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天幕がこわされ、家に入る

NO. 1719

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1883年5月6日、主日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です」。――IIコリ5:1


 パウロは、勇者中の勇者に伍する人物である。それに加えて、感嘆すべきことに、かくも多くの危険や争闘に立ち向かっていたこの勇士は、激情に燃え輝くこともあったが、きわめて平穏で静謐な精神の持ち主のひとりであった。彼は、心労や不安をかき立てるような当面の状況を越えて生きることを学びとっていた。時間の影を追い抜き、永遠の現実を自分のものとし始めていた。見えるものに目を留めるのではなく、見えないものを一心に注視していた[IIコリ4:18]。そして、そのようにすることによって、深く、また喜ばしい平安を有していた。それが彼を強くし、断固たる、堅固な、不動の者としていたのである。もし私たちがみな、パウロのように「いつも心強く」*[IIコリ5:6]していられるすべを身につけていたとしたらどんなに良いことか。――彼のように、内なる人が日々新たにされていく[IIコリ4:16]性質をしていたとしたらどんなに良いことか。私たちの中のほとんどの者は、それよりも、はるかに夏の虫に似ている。しばらくの間は、花から花へと遊び歩きながら暮らしているが、見よ! 一巻の終わりである。あまりにも私たちは、五感によって示される目先の現在に生きがちではないだろうか? 雄牛は、上にあるものにも、先にあるものにも全く思いを馳せることがない。冷たい小川の中に立つか、青々とした放牧地に寝そべることが、そのすべてである。大多数の人々は、それと寸分も違わない。その魂は肉体につなぎ留められ、現下の状況の中に拘禁されている。もし私たちが、見えるもの、触れるものという束縛から完全に解放されることができたとしたら、また、見えないもの、永遠のものの影響を完全に感じとれたとしたら、天界の岸辺に到達する以前から、いかに大いに天国を楽しめることであろう!

 パウロは波瀾万丈の人生を送っていたが、それを望まない者がいるだろうか? 何の来世もなかったとしたら、彼は、すべての人の中で一番哀れな者[Iコリ15:19]となっていたであろう。彼ほど貧しく、迫害され、軽蔑され、中傷され、倦み疲れ、苦難に遭っていた人は、定命の者の中にも、ほとんどいなかった。だがしかし、私は、もしもどれか幸福な人生を指摘しなくてはならないとしたら、ためらうことなく使徒パウロの人生を真っ先に選ぶ。彼にとって、生きることはキリストであった[ピリ1:21]。もう1つ、彼の幸福について特に注意すべき点は、彼にはその理由があったということである。本日の聖句は、「というのも」、という言葉で始まっている <英欽定訳>。パウロは常に理を重んじる。彼の精神がそうした性向をしているのである。それゆえ、もし彼が意気消沈しているとしたら、彼にはその理由があるのである。もし平静にしているとしたら、自分に平安がある正当な理由を示せるのである。ある種の狂信家たちは、幸福のあまり有頂天になりはしても、そのわけを告げることができない。歌ったり、叫んだり、踊ったりすることはできる。だが、自分たちが興奮している理由を全く示すことができない。彼らは、大群衆が熱狂している姿を見る。すると、それに感染してしまう。彼らのキリスト教信仰は、全く感情的なものである。私はそれを非難するつもりはないが、さらにまさる道[Iコリ12:31]を示したいと思う。確固とした原因によって作り出されていない喜びは、ただの泡かあぶくにすぎず、たちまち消え失せてしまう。あなたは、自分がなぜ幸福なのか告げることができない限り、じきに幸福ではなくなるであろう。あなたの熱情が何の原理にも裏打ちされていないとしたら、その熱情はじきに焼け落ちて、黒い灰となり、火花1つ見いだせなくなるであろう。一部の信仰告白者たちは、あまり情緒が豊かではない。理性が勝ちすぎているとも云えないのに感情が乏しすぎる。だが別の人々は、感情を主たる力としており、たちまち何かに熱中しては、かんな屑かそだに火が点いたときのようにぱっと燃え上がる。だが彼らの脳には、当てにできるだけの中身がなく、自分の情緒という火炉を決して扱いきれない。パウロはそうではなかった。彼は良く釣り合いのとれた人物であった。もしも、現在をものともせずに将来の展望を喜ぶことができるとしたら、彼にはそうするだけの確実な理由があったのである。私が好ましく思うのは、熱烈で、熱心な人ではあるが、その熱誠を示しながらも、どこかの冷徹な論理家のように合理的な人である。心を、血気に逸り立った軍馬のようにするのはかまわないが、それが思慮というくつわと手綱で御されているように注意するがいい。よく教えられたキリスト者は、恍惚状態にあるときでさえ合理的である。自分のうちにある希望について、説明できる用意ができている[Iペテ3:15]。その希望が、いかに理屈を越えたもののように思われようと関係ない。その人は喜んでいる。いかに喜んでいる人にもまさって喜んでいる。だがその人には、自分の喜びの理由と出所が分かっている。それでその人は、この世が霊的な喜びに向かって投げつける数々の残酷な試練にも耐えられるのである。真の信仰者の平安は、時勢や悪魔がいかにけちをつけようと、びくともしない。一見すると絶望するしかない状況にあって、自分がなぜ屈さずにいられるのか、身の証しを立てることができる。これは、土台の上に建てられた家、どっしりと根を張った木、その軌道に固定された星であって、砂の上に建てられた家や、根こぎにされた木や、ただの情緒でしかない束の間のかすみよりも無限にすぐれているのである。願わくは、聖霊なる神が私たちを教え、堅固な幸福を確実に芽生えさせる真理を私たちが知ることができるように!

 私たちが前にしている聖句の中に見てとれるのは、まず第一に、パウロが非常にありうべきことと見てとっていた1つの破局である。――「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても」。第二に、その破局が起こった場合に供されるだろうとパウロが確実に知っていた備えである。――「神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です」。そして第三に、しばし語ろうと思うのは、この知識がパウロにとって、また、今の苦しい状況にある私たち残りの者たちにとって、いかなる価値を有していたかということである。

 I. まず第一に考察したいのは、《パウロが非常にありうべきことと見てとっていた1つの破局》である。

 彼は自分がこわれることを恐れてはいなかった。そのことについては、微塵も恐れを感じていなかった。彼が予想していた破局は、私たちの間では「死」という名で知られている。だが彼はそのことを、私たちの住まいである地上の幕屋がこわれることと呼ぶ。自分が住んでいる天幕であるからだが解体されることと云う。彼は決して、「私が滅ぼされることになるとしたら」とも、「私が消滅させられることになるとしたら」とも云ってはいない。そうした種類の想像は全くしていない。彼は自分が完璧に安全であると確実に感じている。この聖句の奥底には、真の自己に関する彼の深い静謐さがひそんでいる。「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています」。この「私たち」は、完全に無傷で、全く動かされはしない。たとい私たちの住まいがこわれても、それで一巻の終わりではない。たといこの地上の天幕を失うとしても、私たちには「神の下さる建物……人の手によらない、天にある永遠の家」がある。本当の人――本質的な自己――は、安全な所にいる。また、彼が語っているのは、ただ単に彼が当座の宿としている何らかの幕屋あるいは天幕がばらばらになることでしかない。多くの人は、将来について戦々恐々としているが、ここにいるパウロは、自分に起こりうる最悪のことをも十分に満足して眺めている。彼にとってそれは、さしあたり自分が仮住まいとしている天幕が解体される程度の不都合になぞらえられるものでしかなかった。彼は、それ以上のことは何も恐れていなかったし、たといそれが起こったとしても、その出来事を甘んじて受け入れさせるようなことを――否、喜びをもってそれを期待させる助けとなるものさえ――予想していたのである。

 パウロは、自分の肉体が絶対確実にこわれるだろうと思ってはいなかった。主が再び来られるときに、自分が生き残っていて、それから変えられ、死を経ることなく、いつまでも主とともにいることになることを望んではいた[Iテサ4:15、17]。それでも彼は、このことを進んで主の御手にゆだねていたし、自分が、主にあって死ぬ幸いな死者[黙14:13]の中に数えられることもありえると悟ったときには、その見通しから尻込みしたりせずに、勇敢にも、1つの比喩を見いだしては、自分がその件についてほとんど恐れてはいないと云い表わした。

 使徒の了解していたところ、彼のいのちを包んでいたからだは、それ自体としては華奢なものであった。パウロは天幕作りに精通していた。私は彼が、一度でも何か非常に大きな、あるいは、豪勢な天幕を製作したことがあるとは思わない。――おそらく彼にはそれだけの元手がなかったであろう。むしろ彼は一介の天幕職人か修繕人であった。パウロの時代、天幕はローマ帝国内の人々によって当たり前のように使われていた。紳士階級は、随時に設置できる壮麗な大天幕を楽しみ、一般庶民は、天幕の下で暇つぶしをすることに楽しみを見いだしていた。彼が座ってこの手紙を認めていた間も、おそらくパウロの手元には、これから繕うべき天幕が一枚か二枚は置かれていたであろうし、これが彼に、私たちの前にある節の云い回しを示唆したのであろう。天幕が新たに張られるとき、それは華奢な仕組みのものでしかなく、家のような堅固さとは全く無縁であった。その点において、それはまさにこの、しみのようにたやすく押しつぶされる[ヨブ4:19]私たちの脆い人体という組織にそっくりである。パウロは自分のからだが、さほど大きな力も要さずに打ち倒されるだろうと感じていた。それは、あのミデヤン人が夢の中で見た天幕に似ていた。大麦のパンのかたまりが1つ転がって来て、それを打っただけで、見よ! 倒れてしまうのである[士7:13]。がっしりした石造の家は、金梃子や鶴嘴がなくては嵌め込まれた石をゆるめることができないかもしれないが、天幕の場合、それよりずっと弱い道具でもたちまちひっくり返され、滅茶苦茶にされるであろう。目に見えないほど微細なもののため、からだをこわすことはよくある。――汚れた空気の一呼吸、有害物質のごく少量、ごく些細なこと、ほんのつまらぬもの、それが、この定命の生を終わらせることもありえる。私は、あなたや私が、自分のからだのこのはかなさをしかるべく覚えておければと思う。私たちは、きょうの自分が壮健だからといって、必然的に長生きするに違いないと考えるほど愚かではない。誰よりも健康な人々が、往々にして真っ先に取り去られる一方で、ひ弱な人々がいのちを長らえ、絶えざる驚きと不断の苦闘の人生を送る。そうしたおびただしい数の証拠を、私たちは最近も得ている。私たちのからだをなしている、この砕けやすい細工物を思うとき、それが今すぐにこわれてしまっても異なことではない。私たちが生き続けているのは不思議なことではないだろうか? 私たちが死ぬことよりも格段に不思議なことではないだろうか? ウォッツ博士はいみじくも云う。――

   「われらが生には 千もの発条(ばね)あり、
    一筋切れるば いのちは絶えなん。
    奇しきかな、千弦(ちすじ)の琴の
    かくも永くに、調子(ふし)乱さずは!」

ほんの小さなことによって、何か微細な弁膜あるいは分泌器官に不具合がもたらされ、それによって病気が生じ、いのちの流れ全体が妨げられ、結果として徐々に死がやって来る。1つの非常に微妙な作用によって、ちりに生命が吹き込まれ続けている。その作用を停止させかねない事がらは無数にあり、そのとき、私たちのからだはこわれてしまうのである。パウロは、自分のからだがあぶくのようにもろいものであることを悟っていたがゆえに、自分の魂のこの地上での住まいがこわれるだろう時を予期していたのである。

 彼は、この書簡を書いていたとき、自分のからだがこわれるだろうという多くのしるしを有していた。それまでの多大な労苦が体にこたえ始めていた。その《主人》に仕える奉仕において、彼が自分自身を使い尽くしてきた疲労のため、やつれ果てていた。天的な火で満ち満ちていた彼は、決して休むことができなかった。ある町に福音を説いた後には、別の町へと急き立てられていった。ある村から追い出されれば、急いで次の村へと向かった。それほど救いの使信を語ることに熱心だった。彼は労苦によって自らを磨り減らしていた。それゆえ、いつの日か自分のからだが、こうした激しい苦痛に満ちた生き方の強烈な刺激の下で屈してしまうであろうと感じていた。それに加えて彼は、その宣教のための自己犠牲によって自らにもたらされる寒さ、飢え、裸、病、そして種々の弱さを忍んでいた。肉体的苦痛という点において、彼はつらい目に遭っていた。思うに、この人物の五体のうち、それまで受けてきた投獄や、鞭打ちや、石打ちその他の数々の苦難の結果、損害を受けていない部分はほとんどなかったであろう。彼は、きっと近いうちに自分の住まいである天幕が、迫害者たちの暴力によって倒れるだろうと感じていた。あるとき彼は、万感胸に迫るようなしかたで、自分のことを「年老いている私パウロ」*と語った[ピレ9]。そして年老いた人々は、自分のからだが衰えつつあることをいやでも意識せざるをえない。ぼろぼろになりつつあるいくつかの部位によって、老人は、この住まいが崩れかかっているとの警告を受ける。薄くなってきた、あるいは青白くなってきた藁ぶき屋根はその云い分を述べる。老人には、自分の地上の住まいが決して永遠に立つようには建てられていないことを警告するしるしがいくつもある。それは、一時的な目的のために建てられた幕屋あるいは天幕であって、古びつつあり、今にも過ぎ去ろうとしているしるしを示している。こういうわけでパウロは、生まれながらのからだのもろさからも、それがすでに散々に痛めつけられてきたことからも、こう感じるに至らされていた。自分の住まいである地上の幕屋は、まさにこわれる寸前にある、と。

 それどころか、パウロのもろいからだは、この上もなく大きな数々の危難にさらされてきた。先日私は、共有地に野営していた放浪民族を見た。この流浪の民の多くは、棒切れ――それを支柱と呼んでは云い過ぎであろう――に支えられた粗末な布の覆いの下に座っていた。そして私はこう感じざるをえなかった。そうした住居は暖かな日にはしごく快適だが、東風が吹きつのったり、みぞれが降りしきるとき、あるいは、豪雨が叩きつけるときには、全然望ましくないものであろう、と。使徒のからだは、非常に険悪な天候の下にある天幕であった。神は彼をかばってはおられなかった。この世に生を受けた中でも最も尊い者のひとりであったが、それでも彼は、主のしもべたちの中の、ほとんど誰にもまして多くの危険にさらされていた。ここに、彼自身が事の次第を述べた文章がある。――「むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました」[IIコリ11:25-27]。このように荒々しい突風に吹きまくられていた彼が、自分の牧羊夫用の掘っ立て小屋がじきに崩れ去ると思ったとしても当然であった。

 それにパウロは、かつて彼が知り合い、愛していた他の多くの人々がすでに死んでしまったことを知っており、このことから、自分もまた死ぬであろうと推察していた。かつてこの家にいたある兄弟は、しばしば、自分は死なないと断言していた。もしキリスト者である誰かが死ぬとしたら、それはその人が主を悲しませたからだというのである。残念なことに私は、その兄弟の姿をもう何箇月も見ていない。彼が自説の誤りを自ら証明したのでないと良いのだが。しかし私の確信するところ、遅かれ早かれ彼は、私たちの主がその再臨を早めてくださらない限り、そうなるであろう。私は、自分は決して死なないと豪語する狂信者と出会うたびに、その人のことは放っておき、成り行きを見るに越したことはないと感ずる。ひとりの立派な老アイルランド人聖職者は、不死になるすべをしきりに私に伝授したがっていた。そして、せっかく私に長寿を差し出しているというのに私が全然ありがたがらないといっては嘆き、また怒っていた。老人であったのに彼は、自分は決して死なないと断言した。じきに自分は、寄る年波のあらゆる弱さをかなぐり捨てて、これまでないほど強壮になるのだと思っていた。悲しいかな! この善良な教区牧師は葬られ、彼の狂った頭脳は安らぎを得た。人間には、一度死ぬことが定まっている[ヘブ9:27]。地にあって威厳のある人々[詩16:3]のかくも多くが眠りについてきた以上、それが万人の運命であることに異議をさしはさむほど気違いじみたことはないと考えるべきである。私たちの共同墓地に所狭しと立ち並ぶ墓標は、なぜ私たちひとりひとりが、やがて死ぬはずだと予期すべきかを示す無数の議論を供している。私たちの住まいである地上の幕屋は、いずれこわれるのである。あらゆる事がらが、一致してそう信ずべき裏づけとなっている。

 さて、兄弟たち。この悲しい側面についてパウロが予期していたのは、せいぜいその程度であった。そして、実際これは、大したことではないではないだろうか。さほど昔でもない頃に、スイスのある農民たちが、その家畜の群れを山あいの高地で飼っていた。その放牧場の片方には、数多くのシャレー、すなわち木造の山小屋が立っていて、彼らは夏の間はそこに住むのを常としていた。その粗末な住みかは、冬になるが早いか無人になるのだった。ある日彼らは、聳え立つアルプスから奇妙なゴロゴロいう音を聞いた。そして、それが何を意味するかを悟った。それは、大量の岩石か雪か氷が落ちかかり、すぐにも雪崩となって押し寄せて来ようとしていたのである。たちまち彼らの恐れは現実となった。というのも、彼らは、途方もない大塊が上から殺到してきて、行く手にあるものすべてに破壊をもたらしつつあるのを見たからである。それは何を破壊しただろうか? 古びてがたつく木造の小屋でしかない。それがすべてであった。羊飼いたちは全員無事で、無傷だった。この事件は哀悼と悲嘆の種ではなく、むしろ下にある村の教会で賛美の歌を歌ってしかるべきことであった。彼らは云った。「あの雪崩はものすごかったが、年老いた母を死なせたわけでも、揺りかごの中の赤子を押しつぶしたわけでもない。私たちの誰も傷つかなかった。物置が何軒か埋まっだけで、それはすぐにも建て直せるものだ」。彼らの立場は、私たちの象徴である。死という雪崩はやがて落ちかかるであろう。だが、おゝ、あなたがた、聖徒たち。それがやって来るとき、あなたに対してできることは、せいぜい、あなたの地上の住まいをこわすことでしかない! あなたは、これほどちっぽけな損失に心を悩ますだろうか? いかなる悪もあなたには近づかないであろう。からだというあわれな掘っ立て小屋は地中に葬られるであろうが、あなた自身について云えば、永遠の賛美歌を歌う以外に何かすることがあるだろうか? あなたを死と危険から救い出し、ご自分の右の座に引き上げてくださったお方に向かって歌うこと以外に何があるだろうか?

 たといある人の天幕がくつがえされても、それはその人に長期的な影響を及ぼしはしない。彼は体を揺すってそれを振り払い、中から出て来るであろう。それ以外には彼を全く悩まさないであろう。そのように死も、私たちに悪い影響を及ぼすのではなく、良い影響を及ぼす。このわずらわしい体がこわれれば、私たちには自由が与えられる。きょうの私たちは卵の中の鳥のようである。殻が無傷のうちは自由ではない。死はその殻を打ち砕く。ひな鳥は殻が壊れたとき嘆き悲しむだろうか? 巣の中の壊れた殻について嘆いている鳥のことなど私は聞いたことがない。しかり。その思いはよそへと向かう。翼や、飛翔や、夏空へと向かう。私たちもそうあろうではないか。このからだは、こわれるであろう。それならばそれで良い。そうなるのはふさわしいことである。それを必要としているうちは、私たちもそれを喜んでいた。その中に見られる驚異的な仕組みについて神に感謝していた。だが、もはやそれが必要ではなくなるとき、私たちは投獄から逃げるようにそれから逃げ出し、その狭い限界内に二度と戻りたいとは思わない。死が私たちの荒布の天蓋をもぎ取るとき、私たちの驚嘆する目の前には、《王》の宮殿が現われるであろう。その宮殿に私たちは永遠に住むのである。それゆえ私たちは、死に臨んで慌てふためくべき、いかなる理由があるだろうか? 私はあなたの前にこの破局の全体を提示してきた。そして、信仰者であれば誰であれ、このことを考えて身震いすることはないに違いない。

 II. さていま私たちは第二の項目に移ることにする。《使徒パウロが確実きわまりなく知っていた備え》である。彼は、たとい自分の住まいである天幕がくつがえされても、家なしになることはないと知っていた。裸の状態で目を開き、こう叫ぶようなことにはならないと知っていた。「あゝ、私は災いだ。私はどこへ逃れれば良いのか? 私には住む所がない」。否。彼は、たといこの天幕の住まいがなくなっても、自分には「神の下さる建物」があると知っていた。パウロは、煉獄に行くなどと恐れてはいなかった。最近はプロテスタント教徒の間にさえ、この残忍な作り話を手直しした形で復活させ、信仰者ですら永遠の幸福にふさわしい者となる前に多くを忍ばなくてはならないなどと告げる者らがいるが、そのようなことはない。使徒は全くそうした意見をいだいていなかった。むしろ逆に彼はこう書いている。――「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています」。彼は、それから千年の間、生きながら火炙りにされ、そうした後で煉獄からパラダイスに跳ね上がると予想してはいなかった。むしろ、自分の地上の住まいがこわれるや否や、天国にある自分の永遠の家に入るのを予想していた。彼は、復活のときまで無意識の状態で横たわっているという考えすら有していなかった。彼は云う。「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物がある[すでに私たちは有している]ことを、私たちは知っています」。彼は、「私たちはやがてそれを有するだろう」、と云うのではなく、「それを有している」<英欽定訳>、と云っている。「私たちはそれを有していることを知っています」。これは、あなたがたの中のひとりが、しばらくの間、自分の庭で天幕住まいをしている様子のように思われる。誰かが、もし大風が吹いてあなたの天幕を夜の間に吹き飛ばしたらどうなるのですか、と尋ねる。「おゝ」、とあなたは云うであろう。「私には向こうに家があります。その中に入って、そこで暮らしますよ」。そのように知っていられるとは何という慰めであろう。私たちの一時的な用具に何が起こっても、私たちには固定された、落ちついた住居があり、そこにすぐさま帰って行けるのである。これによって私たちは、いかなる危険にも左右されないのを感じる。これを心の支えとして私たちは、起こらざるをえないことがいつ起ころうとも喜ばしくそれを迎え入れることができる。しかしながら、使徒は何を意味していたのだろうか? というのも、この聖句は非常に難解なものであると云われているからである。彼は、第一にこのことを意味していた。――彼の魂は、そのからだを離れた瞬間に、たちまちイエスがこのように云われた家に入ることになっていた。「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう」[ヨハ14:2]。あなたはその家について知りたいだろうか? 黙示録を読むがいい。そして、その真珠の門や、黄金の街路や、類稀な宝石の城壁や、その中を曲がりくねる川や、毎月実をならせる木々について知るがいい。もしその後であなたがこの家についてもっと知りたいというのであれば、私には1つの助言を与えることしかできない。それは、同様の場合にジョン・バニヤンによって与えられた助言である。ある人が正直ジョンに向かって1つの質問をしたところ、彼には答えることができなかった。その問題は神のことばの中で説明されていなかったからである。それゆえ、正直ジョンは自分の友人にこう命じた。敬虔な生活を送って天国へ行きなさい、そして、自分の目で見なさい、と。いかなる夢想も信じてはならない。むしろ主イエスを信じつつ、時節を待つがいい。そうすれば、あなたはじきに、この、人の手によらない、天にある永遠の家の一切合切を知ることになるであろう。

 しかしながら、パウロが意味していたのは、時が満ちたときに彼が再び、あるからだをまとうことになるということであった。彼は、その待ち時間があまりにも短いために、ほとんどそれを見越しているほどであった。大行進をしている人々が一瞬の休止のことなど忘れてしまうかのように。私は云うが、彼は究極的には、あるからだに宿らさせることを期待していた。吹き倒され、こわれてしまった天幕の家は、ある建物へと発展するであろう。すなわち、「神の下さる建物、人の手によらない家」と呼ばれるにふさわしいほど豊かで、素晴らしい建物である。このこともまた、私たちが期待するところである。現在、この定命のからだにある私たちは、重荷を負って呻いている[IIコリ5:4]。私たちの霊は、束縛状態から自由にされているものの、私たちのからだは、まだ解放されていないからである。それが代価を払って買い取られている[Iコリ6:20]としても関係ない。私たちは、「子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んで」いる[ロマ8:23]。それで、「からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きて」いるのである[ロマ8:10]。私たちの魂は新生させられているが、からだは、ある作用を待っている。ある意味で新生に類似している作用、すなわち、死者の中からの復活である。肉体から離れた聖徒たちは、多かれ少なかれ数千年は、天上の御父の家において待っていなくてはならないかもしれない。だが最後には、喇叭が吹き鳴らされ、死者がよみがえるときがやって来る。そして、そのとき、完璧なものとされた霊は、その栄光に適したものとされたからだのなかに住むことになる。復活が確実であればこそ私たちは、そうでない場合に、からだがこわれることにつきまとっていたであろう恐怖を越えた高みへと引き上げられる。ある男が貴金属をるつぼに投げ込んでいるのをひとりの子どもが見ているとする。きれいな銀がだいなしにされるのでその子は悲しい気分になる。だが、精製工の仕事をよく知っている人は、その工程で何の損失も生じないことを理解している。その銀の金滓だけが取り除かれ、溶解した純粋な塊が端正な鋳型に流し込まれると、それが王家の食卓を飾るようになるのである。よろしい。私の兄弟たち。私たちは確信しているだろうか? この卑しいからだを失うことは、明白に益なのである。それが主イエスの栄光のからだと同じ姿に変えられる[ピリ3:21]としたらそうである。

 続いて考えたいのは、なぜパウロがこのことを知っていると云えたかである。この驚くほどに文明の進んだ十九世紀は、自分たちの無知を誇りとするような類の賢者たちを生み出している。彼らは自分のことを「不可知論者」、すなわち、何も知らない者だと自称する。もし私が幼子だった頃に、自分の無知さ加減を誇りにするような人に出会ったとしたら、さぞかし奇妙に思ったことであろう。だがしかし、その「無知」という言葉(ignoramus)は、「不可知論者」という言葉(Agnostic)のギリシヤ語を、ラテン語化したものなのである。「俺様は無知だ」といって鼻高々にしている人の言葉を聞くとは、奇異なことではないだろうか? 私たちの使徒は何と異なっていることか! 彼は、「私たちは知っています」、と云う。この確信はどこから来たのだろうか? いかにして彼は知ったのだろうか?

 まずパウロは、自分には天にひとりの御父がいることを知っていた。子とされた霊を感じていたからである。また彼は、自分の御父には1つの家があることも知っていた。たとい自分がいま宿っている天幕を失っても、天上にある自分の御父の家に確実に迎え入れられるに違いないと確信していた。いかにして私たちの子どもたちは、家が必要になったら私たちの家に戻ってきて良いのだと知っているのだろうか? 学校の先生から習ったのだろうか? 否。彼らの幼児期の本能が彼らに、私たちの家は彼らの家庭であると教えているのである。ひよこが何の訓練を受けなくとも、めんどりの下に走ってもぐりこむのと全くそれは変わらない。彼らが私たちの子どもたちであるため、彼らは感じるのである。私たちに家がある限り、彼らにも家があるのだ、と。それゆえ、パウロは、躊躇することなく、「私たちは知っています」、と云ったのである。そして兄弟たち。私たちも、それと同じような御父の愛に対する信頼によって、同じことを知っているのである。私たちは、自分があの多くの住まいがある家に、しかるべき時に心から迎え入れられるのが全く確かだと感じる。私たちの父の家から私たちが閉め出されることはありえない! 私たちの王なる御父がその宮殿に住んでいる限り、私たちが家なしの放浪者になることはありえない! 私たちはこのことに関して単に望みをかけているのではなく、確信しているのである。それゆえ私たちは、「私は知っています」、と云うのである。

 またパウロは、自分にはひとりの兄がいることを知っていた。また、この兄が、弟たちの宿り場を手配するために先立っていたことを知っていた。パウロは、イエスがこう云われたことを覚えていた。「あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです」[ヨハ14:2-3]。それでパウロには、何の疑問もなかった。もし主が場所を備えに行かれたとしたら、自分のために1つの場所があるであろう。というのも彼は、自分の天来の主が何かに手をつけてそれに失敗したなどという場合を何1つ知らなかったからである。私たちはみな私たちの《先駆け》を信頼できるではないだろうか? 私たちの代表者として幕の内側に入られたお方[ヘブ6:19-20]について、私たちは何か疑いをいだいているだろうか? 否。私たちは、私たちの代理としてイエスが天国に入られたことを確信するのと同じくらい、この天幕の家たるからだがこわれるときには、私たちの魂のための安息と家庭が残っていることを確信しているのである。

 疑いもなくパウロは、聖霊のことをも考えていた。このほむべきお方は、この、もろい土くれの家の中で私たちとともに住もうとしておられる。それは、それを汚している罪ゆえに、御霊が住まいとするには、多くの点で居心地が悪く、ふさわしくない家である。だが御霊は、こうした定命のからだにへりくだって住んでおられる。それゆえ、私たちが私たちの地上の家を離れるときには、御霊もまたそこを離れるであろう。そして、私たちが確信するところ、私たちがなおも交わりを保ちながら宿ることのできる1つの場所が見いだされるであろう。私たちのからだが聖霊を迎え入れる栄誉を賜ったように、私たちが確かに思うところ、私たちが必要とする時に、聖霊は私たちのために1つの住まいを見つけてくださるであろう。御霊は私たちの賓客であられるが、やがて今度は、御霊が私たちの主人役となられるであろう。このことを私たちは知っている。というのも、私たちは御霊の愛を知っているからである。私たちのからだをご自分の宮としておられるお方は、私たちの魂のために安息を見いだされるであろう。このようにして、御父と、御子と、聖霊から、私たちは確信を得るのである。たといこの定命の体がこわれることになろうと、私たちは家のないまま右往左往することにはならない、と。

 それに加えて、1つのことをあなたに告げさせてほしい。パウロは、自分が死んだときには、パラダイスが用意されていると知っていた。それは、彼がすでにそこに行ったことがあったからである。あなたも、彼がいかにその物語を封じていたか思い出すであろう。もはや隠してはおけなくなったときに初めて、また、それが起こってから十四年も経ってから、彼はそのほむべき秘密を口外したのである。彼の言葉を読ませてほしい。「私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前に――肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです。――第三の天にまで引き上げられました。私はこの人が、――それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知りません。神はご存じです。――パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています」[IIコリ12:2-4]。

 彼は自分が第三の天にまで引き上げられたと云っている。それゆえ、パウロに向かって、死後あなたには何の家もないのですよ、など告げても無駄であった。彼はその場所を見たことがあったからである。「よろしい」、とあなたは云うであろう。「私はそれを見たことがありませんよ」。しかり。だがあなたはパウロの証言を完全に信じているではないだろうか。私自身としては、パウロが虚偽を云うことなどないと確信している。そして、彼が第三の天すなわちパラダイスの中に入り、それを見た以上、そのような場所があることを私は信ずる。これは、あの死につつある強盗を主イエスがお入れになった場所であることを思い出すがいい。「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」[ルカ23:43]。これこそ今イエスがおられる場所であり、この住まいである地上の幕屋がこわれるときに、そのただ中で私たちが主といつまでもいることになる場所なのである。

 さらにまた、愛する兄弟姉妹。この地上の幕屋がこわれるとき、あなたや私が自分のための新しいからだがあることを知っているのは、私たちの主イエス・キリストが死者の中からよみがえられたからである。私の思いの中で、私の最も根深い不信仰に返すべき究極の答えは、イエスが死者の中からよみがえったという事実である。歴史上のいかなる事がらにもはるかにまして確実に立証されているのは、私たちの主が十字架につけられ、死んで葬られ、実に三日目に死者の中からよみがえったという事実である。このことを私は躊躇することなく事実として受け入れる。そして、これが私を支える錨地となるのである。イエスがご自分のうちにあるすべての者らの代表者である限り、イエスがよみがえられたように信仰者がよみがえるだろうことは確実である。使徒は、「私たちは知っています」、と云っている。そして私は、こうした数々の壮大な真理を思い起こしつつ、確信するのである。使徒の言葉はこれっぽっちも誇張ではない、と。しかり。もし私が、英語の中で、この「知る」という言葉以上に大きな確信を云い表わすだろう言葉を何か知っているとしたら、私は今朝その言葉を私自身のために用いるであろう。いわんや使徒は、それを自分でも用いたであろう。私たちはこのことをも確信している。すなわち、もし私たちの主イエスが生きており、安息の場所にいるとしたら、主は決してご自分の選ばれた、贖われた者たちを、家もなく家庭もなしに放置しておくことは決してなさらないであろう、と。主が王位を見いだした場所に、主の民は住まいを見いだすであろう。喜ばしいのは、私たちの古式ゆかしい短詩である。――

   「わが世を去る日 受け入れ給え、われは泣く。
    イェスはわが身を 愛し給わば、ゆえもなく。
    されど、われ知る、われとわが主の 堅き絆を、
    主われを残し 栄光(さかえ)に入るは 不可能(あたわぬ)ほどに」。

キリストと信仰者の間には、それほどの結びつきがあるのである。しかり。それどころか、それはきわめて死活にかかわる、本質的で、分かちがたい、情愛細やかな結婚の結び合いであるため、分離は不可能なのである。自分の手にその力があるとき、私たちの中のいかなる者も、自分の妻が牢獄の中にいるのを見て平気でいることができないのと同じように、また、暖かな炉辺に連れて来ることができるときに、妻を戸外の寒風の中に放っておくことができないのと同じように、キリストは――私たちの魂が永遠の結婚によって縁づけられているお方は――、ご自分の愛する者たちをひとり残らずご自分がおられる所に連れて来るまで決して安らぐことがないであろう。そのようにして彼らは、主のご栄光、御父が主にお与えになったご栄光を仰ぎ見るようになるのである。イエスを信じるいかなる信仰者も、このことに何の疑いも有してはいない。私は確かにあなたがたがみな、パウロのようにこう云えるものと確信している。「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です」。

 「あゝ」、とある人は云うであろう。「ですが、どうすれば人は、自分がこうしたすべての恩恵にあずかっていることがわかるのでしょう? たとい神の子どもたちがこのような恩恵を受けていることを私が知っているとしても、どうすれば私は自分がそのひとりだと分かるのでしょうか?」 私はあなたに、この点で自己吟味するように勧めたい。あなたは心のありったけで主イエス・キリストを信じているだろうか? ならば、こう書かれている。「わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません」[ヨハ11:25-26]。キリストを信じていたがために、使徒は自分が安全であると知っていた。というのも、数々の約束が信仰者には与えられており、もし誰かが信仰者であるとしたら、契約のあらゆる約束はその人のものだからである。私たちがこのことのさらなる確信を獲得するのは、私たちが新しいいのちを所有していることによってである。愛する方々。あなたは新しい世に入っているだろうか? 自分の内側に新しい心と正しい霊があるのを感じているだろうか? 古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなっているだろうか?  あなたは、キリスト・イエスにあって新しく造られた者だろうか?[IIコリ5:17] ならば、あなたには何の問題もない。その新しいいのちは決して死に絶えない。あなたの新しく生まれた性質は永遠の至福を相続するに決まっている。「小さな群れよ。恐れることはありません。あなたがたの父である神は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです」[ルカ12:32]。これに加えて、あなたは神と交わっているだろうか? キリストと語り合っているだろうか? 御父および御子と交わっている者は誰ひとり滅びない。イエスが最後になって、「わたしはあなたがたを全然知らない。わたしから離れて行け」*[マタ7:23]、と仰せになることはありえない。主はあなたを知っており、あなたは主を知っているからである。「おゝ」、とあなたは云うであろう。「主は私のことなど知り飽きたでしょう。私はいつだって願い事ばかりしているのですから」。それで良い。そのままの営みを続けるがいい。霊的には常に物乞いのままでいるがいい。愛の主は決して、懇願する哀願者を投げ捨てはしない。恵みの御座を足繁く訪れる者は間違いなく栄光の御座に到達する。それに、「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかしして」[ロマ8:16]おられないだろうか? また、もし子どもであり相続人であるとしたら、私たちは来たるべき世で裸のまま放り出される恐れなどあるだろうか? 私は、私たちの中の多くの者らが信仰の完全な確信にいま達し、信じ、また知っている者[ヨハ6:69]になってほしいと思う。あなたは、ひとりひとり自分のこととしてこう云えるではないだろうか?――「私は、自分の信じて来た方をよく知っており、また、その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださることができると確信している」[IIテモ1:12]、と。こうしたことが、信仰者たちが自分は信仰者であると知るための道である。そしてそのとき、神のことばによって彼らは、すべては自分たちのものである[Iコリ3:21]、それで、たとい地上の住まいが潰えても、自分たちは永遠の住まい[ルカ16:9]に迎えられるであろう、と知るのである。

 III. 最後に、《私たちにとってこの知識が有する価値》である。このからだが死んでも何も問題はないと確信していることは、知る価値のあることではないだろうか? 世俗主義者たちは、私たちが人々の思いを実際的な現在から引き離し、空想上の未来について夢見させるといって私たちをなじる。私たちの答えは、人を現在のために生かす最上の助けは、永遠の未来を見越して生かすことだ、ということである。パウロは、たとい自分のからだがこわれても自分は何も失わないと堅く信じていたからこそ、心くじけることから守られたのである。彼は、最悪で何が起こるかを知っていたし、その覚悟ができていた。幾多の大嵐が吹きつのっていたが、使徒は自分がこうむりかねない損失の限界を知っていた。それで、備えはできていた。私たちが失いかねないものは、せいぜいこのあわれなからだという、もろい天幕にすぎない。万が一にも、それ以上のものを失うことはありえない。ある人が自分の冒す危険の限度を知っているとき、それはその人の思いを大いに静めるものである。見いだしえないもの、見当もつかないものこそ、恐怖と恐れの最悪の成分である。自分の恐れを測り知ることができるとき、人はその恐れを取り除いてしまっているのである。私たちの使徒は、自分が神の栄光を現わし、魂を獲得し、聖徒たちを建て上げるという大目的のために世に遣わされたと感じていた。そして、自分に与えられた務めから決して離れまいと完全に決意していた。彼は自分を相手に論じ合っている。彼の最も危険な行路は、自分の生涯の奉仕のなかばで心くじけることである、と。というのも、自分の召しを貫き通すことで招きかねない最大の危険は死であり、それは、彼に云わせれば、要するに天幕を失って、大邸宅を得ることだからである。ローマ皇帝は彼を打ち首にするかもしれない。あるいは、群衆が彼を石で打ち殺すかもしれない。あるいは、彼をその《主人》のように十字架につけるかもしれない。だが彼にとって、そうした運命など問題ではなかった! 彼にとってそれは単に古い天幕が倒されることにすぎなかった。彼の不死の霊に影響を与えはしなかった。彼は微笑んでこう歌った。「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです」[IIコリ4:17]。

 その天的な家の展望によって、彼の現在の試練は非常に軽く見えた。というのも彼は、みすぼらしい旅篭で一夜を過ごすことになった人が、翌日には家に帰り着けることを望んで、喜んでそれを我慢するような気分だったからである。もし私たちがしばらくの間つらい天幕生活を送っているとしたら、おそらく私たちはこう叫ぶであろう。「あの隅っこから恐ろしい隙間風が吹いてくる! 何てじめじめした床なんだ! 何て窮屈な所なんだろう!」 それでも私たちはそうしたすべてに対して微笑みを浮かべて、こう云うのである。「これは、そう長くは続かないだろう。私たちはじきに、故郷でわが家に入るだろう」。あゝ、兄弟たち。私たちの神と過ごす一時間は、途上で出会うあらゆる試練を埋め合わせるであろう。それゆえ、雄々しくあるがいい。そして、前進するがいい。

 これは、パウロにとって、死の観念そのものを変えてしまった。死は、悪鬼から御使いへと変貌してしまった。それは、ぐらつく天幕を取り除き、永続的な宮殿に入れるようになることでしかなくなった。神ご自身の子どもたちの中のある者らが、死を恐れて非常な悩みを感じているのは、死がいかなることかを知らないからである。もし彼らがより良い教えを受けていたとしたら、彼らは現在の悲しみの種が歌の主題となることをすぐに悟るであろう。私はここで云いたい。私の《主人》のしもべたちの中でも、私の知っていた、疑いと恐れに満ちていた者らの何人かは、素晴らしい死に方をした。あなたは、あの気弱者がかの川を渡ったとき、足を濡らさずに渡り切ったことを覚えているだろうか? あわれな男よ。彼は自分が溺れるに違いないと思っていた。だがしかし、彼はほとんど足の裏も濡らすことがなかった。私の知っていた神の人の中には、ヤコブのように父の家から追放されたと感じながら、一日中倦み疲れ、卒倒しそうな思い出歩んでいた人々がある。だがしかし彼らは、その頭を最後の眠りにつくために横たえたときには、御使いたちと神の幻を見たのである。彼らの旅路の果ては、途上の難所を埋め合わせた。あなたもそれと同じであろう。信仰者の兄弟たち。いかなるキリスト者の経験にも通常は暗い場所がある。私の見てきたある人々は、道のりのほぼ全体を陽光のもとで旅していたが、その後、暗影の中で世を去った。そして私は、そうしたことがあったからといって、彼らを少しも悪くは思わない。また、私の見てきたある人々は、その巡礼時の最初の部分では霧の中を苦労して進んだが、それからは雲1つない青空のもとに出た。ある時期か別の時期に、こうした険悪な空模様の下で、影が私たちの道に落ちかかる。だが確かに、「光は正しい者のために、喜びは心の直ぐな人のために、種のように蒔かれている」*[詩97:11]のである。

 私は、非常に甘やかな死に方をするのを見てきた、愛する兄弟姉妹の何人かについて思うとき、また、彼らが、生前は、慎ましやかで、自分に自信をいだいていなかったことを思い起こすとき、彼らは、あたかも紅茶を飲むとき杯の底にある砂糖をかき混ぜるのを忘れた人々のようだと考えてきた。その一杯は、底に近づくにつれて、いかに倍増しで甘くなっていくことであろう。それは、彼らに我慢できないほど甘くなる。それよりは、初めから紅茶をかき混ぜて、その甘さを杯の縁から底までずっと楽しんだ方が賢明ではないだろうか? これが、未来に関する信仰の恩恵である。というのも、それは現在に楽しみの風味を添えるからである。しかし、聖徒たちが、しばらくの間、間近な慰めを失うからといって何だろうか? 彼らがいかに豊かな埋め合わせを受けることか! あなたの目を天国で開けるのはいかなることであろう! 憔悴の寝床で眠りにつき、天界の賛美の中で目覚めるのは何たる喜びであろうか! 「ハレルヤ! 私はどこにいるのか? あゝ、わが神! わがキリスト! わが天国! わがすべて! 私は故郷にいるのだ」。悲しみと吐息は逃げ去って行く。こうした物の見方は、死を一変させないだろうか? おゝ、あなたがた、あわれな不信者たち。いかに私はあなたを憐れむことか。あなたには、このような栄光に富む望みが全くないからである。おゝ、あなたが主イエスを信じて永遠のいのちに入るとしたらどんなに良いことか。

 信仰がパウロにもたらした効果は、彼を常に静謐にし、勇敢にするものであった。なぜ彼は、自分に害を及ぼせないような人間を恐れることがあっただろうか? たとい彼の迫害者が彼を殺すとしても、それは彼に尽くすことであったろう。彼は何を恐れることがあっただろうか? これによってパウロは賢く、思慮深い者とされた。彼は自分の識別力を用いることができた。というのも、彼は狼狽させられることがなかったからである。彼は、あなたがたの中のある人々のように、ちょっと病気になっただけで慌てふためき、そうでなければならなかったほどに病状を悪化させ、医者に、病んだからだだけでなく、恐れおののく精神をも治療させざるをえなくさせるようなことはなかった。静謐で、落ち着いていて、幸福な人は、すでに回復への途上にあるのである。彼が静謐なのは御父の御手の中にあるからであり、生きようと死のうと、何も問題はない。そして、この確信は、医師が彼の肉体的な疾患を取り除く助けになるのである。もう一度云うが、いかに死ぬかをわきまえていることほどすぐれた生き方はない。自分が生きようが死のうが頓着しないでいられる人こそ、勝利に満ちたしかたで死ねる生き方をするのである。おゝ、あなたがたのすべてが、主イエスへの信頼から生ずる静謐さを知ることができればどんなに良いことか。あなたがいつ死ぬか分からず、その変化に用意ができていないと知るのは何と悲しいことか! あなたが不幸せなのも無理はない。あなたがそのようである理由は十分にある。おゝ、あなたが賢くなり、よみがえられた主を信ずる信仰によって未来を確かなものとするようになれば、どんなに良いことか。

 マルチン・ルターの時代、また、それ以前の時代にも、悪い生き方を送っていた人々はしばしば、死ぬ段になると非常な恐れにとらわれ、その恐怖の中で、修道院に人をやっては修道僧の服を手に入れて、それを着て埋葬させたという。何と愚かな思いつきであろう! だが、そのように彼らは期待していたのである。最後の審判の日には、茶色の毛織物と頭巾付の外衣を身にまとっていた方がいい目に会えると! 私たちの衣はそれよりも良いものにするがいい。これが聖なるラザフォードの願いである。――「私の信じた主の愛を私の死装束とし、私のすべての死衣としよう。私は魂を主の甘い無代価の愛という織布でくるみこみ、綴じ込んでしまおう」。これがあなたの考えではないだろうか? 確かにそれは私の考えである! もし私たちがそのようなろうびき布に包まれた上で横たえられて眠るとしたら、私たちの目覚めには何の恐れもないであろう。エリシャの墓の上に置かれた男に起こったようなことが、私たちにも起こるであろう。彼は、あの預言者の骨に触れるや否や、たちまちよみがえった。いかなる者も、キリストの愛に包まれているとしたら、死んで横たわることはありえない。その愛はいのちだからである。キリストの愛に触れた者は、神のいのちの核心に触れたのであり、生きざるをえない。では私たちは、私たちの主イエスに信頼しつつ、自分自身をその天来の愛にささげようではないか。かの日が明けて、影が逃げ去るときまで、永遠の至福へ向けて前進しようではないか。勝ち誇って、喜ぼうではないか。私たちのために、「神の下さる建物……人の手によらない、天にある永遠の家」が備えられていることを。

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天幕がこわされ、家に入る[了]

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