなたは、痛烈な奴隷状態に至らされるが、それがあなたの高慢を癒すであろう」。

 私はもう1つのことに気づいてきた。そしてそれは、後年に大いに用いられるようになる人々は、しばしばこのように掘り返され、耕され、こやしをやられるということである。それは、後年の彼らによって多くの実が結ばれるためである。私は、いま生きているいかなる人にも負けないくらい多くの悩める魂を取り扱わなくてはならなかったし、神は私を大いに用いて彼らを解放してくださった。だが、私に判断のつく限り、こうしたことが可能であったのは、ひとえに私自身がすさまじい律法のわざの的とされたことがあったからであった。律法は、単に私の現実の罪について私を罪に定めただけでなく、その罪の源、すなわち、私自身の性質の堕落性という、深く底なしの泉についても私を罪に定めたのである。私は、絶望に駆られて、ほとんど自害しようとしているような人々に出会うとき、こう云ってきた。「ええ。私には、それが全部理解できますよ。私ははそうした墓穴の中にいたことがあり、その湿気に寒気を覚えさせられている人たちに共感できます。私は、在留異国人の心をよく知っています[出23:9]。というのも、私もまたかつてエジプトの国のとりことして、煉瓦焼き窯で働いていたからです」。そうした場合、この奴隷の霊は、後々の働きのための有益な備えとなる。幾多の鎖かたびらを断ち切らなくてはならない剣は、多くの火で鍛えられなくてはならない。普通の刃ならば受けなくて済む幾多の過程を忍ばなくてはならない。それゆえ、あなたがた全員が、奴隷の霊を自分のうちに同じ程度に見るものと予期してはならない。というのも、結局において、願われるべきは、奴隷の霊そのものではなく、その後に来るもの――キリスト・イエスにある自由の御霊――だからである。

 本日の聖句が私たちに思い起こさせるところ、魂におけるこの奴隷の霊の結果は、恐怖である。――「人を……恐怖に陥れるような、奴隷の霊」。恐怖には五つの種類があり、それらを区別しておくことは常に有益である。

 被造物が、その《創造主》に対していだく自然な恐怖がある。これは、自らの卑小さと、その《造り主》の偉大さとのゆえに起こる。これから私たちは完全には決して解放されない。というのも、私たちは、栄光において完璧になるときでさえ、この神聖な威光の前に聖なる畏怖とともにひれ伏すだろうからである。

 二番目に、肉的な恐れがある。つまり、人への恐怖である。願わくは神が私たちをそれから解放してくださるように! 願わくは私たちが決して人の目を恐れて義務をやめることがないように! この臆病さから神の御霊は信仰者たちを解放してくださる。

 次の恐怖は、奴隷的な恐れである。――奴隷がその主人に対して、怒らせたら打たれるのではないかと覚える恐れである。それは、新生していないあらゆる心に正当に宿っているべき恐れである。奴隷は、子どもにされるまで、この、自分の立場に似つかわしい恐れを感じるべきである。この恐怖によって、覚醒された魂は、キリストへと駆り立てられ、引き寄せられ、その完璧な愛を学んでは、それがこの恐れを追い払うのである。

 奴隷的な恐れが追い払われない場合、それは四番目の恐怖へと至らせる。すなわち、悪魔的な恐れである。というのも、悪霊たちについては、こう書かれているからである。「信じて、身震いしています」[ヤコ2:19]。これは、処刑人のもとに向かう犯罪者の恐れである。神の御顔の光から永遠に閉め出される魂をとらえるような恐れである。

 だが五番目に、子としての恐れがあり、それは決して精神から追い払われはしない。これは涵養されるべきである。これが、「知恵の初め」たる「主を恐れること」[箴9:10]である。これは、恵みの尊い賜物である。「幸いなことよ。主を恐れる人は」*[詩112:1]。これによって聖徒たちは罪を犯すことを恐れるようになる。無限の愛を悲しませるといけないからである。そのため彼らは、親を不快にさせるようなことを何もすまいとする、愛に満ちた子どもの恐れをもって主の御前を歩むようになる。

 奴隷の霊が心に働いているときには、四番目の形の恐れ、すなわち、奴隷的な恐れが多々ある。そして、私は云うが、真理の御霊こそ、それを私たちにもたらすお方である。なぜなら、私たちはそれを必要とする状態にあるからである。私たちは、キリストによって自由にされるまで奴隷である。そして、なおも律法の下にある者として、奴隷的な恐れは私たちの最も自然で適切な感情なのである。奴隷が、自分の有してもいない自由を喜ぶようになるだろうか? むしろ、自分の奴隷状態を忌み嫌っているとしたら、自由になりたがるではないだろうか? 私が願うのは、この場にいる、神の子どもではないあらゆる人が、奴隷的な恐れに取りつかれ、《いと高き方》の前で震えることである。

 さて、注意してほしいのは、この恐怖が続いている間、それは私たちを神へと向かわせるためのものであるということである。すでにこの点には触れた。恐怖をもたらすこの奴隷状態は、自分を義とする思いを、私たちから断ち切る。キリストの義を尊ばせる。また、いくつかの罪に終止符を打ちもする。多くの人は、結果を恐れるがゆえに、自分の破滅となるようなあれこれのことをやめる。そして、その限りにおいて、その恐れはその人にとって益となる。そして、恐怖によってその人の魂の中に作り出されたその恐怖の感覚は、後年、その人を自分の主により近く保っておくことであろう。いかにしてその人は、以前に自分の魂を苦々しさと悲嘆で満たしたような悪いことに立ち戻れるだろうか?

 しかし今、私が注意したいのは、私たちが、この奴隷状態を脱して、二度とそれを受けるべきではない、ということである。というのも、「私たちは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではない」*からである。やがて、真理の霊がもはや奴隷状態を引き起こさないときがやって来る。なぜだろうか? それは、私たちがもはや奴隷ではなく、それゆえ、私たちには何の奴隷状態もなくなるのである。私たちにもはや咎がなく、神の法廷において潔白とされているため、いかなる罪も私たちの霊に重くのしからない。私たちが神の子どもたちとなったためである。そして、神は、神の子どもたちが奴隷のように震えることを禁じておられる。しかり。私たちは奴隷の霊を再び受けはしなかった。というのも、神の御霊はそれを二度と私たちにもたらしてはおられず、確かに悪魔がそれをもたらそうと試みるが、私たちは彼の財産を「受ける」ことをしないからである。そして、確かに時としてこの世は私たちがそれを感じるべきだと思うが、私たちは世のものではない[ヨハ15:19]。そして私たちは、この世の霊を「受ける」ことはしない。私たちはキリスト・イエスにあって新しく造られた者[IIコリ5:17]である。私たちは律法の下にはなく、恵みの下にある[ロマ6:14]。それゆえ、私たちの以前の奴隷状態から自由である。「私たちは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではない」*。私たちの知っている一部のキリスト者たち、あるいは、キリスト者と自称する一部の人たちは、しばしばこの奴隷の霊の下に入る。彼らは誤ったことを云う。「私は、罪を犯してしまった以上、神の子どもではなくなってしまったのだ」。それは、復讐を伴う奴隷の霊である。もしあるしもべが不服従なら、お払い箱になるであろう。だが、わが子を放逐する人はない。私の子は永遠に私の子である。子であることは確定した事実であり、ありうべきいかなる環境下にあっても決して変更されえない。もし私が神の子どもだとしたら、誰が私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離す[ロマ8:39]だろうか? ある人々は、あらゆる宗教活動を恐れの原理から行なう。また、あれこれの不正行為を恐れゆえに差し控える。神の子どもはこのように駆り立てられたり、引き留められたりすることを望まない。その人は報酬目当てには働かない。救いを獲得しようとして骨折り仕事をするのではない。その人は救われている。そして、神が「みこころのままに、その人のうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださる」*[ピリ2:13]がゆえに、内側ですでに神が作り出してくださった救いを達成[ピリ2:12]しようとする。幸いなことよ。自分がもはやしもべではなく、神の相続人であり、キリストとの共同相続人[ロマ8:17]となっていることを知っている人は。

 II. ここから私たちは、本日の第二の項目に至る。《子としてくださる御霊》である。このほむべき主題について、適切に説教するには一週間も必要なはずである。そこで、そうした説教をする代わりに、いくつかの示唆をあなたに与えたいと思う。

 使徒がこう云っていることに注目してもらえるだろうか? 「あなたがたは……子としてくださる御霊を受けたのです」。もし彼が文体にこだわっていたとしたら、こう云い足していたであろう。「あなたがたは……」、何の霊を受けただろうか? 何と、「自由の霊を受けたのです」。それが奴隷状態の逆である。左様。だが、私たちの使徒は、厳密な作文作法に妨げられてはいない。彼は、ずっと偉大な言葉を差し挟んでいる。――「あなたがたは……子としてくださる御霊を受けたのです」。これにより、私はこう述べさせられる。すなわち、この云い表わし方から、明らかなことは、子としてくださる御霊は、最高の意味において、自由の霊である、と。もし御子があなたを自由としてくださるなら、あなたがたは本当に自由なのである[ヨハ8:36]。もしあなたがた自身が、そのほむべき御子によって子となっているとしたら、おゝ、あなたがたの霊がいかに自由なことか! あなたの魂には、今や恐れるべきものが何もない。あなたは神の御怒りを恐怖する必要がない。とも神はこう誓っておられるからである。「わたしは……あなたを怒らず、あなたを責めない」[イザ54:9]。信仰者は、神の愛が自分の心に注がれている[ロマ5:5]のを感じる。それゆえ、それまで一度も有していなかったような、神に近づく自由を行使する。大胆に近づける。子どもが父親と語るようにして、神と語るようになる。見るがいい。この自由の御霊、この子としてくださる御霊がいかにほむべきものかを。

 さて、使徒によると、「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく」。その逆は何だろうか? これはこう云い足すべきであった。――そうではないだろうか。――「あなたがたに信頼を持たせてくれるような、自由の霊を受けたのです」。彼は、これほど多くの言葉で表現してはいないが、以下のように云うことによって、そうしたすべてのことを云い、それよりもずっと多くのことを云っている。「私たちは御霊によって、『アバ、父。』と呼びます」。これこそ、考えられる限り最高の形の信頼である。――神の子どもは、「アバ、父」と呼ぶことができるのである。それ以下のいかなる呼び方でもなく、たとい、しいられて、そう呼ぶようにされたとしても関係ない。その人は、最低の状態にあって、悲しみと嘆きに満ちているとき、また、痛哭して泣き叫んでいるときでさえ、それでも、「アバ、父」にすがりつく。これは実に喜ばしい信頼である! おゝ、愛する方々。願わくは神がそれをあなたに余すところなく与えてくださるように!

 こうして、明らかにこの子としてくださる御霊は自由の霊であり、信頼の霊である。ある子どもは、その父親が自分を愛して、自分に食べ物、着るものを与え、自分を教え、自分のために良いことをみな行なってくれると確信する。そのように私たちは、こう確信するのである。「主は……正しく歩く者たちに、良いものを拒まれません」[詩84:11]。むしろ、「神を愛する人々……のためには、すべてのことが働いて益となる」[ロマ8:28 <新改訳聖書欄外訳>]、と。

 奴隷の霊は私たちを恐怖に陥れるが、子としてくださる御霊は私たちに完全な確信を与えてくださる。神に不信感をいだく恐れ、――神が愛に満ちた、あわれみ深い神のままであられるかどうかを疑う恐れ、――神のあらゆる愛がなくなってしまうのだと私たちに思わせる恐れ、――それは消え失せる。というのも、私たちは、「アバ、父」、と呼ぶからであり、その叫びは、疑いや恐れの死だからである。私たちは華やかな音楽に合わせてこう歌う。「私は、自分の信じて来た方をよく知っており、また、その方は私のお任せしたものを……守ってくださることができると確信している」[IIテモ1:12]、と。

 さらに子としてくださる御霊は、感謝の霊である。おゝ、主が私を子どもたちの中に入れてくださるようなことがあるとは! なぜ主がそうしなくてはならないのだろうか? 別に子どもが足りなかったから、私を子としてくださったのではない。かの《長子》だけで十分、御父の心は永遠に満たされていた。だがしかし、主は私たちを子どもたちの中に入れてくださった。主の御名は、永久永遠にほむべきかな! 「私たちが神の子どもと呼ばれるために……御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう!」[Iヨハ3:1]

 子としてくださる御霊は、子どもらしさの霊である。子どもたちが自分の親の真似をする様子は、時として悲しくはあっても、可愛らしいものである。小人はいかに自分の父に似ていることか! それに注目したことはないだろうか? それを見ると好ましくも思うではないだろうか? そうであることをあなたは知っていよう。左様。そして、神が子としてくださる御霊をお与えになるとき、私たちの中には、――あわれな堕落した生き物である私たちではあっても、――神ご自身に少しは似たものが生じ始める。そして、そして、それは神の完璧なかたちへと育っていく。私たちは神にはなれない。だが、神の子どもたちとなる特権と名誉を得ている。「その名を信じた人々には」、イエスはこの特権をお与えになる[ヨハ1:12]。それゆえ、私たちは、あらゆる点において、私たちの《かしら》なるお方のように育っていく。このお方は、それと同時に、神のあらゆる子どもたちがそうなるべき模範であり鏡なのである。

 このようにして、愛する方々。大いなる喜びとともに見てとろうではないか。私たちが再び奴隷の霊を受けないでいることを。私たちがそれを受けることは決してない。神の御霊は、そうした形では二度と私たちのもとにおいでにならないであろう。というのも、今や私たちは血で洗われており、他の人々と同じように御怒りを受け継ぐべき子ら[エペ2:3]であったところを、《いと高き方》の家族の中に置かれ、自分の内側に、それによって「アバ、父」と呼ぶべき、子としてくださる御霊を感じているからである。

 III. 次の霊については、ほんの二言三言を語るだけとしよう。《祈りの霊》である。子としてくださる御霊が人の中に入るとき、それは常にその人を祈らせる。その人はそれを抑えられない。抑えたいとも思わない。

   「祈りは信者の いのちの息吹、
    信ずる者の 自然の大気、
    死の門ひらく、その合言葉。
    そは祈りもて 天に入らん」。

 そしてこの、子としてくださる御霊を有する真の信仰者の祈りは、非常に真剣な祈りである。というのも、それは呼び叫ぶ形を取るからである。その人は、「アバ、父」、と云うのではない。誰にでも、この言葉は云える。しかし、その人は、「アバ、父」、と呼び叫ぶのである。いかなる人も、「アバ、父」、と呼び叫べるためには、聖霊によるしかない。この「アバ、父」という二語は、子どもの泣き声という音楽にさせられる。そこにはデモステネスやキケロのいかなる演説をもしのぐ力がある。この二語は非常に天的な響きをしており、ただ二度生まれた者たち、神の真の貴族たちだけが発することができるのである。「アバ、父」。これは《永遠者》の心さえ感動させるのである。

 しかし、これはまた、非常に自然な祈りでもある。子どもが、「お父さん」と云うのは、当たり前の道理である。そうすることを教えるために、子どもを小学校にやる必要などない。子どもたちは、すぐに、また、何度でも、「お父さん」、と呼ぶものである。そのように、私たちが新しく生まれるとき、「天にましますわれらの父よ」、は決して私たちに押しつけられた祈りにはならない。それは、新しく生まれた性質の内側から自然に湧き起こる。そして、私たちは、新しく生まれているがゆえに、「アバ、父」、と呼ぶのである。私たちがしばらくの間私たちの父を見失うとき、私たちは暗闇の中で父を探して泣き叫ぶ。父が鞭を手にとって私たちを打たれるとき、私たちは泣き叫ぶ。だが、ただこのようにのみ泣き叫ぶ。――「アバ、父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください[マタ26:39]」。

 これは、単に真剣な叫びで自然な叫びというだけでなく、非常に心に訴える叫びであるように思われる。あなたの子どもがこう云うとき、あなたの心は揺さぶられる。「お父さん、もうぶたないで。おゝ、お父さん。私を大事に思ってくれるなら、もう赦して」。真の祈りは、神が父であられることを申し立てる。――「わが父。わが父。私は赤の他人ではありません。敵ではありません。あなたご自分の愛する、いとし子です。ですから、父がその子どもたちをあわれむように、私をあわれんでぐたさい」。主は決してこうした懇願をお聞き流しにはならない。主は仰せになる。「わたしは……いつも必ず彼のことを思い出す」[エレ31:20]、と。そして愛によって主はその御手をとどめられる。

 そして、これはいかに親しげな言葉であろう。――「アバ、父」! 奴隷は決して自分の主人のことを「父」と呼ぶことが許されなかったという。それは、生まれながら自由であった子どもたちだけに許された言葉であった。いかなる者も、神の子どもたちに許されているようなしかたで神と語り合うことはできない。一部の批評家たちが、私たちの祈りについて時々こう云うのを私は聞いたことがある。「あの男は、神に何となれなれしいことか」。そして、ある者はこう云い足す。「私は、あのような大胆さを好まない」。しかり。あなたがた、奴隷たち。もちろん、あなたは子どものようには神と語り合うことができない。そして、あなたがそうすることは正しくないであろう! あなたに似合っているのは、恐怖し、縮こまり、みじめな罪人のように、神から身を遠ざけていることである。遠くにいることが奴隷の分際である。ただ子どもだけが近寄れるのである。しかし、もしあなたが子どもなら、こう云って良い。「主よ。あなたは私がみじめな罪人だったにもかかわらず、私をあわれんでくださいました。私をきよめてくださいました。私はあなたのものです。それゆえ、あなたの豊かな恵みに従って私を扱ってください。私の心はあなたを喜びます。あなたは私の神であり、私の最も喜びとするお方だからです」。真に神に生まれた子どものほか、誰がこの言葉を理解できるだろうか?――「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」[詩37:4]。

 私の知る限り、何にもまして喜ばしい神への言葉は、「アバ、父」、と申し上げることである。これは、このように云うも同然のことである。――「私の心は、あなたが私の御父であられると知っています。私はそのことを、私が自分の地上の父親の子どもであることを確かに知っているのと同じくらい確かに知っています。そして、私はあなたが、私の父以上に私を優しく扱ってくださることを確信しています」、と。パウロはこのことを示唆しつつ、地上の父親が、自分の良いと思うままに私たちを懲らしめるが、主が常に私たちの益のために私たちを懲らしめることを思い起こさせている[ヘブ12:10]。天の御父の心は決して、憤って打ち叩くほど怒ることがない。むしろ、憐れみと、優しさと、思いやりによって、ご自分の息子たち娘たちを懲らしめてくださる。「あなたは真実をもって私を悩まされた」*[詩119:75]。こうした状態に入らされることが、いかにほむべきことか見るがいい。私たちは神の子どもとされ、自分の祈りの中で、奴僕や奴隷のようにではなく、「アバ、父」、と呼ぶ子どものように祈っているのである。

 IV. さて、最後のことは、《証しの霊》である。――「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます」。

 神のあらゆる子どもが子とされていることを証しするものが2つある。二というのは法的な数である。二人の証人の口によって、すべてが確認されるのである[マタ18:16]。最初の証人は、その人自身の霊である。その人の霊は云う。「しかり、しかり、しかり。私は神の子どもである。私は、神に近づくことを強く感じている。神に喜びを強く感じている。神への愛を強く感じている。神に従いたいと強く感じている。こうしたことは、私が神の子どもでなかったとしたら決して感じることがありえないほどのものだ。さらに、神ご自身のみことばがこう宣言している。『この方を』――つまりキリストを――『受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった』[ヨハ1:12]。さて、私はキリストを受け入れている。また、主の御名を信じている。それゆえ、私には神の書かれたみことばという証拠があるのだ。私は神の子どもたちのひとりだという。私には神の子どもたちのひとりとなる権利、許可、権威がある。それが私の霊の証しだ。私は信じている。それゆえ、私は子どもなのだ」。

 そこにやって来るのが、聖霊の証しである。誰も、御霊が真実を語ることに疑いはいだけない。だが、いかにして神の御霊は私たちが子どもであることを証ししてくださるのだろうか?

 最初に御霊は、すでに述べたように、ご自分の著されたみことばを通して、そのことを証ししてくださる。聖書におさめられたみことばは、もし私たちが救いに至る信仰を有しているなら全く十分である。私たちはそれを受け入れ、それを信じる。「私たちは、さらに確かな証しのみことばを持っています」*、とペテロは云う[IIペテ1:19]。これは、使徒の素晴らしい宣言である。ペテロは、聖なる山でキリストの変貌を見たことについて語っていた。それは確実ではなかっただろうか? しかり。確実であった。だが、彼は実質的にこう云うのである。――私たちには、私たちが目にしたいかなる光景にもまさって確かな証しの言葉がある。私たちは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めていると良いのである、と。

 次に、神の御霊は私たちの中におけるご自分のみわざによって証しされる。御霊は私たちの中に、私たちが神の子どもたちであることを証明するものを作り出される。では、それは何だろうか?

 一番目のことは、御霊が私たちの中に神への大きな愛を作り出されることである。神を愛する者は、神によって生まれた者たちしかいない。キリスト・イエスにおける神に対する真の愛は、神ご自身の御霊によって生まれた者たちの中にしかない。それで、私たちが神を愛していることは、私たちが神の子どもであるという御霊の証しなのである。

 さらに、御霊は私たちの中に、神に対する崇敬を作り出してくださる。私たちは、子どもにふさわしい畏敬をもって神の御前で恐れる。神に関わる一切のことは、神が私たちと交わりを持たれるとき、私たちにとって神聖なものとなる。左様。たとい神が夢の中で私たちと会ってくださったとしても、私たちは云うはずである。「この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ」[創28:17]。神の御足元は私たちの目にとって栄光に富んでいる。神に選ばれた者たちの中で最も卑しい者さえ、私たちの評価においては誉れがある。この、信仰者たちの聖なる畏怖は、彼らが神の子どもたちである証拠である。もし神が彼らの御父であられるとしたら、彼らは神を崇敬するであろう。というのも、私たちも知る通り、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたが、しかも私たちは彼らを敬った。そう敬うことが当然だからである。私たちは自分の霊の父に服従して生きるべきではないだろうか?[ヘブ12:9] その服従は、私たちが本当に神の子どもたちである最も確かな証拠である。

 これに加えて、神の御霊は私たちの中に聖なる自信を作り出してくださる。御霊の恵みによって、私は悩みの日にも、神のうちに安らぐことができる。自分の道を見通すことができないときも、見ることなしに喜んで進み続ける。私たち自身の目をもって見ることに何の益があるだろうか? 主はその御目をもって全地を見渡し、ご自分に信頼している人々に御力を現わしてくださるのである[II歴16:9]。私たちの信仰は、一見すると矛盾することを信じることに喜びを感じる。見かけは不可能に思われることを受け入れることを楽しむ。私たちは神の真実さを確実に、また堅固に信じているため、たとい天のあらゆる御使いが神の真実さを否定するようなことがあったとしても、彼らを嘲り笑うことであろう。神は真実であるに決まっている。そして、私たちはそれを知っている。神の書のあらゆる言葉は、そのことを私たちがこの目で見たのと同じくらい、私たちにとっては確実に真実である。――左様。そして、それ以上に真実である。というのも、目は欺き、誤り導くが、神は決してそのようなことがおできにならないからである。このほむべき子どものような信頼があるときは常に、私たちが神の子どもであるという御霊の証しがあるのである。

 それからまた、神の御霊が私たちのうちに聖化を作り出されるとき、それは私たちが子どもであることのさらなる証しとなる。御霊が私たちに罪を憎ませるとき、また、きよく善なるあらゆることを愛させるとき、また、自分に打ち勝つことを助けるとき、また、私たちの同胞たちへの愛に導くとき、また、私たちをキリストに似た者に形作ってくださるとき、それは、御霊が私たちの霊とともに証ししておられるのである。私たちが神の子どもであることを。おゝ、その証しをいやまさって持つことができたならどんなに良いことか!

 それだけでなく、私の信ずるところ、外的な耳では聞くことのできない1つの声が、沈黙の中で人の霊を訪れ、その人に知らせてくれるのである。その人が本当に死からいのちへと移っていることを。これもまた、私たちが子どもとされている真実に対する御霊の証印である。

 さて、初めから始めよう。私たちは、かつて私たちに罪の奴隷状態を感じさせてくださったことで御霊をほめたたえようではないか。また、私たちを恐怖させ、震えさせ、キリストのもとに逃げ出させてくださったことで御霊をほめたたえよう。また、私たちを子どもとしてくださったことで御霊をほめたたえよう。私たちを助けて、「アバ、父」、と呼べるようにしてくださったことで御霊をほめたたえよう。そして最後に、今晩、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししておられることで御霊をほめたたえようではないか。

 愛する方々。あなたは主イエス・キリストを信じているだろうか? 信じているとしたら、神の相続人のあらゆる特権はあなたのものである。キリストを信じていないとしたら、神の御霊は決して偽りを証しして、あなたが救われてもいないのに救われているとお告げにはならないであろう。もしあなたが救われておらず、イエスをまだ信じていないとしたら、私はあなたに云いたい。あなたは神の御霊が決して署名せず、証印を押すこともない白紙の文書のようなものである。というのも、御霊は決して白紙に署名するほど愚かではあられないからである。もしあなたが信じているとしたら、あなたは神の子どもであり、神の御霊はあなたが子どもであることについて、その証印を押してくださる。安心して行くがいい。そして、永遠に主にあって喜ぶがいい。

    苛立ち、恐れ、奴(ぬ)の恐れなし。
    汝が魂(たま)解放(と)かれ 汝が道 晴朗(さや)か。
    賛美(たたえ)て満たせ、汝が日も、永久(とわ)も、
    生きて愛せよ、ならい、讃えよ。

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説教前に読まれた聖書箇所――ローマ8章


『われらが賛美歌集』からの賛美―― 728番、647番、660番


スポルジョン氏からの手紙

 愛する読者の方々。――三十巻目の年次合本の巻頭において、この3つの説教を1つに合わせながら、私は神への深い感謝を感じている。こうした講話に関連して、神がこれまで示してくださった一切のいつくしみ深さゆえである。それでも、私がひときわ突出して思うのは、来たるべき歳月においても、いやまさる恵みが与えられるようにとの切望である。そして、このことのために、私はあなたがたの愛に満ちた祈りが力をいや増すことを切望するものである。多くの親切を私はあなたがたの手から受けてきた。そうした親切に、さらにこのことを大きく加えてほしい。この説教者のために祈り、これらの説教をあなたの友人たちの間に配り、そこから少しでも益が引き出されたときには常に主をほめたたえることである。この3つの助けによって、これらの説教は、単に出版され続けるのみならず、用いられ続けることであろう。時代は暗く、星の1つ1つが貴重である。

幸いな新年を祈りつつ
敬具
C・H・スポルジョン、マントン、12月29日

追伸。――私が『剣とこて』で語ることをどうか読んでいただきたい。

 

奴隷の霊と子としてくださる御霊[了]

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