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新年に思い起こしてほしい訴え

NO. 1758

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説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「あなたがたが主にあって堅く立っていてくれるなら、私たちは今、生きがいがあります」。――Iテサ3:8


 真に神から遣わされている教役者たちは、自分の信徒たちが霊的に生き生きと成長することを大きな喜びとする。神のことばが大きく前進するのを見ると、彼らも溌剌となる。神の教会が祝福されると、彼らも祝福される。彼らのいのちは自分の信徒たちの霊的ないのちの中にくるみこまれているのである。神のしもべがいかなるときにもまして喜びに満たされるのは、彼の聴衆のもとに聖霊が訪れ、彼らに主を知らせ、その天的な知識により彼らを確かに立たせてくださるときにほかならない。それとは逆に、もし神がご自分のしもべたちの言葉を祝福してくださらないと、それは彼にとって死のようなものである。説教を続けても、何の祝福も得られないとき、彼らの心は重苦しくなる。その戦車の車輪は外れ、進むのが困難になる[出14:25]。何の力も自由もないように思われる。彼らは抑鬱し、自分の《主人》のところに戻って、こう不平を云う。「私たちの聞いたことを、だれが信じたのですか? 主の御腕は、だれに現われたのですか?」*[イザ53:1] 主は彼らの元気を回復させ、彼らを励まされ、彼らは再び自分の奉仕に戻って行く。だがそれでも、自分の信徒たちの上に明白な祝福がとどまっているのを見ないと、彼らは叫び、嘆息をもらし、瀕死の人のようになる。主は、そうすることを望まれたなら、自動人形に説教させることもおできになったはずである。そして、そうした人形に必要なのは単にぜんまいを巻かれ、もう一度停止するまで働かされることだけである。これらは喜びや悲しみといった何の感情も持たず、悲嘆という矢にも決して傷つくことがない。私たちは「鉄の公爵」[ウェリントン公]について聞いたことがあるが、鉄の説教者も長持ちのする器具となったであろうし、精神的抑鬱によって役立たずになることは決してなかったであろう。

 しかし、説教者の共感は、聴衆を祝福するための、神の大いなる手立てである。もしあなたが何らかの本の中で説教を1つ読むとしたら、それは良いことである。だが、もしあなたがそれを人の心から清新に説教されるのを聞くとしたら、それははるかにずっと効果的である。そこには生きた、同胞としての感情があり、それこそ神があらゆる時代に用いてこられた力である。――神が愛情によって繊細にされた霊の力である。その繊細さは、自らの愛情のこもった目的が果たされるときには喜びへと高まり、その目的が挫折すると悲嘆の淵に沈む。これこそ、私の受け取るところ、使徒がこう云うときに意味していることである。「あなたがたが主にあって堅く立っていてくれるなら、私たちは今、生きがいがあります」。信徒は、恵みにおいて豊かになり、キリストにあって幸いになることによって、云い知れぬほどの幸福を牧師に与えることができる。だが、彼らが不安定になったり不誠実になったりすると、牧師は名状しがたいほどのみじめさに突き落とされることがある。

 いと愛する方々。私は、御霊の働きをあなたがたの間で見るとき、しばしば神にあって喜んできた。多年にわたり私たちにとって決して小さくない喜びだったことに、この教会が人数の増加を見ないことは一度もなかった。ごく僅かな例外を除き、私たちは月ごとの例会に集うたびに、相当数の人々を教会員として受け入れてきた。こうした年月の間に、一部の人々はこの世に舞い戻り私たちをいたく悲しませ、また、一部の人々は弱り衰え私たちに厳粛な悲嘆をもたらした。だが、他の人々は屈することなく神のみわざを進め続け、種々の賜物と恵みを発達させ、それによってさらに大きな領域で働くにふさわしい者とされていった。その結果、今日、国内にいる者たちは、どんな賜物にも欠けることなく[Iコリ1:7]、海外にいる者たちは、シオンにおける尊い訓練を忘れていないのである。地上のいかなる部分においても、この教会出身の人々が何人かは聖なる奉仕に携わっている。こうしたすべてについて、私たちの心は感謝せざるをえない。しかし、今は悪い時代である。このような時代を、私は一度も見たことがない。今は拠り所が取り除かれる時代であって、「正しい者は何をすれば良いだろうか?」*[詩11:3] 風はやんだ。船の索具は弛みきっている。海員たちは千鳥足になっている。一切のものが漂い流れているように見受けられる。人々は自分がどこにいるか分かっていない。現代、信仰を告白するキリスト者の半数は、自分の頭と踵の見分けもつかず、見分けのついている残り半数も、信仰に堅く立って、悪しき時代が過ぎ去るのを待とうとするよりは、尻に帆かけて逃げ出そうと決め込んでいるかに見える。今回、私たちはあなたに堅固さについて語った。それはあなたが、愚かな鳥たちが作るだろうあらゆる巣を求めて、生け垣やどぶ川を飛び越える、道草食いの悪童たちのようになることなく、聖潔と真理という《王》の公道を真っ直ぐに進み、神のことばで教えられている教理と実践を堅く保つようになるためである。私は今回の講話であなたに云いたい。「あなたがたが主にあって堅く立っていてくれるなら、私たちは今、生きがいがあります」、と。あなたがたが根ざし、しっかりとした土台に堅く立つことは、私たちにとって生死に関わる問題なのである。

 第一に注意したいのは、ある者らは主のうちにいないということである。第二に、ある者らは主のうちにあるように見えるが、堅く立っていない。第三に、主のうちにある、ある者らは主にあって堅く立っている。そして、こうした者たちが私たちの生きがいなのである。「あなたがたが主にあって堅く立っていてくれるなら、私たちは今、生きがいがあります」。

 I. 第一に、《ある者らは全く主のうちにいない》。不信心と不敬虔さという密集した塊が私たちを取り巻いている。私たちの心は重い。この大きな町が、光に対してその目を閉ざそうと決心しているからである。町通りに次ぐ町通りでは、その中の誰ひとり神の家に出席していない。そしてこれは確かな筋からの情報に立ってのことだが、ある地区においては、もしもある町通りの誰かひとりが定期的に礼拝所に通う姿が見られると、隣人たちはその人を白い目で見るという。労働者階級の地生えのロンドンっ子は、おしなべて礼拝所には何の関心も持っていない。もし私が田舎に住んでいるとしたら、この不敬虔な土地にやって来て住むよりも、俸給は半分でもそのままでいることに満足するであろう。私たちの教会員たちは、自分の子どもたちを神への恐れによって育てようと努めているが、しばしば今の自分の家から出て行かざるをえなくなる。私たちの町通りを汚す者たちの不潔な行為のゆえである。だが、このことは私の現在の主題ではない。

 私たちのいやまさって大きな悲しみは、多くの人々が、福音を聞いていながら、主のうちにいないということである。私たちは、彼らがみことばを聞きに来るから悲しいのではない。願わくは、キリストから離れているあらゆる魂がキリストについて聞くことができるように! しかし、私たちが悲しみを覚えるのは、彼らが毎月毎月、年々歳々やって来てはいても、救いに至るような恩恵を全く受けないということである。私がそこここで出会う人々は、こう告げる。「私もパーク街やエクセター公会堂で、先生のお話を聞いたもんですよ」。だがしかし、彼らの様子を見るに、彼らはどっちつかずでいる。三十年もの伝道活動が彼らをキリストのもとに導かなかったとしたら、私は彼らにほとんど望みが持てない。いずれにせよ、こうした長い年月は、このすさまじい見込みを増し加えているのである。すなわち、彼らが神のことばを、自分にとって、死から出て死に至らせるかおり[IIコリ2:16]とし続けるという見込みである。もし私がこの聴衆を今晩、無謬の導きによって、ひとり、またひとりと抜き出しては、その人を指し示して、こう云うことができたとしたらどうであろう。「その人は、確実に地獄に下って行き、神の永遠の御怒りを耐え忍ぶことになるでしょう」、と。また、もしあなたが、私は神からの預言者のように語っているのだ、また、それが確実にそうなるのだ、と分かったとしたらどうであろう。あなたは、後ろを振り向いて、この上もなく深い悲嘆とともにその絶望的な魂を眺めるであろう。あなたは同じ会衆席に座っていることにも身震いするであろう。だがしかし、神に感謝すべきことに、私たちはそれほどの確実さをもって語ることができないとはいえ、ある人々に関しては、その見込みが、ほとんど確実性に達するほど大きくなる。その人々は、度重なる懇願を無駄にし、幾多の招きを拒んでは、自分の心をかたくなにし続け、ついには決してあわれみが入り込まない場所へと沈んでいくのである。

 あゝ、主よ。これは心重い知らせであり、あなたの聖徒たちはそれを痛感しています! 私は、自分がこう云うとき、私と深く共感してくれる多くの人々に向かって語りかけていることを知っている。すなわち、この考えは、私たちの喜びを腐らせる一匹の虫である、と。――私が意味しているのは、あなたがたの中のある人々は神の働きに貢献しており、多くの点で卓越してはいるが、しかしあなたには、どうしても必要な1つのことが欠けており、外的な献身の行為において神の民に加わった後でも、主の御前から永遠に放逐されることになるのだという考えである。おゝ、無限の恵みよ。そうならないようにしてください。むしろ、こうした人々が、今しもイエスを信じて、救われるようにしてください! 私たちは主のうちに全然いない人々のことを考えるとき、死にそうな思いになる。もし彼らが救われるのを見ることができるとしたら、それはいかに私たちをよみがえらせることか!

 もし、私たちの間にいる何人かの僅かな人々が回心していないという考えに、心を弱める影響力があるとしたら、教役者が長い間労苦しても何の実も見ることができなかった場合、彼の思いにいかなる効果がもたらされるに違いないかを考えてみるがいい。時としてそういう場合がある。ある人は忠実であったが、成功することがない。その地には、しばらくの間、露が降りることがなく、御霊の柔らかくする影響力も与えられない。ならば土壌は鍬の刃を砕き、疲れ切った雄牛は今にも倒れそうになる。私は、十六歳にもならない若い頃から説教を始めたが、六、七回も説教しないうちに、人々がそうした説教によって影響を受けるのを見てとった。私は、私の説教中に何人かの心がイエスを仰ぎ見たのを見いだしたいと切望した。そして私は、この瞬間にも、一軒の非常に粗末な土壁の農家が、私の眼球に写真で焼きつけられているのを感じる。それは、私にとって聖地のように思われた。というのも、私は、ひとりの尊ぶべき執事からこう告げられたからである。すなわち、その家のひとりの貧しい女は、それまで《救い主》を求めていたが、私の伝道活動によって《救い主》を見いだしたというのである。私はその週が終わらないうちに、彼女に会いに出かけた。というのも、私は、自分がキリストに導いた人と会う喜びに飢えていたからである。私は、ひとりの魂が回心したのを見いだした以上、元気づけられ、より多くの人々を探した。兄弟よ。あなたはイエスのために働いているだろうか? ならば、自分が一個の魂もかちとらないときに感じる死の影がいかなるものかを知っているであろう。キリストのためにいくら叩き続けても決して扉が開かないことは、つらく思われないだろうか? 苦悩を感じるからといって、自分を恥じてはならない。それは、用いられる能力があなたにある証拠である。やがて神はあなたを祝福してくださるであろう。そしてそのとき、あなたはこの聖句を理解するであろう。「私たちは今、生きがいがあります」。あなたは、人々を救うお方の威厳の近くにいるほど、自分の脈が早まり、心臓の血が暖まり、より天来のいのちに満たされることに気づくであろう。言葉に尽くすことのできない喜びを味わうからである。そうした喜びのために、キリストはご自分のいのちをお捨てになったのである。

 II. 私たちが第二に注意したいのは、《ある者らは、キリストのうちにいると告白しているが、確かに堅く立ってはいない》ということである。これはマラである。――苦い泉である[出15:23]。神の御霊が宿っておられる、神のしもべにとって、胸を引き裂かれるような苦悩の源、それはすなわち、最初には、私たちを喜ばせた多くの人々がいるのに、それにもかかわらず、彼らが全く信仰を捨ててしまうということである。あなたにできる最上の判断力を用いるがいい。教会には、実は主の民ではない何人かの者らが加えられるであろう。彼はよく走っている。「だれが彼らを妨げて、真理に従わなくさせたのか」*[ガラ5:7]。彼らは御霊で始まるように見えるが、次第次第に、肉によって完成されようし始める[ガラ3:3]。あゝ、愚かな者たち。「だれがあなたがたを迷わせたのですか」[ガラ3:1]。彼らは、しばらくの間は申し分のない者たちに見えたが、すぐにそうあってはならない者となってしまう。そして、これは単に、最初の六箇月かそこらのうちに起こるだけではない。さもなければ、観察期間を設ければすむことである。だが、悲しいかな、それは教会の中で白髪になった人々に起こってきたのである。彼らは堅実で、尊敬されていたが、しかし、転落してしまい、彼らの名前が悲しみを伴わずには言及できないまでとなる。私たちは、私たちの主がユダを十二人の中に入らせてくださったことについて、決して十分には感謝しきれないであろう。というのも、このようにして主は、ご自分のしもべたちにとって最も激しい悲嘆となるものを、ご自身、忍ばれたのである。神の家に私たちと連れだって行った者[詩55:14]が私たちを裏切り、私たちだけでなく、私たちの《主人》を、そして真理を裏切ってきた。これは、教会の歴史の中でしばしば起こったことであり、それゆえ、私たちはそれを予期して良い。だがそれは、いつ起ころうとも、魂そのものへの刺し傷となる。そして、思うにパウロは、もしこの場にいたとしたら、こう云うであろう。「この人々が主にあって堅く立っていないため、私たちは今、死んでしまいます」、と。この心傷つける災難を、かくも少ししか受けずにすんだとは、私たちは何と幸いなことか。おゝ、私の兄弟たち。あなたがたが主にあって堅く立っていてくれるなら、私は生きがいがある。だが、あなたがたが脇へそれるなら、それは私たちにとって死である!

 しかし、不安定さには他の形がある。多くの人々がふるまうしかたは、その名を教会員名簿から抹消して良いようなものではない。だが彼らは、恵みにおいて衰えていく。あまりにも多くの者たちはこの世的になり、これは特に彼らが富裕になるときに云える。いみじくも先日、金持ちになったある人が私にこう云った。「私は、前とは違う立場になったのをほとんど後悔してますよ。というのも、困難なことが信じられないくらい増し加わったことが分かりましたからね。――特に、家族の者たちとのいざこざはひどいもんです。あれらは今や、私が富裕にならなかったたら、考えもしなかったはずの娯楽のために物事をほしがるのですよ」。人があくせく働いて蓄財しているとき、その人は、救われることを困難にするためにせっせと努力しているのである。だが、ある者らは、人生の主たる目標が、簡単にはキリストに従って行けなくなるような重荷を背負うことだと考えている。これは、黄金においては富むようになっても、恵みにおいては貧しくなりつつある道のりである。

 私たちは他の人々をも目にする。やはり私たちが、指導者また助け手とみなす人々である。彼らは、この理由からでなくとも、何か他の理由によって、神の働きから脇へそれていく。今や私たちは彼らが祈祷会に姿を現わすのを期待していない。やって来もしたら、むしろ驚きとなる。私たちは、もはや彼らが小冊子協会を主催したり、信徒説教者協会を導いたり、《日曜学校》を指導したりすることを期待しない。というのも、彼らは魂の救いについて無頓着になっているからである。私たちの知っているある人々は、かつては熱意に満ちあふれていた。だが今や彼らは、冷たくもなく、熱くもない[黙3:15]。こうした事がらは、無思慮な人にとっては些細な事がらに思えよう。だが、それらは、人々の魂の見張りをし、神に弁明する者たち[ヘブ13:17]にとって些細な事がらではない。そうしたことを見るたびに、私は内心こう云ってきた。「このことのどれだけが私のせいだろう? このことの非はどのくらい私にあるだろう?」 そして、人はこうした問いに即座には答えることができない。多くの思索と、心探る考察とが必要とされる。だが、嘘ではない。この世の何にもまして、強酸のように人の魂の内奥に焼き入り、日ごとの悲嘆をもたらすのは、キリストのしもべであると告白しながら、その恵みの過程とは一致しておらず、むしろ、この世的な者らのように行動している人々を見るときなのである。ある人々のことを私たちは涙とともに語らずにはいられない。なぜなら彼らは、自分たちの《主人》の務めをないがしろにすることによって、私たちの魂をいたく悩ませるからである。

 近頃、こうした堅固さの欠けには他にもいくつか形がある。そして、それらはこのようにして起きる。ある人々は常に自分の教理的な意見を変えている。この十年の間に私たちは、新しい教理という点にかけては、これまで私たち人類を呪ってきた中でも、最も尋常ならざる忌み嫌うべきものの精粋を有してきた。もしもこれまででっちあげられてきた一切の異端が真実だったとしたら、天国や、地獄や、地上や、神や、人のいずれが残るものかどうかも分からない。というのも、こうしたすべては、疑いという小汚い指で取り除かれてしまっているからである。ある人々が熱中するのは種々の不信仰よりは、狂信主義である。そして、ある日は何も信じていなかったかと思うと、次の日は世界が何もかも信ずるべきなのである。すでに今の教会には種々の奇蹟が回復されたと云い、破天荒な者が起こり立っては、キリストの御名を僭称している。狂信主義という底知れぬ所がぽっかりと口を開けている。地の下の地獄が、ありとあらゆる愚劣な物事を吐き出しては、神の教会を悩ませている。今こそ堅固さが求められる時である。幸いなことは、人が自分の信じていることを知り、それを保つということ、新奇な物事に夢中になる連中に耳を貸さず、こう云うことである。「もしそれが新しいとしたら、真実ではない。私は自分の軍旗を帆柱に釘づけてしまった。それを取り降ろすことはできないのだ」。

 私たちの知っているある人々は、キリストへの奉仕において堅く立っていない。ある人が自分は完璧だと主張するとき、その人は私たちにとって全く役立たずである。というのも、その人が自分の働きから脱落していくことは確実だからである。その人は、自分自身の完璧さを賞賛するため、自分のあらゆる時間が必要なのである。私たちのようなあわれな罪人たちの間で、さらに役に立つ奉仕をすることなど彼には不可能なのである。それで、その人は離れ去って、自分ひとりきりで立つことにして、こう云う。「神よ。私はほかの人々のようではないことを、感謝します」*[ルカ18:11]。だが私は、不完全なままで、神のために何らかの役に立つ者である方を、自分の卓越性について自慢しつつ何もしないでいるよりも、ずっと選びたいと思う。もしあなたが説教しているなら、説教し続けるがいい。もし《日曜学校》で教えるよう召されているなら、自分の学級を辞める前にはよほどの危険を覚悟するがいい。もし神があなたに小冊子を一軒一軒、戸別配布するよう命じられたとしたら、それを貫き通すがいい。そうすれば、主ご自身がやって来られるとき、あなたは、主から召された職務を果たしているという以上の姿勢でいるところを見いだされることはありえない。主は、私たちが口をぽかんと開けて、宙を見つめながら立ち尽くしていることを望んでおられない。しもべにとって、《主人》がやって来られる際の最上の姿勢は、自分の《主人》の意志を行なっているところを見いだされることである。

 あなたがたが主にあって、教理と聖なる奉仕の点において堅く立っていてくれるなら、私たちには生きがいがある。そして、特に私たちの生きがいとなるのは、愛する兄弟たち。主があなたを聖なる生き方という点で真実な者と保ってくださる場合である。私が聖潔と呼ぶのは、人を親切な父親とし、真実な兄弟とし、従順な子どもとし、自分の日ごとの職業に気を遣わさせ、そこにおいて他の人々を幸福にし、そのようにすることで、福音を彼らに推賞することになるような聖潔のことである。隠れた所で神の御前にいるときのあなたの個人的な性格が、また、自宅であなたの友人たちを前にしているとき、また、外の外界に出て、あなたの弱みを見抜こうと鵜の目鷹の目でいる人々の前にいるときのあなたの性格が、しみなく、非難されるところないのものであるようにするがいい。というのも、そのとき私たちには生きがいがあるからである。しかし、人々が向き直って、私たちに面と向かってこう云い放ったとしたらどうであろう。「これがあんたのキリスト者たちさ。奴らは他の連中と同じように商売し、他の連中と同じような口の利き方をしているぜ」。そのとき、私たちの霊は沈降し、私たちは死にたい気持ちになる。熱心で堅固な、真理を知り、真理を生きている人々、また真理のために死ぬ覚悟をした人々の一団を率いることには、生きがいがある。それは、私たちが熱望しつつも、自分が受けるに値しないように感じる栄誉である。しかし、裏表のある、半信半疑の、気の入らない、怠け者の人々を率いて、何らかの架空の目的地目指して前進させるというような不運とくらべれば、死そのものですら軽い。

 さて、愛する兄弟姉妹。キリストにあると思われる人々が堅く立っていないときに、いかなる真実な教役者も意気阻喪する理由はこうである。――人々が堅固でない限り、教会が弱められるのである。いかなる教会の力も、その教会員全員の力を合わせた集合体に違いない。それゆえ、もし一団の弱い兄弟たちがいるとしたら、それぞれの人の弱さは、教会員の数によって増幅されるのである。その結果は、何たる病院であろう! もし各信仰者が強ければ、全教会が強い。そして、それが私たちの願いである。私たちは神の教会が、その聖なる召しにおいて精強であることを切望している。もし信仰者たちが堅く立っているとしたら、神の栄光は現わされる。つかのまの敬神の念は、神の栄光を何も現わさない。神は、きょう取り上げられたかと思うと明日には下に置かれるようなキリスト教信仰によって全く誉れを帰されしない。ただ堅忍によってこそ、――左様。そして最後まで至る堅忍によってこそ、――栄光は神にもたらされるのである。

 人々が堅く立っていないとき、教役者が失望させられるのは、妥当な期待が裏切られるためである。教役者は種が育つのを見守る農夫のようであるが、それが収穫を実らせようとする寸前で、黒穂病を見つけ出し、彼の麦は枯れてしまうのである。彼は、そこまで行きながら、完全に駄目になってしまったという事実を泣き悲しんで当然であろう。判断するがいい。あなたがた、母親たち。あなたの子どもたちを養い育てて、彼らがまもなく成人しようとする間際に、墓に沈んで行くのを見ることになるとしたらどんな気持ちになるだろうか。ことによると、あなたは、このようなしかたで愛する子どもを取り去られるくらいなら、子どもなどない方が良かったと願うかもしれない。それと非常に類似しているのが、真の教役者の悲しみである。自分の回心者たちによって神の栄光が現わされるだろうと期待しているというのに、彼らが脇へそれ、自分の働きが失われるときの悲しみである。あるいは、たとい彼らが破滅に至るような脇道にそれることはなくとも、彼らが不安定だとしたら、彼らの喜びは減じさせられ、彼らの用いられるしかたは傷つけられる。そして、これは決して小さなことではない。私たちはあなたの喜びを生きがいとしており、もしあなたがそれを失うなら、私たちはあなたの測り知りがたい損失ゆえに嘆く。というのも、嘘ではないが、キリスト教の最高の形ほどの喜びはなく、それを失うのは悲劇的結末だからである。敬神の念の始まりはしばしば苦い。そして、しばしば海を越え、恐ろしい荒野を越えて、困難な進展がなされる。だが、敬神の念のより高い境地はベウラの地であり、そこからあなたは神のパラダイスを望み見て、あなた自身がその辺境で暮らすことになる。もし神の子どもの誰かがこの最高の喜びを取り逃がすとしたら、それは彼らの魂を見守っている者たちにとって最も重苦しい悲嘆である。こういうわけで、あなたがたは堅く立っているがいい。それが私たちの生きがいだからである。

 III. そして、《ある者らは主のうちにあり、主にあって堅く立っている》。こうした人々こそ、私たちの生きがいである。

 こうした人々が私たちの生きがいとなるのは、彼らの聖なる生き方が、私たちを生きた確信で満たすからである。私は云うが、兄弟たち。私は、この教会の教会員たちが、主に奉仕するために犠牲を払う聖なる気前の良さを見てきたとき、――また、イエスのために立ち上がり、筋を曲げないための非難をも忍び、あざけりもものともせずに真理をはっきり語る兄弟たちの勇気を見てきたとき、――また、事実、今は言及しない多くの事がらを見てきたとき、――私は、内心こう云ってきた。これは、真理と神の御霊とによってしか生み出されるはずのなかった果実である、と。そのとき、私はあなたがたの行動によってこれほど飾られた福音に非常な確信を感じてきた。私たちの愛する長老や執事たちの何人かは、さほど遠くない昔に世を去り、私たちをいたく悲しませたが、彼らの臨終の部屋から降りてきたときの私には、主イエスの信仰を証明する議論がそれ以上何も必要なかった。聖霊は、彼らの喜ばしい旅立ちによって真理に証印を押された。もし不信心者が、そうしたえりぬきの臨終の床を離れてきたばかりの私に出会ったとしたら、私は一瞬たりとも彼らと論争しはしなかったはずである。私は単に彼らを笑って嘲っていたであろう。というのも、私は太陽を見つめて、もはやその灼熱に耐えられなくなってきた後で、盲人が太陽などないと悪態をつくのを聞く人のように感じるだろうからである。いかなる確信をもって私たちは語ることであろう。聖なる生き方と、喜ばしい死とが福音を証明するのである!

 さらに、いかにしばしば私は、私の魂に忍び入ってきた種々の恐れが、私の愛する信徒たちによって失望させられるのを見てきたことか! これは、ソロモンの寝台の回りを警護する家臣たち全員が夜の恐怖ゆえに、その剣を下ろさなくてはならない、恐れの時である。だが、堅固に立っている神の民の姿を見るとき、私の恐れは逃げ去った。しかり、と私は入った。主はご自分の聖徒たちの足を守られる。主は火の城壁[ゼカ2:5]となってご自分の者を取り巻かれる。悪の諸力は、できれば選民をも惑わそうとするであろう[マタ24:24]。だが、それはできない。聖徒たちは堅く立ち、堅く立つ者たちひとりひとりがその教役者を鼓舞し、彼を助けては、その懸念を脇へ置かせ、福音が勝利を得るとの確信によって喜ばせる。

 堅く立っている者が私たちの生きがいになるのは、私たちを刺激してより大きく奮励努力させることによってである。私の信ずるところ、堅固な者の助けによって教役者は、いや高い程度で用いられる者となる。神の人は、自分の信徒たちが神のために、いや高い敬神の念をもって生きているのを見るとき、彼は、そうでなかった場合語らなかったであろうような数多くのことを語る。彼は神のみわざを誇りとし、いかなる口ごもりも、ためらいの影すらもなしに、自分の信徒たちを指差して、こう叫ぶ。「見よ、神がいかなることをなさったかを!」 彼は自分の回心者たちについて、聖なる喜びをもって歓喜する。彼は叫ぶ。「見よ。彼らがかつてはいかなる者であったか、そして、今いかなる者となっているかを! 見よ。いかにいのちが死の真中から発出させられ、いかに光が、終わらぬ闇の支配するところで輝き出しているかを」。教会から、天来の力を示す生きた証拠を取り去ってしまえば、説教者の霊はたちまち沈下し、自分の任務を、それに続く数々のしるしをもって明らかに示す力が奪われてしまう。

 私は確信するが、愛する方々。もしあなたが聖潔において堅く立っていなかったとしたら、あなたは私を死なせる影響力を有していたことであろう。いかに私が聖潔について高く賞揚しようとも、もし桟敷席に座っている誰かが下を見下ろして、こう云うことができたとしたら、どうなったであろう。「あそこに、奴の教会員のひとりがいるが、あれほど悪党の盗人を、俺あ見たことがねえや!」 いかに私が恵みの栄光を賞揚しようと、誰かがこう叫ぶことができたとしたらどうなったであろう。「ご立派な話だけどよ、俺は奴の教会の教会員のひとりが、半分酔っ払ってるとこを、こないだの晩、見たんだぜ。それが自由な精神っていう意味なのかい?」 もし私の背後にいるのが、人を欺く者や偽善者たちの一連隊だったとしたら、私の立場はぞっとするようなものである。確かに私は、あなたがたが福音に生きることをやめるときには、福音の説教をやめた方が良いであろう。私の話は、それ自体でも難しいものが、もしも私の説教とあなたの生き方がまるで別物だったとしたら、完全に理解不能なものとなる。幸いにも、あなたがたの間にそういうことはなく、あなたは将来そのようになることをも断固拒否するであろう。それで私は強くいられるであろう。なぜなら、私はあなたを「すべての人に知られ、また読まれている生きた手紙」[IIコリ3:2]として大船に乗った気でいるからである! 敬虔で堅固なキリスト者たちについて、私はダビデの言葉を引用することができる。「幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は。彼らは、門で敵と語ることができる」*[詩127:5]。この昔ながらの福音に反対するすべての者に対する最上の答えは、熱烈な教会の敬虔な熱心である。「あなたがたが主にあって堅く立っていてくれるなら、私たちは今、生きがいがあります」。

 私にはあなたに語るべきことがたくさんあるが、私の時間は尽きてしまった。ただ聖霊なる神が説教者とともに宿っておられ、彼が自分自身のことではなく、主イエスのことを説教できるように。また、願わくは神の御霊があなたがた――この教会の愛する教会員の方々――とともに宿っておられ、あなたがその露のしたたりの下で生き、神の栄光に至る御霊の実を結ぶことができるように。あなたがた、他の教会の会員である人たちについて云えば、主があなたを、あなた自身の牧師たちにとって、その喜びまた冠[ピリ4:1]とならせてくださるように。もしも最後の審判の日に、彼らがあなたについて不利な答弁をしなくてはならなくなるとしたら、それはあなたにとって不幸となるであろう。私たちは十分に考えていないが、その試練は、万人が受けなくてはならないのである。また、羊飼いたちの下にいる万人は、最後の大いなる日に、申し開きを行なわなくてはならないのである。こう記されている。「見張り人が警告しなければ、彼らは滅びるがわたしは彼らの血の責任を見張り人に問う」*[エゼ33:6]。おゝ、私の《主人》よ。あなたが私の服の上で魂の血を探すとき、私がいかなる人の血についても責任がない者と見いだされますように。これは、いかなる天国となるであろう!

 もう1つの言葉も覚えておくがいい。「見張り人が警告しても警告を受けなければ、彼らは滅びる。しかし受ければ、彼は自分のいのちを救う」*[エゼ33:5]。願わくは私たちの中の誰もが自分のいのちを救うよう注意を払うように! 私の最も大切な祈りは、私の牧会伝道活動の完全な証拠が作成されることである。あなたがたの中のすべての人々において、私が私の主に対して、また、あなたの魂に対して、一生涯忠実さであったという、疑いようのない証言を有することである。日ごとに私のために、また、あなた自身のために祈るがいい。それは、私たちの堅固さによって、この恩顧を受けてきた教会が、私たちの主ご自身が来られるときまで、生かされ、生き生きと成長していられるようになるためである。

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説教前に読まれた聖書箇所――Iテサ1.; 2:18〜3:13


『われらが賛美歌集』からの賛美―― 686番、667番、684番

 

新年に思い起こしてほしい訴え[了]

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