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新年の客人

NO. 1757

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1883年12月16日、主日午後の説教
説教者:C・H・スポルジョン
於マントン、聖餐式前に少数の信仰者を前にして


「あなたがたは……わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し」。――マタ25:35

「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」。――ヨハ1:12


 最近私は一通の年賀状を受け取ったが、それは今からあなたに語ろうとしている主題を示唆するものであった。その賀状の意匠を行なった人は、聖なる洞察によってこの2つの聖句の関わり合いを見てとり、それらを並べて置くことによって、双方をこの上もなく含蓄あるものとしていた。そこには清新な思想があった。旅人としてのイエスを受け入れることによって、信仰による私たちのもてなしは、私たちの中に天来の受容力を作り出す。そして、それによって私たちは、神の子どもとされる特権を受けるというである。この2つの霊感された言葉の間に示唆されたつながりは、真実に存在するものであって、決してこじつけでも架空のものでもない。それはヨハネの箇所の前後を読めば見てとれるであろう。「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった」[ヨハ1:10]。それでこの方は、ご自分のお造りになった世の中で旅人になっておられた。「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった」[ヨハ1:11]。それで主は、多くのあわれみのわざによってご自分のものとして取り分けた人々の間で旅人となっておられた。「しかし、この方を受け入れた人々」、つまり、このほむべき旅人を歓待した人々、「すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」。私は、これは年頭に行なう講話としてふさわしく、また健全な箇所になると思った。というのも、これは、もてなしに関する説教であり、愛する方々の一部は、主イエスにこう申し上げることによって新年を始めるのは素晴らしいことだと考えるであろうからである。「どうぞおいでください。主に祝福された方。どうして外に立っておられるのですか?」[創24:31] この天来の旅人は多くの扉を叩いてきたあげくに、その頭は露に濡れ、髪の毛も夜のしずくで濡れるまでとなっている[雅5:2]。そこで今、ある人々は立ち上がって、この方のために扉を開き、一年の終わりにはヨブとともにこう云えるだろうと思う。「異国人は外で夜を過ごさず、私は戸口を通りに向けてあけている」[ヨブ31:32]。まことに、そうすることによって、あなたは単に御使いたちを、それとは知らずにもてなす[ヘブ13:2]だけでなく、御使いたちの主を受け入れることになるであろう。主を受け入れるその日は、あなたにとって数々の年月の始まりとなるはずである。それは、一連の歳月の最初の年となるであろう。その歳月は、年数の多寡に関わらず、最上の意味において毎年が幸福なものとなるのである。

 まず多少とも語りたいのは、このように宿を貸された旅人についてであり、それから、この旅人が旅人たちを子らにするということである。

 I. 《宿を貸された旅人》。これは、私たちの主自らがお与えになった比喩である。主ご自身の御座から私たちに提示された、王にふさわしい象徴である。この箇所の始まりに注意するがいい。「あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ」。これらは、イエスを信ずる信仰と、イエスへの愛を証明する2つの良いわざである。それゆえ、それらは受け入れられ、記録され、報われている。だが、それが次のこととなるとき、そこには明確にして著しい成長がある。「あなたがたは……わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し」。家の部屋は、戸口の所で飲食物を施すことにもまして大きな贈り物である。いかに小さなことではあれ、信仰によってキリストのために何かをするのは良いことである。だが、それよりはるかにすぐれているのは、イエスを私たちの魂の中でもてなし、私たちの知性と心の中に迎え入れることである。私たちの主が私たちから当然期待して良いことを私たちが十二分に行なったと云えるためには、私たちは、自分のたくわえの中から主に施しをし、主の貧者に恩恵を与え、主の御国の進展を助けた上で、自分の全存在のあらゆる扉を主の前にゆっくり開け放ち、主を私たちの魂の賓客としての席に着かせなくてはならない。私たちは主に一杯の水や、一口のパンを与えるだけで満足してはならない。むしろ、「いっしょにお泊まりくださいと言って無理に願う」*[ルカ24:29]のでなくてはならない。私たちの心はベタニヤにならなくてはならない。そこで私たちは、マルタとマリヤとラザロのように、私たちの《主人》を嬉しげに歓迎するのである。私たちの願いはアブラハムのそれと同じでなくてはならない。「ご主人。お気に召すなら、どうか、あなたのしもべのところを素通りなさらないでください」[創18:3]。

 本日の聖句の最重要語は旅人である。そして、その光に照らすと、この箇所全体は奇妙な色合いを帯びることになる。ここには3つの奇妙な事がらがある。第一に、主イエスがこの地上で旅人になられるということである。これは奇妙なことではないだろうか? 「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られた」。だのに、主がその中で旅人であられたというのだろうか? だが、それは真実であると同時に少しも不思議ではない。というのも、主がそこでお生まれになったとき、宿には主のいる場所がなかったからである[ルカ2:7]。宿は、普通の旅人たちなら扉を開いて迎え入れたが、主にはそうしなかった。主は、その回りのいかなる者にもまさる旅人だったからである。それはダビデの町ベツレヘム、主が属する一族の昔からの居住地であった。だが、悲しいかな! 主は、「自分の兄弟からは、のけ者にされ、自分の母の子らにはよそ者と」*[詩69:8]なっておられ、いかなる扉も主に対しては開かれなかった。じきに、その村そのものに、主にとって安全な部屋は1つもなくなった。国王ヘロデが幼子のいのちを狙い、主はエジプトへと逃げなくてはならなかったからである。こうして主は、異国の地で旅人となられた。否、旅人よりも悪い――生得の権利からすれば、ご自分が王であった国からの追放者、亡命者となられた。帰国して、公に姿を現わしたとき、大勢の民衆の中には、いやまして主のいる場所はなかった。主はご自分のイスラエルに来られた。預言者たちが主を啓示し、種々の予型が主を示していた民のもとに来られた。だが彼らは主を全く受け入れようとしなかった。「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ」た[イザ53:3]。主は「人たちが侮った」お方であった。憎悪のあまり人々がこう叫んだお方であった。「除け! 十字架につけろ! 十字架につけろ!」*[ヨハ19:15]。しかり。この世は、この方について知るところがあまりにも僅かであったために、栄光の主を十字架にかけ、「このきよい、正しい方」[使3:14]に悪党同然の死に方をさせずにはおかなかった。ユダヤ人と異邦人は共謀して、いかに主がまことに旅人であられたかを証明した。ユダヤ人は云った。「私たちは……あの者については、どこから来たのか知らない」[ヨハ9:29]。また、ローマ人は主に尋ねた。「あなたはどこの人ですか」[ヨハ19:9]。さて、キリストがこれほどの旅人であられたことは実に悲しいほど異様なことであったが、しかし訝しく思う必要はない。なぜこの邪悪で利己的な世がイエスを知ったり受け入れたりするだろうか? 主ご自身の民は、あらかじめこのことを古代の予型によって警告されていた。というのも、主が人となって現われるはるか前から、主はご自分を旅人として、信仰ある者たちに示してこられたからである。主は御使いのかたちをとってアブラハムのもとに来られ、その物語にはこう記されている。「彼が目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。彼は、見るなり、彼らを迎えるために天幕の入口から走って行き、地にひれ伏して礼をした。そして言った。『ご主人。お気に召すなら、どうか、あなたのしもべのところを素通りなさらないでください。少しばかりの水を持って来させますから、あなたがたの足を洗い、この木の下でお休みください。私は少し食べ物を持ってまいります。それで元気を取り戻してください』」[創18:2-5]。この三人の真中に立っていた主は旅人であられた。そして、信仰者の父[アブラハム]は主をもてなした。これは、あらゆる時代の信仰者たちがみな行なうであろうことを示す予型である。主こそ、エレミヤがこのように云ったお方である。「イスラエルの望みである方、苦難の時の救い主よ。なぜあなたは、この国にいる在留異国人のように、また、一夜を過ごすため立ち寄った旅人のように、すげなくされるのですか」[エレ14:8]。だが、こうした歴とした警告にもかかわらず、このことは悲しくも異様なことであり続けている。あわれみの使命を帯びてやって来られた私たちの主は、これほど細々とした歓迎しか受けず、これほど僅かしか知られず、これほどまれにしか認められず、これほど苛酷にあしらわれたのである。まことにエジプトがイスラエル人に過酷な労働を課した[出1:13]のと同じく、私たちもこの忍耐強い旅人を私たちのもろもろの罪のために労働させ、私たちのもろもろの不義によって煩わした。人の子には枕する所もなかった[マタ8:20]。ルカの記すところ、土人たちはパウロとその友人たちに非常に親切にしてくれたという[使28:2]。だが自分の《救い主》に対する人々の態度は土人にも劣っていた。しもべはその《主人》よりも、あるいは、弟子はその主よりもましな扱いを受けるべきだろうか? 「私たちが神の子どもと呼ばれるために、――事実、いま私たちは神の子どもです。――御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです」[Iヨハ3:1]。

 もう1つ奇妙なことは、私たちが主イエスを旅人として迎え入れることができるということである。主は、すでに栄光のうちに入っておられるというのに、やがて私たちについて、「あなたがたは……わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し」た、と云われるのだろうか? しかり。主はそう仰せになる。もし私たちが、ここで主の語っておられるような霊的なもてなしを差し出すとしたら、そう仰せになる。そのもてなしは、いくつかのしかたでなされることがありえる。

 キリストにある兄弟姉妹。――というのも、私はあなたがたがそのような人々であると思うからだが、――私たちが旅人としてのキリストを受け入れることができるのは、いずれかの場所で信仰者たちが数少なく、蔑まれている場合である。私たちは、世俗性がはびこっており、キリスト教信仰が軽んじられている所に滞在することがありえる。そして、イエスを信ずる信仰を公言することには何がしかの勇気が必要かもしれない。そのとき、私たちにはこの承認の言葉、「あなたがたは……わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し」をかちとる機会があるのである。私たちの主を旅人として受け入れることには、確かな愛の証拠がある。もし女王が再びマントンを訪問したいと願われたとしたら、あらゆる別荘がこぞって陛下の用に供されるであろう。だが、もし陛下がその帝国から放逐され、貧しい旅人に身を落としていたとしたら、陛下に対するもてなしは、今日のそれよりも、ずっと大きな忠誠の試金石となるであろう。イエスがいずれかの場所で低く評価されているとき――そして、時としてそういう場合はあるものだが――、私たちはいやが上にも主に対する自分の臣従を公言しよう。残念ながら、多くの信仰告白者たちは身の回りの人々に右ならえし、無宗教で不信仰な人々と馴れ合っているのではないかと思う。こうした人々は、主の賞賛者たちの大群とともに「ホサナ」と叫びはするが、心の中では神の御子に対する何の愛もいだいていない。キリストに対する私たちの忠誠は、決して緯度や経度の問題ではない。私たちは、いかなる国においても主を愛し、多くの人々が主を軽視するときも主を尊び、万人が主を忘れるときも主について語らなくてはならない。

 また、私たちが主から保証されているのは、貧しい聖徒に兄弟としての親切を示す場合、私たちは主ご自身を歓待しているのだということである。困窮しているか、蔑まれているか、嘲られているキリスト者を見た場合に、私たちがこう云うとしよう。「あなたは私の兄弟です。あなたがどんな服を着ているかは問題ありません。キリストの御名があなたにはつけられています。私はあなたとともに苦しみます。あなたの貧困を軽くして、あなたへの非難にあずかります」。その場合、栄光に富む主ご自身が最後には私たちにこう仰せになるであろう。「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」[マタ25:40]。私がこのように云っても、このことは、しごく奇妙なことに思われる。あなたや私が、私たちの主を歓待することなどできるのだろうか。だがしかし、そうなのである。この正しい人々が、へりくだった真実さとともにこう叫んでいるのも不思議ではない。「主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ……ましたか」[マタ25:37-38]。私たち自身も、賞賛のこもった驚きから免れない。私たちもこう叫ぶ。「神は果たして人間とともに地の上に住まわれるでしょうか?[II歴6:18] 私たちの手からもてなしをお受けになるでしょうか?」 その通りなのである。

 また、私たちが旅人なるキリストを歓待できるのは、主ご自身とその使徒たちによって教えられた諸教理が悪し様に云われているときでさえ、主の真実なことばを堅く保つことによってである。近年、神が啓示された真理は、人々にとって、彼ら自身の思想や夢想よりも重要でないように見受けられる。それで、なおもキリストの真実なことばを信じている人々は、自分たちについてこう云われることになるはずである。「あなたがたは……わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し」てくれた、と。啓示された真理が、いわば羊ややぎの皮を着て歩き回り、乏しくなり、悩まされ、苦しめられ[ヘブ11:37]、誰からも褒められていないとき、その時こそ、それがキリストの真理であるからといって、出て行ってその真理を明言する時期であり、キリストのゆえに受けるそしりをエジプトの宝にまさる大きな富と思う[ヘブ11:26]ことによって、あなたの忠実さを実証すべき時期である。おゝ! 他の誰もが信じているときにしか信ずることをしない人々、長い物に巻かれるだけのために信ずる人々を軽蔑するがいい。こうした人々は流れにまかせて漂う死んだ魚でしかなく、彼らは恥ずべき末路へと押し流されるであろう。生きた魚は流れに逆らっても泳ぐ。ならば生きたキリスト者たちは、時勢や時代の流れに逆らってもキリストの真理に従い、無知や時代の文化の双方に公然と反抗する。信仰者の誉れ、キリスト者の騎士道、それは他のすべての人々が真理を捨てるときも、その堅固な友であることである。

 やはり同じように、キリストの様々な戒めが無視され、主の日が忘れられ、主の礼拝がないがしろにされるとき、私たちはそこに現われて、自分の十字架を負い、主に従うことによって、旅人としてのキリストを受け入れるのである。たしかに、ある人は云うであろう。「こいつらは狂信的なメソジストか、杓子定規な長老派だ」、と。だが、それが何か? 世が私たちをどう考えるかなど、全く問題ではない。私たちは世に対して十字架につけられ、世も私たちに対して十字架につけられているからである[ガラ6:14]。もし私たちの主がある規則を定めておられるとしたら、私たちはそれに従うべきであり、そうすることによって魂に安息を見いだす。左様。そして、そうすることが特別な安らぎとなるのは、それによってこのほむべきおことばを確かに自分のものとするときである。「あなたがたは……わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し」。主のために死ぬことでさえ、それによって、この計り知れない価値のおことばをわがものにできるとあらば、大したことではないであろう。

 もう一言云うが、もし私たちがその霊的いのち、すなわち、心の奥底でキリストを受け入れること、――その新しいいのち、すなわち、それを受けた者以外にいかなる者も知らないいのち、――その御霊によって生かされること、すなわち、人が物云わぬ、追い使われる牛馬にまさるのと同じほどにキリスト者を普通の人間にまさるものとすること、――そうしたほむべき賜物を私たちが受けているとしたら、私たちは力を込めて私たちの主を旅人として歓待しているのである。口先だけの告白は世にあふれているが、隠れたいのちはまれである。生きているとされている者[黙3:1]なら至る所にいるが、そのいのちはどこで完全に見られるだろうか? これこれの者だと自称するよりも、そうした者であること、――キリストが真に内側におられるふりをするよりも、現実にその恵みを受けていること、――これは誰も彼もが達成できることではない。だが、それを有している者たちは神に似た者たちに属する、神の真の子どもたちである。

 第三に奇妙なことは、イエスが勿体なくも私たちの心に宿ろうとされるということである。イエスのようなお方が、私のような者のうちにである! 栄光の《王》が一個の罪人の胸にである! これは恵みの奇蹟にほかならない。だが、そのしかたは、実に単純である。謙遜な悔い改めた信仰が戸を開く。するとイエスはすぐに心にお入りになる。愛は悔悟の手でその扉を閉ざし、聖なる油断のなさが種々の侵入者を追い払う。このようにして、この約束が成就するのである。「だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」[黙3:20]。瞑想、黙想、祈り、賛美、そして日々の従順が、その家を主にとって整えられたものに保つ。そこに続くのは、私たちの性質全体を、1つの神殿として主の御用に聖別することである。霊と、魂と、からだと、そのあらゆる機能を、その聖所の聖なる器として奉献すること、私たちの回りにあるすべてのものの上に「主への聖なるもの」[ゼカ14:20]と書き記すこと、ついには私たちの普段着が祭服となり、私たちの食事が聖餐となり、私たちの人生が奉仕の務めとなり、私たち自身が《いと高き方》への祭司にすらなることである。おゝ、この内住の至高のへりくだりよ! 主は決して御使いのうちに宿ったことはなかったが、悔悟した霊のうちにお住まいになるのである。この《贖い主》のことばには、無限の意味がある。「わたしが彼らの中にいる」[ヨハ17:26]。願わくは私たちがこのおことばを、パウロによって云い換えられたようなしかたで知ることができるように。「あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望み」[コロ1:27]。

 II. 次のことには、ほんの二言三言で十分に違いない。《この旅人は、旅人たちを子どもたちにする》。「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」。しかり。愛する方々。キリストが信仰によって私たちの心に受け入れられた瞬間に、私たちはもはや他国人でも寄留者でもなく、神の家族となる[エペ2:19]。主は私たちを子としてくださり、子らの間に置いてくださるからである。これは天来の恵みの素晴らしい行為である。主は、御怒りの相続人であった私たちを取り上げて、神の相続人とし、イエス・キリストとの共同相続人[ロマ8:17]としてくださる。このような栄誉をすべての聖徒たち、すなわち、主の御名を信じたすべての人々は有しているのである。

 それだけではない。子どもたちという称号には、現実の子どもたちの状態への誕生が伴っている。この特権にはその権能が伴っており、この名前はその性質によって裏づけられ、保証されている。というのも、神の御霊は、キリストが来られるとき私たちの中に入り、私たちを新しく生まれさせてくださるからである。新しく生まれることなしに子とされるとしたら、それは片輪の祝福であったろうが、私たちが子とされ、かつ新生されているとき、そのときには私たちは完全に子とされた状態にあずかり、恵みは私たちに対して完全なものとなる。「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」[ヨハ3:3]。だが、この、キリストを受け入れることに伴う神秘的な誕生は、私たちを自由にする。神の国についてばかりでなく、神の家と神の心において自由にする。

 忘れてはならない。イエス・キリストが私たちにお入りになるとき、私たちと主との間には、生きた、愛に満ちた、永続的な結び合いが生じて、このことが私たちの子たることに証印を押すのである。というのも、私たちは、御子と1つとなるとき、私たちも子どもとならなくてはならないからである。イエスはそれを、「わたしの父またあなたがたの父」[ヨハ20:17]、と云い表わされた。私たちの心の中におられる、その神の御子の御霊によってこそ、私たちは、「アバ、父」[ロマ8:15]、と呼ぶのである。「主と交われば、一つ霊となるのです」[Iコリ6:17]。私たちは御父にとって、まさにイエスと同じようなものとなっている。主がこう云われた通りである。「あなたはわたしを愛されたように彼らをも愛された」*[ヨハ17:23]。こういうわけで、見ての通り、イエスを受け入れることの中で私たちは、改訂訳聖書が表現しているように、「神の子どもとなる権利」を有するのである。

 だが、もう一言云いたい。人生の中に実際にイエスを受け入れることは、私たち自身と他の人々にとって、私たちが神の子どもである証拠となる。というのも、それは私たちの内側に、神に似たものを作り出すからである。それは如実であって、疑う余地がないものである。見るがいい。確かに私たちの神エホバは、理解し尽くせない無限のお方であり、そのご栄光はその光輝においていかなる想像も及ばないお方ではあられるが、神についてこの事実だけは分かっている。すなわち、神のふところにはその御子がおられ、この方を神は常に喜んでおられるということである。見るがいい。私たちがイエスを自分のふところに受け入れ、私たちと1つとするとき、また、私たちの喜びと楽しみがイエスにあるとき、私たちはその点においては、御父と似た者となる。このように御父と同じ愛と楽しみの対象を有するとき、私たちは御父との交わりに入れられ、神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩み出すのである[Iヨハ1:7]。小さな窓も、大きな日の光を射し込ませるであろう。いやが上にもイエスは、私たちの魂と神との間の、ほむべき合流点として、神のいのちと、光と、愛とを私たちの魂に流れ込ませ、私たちを神に似た者としてくださる。

 さらに、イエスを旅人として受け入れたとき、私たちはそれ以後あらゆる旅人たちに対して優しさを感ずることになる。というのも、私たちは彼らの状態の中に、私たち自身に似たものを見てとるからである。私たちは、私たち自身のように神とともなる旅人であり、寄留者であるすべての人々に愛をいだく。私たちの先祖たちはみなそのような人々であった。こうして、やはり私たちは神に似た者とされるのである。こう書かれている。「主は在留異国人を守られる」*[詩146:9]。私たちの神は、「恩知らずの悪人にも、あわれみ深い」[ルカ6:35]。それゆえ、私たちの主イエスは、天におられる私たちの御父の子らとなるように私たちに命じておられる。「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです」[マタ5:45]。良いわざを行なう者となることによって、私たちは良い神の子どもたちとして知られることになる。「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです」[マタ5:9]。人が神の子どもであるとき、他の人々に対する思いやりある配慮によって、自分の資力以上のことを行なう。その人の魂は、自分自身の肋骨という狭い輪の中に閉じ込められておらず、外へ出て行って自分の回りにいる人々を祝福する。彼らがいかにふさわしくない者らであっても関係ない。神の真の子どもたちは、失われた者を見れば必ずその人を救おうと心がけ、悲惨な状況について聞けば必ず慰めを与えたいと切望する。「あなたがたは……在留異国人の心をあなたがた自身がよく知っている」[出23:9]、と主はイスラエルに云われた。私たちもそれと同じである。私たちもかつては自分自身、虜であったし、今でさえ、私たちの最愛の《友》がなおも旅人だからである。このお方のために、私たちは苦しんでいるすべての人々を愛する。キリストが私たちの中におられるとき、私たちは機会という機会を求めて、放蕩息子たちを、旅人たちを、見捨てられた人々を、この大いなる御父の家へ連れて来ようとする。私たちの愛はすべての人類に差し伸ばされ、私たちの手はいかなる人に対しても閉ざされていない。もしそうだとしたら、私たちは神に似た者にされているのである。小さな子どもたちがその父親に似ているのと同じである。おゝ! 神の御子を信仰によって迎え入れることの甘やかな結果よ。御子は私たちのうちに住まわれ、私たちは聖なる交わりにおいて御子を見つめる。そのようにして、「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」[IIコリ3:18]。「愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています」[Iヨハ4:7]。願わくは、私たちが日々、自分の心の内側におられるイエスの御力を感じることができるように。主は私たちの全性格を変革し、私たちをいやまして如実に神の子どもたちらしくしておられる。私たちの主が私たちについて、「この人々はどのような者たちであったか?」、とお尋ねになるとき、願わくは主と私たちとの敵たちでさえ、こう答えざるをえなくなるように。「あの人たちは、あなたのような人でした。どの人も王の子たちに似ていました」[士8:18]。そのときイエスは、信ずるすべての人々によって賞賛されることになる。というのも、人々はその子たちのうちに、天来の旅人の手のわざを見てとるからである。

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新年の客人[了]

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